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2021年1月 6日 (水)

コンサートの記(679) クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」

2020年12月25日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」を観る。台本と作曲は、ジャン=カルロ・メノッティ。演出と日本語訳詞は岩田達宗(いわた・たつじ)。岩田さんはこのところ、メノッティのオペラの演出を手掛けることが多い。出演は、古瀬まきを(ソプラノ)、福原寿美枝(ふくはら・すみえ。メゾ・ソプラノ)、総毛創(そうけ・はじめ。テノール)、福嶋勲(バリトン)、武久竜也(バス)、水口健次(テノール)。合唱は、堺シティオペラ記念合唱団と宝塚少年少女合唱団。ダンサーとして宮原由紀夫(振付兼任)、佐藤惟(さとう・ゆい。男性)が出演する。日本語歌唱、字幕付きの上演であり、歌手達はマウスシールドを付けて歌う。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールは、前から4列目の後ろに中央通路があるのだが、その中央通路より前は全て空席となっており、舞台からの飛沫を観客が浴びないよう工夫されている。

オーケストラは園田隆一郎編曲による室内楽編成であり、指揮はオペラのスペシャリストである牧村邦彦が担当する。演奏するのは3人だけで、關口康祐(せきぐち・こうすけ。ピアノ)、蔭山晶子(かげやま・あきこ。クラリネット)、福田奈央子(チェロ)という顔触れである。アンサンブルは舞台の下手端に陣取って演奏する。
今や関西を代表するソプラノ歌手の一人となった古瀬まきをの主演、母親役をこれまた関西ではお馴染みの福原寿美枝が務め、大阪音楽大学客員教授でもある岩田達宗の演出ということもあって、関西では有名なオペラ歌手も結構観に来ている。

作曲のジャン=カルロ・メノッティ(1911-2007)は、名前からもわかる通り、イタリア出身である。11歳にして初めてのオペラを自らの台本によって書いた神童であり、ミラノ音楽院に学んだ後で、同郷の大指揮者であるトスカニーニに誘われる形で渡米。フィラデルフィアのカーティス音楽院でも学んでいる。メノッティは同性愛者であったが、カーティス音楽院在学中に同じく同性愛者であるサミュエル・バーバーと知り合い、パートナーの関係になっている。当時はアメリカにおいても同性愛は認められにくい傾向にあり、バーバーは生涯そのことに悩まされることになるが、おそらくメノッティの場合も同様であり、また足に障害があったということもあって、生きることの苦悩が作品に反映されている。


「アマールと夜の訪問者たち」は、1950年にNBCから依頼を受けてテレビ用オペラとして書かれた作品であり、最初からテレビ用のオペラとして書かれた史上初の作品である。メノッティはメトロポリタン美術館で出会った絵画「東方三博士の礼拝」にインスピレーションを受けてこのオペラを完成させている。

「アマールと夜の訪問者たち」は、上演時間約50分と短いため、本編上演の前に第1部として、同じ西宮市内に本部のある関西学院大学神学部助教で関西学院宗教センター宗教主事も務める井上智(いのうえ・さとし)のトークと、宝塚少年少女合唱団(今日は女の子のみの出演。合唱指導・指揮:笠原美保)による讃美歌の合唱がある。
東方三博士ということで、3という数字がキーになっており、宝塚少年少女合唱団が歌った讃美歌も3曲全てが三拍子、本編の演奏は3人で行われ、セットも三角屋根のテントや頂点がオベリスクのように三角形になった背景が使用されている。アムールが初めて歌うアリアも三拍子で、設定上も3は重要な数となる。ただストーリーやメッセージは3が軸になるものではない。

井上智の話は、「暗闇の中で見る光」をテーマにしたもので、関西学院大学大学院修了後に岩手県での教会活動に従事した時の思い出に始まり、今自分であることの幸せをこのオペラの中に見出すという解釈を示した。ちなみにクリスマスは12月25日であるが、イエスの生まれた日も季節もはっきりとはわかっておらず(馬小屋で生まれたというのが本当なら少なくとも寒い季節ではなかったはずである)、冬至を過ぎて日が少しずつ長くなる頃が相応しいということで取り敢えず12月25日に決まった。ただ国や地域によっては1月6日をクリスマスとするところもあるという。
一応日本でも有名であるが、詳しいことは知られていない東方の三博士についても解説し、三博士は最初から三博士と決まっていたわけではなく、古い宗教画などを見ると、東方から集団でやって来る博士(王、占い師などそのほかのパターンもある)が描かれていたりもするという。ただ贈りものが三種類であったため、最終的には三人ということになり、今に到っているそうである。また、この三人は人間の人生における形態、つまり、青年、壮年、老年を表し、更に当時知られていた3つの大陸、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三つの象徴でもあるとされたそうである。王だったり博士だったり占い師だったりするのは理由があり、占術に長けた者が王として君臨することになった神託政治の時代があり(日本の邪馬台国なども「鬼道をこととしよく衆を惑わす」卑弥呼が王座にあるなど似た状況の時代は存在した。弓削道鏡と和気清麻呂の宇佐八幡宮託宣事件なども同じような部類に入ると思われる)、同一視されていたという。

 

主人公の少年、アマール(初演時はボーイソプラノが演じたが、演技力が必要であるため、現在ではソプラノ歌手が務めることが多い。演じるのは古瀬まきを)は、片方の足が不自由だが、想像力豊かな少年である。ただ母親(福原寿美枝)は単なる虚言癖だと見做しており、厄介に思っている。クリスマス直前のある日、アマールは巨大な星を見つけ、それに想像を加えて話すが、母親はアマールに早く寝るよう言いつける。アマールは、当時最下層の仕事である羊飼いをしており、極貧生活を強いられていた。その羊飼いも羊が死んでしまったことで続けられなくなりそうであり、母親は乞食になるしかないと嘆く。やがて、従者に導かれた三人の王様がアマール達の前に現れる。一人は黒人、一人は白人、一人はアジア人(アラブ系)で、みなそれらしい格好をしている。アラブ系の王であるカスパール(総毛創)は老人であり、耳が遠い。
三人の王様は、特別な子を探してやって来たと言い、その子の特徴を語る。その子の特徴はアマールにも当てはまるので、母親はそのことを歌う。やがて村人達(村人達は口の前に布を垂らし、頭巾を被るという大谷吉継スタイルのコロナ対策であるが、いかにも異境の人という見た目であり、自然に見える)が現れ、王達に贈りものをして歓迎の宴が始まる。アラブ風の格好の青年二人がアクロバティックなダンスを披露するなどかなり盛り上がる。ステージの上に階段4つ分の高さのステージがあるダブルステージなのだが、アマールは下のステージに降りて牧童の笛を吹き、一緒に盛り上がる(バッハのようだが「音楽の贈りもの」と受け取ることも出来る)。一方、母親は自分だけが贈りものすら出来ないため輪に加われず、上のステージの下手奥に一人所在なげに佇んでいる。三人の王様が寝静まった深夜、母親は貧困の身である苦悩を歌い、富豪達の想像力の欠如を嘆き、恨む。そして王達の財宝を盗もうとするのだが、従者に見つかってしまい……

ストーリー自体は子どもでもわかるシンプルなものであり、主人公のアマールが少年ということもあって共感も得やすいはずである。ただ、一見するとハッピーエンドに思えるストーリーの裏に、生きることの苦しみが宿っているようにも思える。
なくてはならはいはずの松葉杖を贈りものにしようとしたことで奇跡が起こり、アマールの足が治る。だが、アマールは松葉杖を贈りものとして持って、三人の王(全ての人種と全ての世代の象徴である)と共に星が告げる救世主の下に向かうことを母親に告げ、母親も松葉杖をアマールに背負わせる。補助や導きの役割と同時に不自由と苦しみの象徴である松葉杖を背負って旅をするということは、多くの人々の人生のメタファーであり、旅路は決して前途洋々としたものではないかも知れない。だがそれでもアマールは向かう。

15歳の頃、『巴里の憂鬱』というタイトルに惹かれてボードレールの詩集を購入した。その中にある「人皆キメールを背負えり」という詩が気に入った。不可解さを背負いつつ生き続ける人間存在への確かな眼差しが、その詩には描かれていた。松葉杖を背負って果てしない旅へと向かうアマールの姿が、ボードレールの詩に重なった。
天空を一人で支えるアトラスのように、全人類の悲しみを支える興福寺阿修羅像のように、とまではいかないが、彼こそが希望であり、我々の分身でもあり、代表でもある。それ故に心が躍る。豊かな想像力を武器とすれば、苦悩と宿命を背負ってはいても我々は希望へと到るために歩き続けることが出来る。
私の座右の銘は徳川家康公遺訓だが、最初の行である「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」はこの物語にも繋がる。人種や時代は違えど人間の本質はそう大きく異なるものではないし、異なるはずがない。

例年なら日本の年末のクラシックシーンは第九一色になるが、第九の「歓喜の歌」もこれに似たメッセージを持っている。あれは「歓喜! 歓喜! 万歳! 万歳!」という能天気な内容ではなく、共に苦難を生きる人類の旅路を歌ったものであり、まだ訪れていない輝かしい未来への讃歌である。1年の終わりに自分だけでなく全人類の未来を夢見る儀式のようなものがあるというのは、おそらく良いことなのだと思われる。

 

日本社会においてはオペラは根付くのに時間が掛かっており、観たことのない人からは、「外国語を使った高尚で近づきがたい存在」か、「太った男女がわけのわからないことを歌っているへんちくりんなもの」という両極端なイメージで語られてしまうことも多いのだが、オペラとは今に到るまで作品が生き続けている偉大な作曲家のメッセージが込められたものであり、生きるための糧となるものが得られる豊穣なる時間の果実である。

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