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2021年5月21日 (金)

NHK「英雄たちの選択」“天平のパンデミック 聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤”

2021年5月5日

録画しておいたNHK「英雄たちの選択」“天平のパンデミック 聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤”を見る。聖武天皇の時代、奈良の都(平城京)では疱瘡(天然痘)が大流行し、藤原不比等の息子で当時の政権と藤原氏の中枢を担っていた四兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂。それぞれ、南家、北家、式家、京家の祖となる)が全員亡くなるなど、政治が大混乱に陥っている。

当時は奈良の都に全てが集中するという中央集権体制。一極集中ということで物資も奈良に集まっては散っていったため日本全土にウイルスが広まり、天然痘によって当時の日本人の3人に1人が亡くなるという惨状を呈する。当然ながら当時の経済の目安であった農作物にも影響が出た。
そこで登場したのが葛城王という皇族から臣籍降下した橘諸兄である。源平藤橘の橘氏の礎を築いた橘諸兄。母親は県犬養橘三千代であり、聖武天皇妃である藤原光明子は異父兄妹に当たる。ということで親族として光明子と聖武天皇から全幅の信頼を置かれての登場であった。

聖武天皇は母親の気質を受け継いだからともいわれるが、精神的に不安定な天皇であり、突然、伊勢や美濃に御幸を行ったかと思えば、都を平城京から恭仁京に移し、更に難波京、紫香楽宮へと遷都。ただでさえ天然痘のパンデミックの後だというのに、天皇が次々遷都するという異常事態に民衆は反発。更に金光明最勝王経を唱えた時期に天然痘が収まったということで、全国に経典を広めるべく、国分寺の建立を発案。ただ、遷都にも国分寺建造にも人力や資材が必要となる。更に聖武天皇は紫香楽宮に盧舎那仏の造営を企画。だが、工事が始まるやいなや、紫香楽宮で不審火が相次ぎ、民衆が離反したことに気づく。
恭仁京遷都については、橘諸兄主導だったという説が紹介される。橘諸兄の本貫地が恭仁京が築かれた今の京都府木津川市に近かったそうで、橘氏の都として築かれたのが恭仁京だったようだ。

橘諸兄自身は盧舎那仏の造営案に名を連ねておらず、造営自体に反対だった可能性が高いが、平城宮に盧舎那仏を築くよう聖武天皇に進言したのは諸兄ではないかともしている。

当時、新羅との関係が悪化しており、「新羅討つべし」との声もあったというが、諸兄は外交より内政を重視し、対朝鮮半島対策として置かれていた「軍団」を廃止し、農民出身者を農村に戻して収穫を増やし、課税を増やすという政策を採る(軍に入っている間は税を取られないという取り決めがあった)。
更に、石高を増やすため、最も語呂の良い日本史用語として有名な「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」を発布した。それまでは日本の土地は全て国有地であり、三世一身法で三代限りの私有が認められたが、期限付きであったため、積極的な開拓が行われたかというとそうでもなかった。耕してもどうせその土地を国家に取り上げられることになるのだから当然である。墾田永年私財法によって土地の私有を認めることで、開墾が進み、経済も回復したが、土地の私有化の副産物として貴族や有力寺院などが荘園を築くようになり、国家のあり方が変わっていくことになる。だがそれはまだ先の話である。

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