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2020年10月10日 (土)

これまでに観た映画より(215) 生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭より「道」

2020年10月8日 京都シネマにて

京都シネマで行われている、生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭最終日の「道」を観る。

イタリアを代表する映画の巨匠、フェデリコ・フェリーニ。前衛作として知られる「8 1/2(「はっかにぶんのいち」。我々の世代の読み方だと「はちとにぶんのいち」)」なども観ておきたかったのだが日程が合わず、最終日の「道」だけはなんとか観ることが出来た。

フェリーニの代表作で、知名度は最も高いと思われる「道」。ニーノ・ロータによるテーマ音楽も極めて有名である。1954年制作のモノクロ作品。製作:カルロ・ポンティ。
出演:アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ベイスハートほか。

ジュリエッタ・マシーナはフェデリコ・フェリーニ夫人である。夫婦仲は極めて良好だったようで、1993年にフェリーニ監督が亡くなった際、体を支えられながら身も世もないといった風に悲嘆に暮れるジュリエッタ・マシーナの姿をカメラが捉えており、コメンテーターが、「これ、大丈夫なんですか?」と発言していたことが記憶に残っている。フェリーニ監督を失ったことは心身共にこたえたようで、その5ヶ月後にジュリエッタ・マシーナも後を追うように肺がんで亡くなっている。


海辺のシーンから映画は始まる。軽度の知的障害を抱えているジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)が海辺を歩いていると、子ども達がジェルソミーナの姉であるローザが亡くなったということを告げに来る。ローザは大道芸人であるザンパノ(アンソニー・クイン)の助手をしていたのだが、ジェルソミーナが後任としてザンパノと共に旅をするようになる。それまで仕事が出来ずにふらふらとしていたジェルソミーナの旅立ちに母親は複雑な態度を取る。

最初と最後が海のシーンというのも実は意味がありそうである。


見るからに粗暴そうなザンパノだが、ジェルソミーナにも体罰を行う。一度はザンパノの下から逃げ出すジェルソミーナ。ローマでジェルソミーナは綱渡りを得意とし、小型ヴァイオリンを弾く若い男(本名不明。「イル・マッド」=「気狂い」「キジルシ」というあだ名で呼ばれている。演じるのはリチャード・ベイスハート)と知り合う。自らの不器用さを嘆くジェルソミーナに男は、「全ての物事には関係がある」「例えばこの小石にだって存在意義がある。それが何かは今すぐにはわからないけれど」と語り、励ますのだった。しかしこの男がザンパノをからかい続けたことから刃傷沙汰寸前まで行ったため、二人ともサーカス団から追い出されることに。
サーカス団や若い男からの誘いを断り、ジェルソミーナはザンパノに同行することを選んだ。
辛い日々を過ごすジェルソミーナであったが、そこにささやかな幸せを見出してもいた。誰からも相手にされなかった自分が助手として金銭を稼ぐことが出来ている。だが、若い男とザンパノが再会してしまったことから全てが狂っていく……。

極めて孤独な(ザンパノが酒場で、「友達なんていない!」と叫ぶ場面がある)その日暮らしの旅芸人の哀感を描いた作品であり、不器用にしか生きられない男女の袋小路的なやるせなさが伝わってくる。ただ当人にとっては実はそうではないのかも知れないと思わせる部分もあり、単なる「悲劇」に終わっていない。それが「名画」として長く評価されている理由の一つなのだと思われる。

ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナがとても魅力的である。劇中でも言われ、また多くの評論で一致しているように美人ではないが、それを補って余りある愛嬌が溢れんばかりに発揮されている。

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