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2020年9月16日 (水)

これまでに観た映画より(208) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「女と男のいる舗道」

2020年9月12日 東寺近くの京都みなみ会館にて

京都みなみ会館で、「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち《デジタル・リマスター版特集上映》」の中の一本、「女と男のいる舗道」を観る。ジャン=リュック・ゴダール監督作品。1962年の制作である。原題は「Vivre sa vie(自分の人生を生きる)」であり、邦題がなぜ内容をまるで反映していない「女と男のいる舗道」になったのかは不明である。封切られた1960年代はまだ「それっぽい」邦題を付けておけば良いという時代であり、お洒落な感じで適当に付けられたのだと思われる。80年代以降は「意味が分からなくても原題に近いものを」という傾向が増え、今もそれは続いている。例えばスピルバーグの「プライベート・ライアン」の「プライベート」というのは「二等兵」という意味であるが、一般的な日本人はそんな意味は知らない。「プライベート」といえば「私的」であり、「マイ・プライベート・アイダホ」のような有名作もあるだけにややこしいことになっている。なぜ「ライアン二等兵」では駄目だったのかは不明である。

出演:アンナ・カリーナ、サディ・レボ、アンドレ・S・ラバルト、ギレーヌ・シュランベルジェ、ペテ・カソヴィッツ、ブリス・パランほか。音楽:ミシェル・ルグラン。

12のタブローからなるモノクローム映画である。

これまで観た「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち《デジタル・リマスター版特集上映》」の「女は女である」と「シェルブールの雨傘」は京都みなみ会館の1階にあるSCREEN1での上映であったが、今日は2階にあるSCREEN2での上映となる。

女優を夢見るナナ(アンナ・カリーナ)が主人公である。おそらくエミール・ゾラの『ナナ』に由来する命名だと思われる。
冒頭はアンナ・カリーナの愁いに満ちた横顔や正面の顔のアップである。

パリ。ナナは、夫のポール(アンドレ・S・ラバルト)の稼ぎが不満であり、別れることになる。カメラマンと会い、あるいは映画女優への道が開けるかと思っていたナナだが、ヌードになる必要があるため断ってしまう。
ナナとポールが会話を交わす場面はずっと後ろ姿を撮影しており、アンナ・カリーナの顔は鏡に映って見えるようになっている。

ナナはレコードショップで働いているが、稼ぎは足らず、家賃が払えなくなってアパートを追い出され、友人の家を泊まり歩いている。本筋とは関係ないが、ナナが働いているレコードショップでは、ジュディ・ガーランドのレコードは売っておらず、当時神童といわれていたペペ・ロメロのレコードを売る場面がある。ラックには「J Williams」の文字もあるが、映画音楽作曲家のジョン・ウィリアムズなのか、ギタリストのジョン・ウィリアムスなのか、それともまた別人なのかは不明である。

映画館で「裁かるゝジャンヌ」を観て涙するナナは、ジャンヌ・ダルクのような自分で選ぶ生き方に憧れているようであるが、現実はそうはいかない。これまた余談であるが、当時は映画は大人気であり、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」が上映されている映画館の前で人々が長蛇の列を作っている様が映るシーンがある。

新聞販売店で女性客が落とした紙幣をネコババしようとして訴えられ、警察に逮捕されたりするナナ。結局、金のために体を売ることになる。売春の斡旋をしている友人のイヴェット(ギレーヌ・シュランベルジェ)の知り合いの富豪の女性に宛てた手紙を書くナナだったが、イヴェットに紹介された女衒(余談だが、フランス語では女衒のことを「マック」と言うため、マクドナルドは「マック」ではなく関西と同じように「マクド」と略す)のラウル(サディ・レボ)と出会ってからは本格的な娼婦となる。

そんな中、カフェで哲学者のブリス・パラン(本人が出演している)と出会ったナナは、パランから言葉と愛についての教えを受ける。ポーの「楕円形の肖像」を朗読する若い男(ペテ・カソヴィッツ。朗読自体はゴダール監督が行っている)とおそらく「体でなく言葉で紡ぐ愛」に目覚めたかのようだったナナだったが、その命は突然に断ち切られる。

重要なのはラストの「言葉による愛」への目覚めだと思われるが、それに到るまでの堕ちていく女の話と観るだけでも十分であろう。ゴダール作品なので、主題めいたものを求めると肩透かしをくらう可能性がある。ナナの「自由と責任論」も今となっては当たり前のことを話しているように聞こえるが、当時としては目新しいものだったと思われる。

 

当時、ゴダール監督の夫人であったアンナ・カリーナであるが、この映画の出来に不満だったという話もある。冒頭のシーンや「裁かるゝジャンヌ」の引用、そしてルグランが書いた宗教音楽のような旋律から察するに、あるいはジャンヌ・ダルクに憧れる女性の話のはずがそうならなかったということなのかも知れない。元々が娼婦を題材にした原案が存在する作品なので、娼婦を演じることに抵抗があったわけではないと思われるが、愛の物語が展開する前に話が終わってしまったことで自身の良さが出せなかったと思ったのであろうか。


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