コンサートの記(687) 高関健指揮 京都市交響楽団第652回定期演奏会
2021年1月24日 京都コンサートホールにて
午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第652回定期演奏会を聴く。元々はアレクサンドル・スラドコスキーが指揮台に立つ予定だったが、新型コロナウイルスによる外国人入国規制により来日不可となり、代わって昨年3月まで京都市交響楽団常任首席客演指揮者を務めていた高関健がタクトを振るうことになった。
曲目も変更となり、ベートーヴェンの交響曲第4番とショスタコーヴィチの交響曲第5番となる。前の見えない迷宮に迷い込んだような序奏を持つベートーヴェン交響曲第4番は、運命に打ち勝つ交響曲第5番とセットで演奏されることがコロナ禍以降増えているが、高関は少し捻りを加え、ベートーヴェンの交響曲第5番ではなくショスタコーヴィチの交響曲第5番との組み合わせできた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、ベートーヴェンの交響曲第5番をなぞる形で書かれたというのが定説であり、同じようなテーマをより現代的に提示した作品を選んだことになる。
ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。コントラバスは舞台最後部に横一列に並ぶ。クラウディオ・アバドやクルト・マズアも好んだ、最も古典的な配置であり、山形交響楽団がこの形で演奏する時には特別な名前が付いているが、京響なのでそうした名称は用いられない。高関はこのシフトを好んで用いる。
この配置だと、楽器による音の受け渡しが確認しやすく、視覚的にも面白い効果を上げている。
今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。今日は管楽器の首席奏者はショスタコーヴィチ作品のみの出演。オーボエ首席の髙山郁子は前後半共に出演することが多いが、彼女も今日はショスタコーヴィチのみの出演で、ベートーヴェンは客演の髙崎雅紀がトップの位置でオーボエを吹いた。
演奏の出来は、ショスタコーヴィチ作品の方がはるかに良い。
ベートーヴェンの交響曲第4番。ピリオドアプローチを援用しており、弦楽のビブラートは控えめ。ところによって語尾を短くする。バロックティンパニの強打が効果的であり、生命力豊かであるが、全てのパートの音圧が強いため、主旋律が埋もれがちで、ところによっては混濁した印象を受けてしまう。最も力のある現役日本人指揮者の一人に数えられながら90年代以降「壁に当たっている」と言われ続ける高関健。確かに音を積み上げる技術については一流で、ブルックナーや現代音楽の指揮では高い評価を得ているが、流れの良さやしなやかさを犠牲にしている嫌いもある。なかなか両立は難しいということでもある。
京響も管楽器奏者の指が絡まったりと細かな傷があったが、フォルムのしっかりした演奏を繰り広げる。
ベートーヴェンも悪い演奏ではなかったが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番は高関の音楽性に合っており、桁違いに優れた演奏となった。首席奏者を揃えた管楽器もパワフルであるが、弦のボリュームと鋭さがショスタコーヴィチの才気を表し、打楽器の鳴りも凄絶である。
スケールとパースペクティヴを築く能力に長けた高関。ホール内を揺るがすほどパワフルな演奏に仕上げるが、飽和することはない。
爆発力と抒情性を兼ね備え、第3楽章のオーボエやクラリネットのソロの哀切さの表出も見事だが、ここは高関が奏者に任せている部分が多いように見えた。
第3楽章は哀歌と解釈される場合も多いが、曲調から勘案するに鎮魂歌と考えた方が自然なように思える。ショスタコーヴィチの生きた時代はスターリンによる粛清の嵐が吹き荒れており、無辜の民が数多く命を落としていた。ショスタコーヴィチの知り合いも、一人また一人と消えていったが、故人を犠牲者として偲ぶことさえ罪と見なされかねない時代であった。ショスタコーヴィチは第4楽章のインパクトによって印象に残りにくくなるこの楽章に鎮魂の意を込めたのだろうか。
その第4楽章は、「皮相なまでの凱歌」と呼ばれる行進曲である。今では偽書であるとされているソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』で、第4楽章について「強制された喜び」であると、ショスタコーヴィチは語ったとされる。ただ、ラストの展開を見ると、勝利と見なすことすら疑わしく、ショスタコーヴィチが本当は何を込めたのか分からなくなってくる。
メッセージを一つの演奏の印象から読み解くのは危険であるため、それ以上には踏み込まないが、高関と京響の演奏は、この曲の異様さを十分に炙り出していた。
「交響曲としては20世紀最大のヒット作」と言われるショスタコーヴィチの交響曲第5番。ショスタコーヴィチの他の作品の多くが聴けるようになった今では、交響曲第5番をショスタコーヴィチの最高傑作と見なす向きは減りつつあるが、それでも特別な楽曲であることに違いはなく、ショスタコーヴィチがこの曲に込めた謎に挑む人は今後も絶えないであろう。
充実した響きを堪能したコンサートであった。
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