観劇感想精選(412) TFACTORY 「4」
2021年8月28日 京都芸術劇場春秋座にて観劇
午後3時30分から、京都芸術劇場春秋座で、TFACTORYの「4」を観る。作・演出:川村毅。出演は、今井朋彦、加藤虎ノ介、池岡亮介、川口覚、小林隆。
モノローグを積み重ねる演劇として2011年に構想され、リーディングなどを経て2012年に東京のシアタートラムで初演された作品であり、ニューヨークでもジョン・ジェスランの演出でリーディング公演が行われるなど、デンマーク語、韓国語などによる翻訳上演が重ねられてきた。いわゆる演劇の本公演としての上演は今回が2度目で、再演ということになり、川村毅が自身で演出も手掛けるバージョンとしては初演ということになるらしい。
本来は、5月に東京で、6月に京都で上演が行われる予定だったのだが、コロナ禍によって延期となっていた。
壁のセットがある他は、椅子の上に箱が置かれているだけの舞台。やがて5人の男が現れ、箱の中に手を入れてくじ引きを行う。小林隆だけは舞台を去り、残った4人は下手手前、下手奥、上手奥、上手手前に分かれて陣取り、やがて一人ずつモノローグを行う。
くじで割り当てられた役を即興で演じるという設定であり、演じ手の性格と演じられる人物の性格は必ずしも一致しない。
裁判員裁判の話ではないが、後述するように彼らは全員裁判員の欠格事項に触れており、割り振られた役も欠格事項に該当する人物が多く、裁判員になれない人の声を拾う役割を担っている。
一巡目は、今井朋彦演じる男(一応、4を意味するFOREに由来する「F」という役名があるが、この芝居では役名は特に意味を持たない)が裁判員に選ばれた大学職員、加藤虎ノ介が死刑執行命令を出す法務大臣、池岡亮介が刑務官、川口覚が無差別殺人で5人を殺害した未決囚(ここでは死刑が執行される前の死刑囚という意味)として、それぞれ長大なモノローグを行う。
5人が殺害されたということで、5人の正体が被害者の身内であることが察せられるようになっている。
死刑は執行されたようだが、死刑囚が犯した罪と身内が殺されるという各々の不幸を受け入れるためにシミュレーションが行われているようだ。謎に迫ることで、死刑囚との距離も微妙に変化していく。話しているうちに、自分の見知らぬ場所にたどり着いてしまうこともある。
そして途中で、役柄チェンジ。今井朋彦が刑務官に、池岡亮介が裁判員に選ばれた大学職員に、加藤虎ノ介が未決囚に、川口覚が法務大臣になる。
刑務官が初めて未決囚の首に縄を掛ける時に、慣れないために浅くしてしまい、下にいて未決囚(死刑執行がされた瞬間に死刑囚となるわけだが)の体を支えたり引っ張ったりする役割のMに負担を掛けてしまう。Mは首を絞めて死刑囚を殺すのだが、そのことがトラウマとなって配置転換となり、刑務官も辞めて実家に戻るが、やがて精神病院に入るという設定が、今井朋彦演じる刑務官が演じるという形で語られる。
池岡亮介が扮した大学職員が語る話も、Sという同僚が駅で飛び込み自殺を図ったという展開になり、あるいは自分がSの背中を押したのではという疑念を抱くなど、闇の世界へと階段を一歩ずつ降りていくことになる。この辺は心理スリラー的な味わいがあり、「死」や「死刑」についての問いがなされる。
ただ、淵にまで来てしまったということで、再び元の配役に戻ってシミュレーションが続けられる。なお、法務大臣が語った、「古書店街の真ん中にある大学」で「刑事博物館」があり、「展望レストラン」が存在すると語られる場所があるのだが、これは明らかに明治大学駿河台キャンパスのことである。少なくても日本には、この三つ全てに該当する大学のキャンパスは他には存在しない。それぞれの名称は、「神田古書店街(神田神保町古書店街)」「明治大学博物館」「スカイラウンジ暁」である。ただ京都での公演ということで、その場所が明治大学駿河台キャンパスだと気づいたのは、おそらく私だけであったと思われる。気づいたからといってどうということはないのだが。
ちなみに小林隆だけは、前半には全くセリフがなく、ラスト近くになって長大なモノローグが用意されているのだが、それまでの4人の横糸とは異なり、法廷だったら発言を慎むよう注意される類いの感情的な縦の糸を与えるという重大な役目を担っている。なお、小林隆と川村毅はほぼ同じ時期に明治大学に在籍していたはずで、川村毅は在学中に第三エロチカを旗揚げしているが、小林隆は学生時代はヨット部に所属しており、演劇活動はほとんど行っていなかったはずなので、学生時代に互いに面識があったのかどうかは分からない。
川村毅は基本的にストーリーの人であり、ストーリーテリングの才能を見せると同時に、「演劇ならでは」の底深さが感じられないという欠点も合わせ持つ。アングラ第三世代の中で今はちょっと埋もれた印象を受けるのもそのためだろう。今回も小林隆が一度目に下した判断やラストは弱めに感じられた。モノローグということで私小説的な語りが続くのだが、良くも悪くも文学的であり、虚構を演じるという最も演劇的な要素を用いながら「あるいは映像でも可能な表現」と思われる構造を持ってもいる(川村毅は映画マニアである)。あるいはレーゼドラマでも構わないような気もする。
出演者達は超長ゼリフを情感豊かに語り、巧みな表現を見せるが、劇場の音響のためか空間が広いからか、セリフが聞き取りにくい場面が多く、こちらも入り込むのが難しかった。
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