史の流れに(7) 京都文化博物館 「特別展 よみがえる承久の乱――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」
2021年4月16日 三条高倉の京都府京都文化博物館にて
三条高倉にある京都文化博物館で、「特別展 よみがえる承久の乱 ――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」を観る。
来年の大河ドラマは、三谷幸喜の脚本で、小栗旬が主役である北条義時を演じる「鎌倉殿の13人」であるが、承久の乱はクライマックスとして描かれることが予想される。
三谷幸喜は、「新選組!」で香取慎吾演じる近藤勇を「最後の武士」として描き(野田秀樹演じる勝海舟が近藤を評して、「あれは本物の武士だよ。そして最後のな」と語るセリフがある)、「真田丸」では堺雅人演じる真田幸村(真田信繁)を「最後の戦国武将」として登場させた。最後をやったので今度は最初をやりたいということになったのだと思われるが、最初の武家政権とされる平清盛による政治は、平氏が公家化することで公家のトップである太政大臣として打ち立てており、本当の武家政権かというとそうでもない。源頼朝は京を離れた東国で鎌倉幕府を築いたが、征夷大将軍という位を朝廷から頂いており、朝廷のお墨付きで東国のみの支配として行われた政権である。その点、北条氏の政権は執権という朝廷から頂いたのではないポジションで行われており、しかも承久の乱で皇族や公家を屈服させて武士の優位を示した上で行われる公議制の全国的政権ということで、「真の武家政権」という見方も出来る。少なくとも三谷幸喜はそういう解釈をしているのだと思われる。
承久の乱に関する史料はそれほど多く残っているというわけでもないようで、「承久記」や「承久記絵巻」が最大の目玉であるが、いずれも江戸時代に想像で描かれたものであり、一次史料ではない。ということで、承久の乱に至るまでの武士の興隆の展示からスタートする。
保元の乱や平治の乱を描いた屏風絵、「平家物語絵巻」や源平合戦図屏風などが展示されている。
後鳥羽上皇は、承久の乱絡みか、法然や親鸞が流罪となった承元の法難でのみ知られているため、「タカ派」に見られやすいが、実際は歌道の名人で「新古今和歌集」の編纂を命じ、蹴鞠の得意とするなど文化人としての高い資質も示していた。藤原俊成やその息子の定家と親しく、藤原定家が小倉百人一首に自作として入れた、「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」の「来ぬ人」とは後鳥羽上皇のことだとする説がある。
鎌倉幕府の成立(以前は源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年に鎌倉幕府が起こったと見るのが主流だったが、現在は源氏が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝に守護・地頭を任ずる権利が与えられた1185年が鎌倉幕府成立の年と教えられるようである) から承久の乱に至るまでが「吾妻鏡」や「曽我物語絵巻」などで語られる。
藤原定家の日記である「明月記」の展示もあるが、頼朝が出家をした2日後に急死したことをいぶかる記述がある。
承久の乱の最初の重要地点となったのは美濃の墨俣である。後に羽柴秀吉が美濃攻めの足がかりとして一夜城を築いたことでも知られるが、昔から重要な場所であったことが分かる。また木曽義仲と源義経が戦った宇治川が次の決戦地となり、要衝の地は変化していない。
後鳥羽上皇が流された隠岐に関する展示は写真が中心。寂しいが史料がほとんど残っていないようである。ただ後鳥羽上皇は、隠岐にあっても「古今和歌集」の編纂に情熱を燃やしたらしいということが分かっているようだ。本質的には文人だったようである。
| 固定リンク | 0
コメント