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2021年7月 2日 (金)

NHKオンデマンド「英雄たちの選択スペシャル 決戦!西南戦争 ラストサムライ西郷隆盛の真実」

2021年6月21日

NHKオンデマンド「英雄たちの選択スペシャル 決戦!西南戦争 ラストサムライ西郷隆盛の真実」を見る。2018年に放送されたもので、昨日の午後1時から再放送されている。再放送の録画の予約をしておいたのだが、ハードディスクの容量が足りず、ラスト20分ほどが録画されていなかったため、NHKオンデマンドで確認することにした。

再現VTRとロケ、スタジオでのトークからなる構成で、軍事方面の解説者として友人の竹本知行(現・安田女子大学准教授)が二度ほど登場する。

再現VTRで山県有朋を演じるのは懐かしの河相我聞。今は俳優専業ではないはずだが、俳優としての活動は続けているはずである。

クライマックスとなるのは田原坂。最後の内戦となった西南戦争最大の激戦地である。熊本民謡「田原坂」で、またNHK紅白歌合戦に対抗して日本テレビ系が年末に放送していた大型時代劇の一つ「田原坂」(西郷隆盛を里見浩太朗が演じた)の由来としても知られる。年末大型時代劇の「田原坂」は、それまでの「白虎隊」に見られるような群像劇ではなく、西郷隆盛一人の人生を追ったスタイルとなっていたが、そのために不評で、視聴率も振るわなかったと記憶している。


西郷の下野については、征韓論論争での敗北が引き金となっているが、鹿児島に帰った西郷の下に、不平を抱く多くの士族が集結。西郷が開いた「私学校」で武術の研鑽に励んだ。
中央を退いても人材の育成に努めた姿は多くの人の共感を呼び、私の出身地でもある千葉県にも、敬愛大学や千葉敬愛高校などを運営する千葉敬愛学園が存在する。敬愛は、西郷の座右の銘である「敬天愛人」が由来である。

今では「士農工商」という言葉も学校では教えなくなっているが、当時は皇族や公家、将軍家や大名家などを除いた人々の身分は、「士族とそれ以外」からなっていた。そして勝海舟や坂本龍馬のように、先祖が御家人身分などを金で買って士族に加わるものもあり、思ったほど厳しい身分社会という訳でもなかった。
だが、明治維新となり、士族はその特権を次々と失っていく。武士の魂とも呼ばれる刀を奪う廃刀令、そして仕えることで俸禄を頂くという体制も主君が華族となって東京に移り住むことで徐々に崩壊していく。そして1869年の秩禄処分により多くの士族が生活の糧を失う。商売に手を出す者もいたが、ノウハウが全くないため次々と失敗。これが「武士の商法(士族の商法)」と呼ばれるようになる。
秩禄体制の崩壊に深く関わってくるのが、徴兵令の施行である。国民皆兵を目指したことで、士族が特権階級である意義は事実上消滅したことになる。

そうした状況下で不平士族が次々と決起。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族反乱が立て続けに起こる。

そして不平士族の首領として担がれることになったのが、鹿児島に隠居していた西郷隆盛である。下野していたとはいえ、戊辰戦争の英雄であり、陸軍大将の称号は保持。その魅力は全国の士族達を引きつけていた。

ただ、西南戦争自体は、西郷隆盛以上に桐野利秋(幕末は中村半次郎を名乗る。あだ名はご存じ「人斬り半次郎」である)が積極的に関わっており、西南政争を「桐野の戦争」と呼ぶこともある。桐野は徴兵制が士族の存在意義を否定するものと捉えていた。

西郷の決起は本意でなかったとされるが、新しい解釈として、西郷もいずれは反乱を起こす気でいたが、薩摩士族の暴挙や西郷暗殺計画を知ったことにより、十分に準備を整えることが出来ないまま立ち上がらざるを得なくなったという説が紹介される。神風連の乱が起こった際に西郷が、「ひとたび相動き候わば、天下おどろくべきの事をなし」という書状を友人に送ってるのがその根拠とされるが、漠然とした希望を語っただけの可能性もあり、根拠として十分とはいえないように思われる。文面から察するに、この時は今すぐ何らかの行動を起こすつもりはなかったと思われる。文章がやや悠長だ。

ともあれ、西郷は桐野と共に決起。まずは新政府軍の鎮台が置かれた熊本城を目指す。西郷軍が動いた時点での熊本城の守りは手薄であったが、当時最新鋭の電信、鉄道などを駆使する新政府側は速やかに熊本城内に援軍を送ることに成功。結局、西郷軍は谷干城を司令官として置く熊本城を落とせぬまま、博多から迫り来る新政府軍の援軍と退治するため、熊本城の北にある田原坂に陣取り、迎撃態勢を整える。
従来は、田原坂の一本道を巡る死闘とされていた田原坂の戦いだが、現在では調査により、西郷軍は田原坂の一本道の上方に砦を築き、地の利を生かす戦法を取ったことが分かっているようだ。

天下の堅城、熊本城とはいえ、援軍が来なければ籠城側は負ける。田原坂で援軍を押し止め、同時に分隊が熊本城への攻撃を続けることで、南北同時勝利を目指した作戦であった。

ここでまた徴兵制の問題が絡んでくる。西郷軍に所属するのはほぼ全員が士族。一方、新政府軍は、平民身分出身者が軍事教練を受けて参加していた。勿論、士族出身者も幹部を中心に含まれていたが、主力は平民階級の兵士である。
その後、白兵戦で勝てぬと踏んだ新政府側は、士族を中心とした警視局の抜刀隊を組織。士族出身者を特別視することで徴兵制を否定するような戦術だったが、日本刀での斬り合いの訓練を幼少時から受けていたのは士族階級出身者のみであるため、背に腹は代えられなかった。警視局抜刀隊には、元新選組の三番隊組長・斎藤一こと藤田五郎が参加していて、新聞にも載るほどの獅子奮迅の激闘を演じ、新選組隊士の維新後唯一の活躍となっている。
会津新選組局長、山口二郎を名乗ったこともある斎藤一こと藤田五郎の活躍などもあって、戊辰戦争で負けた会津出身の抜刀隊員が、「戊辰の敵! 戊辰の敵!」と叫びながら激闘を繰り広げたという有名な話があるが、これは誤解によるものとされており、実際に抜刀隊の主力となったのは、旧薩摩藩士だそうである。

江戸時代の薩摩藩(島津家)の統治体制は独特であり、一国一城令の時代に100を超える支城(外城)を持つことが許されていた。その代わりなのかどうかは分からないが、島津氏も譲歩しており、居城の鹿児島城は、鶴丸館という本来の名の方が相応しい質素な居館であり、堅固で巨大な城郭は築いていない。支城を守るために武士を多くする必要があり、他の大名家の家臣なら農民階級に属する人々が苗字帯刀を許されて士族に組み入れられ、半農半士というスタイルで生活していたため、薩摩における武士の割合は、子女も含めて15%から25%ほどにもなる。江戸時代に全人口において武士が占める割合は、子女を含めて5%から7%といわれているため、薩摩の武士層の厚さが分かる。ただ一方で、鶴丸館の周りに屋敷を構える城下士と、支城を固める役割を持つ外城士では身分に違いがあり、外城士は郷士とも呼ばれ、自作農が許される代わりに俸禄なしなど待遇は良くない上に、城下士からは蔑まれていた。維新になっていよいよ生活出来なくなった外城士からは東京に出て警視局に入る者が多く出る。そして、因果なことに抜刀隊として同国人同士で斬り合うことになるのである。抜刀隊を支えたのは戊辰の怒りではなく、階級体制に対するかつての不満だったようだ。

ところで、島津氏の居城は鶴丸城のみで、親戚の藩もあったが、支城の数の方が遙かに多く、それを守る外城士=郷士の方も当然ながら多かった。西南戦争においても、城下士=西郷軍、外城士=新政府軍という単純な二極化ではなく、西郷軍も数からいえば郷士出身の者の方が圧倒的に多かった。郷士も「私学校」への入学を許されたためで、統計を見てみると、城下士は郷士の10分の1強の数しかいない。郷士は半農半士なので、剣術はともかくとして、砲術、射撃、軍事的知識などについては城下士ほどには通じていないはずである。

戊辰戦争に参加した薩摩軍の兵士は、大半が身分は低めであったものの城下士で、郷士の大半は実戦経験を持っていない。また、これまで郷士を見下してきた城下士に部下として仕える意味も必ずしも持っているわけではない。そうした状況でありながら、数を頼りに挙兵したことが、西郷方のそもそもの誤りであった可能性もある。

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