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2021年10月30日 (土)

コンサートの記(750) NISSAY OPERA 2021 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」日本語訳詞版上演@フェニーチェ堺

2021年10月23日 フェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、フェニーチェ堺大ホールで、NISSAY OPERA 2021 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。本業はバリトン歌手であるが、演出家、音楽学者、翻訳家など多分野で活躍し、『職業:宮本益光』という著作も出している才人、宮本益光の翻訳による日本語上演・字幕付きである。

指揮は園田隆一郎、演出は伊香修吾(いこう・しゅうご)という、今月上旬にびわ湖ホールでやはりプッチーニの歌劇「つばめ」を手掛けたコンビが続けての登場となる。演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。フェニーチェ堺の最寄り駅は南海堺東駅であるが、大阪フィルが事務所を構える大阪フィルハーモニー会館の最寄り駅である南海天下茶屋駅から堺東までは各駅停車で7駅と近い。余談だが、大阪フィルハーモニー会館は、元々は南海の工場があった場所に建っており、南海の社長だったか重役だったかが、当時の大阪フィルの音楽監督だった朝比奈隆と京都帝国大学時代の友人だったという縁で建設が実現している。

出演は、迫田美帆(さこだ・みほ。ミミ)、岸浪愛学(きしなみ・あいがく。ロドルフォ)、冨平安希子(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、近藤圭(ショナール)、山田大智(やまだ・たいち。コッリーネ)、清水良一(ベノア)、三浦克次(アルチンドロ)、工藤翔陽(くどう・しょうよう。パルピニョール)。合唱は、C.ヴィレッジシンガーズ。

数あるオペラ作品の中でも屈指の人気を誇る「ラ・ボエーム」であるが、ボヘミアン(ボエーム)を描いているということもあって女性の出演者が少なく、対立のドラマが(見かけ上は)存在しないという特殊なオペラでもある。


今回の上演では、ミミが最初から舞台中央のソファベッドにおり、それを表すかのような第4幕の音楽が前奏として付けられているのが最大の特徴である。ミミはほぼ出ずっぱりである(ミミがこの部屋から出ることは一度もない。第1幕のラストでもドアの外までは出るが、階段を降りることはない。また本来の登場の場面も、ドアから入ってくるのではなくではなく、窓際に不意に立っているという設定になっている)が、他の出演者にミミの姿が見えないという場面が存在(特に最初の方は、ラ・ボエーム達がミミの姿に気づかないまま話が展開していく)しているため、リアルな女性ではないということが分かる。あの世へ行ったミミの回想のドラマというコンセプトらしいのだが、芸術家の卵達を描いた作品ということで、ミミを「ミューズ」と見立てたという解釈が一番面白いように思う。これなら単なる「視座」ではなく、「見守る女神」の視点となり、ミミの死が芸術家達の青春の終わりに繋がって、より効果的であり、私ならそうするが、中途半端なのを見ると(第4幕ではムゼッタも見えない存在として登場してしまう)そうでもないようである。ミミがずっといるからミミに焦点を当てたドラマになるということでもないため、それならばふいに現れては去って行くミミの儚さを強調した方が良いように思われる。あるとすれば、実はミミではなく、この部屋つまり彼らの青春の空間が主人公であり、ミミがその象徴としての役割を持つという可能性である。これならまあまあ面白いかも知れない。コロナ対策として取られた演出という面もあったようなのだが、6月の日生劇場の公演での評判を受けての堺公演でかなりの不入りということで、観客に受け入れられなかった可能性もある。

上演は基本的には全て室内で行われる。第2幕のカルチェ・ラタンの群衆の声は窓の外から聞こえ、第1幕でラ・ボエーム達が集っていた部屋(画家のマルチェッロが家主である)がそのままカフェ・モミュスに移行するというわけで、ムゼッタとアルチンドロは下手にある窓から屋内へ入って来て、ボエーム達も窓から退場する。リアルな演出でないため、これでも良いわけである。第3幕冒頭のアンフェール(インフェルノ)門の場面も屋外ではなく、部屋がそのまま移行して関税徴収所の内部として描かれる(舞台美術:二村周作)。

日本語による上演であるが、歌詞が日本語になったからといって聴き取りやすくなったということもなく(イタリア語に比べれば分かりやすい場面も多いが)やはり字幕に頼る場面も多かった。

フェニーチェ堺大ホールに来るのは二度目で、初のオペラ上演体験となるが、空間自体がそれほど大きくはないため(3階席の最前列で観たが、視界も良好である)、オペラには音響面でも「ジャストフィット」という印象である。オーケストラの音も通りやすく、歌声も聴きやすくて、声を張り上げても壁がびりつくということもない。歌手達の演技も上質だったように思う。

大阪フィルは、ドイツ音楽に特化した低音豊かな音が特徴だが、これがあたかもバリトンのカンタービレのように響き、こうしたイタリア音楽の再現も悪くない。園田隆一郎の音作りも「手慣れ」を感じさせつつ新鮮という理想的なものであった。

なかなか感動的な「ラ・ボエーム」であったが、演出が前衛と正統の中間であるため、どっちつかずの印象も受けてしまったのも確かである。

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