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2020年8月17日 (月)

観劇感想精選(348) 三谷幸喜 作・演出 「大地」(Social Distance Version)

2020年8月13日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

大阪へ。約半年ぶりの観劇である。

午後7時から西梅田のサンケイホールブリーゼで、三谷幸喜の作・演出による「大地」(Social Distance Version)を観る。

「大地」は、東京・渋谷のPARCO劇場オープニングシリーズの一つとして三谷幸喜が書き下ろした作品である。パール・バックの同名小説とは一切関係がないが、中国に題材を得ているところは共通する。

三谷幸喜がモデルとしたのは、中国の文化大革命で行われた下放政策(上山下郷運動)である。青春時代を奪われた「第五世代」と呼ばれる人々の中には、後に世界的な映画監督となる張芸謀や陳凱歌がいた。この時代に行われた価値の転倒を中国は今に至るまで引きずっている。
ただ、隣国である中国を舞台にすると生々しいため、舞台は架空の東欧の国に変わっている。

サンケイホールブリーゼに入るには準備がいる。まず、チケットの半券(もぎる部分)の裏に氏名と電話番号を記入。厚労省の接触確認アプリCOCOAをインストールしておき、更に大阪府独自の追跡サービスに今いる場所を送信する必要もある。

 

出演は、大泉洋、山本耕史、竜星涼(りゅうせい・りょう)、栗原英雄、藤井隆、濱田龍臣(はまだ・たつおみ)、小澤雄太、まりゑ、相島一之、浅野和之、辻萬長(つじ・かずなが。有職読みの「つじ・ばんちょう」でも有名。三谷幸喜は彼のことを「バンチョーさん」と呼んでいるようである)。

三谷幸喜の録音による影アナでスタート。三谷は1924年に築地小劇場が完成し、開演のドラが鳴らされたという話をする。そして黒子が登場して実際にドラが鳴らされる。
1924年というのは歴史上においても重要な年で、前年の1923年(大正12)9月1日に関東大震災が発生。東京を始め、関東の多くの都市が焦土と化した。その復興が始まったのだが翌1924年である。その少し前にはスペインかぜが全国的に大流行しており、今現在と似た状況が発生していた。
日本初の普通選挙(とはいえ、投票権があるのは25歳以上の男子のみである)が行われたのが翌1925年だが、これは治安維持法の公布とセットであった。

 

東欧のとある共産主義独裁国家での話。俳優は反逆分子とされ、見渡す限り大地が広がる中のバラックでの共同生活を強制されることになる。主な仕事は豚の飼育で、「フランチェスカ」という名の豚が話の随所に登場する。

映画スターのブロツキー(山本耕史)がバラックに送られてきたところから物語は始まる。同室となった収容者の中で映画畑で活躍していたのはブロツキーだけで、他は舞台出身者で占められている。映画に出ていたということでブロツキーの知名度はずば抜けて高い。

他のメンバーは、国民的劇団の団長で今もみんなから「座長」の名で呼ばれるバチェク(辻萬長)、演出家兼俳優で反抗的な態度を取り続けるツルハ(相島一之)、パントマイムの名手であるプルーハ(浅野和之)、大道芸人のピンカス(藤井隆)、若手女形として期待されていたツベルチェク(竜星涼)、大学で演劇を学んでいたミミンコ(濱田龍臣)、俳優としては未だ芽が出ず裏方として主に働いていたチャペック(大泉洋)である。

ピンカスは要領が悪いようで、いつも仕事を全て押しつけられ、不満たらたらである。そもそも俳優達は現実的な仕事には向いていないようだ。ちなみにピンカスは最高指導者の物真似をしたことを見咎められ、バラック送りになったそうである。

ミミンコは俳優としてのキャリアはないが、ゼミを担当していた教授が有罪判決を受けたため、巻き込まれる形で放逐されてきたのだった。

映画スターが来たというので、最初は皆、ブロツキーに羨望の眼差しを送っていたが、養豚の仕事は全く出来ず、人格的にも問題のあるブロツキーは次第に反感を買うようになる。ブロツキーは英雄役で当たりを取っていたが、それは所詮イメージに過ぎないと本人も認めていた。

俳優を生業としてきた人々が集められてはいるが、規則により演技を行うことは出来ない。ただ、指導員のホデク(栗原秀雄)が芝居好きであり、自身が書いた本での上演を夢見ていた。彼が書いたのは、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」をモチーフにした「ウィンザーの陽気な兵隊さん」。「ウィンザーの陽気な女房たち」は、オットー・ニコライ作曲のオペラで知られており、脚本を手直しした上で作曲されたヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」の原作としても有名であるが、戯曲自体はシェイクスピア作品の中でも最下位争いをするほどの駄作であり、偽作説まである。この舞台の中でも駄作であることは語られており、ホデクが演劇に関して「下手の横好き」で戯曲の良し悪しも分からない人物であることが示されている。

そんな中で俳優達は己の力量を見せつけていく。想像力によってないものをあるかのように見せ、事実とは異なるものを事実と思い込ませていく。戯曲としての完成度よりも出演者の俳優としての技量を示すことに力点が置かれており、俳優の素晴らしさが描かれるのだが、ラストはほろ苦さを漂わせるものである。

演劇科の学生であるミミンコがストーリーテラーを兼ねているのだが、ミミンコの言葉の選び方から、これらのことが「過去」に起こった出来事であることがわかる。まだ俳優の入り口にも立っていないミミンコの青春や恋(同じ演劇科の学生だったズデンカとの恋。ズデンカは、はすっぱな田舎娘という印象である。演じるのはまりゑ)、俳優であることの本質が語られる。ズデンカは、ルターやサンテグジュペリ、チェーホフなどの言葉を引用し、特にルターの言葉(「たとえ明日地球が滅ぶとしても、私は大地にリンゴの木を植える」)はラストシーンへと繋がる重要なものである。

途中休憩15分を挟み、上演時間約2時間50分という大作であるが、後半に用意されている俳優達の技量を披露する場面が一番の見所である。政府役人のドランスキー(小澤雄太)を騙すためのものだが、チャペックが舞台監督とプロンプターを兼任し、ツルハの演出で演技の世界が進んでいく。辻萬長演じるバチェクの正統派の新劇的演技(三谷幸喜作品の演技は基本的に新劇路線である)、何でも屋である浅野和之演じるプルーハのパントマイムなどは、日本を代表する実力派俳優を起用しているだけあって、「見事!」の一言に尽きるものである。

ただ、そんな俳優の影の部分を演じているのがチャペック役の大泉洋であり、群像劇ではあるが、「彼が主役」と明確に言える役割を与えられている。
大泉洋演じるチャペックは、俳優の才能をこれまで誰からも認められておらず、役らしい役が付いたこともなく、舞台に出られたとしても端役で、俳優としてではなく裏方として働いていた回数の方が多い。ただ、裏方の経験も生きており、舞台監督としては有能である。
演技力で引け目を感じていたチャペックだが、政権の犬となることで他の俳優達の生殺与奪の権利を手にしていた。そのことを直接伝えたミミンコ以外はチャペックの意図に気付いていなかったが、チャペックは影の主役である自覚を持ち、そのことを楽しんでいた。

しかし、ミミンコとズデンカが皆の手引きによってドランスキーの部屋で情事に及び(その間、ドランスキーをバラックに留めるために俳優達は自身の技量でドランスキーを魅了する)、そのことがバレたため、俳優達の中で一人だけ、「谷の向こう」で行われている強制労働に赴くことになる。選ばれたのは、俳優としての才能に欠けるチャペック。ミミンコは自ら出向こうとするが、「まだ若くて未来がある」という理由で止められ、ピンカスも面白さがある、ブロツキーは映画スターで、これからも出演の機会があるかも知れない、バチェクは名優、ツルハは演出の才能があり、プルーハのパントマイムはかつては大人気、ツベルチェクは貴重な女形、ということで「何もない」チャペックに白羽の矢が立つのである。

チャペックは抗議するのだが、他の俳優達はみんなチャペックが俳優として劣っていることを知っており、舞台スタッフとしては優秀かも知れないが、舞台スタッフなら専業のもっと優れた人材はいくらでもいる。彼はバラックでは中心人物だったかも知れないが、結局は誰からも認められていなかったのだ。三谷幸喜が2007年に書いた「コンフィダント・絆」を思い出す。あの作品では、スーラ(中井貴一)、ゴーギャン(寺脇康文)、ゴッホ(生瀬勝久)といった名画家達のリーダー的存在であるが、買われているのはリーダーとしての資質だけで画才は見下されていたシュフネッケル(相島一之が演じていた)の存在が鍵であった。だが、画家はまだ自分一人で画を描くことは出来る。シュフネッケルも美術教師としてだが、絵画を生業にすることは出来た。「大地」にはちゃんとした劇作家は登場しないが、劇作家も一人で本を書くことなら出来る(三谷の劇作家観は「笑の大学」においてよく表されている)。だが、俳優は、そして演出家も一人では何も出来ない存在なのである。天才であろうが秀才であろうが、名人であろうが達人であろうが、高学歴だろうが名家の出身だろうが、器用であろうが多才であろうが、イケメンであろうが美女であろうが、キャリアを積んでいようが世界的に名を知られていようが、それは変わらない。誰かの支えを前提としている芸術家なのである。それを忘れた奢りがラストをビターなものへと変えていく。

当て書きを常とし、数々の名優のために本を書いてきた三谷幸喜の俳優観の一端である。

俳優とは誰よりも自らよく生き、誰よりも他の人々によって生かされて輝く存在なのである。
そして、「その日」まで「俳優」であることを怠ることなく「俳優」であり続け、「希望」として生きる一種の種族であるとも言える。


※8月22日にサンケイホールブリーゼから配信された上演映像を観ての追記

この劇において最も重要だと思われるセリフは、マルチン・ルターのものとされる「たとえ明日地球が滅ぶとしても、私は大地に林檎の木を植える」(原文には「大地」という言葉は出てこないようである)という言葉の引用である。ここでどうしても林檎に目が行きがちになるが、タイトルから察するに、着目すべきはむしろ大地の方である。大切なのは林檎だが、それが育つには大地の存在が不可欠だ。
辻萬長演じるバチェクのセリフにあるように、この世のあらゆる事象や巡り会った人々は俳優の糧となるが、それらの比喩として用いられているのが「大地」である。人々に「生きる希望」をもたらす良き俳優や良き芝居は、そのベースとなる大地があってこそ育まれるのであり、循環していく。それを忘れてはいけないということである。

私も「大地」の一人として、それをしっかり受け止めることが出来たように思う。

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