細野晴臣デビュー50周年記念展「細野観光 1969-2021」@グランフロント大阪北館ナレッジキャピタルイベントラボ
2021年11月30日 グランフロント大阪北館ナレッジキャピタルイベントラボにて
グランフロント大阪北館ナレッジキャピタルイベントラボで、細野晴臣デビュー50周年記念展「細野観光 1969-2021」を観る。当日券も発売されているのだが、前売りで入った。
1947年、東京に生まれ、現在に至るまで日本のミュージックシーンを牽引し続けている細野晴臣。彼の足跡を振り返ることは、日本のポピュラーミュージックの歴史を振り返ることに他ならない。
まずは細野さんの歴史を辿る。1947年7月9日、東京都港区白金に生まれ、港区立白金小学校から港区立青山中学校に進む。出てくる地名が一々お洒落である。私立立教高校から私立立教大学社会学部に進学。立教大学のような誰でも知っているレベルの大学なら「私立」と表記しなくても分かるはずだが、細野さん自身がそう表記しているのだと思われる。一度、何かの本で細野さん自身が書いた履歴書のようなものを読んだことがあるのだが、そこには「私立立教大学」と書かれていた。
ベースを弾くイメージが強い細野晴臣であるが、最初に習った楽器はピアノで、8歳から習い始めている。発表会に出た時の細野晴臣少年の写真もあったが、ピアノの練習は余り好きではなかったようで、中学生の時にクリスマスプレゼントとしてギターを買って貰い、そこからギターの練習に夢中になる。1日に平均4~5時間弾いていたそうだ。
16歳で初めてのバンドを結成。大学に入ると都内のあちこちで演奏を行い、松本隆や小坂忠と知り合ってエイプリルフールを結成。その後に、はっぴいえんどなど幾つかのバンドを経て1979年にYMOことイエローマジックオーケストラ(Yellow Magic Orchestra)を立ち上げる。サディスティック・ミカ・バンドのドラマーとしてすでに著名であった高橋幸宏、東京芸術大学大学院音響研究科(この音響研究科というのは、コンピュータ音楽など、当時最新鋭の電子音楽を研究する課程である)出身で、売れっ子スタジオミュージシャンであった坂本龍一と組んだこのバンドは、当初は全く売れなかったようだが、海外で最初に人気に火が付き、逆輸入という形で日本全国にも広まっていく。
YMO時代に使用したシンセサイザーが展示されており、会場に流れる音楽もYMOのものが最も多いなど、細野のYMO時代はやはり特別なものであるが、YMOが散開した後は民族音楽やアンビエントミュージックの要素も取り入れた個性豊かな音楽を生み出すようになる。
1994年には、遊佐未森、甲田益也子(こうだ・みやこ)、小川美潮と、Love,Peace&Tranceを結成。ここでは細野はプロデューサーであり、細野が「シャーマン音楽家」と呼んでいた福澤諸(元々心臓が悪く、2002年に50歳で死去)が作曲を多く手掛けているが、このユニットが私が遊佐未森を本格的に知るきっかけを作っている。
当時流行っていたロハスを前面に出し、民族音楽とアンビエントの融合を行う面白い存在であったが、受けは必ずしも良くはなかったと記憶している。
その他にYMOの再結成や、HASYMO、忌野清志郎や坂本冬美と組んだHIS(Hosono,Imawano,Sakamotoの頭文字)などでも活躍。
2019年には初めてアメリカでツアーを行い、ニューヨークとロサンゼルスで演奏。公開中の映画「HARUOMI HOSONO SAYONARA AMERICA」でこの時の様子を観ることが出来る。
シンセサイザーの他にギターやバンジョーなどの弦楽器、様々な地方の民族楽器なども展示されている。映画好きである細野が観た映画のパンフレットの展示もある(細野は「パンフレットは買う」派であるようだ。私は余程良いものでないと買わないけれど)。また蔵書なども並べられている。細野と坂本龍一がYMO時代に不仲になった原因の一つとして坂本は、「細野さんが神道に傾倒し始めたりして」と語っていたりするが、実際にその手の本もある。また、少年時代にはマンガ家を志していたこともあるということで、マンガの蔵書も多い。
細野晴臣のみならず、私も影響を受けたミュージシャン達も相乗りで進む細野観光。
2021年までとなっているが、その先も永遠に続くような気がする。
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