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2020年11月の22件の記事

2020年11月25日 (水)

観劇感想精選(368) 野田秀樹潤色 シルヴィウ・プルカレーテ演出「真夏の夜の夢」

2020年11月20日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」を観る。シェイクスピアの書いた喜劇の中で最も有名な同名作を野田秀樹が自由に作り替えた作品の上演で、初演は1992年、野田秀樹本人の演出によって行われている。野田秀樹のシェイクスピア作品潤色作品には他にも「リチャード三世」を原作とする「三代目、りちゃあど」などがあり、また「贋作・罪と罰」、「贋作・桜の森の満開の下」といった一連の「贋作」ものにも繋がっている。

一応、白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストの潤色と表記されているが、実際にはストーリーの骨子以外は大きく変わっており、舞台が日本に置き換えられている他、シェイクスピア作品よりも後の時代の海外文学(『ファウスト』や『不思議の国のアリス』)などが加わるなど、悪い言い方をすると雑多な内容となっている。

演出は、佐々木蔵之介主演の「リチャード三世」などを手掛けたシルヴィウ・プルカレーテ。舞台美術・照明・衣装:ドラゴッシュ・ブハジャール、音楽:ヴァシル・シリー、映像:アンドラシュ・ランチ。全員、ルーマニアの出身である。

新型コロナウィルス流行で、外国人入国規制が続いていたため、ルーマニア勢はなかなか入国の許可が下りず、当初は遠隔による稽古が行われていたが、9月末になってようやくプルカレーテとブハジャールの2人に入国許可が下り、2週間の隔離経過観察を経て、舞台稽古に合流したという。

出演は、鈴木杏、北乃きい、今井朋彦、加藤諒、加治将樹、矢崎広、手塚とおる、壌晴彦(じょう・はるひこ)、長谷川朝晴、山中崇、河内大和(こうち・やまと)、土屋佑壱、浜田学、茂手木桜子、八木光太郎、吉田朋弘、阿南健治、朝倉伸二。

 

溶暗の中、虫と獣の鳴き声が聞こえ、やがてリコーダーの旋律が聞こえ始める。上手から下手へと、ベルトコンベアに乗って靴が流れ、上手から現れた、そぼろ(原作のヘレナに相当。鈴木杏)が森の不思議について語る。不思議な出来事は気のせいではなく、木の精によるものだと宣言したところで、紗幕が透け、「割烹料理ハナキン」の場面となる。野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」が初演されたのは1992年で、バブルの崩壊が始まったばかりであるが、「ハナキン」という店名が、いかにもバブルといった感じである。

ハナキンの主人(阿南健治。原作のイージーアスに相当)と、娘のときたまご(原作のハーミアに相当。北乃きい)との親子喧嘩が始まっている、ハナキンの主人は包丁を振り上げて、「お前を殺して俺も死ぬ」と啖呵を切る。ハナキンの主人は、ときたまごを板前デミ(原作のディミートリアスに相当。加治将樹)と結婚させるつもりだったのだが、ときたまごは密かに板前ライ(原作のライサンダーに相当。矢崎広)と恋仲になっており、父親が決めた婚礼を拒否したのだ。
ときたまごは、板前デミと共に富士山の麓にある森(おそらく青木ヶ原樹海は意識されていると思われる)へと駆け落ちすることに決める。

実は、板前デミは、以前はそぼろに夢中で、熱心なラブレターなども送っており、そぼろもそぼろで板前デミに思いを寄せていて相思相愛であったのだが、今では板前デミのそぼろに対する熱はすっかり冷めてしまい、まだ思いを捨て切れていないそぼろをゴミか何かのように邪険に扱う。

一方、妖精の森では、妖精の王であるオーベロン(壌晴彦)と王妃であるタイテーニア(加藤諒)が喧嘩の真っ只中である。拾ってきた子どもを取り合ったのが原因だ(なお、かなり長い名前の子どもであり、言い終わるとなぜかインド風のBGMが流れる)。オーベロンは、妖精パック(手塚とおる)を使い、秘薬を用いた悪戯を仕掛ける……。

兵庫県立芸術文化センター(Hyogo Performing Arts Center)の愛称がPACであり、座付きオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団の愛称もPACオーケストラである。兵庫芸術文化センター管弦楽団は発足時に、PACが「真夏の夜の夢」のパックに由来することを明記している。私が兵庫県立芸術文化センターで「真夏の夜の夢」を観るのは今回が初めてとなるが、内容がシェイクスピアの「真夏の夜の夢」とは大きく異なるため、本当の意味でのPACでの「真夏の夜の夢」体験は今後に持ち越しとなりそうである。

悪戯好きの妖精、パックが大活躍する「真夏の夜の夢」であるが、野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」では、今井朋彦演じるメフィストがパックの役割をパクり、各々のアイデンティティの崩壊をもてあそぶというダークな展開を生み出す。

人間の持つ不気味さや醜さを炙り出すスタイルであるプルカレーテの演出であるが、野田秀樹の本との相性は余り良くないように思われる。ヴァシル・シリーもおどろおどろしい音楽を作曲していたが、登場人物のセリフと合致していないように感じられる場面も多い。例えるなら落語をホラーにしたようなちぐはぐな印象である。「カノン」などに顕著だが、おどろおどろしい場面を逆に美しく描くのが野田作品の特徴である。
タイテーニアが異形のものに恋する場面も、不用意に不気味にしてしまった印象を受ける。あそこは、シェイクスピアの原作もそうだが、野田の本でもおそらく笑いを取る場所だったと思うのだが。

誰も知らない「知られざる森」は、その場所に行ったことはあっても森を出る頃には忘れてしまう場所だそうで、無意識領域を描いているようでもある。また、言葉に出来なかったこと、しなかったことなどが話の中心となる場面があり、表に出されなかった言葉が形作る世界が語られている(この辺は夢というものの役割をも語っているようでもある)。そこに溜まった感情を顕在化させるという契約をメフィストは言葉を使わない方法で結んでいた。そもそもメフィストは、ある人物の「影」の部分に導かれて登場したことが明らかにされている。
やがて憎悪が森を焼き尽くそうとするのだが、「物語」がそれを救うことになる。更生を重視する刑務所に取材したドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」でも物語が語られる場面が冒頭に置かれているが、世界を見つめる視点を持つために、物語は極めて有効且つ重要だ。

今井朋彦演じるメフィスト。好演だったが、本来はもっと飄々とした人物として設定されていたように思う。そうでないと整合性が取れない場面がある。

アンドラシュ・ランチの映像を巨大な戸板風の壁に投影する演出は、華麗で分かりやすくもあるのだが、映像を使った演出が往々にしてそうなるように映像頼りになってしまう部分も多い。ある意味、映像の方が舞台上の俳優よりも効果的に使われてしまうため、生身の人間が舞台上にいることで生まれる価値が薄くなるようにも思われてしまう。おそらく予期していたわけではないと思うが、そうした映像の使い方がメフィスト的であると言えば言える。映像に魂を売ったように見えなくもないからだ。

今や日本を代表する舞台女優となった鈴木杏のバレエの動きを取り入れたエネルギッシュな演技が魅力的。コンスタントにというわけではないが舞台に出続けている北乃きいの可憐さも良かった。
この劇では、いいところはみんなメフィストに持って行かれてしまうパックであるが、それでも手塚とおるは存在感を出せていたように思う。

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2020年11月24日 (火)

スタジアムにて(31) J1 京都パープルサンガ対ジェフユナイテッド千葉@京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場 2006.7.26

2006年7月26日 京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場にて

西京極へ。サッカーJ1リーグ、京都パープルサンガ対ジェフユナイテッド千葉の一戦を観るためだ。故郷のチームと、現在のホームチームの対決。ホームなので京都パープルサンガを応援する。

気温は35度もある。

京都パープルサンガは、来シーズンから、「京都サンガF.C.」に改名する(運営会社名自体は京都パープルサンガを継続)。パープルサンガは京都教育大学のOBチーム「京都紫光クラブ」を源とするチームであり、それゆえ、パープルをチーム名に入れていたが、「そろそろ歴史と決別した方が良い」という判断らしい。
とはいえ、英語でPURPLEと書くと格好いいが、片仮名で「パー」だの「プー」だのいうのは少なくとも強そうには見えないので、それも理由の一つなのかも知れない。

新スタジアム建設が話題になった京都だが、結局は西京極総合競技場の改修ということに決まりそうである(2006年時点の話)。


新日本代表監督に決まったイビチャ・オシムの下で急成長したジェフ千葉。サンガがジェフに勝てるとしたら、京都独特のモワモワした暑さを味方につけた時だろう。千葉は海に面しているということもあってジメジメした暑さがあるが、風が涼しいので京都よりは過ごしやすい。千葉の気候に慣れたジェフの選手達は京都の暑さに相当疲労するはずだ。


試合はジェフのペースで進む。ボール支配率、中盤の支配率ともにジェフが上。サンガはジェフに攻めさせておいて凌ぎ、カウンターを仕掛けるというパターンが続く。前半はその作戦が功を奏し、星大輔が先制のゴールを決める。ほぼ満員の西京極競技場は大歓声に包まれる。

前半は、1対0でサンガがリードして終わる。

後半も同じ展開だが、サンガ陣地でのプレー時間が長く、ジェフの猛攻が続く。
サンガもカウンターを仕掛けて、ジェフのゴールネット揺らすも、オフサイドで得点ならず。

前半は目立たなかった、ジェフのエースストライカー・巻誠一郎が、後半に入って動きに切れが出てくる。暑さを考えて、前半は力を温存していたのだろう。

後半24分、その巻がフリーでボールを受け取ってシュート。ボールはサンガゴールに吸い込まれ、ジェフが同点に追いつく。

その後もジェフペースで試合が進むが、決定的チャンスはむしろサンガの方が多い。しかし決められない。サンガはアンドレとパウリーニョのツートップで、中盤から蹴りこまれたボールをアンドレがヘッドで落とし、そこにパウリーニョが走り込むというのが攻めの王道だ。しかし、パウリーニョ以外に走れる選手がいないというのが弱い。

後半もロスタイム(今だと「アディショナルタイム」表記が一般ですね)に入る。ジェフが攻め込んで、クロスを上げた、それに巻が反応。ヘディングシュートが決まる。

サンガ、ロスタイムに逆転を許しての敗戦。ジェフの試合巧者ぶりが目立った。そして巻誠一郎はやはり凄い。

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2020年11月23日 (月)

コンサートの記(670) チェコ国立ブルノ歌劇場 「ドラマティック・アマデウス」2006@ザ・シンフォニーホール リムスキー=コルサコフ 歌劇「モーツァルトとサリエリ」(ステージ・オペラ形式)ほか

2006年7月28日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

大阪のザ・シンフォニーホールで行われる、チェコ国立ブルノ歌劇場の来日公演「ドラマティック・アマデウス」に出かける。

「ドラマティック・アマデウス」は、日本側の企画により、ブルノ歌劇場が取り組むモーツァルト生誕250周年企画公演であり、モーツァルトが11歳の時にブルノに滞在したことにちなみ、11歳のピアニスト、ヤン・フォイテクをソリストにした、ピアノ協奏曲第23番第1楽章とピアノ・ソナタ第11番より第3楽章「トルコ行進曲」の演奏があり、それからリムスキー=コルサコフの歌劇「モーツァルトとサリエリ」(ステージ・オペラ形式)、モーツァルトの絶筆となった「レクイエム(死者のためのミサ曲)」(ジュースマイヤー版)が演奏される。

ブルノ国立歌劇場はヤナーチェク劇場(大劇場)、マヘン劇場(中劇場)、レドゥダ劇場(小劇場)の総称で、特にレドゥダ劇場は、11歳のモーツァルトが演奏会を開いたり、ブルノが生んだ作曲家、レオシュ・ヤナーチェクが学生時代に足繁くコンサートに通ったという由緒ある劇場だそうである。

今回はオーケストラは室内オーケストラ編成での演奏となる。指揮はピアノ協奏曲第23番第1楽章と「レクイエム」がヤン・シュティフ、「モーツァルトとサリエリ」をパヴェル・シュナイドゥルが担当する。


一番の目当ては、リムスキー=コルサコフの歌劇「モーツァルトとサリエリ」で、ピーター・シェーファーの「アマデウス」の元ネタの一つとして名高いが、上演は滅多にされないというこのオペラの実演に接するのが目的だ。


ピアノ協奏曲第23番第1楽章と「トルコ行進曲」のピアノ演奏を担当するヤン・フォイテクは1995年生まれで、2002年から2004年まで3年連続でブルノ・アマデウス国際コンクールで優勝を収めた神童だそうだ(1回優勝すれば良いのに、何で3年も連続で出て、しかも優勝を攫う必要があるのかは良くわからない)。その他にもプラハ・ジュニアノートやリトアニアでのコンクールでも優勝しているという。

イベントなので、フォイテクはモーツァルト時代の格好で登場。発想が京都市立×大の自主公演並みだが、まあ許そう。
いくら神童とはいえ、まだ11歳なので、時に指がもつれそうになったり、強弱が大袈裟だったりするが、まあまあ良くは弾けている。

ブルノ歌劇場管弦楽団は、音に潤いがなく、室内オーケストラとしての透明感も生きていない。多分、余り良い楽器を使っていないのだと思われる。


リムスキー=コルサコフの歌劇「モーツァルトとサリエリ」はプーシキンの同名戯曲をリムスキー=コルサコフ自身がオペラ用に台本を書き換えて作曲したもので、全2幕、上演時間約50分の短編である。原作通り、サリエリの長大なモノローグを中心に構成されており、心理劇の要素が強い。ただアリアやオーケストラのメロディーはあまり魅力的とは思えない。
ピーター・シェーファーの「アマデウス」と違うところは、サリエリもまた天才として描かれ、モーツァルトとの仲がとても良いこと。史実でもモーツァルトとサリエリは仲が良かったようで、互いに互いの作品を高く評価している。
サリエリは、当時のウィーンの宮廷楽長であり、ベートーヴェン、シューベルト、リストという錚々たる作曲家の師としても知られ、モーツァルトの四男で音楽家になったフランツ・クサヴァー・モーツァルト(フランツ・クサヴァーという名は、モーツァルトの弟子であるフランツ・クサヴァー・ジュースマイヤーと同一であることから後に様々な憶測を呼ぶことになる)の作曲の師でもあった。サリエリは作曲家として大変な尊敬を集めており、後年には、「私があれほど活躍しなかったら、モーツァルトももっと売れただろうに」というちょっと傲慢な言葉を残していたりもする。

プーシキンの「モーツァルトとサリエリ」は、サリエリが死の直前(1825年)に「私がモーツァルトを毒殺した」と口走ったとされるスキャンダルに題材をとり、1830年に書かれた戯曲である。誠実な音楽家達でなく、人間としては俗物この上ないモーツァルトに神が作曲家として最高の才能を授けたことに嫉妬するサリエリの姿を描いたものだ。
これをオペラ化したリムスキー=コルサコフの「モーツァルトとサリエリ」の初演は1898年12月7日にモスクワで行われ、サリエリ役にシャリアーピン(シャリアーピン・ステーキにもその名を残す伝説的バス歌手)、舞台裏のピアノ演奏をラフマニノフが担当するなど豪華な顔ぶれであったという。

今回はステージ上でオーケストラが演奏し、その横に簡素なセットを置いて、衣装を着た歌手が演技するという「ステージ・オペラ形式」での上演(東京ではオーケストラがピットに入り、バレエ団なども加えた「グランド・オペラ形式」での上演も行われたという)。

指揮は私より1歳年下(1975年生まれ)のパヴェル・シュナイドゥルが担当。31歳なんて指揮者としてはまだ駆け出しの年齢であるが、音楽的な問題は特にない。
リムスキー=コルサコフはオーケストレーションの名手として知られるが、この作品は地味だ。オーケストラの音色も地味であり、プラスには作用していない。

サリエリ役は、シベリアのノヴォシビルスク出身のベテラン、ユリィ・ゴルブノフ。経験豊かだけに歌、演技ともに安定している。
モーツァルトを演じるのはゾルターン・コルダ。このオペラではモーツァルトは脇役なので余り見せ場がないが、まずまずの出来だ。

劇中、モーツァルトがピアノを弾くシーンがある。実際のピアノの音は舞台裏で奏でられるのだが、モーツァルト役のコルダの手元を見ると、コルダも実際はピアノが弾けるようで(実はピアノが弾けない音楽家というのは意外に多い)、鍵盤をなぞる動きは正確であった。


ベテランのヤン・シュティフが指揮した「レクイエム」K.626(ジュースマイヤー補作完成版)は、シュティフのスッキリした音作りが印象的な好演であった。
ソリストは、ソプラノとバスがベテラン、アルトとテノールが若手という布陣。テノールのリハルド・サメクは1978年生まれのまだ20代の歌手。アルトのヤナ・シュテファーチコヴァーも年齢は書かれていないが若いと思われる(30歳前後だろうか。少なくとも30代後半までは行っていないと思われる。ちなみにかなりの美人だ)。

合唱、ソリストともにレベルはそこそこ高い。

終演後、客席からは「まあ、こんなもんだろう」という感じの拍手があり、ステージ上も「まあ、こんなもんだ」という風にそれに応えていた。

一流の演奏会とは言えないだろうが、一流ではない演奏も落ち着いた趣があってまた良しである。

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2020年11月22日 (日)

これまでに観た映画より(228) アルフレッド・ヒッチコック監督作品「三十九夜」

2006年7月25日

DVDでアルフレッド・ヒッチコック監督作品、「三十九夜」を観る。500円DVDシリーズの1枚。原作はジョン・バカンの『三十九階段』(詩人でミステリーマニアでもあった、故・田村隆一大推薦の小説)。映画の原題も“The 39 steps”なのだが、どういうわけか、「三十九夜」という邦題になってしまった。1935年、ヒッチコックの英国時代の作品である。

ロンドンの劇場で、記憶男という抜群の記憶力を持つ男のショーを観ていたハネイというカナダ人が、劇場内での発砲事件をきっかけに英国の機密を海外に持ちだそうとする陰謀に巻き込まれていくというストーリー。ヒッチコックお得意の巻き込まれ型サスペンスだ。

「第三の男」の、どういうわけかスピーチをする羽目になるというエピソードを思わせるシーンがあったり(勿論製作は第二次大戦後のウィーンを舞台とした「第三の男」の方が後である)、「北北西に進路を取れ」でも見ることになる手法の原型が登場するなど興味深い。

最初は相手の男を殺人犯だと疑っていたのに、違うことが判明すると、途端にその男と恋に落ちてしまうという「お約束」を守る女性もきちんと出てくる。ヒッチコック作品の中ではそれほど知名度が高い方ではないと思うが(それでも有名ではある)傑作だ。

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2020年11月20日 (金)

美術回廊(60) 京都国立近代美術館 「生誕120年 藤田嗣治展」

2006年7月23日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で開かれている、「生誕120年 藤田嗣治展」に出かける。今日が最終日である。チケットは買ってあったのだが、結局最終日に来ることになってしまった。最終日は当然ながら混む。

藤田嗣治は東京に生まれ、若くしてパリに渡り成功を収めた画家である。第二の藤田になることを目指して渡仏するも夢やぶれた画家は非常に多いそうだ。

第二次大戦前夜に藤田は日本に戻り、日本の戦闘行為を英雄的に描く戦争画を制作したりもした。しかし、戦争協力責任を問われるなどして、日本での活動に限界を感じた藤田は再びパリに戻りフランスに帰化。その後、日本の土地を踏むことはなかったという。

パリで成功し始めた頃の作品は、ピカソのキュビズムに影響されていたり、ムンクの模写のような画を描いていたりする。だが、本当に認められたのは乳白色を多用した画だ。彫刻をキャンバス上に刻んだような、独特の乳白色をした画の数々は個性的である。

だが、藤田の特色は、個性的であることではなく、その器用さにある。南米で過ごした頃の画からは、パリ時代とは全く異なるラテンの血が感じられる。また日本回帰の時代というのもあって、ここでは高橋由一や青木繁のような画風を示す。この時期に描かれた「北平の力士」(北平とは中華民国時代の北京の名称。中華民国の首都が南京に置かれたために北京は北平と改称されたのである)という画は日本画と中国画のタッチを取り入れた、迫力と生命力が漲る優れた作品である。

戦争画の一枚は、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」に構図が似ていたり、また宗教画にはミケランジェロの「最後の審判」をアレンジしたもの(タイトルは「黙示録」)があったり、藤田は自分の観たものを貪欲に取り入れる精神に溢れていたようだ。かといって自らの個性を殺したわけではなく、例えば、フランスの女性を描いても目の辺りが日本美人風になっていたりするのは藤田独特の個性だろう。

フランスに帰化してからの藤田は子供を題材にした画を多く残している。戦争画を描くことを強要し、戦争が終わると「戦争協力責任」なるものを押しつけようとする「大人達」への反発がそうさせたのだろうか。面白いのは、藤田が描いた子供の顔には、それに似つかわしい無邪気さが見られないことである。何かあるのだろう。


3階の「藤田嗣治展」を観た後、4階の通常展示も見学。私の好きな長谷川潔や、浅井忠の画を見て回る。藤田嗣治と吉原治良(よしはら・じろう。風間杜夫似の、画家というより俳優か小説家のような顔をした画家。具体美術協会の創設者であり、吉原製油社長という実業家でもあった)が握手をしている写真が飾ってある。そして吉原の作品も展示されている。個人的には吉原の作風の方が気に入った。

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2020年11月19日 (木)

コンサートの記(669) 下野竜也指揮広島交響楽団第405回プレミアム定期演奏会「“讃”平和を讃えて」大阪公演

2020年11月15日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、広島交響楽団第405回プレミアム定期演奏会大阪公演「“讃”平和を讃えて」を聴く。指揮は広島交響楽団音楽総監督の下野竜也。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ独奏:小山実稚恵)とブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(1878/80年稿に基づくハース版)。

 

鹿児島市出身で、地元の国立、鹿児島大学教育学部音楽科と東京の桐朋学園大学音楽学部附属指揮教室に学んだが下野竜也だが、指揮者としてのキャリアは大阪フィルハーモニー交響楽団指揮研究員として第一歩を踏み出しており、下野にとって大阪は特別な場所である。広島交響楽団の音楽総監督に就任する際にもザ・シンフォニーホールで特別演奏会を開いたが、今年は第405回の定期演奏会を広島と大阪で行うことになった。

 

コンサートマスターは、佐久間聡一。ドイツ式の現代配置での演奏である。チェロ首席は京都市交響楽団への客演も多いマーティン・スタンツェライト。京都市交響楽団からはトランペットの稲垣路子が参加している。

 

広島交響楽団の演奏を生で聴くのは4回目。広島で広上淳一指揮の定期演奏会を聴き、更に細川俊夫作曲のオペラ「班女」も川瀬賢太郎の指揮で聴いている。大阪では、ブルックナーの交響曲第8番1曲勝負となった下野竜也音楽総監督就任記念演奏会に接し、そして今回である。
広島は中国・四国地方の中心都市であるが、ここ数年は交通的には更なる要衝である岡山市が重要度を増している。岡山にはクラシック音楽専用ホールである岡山シンフォニーホールがあり、日本オーケストラ連盟準会員である岡山フィルハーモック管弦楽団が本拠地としてる。更に2023年夏のオープンを目指して新しい市民会館、岡山芸術創造劇場の建設工事が進んでいる。
一方、広島市内にあるホールは全て多目的で、音響面で優れたホールは一つもなく、この点で岡山に大きく遅れを取っていたが、旧広島市民球場跡地の東側に音楽専用ホールを建設する計画があり、広島音楽界の一層の充実が期待される。

広島交響楽団は、中国・四国地方唯一の日本オーケストラ連盟正会員の団体である。1963年に広島市民交響楽団として発足。これまでに渡邉暁雄、高関健、田中良和、十束尚宏、秋山和慶が音楽監督を務めているが、特に秋山和慶とは1998年に首席指揮者兼ミュージックアドバイザー就任以降(2004年から音楽監督に昇格)、20年近くに渡ってコンビを組み、広島東洋カープのために作曲されたカープ・シンフォニーを出演者全員がカープのユニフォームを着て演奏するなど良好な関係を築き続けてきた。
現在のシェフである下野竜也は、日本のオーケストラとしては余り例のない音楽総監督という肩書きで迎えられており、期待の高さが窺われる。

 

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。本来は、ゲルハルト・オピッツがソリストとして登場する予定だったが、新型コロナ流行による外国人入国規制で来日不可となり、小山実稚恵が代役を務める。
ヴィルトゥオーゾピアニストとして名声を高めてきた小山実稚恵だが、今日は煌びやかな音色と抜群のメカニックを生かしつつ、まさに今の季節の空のように高く澄んだ演奏を展開する。希望と平和への希求と喜びに溢れ、ベートーヴェンが示した「憧れを忘れぬ心」を描き出していく。世界的な危機に直面している現在であるが、ベートーヴェンの志の高さに励まされる思いだ。
情熱的な演奏を行う傾向のある小山であるが、第1楽章と第2楽章は音色とリリシズム重視。第3楽章ではクリアな音色で強烈な喜びを歌い上げる。

広島交響楽団であるが、音の洗練度に関しては関西のオーケストラに一歩譲るようである。所々を除いてピリオドの要素は入れないモダンスタイル基調の演奏であったが、金管は緊張があったのか、安全運転気味で本来の力を発揮出来ていないように感じられた。

 

小山のアンコール演奏は、「エリーゼのために」。
本音を隠したまま思慕の念を語るような大人の演奏であり、当然ではあるが、ピアノの発表会で演奏されるような「エリーゼのために」とは趣が大きく異なる。広がりや夢想と同時に苦味も感じられる演奏であり、悲恋の予感に満ちた音楽のような、「エリーゼのために」の別の顔が垣間見える。

 

ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。
ブルックナーの交響曲の中では異色の部類に入る曲であり、物語性が豊かである。そのため、ブルックナー指揮者が取り上げると面白さがなくなり、ブルックナーをそれほど得意としていない指揮者がなかなかの名演を残すなど、出来が読めない曲である。

これまでブルックナーの初期の交響曲で名演を聴かせている一方で、交響曲第7番、第8番、第9番の後期三大交響曲は今ひとつと、ブルックナーをものに出来ないでいる下野。資質的にはブルックナーの交響曲によく合うものを持っているはずだが、単純にまだ若いということなのだろうか。ブルックナーの後期三大交響曲は老年に達してから名演を展開するようになる指揮者も多いため、今後に期待したい。

さて、そんな下野の「ロマンティック」であるが、これはもう日本で聴ける最高レベルの「ロマンティック」と評しても大袈裟でないほどの快演となった。
弦によるブルックナースタートから立体感があり、雰囲気豊かで、夜明けを告げるホルンの詩情、弦楽器の瑞々しさなど、どれも最高水準である。オーケストラが京都市交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団だったら技術面では更に素晴らしいのかも知れないが、広島交響楽団も大健闘。強弱の自在感などは下野の手兵だから生み出せる味わいであり、指揮者とオーケストラとが一体となった幸福な音楽が、ホールを満たしていく。

広響のブラス陣はかなり屈強だが、下野の巧みなバランス感覚とコントロールにより、うるさくは響かない。

第2楽章の寂寥感、第3楽章の騎行なども描写力に優れ、高原の清々しい空気まで薫ってくるかのようである。

第4楽章は曲調がめまぐるしく変わるが、下野は明快な指揮棒により、場面場面と強弱を巧みに描き分け、大伽藍の頂点へと向かっていく。
ブルックナー指揮者としての素質の高さは誰もが認める下野であるが、今この瞬間に開花を迎えたようだ。そういう意味でもとても喜ばしい演奏会であった。

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2020年11月18日 (水)

コンサートの記(668) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第543回定期演奏会

2020年11月13日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第543回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、グレース・ウィリアムズの「海のスケッチ」と、マーラーの交響曲第5番。

今日のコンサートマスターは、崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏。マーラーでの弦はファーストヴァイオリン14型であり、フル編成での演奏となる。

グレース・ウィリアムズ(1906-1977)は、ウェールズ出身の女流作曲家である。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでヴォーン・ウィリアムズに師事し、その後、カーディフのBBCウェールズに勤務していたという。
尾高がグレース・ウィリアムズの存在は知ったのは、BBCウェールズ交響楽団の首席指揮者を務めていた時代(1987-1995)で、楽団員から「海のスケッチ」を良い曲だと薦められ、BBCウェールズ響と演奏しているという。尾高はその後、2001年に当時音楽監督を務めていた札幌交響楽団を指揮してこの曲の日本初演を行っており、新日本フィルハーモニー交響楽団、九州交響楽団、読売日本交響楽団とも同曲を演奏しているそうである。

弦楽オーケストラのための作品で、「強風」「航海の歌」「セイレーン海峡」「砕ける波」「夏の穏やかな海(平和な海)」の5部からなっている。
ウェールズはイングランドとは文化が少し異なるが、同じ英国(U.K.)ということもあり、イギリス的な音楽であることは間違いない。海の様々な表情を描いており、波の動きを描写した部分もあれば、海よりも風の要素が強い箇所もある。荒さは余り感じられず、ノーブルな作風であるというところがいかにも英国の作曲家の作品らしい。
なお、ラストに当たる「夏の穏やかな海(平和な海)」は、マーラーの交響曲第5番より第4楽章「アダージェット」に旋律や印象が似ており、マーラーの交響曲第5番をメインとするコンサートの前半に入れられた理由がわかる。

 

マーラーの交響曲第5番。人気曲であり、コンサートで聴く機会は多いが、フェスティバルホールで聴くのはあるいは初めてかも知れない。大阪フィルはエリアフ・インバルを招いたフェスティバルホールでの定期演奏会で、この曲を演奏しているが、私自身はその演奏会は聞き逃している。

尾高忠明というと、フォルムを大切にする音楽作りが特徴で、日本における正統派指揮者というイメージであり、実際にそうだったのだが、このところは表現主義的な演奏に傾きつつあり、この曲でも外観を損ねてでも内容をえぐり出すという、ある意味、マーラーのユダヤ的要素に光を当てた演奏となる。
スケールは大きく、バランス感覚にも秀でているが、それ以上にマーラーの苦悩や戦きを炙り出すことに焦点を当てており、チェロを強く奏でることで意図的に構図を不自然にするなど、マーラーの異様な部分をそのままに描き出す。強弱の対比も鮮やかであり、速度を上げることで、他の演奏では単なる旋律でしかなかったものが崩壊の描写として確認出来るようになっている。

マーラーの交響曲第5番は、第1楽章と第2楽章が第1部、第3楽章が第2部、第4楽章と第5楽章が第3部と作曲者によって指示されている。それに従わない指揮者もかなり多いのだが、尾高は指示通り、第2楽章と第3楽章の間、第3楽章と第4楽章の間に比較的長めの休止を取り、第1楽章と第2楽章の間、第4楽章と第5楽章の間は逆にほぼアタッカで演奏を行った。

マーラーの生前からマーラー作品を高く評価していたウィレム・メンゲルベルクにより、「妻アルマへのラブレター」と評された第4楽章「アダージェット」であるが、この曲全体がベートーヴェンの交響曲第5番に範を取った英雄の物語と解釈すると、「アダージェット」はアルマとは余り関係のない、英雄のまどろみのようなものであり、第5楽章の冒頭で夢から醒めた英雄が勝利へと向かうという筋書きが見えてくる。第5楽章冒頭のホルンはどう聴いても目覚めを促す声であるため、マーラーがアダージェットをまどろみとして書いた可能性は結構高いはずである。
昨今ではスッキリとしたテンポによるアダージェットの演奏も多いが、尾高は中庸からやや遅めのテンポを取り、適度な甘美さでこの楽章を歌った。

続く第5楽章も尾高としては比較的テンポを動かす演奏であり、終盤に向けての高揚感も鮮やかである。大フィルも細かな傷はあるが、内からエネルギーが溢れ出す様がハッキリと見えるようなパワフルな演奏を展開。この楽団の長所が存分に発揮された秀演となった。

尾高は最後に客席に向かって、「コロナに負けずに頑張りましょう」とコメントし、コンサートはお開きとなった。

ちなみに、渋沢栄一を主人公とする来年の大河ドラマ「青天を衝け」のオープニングテーマの指揮は、渋沢栄一の子孫の一人でもある尾高忠明が務めるようである。

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2020年11月16日 (月)

美術回廊(59) 京都国立博物館 御即位記念特別展「皇室の名宝」

2020年11月11日 東山七条の京都国立博物館にて

京都国立博物館で行われている御即位記念特別展「皇室の名宝」を観る。密を避けるため、インターネットで事前予約を行う必要がある。基本的にスマートフォンを利用するもので、必要な情報を入力するとメールが送られてきて、記載されたURLをタップすると表示されるQRコードがチケットの代わりとなる。パソコンで申し込んだ場合は届いたメールをスマートフォンへと転送することで処理するようだ。

朝方、たまたまNHKで、「皇室の名宝」が取り上げられているのを見た。レポーターは、京都幕末祭でご一緒したこともある泉ゆうこさん。特別ゲストとして中村七之助が登場する。七之助は来年正月2日に放送される新春時代劇で伊藤若冲を演じるそうで、番宣も兼ねての登場であった。

 

皇居三の丸にある宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の名品を中心とした展覧会である。1993年に完成した三の丸尚蔵館所蔵の名宝が京都で展示されるのはこれが初めてとなるそうだ。

第一章「皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝」は、タイトル通り、書画が並ぶ。西行の書状や、藤原定家が写した「更級日記」、八条宮智仁親王の筆による古歌屏風などが展示されている。桂離宮を造営したことで知られる八条宮智仁親王は、ある意味、この展覧会のキーパーソンともいうべき人物で、彼が関わった様々な名宝が展示されている。

八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王は、正親町天皇の孫にして、後陽成天皇の実弟。豊臣秀吉の猶子となり、次期関白を約束されていたが、秀吉に鶴松が生まれたために反故とされ、八条宮家を創設。後陽成帝から皇位継承者と見做された時期もあったが、結局は徳川家康が反対したため、皇位は後陽成帝の息子である後水尾天皇が継ぐことになり、どちらかというと不遇の人生を歩んでいる。桂離宮を別邸としたことで八条宮家はその後に桂宮家となった。

「絵と紡ぐ物語」では、竹崎季長が描かせたことで有名な「蒙古襲来絵詞」が展示されている。「てつはう」が炸裂していることで有名な前巻(文永の役を描く)の展示は今月1日で終了しており、現在は弘安の役を描いた後巻の展示である。文永の役ではモンゴル軍と高麗軍の戦術に関する知識がなかったため度肝を抜かれることになった御家人達だが、再度の襲来を見越して博多湾に防塁を築き、万全の迎撃態勢を整えていた。後巻には防塁の前を馬で進む竹崎季長らが描かれている。
元の撃退には成功したが、追い返しただけで新たなる領地を獲得したわけではないため、鎌倉幕府は恩賞を与えようにも与えられない。それを不服とした竹崎季長が自らの奮闘を幕府に示すために奏上したのが「蒙古襲来絵詞」である。

その他には、浄瑠璃やスーパー歌舞伎、オペラや宝塚歌劇などの題材となった「小栗判官絵巻」(巻5。岩佐又兵衛筆)や、尾形光琳が描いた「西行物語」巻4などが展示されている。

続く唐絵の展示だが、中国よりも日本で人気のある画家のものが多いようである。

「近世絵画百花繚乱」と題された展示では、伝狩野永徳による「源氏物語図屏風」、保元の乱と平治の乱の名場面を扇の面に描いた「扇面散図屏風」などが展示されている。
中村七之助が紹介していた伊藤若冲の絵もここに展示されているのだが、S字カーブが特徴の「旭日鳳凰図」や「牡丹小禽図」、逆S字カーブを描く「菊花流水図」、「八」の字の構図を3つ重ねることで垂れ下がる南天の重力をも表出しようとした「南天雄鶏図」など、デザイン性の高い作品が並んでいる。

現代に到るまでの京都画壇の祖といえる円山応挙の「源氏四季図屏風」。写生を得意とした応挙だが、この作品はリアリズムよりも水の流れのエネルギーが感じられる出来となっている。

 

「第二章 御所をめぐる色とかたち」。「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」(狩野永納筆)は、天皇の顔がはっきりと描かれているという、当時としては珍しい作品である。
京都最後の天皇となった孝明天皇の礼服も展示されているが、八咫烏なども描かれているものの、基本的には龍をモチーフにしており、中国の王朝からの影響が強く感じられる。

「令和度 悠紀地方・主基地方風俗和歌屏風」は新作である。後期の展示は、永田和宏の筆による和歌の書と土屋禮一の絵による「主基地方風俗和歌屏風」である。令和の主基地方は京都であり、桜の醍醐寺、万緑の大文字山、紅葉の嵐山、雪の天橋立が描かれている。

「漢に学び和をうみだす」では、小野道風、伝紀貫之、藤原行成らの書が並ぶ。伝紀貫之の「桂宮本万葉集」は、八条宮智仁親王の子、忠仁親王以降、桂宮家が所蔵していたもの。桂宮本と呼ばれる蔵書群の基礎を築いたのが智仁親王である。土佐光吉・長次郎筆による「源氏物語画帖」の詞書連作の中にも八条宮智仁親王は名を連ねている。

一般には桂離宮の造営者としてのみ、その名が知られる八条宮智仁親王であるが、近世の文芸において大きな役割を果たしていることがわかる。
なお、桂宮家は断絶しているが、智仁親王の子である広幡忠幸の血は柳原氏に受け継がれることとなり、柳原愛子(やなぎわら・なるこ)が大正天皇の生母となっているため、現在の皇室は智仁親王の血を受け継いでいるということになる。

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2020年11月15日 (日)

これまでに観た映画より(227) 「blue」

2006年7月19日

DVDで日本映画「blue」を観る。2001年の作品。安藤尋監督。主演は、市川実日子(いちかわ・みかこ)、小西真奈美。
魚喃キリコ(なななん・きりこ)の漫画が原作である。

女子高を舞台とした青春もの。タイトル通り、ブルー系のトーンが用いられており、海や草木の青さも強調されている。

友達は多いけれど、どことなく周囲に馴染めないものを感じている桐島カヤ子(市川実日子)。ある日、桐島は、2年生の時に停学処分を受けて今は同級生となった1歳上の遠藤雅美(小西真奈美)が通学途中にバスを降り、海へ向かうのを見る。遠藤に興味を持ち始める桐島。

合コンの帰り道、桐島は男の子にホテルに連れ込まれる。しかし桐島は彼を好きになれない。桐島が好きなのは同性の遠藤なのだから……。


女の子同士の恋愛も描かれるが、軽いタッチであり、嫌な感じはしない。それに遠藤も同性が好きなふりをしたが、本当は男が好きである。2年生の時も、妻子ある男性と不倫をして妊娠してしまい、堕胎したことがばれて停学処分になったのだった。

出演者達のセリフは抑揚が抑え気味であり、時には棒読みのように聞こえる。ただ、全員が同じような調子で話すのをみると、セリフが下手なのではなく、敢えて感情を抑えるよう指示があったと考えるべきだろう。ある意味、ちょっと頭の良い学生が作った自主製作映画のような生硬さを求めていることが細部から見て取れる。女の子数人が話す場面でも間が不自然であるが、そうであるが故に彼女たちの未成熟な内面が浮かび上がる。
特典映像を見ると、安藤監督は、演者になるべく間を長めに取るよう求めていることがわかる。やはり意図的に生硬さを出していたのだ。

桐島と遠藤二人のシーンはおそらく何テイクも撮ってその中で一番アンバランスなもの選んでいるのだろう。上手く見えては駄目なのだ。

ストーリーが起伏に乏しい内省的なものであるということも含めて本格的な映画が好きな人は嫌うかも知れないが、普段とはちょっと毛色の違う映画を観てみたいという人にはお薦めである。
ただ、バスを追うシーンで物語は完結しているのであり、その先の映像は無用なように思える。そこが難点だ。
ちなみに市川実日子はこの作品で、モスクワ国際映画祭最優秀女優賞を獲得している。

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観劇感想精選(367) 維新派 「ナツノトビラ」

2006年7月14日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

梅田芸術劇場メインホール(旧・梅田コマ劇場)で、維新派の「ナツノトビラ」を観る。構成・演出:松本雄吉、音楽:内橋和久。

維新派は、「ヂャンヂャン☆オペラ」という独特の歌唱と動きによる演劇(パフォーマンスと言った方が近いかも知れない)を確立した大阪の劇団で、セリフは全くと言っていいほど用いられず、歌詞はあるが、そのほとんどは意味が剥奪されており、ストーリー展開よりもパフォーマーの動きと声が織りなす雰囲気で魅せる団体だ。

「ナツノトビラ」は、夏休みの間、テレビばかり見ていた少女が、ふと思い立って昨年亡くなった弟の墓参りに出かけ、そこで数々の幻影を目にするという作品である。筋だけ書くとありきたりのようだが、ストーリーよりもその場その場の雰囲気作りで勝負する劇団なので、実際に観てみると個性溢れる構成に魅せられることになる。

巨大な直方体がステージ上に並ぶ。外面はシンプルだが、どうやら高層ビル群を表しているらしい。そして、そのミニチュア版が墓碑として現れる。墓碑は小さなビル群であり、高層ビル群は巨大な墓碑のようだ。

影絵の男が、建設現場で働いているのが見える(袖から舞台奥に向かって光りを送ることで作り出される演者の影絵は、この場面だけではなく、全編に渡り効果的に用いられている)。

レッサーパンダの帽子(衣装は全て白を基調としており、帽子も白いため、実際はレッサーパンダには見えないのだが)をかぶったランドセルの少年が通りかかった婦人を次々に包丁で刺していく。東京・上野で起こった通り魔殺人事件と、頻発する少年犯罪のメタファーだ。

巨大ビル群が築かれていく繁栄の影で、そうした奇妙な犯罪が起こる要素もまた築かれていたということなのだろうか。

世界貿易センターに突っ込んだ2機の飛行機のモデルを手にした少年、カラシニコフを手にした少年達、北朝鮮のミサイルを思わせる筒を持った少年など、テロリストを連想させる人々が登場するが、それらが単純で直線的なメッセージに回収されることはない。少女の「日常」には含まれていないが、世界にはそうしたものが存在するということだけを示しており、いたずらにメッセージ性や物語性を持たせないのが却って良い。

音楽は単純な動機の繰り返しだが、一時、ミニマルミュージックが隆盛を極めたように、反復される音楽は実に心地良く、それだけで十分ステージに引き込まれる。

魅力溢れるイリュージョンであり、演出も音楽も優れているが、「そろそろ終わりかな?」という場面になっても、また続きが始まってしまうということが度々あったためか、上演時間がやや長く感じた。

維新派は普段は野外に巨大な特設劇場を設けて公演を行っている。今日の劇も、もし野外で行われていたら祝祭性も加わって、より神秘的に見えたことだろう。ただそういった、悪く言えば「誤魔化し」がなくても、幻想的で特殊な舞台の味わいは十分に伝わってきた。

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2020年11月14日 (土)

観劇感想精選(366) 加藤健一事務所 「木の皿」2006京都

2006年7月9日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後4時から京都府立府民ホールALTI(アルティ)で、加藤健一事務所の「木の皿」を観る。エドマンド・モリス作(小田島恒志:訳)、久世龍之介:演出。

「木の皿」は、2003年に日本初演(やはり加藤健一事務所による。京都公演も行われたが、私は見に行けなかった)された作品。頑固な老人とその家族を巡る葛藤劇である。

1953年、アメリカ・テキサス州の田舎町。かつてはテキサス開拓に大いに貢献したロン(加藤健一)も今では78歳の老人だ。次男のグレン(鈴木一功)と共に暮らすロンだが、体力が衰え、視力も落ちたのに「眼鏡なんかかけられるか」という頑固者であるため、家の花瓶やら皿やらをしょっちゅう割っている。普通の皿はすぐに割ってしまうため、食事は木の皿で摂らされている。煙草好きであるが、意識も低下し始めているため、たびたびボヤ騒ぎも起こしている。
そんなロンの介護に疲れたクララ(グレンの妻。大西多摩恵が演じる)はロンを老人ホームへ入れる計画を立てていた。しかし、老人ホームを見に行ったグレンはその施設の余りの酷さを見て猛反対。グレンとクララの子で、おじいちゃんっ子であるスーザン(加藤忍)も当然反対だ。
グレンとクララから連絡を受けて、ロンの長男であるフロイド(大島宇三郎)が20年ぶりにロンの家に帰ってくる。しかし、フロイドが自分を老人ホームに入れるための相談にやって来たと知ったロンは激怒してしまい……。

初演時はグレンを演じた加藤健一であるが、今回は老人であるロン役に挑戦。達者な演技を見せてくれる。

観ていて、「幸福な家庭はみな一様に幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」(『アンナ・カレーニナ』冒頭)というトルストイの言葉が浮かぶ。またロンの友人であるサム・イェーガーが、ロンに「一緒に牧場経営をして暮らそう」と持ちかける下りが、スタインベックの『二十日鼠と人間』を連想させたり、設定もシェイクスピアの『リア王』やバルザックの『ゴリオ爺さん』を思わせたりと、様々な名作の要素がここかしこに見え隠れするが、パクリなどという低レベルな次元に留まらない独立した立派な作品に仕上がっている。

登場人物は全部で10人だが、彼らの全員の中に私は私の姿を見出した。言い換えると、私も彼らの性格を少しずつではあるが持ち合わせているということになる。

老いた義父を老人ホームへ送ろうとするクララも決して悪人ではない。彼女もロンの介護を20年以上も見続けて、自分の人生を犠牲にしてきたのだ。20年もロンの前に姿を見せなかったフロイドも父親が嫌いなわけではないし、逆にロンを老人ホームに送ることに反対するグレンも必ずしも善人ではない。ロンのことが大好きなスーザンも善人というより世間知らずという要素の方が強い。善でも悪でもないが故の葛藤が生まれている。だが完全な悪人が存在しないため事態は一層深刻だ。ゴネリルやリーガン(いずれも『リア王』の娘)のような突き抜けた人物がいれば話はもっと単純なのだが。

作中に「罠のようだ」というセリフがあるが、まさに誰かが仕掛けた、あるいは誰も仕掛けなかったが故により複雑で残酷になってしまった罠に全員が落ちていく。完全な悪人がいないので却って救いがない。

登場人物の言動を批判するのは簡単だが、彼ら全員の中に私は私自身が持っている性格を見出せるし理解も出来るので、そうした批判は私自身の胸に鋭利な刃となって返ってくる。
残酷な芝居である。だが、誤解を恐れずに言えば、そうした残酷さは私自身の中にもあり、それが故の切実さと感動を覚える。

特にラストのスーザンのセリフは痛切だ(ネタバレになるので書けないのが残念である)。こういうセリフを本当の意味での「リアルなセリフ」というのだろう。

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2020年11月12日 (木)

コンサートの記(667) 沼尻竜典指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2020「オーケストラを聴いてみよう!」第3回「オーケストラ・オリンピック!~主役はだぁれ?」

2020年11月8日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2020「オーケストラを聴いてみよう!」第3回「オーケストラ・オリンピック!~主役はだぁれ?」を聴く。指揮は京都市交響楽団にもたびたび客演している沼尻竜典。ナビゲーターを務めるのはガレッジセール。

オーケストラ・ディスカバリー2020の第3回目であるが、新型コロナの影響により第1回目は中止、第2回目も指揮台に立つ予定だったジョン・アクセルロッドが外国人入国規制により来日出来なくなったため広上淳一が代役を務めるなど波乱含みのスタートとなっている。第3回目は予定通り沼尻竜典の指揮で行われるが、曲目は変更になっている。

ほぼ完売状態だったシリーズチケット(4回通し券)を全て払い戻し、前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応1回券再発売となった今年のオーケストラ・ディスカバリー。ナビゲーターがポディウムに立って進行を行うため、ポディウム席と2階ステージサイド席の奥側は未発売、通常は自由席となる3階席も前後左右1席空けの指定席となっている。

 

今日は1階席17列の18番という、通常なら1階席の中でも最も良い音のする席の一つで聴いたのだが、聴衆が通常の半分以下、配置も不自然ということで残響過多であり、アンサンブルが粗く聞こえるという難点があった。やはり聴衆が隙なく席を埋めているというのは重要なようだ。

 

曲目は、ビゼーの歌劇「カルメン」前奏曲(「闘牛士」の前奏曲のみ)、ラヴェルの「ツィガーヌ」(ヴァイオリン独奏:豊嶋泰嗣)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」から第3楽章、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版。演奏前に沼尻竜典によるレクチャー付き)。

びわ湖ホールの芸術監督として関西でもお馴染みの沼尻竜典。指揮以外にピアニストとしてもCDデビューしたり、作曲したオペラ「竹取物語」が高い評価を受けるなど、多彩な活躍を見せている。2022年4月からは、川瀬賢太郎の後任として神奈川フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任する予定である。今日は眼鏡を掛けての登場。

今日のコンサートマスターは、京響特別名誉コンサートマスターである豊嶋泰嗣。第2ヴァイオリンの客演首席には大阪交響楽団コンサートマスターである林七奈(はやし・なな)が入る。泉原隆志は、豊島がヴァイオリンソロを務める「ツィガーヌ」だけコンサートマスターを務め、その他はフォアシュピーラーを受け持つ。フルート首席の上野博昭とファゴット首席の中野陽一朗は降り番。首席クラリネット奏者の小谷口直子、首席オーボエの髙山郁子、ホルン首席の垣本昌芳は全編に出演する。トランペット首席のハラルド・ナエスは「火の鳥」だけに出演。ドイツ式の現代配置による演奏である。

 

ビゼーの歌劇「カルメン」前奏曲は快速テンポでの演奏。通常の京都コンサートホールでならシャープな演奏に聞こえたと思われるが、前述した理由により残響過多であるため、ガサガサした響きとなってしまっていた。

 

ガレッジセールの二人が登場し、テーマが「オーケストラ・オリンピック~主役はだぁれ?」で、オリンピックのように誰が主役かを決めるものだと説明。そもそもオリンピックって主役を決めるものだっけ? という疑問は置くとして、コンサートには主役が一杯いて、ソリストだけでなく、オーケストラメンバーも、客席のみなさんも主役という説明を行う。

川田 「じゃあ、我々も主役ということで良いんですね?」
ゴリ 「あらら」

という話になるが、場面転換のためヴァイオリン奏者が退場したりするのを見てゴリが、「随分、抜けちゃってますけれど、骨粗鬆症のような」とボケる。
今日はハープがヴァイオリンソロのすぐ後ろに来て弾くのだが、ハープを一人で担いで運んでいたステージマネージャー(京響の場合は日高茂樹)の話になる。川田が「我々にもマネージャーがいますけれど、縁の下の力持ちのような」と述べ、沼尻が「45キロあるハープを一人で運ぶので力持ち。ただ、それだけじゃない。コントラバスの後ろの方から指揮者がちゃんと見えるか確認したり、音楽のセンスもいる。我々もステージマネージャーがいないと演奏出来ない」という意味のことを語っていた。

 

豊嶋泰嗣がソロを務めるラヴェルの「ツィガーヌ」。カルメンがジプシー、「ツィガーヌ」もジプシーの音楽ということで、ジプシー繋がりである。なお、現在ではジプシーという言葉は差別語の一つとなっているため、無料パンフレットにも「ロマ(ジプシー)」とロマを先に出し、ジプシーはその説明語となっている。

ゴリが、「あれれ変ですよ、豊嶋さんはコンサートマスターですよね。コンサートマスターがソリストになることってあるんですか?」と聞き、沼尻は、「そう珍しいことじゃない。でもコンサートマスターが全員ソリストが出来るわけじゃない。出来る人と出来ない人がいる」と返し、
ゴリ 「プレッシャー掛けますね」
川田 「豊嶋さん、段々苦笑いになってきましたよ」

というやり取りの後で演奏開始。コンサートマスターがソロをやると、本当に「コンサートマスターがソロをやってます」という音楽になってしまうことも多いのだが、豊嶋はソリストの経験も多いだけに、技巧やスケールのきっちりと計算された妙演を聴かせる。

 

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」から第3楽章。
豊嶋泰嗣がコンサートマスターの席に戻っているのを見てゴリが、「豊嶋さん、またコンサートマスターに戻りましたね」
沼尻 「普通はソリストをやるときは前半休みになったりするんですが、今日は全部出て貰ってます」
ゴリ 「ブラック企業へようこそ」

チャイコフスキーは21世紀に入ってから最も演奏解釈の変わった作曲家と見て間違いない。ソ連時代は情報統制によって西側には伝わらなかった様々な資料が、ロシアになってから次々と公になっていることも当然ながら影響している。
「悲愴」交響曲についても沼尻は、「以前は景気が良いので、全曲終わったと勘違いして、お客さんが拍手したり、『ブラボー!』と言ったりすることも多かったのですが」と語るが、沼尻本人は「狂気を感じる」「怖い」と思うそうである。「企画の方から、『格好いい曲をやって下さい』と言われたので選んだんですが、格好いいことは格好いいけどそれだけじゃない」

沼尻は、「悲愴」交響曲自体が、第1楽章も変だし、第2楽章は「4分の5拍子によるワルツでこれも変、狂気を感じる」、第3楽章を経て第4楽章も他に例のない音楽で死に絶えるように終わるという、異例ずくめの作品であることを語る。
今日は第3楽章のみの演奏ということで、演奏終了後に「拍手をしてもブラボーしても、ブラボーはまだ駄目なんですけど(コロナ対策として劇場内で大きな声を出すことは禁止である)良い」と語り、最後に「弦楽器と管楽器の追いかけっこ」を聴いて欲しいと述べた。
ガレッジセールの二人は退場しようとしたが、沼尻が「良かったら聴いてって」と言ったため、ポディウムに腰掛けて(今日は座椅子は取り払われている)聴くことになった。

「悲愴」の第3楽章は、弦楽器が先に出て、管楽器がそれを追うような形になっているところが多い。曲調は明らかに行進曲で、交響曲の中に行進曲が入るケースはベートーヴェンの「英雄」など、いくつかあるが、チャイコフスキーとしてはベルリオーズの幻想交響曲を意識しているのではないかと思える箇所がいくつかある。
堂々とした進行だが、所々でベートーヴェンの運命動機を思わせる「タタタターン」という音型が前を遮る。演奏会場では録音ほどはっきりと運命動機は聞こえないのだが、管楽器が弦楽器を追い抜いてハッキリと運命動機を奏でる場面があり、ゾッとさせられる。
フォルムで聴かせるタイプの沼尻竜典。整った外観を時折荒々しくすることでチャイコフスキーの狂気を炙り出している。

 

休憩を挟んで後半、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)の沼尻によるレクチャーと本番。

まずナビゲーターのガレッジセールがポディウムに登場し、ゴリが、「前半、色々と驚くことがあったと思いますけれど、何よりも驚いたのは、本番前に楽屋にご挨拶に伺ったところ、沼尻さんから『えーっと、どちらがゴリさんで、どちらが川田さんでしょう?』と聞かれたことです」
川田 「テレビとか見ないんですよ。ずっと音楽やってるから」
ゴリ 「我々も沼尻さんから、どちらがどちらかわかって貰えるよう、頑張りたいと思います」

沼尻がレクチャーで話す時間が長いというのでマスクをして登場し、まずガレッジセールの二人に、「先程は失礼しました」と詫びる。

沼尻によるレクチャーであるが、バレエ「火の鳥」の物語を京響に部分部分演奏して貰いながら解説するというスタイルである。冒頭を演奏した後で、大太鼓だけにトレモロを弾いて貰ったり、火の鳥の羽ばたきを表すところで振り向いて、右手をバタバタさせたりと、ユーモアにも満ちた分かりやすい解説が続く。ちなみにその直後のクラリネットのソロは火の鳥が「呼んだ?」と言って振り向くという解釈だそうである。
「13人の王女を描いた場面では」「13人の綺麗な王女、綺麗かどうかはわからないんですが」と言って笑いを取っていたが、京響に演奏して貰ってからは、「こういう音楽だからやはり綺麗なんでしょうね」と結論づけていた。
特別首席チェロ奏者の山本裕康の美しいチェロのソロがあると紹介したり(山本、かなり照れ気味)、ファゴットのソロがあるところでは、副首席奏者で今日はトップの位置にいる東口泰之にファゴットを掲げて貰ったりする。

バレエ組曲「火の鳥」全編の演奏。リューベック歌劇場音楽総監督を務め、オペラ、バレエといった舞台音楽の経験も豊富な沼尻。手慣れた演奏を聴かせる。パワー、輝き、瞬発力などいずれも狙った所に嵌まっていくような爽快さがある。

「全員が主役」ということではあるが、沼尻は、ソロを取った東口には演奏終了後に特別に立たせて拍手を受けさせ、山本の方にも手をかざした。

 

アンコール演奏は、ビゼーの「アルルの女」より“ファランドール”。堂々として推進力に富み、スケール豊かにして熱狂的な演奏。南仏を舞台にした作品ということで特別に用いられているプロヴァンス太鼓を演奏した福山直子が喝采を浴びていた。

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2020年11月11日 (水)

観劇感想精選(365) 桃園会 「もういいよ」

2006年6月30日 大阪・なんばの精華小劇場にて観劇

大阪の精華小劇場で、桃園会の「もういいよ」を観る。作・演出:深津篤史(ふかつ・しげふみ)。
携帯電話の電源を切るアナウンスは出演者が務めたのだが、その口調から、劇がすでに始まっていることがわかる。

親子が話している。やがてそこが火葬場の一室であることがわかる。関連性があるのかどうかよくわからないナレーションや主人公の内面の言葉がPAで流され、そうしているうちに、先程、携帯電話関連のアナウンスをした女優が再び現れて、アナウンスを繰り返そうとするのだが、そこで映像と音が流れ、場面が一変する。まるで天野天街の演劇を思わせる展開だ。実は天野天街は現在来阪しており、明日は終演後に精華小劇場で深津篤史と対談する。ということで、天野天街を意識した演劇であり、演出であることは確かだろう。

最初のうちは、天野天街的なスタイルが桃園会の演劇には巧く馴染んでいないように思え、「これでは天野天街の真似で終わってしまう」と感じたが、中盤から演出は皮相な模倣スタイルを離れ、独自のメタ演劇へと昇華されていく。

現在、過去、空想、想像、夢、実在しないテレビドラマや映画の世界、現在の主人公、ちょっと前の主人公、子供時代の主人公、主人公の元カノ、主人公が作っている映画で主人公の母親を演じる女優らが入り乱れ、また主人公の母親と妹が一瞬で入れ替わったり、小説の技法である「意識の流れ」を感じるような展開を見せ、「シャッフル」がある。混沌とした演劇であり、場面場面は決してわかりやすくはないのだが、全体を通したとき、単純な構造の芝居では見えなかったはずのものが見えてくる。ハッとさせられる瞬間もいくつかあった。

実験的な要素もあるが、それだけに留まらない「知的な面白さ」がある。「知的な面白さ」と「演劇的面白さ」は必ずしも一致しないのだが、私は両方を感じることが出来た。メタ演劇としても優れた作品になっていたと思う。

ラストにもそっと胸に染み込むような、押しつけがましさのない感動がある。タイトルの「もういいよ」が切なくも優しい言葉であることがここに来てわかる。

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これまでに観た映画より(226) 「マグノリア」

DVDでアメリカ映画「マグノリア」を観る。ポール・トーマス・アンダーソン監督作品。出演は、トム・クルーズ、ジュリアン・ムーアほか。

3時間を超える大作であるが、ストーリー展開が映画の尺に合っているためか、「長い」という印象は全く受けなかった。

迷宮のような展開を見せる映画だが、観る者を惹きつける力は並大抵のものではない。カメラアングルが独特だったり、場面が何の予告もなく飛んだりと、一見難解そうなのだが、メッセージはシンプルだ。しかし、一度難しい手続きを踏んでいるからシンプルになるのであり、頭を空っぽにしていたのでは伝わるべきものも伝わってこない映画である。そういう意味で観客は試されているともいえる。

しかし、こういう映画を撮ろうと考えて、実際に撮ってしまうとは。アメリカ映画界の層の厚さと底力を改めて思い知らされる。

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2020年11月 9日 (月)

コンサートの記(666) 外山雄三指揮 京響バースデーコンサート@先斗町歌舞練場

2006年6月18日 先斗町歌舞練場にて

午後2時から先斗町歌舞練場で、京響バースデーコンサートを聴く。丁度50年前の1956年6月18日、ここ先斗町歌舞練場で、結成されたばかりの京都市交響楽団のお披露目演奏会があった。指揮は京都市立音楽短期大学(現・京都市立芸術大学音楽学部)の講師であり、京響の初代常任指揮者となったカール・チュリウス。ポピュラーな小品を中心としたプログラムでデビューを飾った。

今日は、そのお披露目演奏会で演奏された曲目を前半に、後半にベートーヴェンの交響曲第5番を置くというプログラム。指揮は京響第4代常任指揮者であった外山雄三。京響の現役メンバーと京響OB(京響学友会)による合同演奏。

先斗町歌舞練場ロビーには京響のお披露目演奏会のプログラムの拡大版や、第2回定期演奏会のポスターなどが展示されている。第2回定期演奏会のチケット料金はなんと50円である。京都会館第1ホールで行われた第100回定期演奏会(1967年)のポスターも飾られているが、その時もS席700円。今の十分の一だ。


予定されていた曲目よりも前に、まず、先日亡くなった岩城宏之と佐藤功太郎の二人の指揮者にJ・S・バッハの管弦楽組曲第3番より「エア」(G線上のアリア)の演奏が捧げられる。京響のバースデーコンサートに来る人はコンサートに通い慣れている人ばかりだろうから、もちろんマナー違反の拍手は起こらなかった。

ヴェルディの歌劇「ナブッコ」序曲、シベリウスの交響詩「フィンランディア」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」より第5番と第7番、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「春の声」が演奏される。

先斗町歌舞練場は当然ながら音楽用には出来ていないので、残響は全くなく、聴きづらいが、イベント主旨からいってこれは仕方ない。演奏は堅実。面白味には欠けるがよしとする。

外山雄三のベートーヴェン交響曲第5番は、NHK交響楽団を指揮したものをBSで聴いているが、覇気のない演奏にがっかりした憶えがある。それゆえ心配したのだが、今日の演奏は流線型のフォルムを持った堅実なもので安心して聴くことが出来た。京響と京響OBによるオーケストラは、チェロがたまに引きずるような歌い方をするのが気になったが、大きなミスもなく、50年目の晴れ舞台に相応しい演奏となった。


アンコールはモーツァルトの歌劇「イドメネオ」よりメヌエット。第6代京響常任指揮者であった山田一雄がアンコールピースとして好んで演奏した曲だという。

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2020年11月 8日 (日)

これまでに観た映画より(225) メル・ギブソン&ショーン・ペン 「博士と狂人」

2020年11月5日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド合作映画「博士と狂人」を観る。久しぶりとなるスクリーン1(京都シネマは、スクリーン1、スクリーン2、スクリーン3という3つの上映空間からなっており、番号が若いほど大きい)での鑑賞となる。

言語を網羅化したものとしては世界最高峰の辞典『オックスフォード英語大辞典』編纂に纏わる実話を基にした物語の映画化。原作:サイモン・ウィンチェスター。脚本・監督:P.B.シェムラン。出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマン、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガンほか。2018年の制作である。

英語に関する単語や表現、由来や歴史などを集成した『オックスフォード英語大辞典』。19世紀に編纂が始まり、完成までに70年を要した大著であるが、その編纂初期に取材したサイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを映画化したのが、この「博士と狂人」である。サイモン・ウィンチェスターの著書は1998年に発売されたが、映画化の権利獲得に真っ先に名乗りを挙げたのがメル・ギブソンであり、当初はメル・ギブソン自身が監督する案もあったそうだが、最終的にはメル・ギブソンは主演俳優に専念することになった。構想から完成まで20年を費やした力作である。

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教師として働くジェームズ・マレー(メル・ギブゾン)は、スコットランドの仕立屋の子として生まれたが、生家が貧しかったため、14歳で学業を終えて働き始めた(先日亡くなったショーン・コネリーに生い立ちが似ている)。その後、独学で語学を学び、ヨーロッパ圏の言語ほとんどに通じる言語学の第一人者と認められるまでになるが、大学を出ていないため当然学士号は持っておらず、話し方もスコットランド訛りが強いということで白眼視する関係者もいる。『オックスフォード英語大辞典』はその名の通り、オックスフォード大学街で編纂が行われるが、マレーの案で、イギリスとアメリカ、そして当時のイギリスの植民地などに在住する英語話者からボランティアを募り、単語や言い回し、その歴史や出典などを手紙で送って貰って、それらをマレー達が中心になって取捨選択し編纂するという形を取る。その中に、一際英語に詳しい人物がいた。アメリカ出身の元軍医で、今はイギリスのバークシャー州に住むウィリアム・G・マイナー博士(ショーン・ペン)である。マレーはその住所からマイナーのことを精神病院の院長だと思い込むのだが、実際はマイナーは殺人事件を起こし、幻覚症状が酷いことから死刑を免れて刑事精神病院に措置入院させられている人物であった。マイナーは、南北戦争に軍医として従軍。敵兵の拷問に関与したのだが、その時の記憶がトラウマとなり、今では拷問を受けた人物が殺意を持って自分を追いかけてくると思い込む強迫神経症に陥っていた。敵が自分を監視していると思い込んだマイナーは、その場を通りかかったジョージ・メレットを誤認識し、射殺してしまっていたのだ。精神病院でもマイナーは幻覚に苛まれる(後に統合失調症との診断が下る)。

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マイナーが実は精神病患者で殺人犯だと気付いたマレーだが、学識豊かなマイナーと英語に関する知識を交換し、すぐに友情で結ばれるようになる。二人のやり取りは、これまで互いに理想としてきた人物との邂逅の喜びに溢れていた。
『オックスフォード大辞典』の第1巻が完成し、その功績によりマレーは言語学の博士号を送られ、正式な博士となる。
だが、アメリカ人の殺人犯が権威ある英語辞典の編纂に関与していることが知られてスキャンダルとなり、マイナーの病状も徐々に悪化して、異様な行動も目立つようになる。

『オックスフォード英語大辞典』編纂の物語ということで、派手な展開ではないが、しっかりとした構造を持つヒューマンドラマに仕上がっている。マレーとマイナーの友情の物語、またメレット夫人(イライザ・メレット。演じるのはナタリー・ドーマン)とマイナーとの男女の物語が平行して進むのだが、文盲であったメレット夫人がマイナーの指導によって読み書きの能力を身につけていく過程は、メレット夫人の成長とマイナーとの歩み寄りの物語でもある。「許すとは何か」がここで問い掛けられている。メレット夫人を単なる悲劇のヒロインや復讐に燃える女性としないところも良い(マイナーとメレット夫人のシーンはフィクションの部分が多いようだが)。

単にヒューマンドラマとして観てもいいのだが、マレーがスコットランド出身であることや学歴がないことで見下されたり、追い落とされそうになるところ、またマイナーがアメリカ人で(今でこそイギリスとアメリカではアメリカの方が優位だが、19世紀当時のアメリカは「ヨーロッパの落ちこぼれが作った未開の国」でイギリスへの裏切り者というイメージだった)しかも精神病に冒されているということで異端視されるなど、差別と偏見がしっかりと描かれている。こうした傾向は、19世紀よりはましになったが、今に到るまで続く問題であり、単なる「知られざる偉人の物語」としていないところに奥行きが感じられる。

ちなみに、若き日のウィンストン・チャーチルが登場する場面がある。世界史好きの方はご存じだと思われるが、チャーチルも生涯に渡って精神病に悩まされた人物であった。実際に映画で描かれているようなことがあったのかどうかは分からないが、ある意味、象徴的な役割を果たしている。

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2020年11月 7日 (土)

観劇感想精選(364) 「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」

2020年11月3日 烏丸迎賓館通りの金剛能楽堂にて観劇

午後2時から、京都御苑の西、京都府立府民ホールアルティのすぐ北にある金剛能楽堂で、「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」を観る。野村萬斎が主催する狂言公演「ござる乃座」の京都公演。今回で15回目となった。
ちなみに野村萬斎は、現在、Eテレの「100分間de名著『伊勢物語』」に朗読担当として出演しており、昨夜第1回が放送されている。

演目は、「清水座頭(きよみずざとう)」と「止動方角(しどうほうがく)」。共に京都を舞台とした作品である。

「清水座頭」の出演は、野村万作(座頭)と野村萬斎(瞽女)。
まず「この辺りに住まい致す瞽女」が登場する。3年ほど前から目が見えなくなり、生業を失い、夫もいないということで行く末を憂いて清水寺の観世音菩薩に参詣し、その夜は本堂に籠もることにする。
しばらくすると座頭がやって来る。座頭も清水寺の観世音菩薩に妻となるべき人に出会えないことを嘆き、妻ごいをする。
瞽女がいるとは知らず、本堂に籠もろうとした座頭は無遠慮に近づいたということで瞽女と喧嘩になるが、互いが本当に目が見えないと分かると謡を交わす。
やがて瞽女は、観世音菩薩から「西門のところで夫となる者と出会う」との託宣を授かり、座頭も「西門のところに妻となる女がいる」とのお告げを受ける……。

婚活の曲ともいわれ、ロマンティックな展開となるが、自ずから杖をついているのではなく、神仏によって杖で導かれているという浄土真宗的な解釈をするとロマンの度合いは更に増す。

謡であるが、恋路を扱った作品にしてはかなりナンセンスな言葉が選ばれており、源平合戦の一ノ谷の戦いで、で頤(おとがい。顎のこと)を切られた武者と踵(きびす)を切られた武者が、忙しいので慌てて切られた頤に切り落とされた踵を付け、傷を負った踵に切断された頤を付けると、踵から髭が生え、頤があかぎれになるという変なものである。よく分からないが、これは「割れ鍋に綴じ蓋」ということなのだろうか? 解釈せずに戯れ言として捉えた方が謡が生きるのかも知れないが。

瞽女の謡う「地主の桜」は、清水寺境内にある地主神社の桜のことであるが、この時代から地主神社が縁結びの神様として名高かったことが窺える。

 

「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村太一郎(主)、深田博治(伯父)、飯田豪(馬)。

主が、東山での茶会(内容は茶葉の生産地を当てたり、品質を見抜いたりする闘茶)に参加することになるのだが、見栄を張るため、茶器や太刀や馬を伯父に借りてこいと太郎冠者に無理を言う。野村萬斎演じる太郎冠者は、「え゛?」と現代風にボケたりして、狂言を客体化し、主の無理難題っぷりを誇張する。こうした一種のパースペクティブは効果的であり、これが伏線となってラストでは、セリフが変わっておらず、演技や表情にも作為的なものは見えないのにニュアンスが変化しているような印象を受ける。
太郎冠者が活躍する「太郎冠者物」の傑作であるが、野村萬斎演じる太郎冠者の人間くささが実に良い。主という絶対的権力に媚びずに挑みかかる存在であり、私は余り見ていないが「半沢直樹」に繋がるような一種の爽快さを生み出しているように思われる。

ちなみにタイトルの「止動方角」というのは、後ろで咳をすると暴れ出すという馬を止めるときの呪文である。

 

演目終了後に野村萬斎からの挨拶がある。羽織袴姿で登場した萬斎は観劇が「勇気と覚悟が必要」なものになってしまったことを語ったが、一席空け(萬斎は「市松」と表現)にするなど感染症対策を十分に行った上での上演であること、15回目ということで盛大にやりたかったが、演目も登場人物の少ないものを選んで、接触をなるべく減らしていることなどを語った。
「清水座頭」については、「座頭が卒寿、瞽女が五十代半ばということで年の行ったカップル」と表現して笑いを取る。
「止動方角」で見られるように、狂言は身分の高い人が酷い目に遭うことが多いのだが、能・狂言は、室町幕府、豊臣政権、江戸幕府、朝廷が公認し、後ろ盾となってきた芸能であり、「一種のガス抜き効果」があったと萬斎は解釈を述べる。
ちなみに、今回の上演は有料配信用の収録が行われ、特別解説付きで11月13日から期間限定で配信されるが、午前中に解説用の映像を撮るために清水寺に行ってきたそうで、西門から見る京都市街とその向こうの西山に落ちる夕日に極楽浄土が見立てられているという話をしたが、それも有料配信用の宣伝であり、続きは配信でということのようである。

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2020年11月 6日 (金)

スタジアムにて(30) J2 京都サンガF.C.対モンテディオ山形@サンガスタジアム by KYOCERA 2020.11.1

2020年11月1日 JR亀岡駅前のサンガスタジアム by KYOCERAにて

亀岡へ。サンガスタジアム by KYOCERAで、J2 京都サンガF.C.対モンテディオ山形の試合を観戦する。午後2時3分キックオフ。

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秋に入ってからサンガスタジアムでもデーゲームが行われるようになっているが、個人的には2月のオープニングマッチ以来久々、シーズンマッチとしては初となるサンガスタジアムでのデーゲームである。

今日はバックスタンド3階席の前から2列目。ファーサイドまでも視界良好という席である。試合開始からしばらくは太陽が真っ正面から差し込んでまぶしかったが、やがて雲が太陽を背後に隠す。

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日曜日ということで、試合前にはTKO木本が司会を担当してトークイベントが行われる。今日は今は京都のローカルタレントとして活躍している森脇健二がスタンドに来ているとのことだったが、カメラは森脇の姿を捉えることが出来ず。TKO木本は、「森脇さん、走り始めちゃったんじゃないでしょうかね」とボケていた。

また三人いる京都府副知事の一人である古川博規によるキックインが行われた。

ここまで、11勝8分け10敗と波に乗れないサンガ。相手がピッチの状態をつかめない新スタジアムを本拠地としているアドバンテージはあり、私がこれまでサンガスタジアムで観てきたシーズンマッチ5試合は全て勝利しているが、アウェイに弱く、前節はこれまで一度も勝利を許したことがなかったという相性の良いFC琉球に1-2で初敗戦を喫するなど、内弁慶状態が続いている。

今シーズン、モンテディオ山形相手には、NDソフトスタジアム山形で行われたアウェイの試合で4-3と勝利しており、ホームでも勝利したいところである。

入場者数は4744人で、前回のギラヴァンツ北九州戦の倍以上となった。少ないながら山形からもモンテディオサポーターが駆けつけ、整った手拍子を聞かせた。

サンガのフォーメーションは、3-4-2-1であるが、今日はウタカがワントップというより、仙頭、曽根田も上がり気味で、3トップに近い形態に見える。対するモンテディオ山形は、ディフェンダー4人、ミッドフィルダー4人というオーソドックスな体制だが、これまでサンガスタジアムで観てきた他のチームとは異なり、中盤が守備的ではなく、攻撃の方により積極的である。攻守のバランスの取れた良いチームという印象を受ける。

両チームとも前半からゴール前でのチャンスが多く、スリリングな展開となる。

29分、仙頭のクロスを曽根田がシュート。一度はキーパーに弾かれるも更に詰めて押し込み、サンガが先制点を挙げる。サンガの選手達はメインスタンドの前で目に見えない綱に引っ張られて倒れるというパフォーマンスを行う。

その後、ピーター・ウタカの放ったシュートが、ゴールラインを割るかに見えたが、山形のキーパー、佐藤昭大にすんでの所で弾き出され、ゴールならず。

前半は、1-0とサンガがリードしたまま終わる。

後半に入ると、サンガはディフェンスを3人から5人に増やし、守備を固めるが、一方でウタカをワントップとして固定し、追加点も狙う。

後半、8分、本多がオーバーラップして左サイドでパスを受け、グラウンダーでのクロスを行う。これにウタカが反応し、ゴール左隅にシュートを突き刺す。サンガ2点目。

山形も反撃し、何度か危険な場面を迎えるが、これを耐え抜くと、後半40分、福岡による右サイドからのクロスからゴール前で混戦。金久保が何度かシュートを放とうとしたが果たせず、いったんバックパス。これを庄司がミドルレンジから打ち込み、ゴール左サイドのネットを揺らす。

京都は、ウタカ、仙頭を下げ、宮吉、野田を投入。その野田隆之介がアディショナルタイムに中盤で絶好のパスを受けるが、山形のこちらも野田姓である野田裕喜にあからさまなファウルを受け、山形の野田にイエローカードが出る。

サンガもそれ以降は無理な攻撃には出ず、タイムアップの笛を待つ。

3点の差は大きく、そのまま3-0で京都サンガF.C.がモンテディオ山形に勝利。完勝であった。

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2020年11月 3日 (火)

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

2020年10月30日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。「リトル・ダンサー」という邦題で公開されたイギリス映画をエルトン・ジョンの音楽でミュージカル化した作品で、日本では2017年に初演され、今回は再演となり、今日が大阪公演初日である。

「リトル・ダンサー(原題「Billy Eliot」)」は、2000年に公開された、スティーヴン・ダルドリー監督の映画で、私もDVDで観ているが、かなりの好編に仕上がっていた。
スティーヴン・ダルドリー監督は元々は舞台演出家として活躍していた人であり、ミュージカル版でも演出を担当。イギリスを代表するミュージシャンのエルトン・ジョンの作曲ということもあって、高い評価を受けているが、こうして実際に観てみると、映画とは別物として評価すべきであるように感じる。感銘の度合いは映画の方が上である。舞台演出家であったスティーヴン・ダルドリーがまずは「映画として撮るべき」と判断したのであるから、それは間違いないだろう。舞台にしてしまうとどうしても背景が分かりにくくなってしまう。ミュージカル版は妙技を堪能する作品だ。

主演のビリー・エリオット少年役はクワトロキャスト(4人)であり、今日は川口調がタイトルロールを務める。他の役もダブルキャストで、今回はお父さん(ジャッキー・エリオット)役が益岡徹、ウィルキンソン先生役が柚希礼音、おばあちゃん役が根岸季衣、トニー(兄)役が中河内雅貴、ジョージ役が星智也、オールド・ビリー(成人後のビリー)役が大貫勇輔となっている。

梅田芸術劇場メインホールの新型コロナ対策であるが、運営元である阪急グループ独自の追跡サービスが導入されているのが特徴である。おそらく宝塚歌劇などでも用いられていると思われる。

 

英国病といわれた時代の北部イングランドの炭鉱の町・エヴァリントンが舞台ということで、英語の訛りが日本版では筑豊炭田や三池炭坑で知られる福岡県の言葉に置き換えられている。

下手からビリー・エリオット役の川口調が登場し、しゃがむと同時に紗幕に映像が映し出される。第二次大戦で英国がナチス・ドイツに勝利し、炭鉱も国営化されるということで更なる発展が英国にもたらされるはず……、というところで事態が暗転する。紗幕に映し出されたのはマーガレット・サッチャーだ。長期政権(1979-1990)を敷き、今でも20世紀後半の英国の首相というと真っ先に顔や名前が思い浮かぶマーガレット・サッチャー。高福祉社会の副産物ともいえる英国病克服のため新自由主義の先駆ともいえる政策を次々に打ち出し、労働者階級から目の敵にされた政治家である。サッチャーによって炭鉱は民営化され、ただでさえ斜陽の産業であったため多くの炭坑夫が苦境に立たされることになるのだが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」はそんな時代(1984年)の話である。

サッチャーの政策に反対し、エヴァリントンの炭坑夫達がストライキに入る。リーダー的存在のジャッキー・エリオットの息子で、11歳のビリー・エリオット(劇中で1つ年を取る)は、ボクシングを習っていたのだが、ボクシング教室が終わった後、同じ場所で開かれることになったバレエ教室を目にする。早くに母親を亡くしたビリー。ジャッキーも「ビリーに強くなって欲しい」との思いからボクシングを習わせたのだが、何しろ保守的な田舎町、男は男らしくあるべしという思想が根強く、「バレエなどをやる男はオカマだ」という偏見に満ちており、ビリーも知らず知らずのうちにそうした考えに染まっている。ウィルキンソン先生からバレエに興味があるかどうか聞かれたビリーも最初は否定したが、その後、父親には内緒でレッスンを受け、バレエに惹かれていく。
ウィルキンソン先生から才能を見込まれたビリーは、「ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受験してみないか」と誘われる。だが当然ながら父親は反対。一度はバレエダンサーへの夢は絶たれたかに見えたのだが……。

伏線としてビリーの友人であるマイケルが実はトランスジェンダー(でいいのかどうかは正確にはわからない。LGBTのうちのGBTのどれかである)であるという設定がある。作曲を担当したエルトン・ジョンも男性と結婚したことで知られているため、そうした問題にも軽くではあるが触れられている。ただ、それは主題ではなく、重要なのは「らしさとは何か」ということであると思われる。

ダンスだけでなく、セリフやアクロバットをこなす子役の実力にまず感心する。日本初演時には千人を超える応募があり、その中から勝ち抜いた子ども達がビリー役を得ているが、今回も高倍率のオーディションを潜り抜けた子達であり、身体能力も表現力も並みの子役ではない。

チャイコフスキーの「白鳥の湖」より“情景”(「白鳥の湖」と聴いて誰もが真っ先に思い浮かべる音楽)をオールド・ビリー役の大貫勇輔を二人で踊る(デュエット)シーンがダンスとしては最大の見せ場であるが、ワイヤーアクションも鮮やかにこなしていた。

イギリスは階級社会であるが、そのことが最もはっきりと現れているのが、ロイヤル・バレエ・スクール受験のシーンである。エリオット親子以外はみな上流階級に属しており、日本版ではそれを表すために「ざます」言葉が用いられている。上流階級と労働者階級では当然ながら考え方が根本から異なるわけで、それが揉め事に繋がったりもする。
現代の日本は階級社会でこそないが、「上級国民」という言葉が話題になったり、格差や学歴の固定化などが問題視されるようになっており、イギリスのような社会へといつ変貌するかわからないという状況である。そもそも日本とイギリスは島国の先進国としてよく比較される存在である(イギリスも日本も先進国なのか今では怪しいが)。
「総中流」といわれた日本であるが、今では非正規社員が約4割を占め、ついこの間までの常識が通用しないようになっている。それを考えれば、このミュージカルを単なるサクセスストーリーと見るわけにはいかないだろう。そこには明確にして冷徹な視座も含まれている。

同じくイギリスの炭鉱町を描いた映画に「ブラス!」という作品(1996年制作)があり、これはバレエではなく音楽を題材にしているが、主題は同じである。ロードショー時に有楽町の映画館(今はなき銀座シネ・ラ・セット)で観て感銘を受けたが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を気に入った人はこの映画も観て欲しい。

毀誉褒貶激しかったサッチャーの政策だが、その後のイギリスが辿った道を冷静に見つめてみると、少なくとも「正しかった」とは言えないように思う。サッチャーが残した爪痕は今もイギリスだけでなく、世界各国で見ることが出来る。無論、日本も例外ではない。

なんだが、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」も観てみたくなった。

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配信公演 「栗コーダーカルテット25周年記念コンサート in LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂) 無観客ライブ」

2020年10月29日 LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)で収録した演奏の配信(生配信。期間限定アーカイブ配信あり)

木曜日に有料配信された栗コーダーカルテットの25周年記念無観客ライブをアーカイブで視聴。LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)で収録されたものである。

「題名のない音楽会」の収録会場としても知られた渋谷公会堂。改装後はネーミングライツによりC.C.Lemonホールになったりもしていたが、東京を代表するコンサートホールの一つであった。私も2002年に鬼束ちひろのコンサートをここで聴いている。その後、老朽化のため建て替え工事に入り、2019年10月に新しい渋谷公会堂が竣工。LINEがネーミングライツを獲得している。

「マヨネーズ」第2番などのオリジナル曲からバロック音楽まで幅広い音楽を奏でる栗コーダーカルテット。今回はゲストとして湯川潮音、ビューティフルハミングバードらを招いてオリジナル曲に加えて童謡が歌われるなど、バラエティーに富んだ音楽が奏でられていく。
リコーダーということで素朴な音楽ではあるのだが、コミカルな感じから一種の崇高さに到るまでとりどりの音色が奏でられる。

湯川潮音とミュージカルハミングバードの小池光子は、共に幼少期から児童合唱団に入って歌唱を行っていたのだが(所属していた合唱団は異なる)、そのためなのかどうか、発声法が似ているのが新しい発見であった。

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2020年11月 2日 (月)

はいだしょうこ 一人二役宝塚歌劇風「木綿のハンカチーフ」

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2020年11月 1日 (日)

これまでに観た映画より(224) 「陽の当たる場所から」

2006年6月7日

DVDでアイスランド映画「陽の当たる場所から」を観る。ソルヴェイグ・アンスパック監督(男性です)作品。ソルヴェイグ・アンスパックはパリ大学文学部(ソルボンヌ大学)で哲学を学び、その後、フランス国立高等映像音響学校に第一期生として入ったという経歴の持ち主。
主演はエロディ・ブシェーズで、彼女もパリ大学の出身である。

フランスのとある精神病院。素性の全くわからない、自分の名前も憶えていないし、口もきけないという謎の中年女性(ディッダ・ヨンスドッティル)が入院している(2006年当時に話題になっていた「ピアノマン」みたいである)。彼女を担当するのは医学部を出たばかりの若い女医、コーラ(エロディ・ブシェーズ)。

ある日、謎の女性患者と森に散歩に出かけたコーラは、口のきけない女性が道に迷ったと思い込んで「コーラ!」と泣き叫ぶのを目にする。謎の女性の病状が回復しつつあると思うコーラ。しかし、ほどなく謎の女性の正体がわかる。アイスランドの孤島出身の女性で、これまでも何度か失踪事件を起こしているという。そして謎の女性ことロアは、コーラの知らない間にアイスランドに強制送還になっていた。彼女の病気を治したいと思うコーラはアイスランドへと渡る……。

製作に「息子のまなざい」のダンデルヌ兄弟が名を連ねており、音楽や音の使い方はキェシロフスキ監督のそれを思わせるという、ヨーロッパ芸術映画の王道を行く作品である。

ロアを演じるディッダ・ヨンスドッティル(1964年生まれ)は本業は詩人で、演技をするのはこれが初めてだそうだ。

子供の頃からロアを知っているアイスランドの人々の証言から、ロアの病気はどうやらアスペルガー症候群(現在の区分ではASDとなっている)らしいことがわかる。アスペルガー症候群は完治することはない病気である。しかしコーラはロアの病気を治したいという一心で、何とロアをフランスに連れて戻ろうとする。しかしそれは成功せず、ロアと気持ちが通じ合ったのかどうか微妙ながら、おそらく通じたであろうという思いを胸にフランスに帰国する。

「陽の当たる場所から」という牧歌的なタイトルがついているが、原題は「Stormy Weather(暴風雨)」であり、ロアの内面や、最初はクールに見えたコーラの激しい胸の内を表したものである。これがなぜ「陽の当たる場所から」などという呑気なタイトルになってしまったのかは不明。

ロアのことを気遣うコーラの気持ちは痛いほどわかるが、同時に医学を信じすぎ、自分が救世主になりうる、もしくは自分しか救世主になり得ないという思い込みと、ある種の傲慢さが出ている。アイスランドに来るべきではなかったと知り、フランスに帰るコーラの姿が敗残者のように映るのはそのためであろう。

優しさと残酷さ、温かなヒューマニズムと冷徹な現実、両方を描いた作品であり、傑作とは呼べないかも知れないが、観て色々と考えさせられる映画であった。

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