これまでに観た映画より(266) 「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」
2021年8月11日 京都シネマにて
京都シネマでドキュメンタリー映画「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」を観る。
英語と広東語による作品。北京語は、中国共産党の幹部などの発言など、一部で使われているのみである。スー・ウィリアムズ監督作品。
21世紀初頭にデビューし、香港を代表する女性シンガーとなったデニス・ホー(何韻詩)。1977年、教師をしていた両親の下、香港に生まれるが、1989年に第二次天安門事件が発生したことで、「教師が弾圧される可能性は否定出来ない」と考えた両親と共にカナダのモントリオールに移住。そこで様々な音楽に触れることになる(モントリオールにある大学で音楽を学んだ作曲家のバート・バカラックが以前、「モントリオールはポピュラー音楽が盛んな街」と話していたのを読んだことがある)。中でもデニス・ホーの心を捉えたのは、当時、香港最大の歌姫として君臨していたアニタ・ムイである。
香港ポップス初の女性スターといわれるアニタ・ムイ(梅艶芳)。一時は、「香港の美空ひばり」に例えられたこともある。
自身で作詞と作曲も始めたデニスは、「アニタ・ムイに会いたい」という一心で一人香港に戻ってオーディション番組などに参加。見事、グランプリを獲得してデビューすることになる。最初の頃は「カナダから来た子」であり、金もないし仕事もないしと苦しみ、アニタ・ムイにも余り相手にして貰えなかったようだが、デニスは自らアニタに弟子入りを志願。アニタと共演するようになり、アニタとデニスは師弟関係を超えた盟友のような存在となる。香港に帰ってくるまでは政治には関心がなかったデニスだが、アニタが社会問題に関する発言が多いということで、香港を巡る様々な問題に真正面から取り組むことになる。
元々同性愛者だったデニスだが、LGBTが香港でも注目された2012年に、レズビアンであることをカミングアウト。これがむしろ共感を呼ぶことになる。
中国共産党による香港の締め付けが厳しくなり、 2014年に「逃亡犯条例」を香港政府が認めそうになった時には、自ら「雨傘運動」と呼ばれる若者達中心の抗議活動に参加。座り込みによる公務執行妨害で逮捕されたりもした。
香港はアジアにおける重要な貿易拠点であり、人口も約750万人と多いが、音楽的なマーケットとしては規模が小さい(ちなみに東京23区の人口は約960万人である)。小室哲哉が凋落する原因となったのも香港の音楽マーケットとしての弱さを知らずに進出したためだったが、規模の小ささは香港出身のアーティストとっても重要な問題で、すでに90年代には香港のトップスター達は北京語をマスターして、中国本土や台湾に活動の場を拡げていた(リトル・ジャッキーことジャッキー・チュンなどは簡単な日本語をマスターして日本でもコンサートを行い、また北京出身で、香港を拠点に北京語、広東語、英語を駆使して歌手活動を行っていたフェイ・ウォンは、日本人以外のアジア人として初めて日本武道館でのコンサートを、しかも2回行っている)。デニスも北京語歌唱のアルバムを発表し、中国の主要都市でコンサートも行うようになっていた。中国ではテレビコマーシャルにも出演。ギャラの9割以上は中国本土から受け取っていた。それが香港の民主主義体制維持活動によって逮捕されたことで、中国での仕事、そしてギャラも当然ながらなくなり、香港での活動も制限されることになる。今は中国本土に入ることも出来ないようだ。
だがその後もデニスは一国二制度(一国両制)と香港の自由を訴えるために世界各国に赴いている。パリやワシントンD.C.で、デニスは法治国家でなく基本的人権も守られない共産党中国の危険性を訴えており、立ち寄った外国のライブハウスで、メッセージ性の強い歌詞を持つ曲を歌い続けている。
そんなデニスであるが、やはり子供の頃から憧れ、長じてからは姉のように慕う存在となったアニタ・ムイをどこかで追いかけていることが伝わってくる。出会ったばかりの頃は、アニタの真似をしており、逮捕後初のコンサートでもアニタを思わせる衣装を纏ったデニス。子宮頸がんによって2013年に40歳というかなり若い年齢で他界したアニタ・ムイの意志を継いでいる部分は当然あるのだろう。今はアニタ・ムイを超えたという意識はあるようだが、40年という短い人生ではあったが香港の黄金期の象徴の一つであり続けたアニタ・ムイに対する敬慕の念が薄れることはないはずである。アニタ・ムイの音楽における後継者であるデニス・ホーが、アニタ・ムイの姿勢をも受け継いだように、デニス・ホーの曲が歌い継がれることで香港人の意志も変わっていくのか。現在進行形の事柄であるだけに見守る必要があるように思う。
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