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2020年12月12日 (土)

観劇感想精選(376) 當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部「末広がり」&「廓文章」吉田屋

2020年12月7日 京都四條南座にて観劇

午後6時40分から、京都四條南座で、當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部を観る。新型コロナの影響により、密集を避けるために3部形式となった今年の南座での顔見世。座席も前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応であり、歌舞伎の華である声掛けも禁止ということで寂しいが、顔見世が観られるというだけで感謝しないといけないのだろう。もっとも私自身は毎年顔見世に行っているわけではなく、行かない年もある。

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「顔見世」の第3部の演目は、「末広がり」と「廓文章(くるわぶんしょう)」吉田屋。コロナの影響で余り長い演目は出来ないが、「末広がり」と「廓文章」吉田屋は特に短く、「末広がり」が30分弱、「廓文章」吉田屋も45分程度である。

2階ロビーに立てられた口上の中には、「あまびえ」が隠れており、その後に続く疫病封じの神である祇園社(現在の八坂神社)と共に新型コロナ調伏の願が掛けられている。

 

「末広がり」の出演は、尾上右近(音羽屋)と中村米吉(播磨屋)。長唄囃子は全員、口の前に黒い布を垂らしており、頭巾を被っていない大谷吉継が並んでいるかのようである。

狂言を原作とした狂言舞踊であり、安政元年(1854)に三世桜田治助の作詞、杵屋三郎助の作曲により、江戸中村座で初演されているという。原作の主が女大名に置き換えられており、ラストは二人で華やかに踊れるよう改められている。

近年の女形は、裏声でなくかなり女性に近い声を出せる人が多い。猿之助一門(澤瀉屋)に多いのだが、播磨屋である中村米吉も女性そっくりの声を出す。舞台は京都に置き換わっているようで、太郎冠者は「都」という言葉を使っている。
米吉演じるキリッとした女大名に対し、尾上右近演じる太郎冠者は酔っ払いながら花道を歩いて登場。ユーモラスである。
本来ならもっと笑いが起こるはずなのだが、やはりコロナの患者数が増加している最中ということで、客席は遠慮がちな笑いに留まる。

タイトルにある「末広がり」というのは扇のことであり、女主人は恋しい人に自作の歌を綴った扇を送ろうと考え、太郎冠者に末広がりを買うよう申しつけたのだが、太郎冠者は末広がりが何かわからず、街を「末広がり買いましょう」と言いながら歩き回ったため、騙されて傘を買わされてしまった。帰ってきた太郎冠者は末広がりとは傘のことだと言い張る。確かに傘も末は広がっている。女主人は激怒するが、太郎冠者が申の舞を披露したため機嫌を直し、共に目出度い唄と舞を行う。尾上右近は傘の上の鞠を回すという、目出度い芸も披露した。

「末広がり」というタイトルからしてハッピーエンだとわかる作品であるが、申は「去る」に繋がるため(鬼門には鬼が「去る」よう猿の像が置かれることが多い)、今の状況に去って欲しいという願いを込めて、この演目が選ばれたのかも知れない。

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「廓文章」吉田屋。原作は近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」という人形浄瑠璃のための本で、これが歌舞伎化され(歌舞伎台本に直した人物の名前はわかっていないようである)、更に六世菊五郎が再構成したのが今回上演される「廓文章」である。

出演は、松本幸四郎(高麗屋)、片岡千壽(松嶋屋)、片岡千太郎(松嶋屋)、澤村由蔵(紀伊國屋)、中村雁洋(成駒家)、澤村伊助(紀伊國屋)、片岡りき彌(松嶋屋)、片岡千次郎(松美屋)、中村壱太郎(成駒家)。

大坂が舞台である。新町遊郭の吉田屋の店先に編笠に紙衣装の男が現れる。吉田屋の下男(片岡千次郎)は、男を乞食か何かと勘違いして追い払おうとするが、主である喜左衛門の妻であるおきさ(片岡千壽)がそれを止める。編笠の中をのぞき込んだおきさは、男の正体が大坂屈指の大店である藤屋の若旦那、伊左衛門(松本幸四郎)だと気付く。伊左衛門は、新町の名妓・夕霧(実在の人物である。演じるのは中村壱太郎)に入れあげ、多額の借金を作ったため、親から勘当されたのだ。粗末ななりに変わった伊左衛門だが、夕霧が病を得たというので、心配して吉田屋までやって来たのである。
部屋に上がって夕霧を寝ながら待つことになった伊左衛門だが、目覚めてみると手持ち無沙汰であり、床の間にあった三味線を取り上げて弾いたり(一部は実際に幸四郎が奏でている)、夕霧と疎遠になったことを嘆いたりする。いったんは夕霧に会わずに帰ろうと決めた伊左衛門だが、割り切れず、部屋に残ることになる。夕霧が現れた時のことを考えて格好良く見えるポーズを考えたりする伊左衛門。
夕霧が現れる。具合は大分悪そうだが、相変わらず可憐である。伊左衛門は夕霧に掛ける言葉を見つけることが出来ず、「万歳傾城!」などとなじってしまい、今宵で二人も最後かと思えたのだが……。

「末広がり」もそうだったが、「廓文章」吉田屋も「雨降って地固まる」話になっている。南座の2階に書かれていた口上にも現れていたが、危機を乗り越えて更なる発展を期したいという歌舞伎界の祈りが込められた作品である。「今」に合うものを選んだのであろう。
ちなみに、みなで大阪締めを行う場面があるのだが、セリフこそないものの、「ここは観客にも参加して欲しいのだろうな」というのが空気でわかったため、私を含めて参加した人が結構いた。声掛けは出来ないが、違った形での一体感を得ようと試行錯誤しているのが伝わってくる。

伊左衛門を演じる幸四郎は、女形をやった経験から得たものを立役である伊左衛門に生かしているのがわかる。女形の演技を転用することで、育ちが良くて純粋で時にコミカルというボンボン像を巧みに表してみせる。
先代の幸四郎(現・二代目白鸚)が、ザ・立役という人であるため、例えば弁慶などの男っぽい役をやった場合は、当代が一生涯かけても先代に追いつくことは難しいように思われるのだが、伊左衛門役は先代には出来ないため(実際、やったことは一度もないようである)高麗屋の新しい当たり役となる可能性は高い。見た目が優男なのもプラスに働く。これまで伊左衛門を演じて当ててきたのは、坂田藤十郎、仁左衛門、愛之助、四代目鴈治郎、三代目扇雀といった上方の俳優達だが、幸四郎は3年連続で伊左衛門を演じており、江戸の歌舞伎俳優として新たなる伊左衛門像を打ち立てつつある。

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