コンサートの記(699) 井上道義指揮 京都市交響楽団第508回定期演奏会 ハイドン「朝」「昼」「晩」
2008年1月25日 京都コンサートホールにて
午後7時より、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第508回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団(京響)の第9代常任指揮者を務めた井上道義。
ハイドンの初期交響曲、交響曲第6番「朝」、交響曲第7番「昼」、交響曲第8番「晩」という、人を食ったようなタイトルを持つ3つの交響曲を並べたプログラムである。
外連味たっぷりの指揮が持ち味である井上道義。「最もピリオド・アプローチの似合わない日本人指揮者」のトップを小林研一郎と争うタイプの指揮者だったのだが、何故か最近、ピリオド・アプローチに手を出した。ニコラウス・アーノンクールが2005年の京都賞を受賞した記念に、国立京都国際会館で京都フィルハーモニー室内合奏団相手にピリオド・アプローチの公開ワークショップを行っているのだが、井上はそこにも顔を見せていたそうである。
京都コンサートホールのステージを見て、まず苦笑。
京都コンサートホール大ホールのステージは、管楽器奏者や打楽器奏者が指揮を見やすいように、ステージ後方がコンピューター操作によってせり上がるようになっている。そのせり上がりを目一杯利用して、ステージ後方のせりを壁のようにしてしまい、ステージ面積が通常の半分以下になっている。
ピリオド・アプローチによるハイドンということで小編成での演奏であり、それを視覚的に強調するようになっているのだ。のっけから遊び心全開である。最後部のせりは上げず、ステージ後ろから見ると、ステージと客席(ポディウム席)の間に空堀が掘られたようになっている。その空堀の底にライトが仕込んである。何かやりそうである。
オーケストラのメンバーが登場し、チューニングが終わる。それとほぼ同時に見るからにやる気満々の井上道義が登場、演奏が始まる。
予想通り、ユーモアたっぷりの指揮姿。ただ余りに大袈裟で、徐々に井上のナルシシズムが鼻につくようになる。
ピリオド・アプローチというと、ビブラートを抑えめにした透明な弦の音と、力強い管の音が特徴で、サー・サイモン・ラトルやパーヴォ・ヤルヴィ、ダニエル・ハーディング、サー・チャールズ・マッケラスなど、現代楽器によるピリオド・アプローチを得意とする指揮者の演奏を聴くと、アグレッシブな音にこちらの血が騒ぐ。
井上の指揮する京響は確かに音はきれいだけれど、生命力にはいくぶん欠ける。井上が、音楽と同等かそれ以上に自身の指揮姿の演出に力を入れているのも気になる。
交響曲第8番「晩」の第4楽章のような激しい音楽の演奏がやはり一番出来が良い。井上はピリオドはやらない方がいいんじゃないだろうか。ピリオドをやっている井上道義というのはどこかギャグ的である(そこが井上の狙いなのだろうが)。
前半が「朝」と「昼」、後半が「夜」の演奏。どの曲も20分ちょっとの作品なので、後半はかなり早い時間に終わる。ということでアンコール演奏(というより隠れプログラム)がある。やはりハイドンの交響曲第45番「告別」より第4楽章。
交響曲第45番「告別」第4楽章は、曲が進むにつれて演奏している楽器がどんどん減っていくという特異な構造を持つ。
ハイドンのご主人様であったニコラウス・エステルハージ候が、ある年、夏の離宮で長期滞在したため、ハイドンの部下である楽団員達は妻や子の待つ実家に戻れず嘆いていた。その状況を見るに見かねたハイドンが作曲したのが「告別」である。第4楽章で、楽団員達が一人、また一人と譜面台の上のロウソクの灯を吹き消して退場するのを見たエステルハージ候は、その意図を悟り、すぐさま離宮での生活を打ちきりにしたという。
今回は、初演時の演出を取り入れる。照明が抑えられ(ここで空堀の下のライトが活躍する)、各々の譜面台の上に置かれたロウソクに灯が点った状態で演奏がスタート。京響のメンバーは曲が進むにつれてどんどんステージを去っていく。最後は暗闇に。
いかにも井上好みの演奏会であった。
| 固定リンク | 0
コメント