観劇感想精選(375) 串田和美独り芝居「月夜のファウスト」
2020年12月4日 伊丹市立演劇ホールAI・HALLにて観劇
午後7時から、伊丹市立演劇ホールAI・HALLで、串田和美の独り芝居「月夜のファウスト」を観る。今年の5月末に串田和美が松本市で思い立ち、Facebookのみで宣伝をして行った公演を、伊丹、北九州、松本の3カ所で再演するツアー。今日が全公演の初日である。
2月末以降、演劇人は一斉に自粛を求められ、「芝居やらないでくれって言われても、ずっと芝居しかやってこなかったし」と串田も不満であったが、松本市内を自転車で散策していた際、旧制松本高校跡地に出来た、あがたの森公園という場所で池の畔にある四阿(あずまや)を発見する。「ここでなら風通しも良いし、大丈夫なんじゃないか」ということで、Facebookに「みなさん、突然ですが、独り芝居をやってみようと思い立ちました」と書き込み、ライフワークとして何度も上演してきた「ファウスト」を独り芝居用に構成しなおしたものが上演された。
今回の上演は、AI・HALLの窓口と電話のみでのチケット受付であり、私は電話で予約を入れた。午後6時15分から受付が開始されて整理券が配られ、午後6時30分開場となる全席自由である。まだそれほど多くの人は入れられない。
実は先約があったのだが、串田和美の独り芝居なら観ないわけにはいかない。明日もマチネーがあるが、土曜出勤の日であり、行けない。ということで伊丹へと向かった。午後6時15分に間に合うかどうか微妙だったが、そう大きな会場ではないし、特等席である必要もないし、と特に慌てはしなかった。結果としては、午後6時12分頃にAI・HALLの前に着いた。整理番号は6。大抵の日本人には関係がないが、「6」は中国語ではラッキーナンバーである。
前から2列目に着座して待っていると、午後6時45分頃に串田和美が太鼓とバッグを持ってふらりと現れる。
箱馬の上に平台を3つ並べただけというシンプルな舞台。背後も平台を立てて並べただけである。平台の舞台の外に学校で使うような机と椅子、キッチンテーブルなど置かれているが、それらを串田は自分で持ち上げて舞台の上に並べ、バッグの中から小さな鉄琴やバチなどの小道具を取り出す。バッグは後ろに放り投げる。
串田はいったん舞台を降りて、スタッフと会話を交わしたりしたのだが、舞台に戻って、「早く来過ぎちゃった」と語り、客席からの笑いを誘う。今日が初日ということで気が急いたということもあるが、劇場での上演は初めてなので時間配分がわからなかったようである。
ゲーテの序文の代わりに串田和美の個人的な思い出に絡められて語られる「ファウスト」であり、どこからがスタートと正確には決まっていないのだが、「ここは初めてですが、良いホールですね。市立、市のホールですか?(観客、一斉にうなずく) 市立ぐらいだといいんですけどね……」、後は愚痴になるので書かないでおく。
まつもと市民芸術館の館長でもある串田和美。あがたの森公園での上演は、先に書いた通り、Facebookのみでの宣伝となったため、お客さんが来てくれるかどうか不安だったのだが、結構来てくれたそうである。ただ、小劇場出身者であるため、「詰めて! 詰めて! そこ一人座れる!」と言ってきたのに、あがたの森公園では、「(間を)空けて! 空けて!」と、初めて逆のことを言うことになったそうだ。プライベートな公演ということで小道具なども全部自分で自転車に乗せて運んだという。会場には、あがたの森公園で録音したという自然音が流れている。
「記憶」についての話から本編はスタートする。「意味もないのになぜか覚えていること」が誰にでも存在していると思うが、串田の最初の記憶は、まだハイハイをしている頃のもので、ボールか何かが転がったのでハイハイして追いかけていって、文机の下をのぞき込んだというのが最も古い記憶だそうである(どうでもいいことだが、私自身もハイハイしていた頃の記憶がある。母親と祖母のセリフも覚えている。そしてそれは最初の記憶では多分ない)。串田和美は、Wikipediaなどによると出身地は東京都小金井市となっているが、串田本人が語るところによると生家は都心の麹町だそうである。戦中生まれであり、空襲が激しくなると、山形県新庄市の近くの田舎に疎開。戦争が終わって東京に帰ってきてみたら都心は一面の焼け野原だったため、吉祥寺のそばの牟礼という町の借家で10年ほど過ごしたそうである。テレビもゲームも何もない時代。遊びは全部、自分達で考えて作り出していた。
今でこそ吉祥寺はハイソと庶民的情緒を兼ね備えた街で、「住みたい街ランキング」の上位に常に入るが、当時は本当に雑多な場所であり、家がない人は原っぱに勝手に掘っ立て小屋を建てて家族で住んでいたりしたそうである。そんな人もひっくるめて街全体で生きてきたそうで、「隣に住む家族のことすら知らない」今とはかなり違うようである。いい年をしているが学生服を着て演説して歩く「新川のまあちゃん」など不思議な人も沢山いた。
子どもなので、みんなであだ名を付けて遊んだりもしたのだが、目つきが鋭くて地下足袋を履いているおじちゃんに「泥棒」というあだ名を付けたりもしたそうだ。その「泥棒」さんの自宅を覗きに出掛けたこともあるのだが、針金で後光を作ったマリア像があったそうで、神々しさに息をのんだ記憶があるそうである。
進駐軍がジープから投げ捨てたものを拾って匂いを嗅ぎ、「アメリカの匂いがする」と言ったこともあるそうだが、それは屈辱でもあったそうだ。
近所にボケたお爺さんがいたのだが、ある日、立派な馬車がお爺さんを迎えに来たそうである。御者も仁丹の広告のような帽子を被って白馬を操っていた。ということでボケたお爺さんの正体が気になるのだが、今でも何だったのかはわからないそうである。
紙芝居も楽しみだった。ダムロット(だったかな?)と、しゃも爺というあだ名の二人の紙芝居屋がいたそうで、ダムロットは太鼓を叩きながら大きな声で語るのだが、太鼓の音も大きいし何を言っているのかわからない(ここで串田は太鼓を叩き、ハーモニカを吹く)。というわけで、しゃも爺の方が人気だった。ちなみに顔がしゃもじに似ていたため、しゃも爺というあだ名が付いたそうである。
紙芝居の話から、すってんころ助というキャラクターが生まれる。
やがて、郊外に謎の老人がいるという話が始まる。学識の高い老人で、「発明実験場」と看板を掲げた小屋も持っている。ある日、猟師を名乗る紳士が老人を訪れ、「錬金術を行って欲しい」と頼んだという辺りから「ファウスト」っぽくなり始め、ドイツの地名が語られて舞台は移り、ファウスト博士の「何も知り得ぬ」という苦悩のモノローグとなる。助手のワグナーが現れ、更にすってんころ助も助手として採用される。人形のアウエルハーンも登場し、すってんころ助と「魂」について語ったりする。
月の思い出を語るうちに、悪魔がやって来たことに気付くファウスト。ただ、悪魔でありながらどうにも頼りない人が多く、最後に大袈裟に現れたメフィストフェレスが一番気の利いたことを言ったため、ファウストはメフィストフェレスと契約を交わすことになる。
あらすじは、まだ書こうと思えば書けるのだが、あらすじ(「やっぱり串田和美は江戸っ子だねえ」という展開を見せる)以上に重要なのは串田和美の存在である。1960年代から本格的な演劇活動を始め、オンシアター自由劇場などで数々の伝説を作ってきた串田和美。私も21世紀に入ってから串田の舞台にはたびたび接しており、例えばシアターコクーンで観た「上海バンスキング」や、松たか子主演でリバイバル上演が行われた「もっと泣いてよフラッパー」など、オンシアター自由劇場時代の作品も楽しんだのだが、それらはあくまでも21世紀版として上書きされたものという印象を受けたのも確かで、私が生まれる前の時代、あるいは私が生まれてまもなくの時代という作品が誕生した頃の空気感は実のところ余り感じ取れないものでもあった。
ただ、串田和美が一人で自身のことを絡めて語る今回の上演からは、「私が生まれる前の時代に対する強烈な郷愁」を感じ取った。あたかもその時代に、串田和美のような紙芝居屋を前にした子どもであった記憶が存在するかのような不思議な感覚である。
実際、そんなはずはないのだが、テレビも何もなく、想像の世界で遊び回っていた時代の記憶が確かに存在する。それは嘘の記憶のはずなのだが、妙にリアルである。ただ、これこそが目の前にいる俳優を観て想像を駆け巡らせる観劇という行為の醍醐味なのだと、改めて実感する。残念ながら映像では無理である。どんなに優れた映像であっても、それは向こうの世界のお話である。場を共有する人物と協働で描くイリュージョンは演劇だからこそ成立するのだ。
この世で上手に迷子になれた気分で、異世界のような伊丹郷町を抜けて帰路に就く。
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