コンサートの記(686) ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサート
2021年1月17日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで
午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサートを聴く。出演者側というよりも入場者側の問題だったのか(午後2時を過ぎてから客席に入ってくるお客さんが結構いた)、開演は15分以上押した。
先週の「雅楽――現代舞踊との出会い」とのセット券(S席のみ)も発売されていたが、先週の同じ時間帯に京都市交響楽団は京都コンサートホールでニューイヤーコンサートを行っていたため、京響のファンはニューイヤーコンサートを優先させる人が多かったはずで、多分、それほど売れなかったと思われる。それでもヘアスタイルからバレエをやっているとわかる女の子達が集団で訪れるなど、バラエティに富んだ聴衆が集っているのが見て取れる。
今日の公演はタイトル通り、京都市交響楽団と演出家・映画監督で京都市立芸術大学美術科教授でもある石橋義正のコラボレーションである。
指揮者は園田隆一郎。オーケストラが舞台の後部に控える配置である上に、照明がそれほど明るくないのでハッキリとは見えなかったが、コンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーは尾﨑平であると思われる。管楽器のソロが重要になる曲目が多いということで、フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も全編出演する。
その曲目は、ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」、ラヴェルの歌曲集「シェエラザード」(ソプラノ独唱:森谷真理)、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。
私の世代だと、これらの楽曲はシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のCDで初めて聴いたケースが多いと思われる。私の場合も、「ボレロ」だけはアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団盤が初めて聴いた演奏だが、それ以外はデュトワ指揮モントリオール響のCDで初めて耳にしている。丁度、私の十代から二十代初頭に掛けてデュトワとモントリオール響はこれらの曲を録音して次々にリリースしていた。
パフォーマンスの出演は、「花火」が花園大学男子新体操部。「牧神の午後への前奏曲」と「火の鳥」が、茉莉花(まりか。コントーション)、池ヶ谷奏(いけがや・かな)、薄田真美子(うすだ・まみこ)、斉藤綾子、高瀬瑶子、中津文花(なかつ・あやか)、松岡希美(以上、ダンス)。「ボレロ」がアオイヤマダとチュートリアルの徳井義実。
振付は藤井泉が行う。ビジュアルデザインは江村耕市。衣装は川上須賀代。特殊メイクはJIRO(自由廊)。
石橋の演出は全般的に「生命の輝き」を軸としたものである。
張り出し舞台にしての公演。「火の鳥」はオーケストラピットの上に板を置いてコントーション(体の柔らかさなども生かした曲芸的なダンス)の茉莉花が舞台前方で踊る場面が続いたのだが、張り出し舞台の前方で踊るとやはりよく見えない(今日は私は3階席にいた)。
オペラやバレエでタクトを執ることも多い園田隆一郎だが、今日は舞台後方での演奏であり、ダンスを確認しながらの指揮ではない。音楽にパフォーマーが合わせる形になるが、その場合はインテンポでの演奏を行えた方が良い。園田はそうした職人芸も持ち合わせているため、演奏自体もかなり高度なものになる。それにしても京都市交響楽団も随分上手くなった。私が京都に移り住んだ2002年にはまだ不器用なオーケストラというイメージだったが、今や別次元である。音の輝き、響きの力強さ、精度、いずれも日本を代表するレベルで、文化都市・京都の顔にこれほど相応しい団体は他にない。
ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」。今年はストラヴィンスキーの没後50年ということで彼の作品が2曲入っているが、ストラヴィンスキーもバレエ音楽を書いて活躍したのはパリ時代であり、ドビュッシーもラヴェルもパリを拠点とした作曲家ということで、京都市の姉妹都市パリにも焦点が当てられた曲目である。
オリンピックでも日本が比較的健闘している新体操であるが、男子の新体操となるとまだ珍しい。花園大学新体操部は1998年に創部。2020年11月に開催された第73回全日本新体操選手権大会では団体競技の部3位に入賞している。
オリンピックでは「フェアリージャパン」と称され、可憐な舞が中心となる新体操だが、男子の新体操は女子とは別のアクロバティックなものである。男子のシンクロナイズドスイミングを描いた矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」という映画は有名だと思われるが、女子と男子とでは別物という点が共通しており、「ウォーターボーイズ」(テレビドラマ版でも良い)を観たことのある人は男子新体操を思い浮かべやすいと思われる。タンブリングを主体としたダイナミックなもので、銀色のボディスーツにカラフルな照明が映えて、花火と肉体の生命力が存分に表される。
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。出演者達は「花火」の時には指揮台のすぐそばで目立たないように立っていた。
石橋義正のノートによると、「生殖」をイメージしたものであるが、出演者は女性のみであり、将来、人間は有性生殖をしなくなるという仮定の下、細胞分裂による進化を描いたものだという。「牧神の午後への前奏曲」は、マラルメの詩を元にしているが、牧神がニンフ達を追い回すということで、エロティックな振付が行われることもある。今回もそれらしい動きはあるが、女性ダンサー同士なので、それほど性的な意味に固執しない方がいいだろう。ダンサー達は腕と脚をゴムのようなもので繋いで踊る。具体的に何を意味するのかはわからないが、細胞膜、染色体、DNA(螺旋ではないが)といったものと捉えるとわかりやすい。これらは生命体である証であり、ウイルスはこうしたものを持たない。
ラストで紗幕が降り、ピンク色の光が溢れ出る様が投影される。
ラヴェルの「ボレロ」。紗幕に今度は原色系の帯のようなものが投影され、左右に動く。ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の冒頭に出てきそうな映像である。
やがて赤いドレスを着た女性の影が浮かぶ。紗幕が上がると、その赤いドレスを着た女性(アオイヤマダ)が踊る。やがて女性は舞台中央にしつらえられたチェアに腰掛ける。上手から男性(徳井義実)が登場し、女性の顔に色々と施しをする。どうもメイクアップアーティストのようだ。こういうような設定の場合は、大体、女性がえらい目に遭うのだが、JIROの特殊メイクにより、徳井がドライヤーを掛けると女性の顔が崩れて血が流れ始める。「ボレロ」自体がラストの突然の転調で聴き手を驚かせる内容であり、演出も音楽に沿ったものである。曲とパフォーマンスが終わると同時に、オーケストラが乗った少し高いステージの部分に「intermission」の文字が投影される。
無申告事件の後、テレビにはほとんど出られなくなった徳井義実であるが、昨年のよしもと祇園花月再始動の際にはオープニングを飾るなど、舞台では活動を拡げつつある。なぜ漫才が本業の徳井義実がパフォーマーに選ばれたのかはよくわからないが、京都市出身で花園大学OB(中退ではあるが。ちなみに「花園大学は同志社大学より格上」だと言い張って、相方の福田充徳に突っ込まれまくるというネタを持っている)いうこともあるのかも知れない。舞台慣れしているだけに洗練された身のこなしで、他の出演者達に劣らない存在感を示していた。
後半。まずはラヴェルの歌曲「シェエラザード」。
独唱の森谷真理は、人気上昇中のソプラノ歌手。栃木県小山市出身で小山評定ふるさと大使と、とちぎみらい大使でもある。二期会会員。「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」で国歌独唱を務めている。
紅白歌合戦の小林幸子のような巨大衣装で歌う。頭頂部に泉の噴水のようなオブジェが付いており、演出ノートによると「生命の起源をイメージする海洋生物」ということで鯨の祖先を模しているのかも知れないが、むしろ湧き出る泉のような生命力を表しているようにも見える。
森谷真理の歌声はびわ湖ホール大ホールでも聴いたことがあるが、ロームシアター京都メインホールは空間自体がそれほど大きくないということもあり、臨場感抜群の歌唱となった。私が行ったことのあるホールの中では、ここが一番声楽に適した音響を持っているように思われる。響き過ぎないのが良い。
巨大衣装ということで一人では退場出来ないため、歌唱終了後はスタッフが登場して4人がかりで移動。去り際に森谷真理は客席に向かって手を振る。
ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。ストーリー的には「牧神の午後への前奏曲」の続編としているそうだが、火の鳥は「復活の象徴」としてフェニックス=不死鳥になぞらえられている。舞台上方にはハートや蟹にも見えるオブジェが赤く輝いており、ノートには「火の鳥の卵のようなもの」と記されているが、向かい合った不死鳥を表しているようにも見える。
音楽自体が「牧神の午後への前奏曲」とは違ってダイナミックであるため、生命の躍動がダイレクトに伝わってきた。ノートにも「リアルな生の体験」と書かれているが、臨場感や波打つような生命力は劇場でないと十分に味わえないものであり、コロナ禍を乗り越えて不死鳥のように復活するという人類への希望と賛美もまた伝わってきた。
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