観劇感想精選(384) 大竹しのぶ主演「フェードル」(再演)
2021年2月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇
午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「フェードル」を観る。作:ジャン・ラシーヌ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:栗山民也。出演:大竹しのぶ、林遣都、瀬戸さおり、谷田歩(男性)、酒向芳(さこう・よし)、西岡美央、岡崎さつき、キムラ緑子。
ラシーヌ最後の戯曲であり、ギリシャ悲劇「ヒッポリュトス」を題材に、当時のフランスの世相などを加えて書き上げたという重層的構造を持つ作品である。大竹しのぶのフェードル、栗山民也の演出による上演は2017年に行われ、今回は再演となる。
オペラやミュージカル上演時にはオーケストラピットとなるスペースが、客席側の壁を取り払う形でしつらえられており、階段が2つ下りていて、大竹しのぶ演じるフェードルがピットの部分に下りて嫉妬心を語るシーンがある。また菱形を重ねた舞台装置であるが、登場人物がその縁スレスレを歩く場面があり、不安定感が表現される。また、ライトによって舞台床面に十字架のようなものが浮かぶ場面があり、フェードルが両手を伸ばして磔になったかのように見える仕掛けが施されていたりもする。
ギリシャのペロポネソス半島の街、トレゼーヌが舞台である。アテナイ(アテネ)の王であるテゼが消息を絶つ。テゼは勇猛果敢な王であり、数々の戦勝によって英雄視されているが、「英雄、色を好む」を地で行く人物であり、とにかく女癖が悪く、至る所に愛妾を設けていた。
現在のテゼの王妃がフェードル(ギリシャ悲劇ではパイドラという名前である。演じるのは大竹しのぶ)である。クレタ島の王家の出。ミノス王の娘で、ミノタウロスとは異母姉弟、そしてゼウスの孫にして太陽神の家系という複雑な環境に生を受けている。フェードルが恋路について、ミノタウルスが幽閉されたラビリンスに例える場面が劇中に登場し、テゼとアリアドネの話も仄めかされる。テゼはフェードルを寵愛し、フェードルを妻にして以降は女遊びも止めている。だが、そんなテゼがいなくなった。
フェードルにもテゼとの間に子どもがあるが、テゼと先の王妃、アンティオペとの間に生まれたのがイッポリット(林遣都)である。女であれば誰もが一目見て恋に落ちるほどの美男子だ。アンティオペはアマゾン国の女王出身であり(つまりアマゾネスである)、今はもう他界しているが、人々の話から激しい性格であったことが察せられる。そのためイッポリットは女を憎むようになっていた。イッポリットはテゼを探しに、この場所から外へと飛び出そうとしているのだが、侍臣のテラメーヌ(酒向芳)から、「どうも王が死んだようだ」と聞かされる。
フェードルも、イッポリットを一目見て恋い焦がれてしまったのだが、血は繋がっていないとはいえ、義理の親子であるため、近親相姦と見なされる可能性が高い。そのため、フェードルは敢えてイッポリットに冷たく当たり、イッポリットもフェードルの恋心に気づいてはいない。フェードルは、イッポリットへの恋の病で伏せるようになる。
イッポリットはイッポリットで、かつてテゼに反抗したアテナイ王族の娘で、今は保護観察処分となっているアリシー(瀬戸さおり)に恋をしている。こうして「片思いの連鎖」が生まれているのだが、イッポリットは男前なので、アリシーもイッポリットを恋慕っていた。アリシーは7人兄妹だったようだが、自分以外の6人は全てテゼによって殺害されたそうである。
さて、テゼが亡くなったとされたため、王位継承の候補として、フェードルの子、イッポリット、アリシーの3人が挙がる。フェードルは忍ぶ恋の相手だったイッポリットを選ぼうとし、最後は自分の思いを打ち明けてしまうのだが、イッポリットからは当然ながらというべきか色よい返事が貰えない。イッポリットはアリシーに王座を譲ることを考えていた。若者二人、恋の障壁といえば現在の身分の違いである。だが、もしアリシーがアテナイの女王となった場合、全ての障害は取り除かれる。
そんな時、テゼ(谷田歩)が生きており、まもなく帰還するという情報がもたらされる。その他の人物の努力が、このテゼの帰還によって水泡に帰する危険があった。
フェードルは、イッポリットへの復讐として、乳母で相談役のエノーヌ(キムラ緑子)と共に、イッポリットが自身を誘惑したという真逆の情報をテゼに伝えようと謀る。
だが、イッポリットが自分ではなくアリシーを愛しているということを知ったフェードルは嫉妬の炎に燃え上がる。
テゼが王宮を不在にしたことを発端として巻き起こる悲劇である。テゼがそのまま留まり続けていれば起きなかった悲劇とも考えることが出来る。
イッポリットは呪いによって命を落とし、エノーヌはフェードルの裏切りによって海中に身を投げるのだが、これらはギリシャ悲劇らしく伝聞によって語られる。悲劇は見えないところで起きるのだが、ラシーヌはフェードルの服毒死だけは舞台上で行われるようアレンジしている(原作ではフェーデルことパイドラが落命するシーンはないそうである)。ここがギリシャ悲劇とは違ったラシーヌらしさである。
かつてある映画(どの映画かは忘れてしまった)で、大竹しのぶと桃井かおりの二人の「魔女」と言われる女優が路上で喧嘩しているシーンを撮っている時に、本当に雷が落ちて、映画にもそのまま収められたという有名な話があり、監督が「魔女二人が一緒に画面に入っちゃ駄目!」と言ったという話があるが、今回の舞台は、大竹しのぶとキムラ緑子という二人の「魔女」系女優の共演となった。ただ王妃とその乳母という関係であり、一部を除いては激しいやり取りもなく、落雷も起こらず(当然だが)、キムラ緑子の悲哀の表現の上手さが引き立っていた。
余談だが、キムラ緑子が、「さんまのまんま」に出演したことがあるのだが、キムラ緑子は、明石家さんまの話をほとんど聞かず、思いついたことを即行動に移してしまうため、さんまが、「言葉のキャッチボールって分かる?」「良い女優さんって、どうしてみんな変なんやろ? 俺に大竹しのぶは無理やったんやわ」と嘆いていたことが今も思い出される。
タイトルロールを演じる大竹しのぶであるが、セリフが極めて音楽的である。大竹しのぶは舞台出演も多いため、接する機会も多いのだが、近年になってセリフがより音楽的なものへの傾斜していることが実感される。おそらく本人も意識しているはずである。
大竹しのぶは、女優だけでなく歌手としても活動しており、コンサートなども開いている。また、エディット・ピアフの生涯を描いた「ピアフ」では、タイトルロールとして見事な歌唱を聴かせ、評価も高い。ということで音楽と親和性の強い台詞回しの追求が可能な女優である。
今回の「フェードル」でも三連符の連続のような節回しや、バロック音楽の装飾音のように華麗な口調、声の高さによって操られる情感や業に至るまでの多彩な表現を繰り広げる。真に音楽として聴くことの出来るセリフであり、大竹しのぶはさながら「セリフのマエストラ」と称賛すべき存在となっている。音楽好きの人にも是非見て聴いて貰いたいセリフ術だ。ちなみに今最も人気のあるピアニストである反田恭平が、東京で「フェードル」を観たようで、Twitterで大竹しのぶの演技を絶賛していた。
子役から成長した林遣都。子役の時は、映画「バッテリー」でピッチャー役を務めており、そのことからも分かる通り運動神経抜群で、高校生の頃に箱根駅伝を題材にした映画に出演した際は、指導を行った桐蔭横浜大学陸上部の監督に才能を見込まれ、「進路はどうなってるの? うちに来ないか?」とスカウトを受けたという話が残っている。駅伝の選手になりたいわけではなかったので当然ながら断っているが。
今回もイッポリットを凜々しく演じているが、運動神経が良いので、それを生かした演技も今後見てみたくなる。
今回は「魔女」ではない役のキムラ緑子(そうした要素が全くない訳ではないが、他者によって伝聞として語られるだけであり、演技では面には余り出ない)。セリフなしで佇んでいるだけでも雄弁という、ザ・女優の演技で見る者を惹きつけていた。
カーテンコールでは、客席がオールスタンディグオベーションとなり、俳優達は何度も舞台に登場。最後は大竹しのぶが、「ありがとうしか言えないんですけれど。こんな状況の中、お越し下さって感謝しております」と語り、その後、観客だけではなくスタッフや関係者へのお礼を述べた後で、「でも一番は、客席に来て下さった方のために」と感謝を伝え、「演劇が永遠に続きますように。頑張ります」と言って締めた。
| 固定リンク | 1
« これまでに観た映画より(250) 麻生久美子主演「ハーフェズ ペルシャの詩(うた)」(第20回東京国際映画祭にて) | トップページ | 観劇感想精選(385) 佐藤隆太主演 舞台「いまを生きる」(再演) »
コメント