« 2020年11月 | トップページ | 2021年1月 »

2020年12月の27件の記事

2020年12月31日 (木)

コンサートの記(677) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか 「第9シンフォニーの夕べ」2020

2020年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の「第9シンフォニーの夕べ」に接する。

本来は今年の大阪フィルの第九は、ラルフ・ワイケルトが指揮する予定だったが、新型コロナウイルスの流行による外国人入国規制により来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代わって指揮台に立つことになった。
ワイケルトが京都市交響楽団の定期演奏会に客演した時に、大阪フィルの事務局次長(事務方トップ)の福山修氏がいらしていて、私も挨拶したのだが、その後に大阪フィルの定期演奏会のプレトーク(フェスティバルホールのホワイエで福山さんが行っている)で、やはり京響の定期で福山さんを見かけた方から、「なんで京響の定期にいらしてたんですか?」と質問があり、福山さんは「実はワイケルトさんを大フィルにお呼びしたいと思っておりまして」と明かしていた。それが今回の第九への客演依頼だったのだが、残念ながら今回は流れてしまった。

コロナ禍にあって、第九の演奏会が中止になるところも少なくなかったが、大フィルはなんとか6月以降は定期演奏会も含めて本拠地のフェスティバルホールでの演奏会はほぼ行うことが出来た。ただ、それ以外のコンサートは中止になったものも多く、クラウドファンディングが始まっている。年末の第九も本来は2回公演になるはずだったが、今日1回きりに減っている。

 

今日のコンサートマスターは、須山暢大。第1ヴァイオリン16という大編成での演奏である。ドイツ式の現代配置をベースにしているが、コロナ対策のため、通常とは布陣が異なる。
オーケストラと背後の合唱のためのひな壇の間には、平台と同じ大きさと思われる透明のボードが横に18枚、ずらりと並んでいる。ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄り、第3楽章以降にステージに登場する打楽器奏者がその更に下手に並ぶ。下手にいることが多いホルンは上手側奥、チェロの背後に配置される。ステージ下手端に平台が斜めに並べられており、そこが独唱者が歌うスペースになる。独唱者は、髙橋絵理(ソプラノ)、富岡明子(アルト)、福井敬(テノール)、青山貴(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
ソリストと合唱、シンバルやトライアングルなどの打楽器奏者は第2楽章が終わってからの登場。合唱団員は各々前後左右にスペースを取り、口の前に布を垂らしている。おそらくあれが東京混声合唱団が開発した「歌えるマスク」なのだろう。

2700席のフェスティバルホールに、今日は約2300人が来場の予定だそうで、コロナ下にあってはまずまずの入りである。1階席の前の方の席は飛沫を考慮して発売されていない。

 

中庸かやや速めのテンポでスタート。弦楽器はかなりビブラートを抑えての演奏であり、冒頭などは音型がクッキリしているため、第2ヴァイオリンの音などはかなり不吉に響く。ティンパニはバロックタイプのものではないが、時折、硬い音を出し、ピリオドの響きを意識しているようである。
尾高さんもこのところはフォルム重視というより内容を抉り出すような音楽を好むようになってきているように思われるが、今回も音を磨くよりもベートーヴェンの先鋭性を的確に浮かび上がらせるような演奏を行う。以前だったら第3楽章などはテンポを落としてじっくり歌ったと思うが、今日はスッキリした運びで、音の動きの特異性などを明らかにしていたように思う。同じくNHK交響楽団正指揮者で、同じように関西にポジションを持つ外山雄三も最近はそうしたスタイルに変えているようで、ベテランであっても最新の研究成果を取り入れることに熱心であるようだ。スッキリしているといっても旋律美自体は大事にしており、ベートーヴェンを一面だけから語るということは避けている。

第4楽章も巧みな音運びで、独唱者も充実。尾高さんには珍しくアゴーギクなども行う。ソーシャルディスタンス配置による合唱であるが、例年よりは歌声に隙間が生じた感じになってしまうのは致し方ないところである。周りの声が聞こえにくい配置とマスクというハンデを考えればかなり充実した歌唱であり、世界で唯一、年末が第九一色に染まる国、日本の合唱団のレベルの高さを示していた。

今年は世界史上に永久に残るほどの「大変な年」であり、来年が今年よりも良くなるという保障もどこにもない。人類は大きな危機に直面しているといえる。ただそんな年であっても日本では第九が演奏され、「歓喜の歌」が歌われる。
人類は未だ楽園には到達していないが、そこに到る歩みを止めてはいない。ベートーヴェンとシラーの吶喊を受けて、来年と、楽園へ辿り着くいつかに思いをはせながら、「歓喜の歌」に身を浸した。ラストの未来へと続く行進に私も加わっている思いだった。

 

今年も第九の後に、福島章恭(ふくしま・あきやす)指揮大阪フィルハーモニー合唱団によるキャンドルサービスの「蛍の光」が歌われ、「大変な年」にひとまずの句点が打たれたことを感じる。生きているだけで幸運という年になったが、2021年が今年よりは良い年になることを願わずにはいられない。


Dsc_0606

| | | コメント (0)

2020年12月30日 (水)

コンサートの記(676) 広上淳一指揮京都市交響楽団 特別演奏会「情熱のチャイコフスキー・ガラ」

2020年12月26日 京都コンサートホールにて

午後6時から、京都コンサートホールで、広上淳一指揮京都市交響楽団による特別演奏会「情熱のチャイコフスキー・ガラ」を聴く。

本来なら今日と明日、同じコンビによる第九演奏会が行われる予定だったのだが、合唱の飛沫が危険であることは否定出来ないということで、声を出さない器楽のソリストを呼んでのガラコンサートとなった。ピアノ、チェロ、ヴァイオリンの独奏ということで、いずれにおいても代表作のあるチャイコフスキーが選ばれたのだと思われる。ドヴォルザークもピアノ、チェロ、ヴァイオリンの協奏曲全てが名曲だが、チェロ協奏曲以外は知名度が低い。ヴァイオリン協奏曲は隠れた大傑作であると思われるが、隠れた曲ではお客が集まらない。やはり季節的にいってもチャイコフスキーが最適であろう。

曲目は、ピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:岡田奏)、ロココ風の主題による変奏曲(原典版。チェロ独奏:佐藤晴真)、ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:三浦文彰)。ピアノ協奏曲第1番の演奏の後に休憩が入る。

チケット完売御礼であるが、前後左右1席空けのソーシャルディスタンスフォーメーションであり、入りは900名程だと思われる。

今日のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(あいだ・りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。チャイコフスキー作品ではフルートが活躍することが多いというので、首席フルート奏者の上野博昭が全曲に登場する。クラリネット首席の小谷口直子は降り番であるが、他の楽器は首席奏者が出演する。第2ヴァイオリンの客演首席には読売日本交響楽団の瀧村依里が入る。

 

ピアノ協奏曲第1番のソリストである岡田奏(おかだ・かな)は、北海道出身の女性ピアニストである。函館市に生まれ、パリ国立高等音楽院に学び、プーランク国際ピアノ・コンクール第1位、ピアノ・キャンパス国際コンクール1位、エリザベート王妃国際コンクールでファイナリストなどのコンクール歴を誇り、世界中の名オーケストラや名指揮者と共演を重ねている。

広上指揮の京響はゴージャスな中にも初冬の空気のようにひんやりとした感触のある音を奏で、(行ったことはないけれど)ロシアの広大な大地が目に浮かぶようなスケール豊かな演奏を展開する。ちょっとした音の揺らしも効果的である。
岡田奏は、女性ピアニストであるが、がっしりとした構築感を持つ堅固なピアノを奏でる。高音の霞がかったような響きも独特である。
今日は3階席の上手側ステージサイド、広上淳一を斜め前から見る角度の席だったのだが(チケットは京響友の会優先であるため、一般は発売の時点で良い席がほとんど残っていなかった)、天井が近いため、真上に飛んだ音が比較的長い間留まっているのがわかる。また各楽器の技量も把握しやすいのだが、上野博昭の冴え冴えとしたフルートの音色が印象的であった。こういう時はやはり上野さんでないと。

 

チェロ独奏とオーケストラのためのロココ風の主題による変奏曲(原典版)。
チャイコフスキーはチェロに余り詳しくなかったため、ドイツ人のチェリストである友人のヴィルヘルム・フィッツェンハーゲンに監修を依頼し、初演が行われたのだが、その後にフィッツェンハーゲンがチェロパートを大幅に改変したものが決定稿として出版され、以後はこちらの版がスタンダードとなっている。その後に、フィッツェンハーゲンが手を加えたスコアからチャイコフスキーの筆跡をX線で読み取るという方法で原典版が復元され、今回はこちらの版での演奏となる。

チェロ独奏の佐藤晴真は、現在22歳という若手チェリスト。2019年にはミュンヘン国際音楽コンクール チェロ部門にて日本人として初めて優勝。その前年にもルトスワフスキ国際チェロ・コンクールで1位と特別賞に輝いている。現在はベルリン芸術大学にてチェロをJ=P・マインツに師事している。

佐藤晴真のチェロは温かくて張りのある音を出す。広上指揮の京響もピアノ協奏曲第1番の時とは違い、ぬくもりのあるチャーミングな音で応え、真冬に暖炉に当たりながら聴くのに相応しいようなノスタルジックな趣を讃えていた。

 

人気若手ヴァイオリニストである三浦文彰が独奏を務めるヴァイオリン協奏曲ニ短調。
広上と京響は春の蠢きのような冒頭から生命力に満ちた音を響かせる。同じ指揮者とオーケストラによる演奏であるが、曲ごとに色と温度を変え、透明感も増していく。コロナ禍の真っ只中であるが、今日この場所にだけはいつもと変わらぬ豊かな自然が音として息づいているかのようである。
三浦のヴァイオリンはシャープ。特に弱音に艶があり、難敵を次々と斬り伏せていく若武者のような勇ましさも備えている。
上野のフルートが春の息吹を伝え、最終楽章における春爛漫の爆発を予言する。
広上もヴィオラを浮き上がらせたり、低音部を立体的に築くなど効果的なバランスによる生き生きとした音楽作りを行い、明日への希望へと繋がるようなエネルギーでホールを満たした。

Dsc_0598

| | | コメント (0)

2020年12月29日 (火)

2346月日(26) 東京芸術劇場オンライン「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦――芸術と矯正の融合を目指して――」

2020年12月21日

東京芸術劇場のオンラインイベント、「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦 ――芸術と矯正の融合を目指して――」を視聴。約3時間の長丁場である。事前申し込み制で、当初定員は先着100名であったが、申し込みが多かったため、150名に増えている。

事前に、稽古やワークショップの様子や、本番のダイジェスト映像、資料などにアクセスするURLが書かれたメールが送られて来ており、それに目を通すことで、内容がわかりやすくなるようになっている。

ドイツで刑務所の受刑者に演技指導をして上演するという活動を続けているアウフブルッフ(ドイツ語で「出発」という意味)の芸術監督で舞台美術家のホルガー・ズィルベによるレクチャーと、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」にも出演していた毛利真弓(同志社大学心理学部准教授、元官民協働刑務所民間臨床心理士)による日本の刑務所で矯正のために行われている治療共同体(Therapeutic Community。頭文字を取ってTCと呼ばれる)の活動報告、そしてホルガー・ズィルベと毛利真弓の対談「矯正教育による芸術の可能性」からなるオンラインイベントである。モデレーターは、明治大学国際日本学部教授の萩原健(専門はドイツの演劇及びパフォーマンスと日本の演劇及びパフォーマンス)。

アウフブルッフは、刑務所演劇を専門に行っている団体ではなく、フリーのプロ演劇カンパニーだそうで、1996年に結成。翌1997年から刑務所演劇に取り組みようになったという。

アウフブルッフが本拠地を置くベルリン都市州は大都市ということもあって犯罪率も高めだが、「移民が多い」「教育水準の低い人が多い」「再犯率が高い」という特徴があるそうで、刑務所演劇によって再犯率が低くなればという狙いもあったようだが、演劇を行ったことで再犯率に変化があったかどうかの立証は不可能であるため、統計も取られていないようである。
「移民で教育水準が低い」と悪条件が重なった場合はドイツ語も喋れないため、犯罪に手を出す確率は高くなることは容易に想像される。また職業訓練も上手く受けられない場合も多いようだ。そうした状態にある人に芸術でのアプローチを試みたのが、ズィルベ率いるアウフブルッフである。アウフブルッフは、ドイツの他にもロシアやチリの刑務所での上演も行っているようだ。

刑務所演劇の意義として、刑務所のマイナスイメージに歯止めをかけることが挙げられる。受刑者以外で刑務所に入ったことのある人は余り多くないため、その中やそこから出てきた人に対するイメージはとにかく悪い。ただ、刑務所で受刑者が演じる演劇を観て貰うことで、両者を隔てる壁が少しだけ低くなるような効果は生まれる。少なくとも「断固拒絶すべきスティグマ」ではなくなるようである。
1997年にドイツ最大の男性刑務所であるテーゲル司法行刑施設での、「石と肉」という作品で上演が始まり、今に到るまでベルリンの全ての刑務所で公演を行ったほか、外部プロジェクトとして元受刑者で今は社会に出ている人などをキャスティングし、プロの俳優や市民と共同で上演を行う混成アンサンブルによる上演が、博物館、裁判所、教会、ベルリンの壁記念碑の前などで行われているそうである。

ちなみに小さい刑務所の場合は上演を行うスペースがないため、代わりに演劇のワークショップなどを行っているという。

キャストであるが、刑務所側が止めた場合(暴行罪や暴力癖のある人)を除くと希望者がトレーニングを受けて本番に臨むというスタイルのようである。アウフブルッフ側は敢えて受刑者の知識は入れないようにしており、罪状なども一切知らないで稽古を進めるようだ。最初は1回4時間の稽古を4~6回行い、その先に行きたい希望者向けに計300時間ほどの稽古を行うという。刑務作業以外の自由時間は全て稽古に費やす必要がある。無断欠席を3回行った場合は脱落者と見做されるそうである。

ラップや合唱など、コーラスを使った演出も特徴で(演出は全てペーター・アタナソフが行っている)、その他にもセリフの稽古、書き方のワークショップなどが音楽の練習と並行して行われる。本番は6回から14回ほど、キャパは75人から250人までだそうである。受刑者には芸術に触れた経験も興味もない人も多いため、最初は暇つぶしのために参加したり、人から勧められて参加したりと、前向きな理由で加わる人はほとんどいないそうだが、稽古を重ねるうちに社会性が高まる人もおり、更に本番では観客からの拍手を受けるのだが、それが生まれて初めての称賛だったという人も多いそうで、「人生で初めて何かを最後までやり遂げた」と感激の表情を浮かべる受刑者もかなりの数に上るそうである。これにより自信を付け、自己肯定感を得て再犯率も減り……、だといいのだが先に書いたとおり、再犯率低下に演劇が貢献しているのかどうかまではわからないようである。
ただ、刑務所に入るまでに抱き続けていた劣等感は、仮にたった一時であったとしても振り払えるため、何らかの形での再生に繋がっている可能性は否定出来ないように思う。
稽古の終わりに、毎回、キャスト全員で反省会を行い、各々の意見を述べるのだが、これも受刑者がそれまでの人生で余りやってこなかったことであり、人間関係と他者の存在とその視点を知るという意味では有意義なように思われる。

ズィルベによると犯罪者はいずれ社会復帰することになるため、社会の側も刑務所演劇を観ることで受刑者に対する新たな見方を得て彼らを受け入れるための準備をすることが出来る。そうした意味での刑務所演劇の可能性も語られた。

 

毛利真弓による刑務所の報告。「プリズン・サークル」の舞台となった島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の刑務所で臨床心理士をしていた毛利だが、島根あさひ社会復帰促進センターでTCを受けた人の再犯率は9.5%と、TCを受けていない人達の19.6%より優位に低かったそうである。
日本の刑務所は、あくまで収監し、懲役を行うのが主目的で、社会復帰のための教育は遅れているのが現状であり、職業訓練などはあるが、再犯防止のための教育策は基本、取られてこなかった。それでも2006年から少しだけ風向きが変わっているという。

島根あさひ社会復帰促進センターでは、アミティという海外で考え出されたプログラムを使い、イメージトレーニングや加害者と被害者を一人二役で演じる自己内対話を経て他者の視点を得る訓練、また受刑者が受刑者に教えるというシステムもあり、他者と接する機会を多く設けている。これまでの日本の刑務所は他者と触れ合うこと自体が禁じられていることも多かったため、画期的なことであったといえる。

島根あさひ社会復帰促進センターは、初犯の男性受刑者のみが収監されるが、それまでの人生で他者と向き合う機会がほとんどなかったという人も少なくなく、「他者を通して自己と向き合う」「生身の人間のリアルに触れる」ことを目標としたトレーニングが組まれているようである。

ホルガー・ズィルベが島根あさひ社会復帰促進センターの情報を得て、「社会と繋がっていないように感じる」と述べたが、やはり日本の場合、受刑者が社会と直接的な繋がりを持つのは難しいだろう。刑務所演劇の場合は、目の前で受刑者が演技を行い、終演後に観客と受刑者が会話を交わすことも許されているようだが、日本の場合は受刑者という存在に対するスティグマがかなり強いため、少なくともドイツと同様というわけにはいかないように思う。

「犯罪の加害者と上演をしているが、被害者とはどうなんだ?」という視聴者からの質問が来ていたが、被害者とは接点が持てないそうで、まず被害者同士で纏まるということもなく、接触も禁じられているため、手を打とうにも打てないようである。加害者が出演している芝居を観た被害者から一度連絡が来たことがあったそうだが、その一例だけのようである。

刑務所演劇も稽古や上演に到るまで、何ヶ月にも渡って行政と話し合いを持ったそうだが、最終的には「やってやる!」というズィルベの意志が勝ったそうで、毛利も「日本では(刑務所演劇は)難しい」ということを認めながら、「違いを超える」必要性を説いていた。

折しも、日本では第九の季節である。シラーとベートーヴェンが唱えたように「引き裂かれていたものが再び結び合わされる」力にもし演劇がなれるとしたのなら、それに携わる者としてはこの上ない喜びである。

| | | コメント (0)

2020年12月28日 (月)

YouTubeLive ONTOMO(音楽之友社)「おめでとう!ベートーヴェン~3時間ノンストップ音楽トーク」(ダイジェスト記事。アーカイブ映像あり)

2020年12月16日

午後7時から音楽之友社によるYouTubeLive配信、「おめでとう!ベートーヴェン~3時間ノンストップ音楽トーク」を視聴。音楽評論家でベートーヴェン研究家の平野昭、音楽ジャーナリストの林田直樹を中心に、音楽之友社スタッフが作るベートーヴェンの250回目の誕生日祝賀オンラインイベントである。ウィーンから指揮者でピアニストの大井駿がベートーヴェンゆかりの地のライブ中継を行うほか、音楽之友社のSNS等で募ったベートーヴェンの好きな曲アンケートの発表などがある。
視聴者プレゼントなどもあったが、面倒くさいので参加はしなかった。

年末ということで第九の分析などもあり、第4楽章は特に顕著だが、戦いと平和の対比があるという。第九と一対をなすとされる「荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)」にもそうした場面があり、ベートーヴェン自身も双子の作品と考えていたようだ。

ベートーヴェンは「双子」とされる作品が多いのも特徴で、交響曲第5番と第6番「田園」が最も有名だが、交響曲第7番と第8番も同じ事を形を変えて表しているようなところがある。

リモートとして、鈴木優人が東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”でのコンサートの休憩中に参加したり、元NHK交響楽団首席オーボエ奏者で現在は指揮者として活躍、エッセイでもお馴染みの茂木大輔や、ベートーヴェン研究家で『ベートーヴェンとバロック音楽「楽聖」は先人から何を学んだか』の著者である越懸澤麻衣(こしかけざわ・まい)が自宅から参加。二人はベートーヴェンの好きな曲ランキングの予想や、自分が好きなベートーヴェンの楽曲5選などにも加わった。

また、録画メッセージとして、ピアニストの金子三勇士(かねこ・みゅうじ)や小菅優、田中彩子(ソプラノ)、鳥木弥生(メゾソプラノ)、藤木大地(カウンターテナー)と成田達輝(ヴァイオリン)、吉田誠(クラリネット)、葵トリオ(ピアノトリオ)が自分が好きなベートーヴェンの楽曲について語った。

好きなベートーヴェンの楽曲アンケートは1位から発表されていく。
トップスリーだけ挙げるが、第1位は第九こと交響曲第9番「合唱付き」、第2位は交響曲第7番、第3位はピアノ・ソナタ第8番「悲愴」であった。

第2位に交響曲第7番が入っていることについて、「『のだめ(カンタービレ)』効果ではないか」と平野が言い、「茂木さんの領域かな?」という話になる。茂木大輔はテレビドラマ「のだめカンタービレ」の音楽監修を手掛け、「のだめカンタービレ」コンサートを全国各地で行い、指揮を手掛けている。
茂木によると、「オーケストラを始めた頃にも交響曲第7番はそんなに有名な曲とは思ってなかった」そうである。


最後は「不滅の恋人」についての平野昭の考察。不滅の恋人については、アントーニエではないかと推測しているそうである。
もう一人の有力候補であるヨゼフィーネについてだが、ベートーヴェンがヨゼフィーネに宛てて書いたラブレターが13通ほど残っているそうである。ヨゼフィーネは当時未亡人だったが、その後に他の男と再婚。ただその再婚相手が変わり者であり、再び離婚することになって、貧困の内に若くして亡くなっている。



| | | コメント (0)

2020年12月27日 (日)

コンサートの記(675) 「加藤登紀子 ほろ酔いコンサート2020 Vol.39」@ロームシアター京都

2020年12月22日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「加藤登紀子 ほろ酔いコンサート2020 Vol.39」を聴く。
加藤登紀子は今年の6月に春秋座でコンサートを行うはずで、私もチケットを手に入れていたのだが、コロナのための中止、払い戻しとなっている。というわけでその代わりに、ロームシアター京都での公演に行くことに決めた。おそらく春秋座のコンサートが中止になっていなかったら、そしてロームシアターに通う機会がもっと多かったなら行かなかったと思うのだが、巡り合わせで行くことに決めた。祝い酒が振る舞われるコンサートなのだが、私はお酒が全く飲めないので、本来なら行く気にならないはずだが、今回はこれまたコロナの影響で祝い酒は無理なので、帰る時に月桂冠のボトル1瓶プレゼントということになっている。私も貰ったが、飲めないので誰かにあげようと思う。

 

加藤登紀子は父親と同い年である。というわけで親子ほどどころか実際に親子の関係になる年齢、母親はもっと若いので、女性に限れば親子以上に年が離れているということになる。ということで、客席もそれに近い年齢の方がほとんどで、たまに私より若そうな人がいても親と一緒に来ていたりするため、ひょっとしたら一人客の中では私が最年少だったかも知れない。
東大卒のミュージシャンの走りであるが、文化・芸術方面に行く人も多い文学部出身であるため、それほど意外な学歴というわけでもない。
生まれは当時は満州国の都市であったハルビンだが、幼少期は京都で過ごしており、後に夫となる藤本敏夫が同志社大学に学んでいたため、京都に縁のある人である。千葉県とも縁があり、鴨川市に鴨川自然王国を夫婦で設立。その後、鴨川市に開設された城西国際大学観光学部の客員教授を務めていたこともある(城西国際大学観光学部は鴨川市から撤退し、メインキャンパスのある東金市に移転する予定である)。

ロームシアターの公演に接するのも今年は4度目と少なく、これが今年最後となる。メインホール2回、サウスホール2回、ノースホールはゼロであった。

出演者は、加藤登紀子の他に、告井延隆(つげい・のぶたか。ギターほか)、渡辺剛(わたなべ・つよし。ヴァイオリン)、早川哲也(ベース)、鬼武みゆき(ピアノ)、鶴来正基(つるぎ・まさき。キーボード)。
加藤登紀子のメンバー紹介によると、鶴来は現在、京都市在住だそうで、加藤がKBSホールで公演を行った時に客として来ており、楽屋で「あなた今、京都に住んでるの? 京都も巡るツアーがあるから参加しなさい」と呼びかけたそうだ。
早川哲也のことは、「こう見えて大阪」、渡辺剛は大阪府高槻市の出身だが、高校は京都の堀川高校(当時、堀川高校にあった音楽科出身)だそうで、「この近く」と紹介していた。鬼武みゆきのことは、「月から来た」と紹介していたが、東京理科大学卒業後にキヤノンでシステムエンジニア(SE)をしていたことがあるため、他のミュージシャンとちょっと違うのかも知れない。今年古希を迎えた告井は名古屋出身だそうである。

予定曲として無料パンフレットに載っていた曲目は、「Never Give Up Tomorrow」、「Running On」、「Now Is the time」、「時には昔の話を」、「この手に抱きしめたい」、「石ころたちの青春」、「形あるものは空」、「Revolution」、「愛の賛歌」、「百万本のバラ」、「未来への詩(うた)」。その他に、ジョン・レノンの「イマジン」、そしてギターによる弾き語りのコーナーでは、河島英五の「生きてりゃいいさ」などを歌う。河島英五の思い出話も語られ、河島英五は「酒と泪と男と女」が有名であるが、実際には酒がほとんど飲めない人だったそうで、飲みながら歌うライブでも一人だけヤカンに水を入れてそれを飲んでいたそうである。歌い出す前に腕立て伏せをしたり、加藤の自宅で打ち合わせとなった時も、玄関に入ってきていきなり「パンか何かありますか?」と聞いたそうで、聞くと、「飢えた経験がないので、どんなものか知るために食事をしていない、来る途中で倒れそうになった」と応えたそうで、やはりかなり変わった人だったようである。テレビ番組の収録か何かでスタジオの暗い場所で二人で待機していた時には、加藤がふと「このまま駆け落ちしちゃわない?」と思いついて発言。河島も「いいですね」と応えたそうだが、知っての通り、駆け落ちすることはなかった。「この二人で歌いながらシルクロードを歩いたら、結構、儲かるんじゃない」といった話もしたそうである。加藤登紀子は、1968年頃に多くの人との出会いがあったが、今ではもう会えなくなってしまった人も多い、ただ「会えなくなってしまった人を思うのが本物の歌なんです」と語る。
昨年亡くなった中村哲のために「あなたの行く朝」が歌われ、今年コロナによってフランスで客死(という表現でいいのかどうかわからないが)した高田賢三への追悼の言葉もあったが、その昔(1993年である)、高田賢三が上京したばかりの頃のことを描いたテレビドラマがあり(タイトルは、「ケンゾー・ジュンコの青春物語」)、加藤は高田を教えた文化服装学院の教師、小池千枝役で出演したことがあったそうだ。高田賢三を演じていたのは石田純一で、私もはっきりとは覚えていないが見た記憶がある。石田純一演じる眼鏡を掛けた高田賢三が文化服装学院の仲間と夜の新宿の歩道橋の上を歩いている時に未来への不安を口にするシーンがあったはずである。加藤登紀子のシーンは残念ながら覚えていない。ドラマの主題歌も加藤登紀子の「石ころたちの青春」で、今日はこの曲も歌われた。
小池千枝は、加藤の語るところによると、高田賢三に、「オートクチュールはフランスで完成されてるから、今更日本人がやっても敵わない。プレタポルテで勝負しなさい」とアドバイスして、高田を成功へと導いた人らしい。

ジョン・レノンの「イマジン」は、1番を歌った後(シンコペーションを多用していた)、2番は告井のヴォーカルに代わり、加藤はフレーズの合間に歌詞の日本語訳を語った。

12月8日がジョン・レノンの命日で、その急死から40年、享年も40で生きていれば80歳、「私より3つ上の人」と語った。
レノンが急死した後に、加藤はオノヨーコに会いに行って話したことがあるという。「あなたが刑務所の中の人と結婚した人?」とオノヨーコは聞いてきたそうで(「そういう話し方をする人なんです」と付け足していた)、「そうだ」と答えると、「あなたの旦那さんは壁と戦っているのね。ジョンと私は壁に窓を開けて想像力を拡げることにするの」と語ったそうで、「イマジン」はそうした生活から生まれたそうである。

加藤登紀子の代表曲を1曲だけ挙げるとすると、やはり「百万本のバラ」ということになるのだと思われるが、この曲は元々はラトヴィアの作曲家が1981年に作曲した作品で、原詞も加藤登紀子が書いた日本語詞とは異なる。原曲と原詞は、黛敏郎が司会をしていた頃の「題名のない音楽会」で作曲者のライモンド・パウルス(当時のラトヴィア文化省大臣)の写真と共に紹介されたことがある。YouTubeで原曲を聴くことも出来る

 

アンコールでは、「Power to the People」がまず歌われ、2曲目はタイトルがわからず(三拍子の曲である。急遽曲目が決まったようで、鬼武みゆきのピアノと告井延隆のギター伴奏のみで歌われる。「あなたに捧げる歌」かも知れないが、断言は出来ず)、そしてそこからの流れで、京都と滋賀県のご当地ソングである三拍子の「琵琶湖周航の歌」(旧制第三高等学校=現在の京都大学の教養課程の学生歌)が歌われた。

本編約90分休憩なし。加藤登紀子も高齢故に声の衰えは否めないが歌唱力は健在で且つソウルフル。完成度の高いゴージャスな雰囲気のライブとなった。若い人が聴かないのは勿体ない気がする(とはいえ、現在、多くの大学で「ライブ参加禁止令」が出されている)。

なお、12月27日の加藤登紀子の誕生日(加藤は、「私の7歳の誕生日。うん十7歳の誕生日」と語る)には「ほろ酔いコンサート」のライブ配信が行われ、また来年の5月には春秋座でのコンサートも予定されているそうである。

加藤登紀子は祇園四条にあるロシアレストラン・キエフで定期的にソング&トークイベントを行っていて、来年の4月3日に第55回目が行われるのだが、会費が特選コース料理とワイン付きで2万円と高い。知り合いは行ったことがあって、リクエストコーナーではその場でリクエストした曲を歌ってくれるそうで、楽しそうではあるのだが。

Dsc_0572

| | | コメント (0)

2020年12月25日 (金)

アン・ルイス 「グッド・バイ・マイ・ラブ」

| | | コメント (0)

2020年12月24日 (木)

コンサートの記(674) 「京都市交響楽団 クリスマスコンサート」2020

2020年11月20日 京都コンサートホールにて

午後3時から京都コンサートホールで、「京都市交響楽団 クリスマスコンサート」を聴く。
メインはレイモンド・ブリッグズ原作の無声アニメーション「スノーマン」(1982年制作)のフィルムコンサートであり、主に子ども向け、親子向けのコンサートである。「スノーマン」のフィルムコンサートは、以前にも京都市交響楽団のオーケストラ・ディスカバリーで園田隆一郎の指揮によって上映されたことがあり、好評を受けての再演ということになったのだと思われる。

今日の指揮者は広上淳一門下の関谷弘志。知名度はそれほど高くないが、「三度の飯よりクラシック音楽が好き」という人なら名前ぐらいは知っているという指揮者である。
関谷弘志は、元々はフルート奏者で、パリのエコール・ノルマルでのフルート科を卒業し、大阪センチュリー交響楽団(現・日本センチュリー交響楽団)のフルート奏者として活躍した後に東京音楽大学の指揮科に入学し、広上淳一と三石精一に師事している。
これまでに仙台フィルハーモニー管弦楽団副指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢の専属指揮者などを経て、現在は同志社女子大学学芸学部音楽学科講師(吹奏楽担当)を務めている。

 

曲目は、第1部「ファンタジック・メロディ」が、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」、「忘れられた夢」、「フィドル・ファドル」、J・S・バッハ/グノーの「アヴェ・マリア」(オーケストラ編曲者不明)、チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」から“花のワルツ”。第2部が、ハワード・ブレイクの音楽による「スノーマン」フィルムコンサートだが、途中休憩はなく、上演時間約1時間に纏められている。

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置による演奏だが、「スノーマン」の上映のため、ステージは管楽器奏者が一段高くなっているだけで、高さは抑えられている。

今日も客席は前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応布陣となっていた。見切れ席は販売されていないため、集客も抑え気味であるが、それに指揮者の知名度などを加えて勘案すると入りはまあまあといったところである。

関谷弘志の指揮するルロイ・アンダーソン作品は、色彩豊かではあるが表情はやや堅め。昔、ドイツのオーケストラが演奏したルロイ・アンダーソン作品のCD(正確に書くと、ピンカス・スタインバーグ指揮ケルン放送交響楽団のCDである)を聴いたことがあるが、それに少し似ている。もう少し洒落っ気が欲しいところである。

関谷弘志は、マイクを両手に持って自己紹介と京都市交響楽団の紹介をし、客席に向かって「コロナ禍にお集まり下さったことに感謝致します」と述べた。

J・S・バッハ/グノーの「アヴェマリア」は、沼光絵理佳のピアノ・チェレスタでバッハ作曲の伴奏(元々は伴奏ではなく、平均律クラーヴィアのプレリュードという独立した楽曲である)が奏でられた後に泉原のヴァイオリンがグノー作曲のメロディーをソロで奏で始めるという編曲で、弦楽合奏にホルンとファゴットが加わり、フルートがソロを奏でて全楽合奏に到るというものである。

チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」より“花のワルツ”も華やかさには欠け気味だったがきちんと整った演奏になっていた。

 

第2部「スノーマン」。映写は京都映画センターが行う。上映時間は約26分。映像に演奏を合わせるのは難しく、時折、音楽が先走ったりする場面もあったが、全般的には状況によく合ったテンポと描写による演奏を行っていたように思う。関谷の指揮する京響の音色もアニメーションの内容にピッタリであった。「ウォーキング・イン・ジ・エア」のボーイソプラノを務めるのは京都市少年合唱団の谷口瑛太郎(一応、カヴァーキャストとして稲葉千洋が控えていたようである)。美しくも幻想的な歌声を聴かせ、「スノーマン」の空中飛行の場面を彩った。
「スノーマン」はキャラクターはよく知られているものの、内容は誰でも知っているという類いのものではないが、男の子が雪の日に自分で作り上げたスノーマン(雪だるま)と共に空を舞いながら冒険の旅に出掛けるという物語である。レイモンド・ブリッグズの絵のタッチが愛らしく、雪景色の描写の美しさとファンタスティックな展開(子どもの頃に映画館で「大長編ドラえもん」シリーズを観た時の心持ちが思い出される)、そしてラストなどが印象に残る。

 

アンコール演奏は、藤岡幸夫司会の音楽番組「エンター・ザ・ミュージック」(BSテレ東)のオープニング楽曲としても知られるようになった、ルロイ・アンダーソンの「舞踏会の美女」。関谷もフィルムコンサートの指揮という大仕事を成し遂げた後であるためか、今日聴いたルロイ・アンダーソン作品の演奏の中でも最もリラックスした感じのチャーミングな仕上がりとなっていた。

Dsc_0548

| | | コメント (0)

2020年12月23日 (水)

観劇感想精選(378) 二兎社 「書く女」2006(初演)

2006年10月21日 大阪・茶屋町のシアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。午後6時よりシアター・ドラマシティで二兎社の公演「書く女」を観る。永井愛:作・演出。明治の女流作家・樋口一葉の話である。
永井愛さんは会場にいらっしゃっていて、休憩の合間に臨時サイン会なども行っていた。また客席には岩松了の姿もあった(ピッコロ劇団の演出を担当するので現在は関西にいるのだろう)。

休憩15分を含め3時間10分の大作。出演は、寺島しのぶ、筒井道隆、粟田麗(あわた・うらら)、江口敦子ほか。

障子や格子をモチーフにした巨大なセットがまずは印象的である。

樋口一葉こと樋口夏子(寺島しのぶ)が、作家・半井桃水(なからい・とうすい。筒井道隆)のもとを訪れる場面から始まる。長兄が若くして亡くなり、次兄はどこへともなく去り、姉はよそへ嫁ぎ、父親が死去。かくして若くして女戸主となってしまった樋口夏子。母と妹と三人暮らしだが、これではとてもやっていけないので小説を書くべく、半井桃水に弟子入りしたのだった……

今では一葉の師としてしか名前の残っていない半井桃水であるが、筒井道隆をキャスティングしているだけにかなりの好人物として描かれている。
一葉が通う歌塾「萩の舎(はぎのや)」の先輩で女流作家の魁となった田辺龍子(たなべ・たつこ。筆名は田辺花圃と書いて「たなべ・かほ」。石村実伽)、一葉の親友で同じ夏子という名前であることから「い夏」と呼ばれる伊東夏子(粟田麗。ちなみは一葉は「ひ夏」と呼ばれている)、一葉に半井桃水を紹介した野々宮菊子(江口敦子)、半井桃水の妹である半井幸子(なからい・こうこ。小澤英恵)、一葉最大の理解者といわれた斉藤緑雨(さいとう・りょくう。向井孝成)、一葉の小説に最初に注目した平田禿木(ひらた・とうぼく。中上雅巳)、一葉文学の研究者となった馬場孤蝶(ばば・こちょう。杉山英之)、泉鏡花と並び称されるほどの名声を得ながら39歳で自殺した川上眉山(かわかみ・びざん。細貝弘二)など、個性溢れる人々によって織りなされる明治文壇記(それにしても読みにくい名前の人が多いな)。

生活苦に喘ぐ樋口家の人々や、文学への希望に燃える人々、また文学に敗れる人々などが真摯な眼差しで、しかしユーモアも持って描かれる。

樋口一葉の半井桃水への思い。また、その創作が「感性」や「共感」からというよりも、「業」もしくは「怨念」のようなもの(日本語には適当な言葉が見つからない。韓国語の「恨(ハン。激しい心の動きを指す)」という言葉が一番合うかも知れない)に根ざしたものなのではないか、という解釈が目新しい。

脇役陣が演技はなかなか達者ながら個性に欠けるのがウィークポイントだが、見応えはあった。永井愛の微妙にテーマをスライドさせるやり方はいつもながら巧い。

観劇感想精選(180) 二兎社 「書く女」2016(黒木華主演版)

| | | コメント (0)

2020年12月22日 (火)

コンサートの記(673) ダン・タイ・ソン ピアノリサイタル2006京都

2006年10月18日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールで、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルを聴く。

ダン・タイ・ソンは1958年に当時の北ベトナム・ハノイに生まれたピアニスト。彼が2歳の時にベトナム戦争が勃発。若きダン・タイ・ソンは防空壕の中で紙に書かれた鍵盤を弾くことでピアノの練習を続けたという。ハノイ音楽学校を経てモスクワ音楽院に留学。1980年のショパン国際ピアノ・コンクールで東洋人として初めて優勝し、話題となった。しなやかな音楽性を持ち味とするピアニストで、ショパン弾きとして日本では人気が高いが、欧州での評価はそれほどでもない。
1980年のショパン国際ピアノ・コンクールでは、優勝したダン・タイ・ソンよりも、予選落ちしたイーヴォ・ポゴレリチが話題を集めたということもある。ポゴレリチが本選に残れなかったことで、審査委員の一人であったマルタ・アルゲリッチは激怒。「彼(ポゴレリチ)こそが天才なのに!」という言葉を残して審査員を降り、ポーランドを後にするという事件があった。

プログラムは前半がチャイコフスキーの「四季」。後半がショパンのバラード第1番~第4番。

チャイコフスキーの「四季」は、出版社から「月刊誌にピアノ曲を毎号1曲ずつ載せたい」という依頼を受けて書かれた全12曲からなる作品。チャイコフスキーも軽い気持ちで書いたいわれ、そのためかどうか有名曲であるにもかかわらず評価は低めで、全曲を入れたCDも少ない。「6月 舟歌」と「11月 トロイカ」はよく知られた曲で、ピアノ小品集のCDによく入れられている。
私個人は「四季」というピアノ曲集は好きで、高校生の頃から良く聴いていた。「舟歌」や「トロイカ」の他にも「5月 白夜」などが好きである。正直言って今日は、チャイコフスキーの「四季」が全曲演奏されるというので聴きに来たようなものだ。

ダン・タイ・ソンの弾く「四季」は甘さを抑え、詩情や物語性よりも技巧を優先させたものだった。「舟歌」ではもっと歌心が欲しいし、「白夜」も幻想味に欠けるきらいがある。曲によってはテクニックを前面に出してバリバリ弾いていたが、「リストじゃないんだからそんな豪快に弾かなくても」と思う。
最後の2曲である「11月 トロイカ」と「12月 クリスマス」が良い出来だった。磨き抜かれた美音とテンポ設定がこの2曲には合っていた。


後半は、ダン・タイ・ソンの十八番であるショパン。バラード全4曲。立派なショパンであるが、聴いているうちにどうも妙な気分になる。ショパンにしては立派すぎるのだ。ショパンというと甘美な旋律とその裏にひそむ毒の絶妙なバランスが魅力の一つなのだが、ダン・タイ・ソンはそういうものには目もくれず、とにかく立派で偉大なショパンを目指している。ダン・タイ・ソンという人は生真面目なのだろう。しかし真面目過ぎると芸術もあまり面白くなくなる。日曜日に聴いたシプリアン・カツァリスも、先々週聴いたファジル・サイも遊び心と余裕があるから魅力的なのだ。

アンコールもショパンを演奏する。マズルカ作品24-1、と前奏曲第24番。クッキリとしたショパンであったが、やはりもっと余裕が欲しくなる。
ベートーヴェンを弾くならダン・タイ・ソンのスタイルは合っているが、ショパンはどうだろう。余りに真面目で潔癖だと、ショパンの、時に仄暗い情念をあぶり出すことは出来ないようにも思うのだが。

| | | コメント (0)

2020年12月20日 (日)

森山開次:演出・振付・出演「星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙―」

2020年12月6日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、森山開次:演出・振付・出演による「星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙―」を観る。サン=テグジュペリの代表作で舞台化されることも多い「星の王子さま」をダンス公演として上演するという試み。原作は小説であるため、言葉を使わずに上演することは難しいのだが、象徴的な場面を連続させるという絵巻物風手法で、この大人のための童話を描き出す。哲学性を語る限界はあり、ビジュアルでの勝負となるが、「星の王子さま」の鍵となる想像力を駆使する楽しさはある。

出演は、森山開次の他に、アオイヤマダ、小尻健太、酒井はな、島地保武、坂本美雨、池田美佳、碓井菜央、大宮大奨(だいすけ)、梶田留以、引間文佳(ひきま・あやか)、水島晃太郎、宮河愛一郎。
音楽:阿部海太郎(うみたろう)。演奏:佐藤公哉、中村大史(ひろふみ)。美術:日比野克彦、衣装:ひびのこずえ。KAAT 神奈川芸術劇場の制作である。

 

第1幕が11、第2幕が13のシーンに分かれている。

まず幕が上がると、坂本美雨演じるコンスエロ(サン=テグジュペリの妻である)が舞台中央にしゃがみ込み、音楽に合わせて手をくゆらせながら踊っている。背後には半円形のセットが置かれ、他の出演者達がセットの裏にある階段を上手側から登り、下手側へと降りる。坂本美雨は全編に渡ってヴォーカルを担当。歌詞のないヴォカリーズのものが多いが、たまに歌詞も登場し、進行役も受け持つ。美声であり、聴いていてとても心地良い。

飛行士役の小尻健太が現れ、他のダンサーと共に踊る。ダンサーが手足を高く上げる兵隊の歩き方を真似るシーンがあり、戦争が暗示される。やがて頭にライトを付けたダンサーが現れ、夜間飛行に入ったことを告げる。そして飛行機はサハラ砂漠へと不時着する。
猫のような格好をした王子さま(アオイヤマダ)が現れ、羊の絵を描いてくれるよう飛行士に頼む(「羊、シープ」というセリフは坂本美雨が手掛ける)。
飛行士は、紙で作られたミニチュアの飛行機をペン代わりにして描いたり綴ったりといった行為を行う。箱入り羊は穴が空いた布製(だと思う)の箱を使って表現される。

月が現れると共に、音楽はケルティクなものへと変わっていく。阿部海太郎は、「地中海沿岸の音色を集め」たと語るが、シャンソン、スパニッシュといった地中海に面した国の音楽の他に、オーストリアの民族音楽風のものが登場したり、マイケル・ナイマンを思わせるイギリス風のミニマルミュージックが流れたりと、幅広い作風の音楽が奏でられる。

渡り鳥は風船を巨大な袋で束ねたもので表される。「星の王子さま」の口絵がヒントになっていると思われる。

王子さまが星を出るきっかきを作ったバラは日本を代表するバレエ&コンテンポラリーダンサーの一人である酒井はなが踊っている。バレエの技巧を生かしたダイナミックにして可憐な舞である。バラはまず王子さまとパドドゥを踊った後で、飛行士ともパドドゥを行う。

第2幕冒頭では、王子さまが地球に辿り着くまでの遍歴がシーンごとに描かれる。自己中心的で尊大な王様、うぬぼれ屋(ここでスペイン風の音楽が流れる。「りょう手で、ぱちぱちとやってみな。」(大久保ゆう訳「あのときの王子くん」青空文庫)や「手をたたくんだよ」(河野万里子訳。新潮文庫)という言葉で表現される強制された称賛の拍手はフラメンコの手拍子に置き換えられている)、呑み助、実業家、点灯夫、地理学者。彼らは人間の典型例なのだが、その性質をダンスのみで描くのはやはり難しいように思われた。

賢者であるキツネは、着ぐるみではなく、尻尾だけを付けた島地保武が踊る。優れた跳躍力がいかにもキツネらしい。

ラストは、しゃがみ込んで手を広げた飛行士の後ろで、バラがルルベを行いながら回転しているところで幕となる。バラは女性の象徴である(妻のコンスエロがモデルという説がある)と同時に、自分が最も大事にしたいと思いながら手放してしまったものを表している。それが何かは各個人によって異なるが、「帰るべき場所」「想像力のない者には理解し得ない聖域」の象徴としてすっくと立ち続ける酒井はなの姿はその象徴として鮮やかに映った。

Dsc_0438

| | | コメント (0)

これまでに観た映画より(236) アンソニー・ホプキンス主演作「タイタス」

2006年9月27日

DVDでアメリカ映画「タイタス」を観る。シェイクスピアの戯曲「タイタス・アンドロニカス」が原作。ジュリー・テイモア監督作品。アンソニー・ホプキンス主演。

残酷劇「タイタス・アンドロニカス」はシェイクスピアが残した戯曲の中でも最も人気のない作品の一つ。残酷過ぎ、また文章の格調が高くないことから、シェイクスピアの真作かどうか疑われた時期もあった。シェイクスピア存命中は人気があったようだが、長く忘れられ、また20世紀に入ってからの上演でも、クライマックスで失笑が起きるなど失敗が多く、問題作とされる。

「ライオン・キング」の演出家として知られるジュリー・テイモアは、シェイクスピアの原典を大筋では守りつつ、古代ローマの話なのに、自動車が出て来たり、ゲームセンターがあったりと、古典一色になるのを避け、美しい映像で残酷さを彩ってみせる。冒頭の仕掛けと、ローマ兵の物々しさで、まず観る者の度肝を抜くのも効果的だ。

ラストの残酷シーンも上手く切り抜けた。というより、良く計算された演出を施した。そのため却って原作の限界が見えてしまった部分もあるのだが。

主人公であるタイタス・アンドロニカス役のアンソニー・ホプキンスの怪演も見事である。

イギリスの映画だったら、人間の抱える闇にもっと奥行きが出たのかも知れないが、アメリカ風の「生まれながらの悪人」像もこうした映画で観るなら悪くはない。

| | | コメント (0)

2020年12月17日 (木)

これまでに観た映画より(235) 蒼井優&高橋一生主演 黒沢清監督作品「スパイの妻〈劇場版〉」

2020年12月13日 出町座にて

出町座で日本映画「スパイの妻〈劇場版〉」を観る。黒沢清監督作品。脚本:濱口竜介、野原位(のはら・ただし)、黒沢清。出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理(ヒュンリ)、東出昌大、笹野高史ほか。第77回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞作である。

1940年から1945年までの神戸を舞台とした戦時スリラーである。なお、黒沢清は神戸出身であり、そもそも故郷である神戸を舞台に何か撮って欲しいとNHKから依頼を受けたのがこの作品が生まれるきっかけになったという。「スパイの妻」は、まずNHKBS8Kで放送され、その後に映画用の編集が施されて公開されている。

福原物産社長の福原優作(高橋一生)と妻の聡子(蒼井優)。日中戦争が泥沼化し、アメリカとの開戦も間近という時期であり、憲兵による締め付けも厳しくなり、優作の友人で、神戸生糸検査所のジョン・フィッツジェラルド・ドラモンドがスパイ容疑で逮捕される。神戸の憲兵隊には優作の友人である津森泰治(東出昌大)が赴任して来ていた。横浜からの転勤である。

神戸が舞台であるため登場人物の多くが関西の言葉を話すが、優作、聡子、優作の甥である竹下文雄(坂東龍汰)、泰治の4人は東京の言葉で通している。優作が聡子に、「泰治君は君に惚れてる。君を追ってきた」と語る場面があるため、優作も聡子も元々は関東の生まれ育ちで、仕事の関係で神戸に移ったらしいことが何となくわかる。おそらく横浜で貿易の仕事を始めたのだが、大陸相手の仕事であるため神戸の方が有利とみて本社を移したのだと思われる。泰治は基本的に体制側の人間であるが、優作と聡子そして文雄もだが、時代に呑み込まれていく周囲の人々から浮いて見えるよう、意図的に東京の言葉で通しているという設定にしたのだと思われる。東京や関東の人間は日本中のどこに行っても東京の言葉で通したがる。私も言葉は99%東京と同じ千葉県北西部出身の人間であるが、京都に住んではいても基本的に東京の言葉しか話さない。関西の言葉も喋ろうと思えば喋れないではないが、自分を偽っているように思えて嫌になる。知り合いにも関東出身者は多いが、東京や関東以外の言葉を話す人はいない。というわけで、関西に住んでいても東京の言葉を話す人は珍しくなく、観ていてもそれほど不自然とは感じない。ただ、やはり技法として用いているのだと思われる。高橋一生は東京都、東出昌大は埼玉県の出身だが、蒼井優は福岡県、坂東龍汰は北海道出身で、東京の言葉の方が演じやすいというわけでもない。

優作は映画好きで(溝口健二の新作映画について聡子に聞く場面がある)フィルムを撮ることを趣味としており、蒼井優演じる聡子の初登場も優作が撮影したフィルムに出てくる怪盗役としてである。

仕事で満州に渡った優作と文雄は、731部隊(石井部隊)の情報を掴む。軍部関係施設で看護婦をしていた草壁弘子(玄理)を通して手に入れた、マルタと呼ばれた人々を対象にした人体実験の記録が記されたノートと満州で撮影されたフィルムを持ち帰った二人。二人に協力した草壁弘子も共に神戸港に帰ってきていた。1940年の暮れ、文雄は福原物産を辞め、有馬温泉の旅館に籠もって小説を書くことを宣言する。だが実は文雄が行おうとしていたのは小説の執筆ではなく、731部隊が行っていた人体実験の記録の英訳であった。
文雄が泊まっていた有馬温泉の旅館「たちばな」で仲居として働いていた女性が水死体となって発見される。草壁弘子だった。

ちなみに草壁弘子演じる玄理のセリフは、ほぼ「あなたは本当に嘘がお上手」だけで、それも夢の中で語られるセリフいう設定なのだが、これが伏線の一つになっている。

若くして貿易商として成功している福原優作の怜悧さが光るドラマであるが、優作と聡子のシーンは長回しが多いのが特徴である。高橋一生も蒼井優もとんでもない実力を持った俳優だということが長回しを観ることでわかる。二人とも舞台の経験も豊富で長時間演じ続けることには慣れているはずだが、技巧面でも感情表出面でも完璧としかいいようのない演技を示しており、それを観るだけでも価値のある映画である。

技法としては、手前に人物がいて奥の別の部屋にもう一人の人物がいるという奥行きのあるアングルや、人物を真正面から捉えるという、最近の映画では余り見かけない構図も用いられている。
兵隊を捉える時のカメラワークも優れており、最初は兵隊達の行進前の訓練に優作が興味を示していないことがカメラの動きでわかるが、まもなく太平洋戦争開戦という頃になると相似形の構図で優作が兵隊と軍靴の足音を避けていることがわかるようになっている。その場面にいる優作以外の人物は兵隊達に向かって万歳を繰り返すなど、完全に時流に乗っている。

「敵を欺くにはまず味方から」という言葉があるが、全ては優作のシナリオ通りとなり、聡子に「お見事です!」と言わせることになる。
一方で、夫婦がずっと愛し合っていることは、優作が別れ際に聡子に語ったセリフと精神病院に入った聡子の様子、そしてラストの字幕でしか仄めかされないのだが、「確実にそう」だとわかるようになっている。語らないことで明らかにするという、黒沢清らしい手法でもある。戦時を描いた作品であるが、最も根底にあるのは愛だ。

個人的に好きなのは、外が見えないためどこを走っているのかわからない市電(ロマンスカー)に人物が乗っている場面である。私が初めて観た黒沢清監督の映画である「CURE」に役所広司とその妻役である中川安奈(2014年に死去)がどこに行くのかわからないバスに乗っているシーンがあるのだが、それを連想する。「CURE」の場合は妻が精神病院に入院することは観ている側もわかっているのだが、そのバス内のシーンだけ現実感がなく、アンバランスである。「スパイの妻」でもやはり先行きが見えない時代の象徴として、非現実感を伴って登場している。

Dsc_0496

| | | コメント (0)

2020年12月16日 (水)

コンサートの記(672) 兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」

2020年12月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」を聴く。タイトルが長いが、要するに第九の演奏会である。

合唱は飛沫が危険ということで、今年の第九演奏会は取りやめになるところが多く、例えば京都市交響楽団は第九の演奏会を中止し、代わりにチャイコフスキー・ガラを行うことが決まっている。PACオーケストラこと兵庫芸術文化センター管弦楽団は、今年から来年に掛けてベートーヴェン交響曲全曲演奏会を予定しており、第九は例年どおり年末に合わせている。公演自体は行われるが、新型コロナ感染者が増えているということもあり、希望者にはチケット料金払い戻しにも応じるという形態が取られている。

演奏の前に指揮者の佐渡裕が現れて、マイクを手にトークを行う。昨日、兵庫県立芸術文化センターの開館15周年記念コンサートがあり、第九の第4楽章とオペラの前奏曲やアリアなどが演奏され、今日明日は第九全曲の演奏となるが、全てチケット完売であり、沢山の拍手をいただけることを幸せに思うという話から入る。春先から演奏会の中止とチケットの払い戻しが続いたが、7月には歌入りのコンサートも行えて嬉しかったこと、それに先駆けて、オンライン参加型で宝塚歌劇の「すみれの花咲くころ」の演奏を佐渡とPACオーケストラで行い、好評を得たことなどを話す。
佐渡は、今月6日に行われた大阪城ホールでの「サントリー1万人の第九コンサート」の指揮者も務めたが、1万人は流石に無理だというので、千人に絞り、無観客公演とすることにしたものの、それでも厳しいというので、最終的には抽選による500人限定の参加とし、他は動画での投稿を募ることになったという。投稿者は音声をイヤホンで聴きながら歌ったものを録画して送るシステムだったようだが、佐渡はそれに合わせて予め決まったテンポで現場の合唱やオーケストラを誘導する必要があったようで、「リモートに合わせるのは大変だった」と語った(予め決まったテンポに合わせて指揮する大変さについては、フィルムコンサートなどを多く指揮しているジョン・マウチェリの著書『指揮者は何を考えているか』が参考になる)。
兵庫県立芸術文化センター大ホールの杮落としとPACオーケストラのデビューが佐渡の指揮する第九であり私も聴きに行ったが、佐渡はPACの年末の第九のうち、5周年と10周年を指揮、そして5年おきということで今年指揮台に立つことになったと語った。
「歓喜の歌」については、「歓喜の歌とはいっても、初演された当時は社会全体が厳しい状態で、そういう時代を喜ぶ歌ではなかった」と語り、合唱の合間やラストにシンバルや太鼓が叩かれる場面があるが、あれは「人類への応援歌」であり、人類への信頼とその先にある歓喜を歌ったものとの解釈を示した。

今日のコンサートマスターは、元大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターで、2019年9月からは日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務める田野倉雅秋。チェロが上手手前側に来るアメリカ式の現代配置での演奏である。ゲスト・プレーヤーとして水島愛子(元バイエルン放送交響楽団ヴァイオイリン奏者、兵庫芸術文化センター管弦楽団ミュージック・アドヴァイザー)、中野陽一朗(京都市交響楽団首席ファゴット奏者)、五十畑勉(東京都交響楽団ホルン奏者)らが参加している。
合唱はひょうごプロデュースオペラ合唱団(マウスシールドを付けての歌唱)。独唱は、並河寿美(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、行天祥晃(ぎょうてん・よしあき。テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。バリトンは当初、キュウ・ウォン・ハンが務める予定だったが、新型コロナ流行による外国人入国規制によって参加出来ず、甲斐が代役を務めることになった。
合唱と独唱者、そしてピッコロ奏者は、第2楽章終了後にステージに登場する。

9月にアルプス交響曲を演奏した時と同様、反響板を後ろに下げることでステージを広くし、ひな壇を設けて、管楽器奏者や独唱者、合唱はかなり高い場所で演奏に加わることになる。

字幕付きの演奏会であり、ステージの左右両側、ステージからの高さ4メートル程のところに字幕表示装置が設置されている。なお、兵庫芸術文化センター管弦楽団の字幕を一人で担当してきた藤野明子が11月に急逝したそうで、おそらくこの第九の字幕が最後の仕事になったと思われる。

若い頃はエネルギッシュな演奏を持ち味とした佐渡裕だが、ここ数年は細部まで神経を行き届かせた丁寧な音楽作りへと変わりつつある。佐渡も還暦間近であり、成熟へと向かっているということなのであろうが、長年に渡って海外と日本を往復する生活が続いているためか、表情が疲れているように見えるのが気になるところである。

第1楽章は、悲劇性というよりもこの楽章が持っている鬱々とした曲調に焦点を当てたような演奏である。ドラマ性を強調せずにむしろ均したような印象を受けるが、おそらく第4楽章に頂点が来るように計算もしているのだと思われる。PACオーケストラは育成型であり、そのためどうしても個性には欠ける。音色の輝かしさはあるのだが、渋みは育成型オーケストラで生むのは難しいだろう。
佐渡もHIPを取り入れており、ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団)と行った第九のツアーでは速めのテンポを採用していたように記憶しているが、今回はテンポは中庸である。低音部をしっかり築くことで安定感を増す手法は、手兵であるトーンキュンストラー管弦楽団を始めとするドイツ語圏のオーケストラとの共演で身につけたものだろう。
第4楽章ではヴィオラ奏者に完全ノンビブラートで演奏させることでハーディ・ガーディのような音色を生むなど、面白い工夫が施されていた。

第2楽章も緻密なアンサンブルが特徴で、宇宙の鳴動を描いたかのような神秘的な音の運動を鮮やかに示している。

第3楽章も自然体の演奏で、音楽が持つ美しさをそのままに引き出す。各楽器が美音を競う。

第3楽章からほぼ間を置かずに突入した第4楽章。第1楽章から第3楽章までの旋律が否定された後で、歓喜の歌のメロディーが登場するのだが、ドラマの描き方や盛り上げ方は最上とはいえないものの優れた出来である。
佐渡は最初の合唱の部分を締めくくる音をかなり長く伸ばす。
新型コロナ対策として、合唱も前後左右を開けた市松配置ということでステージに上がるのは40人であり、日本の年末の第九としては少なめであるため、迫力面では例年に比べると物足りないが、合唱の精度自体は高い。
最後の追い込みは佐渡はかなり速めのテンポを採るのが常だが、PACオーケストラの技術は高く、余裕すら感じさせるアンサンブルであった。

疫病の蔓延した年に第九を演奏する意義についてだが、シラーが書いた詩に出てくる「薔薇」というのは、華やかな薔薇ではなく、どうやら茨のことのようで、ここで描かれているのはバラ色の道を行くのではなく、皆で試練の道を乗り越える過程のようである。確かにシラーがお花畑な詩を書くとは思えない。そして自然が与えた茨とのことなので、今の状況下にも当てはまる。
天使も出てくるが、ここでいう天使とはエンジェルではなく、半獣半人の智天使ケルビムであり、楽園の前に立ちはだかる存在である。ただ、ケルビムに会えているということは、人類が楽園の一歩手前まで来ていることを示してもおり、理想社会実現の可能性がこの先にあるということでもある。ただそれは試練の時でもあり、救済はまだ訪れていない。
21世紀も序盤から中盤に入りつつあるが、ここに来て人類は全て平等で自由な社会から大きく遠ざかってしまったように思う。日本に関しては希望に乏しく、暗い未来を描くのは容易いが明るい未来は現実味がないというのが現状ではある。だが、コロナ禍という茨の道を全世界で乗り越えた暁には、可能性は低くとも新たな地平が待ち受けているような、そんな希望をシラーとベートーヴェンは照らし続けてくれているよう思う。

アンコールとして、ヴェルディの歌劇「椿姫」より“乾杯の歌”が演奏される。「楽園」繋がりである。ベートーヴェンの楽園とヴェルディの楽園とでは言葉は同じであっても意味するものは異なるが、音楽という美しくも儚い楽園に浸る喜びとして私は楽しんだ。

Dsc_0479

 

| | | コメント (0)

2020年12月15日 (火)

配信公演 坂本龍一 「Ryuichi Sakamoto Playing the Piano 12122020」(文字のみ)

2020年12月12日

午後7時半から、坂本龍一の有料配信コンサート、「Ryuichi Sakamoto Playing the Piano 12122020」を視聴。高画質・高音質配信が可能なMUSIC/SLASHを使っての配信である。
配信の本番が始まる前に、坂本龍一が屋外で皿などを割る模様を捉えた映像が流れ、要約すると「2020年は否応なしに変化を求められる年となった」という意味の字幕が流れる。

7時30分から、まずアーティスト、インタラクションデザイナー、プログラマで今回の演出を任された真鍋大度(まなべ・だいと)へのインタビュー映像が流れ、コロナでの自粛期間中、配信の公演は沢山観たし、Zoomで色々な人と話したりもしたが、身体が感じられなかったといったようなことを語る。
今度は、真鍋がインタビュアーとして坂本龍一に質問をすることになるのだが、犬型のロボットにスマホ状(スマホそのものなのかも知れないがよくわからず)をセットし、犬型ロボットがガシガシとした足取りで坂本龍一のいる部屋に赴くという趣向になっている。

坂本龍一の住むニューヨークの街はかなり厳しくコントロールされており、4段階ある安全基準の今は3段階目だそうで、レストランに定員の25%までなら入れていいなど、細かな決まりがあるそうである。
ブロードウェイの俳優やダンサー、ミュージシャンなどは仕事が完全になくなってしまったため、ストリートで様々な芸を披露したりしているという。
犬型ロボットの動きに無駄がなくて不自然だという話から、坂本は雨音が大好きでずっと聴いていられるという話になり、「ベートーヴェンやマーラーが色々構築した音楽を書いているけれど、結局のところ雨音に勝てないんじゃないか」と最近では思うようになっているそうである。
ピアノの演奏に関しても変化はあるそうで、ピアノの弦の一本一本の響きを味わいながら弾くことが最近では好きなのだが、それだとどうしてもテンポが遅くなり、昔からのファンに、「最近、ピアノ遅くないですか?」と指摘されるそうである。

本編では、まず円形オペラ劇場のようなところでの演奏から始まる。真鍋から受けたインタビューにより、坂本は帰国して2週間の隔離を経ており、東京で配信のための演奏を行うことは知らされていたのだが、東京にああいった劇場があるとは思えないため、CGか合成だろうと思われるわけだが、最近の技術力はかなり高いようで、実際に円形オペラ劇場にいるように見える。その後、背景は変化し、雲の上にいるようになったり、浜辺で弾いているように見えたり、白い壁と白枠の大きな窓のある部屋の中に移ったりする。

曲目は王道で、「async」の第1曲である「andata」に始まり、「美貌の青空」、「青猫のトルソ」、「BEFORE LONG」、「シェルタリング・スカイ」、「ラストエンペラー」、「戦場のメリークリスマス」、「PERSPECTIVE」などの代表曲が次々に弾かれていく。坂本龍一のピアノコンサートには2度行ったことがあるが、また参加してみたくなる。

最後のピアノ曲は、無印良品のCM曲「MUJI2020」。これが公開初演になるという。その後に、冒頭の映像で坂本が割っていた皿の断片などを使ったノイズミュージックが奏でられる。音と雑音の境界への挑戦であった。

| | | コメント (0)

2020年12月13日 (日)

観劇感想精選(377) 「戸惑いの日曜日」(「アパッチ砦の攻防」より)2006

2006年9月12日 大阪・新町の大阪厚生年金会館(ウェルシティ大阪)芸術ホールにて観劇

大阪へ。新町にある大阪厚生年金会館(ウェルシティ大阪)芸術ホールで、『戸惑いの日曜日』(「アパッチ砦の攻防」より)を観る。10年前に東京ヴォードヴィルショーが初演した三谷幸喜作の「アパッチ砦の攻防」に三谷自身が加筆したテキストを用いて、1999年に名古屋のみで上演された舞台の再演。演出・出演:佐藤B作。佐藤B作の他、あめくみちこ、佐渡稔といった東京ヴォードヴィルショーのメンバーに加え、西郷輝彦、細川ふみえ、中澤裕子らが出演する。

かなり前の方の席であった。幕が上がると佐藤B作と中澤裕子が板付きでいるのだが、第一声を発するまで中澤裕子が極度の緊張状態にあることがありありと伝わってくるほど前の席である。
中澤裕子ももうベテランだが、やはり舞台は──特に第一声を発するまでは──幾つになっても極度に緊張するものらしい。

東京・代々木上原の超高級マンション「フォート・アパッチ」の一室。鏑木(佐藤B作)が離れて暮らす娘のちよみ(中澤裕子)の婚約の報告に喜んでいる。しかし実は鏑木は4日前まではこの部屋の住人だったのだが、借金返済のためすでに部屋を売り払っており、今のこの部屋の主は引っ越してきたばかりの鴨田(西郷輝彦)という男だ。しかし、鏑木は見栄のため、今は四畳半のアパートに越したと娘に言うことが出来ず、大家に返したふりをして持ち続けていた合鍵を用い、鴨田の留守を狙って、娘を呼び、今でも高級マンション暮らしをしているように装っているのだ。
娘に良い暮らしをしているよう見せかけることに成功し、さっさと帰ろうとする鏑木。しかし、鴨田が腰を痛めて、ゴルフを早めに切り上げて帰ってきてしまったことからややこしいことになり……。

状況設定も人物設定も嘘くさいが、もともとこの手の劇はそうしたものだし、それを承知で楽しみに来ているので問題はない。こんな人は絶対にいない、というより実際にいたら怖いという人物が次から次に出てくるが、ありふれた人が出て来てもコメディーにはならないので、傷とはしない。演劇は「リアルごっこ」でも「もっともらしさを競うゲーム」でもないのだから。

「古畑任三郎」の風間杜夫がゲストの回に似たところのある展開。細部はよく詰められており、笑わせ所も気持ちいいくらいビシッと決まる。

第1幕80分、第2幕70分という大作であったが、最後の最後まで客を惹きつけ、笑わせることに成功していた。作品の内容自体はそう大したものではないかも知れないが、笑わせる技術の高さにはやはり感心する。作品のクオリティーを上げるより、笑いの回数を増やす方が難しいはずなので、大成功といってもいいだろう。

| | | コメント (0)

2020年12月12日 (土)

観劇感想精選(376) 當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部「末広がり」&「廓文章」吉田屋

2020年12月7日 京都四條南座にて観劇

午後6時40分から、京都四條南座で、當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部を観る。新型コロナの影響により、密集を避けるために3部形式となった今年の南座での顔見世。座席も前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応であり、歌舞伎の華である声掛けも禁止ということで寂しいが、顔見世が観られるというだけで感謝しないといけないのだろう。もっとも私自身は毎年顔見世に行っているわけではなく、行かない年もある。

Dsc_0457

「顔見世」の第3部の演目は、「末広がり」と「廓文章(くるわぶんしょう)」吉田屋。コロナの影響で余り長い演目は出来ないが、「末広がり」と「廓文章」吉田屋は特に短く、「末広がり」が30分弱、「廓文章」吉田屋も45分程度である。

2階ロビーに立てられた口上の中には、「あまびえ」が隠れており、その後に続く疫病封じの神である祇園社(現在の八坂神社)と共に新型コロナ調伏の願が掛けられている。

 

「末広がり」の出演は、尾上右近(音羽屋)と中村米吉(播磨屋)。長唄囃子は全員、口の前に黒い布を垂らしており、頭巾を被っていない大谷吉継が並んでいるかのようである。

狂言を原作とした狂言舞踊であり、安政元年(1854)に三世桜田治助の作詞、杵屋三郎助の作曲により、江戸中村座で初演されているという。原作の主が女大名に置き換えられており、ラストは二人で華やかに踊れるよう改められている。

近年の女形は、裏声でなくかなり女性に近い声を出せる人が多い。猿之助一門(澤瀉屋)に多いのだが、播磨屋である中村米吉も女性そっくりの声を出す。舞台は京都に置き換わっているようで、太郎冠者は「都」という言葉を使っている。
米吉演じるキリッとした女大名に対し、尾上右近演じる太郎冠者は酔っ払いながら花道を歩いて登場。ユーモラスである。
本来ならもっと笑いが起こるはずなのだが、やはりコロナの患者数が増加している最中ということで、客席は遠慮がちな笑いに留まる。

タイトルにある「末広がり」というのは扇のことであり、女主人は恋しい人に自作の歌を綴った扇を送ろうと考え、太郎冠者に末広がりを買うよう申しつけたのだが、太郎冠者は末広がりが何かわからず、街を「末広がり買いましょう」と言いながら歩き回ったため、騙されて傘を買わされてしまった。帰ってきた太郎冠者は末広がりとは傘のことだと言い張る。確かに傘も末は広がっている。女主人は激怒するが、太郎冠者が申の舞を披露したため機嫌を直し、共に目出度い唄と舞を行う。尾上右近は傘の上の鞠を回すという、目出度い芸も披露した。

「末広がり」というタイトルからしてハッピーエンだとわかる作品であるが、申は「去る」に繋がるため(鬼門には鬼が「去る」よう猿の像が置かれることが多い)、今の状況に去って欲しいという願いを込めて、この演目が選ばれたのかも知れない。

Dsc_0455

 


「廓文章」吉田屋。原作は近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」という人形浄瑠璃のための本で、これが歌舞伎化され(歌舞伎台本に直した人物の名前はわかっていないようである)、更に六世菊五郎が再構成したのが今回上演される「廓文章」である。

出演は、松本幸四郎(高麗屋)、片岡千壽(松嶋屋)、片岡千太郎(松嶋屋)、澤村由蔵(紀伊國屋)、中村雁洋(成駒家)、澤村伊助(紀伊國屋)、片岡りき彌(松嶋屋)、片岡千次郎(松美屋)、中村壱太郎(成駒家)。

大坂が舞台である。新町遊郭の吉田屋の店先に編笠に紙衣装の男が現れる。吉田屋の下男(片岡千次郎)は、男を乞食か何かと勘違いして追い払おうとするが、主である喜左衛門の妻であるおきさ(片岡千壽)がそれを止める。編笠の中をのぞき込んだおきさは、男の正体が大坂屈指の大店である藤屋の若旦那、伊左衛門(松本幸四郎)だと気付く。伊左衛門は、新町の名妓・夕霧(実在の人物である。演じるのは中村壱太郎)に入れあげ、多額の借金を作ったため、親から勘当されたのだ。粗末ななりに変わった伊左衛門だが、夕霧が病を得たというので、心配して吉田屋までやって来たのである。
部屋に上がって夕霧を寝ながら待つことになった伊左衛門だが、目覚めてみると手持ち無沙汰であり、床の間にあった三味線を取り上げて弾いたり(一部は実際に幸四郎が奏でている)、夕霧と疎遠になったことを嘆いたりする。いったんは夕霧に会わずに帰ろうと決めた伊左衛門だが、割り切れず、部屋に残ることになる。夕霧が現れた時のことを考えて格好良く見えるポーズを考えたりする伊左衛門。
夕霧が現れる。具合は大分悪そうだが、相変わらず可憐である。伊左衛門は夕霧に掛ける言葉を見つけることが出来ず、「万歳傾城!」などとなじってしまい、今宵で二人も最後かと思えたのだが……。

「末広がり」もそうだったが、「廓文章」吉田屋も「雨降って地固まる」話になっている。南座の2階に書かれていた口上にも現れていたが、危機を乗り越えて更なる発展を期したいという歌舞伎界の祈りが込められた作品である。「今」に合うものを選んだのであろう。
ちなみに、みなで大阪締めを行う場面があるのだが、セリフこそないものの、「ここは観客にも参加して欲しいのだろうな」というのが空気でわかったため、私を含めて参加した人が結構いた。声掛けは出来ないが、違った形での一体感を得ようと試行錯誤しているのが伝わってくる。

伊左衛門を演じる幸四郎は、女形をやった経験から得たものを立役である伊左衛門に生かしているのがわかる。女形の演技を転用することで、育ちが良くて純粋で時にコミカルというボンボン像を巧みに表してみせる。
先代の幸四郎(現・二代目白鸚)が、ザ・立役という人であるため、例えば弁慶などの男っぽい役をやった場合は、当代が一生涯かけても先代に追いつくことは難しいように思われるのだが、伊左衛門役は先代には出来ないため(実際、やったことは一度もないようである)高麗屋の新しい当たり役となる可能性は高い。見た目が優男なのもプラスに働く。これまで伊左衛門を演じて当ててきたのは、坂田藤十郎、仁左衛門、愛之助、四代目鴈治郎、三代目扇雀といった上方の俳優達だが、幸四郎は3年連続で伊左衛門を演じており、江戸の歌舞伎俳優として新たなる伊左衛門像を打ち立てつつある。

Dsc_0449

| | | コメント (0)

2020年12月11日 (金)

これまでに観た映画より(234) 「デストラップ・死の罠」

2006年8月29日

DVDでアメリカ映画「デストラップ・死の罠」を観る。ブロードウェイで大ヒットしたアイラ・レヴィン作の同名舞台の映画化。「12人の怒れる男」のシドニー・ルメットと「パトリオット・ゲーム」のフィリップ・ノイスの共同監督作品。「サイダーハウス・ルール」のマイケル・ケイン、「スーパーマン」でお馴染みのクリストファー・リーヴ主演。

スリラー専門の劇作家のシドニー・ブリュール(マイケル・ケイン)はブロードウェイのロングラン記録を持つほどの大作家であるが、最近は失敗作ばかり。最新作も酷評され、意気消沈してニューヨーク州イースト・ハンプトンの自宅に戻ったシドニーを妻のマイラ(ダイアン・キャノン)が出迎える。シドニーは「更に頭に来ることがあった」と言う。クリフ・アンダーソン(クリストファー・リーヴ)という大学の教え子が「死の罠」という戯曲を送って来たことを知らせる。「死の罠」は傑作であり、シドニーはクリフ・アンダーソンを殺害して、「死の罠」を自作として発表しようと持ちかける……。

二重三重のどんでん返しが仕掛けられたスリラーで、これならブロードウェイでヒットしたのも肯ける。ただ、現在の日本で「死の罠」を上演しても成功するかどうかは微妙だと思う。

演劇が原作であるということを意識して、役者の演技もわざと大袈裟になっている。特にダイアン・キャノンの長ゼリフは「そこまでやるか」と思えるほど身振りの大きな演技を見せ、笑わせてくれる(映画の観客を笑わせるためにわざとやっていると見て間違いない)。

入れ子構造を用いたり、わざとキャラクターの奥行きを浅くしてそれが罠であったことを後になって観客に悟らせる技法など、感心させられるところも多い。演技もストーリーもリアリズムから外れたものを目指しており(外連のためだろう)大人の観客はニヤリとさせられるだろう。ただ、リアリズム絶対病にかかっているといってもいい現代日本人が見ると、その「わざとわざとらしくやる魅力」は伝わらない可能性が高い。かくいう私もリアリズム絶対病に多少なりとも罹患しているためだろう、心理的に入り込めない箇所があった。

| | | コメント (0)

2020年12月10日 (木)

これまでに観た映画より(233) レオポルド・ストコフスキー出演 「オーケストラの少女」

2006年8月27日

DVDでアメリカ映画「オーケストラの少女」を観る。1937年の作品。往年の名指揮者レオポルド・ストコフスキーが本人役で出ている。

ニューヨーク。パトリシア(愛称:パッツィ)の父親であるジョンは腕の良いトロンボーン奏者なのだが、第二次世界大戦前の混乱期ということもあり、2年もの間失業状態にある。レオポルド・ストコフスキーが指揮するオーケストラに売り込みをかけるジョンだったが、スタッフから「募集はしていない」と演奏も聴いて貰えずに追い返される。帰りのタクシー乗り場でたまたま財布を拾ったジョンはその財布を劇場に届けようとするが、勘違いしたスタッフに「しつこい」と追い返される。しかたなく財布を預かって家に戻ったジョンだったが、大家さんから家賃をせがまれて拾った財布からお金を出して払ってしまう。それを見たパッツィはジョンがストコフスキーのオーケストラに採用されたのだと思い込んで大はしゃぎ。父親のジョンも娘を落胆させないために演技をするのだが、ばれてしまう。
財布に名前があったのでその持ち主フロスト夫人の元に返しにいくパトリシア。しかしお金持ちで気まぐれのフロスト夫人はオーケストラを新たに創ろうという考えに冗談半分でOKを出してしまう。
パトリシアは早速、失業音楽家を集めてオーケストラを編成するのだが……。

展開の速さと嘘くささが特徴の映画だが、これは20世紀前半の大人のためのお伽話。おかしなところを指摘するのは簡単だが、それは野暮というものだろう。

製作年代が古いということもあって音声に難ありで、音が潰れて聞き苦しい場面もあるのだが仕方ないだろう。

失業音楽家の寄せ集めオーケストラが、顔を合わせてすぐにまとまったアンサンブルを示すのは不自然に見えるが、実は第二次大戦後のロンドンで失業楽団員を中心に編成されたフィルハーモニア管弦楽団というオーケストラが生まれている。大戦後の混乱でソリスト級や首席奏者クラスでありながら仕事にあぶれていた音楽家が数多く入団したため極めて高度なアンサンブルを持つこと知られ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で残した録音がフィルハーモニア管のレベルの高さを示している。というわけで、優れた演奏家というものは集まってすぐに高度なアンサンブルを示しても不思議ではないのかも知れない。

| | | コメント (0)

2020年12月 9日 (水)

観劇感想精選(375) 串田和美独り芝居「月夜のファウスト」

2020年12月4日 伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて観劇

午後7時から、伊丹市立演劇ホールAI・HALLで、串田和美の独り芝居「月夜のファウスト」を観る。今年の5月末に串田和美が松本市で思い立ち、Facebookのみで宣伝をして行った公演を、伊丹、北九州、松本の3カ所で再演するツアー。今日が全公演の初日である。

2月末以降、演劇人は一斉に自粛を求められ、「芝居やらないでくれって言われても、ずっと芝居しかやってこなかったし」と串田も不満であったが、松本市内を自転車で散策していた際、旧制松本高校跡地に出来た、あがたの森公園という場所で池の畔にある四阿(あずまや)を発見する。「ここでなら風通しも良いし、大丈夫なんじゃないか」ということで、Facebookに「みなさん、突然ですが、独り芝居をやってみようと思い立ちました」と書き込み、ライフワークとして何度も上演してきた「ファウスト」を独り芝居用に構成しなおしたものが上演された。

今回の上演は、AI・HALLの窓口と電話のみでのチケット受付であり、私は電話で予約を入れた。午後6時15分から受付が開始されて整理券が配られ、午後6時30分開場となる全席自由である。まだそれほど多くの人は入れられない。

実は先約があったのだが、串田和美の独り芝居なら観ないわけにはいかない。明日もマチネーがあるが、土曜出勤の日であり、行けない。ということで伊丹へと向かった。午後6時15分に間に合うかどうか微妙だったが、そう大きな会場ではないし、特等席である必要もないし、と特に慌てはしなかった。結果としては、午後6時12分頃にAI・HALLの前に着いた。整理番号は6。大抵の日本人には関係がないが、「6」は中国語ではラッキーナンバーである。

前から2列目に着座して待っていると、午後6時45分頃に串田和美が太鼓とバッグを持ってふらりと現れる。

箱馬の上に平台を3つ並べただけというシンプルな舞台。背後も平台を立てて並べただけである。平台の舞台の外に学校で使うような机と椅子、キッチンテーブルなど置かれているが、それらを串田は自分で持ち上げて舞台の上に並べ、バッグの中から小さな鉄琴やバチなどの小道具を取り出す。バッグは後ろに放り投げる。

串田はいったん舞台を降りて、スタッフと会話を交わしたりしたのだが、舞台に戻って、「早く来過ぎちゃった」と語り、客席からの笑いを誘う。今日が初日ということで気が急いたということもあるが、劇場での上演は初めてなので時間配分がわからなかったようである。

ゲーテの序文の代わりに串田和美の個人的な思い出に絡められて語られる「ファウスト」であり、どこからがスタートと正確には決まっていないのだが、「ここは初めてですが、良いホールですね。市立、市のホールですか?(観客、一斉にうなずく) 市立ぐらいだといいんですけどね……」、後は愚痴になるので書かないでおく。

まつもと市民芸術館の館長でもある串田和美。あがたの森公園での上演は、先に書いた通り、Facebookのみでの宣伝となったため、お客さんが来てくれるかどうか不安だったのだが、結構来てくれたそうである。ただ、小劇場出身者であるため、「詰めて! 詰めて! そこ一人座れる!」と言ってきたのに、あがたの森公園では、「(間を)空けて! 空けて!」と、初めて逆のことを言うことになったそうだ。プライベートな公演ということで小道具なども全部自分で自転車に乗せて運んだという。会場には、あがたの森公園で録音したという自然音が流れている。

「記憶」についての話から本編はスタートする。「意味もないのになぜか覚えていること」が誰にでも存在していると思うが、串田の最初の記憶は、まだハイハイをしている頃のもので、ボールか何かが転がったのでハイハイして追いかけていって、文机の下をのぞき込んだというのが最も古い記憶だそうである(どうでもいいことだが、私自身もハイハイしていた頃の記憶がある。母親と祖母のセリフも覚えている。そしてそれは最初の記憶では多分ない)。串田和美は、Wikipediaなどによると出身地は東京都小金井市となっているが、串田本人が語るところによると生家は都心の麹町だそうである。戦中生まれであり、空襲が激しくなると、山形県新庄市の近くの田舎に疎開。戦争が終わって東京に帰ってきてみたら都心は一面の焼け野原だったため、吉祥寺のそばの牟礼という町の借家で10年ほど過ごしたそうである。テレビもゲームも何もない時代。遊びは全部、自分達で考えて作り出していた。

今でこそ吉祥寺はハイソと庶民的情緒を兼ね備えた街で、「住みたい街ランキング」の上位に常に入るが、当時は本当に雑多な場所であり、家がない人は原っぱに勝手に掘っ立て小屋を建てて家族で住んでいたりしたそうである。そんな人もひっくるめて街全体で生きてきたそうで、「隣に住む家族のことすら知らない」今とはかなり違うようである。いい年をしているが学生服を着て演説して歩く「新川のまあちゃん」など不思議な人も沢山いた。
子どもなので、みんなであだ名を付けて遊んだりもしたのだが、目つきが鋭くて地下足袋を履いているおじちゃんに「泥棒」というあだ名を付けたりもしたそうだ。その「泥棒」さんの自宅を覗きに出掛けたこともあるのだが、針金で後光を作ったマリア像があったそうで、神々しさに息をのんだ記憶があるそうである。

進駐軍がジープから投げ捨てたものを拾って匂いを嗅ぎ、「アメリカの匂いがする」と言ったこともあるそうだが、それは屈辱でもあったそうだ。

近所にボケたお爺さんがいたのだが、ある日、立派な馬車がお爺さんを迎えに来たそうである。御者も仁丹の広告のような帽子を被って白馬を操っていた。ということでボケたお爺さんの正体が気になるのだが、今でも何だったのかはわからないそうである。

紙芝居も楽しみだった。ダムロット(だったかな?)と、しゃも爺というあだ名の二人の紙芝居屋がいたそうで、ダムロットは太鼓を叩きながら大きな声で語るのだが、太鼓の音も大きいし何を言っているのかわからない(ここで串田は太鼓を叩き、ハーモニカを吹く)。というわけで、しゃも爺の方が人気だった。ちなみに顔がしゃもじに似ていたため、しゃも爺というあだ名が付いたそうである。
紙芝居の話から、すってんころ助というキャラクターが生まれる。

やがて、郊外に謎の老人がいるという話が始まる。学識の高い老人で、「発明実験場」と看板を掲げた小屋も持っている。ある日、猟師を名乗る紳士が老人を訪れ、「錬金術を行って欲しい」と頼んだという辺りから「ファウスト」っぽくなり始め、ドイツの地名が語られて舞台は移り、ファウスト博士の「何も知り得ぬ」という苦悩のモノローグとなる。助手のワグナーが現れ、更にすってんころ助も助手として採用される。人形のアウエルハーンも登場し、すってんころ助と「魂」について語ったりする。
月の思い出を語るうちに、悪魔がやって来たことに気付くファウスト。ただ、悪魔でありながらどうにも頼りない人が多く、最後に大袈裟に現れたメフィストフェレスが一番気の利いたことを言ったため、ファウストはメフィストフェレスと契約を交わすことになる。

あらすじは、まだ書こうと思えば書けるのだが、あらすじ(「やっぱり串田和美は江戸っ子だねえ」という展開を見せる)以上に重要なのは串田和美の存在である。1960年代から本格的な演劇活動を始め、オンシアター自由劇場などで数々の伝説を作ってきた串田和美。私も21世紀に入ってから串田の舞台にはたびたび接しており、例えばシアターコクーンで観た「上海バンスキング」や、松たか子主演でリバイバル上演が行われた「もっと泣いてよフラッパー」など、オンシアター自由劇場時代の作品も楽しんだのだが、それらはあくまでも21世紀版として上書きされたものという印象を受けたのも確かで、私が生まれる前の時代、あるいは私が生まれてまもなくの時代という作品が誕生した頃の空気感は実のところ余り感じ取れないものでもあった。
ただ、串田和美が一人で自身のことを絡めて語る今回の上演からは、「私が生まれる前の時代に対する強烈な郷愁」を感じ取った。あたかもその時代に、串田和美のような紙芝居屋を前にした子どもであった記憶が存在するかのような不思議な感覚である。

実際、そんなはずはないのだが、テレビも何もなく、想像の世界で遊び回っていた時代の記憶が確かに存在する。それは嘘の記憶のはずなのだが、妙にリアルである。ただ、これこそが目の前にいる俳優を観て想像を駆け巡らせる観劇という行為の醍醐味なのだと、改めて実感する。残念ながら映像では無理である。どんなに優れた映像であっても、それは向こうの世界のお話である。場を共有する人物と協働で描くイリュージョンは演劇だからこそ成立するのだ。

この世で上手に迷子になれた気分で、異世界のような伊丹郷町を抜けて帰路に就く。


Dsc_0430

| | | コメント (0)

2020年12月 8日 (火)

これまでに観た映画より(232) 手塚治虫原作 手塚眞監督作品「ばるぼら」

2020年12月2日 京都シネマにて

京都シネマで「ばるぼら」を観る。日本・ドイツ・イギリス合作映画。原作:手塚治虫。監督は息子の手塚眞。脚本:黒沢久子。撮影監督:クリストファー・ドイル。音楽:橋本一子。出演は、稲垣吾郎、二階堂ふみ、渋川晴彦、石橋静河、美波、大谷亮介、片山萌美、ISSAY、渡辺えり他。9月に自殺という形で他界してしまった藤木孝も大物作家役で出演している。

手塚治虫が大人向け漫画として描いた同名作の映画化である。原作を読んだことはないが(その後、電子書籍で買って読んでいる)、エロス、バイオレンス、幻想、耽美、オカルトなどを盛り込んだ手塚の異色作だそうで、そうした要素はこの映画からも当然ながら受け取ることが出来る。

主人公は売れっ子作家の美倉洋介(稲垣吾郎)である。耽美的な作風によるベストセラーをいくつも世に送り出し、高級マンションに住む美倉。美男子だけにモテモテだが、未婚で本命の彼女もいない。秘書の加奈子(石橋静河)や、政治家の娘である里見志賀子(美波)が思いを寄せているが、美倉は相手にしていない。仕事は順調で連載をいくつも抱えているが、「きれいすぎる」ことばかり書いているため、奥行きが出ておらず、才能に行き詰まりも感じていた。

ある日、美倉は新宿の地下街で寝転んでいたホームレス同然の女(原作漫画では「フーテン」と記されている)ばるぼら(スペルをそのまま読むと「バーバラ」である。二階堂ふみ)を見つける。ヴェルレーヌの詩を口ずさんだばるぼらに興味を持った美倉は自宅に連れ帰る。実は美倉は異常性欲者であることに悩んでいたのだが、自分のためだけに書き上げたポルノ小説風の原稿をばるぼらに嘲笑われて激怒。すぐに彼女を家から追い出すが、それから現実社会が奇妙に歪み始める。

街で見かけた妖艶な感じのブティックの店員、須方まなめ(片山萌美)に心引かれた美倉は、彼女の誘惑を受け入れ、店の奥へ。美倉のファンだというまなめだったが、「何も考えずに読める」「馬鹿な読者へのサービスでしょ」「頭使わなくていい……ページ閉じれば忘れちゃう」と内心気にしていることを突きまくったため美倉は激昂。そこに突然ばるぼらが現れて……。

長時間に渡るラブシーンあるのだが、ウォン・カーウァイ監督映画でスピーディーなカメラワークを見せたクリストファー・ドイルの絶妙のカメラワークが光り、単なるエロティシズムに終わらせない。美醜がない交ぜになった世界が展開されていく。

ばるぼらの登場により、美倉の頭脳と文章は冴え渡るようになる。美倉はばるぼらのことをミューズだと確信するのだが、ばるぼらは映画冒頭の美倉のナレーションで「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、垂れ流した排泄物のような女」と語られており、一般的なミューズ像からは大きくかけ離れている。取りようによっては抽出物ということでもあり、究極の美と醜さの両端を持つ存在ということにもなる。

原作では実際にミューズのようで、バルボラ(漫画内では片仮名表記である)と会ったことで美倉はテレビドラマ化や映画化もされるほどの大ベストセラー『狼は鎖もて繋げ』を生むようになるが、バルボラと別れた途端に大スランプに陥り、6年に渡ってまともな小説が書けなくなってしまう。そして時を経てバルボラの横でバルボラを主人公にした小説を書き始める。のちに大ベストセラー小説となる長編小説『ばるぼら』がそれだが、美倉は執筆中に小説に魂を奪われてしまうという展開になっている。

この映画でも、ラストで美倉が『ばるぼら』という小説を書き始めるのだが、その後は敢えて描かずに終わっている。

この映画では、美倉の作家仲間である四谷弘之(原作では冒頭のみに登場する四谷弘之と、筒井隆康という明らかにあの人をモデルとした作家を合わせた役割を担っている。演じるのは渋川晴彦)がミューズについて、「お前にミューズがいるとしたら加奈子ちゃんだろ?」と発言している。美倉が売れない頃から苦楽を共にしてきた加奈子。清楚で真面目で家庭的で頭も良くて仕事も出来てと良き伴侶になりそうなタイプなのだが、それでは真のミューズにはなり得ないのだろう。おそらく耽美派の作家である美倉にとって、創作とは狂気スレスレの行いであろうから。

SMAP時代から俳優活動にウエイトを置いてきた稲垣吾郎。風貌も耽美派小説家によく合い、演技も細やかである。優等生役から奔放な悪女まで演じる才能がある二階堂ふみは、真の意味でのミューズとしてのばるぼら像を巧みに現出させていたように思う。出番は多くないが、美波、石橋静河、片山萌美も印象に残る好演であった。

Dsc_0403

| | | コメント (0)

2020年12月 6日 (日)

観劇感想精選(374) 「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演2020

2020年11月29日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演を観る。
2年に1度のペースで春秋座で公演が行われている「琉球舞踊と組踊」。今回の琉球舞踊は、琉球王朝時代ではなく、廃藩置県や琉球処分による日本の沖縄県となった後で生まれた芸能が披露される。

まず、国立劇場おきなわの芸術監督である嘉数道彦が、ウチナーグチによる挨拶を行い、それをヤマトグチに直す。今年は平年よりも気温は高めだが、「やはり京都は寒い」とのことである。
そして沖縄芸能の歴史について話す。琉球舞踊は、元々は宮中の祝賀や年中行事で披露されていたものであり、庶民は観る機会がほとんどなかったのだが、王朝時代が終わり、沖縄県になると、上演の場を芝居小屋に移すことになる。ただ王族や貴族向けの内容であったため洗練され過ぎている上に一定の教養がないとわからないということで、客足が絶えるようになってしまう。そこで生み出されたのが雑踊(ぞうおどり)というものであり、庶民を主人公とし、市井の風俗を描いた平易な作風であるため人気を博するようになった。今回は前半に雑踊作品が並んでいる。

第一部・琉球舞踊。演目は、「鳩間節」(踊り手:田口博章)、「むんじゅる」(踊り手:山城亜矢乃)、「金細工(かんぜーくー)」(指導:宮城能鳳。踊り手:石川直也、新垣悟、阿嘉修)、「木花風(むとぅはなふう)」(踊り手:宮城能鳳)、舞踊喜劇「戻り駕篭」(踊り手:金城真次、玉城匠、山城亜矢乃)。日本語(というと変かも知れないが、いわゆる大和言葉)字幕付きでの上演である。

地謡は、西江喜春(にしえ・きしゅん。地謡指導兼)、花城英樹、玉城和樹(たましろ・かずき)、和田信一(わだ・のぶかず。以上、歌三線)、安慶名久美子(あげな・くみこ。箏)、宮城英夫(笛)、平良大(たいら・だい。胡弓)、久志大樹(太鼓)。

 

日本舞踊もそうだが、琉球舞踊も身体全体を大きく見せているが、手や足は実は最短距離を通っており、無駄がない。演者は全て「最高賞受賞」「新人賞受賞」「師範」など華麗な経歴や肩書きを誇る人々で、沖縄の優れた芸能を堪能することが出来る。

沖縄県になってから生まれた雑踊ということで日本本土の芸能が積極的に取り入れられており、空手、かっぽれ、チャンバラ、狂言などお馴染みの芸が登場する。

「金細工(かんぜーくー)」は、芝居仕立てである。金細工(鍛冶屋のことだそうだ)の加那兄は、遊女の真牛を一月も連れ回してる。本当は身請けしたいのだが金がない。ということで商売道具を売ろうとするのだが上手くいかず、身をはかなんで身投げしようとしたところに左官の長兵衛が、とはならない。真牛が揚げ代は自分で払うということで、ハッピーエンドへと向かっていくという話である。

「本花風(むとぅはなふう)」は、非常にゆったりとした踊りであり、前半の演目の中では異色である。踊り手の宮城能鳳(みやぎ・のうほう)は人間国宝指定保持者であり、今回の「本花風」の振付も手掛けている。男との別れを描いた作品であり、さりげない仕草に哀感がにじむ。
登場する際も退場の際も同じようなゆっくりとした足取りだが、前者は別れへの怖れ、後者は去りがたき未練にように見え、全体をかなり緻密に練り上げているという印象を受ける。

舞踊喜歌劇「戻り駕篭」は歌舞伎舞踊「戻籠」の一部を原作に、今日も出演する玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)が創作した作品で、タイトル通りの舞踊劇となっている。駕篭かき二人が、美女を乗せた駕篭を走らせているのだが、やがて取り合いとなる。駕篭かき二人は杖を刀代わりにチャンバラを行うなど外連味も十分。この作品では、踊り手がセリフを発し、地謡が同じ言葉を返すという趣向が特徴となっている。美女だと思っていたら実は……、という展開は狂言の「吹取」や「業平餅」と同様である。

 

第二部・組踊。演目は「二童敵討(にどうてきうち)」。まずは嘉数道彦による解説がある。タイトル通り、二人の童が敵を討つ話なのだが、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が、1719年に中国(当時は清王朝)からの冊封使をもてなすために創作した最初の組踊二編のうちの一編だそうである(もう一編は「道成寺」の翻案である「執心鐘入」)。昨年は組踊の初演から300年ということで琉球芸能にとって特別な年となったようだ。
組踊は、歌舞劇の一種であるが、琉球オペラや琉球ミュージカルとも言われており、地謡に特徴があるという。
玉城朝薫は、当時琉球が二重朝貢として使者を送っていた薩摩、更には江戸にも滞在し、能や狂言、歌舞伎などに触れたことがあるそうで、組踊創作の際に影響を受けたと思われる。

冊封使をもてなす場で上演されるということで、往時の組踊は士族の男子のみが演じることを許されていたそうである。

兄弟が父親の敵を討つという話であり、「曾我兄弟」を思い起こさせるが、「二童敵討」に登場する鶴松と亀千代の年齢はそれぞれ13歳と12歳で、曾我兄弟よりも更に若い。

出演は、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ。あまおへ)、田口博章(鶴松)、金城真次(きんじょう・しんじ。亀千代)、宮城能鳳(母)、石川直也(供一)、新垣悟(あらかき・さとる。供二)、阿嘉修(あか・おさむ。供三)、玉城匠(たまき・たくみ。きやうちやこ持ち)。立方指導は宮城能鳳。

勝連の阿麻和利(あまおへ)は、中城(なかぐすく)の護佐丸氏の一族を滅ぼし、首里城に攻め込む準備をしているが、吉日だというので、家臣の者を連れて野原へ遊びに出掛ける。
あまおへが一族根絶やしにしたと思っていた護佐丸氏だが、13歳になる鶴松と12歳の亀千代は生きており、「親の敵を討ち取れば、二人がともに死んだとしても国がある限りは名が残る」と父を殺したあまおへに復讐する機会を窺っていた。

自己紹介などの説明や、ちょっとしたやり取りなどは、「ドミファソシド」の琉球音階を上がり下がりするだけの単純な節回しで行われるが、表に出ない心の声は、地謡がコブシたっぷりに歌い上げ、メロディーをなぞる胡弓が哀切な響きを奏でる。
鶴松、亀千代が母と対面する場面では、二人の決意と、母親の我が子を心配する気持ちが地謡で切々と歌われる。

鶴松と亀千代は、あまおへが家臣と遊んでいる野原を訪れ、自慢の舞を行い始める。二人の舞はすぐにあまおへの目にとまり、あまおへは家臣に命じて二人を呼び寄せ、目の前で舞うよう命令する。
鶴松と亀千代は、最初の内はそうでもなかったが、次第にあまおへの顔から目を逸らさずに舞うようになり、緊迫感が増す。
だが、あまおへは油断しているのか、二人の視線には気がつかず、褒美として軍配、大小の刀、羽織などを与え、更に家臣達を下がらせ、鶴松と亀千代の踊りを真似て上機嫌。そこで二人は名乗りを上げ、見事、あまおへを討ち果たすのだが、殺害の場面はギリシャ悲劇同様、見えない場所で行われる。冊封使歓待の劇で殺害シーンを見せるというのは、やはり憚られたのだろうか。

酒宴での踊り子に化けての暗殺は日本武尊の熊襲襲撃伝説に繋がる。
兄弟による仇討ちや、酒宴の場での殺害などは演劇において決して珍しい場面ではないが、「曾我兄弟の仇討ち」や日本武尊の話を朝薫が日本滞在中に知り、自作に取り入れた可能性は高い。オリジナリティが尊重されるのはもっとずっと後の時代であり、往時は「オリジナリティ」は、「勝手な思いつき」でしかなく、観る方は「なんでお前の思いつきにつき合わねばならんのだ」となる方が普通であったと思われる。実際に起こった歴史上の出来事や古くから伝わる話の方が迫真性があるという考え方は確かに納得のいくものである。

嘉数道彦の話によると、「二童敵討」は、中国からの冊封使に見せるということで、中国で盛んな儒教の要素、「君に忠、親に孝」を取り入れているとのことだったが、要は「勧善懲悪」の面白さであり、日本の時代劇と同じ要素で出来ている。「勧善懲悪もの」のテレビ時代劇は今は数がかなり少なくなってしまっているが、BSやCSなどでは流されており、また「『半沢直樹』は時代劇だ」という言葉が聞こえてくるなど、現代劇であっても人々は勧善懲悪の物語を求めている。明らかな悪が退治される話に胸がすくというのは、世界中どこへいってもそう変わらないだろう。

Dsc_0393

| | | コメント (0)

2020年12月 5日 (土)

観劇感想精選(373) 『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』

2020年11月28日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』を観る。原案:小熊節子Schedlbauer(シュードゥルバウアー)、脚本:木内宏昌、演出:栗山民也、音楽・ピアノ演奏:新垣隆。出演は、一路真輝、田代万里生、神尾佑(かみお・ゆう)、前田亜季、安藤瞳、万里紗(まりさ)、春海四方(はるみ・しほう)、石田圭祐、久保酎吉(くぼ・ちゅうきち)。声の出演:段田安則。

ベートーヴェンが残した宛先不明の「不滅の恋人」への手紙を題材にした作品。一路真輝と田代万里生をキャスティングしていることからも分かる通り歌のシーンもあるが、それほど多くはない。また新型コロナ対策のため、歌うシーンでは他の俳優が飛沫が掛からない程度には遠ざかっている必要があり、それを観客からあからさまに悟られないように、また不自然でないように見せる工夫もいる。

舞台の中央にピアノがあり、今やすっかり有名になった新垣隆が演奏を行う。新垣はベートーヴェンが作曲した作品も演奏するが、多くは自己流にアレンジしてあり、楽譜そのままに演奏することはほとんどない。

タイトルにある「Op.110(オーパス110。作品番号110)」は、具体的には、ピアノ・ソナタ第31番のことを指している。ピアノ・ソナタ第31番は献呈者がなく、ベートーヴェンが「不滅の恋人」のために作曲したのではないかという説があって、今回の劇でもその説が採用されている。新垣隆は、ピアノ・ソナタ第31番だけは譜面通り演奏する。

「不滅の恋人」の正体は今もはっきりとはしておらず、今後も重要な史料が発見されない限り、特定される可能性は低いと思われるが、以前は数多くいた「不滅の恋人」候補が今では2人に絞られており、誰かというよりもどちらの可能性が高いのかが焦点となっている。その2人とはアントニー・ブレンターノとジョゼフィーネ・ブルンスヴィックである。共に夫がいたため、ベートーヴェンは秘めた恋として正体を明かさない恋文を綴り、投函することなく保管し続けたとされる。「不滅の恋人」への手紙は、現在では1812年7月6日から7日に掛けて、チェコ・ボヘミア地方の温泉町、テプリッツで書かれたことがわかっている。その直前の7月3日にベートーヴェンは「不滅の恋人」とプラハで直接会っていたとされるのだが、その時期にプラハにいたのがアントニーとジョゼフィーネなのである。確実にプラハにいたことが分かっているのはアントニーであるが、この時はイタリア系の豪商の夫、フランツ・ブレンターノと一緒。このフランツはベートーヴェンの親しい友人の一人である。また、残されたベートーヴェンの手紙からは、アントニーへの「友情」が語られており、アントニーを女性として意識していなかったのではないかという説もある。一方のジョセフィーネは、プラハに行く意思を日記に記し、姉のテレーゼにも伝えているが、1812年7月の正確な記録はなく、おそらくはプラハにいたであろうが確証はないという状態であった。どちらも決め手には欠ける。

今回の『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』では、アントニー・ブレンターノ(一路真輝)が「不滅の恋人」であるという説を採用しており、ジョゼフィーネ(前田亜季)もベートーヴェンと肉体関係を持ち、ベートーヴェンの子を宿した女性として登場する。どちらも貴族階級に生まれたがための不自由を嘆く女性である。
アントニーへのベートーヴェンの「友情」であるが、愛は友情の上に成り立つという解釈を採用している。アントニーはフランクフルト(・アム・マイン)にある嫁ぎ先の家を出て、ウィーンで別居生活を送る様になり、やがてベートーヴェンへの恋心を夫のフランツ・ブレンターノ(神尾佑)に打ち明ける。フランツはアントニーへの愛とベートーヴェンとの友情ゆえにそれを許し、ベートーヴェンとアントニーの手紙のやり取りも認める(ただし読み終えた後に破棄することを条件とする)。またベートーヴェンにボヘミア旅行を提案したのもフランツという設定になっている。フランツには商人の習慣に従ってアントニーを「子どもを産むための道具」にせざるを得なかったという負い目がある。

なお、今回の劇にはベートーヴェン本人は登場せず、段田安則がベートーヴェンの声として「不滅の恋人」への手紙の一節を朗読した録音が流れる。

まず新垣隆が登場し、ピアノを弾く。後方のスクリーンに「遺書 1802年」という文字が現れ、田代万里生扮するフェルディナント・リースが、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」を朗読する。フェルディナント・リースは、ベートーヴェンの弟子であり、ベートーヴェンの伝記を共同で著した人物でもある。物語は、リースがベートーヴェンの伝記執筆の取材のため、人々に証言を聞いて回るというスタイルで進んでいく。
「不滅の恋人」が書かれたチェコへの旅の最中に作曲されたのが交響曲第8番であるが、この曲はベートーヴェンが自身の交響曲の中で「最も好き」と明言している作品であり、9つある交響曲の中で唯一誰にも献呈していない。実際にそうなのかどうかは分からないが、この劇の中では「不滅の恋人」との愛の喜びを書いた曲とされている。

コロナ下の演劇として書かれたということもあるが、モノローグが多く、それにダイアローグがいくつか積み重なって劇は進行する。3人以上での対話が行われるというシーンはほぼない。ダイアローグも一部を除いて「不自然ではない」と思われる程度のディスタンスを取って行われることが多い。

第九のメロディーも「不滅の恋人」への手紙が書かれた頃にはすでにスケッチが出来上がっていたということで、「歓喜の歌」も「不滅の恋人」への愛に繋げている。かなり強引ではある。

原案の小熊節子Schedlbauerは、ウィーン・ミュージカル「エリザベート」の日本公演権を獲得した実業家で、元々は桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園芸術短期大学とは別物で、現存しない)に在学中の1960年にウィーン国立音楽アカデミー(現・ウィーン国立音楽大学)ピアノ演奏科に留学し、卒業した音楽家の卵だったが、ワインの貿易商へと転身し、その後にミュージカル・ライセンスのプロジェクションコーディネーターも務めるようになった人物である。
15年以上前に作家の青木やよいが「不滅の恋人」の有力候補を探し当てたということを知り、興味を持って自分でも研究を行い、栗山民也にベートーヴェンに関する芝居を作りたいと提案したのがこの劇が生まれた発端だという。栗山民也も学生時代からベートーヴェンファンだということでこの話に乗り、木内宏昌に台本執筆を依頼したようだ。「ベートーヴェンが登場しない」という発想は栗山民也によるものだそうである。

ベートーヴェンと「不滅の恋人」との恋。そしてなぜそれが成就しなかったのかが主軸となるが、時代と音楽がラブストーリー以上に重要な地位を占めている。貴族の時代が終焉へと近づき、ベートーヴェンが一般聴衆や市民の味方であるということが、芝居展開上はやや強引ではあるが語られる。ただ実際、ベートーヴェンが音楽を貴族の専有物から全ての人類のためのものへと拡大する意志を持ち、実現したのは事実である。ベートーヴェンを舞台に出さなかったのは、上手くいったかどうかは別として、時代と音楽とを見えない主役とし、ベートーヴェンをそれに重ねるという意図もあったのかも知れない。また登場人物がそれぞれのベートーヴェン像を持っており、それを語る上で一人のベートーヴェンを登場させない方が有効だったということも考えられる。また、ベートーヴェンが夢見た新時代によって自由になるのは市民だけではなく貴族も含まれると解釈されていることがステーリー展開から読み取れる。

今年は合唱の飛沫が危険ということで、年末の第九の演奏が中止になるケースが少なくない。兵庫県立芸術文化センターでは第九の演奏は予定されているが、京都コンサートホールでの京響の第九は中止となり、チャイコフスキー・ガラへと変更になった。だが、この芝居の中では第九の「歓喜の歌」はちゃんと歌われる。芸術家役、貴族役、ブルジョワ役、庶民役の全員が「歓喜の歌」を歌う。プロレベルの歌唱が行えるのは田代万里生(第九のテノールパートを務めた経験あり)と一路真輝だけであるが、それでも「歓喜の歌」(「換気の歌」と誤変換されたが、今年に限っては正しいようで複雑な気分になる)が聴けるというのはいいものだ。

Dsc_0369

| | | コメント (0)

2020年12月 4日 (金)

これまでに観た映画より(231) 「滑走路」

2020年11月30日 新京極のMOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「滑走路」を観る。若手歌人として期待されながら、32歳で自ら命を絶った萩原慎一郎の処女作にして遺作となった同名歌集から着想を得たオリジナルストーリーである。

萩原慎一郎は、1984年、東京生まれ。中学受験をして入った私立の中高一貫有名進学校でいじめに遭い、高校はなんとか卒業するが、いじめの後遺症である精神障害に苦しみ、自宅療養と通院を続ける。17歳から短歌の創作を始め、のめり込むようになっていた。早稲田大学人間科学部の通信教育課程(eスクール)に入学し、精神の不調と闘いながら6年掛けて卒業。正社員として就職が出来るような体調ではなかったが、アルバイトから始め、契約社員(雑用が主であったという)として働くようになる。短歌会「りとむ」に参加し、雑誌などにも短歌の投稿を積極的に行うなど、創作欲は旺盛であり、いくつもの賞を受賞。短歌界の新星としてその名が知られるようになっていく。非正規労働者の哀しみを歌う第一歌集『滑走路』の出版が決まり、表紙の装丁なども自身で案を出したが、精神障害に打ち勝つことは出来ず、2017年6月17日に自死を選んだ。

今回の映画は、萩原慎一郎本人の悲劇的生涯や、歌集『滑走路』に歌われた内容とは違ったものになっている。近いものになることを避けたい人もいたのだろう。いじめ、精神障害、非正規労働、創作といった要素は別々の人物に割り振られることになった。

監督はこれが初監督作となる大庭功睦(おおば・のりちか)。脚本:桑村さや香。出演、水川あさみ、浅香航大、寄川歌太(よりかわ・うた)、木下渓、池田優斗、吉村界人、染谷将太(役名は「明智」である)、池内万作、水橋研二、坂井真紀ほか。影絵:河野里美、絵画制作:すぎやまたくや。

登場人物の今現在(2つの今現在が描かれており、両者は10年ほど離れている)と中学時代とが交互に描かれるのだが、登場人物の名前はなかなか明かされず(今現在では苗字のみが知らされるのに対し、中学時代は下の名前だけだったり、「学級委員長」という肩書きで呼ばれたりする)、中学時代の彼らの誰が今の誰に相当するのか伏せられたまま話は進んでいく。そのうちの一人は中学時代に受けたいじめのストレスが原因で高校受験も大学受験も失敗し、就職も単純作業の非正規社員で、25歳の時に橋から飛び降りて自殺している。彼の名は、厚生労働省の「非正規雇用が原因で自殺したとされる人々のリスト」の中に載っている。働き方改革で、非正規雇用の劣悪な労働環境が問題視される中、厚生労働省の若手官僚も上司からは詰められ、労働ユニオンからは早急な決定を求められるなどストレス満載の過酷な労働が続き、不眠症やPTSDに苦しめられていた。

もう一人の主人公を演じているのが水川あさみである。パート勤務をしながら切り絵作家として活動を続ける翠が彼女の今回の役である。切り絵作家としての実力が次第に認められつつある翠。夫の拓己(水橋研二)との関係も良好だが、今後の生活に不安を抱いてもいた。拓己は高校の美術教師であるが、プロの芸術家として活動を始めた妻に複雑な思いを抱いていたことが後に判明する。

中学時代と現在とがどう絡むのかを予想する面白さもあるのだが、残念ながら着地点は想像を下回ってしまったように思う。それぞれを丁寧に描いた結果、全体が浅くなってしまったということだ。

ただ俳優陣はとても魅力的である。このところ重要な役での映画出演が続く水川あさみが良いのは勿論だが、寄川歌太や木下渓といった十代の俳優達のフレッシュな演技が良く、いじめが絡んだ辛い青春ではあるのだが、砂糖をたっぷり入れたコーヒーのような甘苦さ(千葉県人なので「マックスコーヒーの味わい」と書きたくなるが、おそらく千葉県人と茨城県人にしか伝わらないので止めておく)を観る者に届けてくれる。実は、歌集『滑走路』にも恋する人の存在は歌われており、好きな人がいるという喜びが生きる力となることが歌集でも映画でも描かれている。

| | | コメント (0)

2020年12月 3日 (木)

これまでに観た映画より(230) 村上春樹原作 市川準監督作品「トニー滝谷」

2006年8月21日

DVDで映画「トニー滝谷」を観る。村上春樹の短編小説の映画化。脚本・監督:市川準、音楽:坂本龍一、イッセー尾形&宮沢りえ主演。

村上春樹の小説は映像化は難しいが、市川準監督は、小説の地の文をナレーション(ナレーター:西島秀俊)として読ませることで、映像詩のような作品に仕上げた。

地の文は西島秀俊だけでなく、イッセー尾形や宮沢りえも(それも敢えて不自然なタイミングで)読み上げる。他にも場面転換は全て画面右から左へのスクロールで処理するなど、独特の手法が用いられている。

トニー滝谷と結婚する英子を演じる宮沢りえが好演だ。明るいが影のある女性を見事に演じてみせる(暗いことと影があることは違う)。

染みとおるような孤独感。不在ゆえに引き立つ存在感。空白を埋めるための強迫行為(OCD)。描かれていることは切実だが、市川準監督の視線は優しい。

坂本龍一の音楽も空漠とした雰囲気作りに大いに貢献している。

傑作ではないかも知れないが、愛すべき佳作である。

| | | コメント (0)

観劇感想精選(372) 少年王者舘 「イキル IKILL」

2006年8月5日 大阪・なんばの精華小劇場にて観劇

大阪の精華小劇場で、名古屋の劇団である少年王者舘の「イキル IKILL」を観る。天野天街:作・演出。タイトルは一目見ればわかる通り、「生きる」と、英語の「I KILL(私は殺す)」を掛けたものだ。

イチロウ(この劇では複数の登場人物がイチロウもしくは一郎を名乗る)という男性の意識を巡る演劇。現実と夢と妄想、現世と黄泉の国など、世界とその重みが一瞬にして入れ替わるイリュージョンだ。

時間にズレが生じており、演劇内の時間と戯曲内の時間、劇場内の現実時間などが平行したり逆転したりする。
井村昂演じるイチロウが後ろにある扉を開けると、そこでは別の俳優達が数シーン先の場面を演じている、といった具合だ。

例によって、劇が始まる前の影アナから仕掛けがある。「携帯電話の電源を『切る』ようお願いします」と、「切る」が強調されているのがまず笑える。そして、このアナウンスはその後何度も出て来て、劇はその度に「劇構造以前」に戻るのである(大阪の劇団である桃園会が「もういいよ」という劇でこの手法を真似たことは以前書いた)。

俳優陣による、お馴染み、ダンス・フーガとダンス・ループもあって楽しめる(それがどういうものなのかは実際に劇場に足を運んで、ご自分の目でお確かめ下さい)。

これもお馴染み「スケーターズ・ワルツ」(ワルトトイフェル作曲。少年王者舘はこの曲をテーマ曲としている)に、『世界残酷物語』のテーマ曲である「モア」を重ねた音楽が用いられているのだが、これが不思議に合う。

演劇よりも「戯曲」や「俳優」が前面に出てくる場面や、映像や文字の遊びもあり、今回も刺激的であった。普通にしていては見えない世界が、この芝居の中では見える。

 

終演後、小堀純さんの司会により、天野天街と維新派の松本雄吉によるトークがある。
天野天街の遅筆は有名で、天野はそのために活動を休止したこともあるのだが、「イキル IKILL」も筆は遅れに遅れ、先に行われた名古屋公演の初日の時点で何と半分も書けていなかったそうだ。そのため、名古屋公演の上演時間は45分足らずだったという(大阪公演の上演時間は約2時間であった)。ということで、「(地元である)名古屋の皆さんには申し訳ないことをした」と天野が反省の弁を述べた。
その他は、大抵がお馬鹿な笑い話。天野天街は見た目からして風変わりだが、松本雄吉も相当な変わり者である。

| | | コメント (0)

観劇感想精選(371) 「開放弦」

2006年8月3日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪のシアター・ドラマシティで「開放弦」を観る。ペンギンプルペイルパイルズの倉持裕:作、G2:演出。出演は水野美紀、大倉孝二、丸山智己、京野ことみ、河原雅彦、犬山イヌコ、伊藤正之。

東京から電車で2時間ほどの距離にある、とある農村。遠山(丸山智己)と恵子(旧姓:伊沢。水野美紀)の結婚式があった。二人は中学時代の幼なじみ。しかし互いのことを、「遠山君」、「伊沢」と呼ぶ妙な夫婦には当然裏があった。遠山の元彼女で同じバンドのメンバーである依代(京野ことみ)は二人の結婚に不快感を示し、同じくバンドメンバーの門田(大倉孝二)は猛反対したのに二人が結婚してしまったことに腹を立てている。
彼らが住む農村では、カモ農法といって、鴨を田んぼで飼い、雑草や害虫を食べさせ、またフンを肥料にするという農法を行っていた。カモ農法を取り入れることを提言したのは遠山で、最初は大成功したのだが、ある時から「食いしん坊」とあだ名される稲まで食べてしまうカモが現れ、繁殖したため、遠山は農村の皆から責められ、多大な借金を負うことになってしまっていた。

ある日、その農村に進藤(河原雅彦)、素江(犬山イヌコ)という漫画家夫婦が取材のためにやって来る。物語は、遠山の家の前で素江の運転する車が一羽の鴨を轢いてしまうことから始まる。遠山と恵子の結婚式の日であり、遠山の家には二人の結婚に立腹して式と披露宴を欠席した依代が一人で勝手に上がり込んでいた。轢いてしまった鴨が遠山の家で飼われているものだと勘違いした素江は依代に謝っている。
遠山、恵子、門田が披露宴を終えて帰ってくる。門田は当然不機嫌だ。

遠山、門田、依代がやっているバンドがネット配信した曲が爆発的にヒットし、ダウンロード料により1億円もの収入が見込めることがわかる。しかし、遠山と恵子はあること(芝居が進むに連れて何なのかわかるようになる)で大喧嘩してしまい、カッとなって家を飛び出した遠山は 江が運転していた車に轢かれて右手が不自由になってしまう。バンドの曲を作っていたのは遠山。しかしギターで作曲していた遠山はもうギターを弾くことが出来なくなる……。


まずは芝居の雰囲気に惹かれる。しっかりした脚本と演出により東京近郊の農村でのドラマがきちんと描かれる。出演者の演技も良い。水野美紀は舞台は4度目で現代物は初めてだということだが、演技の質は高く、またその場にいるだけで観る人を惹きつける力がある。
大倉孝二と犬山イヌコの「ナイロン100℃」コンビもいい味を出しており、丸山智己も格好いい。
京野ことみの演技はリアリティが今一つだが、まあいいだろう。

あらゆることが語られるのではなく、仄めかしに終わることも多いのだが、想像すれば大体のことはわかる。また、ヒントが徐々に与えられてわかりやすくもなる(進藤を演じた河原雅彦は以前、「徐々にわかっていくタイプの芝居は好きじゃない」とインタビューで語っていたはずだが、それは自分が書いたり演出したりする舞台のことなので、出演者として参加するぶんにはいいのだろう)。

人物設定も細かく書かれているのがわかる。特に遠山と恵子は中学時代からこれまでどのような人生を歩んできたか、こと細かく設定されているようで、偽装夫婦である彼らが互いに惹かれ合っていく心理描写にそれは生かされている。しかし、ラスト付近は作家が自らが設定した人物の性格に振り回されてしまった感あり(あとでパンフレットを読んでわかったことだが、倉持は普段は人物設定はフラットにし、流れを重視して書くタイプであるようだ。「10年ぐらい前、戯曲を書き始めときには〔人物〕履歴もある非常にリアルな話を書いていたんです。でも資料を集めたり、一人一人のことを考えてそれに縛られて書くのがつまらなくなった時期があって。そこから勇気を持って、何も決めないで書き始めたんです」“『開放弦パンフレット』、「G2×倉持対談」より。〔〕内は引用者による補足説明”と倉持は語っている。しかし今回はG2の要望により人物履歴を細かく決めて書いたそうだ。それが裏目に出たようである)。

遠山は車に二度も轢かれるのだが、一歩間違うとギャグになってしまう可能性はあった(芝居の雰囲気からして失笑がもれることはないと思うが)。また車に轢かれるという設定を二度も使うというのは最終場に持ち込む解決法としてある意味狡く、また拙いと思う。

途中までが良かっただけに最終場のイージーさは残念であった(ラストのラスト、恵子が開放弦のまま、たどたどしくギターを弾くところは良かったのだけれど)。

| | | コメント (0)

2020年12月 1日 (火)

これまでに観た映画より(229) 「詩人の恋」

2020年11月24日 京都シネマにて

京都シネマで、韓国映画「詩人の恋」を観る。2017年の制作。第18回韓国女性映画祭脚本賞、第18回釜山映画批評家協会賞脚本賞などを受賞している。監督・脚本:キム・ヤンヒ(女性映画祭脚本賞を受賞していることからも分かる通り女性である)。出演:ヤン・イクチュン、チョン・ヘジン、チョン・ガラムほか。

「韓国のハワイ」というベタなキャッチフレーズでもお馴染みのリゾート地、済州島を舞台とした作品であるが、リゾート的な場面はほとんど出てこない。

済州島で生まれ育った詩人のヒョン・テッキ(ヤン・イクチュン)は、6年ほど前には文学賞などを受賞したこともある詩人だが、そもそも詩は売れないものである上に最近はスランプ気味。小学校の放課後の作文教室の講師なども始めたが稼ぎには乏しく、月収は30万ウォン(日本円だと3万円に届かない。ちなみに韓国は経済発展が堅調で、物価自体はもう日本と余り変わらない)ほどで、妻のガンスン(チョン・ヘジン)の収入に頼り切りの生活である。趣味はサッカーのテレビゲームのようで運動不足により肥満気味。詩を書くこと以外は「冴えない」感じの中年男性である。幼なじみで漁師のボンヨン(キム・ソンギュン)によると、高校の頃から詩にしか興味のない変わった男だったらしい。済州島の詩のサークルに参加しており、自作を朗読するシーンがある。耽美的な作風を持つが、「美しいだけが詩ではない」と批判されて不貞腐れながら帰路に就くテッキ。
妻のガンスンは下ネタ好きで、詩人の妻らしくない開けっぴろげな性格だが、子どもを望むようになっている。結婚した当初は二人でもいいかと思っていたが、年齢的に最後のチャンスということで夫にせがむ。テッキは余り積極的にはなれない。

夫婦で診察を受けたところ、ガンスンは年齢に比べると胎内も綺麗で問題はなさそうとのことだったが、テッキは乏精子症と診断される。健康な男性に比べて精子の数が少なく、女医によると少ない精子も「怠け者」だそうである。女医は、テッキの職業が詩人と知って、「じゃあストレスの少ない仕事ですね」と発言するなど、いちいちテッキの気に触るようなことを言う。

テッキの家の近くにドーナツ屋がオープンする。テッキは、店先で店員の美少年、セユン(チョン・ガラム)を見かけ、不思議な気持ちにとらわれる。

セユンのことが気になり始め、「自分は同性愛者だったのか?」と驚くことになるテッキ。

同性愛っぽくなるところもないではないのだが、「おっさんずラブ」だとかBLだとかとは違った路線の映画である。テッキもセユンも両親からは余り愛されていないという共通点がある。セユンの父親は病気で寝たきりであり、母親は金にがめつく、情が深いタイプでもない。セユンは高校を中退してドーナツ屋でアルバイトをし、夜は悪友達と飲み歩くという生活を続けていたが、そのことを母親からなじられている。
テッキは父親を早くに亡くしている。父親との関係についてはよくわからないが、母親とは余り上手くいっていないようである。
そんな肩身が狭い、相似形の二人の物語である。

テッキはセユンとの新しい生活を試みるが、世の中の常識に負け、「あるべき家庭人像」の前に屈することになる。詩人としての敗北。ソウルならともかくとして、ここは観光が売りの、革新性とは無縁の島、済州島である。上手くいくわけはない。

数年後、テッキは名誉ある詩人賞を受賞。子どもも産まれて、子どもの1歳の誕生日を民族衣装を着けた一族全員が祝う。そんな伝統的な幸福の中にあって、テッキは破れなかった常識と築けなかった「新しい生き方」にふと涙することになる。

正直、余り良い映画だとは思わなかったが、「ありきたりの生き方」の桎梏から逃れようとして叶わなかった詩人の喪失感を描いた映画として、文学的側面からは一定の評価が出来るように思う。映画でなく小説だったら、もっと良いものになったのではないだろうか。

Dsc_0303

| | | コメント (0)

« 2020年11月 | トップページ | 2021年1月 »