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2022年1月の23件の記事

2022年1月31日 (月)

美術回廊(72) 京都国立近代美術館 「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」

2022年1月15日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」を観る。

今回は展示品の横に説明書きのようなものはなく、入り口に置かれている作品リストを手に、展示品の脇に置かれた番号(「Ⅰ-1-01」「Ⅱ-2-10」といったような)を参照して、リストで内容を確認するという鑑賞法になっている。

1893年にウィーンに生まれた上野リチ。生誕時の名前はリチ・リックスであり、32歳の時に日本人建築家の上野伊三郎と結婚して、上野リチ・リックスという名前になっている。
ウィーン工芸学校で学んだ後、ウィーン工房の一人としての活動を開始。上野とはウィーン工房の同僚であった。

ウィーン工房は、共にウィーン分離派(オーストリア造形芸術家協会)出身のヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが始めた美術工房で、工業デザインを得意としていた。

上野リチの作品の前に、ウィーン工房が作成したデザイン画や日用品などが展示されているが、一目見てマーラーの音楽が脳内に響き渡るような趣を持ったものが多い。マーラーもこのような工芸デザインに囲まれながら作曲や指揮活動を行っていた訳で、相互作用は当然ながら働いていたと思われる。マーラーは生前には作曲家としてはいくつかの例外を除いて成功出来ておらず、「異様な曲を書くらしい」ということだけが知られていた(マーラーは失敗を怖れて交響曲の初演を本拠地のウィーンでは行わなかった)。だが、時を経て見てみると、時代による親和性は確かにある。

上野伊三郎と結婚後、上野リチは夫の故郷である京都とウィーンを往復する生活に入る。作品の中には、水墨画や版画を意識したものもいくつか見られる。夫と共作したものもある。オーストリアと日本の良き融合である。

その後に京都に定住するようになった上野リチ。当時の日本にはまだインダストリアルデザインは十分には普及しておらず、上野は京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学美術学部)で教鞭を執った他、夫と共にインターナショナルデザイン研究所(その後、何度も校名変更を行い、最終的には京都インターアクト美術学校となるが、京都精華大学に吸収合併される形で2009年に閉校)を設立して後進の育成に当たった。展覧会の終盤にはリチの教え子達の作品も展示されている。

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2022年1月30日 (日)

コンサートの記(761) 沼尻竜典作曲・指揮 歌劇「竹取物語」2022@びわ湖ホール(セミ・ステージ形式)

2022年1月23日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

大津へ。琵琶湖岸から見る比叡山や比良山系、東の三上山などには霞やもやが掛かり、文人画のような趣がある。曇り空を反映した湖面も穏やかであり、カイツブリ以外に動くものは見受けられない。

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午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典作曲・指揮による歌劇「かぐや姫」を観る。オーケストラピットを囲む形でエプロンステージを設け、そこで歌手達が演じるセミ・ステージ形式での上演。オーケストラピットの後方には間口の広い階段状のステージがあり、合唱(びわ湖ホール声楽アンサンブル)が歌う。その背後にはスクリーンがあり、竹取翁の家や都の大内裏の絵、月などが投影される。

日本最古の物語とされる「竹取物語」を題材としたオペラ。沼尻が手掛けた台本は原典の流れに比較的忠実であるが、オペラ的な要素も当然ながら取り込んでいる。

演奏は日本センチュリー交響楽団。演出は栗山昌良。栗山が高齢ということで中村敬一が演出補として入っている。出演は、砂川涼子、迎肇聡(むかい・ただとし)、森季子(もり・ときこ)、松森治、谷口耕平、市川敏雅、平欣史、晴雅彦、美代開太、有本康人、八木寿子、久保田考揮(大津児童合唱団)ほか。

沼尻が作曲した音楽は、日本的な「よな抜き」も用いた調性音楽であるが、たまに不協和音なども加わる。かぐや姫に求婚した公達達が成果を発表する場では、アコーディオンを加えたシャンソン風のものが奏でられたり、派手なブロードウェイミュージカル風のナンバーが加わったり、ハナ肇とクレイジーキャッツ風のコミカルソングが出てきたりと多彩な表情を持つ。

竹取の翁(迎肇聡)が光る竹の中に赤子を見つける場面から始まり、媼(森季子)と共に娘として育てることに決め、名付けを住職に頼もうとする。
瞬く間に成長したかぐや姫(砂川涼子)に婿を取らせようとする翁と媼であるが、かぐや姫はずらりと揃った5人の公達達一人ひとりに難題を与える。おそらくこの場面でのかぐや姫の態度は、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」をなぞる形で書かれていると思われる。沼尻が2015年に書いたプログラムノートの「冷たい心を持ったかぐや姫」という文言からもそれは察せられる。求婚してくる者に同じ謎かけをし、答えられなかった者(全員であるが)の首を容赦なくはねたトゥーランドット姫。一方で、かぐや姫の場合は、無理難題を言うが、個別に、というところが特徴である。トゥーランドット姫のように1つの難題を与えて5人に競わせるという形でも一向に構わないと思われるのだが、そうしないところに私はかぐや姫の優しさを見る。原作の解釈も同様で良いと思われるのだが、1つの難題を与えて競わせると、当然ながら諍いが生じてしまう。場合によっては殺し合いなどに発展する可能性もある。かぐや姫は個別に難題を与えることでそれを避けたのではないか、と私はこれまでも思ってきた。

難題を与えたのは、そうすれば全員が諦めると思ったからと推察する。だが、実際は、かぐや姫を手に入れるために公達達は奮闘、転落して命を落としてしまう者も出る。そのことに対するかぐや姫の態度の記述は原作にはなかったと思われるが、今回のオペラでは落命する者が出たことにかぐや姫は激しく動揺する。

かぐや姫は、罪を犯して月から追放され、地球に「再生」という形でやってくるのだが、おそらく月に帰るための試練を与えられていたと思われる。「罪」については実は明かされることはないのだが、おそらくは「男と情を交わした」のだろうと推測される。月の住人には寿命がなく、永遠に生きることが出来るのだが、その場合は子孫を設ける必要がない。ということは異性と良い仲になる必要がないということであり、それを破った場合は「罪あり」とされるのではないかとの推理が成り立つ。そして地球に落とされたかぐや姫には懸想する男達を交わすというミッションが与えられているのではないだろうか。
ただそれ以上に、「月に戻る身なのだから、所帯を持った場合、夫を傷つけることになる」とわきまえての行動だったのではないかという気が私にはしている。よくある「かぐや姫=わがまま女説」は私は支持しない。帝の寵愛を受ける好機が訪れてもそれを固辞するのも私は同様の優しさであると捉えている。

そうして、ミッション遂行のために心を閉ざしていたかぐや姫が、帝と和歌のやり取りを重ねる内に地球への愛着を持っていく過程が歌われる。その経過は、ある意味「トゥーランドット」よりも鮮やかである。「去りがたいのに去らねばならない」というジレンマのドラマがあるが、それはこの世界への肯定にも繋がっている。


昨日は幸田浩子が歌ったかぐや姫を今日は砂川涼子が歌う。声の質自体は、個人的には幸田浩子の方が好みだが、砂川涼子のクリアな歌声もかぐや姫の一種の儚さを却って引き立たせていたように思う。狂言回しとコミックリリーフの役目を合わせ持った翁と媼を演じる迎肇聡と森季子の存在感も印象的。トゥーランドット姫のような衣装を纏った月よりの使者役の八木寿子の威厳ある佇まいも、月世界のトゥラーンドット姫的冷たさと、日本版トゥーランドット姫からきめ細かな心遣いが出来る女性へと変わったかぐや姫との対比を鮮やかに見せてくれる。

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2022年1月29日 (土)

観劇感想精選(424) 「万作 萬斎 新春狂言 2022」大阪

2022年1月19日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作 萬斎 新春狂言 2022」を観る。

まず新年を祝う謡初・連吟「雪山」でスタート。出演は、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(舞台上手側から下手側に向かう順番)。

次いで、野村萬斎によるレクチャートークがある。萬斎はまず「出にくい中、お越し頂きましてありがとうございます」と述べる。大阪では新型コロナウイルス・オミクロン株の感染拡大が続いており、連日のように新規感染者の最多記録が更新されている。

今回の演目は、「成上がり」と「小傘(こがらかさ)」。野村萬斎による「小傘」は、以前にびわ湖ホール中ホールで観たことがある。

「今年は寅年ということで、関西で寅というと阪神タイガースを思い浮かべてしまう訳ですが」という話から、大阪での「新春狂言」は、毎年その年の干支を題材にした作品を選ぶことにしていると語り、「成り上がり」が寅年にちなむ作品であるとする。
実際には寅年ではなく、寅の日の話なのだが、「寅」繋がりではある。
舞台は洛北・鞍馬寺。主が太郎冠者を連れて、初寅の日に鞍馬寺に参詣する。昔は堂籠の習慣があったようで、そのまま鞍馬寺の堂内か堂の付近で一夜を過ごすことが多かったそうだ。そこへすっぱがやって来て、太郎冠者が眠ったまま抱えている太刀を盗もうとするという話である。
野村萬斎は、コロナが広まってからは感染を避けるために初詣には行っていないようだが、昔は明治神宮などに初詣に行き、「機動隊とまでは行きませんか、警察の方々が装甲車のようなものを並べて、『スリや置き引きにご注意下さい!』と大音量を響かせていた」という話をする。「関西ではそういうのありませんか?」と聞くが、そこまでのことはないような反応である。私は、例えば伏見大社のような参拝客でごった返す神社には初詣に行かないので、状況については全く知識がない。
「熊野別当」という役職についての話になり、「武蔵坊弁慶はご存じですか? 義経と良い関係な人。手下。解釈は色々ありますが、武蔵坊弁慶の父親が熊野別当だった」という話をする。ちなみに、昨年の3月に、野村萬斎は熊野で三谷幸喜脚本のアガサ・クリスティシリーズの新作の収録を行ったと明かしていた。
熊野別当がうっかり太刀を落としてしまう。「武士にとって太刀を落とすというのは大変なことで、今でいうと実印を落とすような」と例えた、人に盗まれないよう太刀自身がくちなわに化けたという話をする。太郎冠者の言い訳が、この熊野別当の太刀落とし由来である。
「今年で91になるお年寄りが、舞台の上でゴロンゴロンします。森光子さんが『放浪記』ででんぐり返しをして拍手を貰ったという話がありますが、家の父親はそれより凄い」

「小傘」については、僧堂を建てたは良いが、肝心の堂守(住職のようなもの)がいないので困っている男が、「街道に出れば誰か見つかるかも知れない」というので出掛けていくところから始まる。丁度、僧形をした男が街道を歩いていた。その男は博打好きで、金子は勿論、家財一式まで失ったという遊び人。僧の身なりをすれば食えるらしいということで、格好だけは僧侶になったが、にわか坊主か三日坊主ということで経典を読むことは一切出来ない。偽僧侶は、弟子を新発意(しんぼち。小僧のこと)に変身させ、小傘を持たせる。堂守を探している男と堂守になりすましたい男が「Win-Winの関係」になり、僧堂に向かうのだが、経が読めないので、「昨日通る小傘が今日も通り候。あれ見さいたいよこれ見さいたいよ」という小歌を経典ぽく謡ってごまかそうとする話である。
「お寺にはキンキラキンのものが一杯ある」というのでそれを盗むのだが、萬斎は、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが出所後に教会に泊めて貰い、金細工や銀細工のものを盗むというシーンに重なるという話をしていた。
ラストに「なーもーだー、なーもーだー」という「南無阿弥陀仏」の六字の省略形が謡われるのだが、「私は浄土真宗の回し者でもなんでもないわけですが」客と一緒にパフォーマンスを行うことにする。萬斎が発する「なーもーだー、なーもーだー」と謡に合わせて、観客が手拍子をするというもので、「以前は、一緒に『なーもーだー』と言う形式でやっていたのですが(コロナ前のびわ湖ホールでの公演ではそういうスタイルでやっていた)、昨今は声を出すのは余りよろしくない」ということで手拍子に変えている。萬斎が「なーもーだー」と言いながら膝を叩くのに合わせて観客が手拍子をした。本番については、「私がそれとなく合図をします」


「成上がり」。出演は、野村万作(太郎冠者)、野村裕基(主)、野村萬斎(すっぱ)という三代そろい踏みである。

鞍馬寺での堂籠の最中に眠ってしまった太郎冠者。そこへ、「去年は不幸せだったが、今年は幸せに」と言いつつ、すっぱがやって来る。太郎冠者が眠り込んでいるのを見て、太刀を抜き取ろうとするが、太郎冠者は寝ているのに反応。そこですっぱは、青竹と太刀をすり替えることでまんまと獲物を手に入れる。
東の空が白んできた頃に目を覚ました主は太郎冠者を起こすが、太郎冠者が抱えていたはずの太刀が青竹に変わっている。そこで太郎冠者は熊野別当の故事を引き合いに出して、「山芋が鰻、蛙が甲虫、燕が飛び魚、嫁が姑(これについては主から突っ込まれる)」になるような成り上がりが起こり、太刀がこの青竹にと誤魔化そうとする。

「成上がり」は大蔵流にもあるそうだが、大蔵流の「成り上がり」はこの場面で終わるのに対し、和泉流は続きがある「デラックス版」となっている(?)そうである。
すっぱに太刀を盗まれたと悟った主は、「すっぱが太刀だけ盗んで帰るとは考えにくい。また近くで盗みを行うだろうから、そこを捕らえよう」と決め、二人で木陰に隠れる。
そこに太刀を持った太郎冠者が再び姿を現す。主がすっぱを羽交い締めにするが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄を綯う」を地で行ってしまい、主を苛立たせる。更にすっぱは太郎冠者を足で転がして妨害する。野村万作が転がった時には拍手が起こっていた。
結局、縄で縛めようとするものの、太郎冠者はすっぱではなく主の二の腕を体に巻き付けてしまい、状況を把握していない主が手を離すと、すっぱはまんまと逃げ出してしまう。

野村萬斎の三代は、三人が三人ともタイプが違うため、良い意味で肉親であることが感じられないような個性の引き立つものになっている。
「雌雄眼」の代表例として挙げられることも多い野村萬斎は、悪党をやるとダークなオーラのようなものが出る。何故そんなものが出るのかは良く分からない。


「小傘」。出演は、野村萬斎(僧)、深田博治(田舎者)、高野和憲(新発意)、内藤連、飯田豪、野村裕基(以上、立衆)、石田幸雄(尼)。この上演では野村万作が後見を務める。
先に書いたように、立派な僧堂をこしらえたものの、肝心の堂守がいないと嘆く田舎者が、街道で堂守候補をスカウトしようとする。そこへ僧(偽物)と新発意(こちらも偽物)がやって来る。博打ですってんてんの僧は、「出家したら金が儲かるらしい」というので、堂守になると見せかけて盗みを働く気でいた。
経が読めないので、小歌をそれらしく謡って誤魔化すと新発意に伝え、続きがある場合は、経典を持ってくるのを忘れたということにするが、新発意が、「堂に経典があったら?」と聞くので、「その時は自分が面白おかしくやって切り抜ける」と自信を見せる。
果たして、堂内には経典があり、「にくい奴」などと僧は述べるが、「自分は子供の頃から修行を行っていて、経文は全て暗記しているので、経は目にする必要はない」とする。
新発意が傘を持っているのを不審がられるも僧は、「傘こそ最高の仏具」とし、拡げた時に「後光になる」としてしまう。
さて、立衆が揃い、僧と新発意は「小傘」の謡を始める。「小傘」の謡は徐々にデフォルメされていき、笑いを誘う。またそれを真面目な顔で聞いている立衆との落差がベルグソン的である。
そして、観客の手拍子入りの「なーもーだー」。アッチェレランドしていき、高揚感が増す。一遍が始めた踊り念仏もかくやと思えるほどエネルギッシュなトランス状態へと見る者を巻き込んでいった。

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2022年1月28日 (金)

これまでに観た映画より(273) 「ドライブ・マイ・カー」

2022年1月13日 T・ジョイ京都にて

八条のイオンモールKYOTO内にある映画館T・ジョイ京都で、「ドライブ・マイ・カー」を観る。村上春樹の長めの短編小説(もしくは短めの中編小説)を、黒沢清監督の「スパイの妻」の脚本も手掛けた濱口竜介の脚本と監督で映画化した作品であるが、「ドライブ・マイ・カー」は短編小説で、そのまま映画化するとかなり短いものになってしまうため、「ドライブ・マイ・カー」が収録された短編集『女のいない男たち』に入っている「シェエラザード」と「木野」という2編の短編小説に出てくる要素を加えて一本の映画としている。

『ダンス・ダンス・ダンス』や『国境の南、太陽の西』といった村上春樹のその他の小説に影響を受けた可能性のある展開も出てくるのだが、たまたま似たのか意図的に加味したのかは不明である(濱口竜介監督は村上春樹作品の愛読者である)。

「ドライブ・マイ・カー」の主人公である家福が舞台を中心に活躍している俳優であり、今現在出演している舞台であるチェーホフの「ワーニャ伯父さん(小説中では「ヴァーニャ伯父さん」表記)」が、この映画では「柱」と言っていいほどの存在となっている。

出演は、西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいか、パク・ユリム、安部聡子、ジン・デヨン、ソニア・ユアンほか。日本トップレベルの映画俳優である西島秀俊、話題作に次々出演している三浦透子、十代からイケメン俳優として注目され続けてきた岡田将生、アラフィフとは思えないほどの美貌を持つ霧島れいかなど魅力的な俳優が揃っており、かなり力が入っていることが窺える。

上映時間約3時間。村上春樹作品の特徴である比喩、隠喩、寓喩などの多用や重層構造を生かした芸術映画であり、監督が観客に要求するレベルが高めであることが分かる。「ワーニャ伯父さん」は知っていて当然というスタンスで、もし「ワーニャ伯父さん」のタイトルも知らないレベルで観に行ってしまうと、実際には何が起こっているのかほとんど分からないのではないかと思えるほどである。

舞台俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)は、様々な国の俳優とコラボレートした多言語上演に意欲的に取り組んでおり、注目を浴びている。まず上演シーンが映されるのはベケットの「ゴドーを待ちながら」である。家福はジジ(ウラジミール)を演じている。
そして次に演じられるのが、「ワーニャ伯父さん」である。タイトルロールは家福が演じており、十八番となっている。

家福の妻である音(おと。この「音」という役名は「極めて」重要である。演じるのは霧島れいか)は、元女優で現在は脚本家として活躍している。脚本家としてはまずまず売れっ子のようであり、夫とベットを共にした時に自らが創作した物語を語って聴かせていた。音が語るのは、好きな男の子の家に空き巣として何度も入る女子高生の話である(短編小説「シェエラザード」に出てくるエピソードだが、細部や結末は映画の筋に合うよう変えられている)。女子高生は、男の子の部屋に忍び込み、そこに母親の影響を嗅ぎ取る。そして女子高生は男の子の部屋から何かを盗み、代わりに自分のものを置いていく。それが繰り返される。王家衛の映画「恋する惑星」(村上春樹の『ノルウェイの森』に影響を受けた作品である)のような展開だが、これは実は暗示である。音は夫の留守中に他の男と寝ていた。それも複数人と。全員俳優である。音は寝たことのある、もしくは寝る予定の俳優を家福に紹介する癖があった。高槻耕史(岡田将生)もその一人だった。

ウラジオストックでの演劇祭に審査員として招かれた家福は成田国際空港に向かうが、空港の駐車場に車を停めた直後に天候不順によりウラジオストック行きの飛行機が全て欠航となったことを知り、一度都内の自宅に戻る。そこで妻と男の不貞行為を目撃してしまう。家福は二人に見つからないようにそっと家を出て成田に向かい、演劇祭の実行委員が宿泊代を負担してくれるホテルに泊まり、妻の音とのビデオ電話ではウラジオストックにいると嘘をついた。その後も家福は俳優の技量を生かして「気付かない」ふりを演じ続ける。

「ワーニャ伯父さん」に出演するようになった家福は、音からセリフを吹き込んだカセットテープを渡される。ワーニャ伯父さんのセリフの部分だけが抜けた、音楽でいうと「マイナスワン」仕様のもので、他の登場人物のセリフは全て音が吹き込んでいた。

ある日、家福は自動車事故に巻き込まれ、左目が緑内障によって視野に死角(ブラインドスポット)が生じていると医師から告げられる。それでも運転は続けた。ちなみに「死角」や「死角にいる妻」は、村上春樹の代表作の一つである『ねじまき鳥クロニクル』で重要なモチーフとなっている。
仕事に向かう際に、音から「今晩帰ったら少し話せる?」と訊かれる家福。寄り道せずに帰ろうとするのだが、別れを切り出されるのではないかとの予感があったため、仕事を終えてからも都内を彷徨い帰宅が遅れる。ようやく家に帰った家福は、音がリビングに倒れているのを見つけ、119番。だが、くも膜下出血により音は帰らぬ人となった。「もし早く帰っていたのなら」と家福は自責の念にとらわれる。

2年後。家福は、広島市で行われる国際演劇祭に演出家として招かれる。広島県内に2ヶ月ほど滞在し、世界各国からオーディションのために集まった俳優達の中から出演者を選び、1ヶ月半の稽古を行った後で本番を行うのだが、演劇祭のスタッフは、家福のために瀬戸内海に面した宿を用意し、そこまでの送り迎えのドライバーとして、渡利みさきという若い女性(原作には見た目が良くないという設定があり、これが劇中劇のある人物に繋がっている。演じるのは三浦透子)を手配していた。最初の内は自分で運転すると主張していた家福だが、抜群に運転の上手いみさきの技量に惚れ、運転を任せるようになる。

オーディション参加者の中には高槻もいた。2年の間にそれなりの売れっ子俳優となっていた高槻だったが、ハニートラップに引っ掛かり、未成年との淫行疑惑で事務所を退所(事実上のクビだと思われる)、現在はフリーの俳優となっていた。

アーストロフ役を希望する高槻に、家福はワーニャ伯父さん役を振る。「ワーニャ伯父さん」がどういう話か知っている人は、半ば当てつけだと気付くはずである。村上春樹の原作には「ワーニャ伯父さん」の上演シーンはなく、高槻に対する家福の思いは、セリフと地の文で語られるのだが、映画では「ワーニャ伯父さん」のテキスト及び稽古との二重構造となっている。その後も、見た目ではそれほどでもないが、意識下では激しい殴り合いが起こっていることが感じられるような描写が続き、この映画の優れた部分の一つとなっている。「ワーニャ伯父さん」を知らないと、ここまでの激闘になっているとは気付かないかも知れない。

「ワーニャ伯父さん」も「ゴドーを待ちながら」も、敗北を抱えながら生きていく、生きていかざるを得ない人間を描いたものだが、この映画でも妻を亡くしたことで喪失感を抱きながら生きる家福の姿が描かれており、俳優としての家福と彼の実生活の部分がオーバーラップする技法が取られている。それまで自分で車を運転していた家福が、みさきという運転手を得たことで、新たな視座と視野を得るという展開にも上手さを感じる。

「みさき」というのは、今の時代ではありふれた女性の名前だが、実は「事故死したため成仏出来ない幽霊」という意味もあり、縁起は良くなかったりするのだが、「神様の先触れや案内役=御先」という意味も存在している。運転手として家福を導いていくみさきは、御先由来の名前である可能性もある。
一方で、みさきは現在23歳で、4歳の時に亡くなった家福と音の娘が生きていたとしたら同い年。またみさきの父親は実は家福と同い年であるため、前者の「みさき」の可能性もあって、その場合も奥行きが出るのだが、こちらの方は主筋にはさほど関係がないため、どちらでも良いような気がする。

広島での「ワーニャ伯父さん」の稽古では、日本語、韓国語、北京語、タガログ語、英語、韓国語の手話などが飛び交い、無国籍的な芝居が現出しているが、言葉では通じ合えない部分という、村上春樹がよく取る手法が却って浮き彫りになる。村上春樹の場合は、基本的には肉体関係、つまりセックスという形を取ることが多く、これが村上作品への好悪を分かつ一番の理由にもなっているのだが、それは人間の根源的な謎へのアプローチでもある。妻の音がなぜ隠れて他の男と情を交わし続けねばならなかったのかという、答えのない謎に家福は戸惑い続けていたのだが、一つの「啓示」のようなものがみさきの口から語られている。
また、劇中劇の重要なセリフが「音ではない手法」で語られるのも効果的である。

「ワーニャ伯父さん」でも「ゴドーを待ちながら」でも、そして「ドライブ・マイ・カー」でも人々は空虚、虚無、喪失感の中で生き続けている。それは人間の宿命でもある。
そうしたことと向かい合うことの出来る文学、映画、演劇の素晴らしさを改めて感じさせてくれる好編であった。

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2022年1月27日 (木)

観劇感想精選(423) 《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉「有頂天作家」 

2022年1月16日 京都四條南座にて観劇

午後3時30分から、京都四條南座で、《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉「有頂天作家」を観る。キムラ緑子と渡辺えりが南座で(南座の休館時は大阪松竹座で)の上演を重ねている「有頂天」シリーズの最新作である。今回は、「現代の戯作者」とも呼ばれている齋藤雅文が1992年に書いた「恋ぶみ屋一葉」を齋藤雅文自身の演出で上演する。
出演は、渡辺えりとキムラ緑子の他に、大和田美帆、影山拓也(ジャニーズJr.)、瀬戸摩純(劇団新派)、春本由香(劇団新派)、長谷川純、宇梶剛士、渡辺徹ほか。

音楽劇という程ではないが、冒頭とラストに歌とダンスのシーンがあり、劇中もいくつかのナンバーが俳優達によって歌われる。

一葉というのは樋口一葉(本名:樋口奈津)本人ではなく、同じ「奈津」という名前を持つ前田奈津(キムラ緑子)のことである(樋口一葉の友人であった伊藤夏子がモデルの可能性もある)。前田奈津は、樋口一葉と共に尾崎紅葉門下であったが、樋口一葉最晩年(といってもまだ24歳だが)の情熱的な活動と出来上がった作品の完成度に惚れ込み、以降は小説家を目指すのを断念して樋口一葉のファンとして樋口一葉同様に荒物屋を営み、一方で、恋文を中心とした代書屋として活動していた。一葉は前田奈津のあだ名であり、自分から一葉を名乗ったのではなく、周りが彼女のことを一葉と呼ぶのであった。

尾崎紅葉門下の筆頭格である通俗小説家の加賀美涼月(渡辺徹。モデルは加賀金沢出身の泉鏡花だが、尾崎紅葉、更におそらくは半井桃水の要素も盛り込まれている)は現在では弟子数名を抱える売れっ子となっている。前田奈津と加賀美涼月は紅葉の門下生時代から親しい間柄で、今でも男女という性別を超えた友人として付き合ってる。前田奈津には加賀美に対する恋心もあったのだが、親友で後に芸者となったきくに加賀美を譲っていた。加賀美ときくの恋は実らず、きくは川越にある農家に嫁ぎ、21年前に他界していた。はずだったのだが、実は生きている。夫の苗字を名乗り、サツマイモ畑で汗を流す日々。夫は朝鮮に渡り、その地で亡くなっていた。きくの舅が、きくと加賀美の仲を完全に裂くために、「きくは亡くなった」と偽りの訃報を加賀美や奈津に届けていたのだ。

加賀美涼月の自宅に、一人の小説家志望の青年が訪ねてくる。川越出身の羽生草助(影山拓也)である。加賀美は、草助が書いた原稿に一応は目を通すが、「表現しようという意欲が感じられない」とこき下ろす。だが、草助に新たに玄関番になることを命じ、門下の書生となることを許す。実はこき下ろしはしたが、加賀美は草助の中に光るものを感じていた。草助が加賀美の文体を真似ようと努力していることも見抜き、新時代の感覚も身につけているということで期待していたのだった。加賀美は家を訪ねてきた奈津にそのことを語る。奈津は、草助が若い頃の加賀美に似ていると言う。

そんな中、きく(渡辺えり)が奈津を訪ねてくる。昔はほっそりしていたきくだが、今は体の幅が倍ぐらいになっており、21年ぶりの再会ということで、奈津はきくに気付かない。
きくが奈津を訪ねたのは、家出した息子を川越に連れ戻そうとしてのことだった。実はきくの息子は草助であり、草助が加賀美涼月に弟子入りすると書き置きを残していたため、東京へと出てきたのだった。

その草助は、先輩書生の片桐清次郎(長谷川純)らに連れられて吉原に遊びに行き、そこで出会った芸者の桃太郎(大和田美帆)に恋心を抱く。草助と桃太郎はすぐさま両思いとなった。
加賀美涼月は、芸者が嫌いであった。弟子達にも「芸者と遊ぶな」ときつく戒めていた。だが、加賀美はかつての恋人であった芸者時代のきくが忘れられず、50歳も間近だというのに所帯を持とうとはしなかった。弟子達に芸者遊びを禁じたのも、悲恋に終わった自身の芸者との関係が傷となり、弟子にも芸者にも自分と同じ思いをさせないためだった。

他の人物は草助についてよく知らないが、母親のきくは当然ながら彼の父親が誰なのかを知っていた……。


樋口一葉、泉鏡花、尾崎紅葉ら明治の文豪をモデルとした架空の人物達が繰り広げる文芸ロマンである。加賀美涼月は通俗作家という設定だが、新派劇と通俗小説はかなり近しい関係にあり、劇団新派文芸部出身の齋藤雅文も通俗であることの誇りを加賀美の口を借りて謳っている。

大和田美帆演じる桃太郎は、泉鏡花の奥さん(伊藤すず。ちなみ泉鏡花の実母の名前も「すず」である)と同じ芸名であり、加賀美涼月と羽生草助が共に泉鏡花の分身として登場し、泉鏡花という作家が重層的に描かれている。尾崎紅葉は鏡花と伊藤すずの交際に反対しており、二人が結婚するのは紅葉が亡くなってからだが、その構図がこの作品でも生かされている。

伏線が上手く張り巡らされ、登場人物の心の機微が綾を成して、いくつもの恋が巧みに織りなされていく。24歳で早逝した樋口一葉ではなく、その志を受け継いだ前田奈津を主人公にしたことで、今生きることの希望がメッセージとして強く押し出されていた。

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2022年1月26日 (水)

コンサートの記(760) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第554回定期演奏会

2022年1月21日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時からフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第554回定期演奏会を聴く。当初はウェイン・マーシャルが客演する予定だったが、外国人が基本的に日本に入国出来なくなったため、大フィル桂冠指揮者の大植英次が指揮台に上がる。曲目も一部変更になった。

オール・アメリカ・プログラムで、ガーシュウィンのキューバ序曲、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」(ピアノ独奏:中野翔太)、ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲、グローフェのミシシッピ組曲、ガーシュウィンの交響的絵画「ポーギーとベス」(ベネット編)が演奏される。

今日のコンサートマスターは須山暢大。

昨年の1月、出町柳の名曲喫茶・柳月堂でガーシュウィンの組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」をリクエストで入れて聴き、「アメリカ音楽はカラッとしていて新年に合うなあ、例年なら」と思ったが、たまたま今年の大フィルの1月定期はオール・アメリカ・プログラムとなった。

二十歳でアメリカに渡り、タングルウッド・ミュージック・センターとニューイングランド音楽院に学び、レナード・バースタインに師事した大植英次。アメリカ音楽も得意である。

大植は大フィルの分厚い音色を生かしたシンフォニックな演奏を築きつつ、キレや華にも欠けない理想的な音像を引き出す。


ガーシュウィンのキューバ序曲。この曲と交響的絵画「ポーギーとベス」は、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団によるDECCA盤で初めて聴いて大好きになっている。大植と大フィルはデュトワとモントリオールのラテン的なノリとは異なるが爽快な演奏を展開する。


ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。ファーディ・グローフェがオーケストレーションした最も有名な版による演奏である。
ピアノ独奏の中野翔太は、1999年からジュリアード音楽院プレカレッジに学び、その後に同音楽院と同音楽院大学院を修了。それ以前の1996年には第50回全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国1位及び野村賞を受賞している。

冒頭のクラリネットが少しデフォルメされた音型を吹いてスタート。アメリカ音楽の中では演奏頻度の比較的高い楽曲だけに、大フィルも慣れた演奏を聴かせる。

中野は、作曲、編曲、ジャズ演奏も行っているだけに、即興性にも富んだ演奏を展開。特にカデンツァではモダンジャズとカントリーの間を往来するような音楽を奏でた後で、「イパネマの娘」を主題とした変奏を展開。洗練されていてお洒落であった。

演奏終了後、中野は何度もカーテンコールに応えたが、最後は大植英次が共に登場。鍵盤を白い布で拭い、アンコール演奏を要請するというパフォーマンスを行う。
中野はガーシュウィンの「A Foggy Day」を自身で編曲したものを演奏した。


ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲。有名な「アイ・ガッタ・リズム」を含むミュージカル作品の序曲で、「アイ・ガッタ・リズム」も効果的に用いられている一方で、全体的に洗練された旋律とお洒落なオーケストレーションが印象的な楽曲である。
大植も、「どうです? お洒落でしょ?」という風に客席を振り向いたりする。


グローフェのミシシッピ組曲。日本テレビ系で放送されていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」の勝ち抜けの音楽に第2曲の「ハックルベリー・フィン」と第4曲「マルディ・グラ」が使用されていたことで知られているが、コンサートで取り上げられることはほとんどなく、録音点数も多くはない。私はNAXOSのアメリカ音楽シリーズの一つであるウィリアム・ストロンバーグ指揮ボーンマス交響団の演奏で聴いている。

比較対象が余りないのだが、大植はストロンバーグよりはやや遅めのテンポを採用し、堂々たる演奏を展開する。年代的にだが、多分、大植さんは「ウルトラクイズ」を見たことはないと思われる。
日本ではアメリカのクラシック音楽は余り重要視されておらず、アメリカ音楽がプログラムに載ることも少ないため、オーケストラも慣れていないことが多い。大フィルの個性もアメリカ音楽からは遠めであるが、かなり健闘しているように思える。

日本だけでなく、日本が範とする独墺系のオーケストラもアメリカ音楽は不得手で、録音は少なく、その少ない録音も出来は今ひとつのものが多い。


ガーシュウィン作曲、ベネット編の交響的絵画「ポーギーとベス」。「サマータイム」が一番有名だが、その他にもよく知られたメロディーがいくつも含まれている。バンジョー(演奏:福田晃一)が往時のアメリカ南部の雰囲気を上手く描き出している。

ガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」は、サイモン・ラトル指揮によるオペラ映画を観ているが、感動的な出来となっていた。これまで接したオペラの中で実演、映像含めて最も感動したかも知れない。日本でも歌劇「ポーギーとベス」を観てみたいが、オール黒人キャストである必要があるため、難しいと思われる。日本人が外面を黒人に見せることは現在では宜しくないとされているため実現することはないであろう。

最後に大植が総譜を掲げて曲に敬意を表し、演奏会はお開きとなった。

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2022年1月25日 (火)

笑いの林(127) よしもと祇園花月!年末年始特別興行「祇園ネタ」&祇園吉本新喜劇「もうダメだ!修羅場の撮影現場!?」2022年1月10日

2022年1月10日 よしもと祇園花月にて

午後3時から、よしもと祇園花月で、「よしもと祇園花月!年末年始特別興行」、「祇園ネタ」&祇園吉本新喜劇「もうダメだ!修羅場の撮影現場!?」を観る。

久しぶりに訪れた祇園花月。お笑いは観劇やコンサート鑑賞とは違って笑い声を上げるので、飛沫の影響が出やすいということもあるが、単純に行く機会がなかったということもある。


「祇園ネタ」の出演は、ゆにばーす、金属バット、あべこうじ、テンダラー、大木こだまひびき。金属バットは人気急上昇中のようだが見るのは初めてである。

ゆにばーす。はらちゃんが小学生の頃は橋本環奈に似ており、中学校の頃は榮倉奈々で高校の頃は新垣結衣と嘘を付き、実際はと打ち明けるが、小学校の頃は浅野忠信、中学校の頃は古田新太、高校の頃は女装したビートたけしと、性別が男になってしまう。
「女子アナに似ている」と言われたこともあるという話になるが、女子アナは女子アナでも北朝鮮の女性アナウンサーである。
パチンコネタでは、はらちゃんが、北野武、武田鉄矢の真似をして、最後は「ダンカンなんですかあ」と二人で一人になってしまうというネタを行う。
これを読んで笑える人はいないと思うので、笑いたい人は劇場まで足を運んで下さい。


金属バット。成人の日ということで、泉南地方で行われた成人式に呼ばれたという話をする。二人は和泉地方の中心都市で地理的には一番北にある堺市の出身であるが、和泉地方は南へ行けば行くほど治安が悪くなる(「腕白な子が多くなる」と言い換えていた)ということで二人ともこわごわ楽屋入りしたそうである。ラニーノーズの二人も同じ楽屋だったそうだが、ラニーノーズは、「いっても成人なんで大丈夫ですよ」と語るも場内アナウンスで、「昨年は警察が出動する騒ぎとなってしまいましたが、今年はそうならないよう気をつけていきましょう」というような言葉が流れたため、金属バット二人は戦々恐々。ステージに出て行くと、ステージ上のやや下手側にヤンキーがしゃがんでいたそうで、金属バットはその横で漫才をする羽目になったそうだ。ヤンキーは二人が漫才をしている最中、「面白いこと言えよ、こら!」などと暴言を吐いていたそうだが、ステージ上手側を見るとおばちゃんがいる。何かと思ったら手話通訳士で、ヤンキーの暴言を一々手話に直していたそうである。

漫才の内容は、知り合いの漁師のおっちゃんから大トロを貰ったのでちらし寿司にした、ホタテを貰ったので水着にしたという内容で、漁師のおっちゃんから怒られるも、漁師のおっちゃんも的外れなことを言うというものであった。


あべこうじ。約10分間、一人で立て板に水の喋りを行い、実力の高さを感じさせる。アイドルの高橋愛と結婚しているが、ネタの中には奥さんも一度だけ登場する。
昨日は、愛知県の豊田市の近くにある小さな町に呼ばれ、1時間ほど話すという仕事を受けたのだが、終わってから新成人の女の子に「なにか面白こと話して下さい」と言われてぶち切れそうになったという話をする。
ネタは複数あるが、失敗のリカバリーの仕方(階段で躓いたらそのまま躓き続ければ、周りも「ああ、ああいう昇り方をする人なんだと思ってくれる」? など)が一番笑える。


テンダラー。浜本(私と同じ1974年生まれであるが、早生まれなので同学年ではない)が、「今日は先輩に当たるお客さんが多いということでそれに合わせたネタを」と言いつつ「最近、安楽死が」と縁起でもないことを言う。
白川が料理が得意なので料理番組に出たいという話になり、浜本が「キユーピー3分クッキング」のテーマ「おもちゃの兵隊のマーチ」)を鼻歌で歌いながら料理を行うが、手を丹念に洗っただけで終わってしまったり、鼻をほじったり、あちこち触ったりとやたら不潔な振る舞いをしたりするため料理番組にならない。
今度は自動車保険の話になるが、オペレーターである浜本が白川に怪我がないと知ると安心して電話を切ってしまうため先に進めない。
ちなみに白川は軽トラックを愛車としているが、移動公演の多い「ジ・白川バンド」という何故「ジ」なのか良く分からないバンドの主宰者であるため、常に軽トラに楽器を積んで運んでいるのである。


大木こだまひびき。
こだま師匠が、「コーラは安い」「それに比べて目薬は高い。あんなに小さいのに800円ぐらいする」と日常を題材にした語りを行っていく。「結婚したばかりの妻と今の妻は全然違う」「妻が途中で入れ替わっている」「昔は遅く帰っても起きて待っていてくれたが、今は帰るといつも寝ている」「何か食べたいので、『何か作って』というと、『カップ麺作って食べなさいよ』と目が語っている」と言うと、ひびき師匠が、「目は口ほどに物を言う」と返すが、「目は何も言わんよ。目が何か言っていたら、目医者はうるさくて敵わん」というようなやり取りが続く。


祇園吉本新喜劇「もうダメだ!修羅場の撮影現場!?」。出演は、酒井藍(座長)、信濃岳夫、タックルながい、佐藤太一郎、桜井雅斗、瀧見信行、若井みどり、末成映薫(末成由美から改名。読みは同じ)、川筋テイラ、佐藤美優。

撮影所が舞台であり、信濃岳夫が監督、酒井藍演じる酒井藍五郎が助監督である。詐欺姉妹を描いたサスペンス映画なのであるが、キャスティングされた若井みどりと末成映薫は若い頃から共演NGとなっている。酒井藍五郎が共演の約束を取り付けたという断言するが、実際は台本を読んでおらず、誰が出演するのかも把握していなかった。佐藤という苗字で「た」で始まる名前の俳優が主演するというので、酒井藍五郎は「佐藤健」主演だと思い込んでいたが、実際は新人の佐藤太一郎の主演ということでがっかりする。
やがて若井みどりと末成映薫が時間差で現場に到着。スタッフ達は二人が鉢合わせしないよう画策するが……。

吉本新喜劇も若手が中心だと今ひとつである。まだ独自の味がないので(酒井藍は茂造が何度も繰り出す音楽ネタをやっていたが、今ひとつ合っていない)くどさを感じてしまったりする。

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これまでに観た映画より(272) ドキュメンタリー映画「我が心の香港 映画監督アン・ホイ」

2022年1月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「我が心の香港 映画監督アン・ホイ」を観る。「女人、四十。」などで知られる、香港を代表する女性映画監督、アン・ホイ(許鞍華)を追ったドキュメンタリーである。監督:マン・リムチョン(文念中)。音楽:大友良英。
話される言葉は広東語がメインだが、北京語の比重も軽くはなく、また英語も時折混じる。
映画監督のツイ・ハーク、候孝賢、俳優のアンディ・ラウなど、日本でもお馴染みの中華圏の映画人が多数、アン・ホイの関する証言を行っているのも見所の一つである。

香港映画というと、世代によってイメージが大きく異なることで知られる。比較的年配の方に多く、全世代を通じて人気があるのがカンフーアクションで、私が小学生だった1980年代にはジャッキー・チェン(成龍)が大人気であった。それより少し下ると、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」やキョンシーシリーズなどの怪奇路線が人気を博し、「男達の挽歌」などの任侠ものの時代を経てチャウ・シンチー(周馳星)らによるコメディーアクションが人気となる。
香港映画のイメージをガラリと変えたのが、王家衛(ウォン・カーウァイ)で、「恋する惑星」や「天使の涙」で、お洒落でポップにしてエスニックという作風は全世界を席巻した。
アン・ホイ自身は、「香港ニューウェーブ」と呼ばれた世代に属しており、ジャンルとしては上記のいずれにも属さないヒューマンドラマを得意としている。

アン・ホイ(許鞍華)は1947年生まれ。父親は中国人で、当時の父親の職場があった中国遼寧省鞍山で生まれている。漢字名に「鞍」の字が入るのはそのためである。その後、父親の転勤に伴い、マカオ、そして香港へと移り住んでいる。
生まれた1947年は、第二次大戦終結後まもなくで、中華人民共和国建国以前である。子どもの頃は当時の反日教育を受けて(日本は香港を占領したことがある)、「いつか(戦時中の)復讐をしてやる」と思っていたほど日本と日本人が大嫌いだったそうだが、16歳の時に実母が日本人であることを知る。母親は当時日本が傀儡政権を置き、移民を進めていた満州で過ごしており、ソビエト参戦の混乱中にアン・ホイの父親と出会うことになった。アン・ホイは今も母親と一緒に暮らしている。

アン・ホイは、子どもの頃から感受性豊かにして学業優秀だったようで、香港大学に進み、文学と英語を学ぶ。勉強熱心な学生だったそうだが、当時の香港大学ではいわゆる「ガリ勉」タイプは嫌われており、アン・ホイも下級生の頃は上級生からいじめを受けて毎晩泣いていたそうだ。父親には文芸の才があったようで、アン・ホイも自然に文学好きとなり、漢詩などを暗唱する習慣もあったようだ。

香港大学卒業後はイギリスに渡り、ロンドンの映画学校に学ぶ。帰国後は映画監督キン・フーに師事。キン・フーの勧めもあってテレビ局のTVBで仕事をするようになる。アン・ホイは当初はテレビ局での仕事を嫌がっていたようだが、中国各地の伝統文化を丹念に取材する番組を作った経験などから、伝統を大切にする姿勢を学んだようである。

文学解釈などを得意とするアン・ホイであるが、映画監督としては珍しく、脚本を一切書かないという姿勢を貫いている。共作も含めて一度も手掛けたことはないそうだ。その理由についてアン・ホイは、「書けなかった時のショックが怖いから」としている。脚本は信頼出来る書き手に全て任せ、自身は演出に徹する。

で、あるにも関わらず、彼女の作品の多くに自己像が反映されていることが強く感じられる。自分で執筆しないだけで、アイデア自体は脚本家に色々と伝えているのかも知れない。

またアン・ホイは、ヘビースモーカーとしても有名で、この映画でも煙草を吸いながら話すシーンが多い。
東アジアの中では、日本は比較的女性喫煙者が多いが、中華圏や韓国では煙草を吸う女性は極端に少なく、吸うのは売春婦や悪女と相場が決まっているようである。アン・ホイは激しやすく落ち込みやすいという性格であることが見ていて分かるため、煙草を吸うことでストレスを発散し、感情を意図的に鈍磨させているのかも知れない。詳しい理由は知りようがないが。

照れ屋であるアン・ホイは、「何故映画を作り続いているんですか?」という問いに、「金のため」と言い続けてきたようだが、香港での映画制作は決して金になる仕事ではないようで、名声は得ても生活が楽になったということはさほどないようである。
映画を作り続けている本当の理由は、「香港に貢献したいから」のようで、これまでは照れくさくて本当のことは言えなかったようである。

世代的にも人間的にも香港という街の特性を体現しているかのようなアン・ホイ監督。年齢的に映画を撮り続けるのは難しいと感じているようだが、今まさに史上最大レベルの激動の最中にある香港を彼女がどう受け止めており、作品に反映させるのか気になるところである。

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2022年1月23日 (日)

美術回廊(71) 大丸ミュージアム〈京都〉 「堀内誠一 絵の世界」

2022年1月5日 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉で、「堀内誠一 絵の世界」を観る。
1932年、東京に生まれた堀内誠一は、第二次世界大戦の影響を受けて、家計を助けるため中学校卒業後に伊勢丹に就職。日本大学第一商業学校(日本大学第一高校の前身)の夜間部に入学しているが中退している。父親が今でいうデザイナーの日本での走りということもあり、誠一も幼い頃から絵が得意で、伊勢丹でもデザイン部門の仕事を行っているが、その後に独立。絵本や童話の挿絵などを手掛けるようになる。「an・an」や「Popeye」の創刊号の表紙の想定を手掛けるなど、グラフィックデザイナーとしても活躍している。

若い頃に描いた絵画なども観ることが出来るが、ピカソ、モディリアーニ、ゴッホ、ゴーギャン、ラウル・デュフィなど、フランスで活躍した画家からの影響が一目で分かるほど顕著な作品もあり、フランスへの憧れが垣間見える。1974年に堀内誠一は、日本でのグラフィックデザインの仕事を全て断って渡仏。パリ郊外のアントニーに居を構え、絵本の制作などに打ち込んだ。パリには1981年まで滞在。1987年に下咽頭癌のため54歳の若さで死去している。

パリに移る前後に、詩人の谷川俊太郎とのコラボレーションを行っており、谷川俊太郎が翻訳した『マザーグース』に挿絵を付けたり(現在の講談社文庫の挿絵は堀内誠一のものではない)、共通の趣味であるクラシック音楽のために堀内がエッセイと作曲家の肖像を描き、谷川が作曲家に纏わる詩を書くなど、芸術性の高い仕事を行っている。ストラヴィンスキーの肖像画は、明らかにラウル・デュフィの作品へのオマージュであることが分かる。

絵本のために描いた絵は作品ごとにタッチが異なっており、アメリカ風だったり、淡彩画風だったり、バランスを敢えて崩してチャーミングさを増してみたりと、様々な工夫を行っている。

地理も愛していたようで、移住したパリを始め、世界各地の都市の地図を描いている。原色系の愛らしい地図である。

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2022年1月22日 (土)

これまでに観た映画より(271) 「スティーブ・ジョブズ」(2015)

2022年1月11日

録画してまだ観ていなかった映画「スティーブ・ジョブズ」(2015)を観る。「スティーブ・ジョブズ」というタイトルの映画は2010年代に2作品が生み出されているが、こちらは後発となる2015年版である。先に2013年版が制作公開されているが、評判は今日観る2015年版の方が良いようである。

原作:ウォルター・アイザックソン、監督:ダニー・ボイル、脚本:アーロン・ソーキン。音楽:ダニエル・ペンパートン。出演は、マイケル・ファスベンダー、ケイト・ウィンスレット、セス・ローゲン、ジェフ・ダニエルズ、マイケル・スタールバーグ、キャサリン・ウォーターストーン、パーラ・ヘイニー=ジャーディンほか。

56年という決して長くないスティーブ・ジョブズの生涯の中で、1984年のMacintosh発売、1988年のNeXT社のネクスト・キューブ発売、1998年のiMac発売の3つの時期に絞って物語が展開されていく。伝記映画ではあるが、描く時代を限定したことで冗長な部分が少なくなり、ジョブズと娘であるリサの一口変わったヒューマンドラマ的な仕上がりとなっている。

発案に関しては天才的であり、今も全世界で使われているアップル社製品の生みの親でありながら、プライドが高く、偏屈で執念深く、人の不幸を何とも思わないという一種のサイコパス的性格を怖れられたスティーブ・ジョブズ。この映画でも、内縁の妻であるクリスアン(キャサリー・ウォーターストーン)とその間に出来た娘のリサに押しかけられるまで金銭的援助を一切するつもりがなかったり(最終的には養育費が支払われ、家も買い与えられる)、アップル社創業以来の仲間であるアンディ(マイケル・スタールバーグ)をこき使ったり、同じく創業メンバーのジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)と衝突したりしている。

1984年のMacintoshの発売は画期的であったが、セールスはほどなくして落ち込み、オープンソースにしなかったため、その後しばらくしてマイクロソフトなど他の企業に抜かれ窮地に立たされることになる。
そして、ジョブズは自ら創設したアップル社を解雇されるという前代未聞の事態に発展。ジョブズはNeXT社を立ち上げ、アップル社とは商売敵となるも、その後、アップル社の業績不振によってアップル社に再度招聘されることになる。

ジョブズはアイデアマンであり、優れたデザイン感覚を有し、高度なプレゼンテーション能力の持ち主で、カリスマ性のあるフロントマンだった。一方で、コンピューター会社の創業者でありながら、プログラムが書けるわけでもなく、技術面では創業時からのメンバーに頼り切り。それでいてしばしば無理難題を押しつけるということで、身近かな人から好かれるタイプでは全くなかった。
この映画でも、開発責任者で、「ウォズの魔法使い」と呼ばれたウォズことスティーブ・ウォズニアック(セス・ローゲン)や現場でのコンピューター操作主任であるアンディとたびたび衝突する様子が描かれている。特にウォズが自分が製作し、アップル社の礎を築いたAppleⅡ開発メンバーへの謝辞をジョブズに求めるも、ジョブズは「もう過去の遺物」として断固拒否。未来志向といえば聞こえはいいが、人間の心を読む能力に欠けているようである。スティーブ・ジョブズASD説というのはこの辺りから来ていることが予想されるが、おそらくジョブズ自身は診断を受けていないと思われるため、余り軽々にものを言うべきでもないと思う。

そうした「人間的」なのかどうか分からないジョブズが、娘のことだけは真剣に思いやる姿が微笑ましい。ラスト近くで娘のリサにiPod作成の提案を語る場面がある。iPod誕生秘話が本当にこんな感じだったのかは定かでないが、ジョブズという人物の伝記映画として優れた着地点が用意されているように思われた。

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2022年1月19日 (水)

YMO(Yellow Magic Orchestra) 「東風(Tong Poo)」オフィシャル映像

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2022年1月18日 (火)

コンサートの記(759) 佐渡裕指揮 オペラde神戸「椿姫」

2022年1月7日 神戸文化ホール大ホールにて

午後6時から、大倉山にある神戸文化ホール大ホールで、オペラde神戸「椿姫」を観る。「佐渡裕と神戸市民で創るオペラ」と銘打たれており、現在は神戸市内の御影に日本における自宅を構える佐渡裕の指揮で、神戸市民によるアマチュアの合唱団などを起用した上演が行われる。

最も人気のあるオペラ演目の一つであるヴェルディの「椿姫」。「オペラは筋書きが簡単」な例として挙げられる作品であり、今回の公演の無料パンフレットにも佐渡裕が、「素晴らしいオペラは大抵ストーリーが単純です」と挨拶文の冒頭に記している。

なお、「椿姫」のオペラの原題は「ラ・トラヴィアータ(La Traviata)」であるが、寅年の年始公演だから選ばれたという訳ではないと思われる。

高級娼婦であるヴィオレッタは、その美貌故にパトロンに恵まれ、教養面でも金銭面でも恵まれていたが、本当の愛を知らなかった。そこに現れたアルフレードという美青年。二人は瞬く間に恋に落ちるが、アルフレードの父親であるジェルモンが息子と高級娼婦との結婚に反対。泣く泣くアルフレードとの別れを決めるヴィオレッタであるが、すでに結核に冒されていた。別れの理由を知らないアルフレードはヴィオレッタをなじるが、彼女が余命いくばくもないと知り、ヴィオレッタの下に駆けつける。ジェルモンも許しを請いに現れるが、ヴィオレッタはそのまま命を落とす。

これが大体のあらすじであるが、よくありそうな話で、特段ドラマティックという訳ではない。ただこれに音楽が加わると、優れた芸術作品となる。理性よりも情に訴えかける作品である。
この時期のヴェルディは、「オペラは歌が主役」と考えており、歌手が歌っている時のオーケストラはシンプルな伴奏に徹している。一方、ドイツではワーグナーが声と管弦楽による一大交響詩として歌劇、更にそれを発展させた楽劇を発表するようになるが、ヴェルディも対抗意識を持ったのか、やはり声と管弦楽による重厚な作風へと転換していくことになる。

原作:アレクサンドル・デュマ=フィス。作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ。佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)による演奏。演出は井原広樹。プロデューサー:井上和世。
出演は、住吉恵理子(ヴィオレッタ)、西影星二(アルフレード)、油井宏隆(ジェルモン)、平瀬令子(フローラ)、清原邦仁(ガストン男爵)、青木耕平(ドビニー公爵)、下林一也(ドゥフォール男爵)、武久竜也(グランヴィル医師)、岸畑真由子(アンニーナ)、佐藤謙蔵(ジュゼッペ)。合唱はオペラde神戸合唱団。バレエ:貞松・浜田バレエ団。児童合唱:須磨ニュータウン少年少女合唱団。舞台装置:増田寿子。


前奏曲が始まると同時に幕が開き、白い服を着たヴィオレッタの幽霊(貞松・浜田バレエ団のダンサーである武用宜子が演じている)が横たわっているのが見える。周囲には生前のヴィオレッタと親しくしていた人がいるのだが、ヴィオレッタが目覚めても彼女の霊の存在に気付かない。自分が幽霊となってしまったことを悟ったヴィオレッタは孤独感に打ちのめされ、泣き崩れる。ラストシーンの続きを本来の幕開けの前にやる演出は、最近ではよく行われるが、悲劇ということで「死してなお孤独」という救いのないものになっている。

佐渡による音楽作りだが、以前に比べ艶や一種の色気のようなものが強く感じられるようになって来ている。若い頃はとにかく溌剌とした音楽性が売りだった佐渡裕だが、最近、西宮の兵庫県立芸術文化センターのホワイエで流れている映像を見ると顔も声もくたびれた感じで、日本と欧州の往復による疲労が溜まっているようである。ということで躍動感よりも丁寧に音を重ねることを重視しているのかも知れない。
内部が改装された神戸文化ホールは残響がオペラとしても不足がちなところがあったが、音の通りは良く、音楽を楽しむのに不足はない。神戸文化ホールは、1973年竣工ということで、東京・渋谷のNHKホールと同い年。NHKホールは現在、改装工事に入っており、同時期に出来た金沢歌劇座は数年後の閉鎖が決まっている。神戸も2025年を目標に新ホールを三宮地区に完成させる予定で、神戸文化ホールも一応廃止の方向性のようだが、詳しいことは決まっていないようである。

歌手達の水準も高く、タイトルロールということになる(劇中では「椿姫」とも「ラ・トラヴィアータ」とも呼ばれないが、「椿姫」というのが彼女のことであるのは確かである)ヴィオレッタを歌った住吉恵理子の可憐さと儚さは特に良かった。

ヴィオレッタのサロンや、同じく高級娼婦であるフローラのサロンはアイボリー系の色彩による豪華な壁が特徴であり、ヴィオレッタの別荘やヴィオレッタの寝室では真逆のダークトーンのセットが用いられて、対比が鮮やかであるが、ヴィオレッタが別荘の寝室で力尽きる直前に、黒い壁面が上方へと動いてキャットウォークへと消え、華麗な場面で用いられていたアイボリーの壁面が姿を現す。正直、演出意図が良く分からなかったのだが、ヴィオレッタが死の直前の夢の中で見た風景が、かつての華やかな世界だったということなのかも知れない。他の意図は思いつかない。その華やかな景色が、冒頭で示されたヴィオレッタの死後の孤独をより深くするようでもある。

「椿姫」ということで、サロンでの夜会のシーンが大勢の登場人物で彩られていたが、今後、コロナが生み出す状況如何によっては、またしばらくの間、こうした演出は難しくなるかも知れない。


カーテンコールでは、井上和世も着物姿で現れ、喝采を浴びていた。

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2022年1月17日 (月)

楽興の時(43) 第34回「YMN(Yellow Magic Night)」

2021年12月18日 千葉市中央区のライブハウスLOOMにて

千葉の冬は京都に比べれば暖かいのだが、今日は北風が強き、この冬一番の寒さとなった。

午後3時から、千葉市中央区中央にあるライブハウスLOOMで、第34回「YMN(Yellow Magic Night)」に接する。
「YMN」は、YMO(Yellow Magic Orchestra)のカバーバンドによる演奏とセッションが行われるイベント。2008年に始まったそうで、当初は毎月開催されていたのだが、ここ数年は年3回の開催に落ち着いている。

3年ほど前に、YMOのリハーサルの音源などが――おそらく関係者からだと思うのだが――、YouTube上に出始めていたのでそれを聴いており、その関係でYMO関連の音源がお勧めに出てくることも多いのだが、Delightsというユニットの「Solid State Survivor」のミュージックビデオがお勧めに上がり、若い女性が歌っているということで、「へえ、こんな若い女の子がYMOを歌うんだ」と感心していたが、DelightsのMIYAさん(男性)が私の出身地である千葉市にあるライブハウスLOOMのオーナーで、LOOMでYMOのイベントをやっているということで興味を持ち、更に歌声の主であるRisaさんがファン獲得のためにPocochaを始めたので何度か参加。ということで、「これは一度は行かなければ」ということで参加を決める。少し早めの帰省を兼ねた参加である。

LOOMがあるのは、千葉神社のそば。ということでまず千葉神社に参拝してからLOOMに向かったのだが、3時まで時間があったので、表で待つことにする。近くには千葉市美術館もあるのだが、寄っている時間はない。
LOOMの前では、先に来たお客さんが3人ほど待っており、私の後にも並ぶ人が何人もいて行列が出来る。
リハーサルが押しているということで、開場時間が5分ほど遅れる。開場の案内に出てきたのは、寒い日だというのにミニスカートを穿いた活発そうな若い女性で、彼女がRisaさんだと分かった。Risaさんは、現時点ではYouTubeでMV配信を行っているだけのアマチュアのミュージシャン(サブスクリプションデビューも決定しているが)であるが、持っているエネルギー量が他の同世代の女の子よりも多そうだということが一目で感じられた。
「二十歳でYMO好きで英語ペラペラなんて、突然変異みたいな子だったらどうしよう」と思っていたが、Pocochaで見た限りでは、音楽と英語以外では割と普通の女の子という印象で安心していた。

今回は、YMOカバーバンドによる演奏に先駆けて、RisaさんとYMOカバーバンドであるmenon bandを率いているmenonさん(女性)によるプレトーク、そして、文芸系YouTuberでYMOにも詳しく、自身で演奏も行うムーさん(男性)によるトークイベント、更にRisaさんの発案だというYMOクイズのコーナーもある。

ライブの様子はYouTubeLiveで配信されるのだが、配信用のURLが突然変わったということで、Risaさんが、「会場にいる方で配信を見たい方はご確認を」という意味のことをアナウンスしただが、ステージ上にいた人々から「ライブ会場にいる人は配信は見ないよ」と総突っ込みを受けていた。menonさんがRisaさんについて「天然なんです」と語る。
主催者であるMIYAさんも、「Risa、天然だから」ということで、YMNのTwitter担当であり、「常時DM・リプライ受付中!」と書いているにも関わらず、DMのチェックを全くしていなかったという話をする。

LOOMについての話であるが、昔はキャバクラが3店並んでいた場所を買い取り、壁を取り払ってライブハウスにしたそうである。2006年にオープンし、YMOカバーなどの映像を撮っていたりしたが、「生でもやろうか」ということで2008年にYMNが始まっている。ちなみにLOOMというのは、YMOの代表作である「BGM」の最後に収録された無限音階を使った音楽、「LOOM/来るべきもの」に由来している。


YMOクイズは、簡単な問題から難問までバラエティに富んでいたが、目立つのは嫌なので分かる問題でも挙手はしなかった。


メインの演目であるYMOのカバーバンド(暮れに行われた配信ライブで、The Endoh of Asiaというバンド名に決まることになる)による演奏。出演は、MIYA(ドラムス)、Risa(ボーカル&キーボード)、menon(シンセベース)、遠藤雅章(キーボード&打ち込み制作)、ムー(キーボード)。たまたまらしいが、今回はドラムス以外全員キーボードという編成になった。


リハーサルは行っているが、曲順は決まっていないようで、1曲演奏してから皆で話して次の曲を決めるというスタイルで進んでいく。
「Castalia」で始まるという渋い選曲で、Risaさんがボーカルということもあり、YouTubeでDelightsが発表されている「音楽の計画 Music Plans」、「デイトリッパー」、「Solid State Survivor」などが演奏される。

ビートルズのカバーバンドは、京都のジ・アンフィールズなどいくつか聴いたことがあるが、YMOのカバーバンドを聴くのは初めてである。本家YMOの演奏を生で聴いたこともないので、テクノバンドの演奏を聴くこと自体初めてかも知れない。

その後に、セッションコーナーがあり、お客さん(といっても腕にそれなりの覚えのある人だが)が参加してYMOの人気曲や、細野晴臣作曲によるイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」などが演奏された。

終演は午後9時過ぎと、約6時間に及ぶ長丁場となったが、長さを感じさせない幸せな時間であった。

演奏終了後に、Risaさんに挨拶。自己紹介をすると目を見開いて驚かれたが、27歳も年下の娘のような女の子と何を話していいのか分からないので、短い時間で切り上げた。

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MONDO GROSSO/IN THIS WORLD feat.坂本龍一[Vocal:満島ひかり]

ピアノ:坂本龍一
音楽:大沢伸一
作詞:UA

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2022年1月15日 (土)

観劇感想精選(422) MTC project プロデュース 一人芝居コラボレーション「私」と「わたし」

2021年11月6日 大阪・新町のイサオビル Regalo Gallery&Theaterにて観劇

午後5時から、大阪・新町にあるイサオビル Regalo Gallery&Theaterで、MTC project プロデュース 一人芝居コラボレーション「私」と「わたし」を観る。

イサオビルが建つのはオリックス劇場(大阪厚生年金会館大ホールを改修したもの)のすぐそばである。オリックス劇場では今日も誰かのライブがあるようで、劇場の前にある新町公園でも人が大勢待っている。


Theaterは2階にあるのだが、受付は3階にあるカフェで、午後5時にキャストが迎えにくるまでカフェ内で待つことになる。
午後5時に、「私」の作・演出・出演である増田雄氏(MTC Project代表)が現れて、1つ下の階にあるTheaterに整理番号順で入る。私は大体、会場に早く着きすぎるので(遅れるのが絶対に嫌なので早めに出て早めに着くようにしている)整理番号は1番であった。

増田雄の一人芝居である「私」は、2016年1月の初演。精神保健福祉士の卵達にも発達障害のことが良く分かるような芝居を作ってくれないかとの依頼を受けて制作されたものだった。増田雄自身、発達障害の一つであるADHDの傾向があると診断されていたが、医学に関しては素人であるため、「僕なんかより、学生でも精神保健福祉士になるための勉強をされている方の方が詳しいんじゃないですか?」と聞いたところ、「教科書で学ぶ内容と現実との余りの開きに皆戸惑っている」という返事が返ってきたため、ならばその差をより突き詰めるような内容にした方がいいだろうということで、就職に悩む大学4年生(関西風に言うと4回生)を主人公とした一人芝居とし、発達障害の当事者が周囲の見せかけの「理解」に戸惑う内容としている。主人公の男性に関しては、ADHDではなくASD(自閉症スペクトラム)としていることが分かる。ちなみに、発達障害者は、「世界で最も就職の難しい種族」などと言われることもあるのだが、「自閉症スペクトラム(スペクトラムは「連続体」という意味)」という言葉からも分かる通り、一人ひとり症状が異なるというややこしい特性があるため、断言が難しい症状でもある。
日本は先進国の中でも特に発達障害と診断される人が多い国であるが、社会制度そのものが発達障害と診断された人を弾き出すシステムになっていることも影響していると思われる。

増田雄の演じる「私」を観て、リライトを思い立ったASD当事者である関根淳子が書き上げたのが、タイトルをひらがなにした「わたし」である。単純に性別を変えただけではなく、就職の問題を恋愛問題に置き換え、身分も学生ではなく専門学校卒のフリーターに変更。「私」では寓話で語られた部分を学生時代の人間関係の思い出話とし、クライマックスで語られる童話調の物語も、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「人魚姫」を基にしたものに変更している。一人芝居であるが登場人物も大幅に増え(「私」では、面接官ぐらいしか具体的な他人は出て来ないが、「わたし」では学校の同級生、彼氏と彼氏の母親などが登場。「人魚姫」の部分では主人公の他に人魚姫の二人の姉や魔女なども声音を変えて演じ分ける)、ダンスや振りのある演技も入れたため、上演時間も約50分と、「私」の約30分から倍近くに延びている。「私」は会議室での上演を想定したものということもあって音楽なしだが、「わたし」は音楽入りと、ここも異なる。

女性の場合、男性よりもより高度なコミュニケーション能力を要求されるケースが多い。男の場合は、私もそうだが一人が好きという性格であったとしても「そういう人っているよね」で済むのだが、女の場合はいつも一人でいると異端視されやすい。発達障害者には孤独を好む傾向を持つ人も多いのだが、女性の場合は孤独が許されず、人間関係が苦手だと男性以上に地獄を見ることになる。

一方で、男性の場合は就職出来ないと負け犬扱いされることが多いが、女性の場合は「家事手伝い」という抜け道もあり、フリーターであっても「そのうち結婚すればいいから」と許される確率も高い。ただ、生涯未婚率自体が上昇の一途であり、将来的に追い込まれる人も出てきそうである。


関根淳子の「わたし」は、2年前にここイサオビル Regalo Gallery&Theaterで初演される予定だったのだが、コロナ禍によって中止となり、THEATRE E9 KYOTOが企画したオンライン上演企画に応募して、関根淳子が所属しているSPAC(Shizuoka Performing Arts Center)の本拠地である静岡市内で収録した映像によって初演が行われた。その後、静岡県内で静岡県在住者に限って観覧出来る上演が行われ、関根の母校である東京大学での上演などを経て、ようやく初演が予定されていた大阪での上演となった。

関根淳子の「わたし」は、私も有料配信のものを観ており、増田雄の「私」はYouTubeで観ている(収録の出来は満足のいかないものなので、増田さんはこの映像を観ることをお勧めしていないようである)のだが、両作品とも「演劇」として接するのは初めてとなる。

内容に関しては映像初演の時と重複する部分も多いので繰り返さないでおくが、印象自体は映像で観るのとその場で観るのとではやはり大きく異なり、演劇はやはり会場まで出向いて観る必要を強く感じる。受け取るエネルギーの量が段違いなのである。

増田雄の後で聞く関根淳子のセリフ回しに、関東人ならではの心地良さを感じる。増田雄も大学は多摩美術大学(世田谷区上野毛にあった造形表現学部映像演劇学科。現在の美術学部演劇舞踊デザイン学科の前身である)を出ているので、東京にいた期間はあるのだが基本的に西日本の人であり(出身は、西日本にも東日本にも含まれる三重県である)、セリフは標準語が用いられていたが、やはり関東で生まれ育った関東人のセリフ回しとは異なる印象を受ける。セリフだけでなく、数人いる関東出身の友人とそれ以外の地方の友人とでは日本語そのものに関する意識自体に違いを感じたりもしている。
関東人の話し方は、緩急、強弱ともに自在なのが特徴であり、「線」が波打つような感覚がある。一方、その他の地方の話し方はそれがいかに音楽的であろうと迅速な「点描」という印象を受ける。関東人の話し方は擦弦楽器あるいはオーケストラ的、それ以外の地方の人々の話し方はピアノなどの鍵盤楽器やギター的であると書くと分かりやすいだろうか。
人によって感じ方は異なるだろうが、関東で生まれ、27歳まで関東で過ごした人間としては、間近で聴く関東・標準語ネイティブである関根淳子のセリフは本能的に受け入れやすいものであるように感じられる。


「私」と「わたし」の上演の後にアフタートークがある。毎回ゲストを呼んで行われるが、今日のゲストは精神保健福祉士の山崎明子(一般社団法人みーる代表理事)。
山崎明子が代表理事を務める一般社団法人みーるは就労継続支援B型(障害のある方に就労のための訓練を施す場所。A型というのもあって、こちらは労働契約を結ぶため最低賃金が保障されるが、B型は労働の場というよりも「居場所」の色彩が濃く、工賃というものが出るが、月収が1万円いけば良い方というところも普通にある)を運営しているのだが、みーる主催による「私」が週末限定でロングラン公演が行われたそうである。

アフタートークは写真撮影可、というより増田さんによると「積極的に撮って広めて欲しい」とのことだったが、余り良い写真は撮れそうになかったので遠慮した。

山崎さんによると、支援者として障害者に接する難しさがあるそうで、相手のためを思った言動が、結果的には相手を見下す結果になることもあるそうだ。「わたし」では、「理解者」を自認する第三者からの善意が生む悪意に曝される場面があるのだが、そうした光景は支援施設でもよく見られるそうである。
施設の利用者には、上手く表現出来ない恐怖感を日常的に抱いている人も多いそうだが、これはある意味、日常というものがホラー化していることを表しているのかも知れない。


終演後に、関根淳子さんに挨拶。Zoomで話したりFacebookでやり取りをしたことはあるのだが、実際に対面するのは初めてとなった。なんだか妙な感じである。

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2022年1月12日 (水)

コンサートの記(758) ジョン・アクセルロッド指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2021「発見!もっとオーケストラ!」第3回「物語とオーケストラ」

2021年12月5日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2021「発見!もっとオーケストラ!」第3回「物語とオーケストラ」を聴く。今回の指揮者は、京都市交響楽団首席客演指揮者のジョン・アクセルロッド。ナビゲーターはガレッジセールの二人。

曲目は、ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲、ワックスマンの「カルメン幻想曲」(ヴァイオリン独奏:服部百音)、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」メインテーマ、チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」(ナレーション:福山俊朗)。

今回は開演前にロビーコンサートがあり、ジョン・アクセルロッドが電子ピアノを弾く。
「ヒーロー」がテーマであり、まずチェレスタの音色で「ハリー・ポッター」のメインテーマが奏でられる。
アクセルロッドは続いて自分自身のヒーローだというJ・S・バッハの「平均律クラーヴィア」曲集よりプレリュードを弾いた。
また質問も受け付け、音楽家になるにはとの質問に、「まず音楽への愛を持って学ぶ必要」があり、そして「プラクティス、プラクティス、プラクティス(練習、練習、練習)」だそうである。呼吸をするように音楽が出来るようになれば、音楽家になれるだろうとのことであった。アクセルロッドは、「皆さんのヒーローは誰ですか? スーパーマンですか? スパイダーマンですか? 侍ですか?」と聞いていた。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。フルート首席の上野博昭は降り番。オーボエ首席の髙山郁子とクラリネット首席の小谷口直子は全編に出演する。


ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲。
アクセルロッドは、曲によって勿論異なるが、基本のテンポは速めである。またシャープな音楽性が特徴である。この演奏では何故か弦の音にモヤがかかったように聞こえ、分離や輪郭がはっきりしなかった。

ガレッジセールとのやり取りは、通訳の小松みゆきを通して行う。アクセルロッドは、ガレッジセールの質問に、まずは「はい」と日本語で答える。アクセルロッドは、歌劇「ウィリアム・テル(ギョーム・テル)」の少年の頭の上に置いた林檎を弓矢で射落とすという有名な物語を語った。ゴリは「ウィリアム・テル」序曲のラストに出てくる「スイス軍の行進」について、「俺ら50代近くの人間は、『俺たちひょうきん族』を思い出す」話す。


ワックスマンの「カルメン幻想曲」。映画音楽の作曲家として知られるフランツ・ワックスマンが、ビゼーの歌劇「カルメン」の旋律を取り込んでヴァイオリン協奏作品に仕上げたものである。アクセルロッドはカルメンについて、スペイン一美しいが最も怖ろしい女性であると述べる。アクセルロッドは、スペイン王立セビリア交響楽団の音楽監督を務めていたことがあるが、セビリアはカルメンの舞台である。

ヴァイオリン独奏の服部百音は、1999年生まれの若手ヴァイオリニスト。服部隆之の娘であり、音楽一族服部家の四代目である。5歳でヴァイオリンを始め、8歳でオーケストラと共演。2009年のポーランド・リピンスキ・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールで最年少での第1位を獲得。その後いくつものヴァイオリン国際コンクールで優勝を飾っている。今年10月に仙川の桐朋学園大学大学院に入学したばかりである。

真っ赤なドレスで登場した服部。まだ若いためか線がやや細いのが気になるが、高度なメカニックを駆使して情熱的な演奏を展開する。京響の鳴りもロッシーニに比べるとかなり良い。オーケストレーションの違いなのか、時代背景が異なるためか(ロッシーニの時代にはまだ音響の良いコンサートホールやオペラハウスは存在していない)ジャンルの違いなのかは不明である。

服部百音とガレッジセール(主にゴリ)のトーク。演奏中に弓の一部が切れたそうで、弓が切れた場合、垂れた弓の糸の一部が左手に絡まることがあるそうで、それに気をつけながら弾く必要があるという。また今日は顎乗せを留めているネジが外れかかっていたそうで、途中で留め直したそうだ。
ゴリが、「百音さんがジョンさんに近づいていくので、ジョンさんを刺すんじゃないかと」
百音「あ、カルメンは逆にカルメンが刺されるお話です。ラストで刺されちゃいます」
ゴリ「で、今回はジョンさんを刺そうと」
百音「それは違います」


ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」メイン・テーマ。
ゴリが、「あれ、ジョンさんいませんね」と言いつつ進めようとするが、ここでダース・ベイダーの「スースー」という吐息が聞こえる。ジョン・アクセルロッドがダース・ベイダーの面を被り(その上から黒いマスクを付けている)、ライトセーバーを持って登場。ただ持っているのはライトセーバーではなく、警備員が用いる普通の棒(警備棒)である。
アクセルロッドはそのまま指揮台に立つが、演奏前には面を取り、指揮棒を持って指揮した。オーケストレーションに定評のあるジョン・ウィリアムズの作品ということで、鳴りは抜群に良い。


後半。チャイコフスキーのバレエ組曲「くるみ割り人形」。舞台俳優、福山俊朗(しゅんろう)のナレーション入りである。台本はアクセルロッドが書いたもののようだ(翻訳者がいるはずだが不明)。

フルートが上野博昭でなかったのが少し残念だが、色彩感豊かで洒落た演奏が展開される。福山のナレーションも安定したものであった。

演奏終了後、ゴリは、「お客さん、『福山さんの席が一番良い席だな』と思ったんじゃないでしょうか。あんな良い席ない」と語る。

アンコールとして、「ウィリアム・テル」序曲より「スイス軍の行進」が再度演奏された。

ロビーコンサートから「ヒーローについて」語っていたアクセルロッドだが、「コンサートに駆けつけてくれた皆さんこそが本物のヒーローです」と締めていた。

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2022年1月10日 (月)

観劇感想精選(421) 野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16th

2021年11月7日 左京区岡崎の京都観世会館にて

午後2時から、左京区岡崎の京都観世会館で、野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16thを観る。

演目は、まず小舞が3つあり、野村裕基による「鮒(ふな)」、野村萬斎による「鐵輪(かなわ)」、野村万作による「住吉」が舞われる。

「鮒」は、琵琶湖を舞台とした舞で、「美物の数は多けれど中に異なる近江鮒の膾(なます)の味こそすぐれたれ」と訴える大きな鮒に小袖などが与えられ、鮒がいることの目出度さが語られる。

「鐵輪」は、貴船(きぶね)の貴船(きふね)神社が舞台であり、丑の刻参りを行おうとした女性が、安倍晴明が築いた結界によって境内に入れず、目に見えぬ鬼となって消えていくという物語である。この場面は、野村萬斎が安倍晴明を演じた映画「陰陽師」にも登場する。

「住吉」は、大阪の住吉大社が舞台となっている。海路の神である住吉大社から見た瀬戸内海の風情が称される。詞も短く、動きも大きくはないが、動中の静、静中の動を共に表現する必要があり、最も難しい舞の一つに数えられているそうである。


狂言の演目は、「縄綯(なわない)」と「孫聟(まごむこ)」であるが、その前に中村修一による解説がある。

中村は、「まだ解説にはなれていませんので」ということで説明書きを用意しての解説を行う。まず小舞が行われたことに関して、「狂言を観るのは今日が初めてという方もいらっしゃるかも知れませんが、『話が違う』『全然笑えない』と思われた方、大丈夫です。本編はこれからです」と言って、まず3つの小舞の解説を行う。

「縄綯」はタイトル通り縄を綯う話なのだが、中村が太郎冠者が縄を綯うようになるまでの過程を説明する。登場する主が博打狂いだという話をして、借金のカタとして太郎冠者まで取られてしまったという顛末を語る。ただそのまま身売りの話をしても太郎冠者は首を縦に振らないだろうということで、相手先に状を届けるということにして、太郎冠者を相手の家に向かわせる。ところが、借金のカタに取られたと知った太郎冠者はふてくされて、英語で言うボイコットを行う。山一つ向こうまで使いに言ってくれと頼むも、足を痛めているということで拒否。縄を綯(な)ってくれと頼むと、「縄など綯ったことがない」と言い出す。ところが、元の主人のところに新しい主が聞きに行ったところ、実は縄綯いは太郎冠者の特技だという。ということで、太郎冠者を元の主のところに戻し、新しい主が物陰に隠れて太郎冠者が縄綯いをするところと探っていると、太郎冠者は新しい主の悪口三昧。更には会ってもいない新しい主の奥さんや子どもの話をでっち上げて謗り始め……という内容であることを語る。

「狂言というのは、最初に『この辺りの者でござる』と言いますが、ありふれた人々が失敗をしてしまう話」という定義を語った後で、「『私、失敗しないので』でお馴染みの大門未知子の『ドクターX』。野村萬斎も出ております。是非ご覧下さい」と宣伝に繋げていた。

「孫聟」に関しては、「婿入りの話だが、今で言う婿入りではなく、聟が妻の実家に挨拶に行くこと」と解説。また、「おおじ」という言葉が出てくるが、これは「祖父」と書いて「おおじ」と読み、「王子、プリンスのことではありません」と語った。


野村裕基、萬斎、万作による三代の舞。裕基は若いだけに華があるが、同時に軽さもまだ出てしまう。若さが持つ諸刃の剣である。萬斎の仄暗さの表出、万作の泰然とした舞は見応えがある。


「縄綯」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、内藤連(主)、高野和憲(何某)。
野村萬斎演じる太郎冠者は、主の命令に現代人の口調で「はい??」と返すため、本来は舞台上と客席とでは時代が違うはずなのだが、萬斎だけが現代人の心情を持った人物として現れたような印象を受ける。観る側は、萬斎を「視座」として芝居を楽しめば良い。博打狂いで借金まみれ、家内の者をカタとして譲るような人物に仕えているということで、太郎冠者がブラック企業に不承不承勤めるサラリーマンのようにも見えてくる。そうした楽しみ方もありだろう。太郎冠者が現代に生きていたら、ネット上に上司の悪口を書きまくるのかも知れない。


「孫聟」。出演は、野村万作(祖父)、深田博治(舅)、飯田豪(太郎冠者)、野村裕基(聟)。野村万作と裕基が祖父と孫という、現実と同じ役割を演じる(祖父は劇中では母方の祖父である)。裕基は、「祖父にとても可愛がられている孫でござる」と言って笑いを取っていた。
「孫聟」は和泉流の専有曲で、聟と舅が口うるさい祖父がいない間に祝言を済ませようとするのだが、結局、祖父も孫が来ているということを知って祝言に参加し、自分の思い通りにことを進めようと何度も何度も同じことを口にし、舅がそれを食い止めようとこれまた同じことを繰り返すという、反復の妙が生きた作品である。

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2022年1月 9日 (日)

これまでに観た映画より(270) ドキュメンタリー映画「世界で一番美しい少年」

2022年1月4日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「世界で一番美しい少年」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」で、主人公のアッシェンバッハ(ダーク・ボガード)をあたかも死へと導くような美少年・タジオを演じ、全世界に衝撃を与えたビョルン・アンドレセンの現在と過去に取材した作品である。クリスティーナ・リンドストロムとクリスティアン・ペトリの共同監督。

映画のタイトル通り、当時新聞で「世界で一番美しい少年(the Most Beautiful Boy in the World)」と呼ばれたビョルン・アンドレセン。スウェーデンのストックホルム出身で、現在もストックホルムに住んでいるが、その姿は白髪の長髪に同じ色の口ひげとあごひげ、目はくぼんでおり、「ベニスに死す」の美少年の面影はどこにもない。

ビョルン・アンドレセンは1955年生まれ。父親は今に至るまで不明。11ヶ月ほど下の妹がいるが父親が異なるという複雑な境遇。幸い兄妹仲は良く、幼い頃はいつも一緒にいたようだ。

デンマーク出身である母親のバルブロはボヘミアン気質で、芸術の才能に溢れており、ビョルンもそれを受け継いでいるようだが、幼い子ども二人を連れて世界中を旅し続けたあげく、二人を残して失踪。その後、森の中で遺体となって発見される。
その後、ビョルンはデンマークにある寄宿制の学校に入れられたようだが、馴染めずにスウェーデンに戻り、祖母に育てられた。この祖母が山っ気のある人で、ビョルンをスターとして売り出そうと画策する。

そんな時に、トーマス・マン原作の映画「ベニスに死す」の美少年役を探していたルキノ・ヴィスコンティがストックホルムを訪れる。イタリアの名門貴族の末裔にして、同性愛者であることを公言していたヴィスコンティは、理想の美少年を探してヨーロッパ中でオーディションを行うも、未だ理想にぴったりの少年に出会うことが出来ないでいた。
ビョルンも15歳とヴィスコンティの希望に比べれば年上であり、また身長が高すぎるもネックだと考えたようだが、見た目は理想通りであり、キャスティングされることが決まった。

映画「ベニスに死す」は大ヒット。グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、作曲家のグスタフ・マーラーをモデルにしており、トーマス・マンは作曲家ではなく自己像も投影した小説家としていたが、ヴィスコンティはマーラーと同じ作曲家に職業を戻し、マーラーの交響曲第5番より第4楽章“アダージェット”をメインの音楽に採用している。「マーラーが妻となるアルマに宛てた音楽のラブレター」とも言われる耽美的なアダージェットを採用したことで、マーラーの再評価にも繋がっている。

ちなみにビョルンにオーディションを受けさせた祖母も「ベニスに死す」にちょい役で出ており、得意満面の笑顔を浮かべている様がカメラに捉えられている。

「ベニスに死す」で大成功を収めたビョルンだったが、ヴィスコンティは彼に冷たく、カンヌ映画祭ではビョルンについて、「将来美青年になるかも知れないが、今は1年前に比べると大分醜くなった」と突き放し、その後のキャリアに繋がりそうなことは一切しなかった。それどころか、自身のみならずスタッフも全員同性愛者で固めていたヴィスコンティは、ゲイのコミュニティにビョルンを連れて行き、自身を飾るアクセサリーのよう扱っている。美少年を蔑むことは、ヴィスコンティのサディスティックな趣味の表れなのかも知れない。
その後のビョルンにも、美少年を好む男が群がるようになる。この映画ではパリでの出来事に触れているが、直接的な描写は避けられている。ビョルン自身が明言していないからだろう。

ビョルンは音楽を愛する少年だった。老人となり、決して広いとは言えないアパートメントに住むビョルンが狭い部屋にキーボードを置き、コンピューターで作曲する様をカメラは捉えている。実際、「ベニスに死す」のオーディションを受けた当時は音楽学校に通っていたようだ。それが「ベニスに死す」が当たったことで方向転回し、演劇学校に通うようになる。だがヴィスコンティが道を敷かなかったということもあり、俳優活動は順調とは言えず、仕事の依頼は多かったようだが大半は脇役であった。主役が減ったことで死亡説まで出たりしている。
その後、詩人であったスーザンと出会い、一男一女を設けるが、更なる悲劇がビョルンを襲うことになる。


私が映画「ベニスに死す」を初めて観たのは、15歳か16歳の頃。丁度、タジオを演じた時のビョルンと同年代である。その時は気付かなかったのだが、「世界で一番美しい少年」の中に出てくる「ベニスに死す」やその制作ドキュメンタリーである「タジオを求めて」に映っているビョルンは、驚くほど陰の濃い眼差しをしている。あたかもその後の人生を見据えているかのような目であるが、当然ながらビョルン本人も未来のことは何一つ知ってはいない。だが、その宿命が視線に出てしまっているということなのか。

「ベニスに死す」により、ビョルン旋風が巻き起こる。その中でも特に熱心だったのが日本のファンで、ファンレターのうち最も多くを占めているのは日本からのものであるようだ。
ということで、ビョルンは祖母の意向もあり、来日することになる。若い女性からの熱狂的な出迎えを受けたビョルンは、東京の帝国ホテルに泊まり、周りに言われるがままにCMに出演し、日本語で歌ったレコードをリリースしてヒットさせている。レコードリリースの仕掛け人となったのが、昨年亡くなった酒井政利であり、酒井もこの映画に証言者として出演している。

過密スケジュールで、それを乗り切るための赤い錠剤という怪しげなものを飲まされたりもしたが、日本人として嬉しいことに、ビョルンは日本には好感を抱いているようで、約半世紀ぶりに訪れた帝国ホテルで「懐かしい」と嬉しそうな笑みを浮かべている。
また「ベルサイユのばら」のオスカルのモデルとしてビョルンを選んだ池田理代子との対面も果たしている。

東京でピアノの演奏を行うシーンもあり、ビョルンが本当は音楽への道を歩むことを望んでいたことが窺える。孫を子役スターにしようとした祖母の意向で、また周囲の意見に合わせて俳優にならざるを得なかった残酷さも感じられる。十代半ばの少年に、大人達に抗うだけの力があるはずもない。その後のビョルンは鬱病とアルコール中毒に悩むことになる。

2019年にホラー映画「ミッドサマー」で久々の主演を務めたビョルン・アンドレセン。私自身は「ミッドサマー」は観たことはないのだが、多くの人が「ベニスに死す」のタジオとの落差に驚いたであろうことは想像に難くない。

ラストシーンは、ベニス(ヴェネチア)の海岸に立つビョルンの姿である。彼に名声とその後の地獄を与えた場所である。半世紀前、ビョルンはこの海岸で誰よりも輝いていた。曇り空の海岸に佇むビョルンが何を思ったのかは分からないが、人生と人間の不確かさというもの感じ取ることは出来た。

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2022年1月 8日 (土)

コンサートの記(757) 沼尻竜典指揮 「オーケストラ・キャラバン~オーケストラと心に響くひとときを~」 九州交響楽団西宮公演

2021年12月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後7時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、「オーケストラ・キャラバン~オーケストラと心に響くひとときを~」九州交響楽団西宮公演を聴く。指揮は沼尻竜典。

福岡を本拠地とする九州交響楽団。九州唯一のプロオーケストラである。人口からいえば政令指定都市である熊本市や中核市である鹿児島市にもフルサイズでなくても良いのでプロオーケストラがあっても良さそうだが、やはり難しいようである。


オール・チャイコフスキー・プログラムで、バレエ組曲「くるみ割り人形」より“小序曲”~“行進曲”、ヴァイオリン協奏曲ニ長調(ヴァイオリン独奏:神尾真由子)、交響曲第4番が演奏される。


九州交響楽団を聴くのは初めて。東京の有力オーケストラが関西で公演を行うことは比較的多いが、それ以外の地方のオーケストラは本拠内以外で公演を行うこと自体が余りない。東京での公演ならある程度集客が見込めるが、国内第2位の経済規模を誇る関西地方においても集客面で勝算があるとは言えない状況である。コロナ禍の最中ということもあるが、今日の公演も入りがいいとは言い難い。

九州交響楽団の響きは、これまでに聴いたことのある日本のオーケストラの中では日本フィルハーモニー交響楽団の音に比較的近いように思える。ただ音自体は日フィルより渋めである。

ドイツ式の現代配置での演奏。クラリネット首席に京都市交響楽団の小谷口直子が客演で入っている。


バレエ組曲「くるみ割り人形」より“小序曲”~“行進曲”。沼尻らしい明晰でシャープな音作りで、愉悦感もよく出ている。スケールはやや小さめであるが、この曲に関してはそれで一向に構わない。
チャイコフスキーのオーケストレーションは視覚面でも楽しい。


ヴァイオリン協奏曲ニ長調。ソリストである神尾真由子の十八番の一つである。
白いドレスで登場した神尾は、万全の演奏を聴かせる。メカニックが抜群なだけではなく、タメや細やかな表情付けに由来する彼女ならでは味わいが耳に心地よい。本当に良い曲であり、良い演奏だと思える。沼尻指揮の九州交響楽団も巧みな伴奏を聴かせる。


神尾のアンコール演奏は、シューベルトの「魔王」(おそらくエルンスト編曲版)。ゲーテの詩に作曲した「魔王」は語り手、父親、子供、魔王の4役を一人で歌い分ける楽曲であるが、ヴァイオリン独奏版も同様の一種の演技力が必要となってくる。高度な技術が要求される曲だが、子供が歌う部分の痛切さが印象的な演奏となっていた。


チャイコフスキーの交響曲第4番。解釈面での見直しが進むチャイコフスキーの楽曲。それまでに完成させた3つの交響曲がいずれも抒景詩的であったのに対し、交響曲第4番から第6番「悲愴」に至るまでの後期3大交響曲ではいずれも私小説のような趣を醸し出しており、作曲者の心境の変化が感じられる。

衝撃的に演奏されることが多い第1楽章の冒頭だが、沼尻は悲劇性を抑え、純音楽的な美音で奏でる。のどかに感じられるほどだが、これはその後の展開への伏線だった。
第1楽章も中盤に入ってから、沼尻は大きなギアチェンジを見せ、聴いていて胸が苦しくなるほどの慟哭を歌い上げる。前半との対比により、この曲の異様さがクッキリと浮かび上がる。あたかも地獄を見続けながら必死で正気を保っているような陰惨さが波濤のように押し寄せる。見事な設計である。

第2楽章の孤独に満ちた表情も痛烈。リアルな響きである。私にとっての「リアル」とは「切実である」ということだ。

チャイコフスキーはこの曲を完成させた後、交響曲作曲家としてはスランプに陥る。バレエ音楽などの劇音楽は作曲しており、また憧れの作曲家であったモーツァルトの楽曲研究を行うなど、それなりに有意義には過ごしていたようだが、自身の本領である交響曲が書けないという焦りは常にチャイコフスキーの中にあった。それまでの感情を全て吐露してしまったのが交響曲第4番であり、作曲を終えて空っぽになってしまったのかも知れない。

第3楽章での徹底したピッチカート演奏など、アイデアに溢れているが、どうも音楽の方から勝手にチャイコフスキーの下にやって来たような印象もあり、作曲家自身が制御し切れていない部分も多いように感じる。
交響曲第5番や第6番「悲愴」も同傾向にあるが、この2曲は第4番に比べればまだ抑制が効いているように感じられる。交響曲第4番の荒れっぷりはやはり尋常ではない。

沼尻はスケールや輪郭をきっちりと決めて、その範囲内で音楽の密度や精度を高めていくことの多い指揮者であるが、交響曲第4番においては、そうした自身の得意とするスタイルではなく、この楽曲が持つ異常性を炙り出すことに腐心しているように感じられた。ラストは本当に「狂気のパレード」という印象である。


アンコール演奏は、チャイコフスキーの弦楽セレナードから第2曲「ワルツ」。爽やかな演奏で、交響曲第4番の後で心のざわめきが少しだけ穏やかになったように感じられた。

九州交響楽団。また聴いてみたいオーケストラである。

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2022年1月 5日 (水)

2346月日(36) 京都市京セラ美術館 「モダン建築の京都」

2021年11月10日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館東山キューブにて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、「モダン建築の京都」展を観る。新館である東山キューブでの展示である。

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京都というと寺院などの伝統建築や和の町並みを思い浮かべる人も多いと思うが、明治以降、西洋建築の受け入れに寛容であり、第二次世界大戦でも空襲は局地的に留まったということもあって、明治以降のお洒落な建物が市内の各所に残っている。

ポスターに載っている建築を挙げていくと、会場である京都市京セラ美術館(京都市美術館、大礼記念京都美術館)、平安神宮、京都大学楽友会館、旧外務省東方文化学院京都研究所(現京都大学人文科学研究所)、駒井家住宅(現駒井卓・駒井静枝記念館)、進々堂京大北門前、京都大学総合体育館、国立京都国際会館、同志社大学クラーク記念館、同志社アーモスト館、同志社礼拝堂、新島旧邸、京都市庁舎本館、大丸ヴィラ、平安女学院明治館、京都府庁旧本館、京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店社屋)、京都芸術センター(旧明倫小学校)、本願寺伝道院、東華彩館、フランソア喫茶室、富士ラビット、国立京都博物館(旧帝国京都博物館)、京都大学花山天文台、長楽館、無鄰庵など。
市民に開放されてい施設も多く、明治維新、大正ロマン、昭和モダンなどに触れる機会も多いのが京都市の特徴であるといえる。

一部の展示品は撮影可であり、国立京都国際会館の模型などを撮影した。また、長楽館の宿泊者名簿には、早稲田大学(当初の名前は東京専門学校)の創設者である大隈重信と早稲田大学総長を務めた髙田早苗の名が並んでいることが確認出来る。

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京都の建築家というとまず名前が挙がるのが武田五一。京都市庁舎などの作品があるが、当時としては未来志向の建築家であり、時代を考えると、かなり新しい試みを行っていることが分かる。前川國男設計の京都会館(現ロームシアター京都。ロームによるネーミングライツで、正式名称は今も京都会館である)なども、1960年の竣工とは思えないほどの斬新さ(私が訪れた頃には経年劣化でオンボロ建築となっていたが)が感じられる。大野幸夫の国立京都国際会館も近未来的な要素を日本古来の建築様式と融合させた新しさを感じさせる。京都人からの評判は芳しくないが、京都という街のカオス性をそのままに表現したJR京都駅ビルなども近い将来にこうした評価を受ける建築群の仲間入りをしそうである。
斬新な作風の建築がある一方で、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)など、古典的な造形美を生かした建築家の活躍も目覚ましく、そうした多様な作風が渾然一体となって形作られた京都という街の特異性を感じることが可能となっている。
アメリカ生まれのヴォーリズは、近江八幡市を中心に多くの作品を残しているが、同志社大学今出川校地の建物もいくつか設計している。映像展示では、同志社でハモンドオルガンを弾いていたり、近江兄弟社で仕事をするヴォーリズの姿を見ることが出来る。

「新しさ」が提示されても、それを呑み込み、咀嚼して、単なる目新しさではなく独自のアイデンティティの領域にまで高めてしまうのが京都の奥深さである。

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2022年1月 3日 (月)

コンサートの記(756) 2021年度公益事業文化公演京都府教職員互助組合創立70周年記念「新妻聖子&サラ・オレイン Special Concert」@ロームシアター京都

2021年11月28日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時30分から、ロームシアター京都メインホールで、2021年度公益事業文化公演京都府教職員互助組合創立70周年記念「新妻聖子&サラ・オレイン Special Concert」を聴く。

このコンサートは、チケット発売初日に席を確保出来ず、同じ日に行われる京都市交響楽団のチケットを取ったのだが、その後に教職員のキャンセルが出たのかどうかは知らないが、新たにロームシアター公演のチケットが発売になっていたため購入。ロームシアターを優先させることにした。

「ミュージックフェア」での共演などを経て、森山良子、平原綾香と4人でLA VITAを結成した新妻聖子とサラ・オレイン。日本歌謡界の若手を代表する二人の共演による豪華なコンサートを格安で聴ける機会である。ただ前後左右一席空けのソーシャルディスタンススタンスであるが席は埋まり切っておらず、そこは残念な気がした。なお、肉親などの親しい関係であれば一席空けなくても大丈夫なようである。

第一部がサラ・オレイン、第二部が新妻聖子という二部制のコンサート。二人のデュオがあるとは書かれていないが、普通に考えて、ないとは思えない。
果たしてアンコールでは二人揃って登場した。


第一部に登場のサラ・オレイン。オーストラリアの出身で、日本文学を学ぶために東京大学に留学。その後に歌手として日本で活動するようになっている。音楽活動は多岐に渡り、楽器演奏や作曲、指揮もこなすという才女である。言語学が専門領域であり、今日も、「ほな、いきまっせ」「おいでやす。おこしやす」など関西弁でのトークも行った。
三島由紀夫の『金閣寺』を読んで感動し、「これは日本に行くしかない」と思ったそうで、数年前には金閣寺でのコンサートも行っているという。

2018年に京都コンサートホールで行われた「時の響」に出演した時に聴いて以来のサラ・オレイン。まず1曲目に久石譲の「君をのせて~天空の城ラピュタより」を歌い、その後に自作などを披露。ヴァイオリンやキーボードを弾きこなすなど多才である。
葉加瀬太郎とセリーヌ・ディオンの「TO LOVE MORE」でヴァイオリン弾き語りの一人二役を行ったり、チック・コリアの「スペイン」に歌詞を付けたものを歌ったり、最後はプッチーニの歌劇「トゥーランドット」より「誰も寝てはならぬ」(本来はテノールの曲である)を歌うなど、バラエティに富んだ選曲。歌声も澄んだソプラノからソウルフルなものまで幅広い。


最も好きなミュージカル歌手の一人である新妻聖子。歌声にも演技にも全幅の信頼の置ける人である。今日は青いパンタロン(でいいのかな?)姿で登場する。
まずはお得意のミュージカルナンバーから。「ラ・マンチャの男」から同名曲、「アニー」から「Tomorrow」、「レ・ミゼラブル」から「夢破れて」。「ラ・マンチャの男」は英語、「Tomorrow」と「夢破れて」は日本語での歌唱である。「Tomorrow」は少女が主演する「アニー」のナンバーということで、新妻聖子が歌うようになったのは最近だそうだが、歌詞が深く、「子どもが歌う曲だからとは侮れない」そうである。「レ・ミゼラブル」は、新妻のミュージカルデビュー作(エポニーヌ役)であるが、エポニーヌが歌う「On My Own」ではなく、最も有名な曲である「夢破れて」を歌う。客席に「『レ・ミゼラブル』をご覧になったことのない方っていますかね?」と聞いて、数名拍手する人がいたので、「7人ぐらいいらっしゃいますね」ということで、説明しようとするが、「ある人がパンを盗んでですね、改心する。割と早く改心するんですが、その前に出てくる恵まれない人がフォンテーヌ。フォンテーヌは人を信じやすいんですが、不幸になって、子どもを宿して、でも子どもがいたら働けないから、信用出来そうな夫婦(テナルディエ夫妻)に預けたら、実際には酷い人達で」と大まかなものに留める。『レ・ミゼラブル』はミュージカルとしても大作であるが、原作小説も岩波文庫の厚いもので4冊あり、そう簡単に説明出来るものではない。「Tomorrow」も優れていたが、「夢破れて」は入魂の出来で素晴らしかった。

続いては「ピコ太郎さんの歌をうたいたいと思います。ふざけてるんじゃないですよ。ピコ太郎さんは真面目な曲も書いてるんです。さだまさしさんの『関白宣言』という歌がありますが、みんな知っているという前提で言いますけど、結婚した旦那さんが割と高圧的な、半分冗談なんですけど、それを生まれてくる子どもの視点から書いた『完パパ宣言』というのがありまして、刺さるものがあったので、ピコ太郎さんに『歌いたいんですけどいいですか?』とお伺いしたら『いいですよ』ということでレパートリーに入れた」そうである。赤ちゃんの視点で歌うということで、椅子の上に座り、胎児のように脚を抱えて歌う。途中で録音された産声が流れるが、新妻聖子の長男が生まれた時の産声だそうである。

新妻聖子の実姉は、シンガーソングライターだそうだが、姉妹のことを書いた「sisters」という曲も歌われる。新妻の姉の声が録音で流れて「疑似デュオ」になるが、実の姉ということで声が新妻聖子にそっくりである。

LA DIVAでは、韓国の音楽グループであるBTSの「Dynamite」をカバーしているのだが、それを「ラウンジでブランデーを傾けながらシャム猫を撫でているイメージ」でアレンジして貰ったものを歌う。モダンジャズなテイストであった。

新妻は現在、ミュージカル「ボディガード」の稽古に励んでいるそうで、「有名な『エンダーイ』を歌います」ということで、「Always Love You」が日本語と英語が混じったミュージカル日本上演バージョンで歌われた。

最後はお別れのイメージがある「Time to say goodbye」。伸びやかな歌唱であった。


アンコールは、サラ・オレインと新妻聖子の共演で、中島みゆきの「時代」とABBAの「ダンシングクィーン」が歌われる。先頃の再結成宣言でも話題になったABBAはスウェーデンのグループということで、サラ・オレインは新妻の青の衣装と合わせてスウェーデンの国旗に見えるよう黄色のドレスを選んだのだが、新妻はそれに気付かず、昨日の綾部市での公演では、「サラちゃん、黄色のドレス素敵だね」としか思っていなかったそうである。
新妻はサラに「京都の思い出」について聞いたのだが、「先程語り尽くした」ということで再び三島由紀夫の『金閣寺』の話をする。新妻は、「日本人なのに(『金閣寺』を)読んだことない」そうだが、「京都がサラちゃんを日本に呼んだと」と纏めていた。

「時代」には英訳された歌詞が存在するそうで、二番は英訳詞でのデュオとなった。
ミュージカル「マンマ・ミーア!」の振り付きで歌われた「ダンシングクィーン」もノリノリであり、「良いものを聴いた」と心から満足出来るコンサートとなった。

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2022年1月 2日 (日)

観劇感想精選(420) NODA・MAP番外公演 「THE BEE」2021大阪

2021年12月22日 グランフロント大阪北館4階ナレッジシアターにて観劇

午後6時30分から、グランフロント大阪北館4階のナレッジシアターで、NODA・MAP番外公演「THE BEE」を観る。原作:筒井康隆(「毟りあい」)、上演台本・演出:野田秀樹。阿部サダヲ、長澤まさみ、河内大和(こうち・やまと)、川平慈英による4人芝居である。井戸を演じる阿部サダヲ以外は、一人で複数の役を演じる。野田秀樹は出演しないが、NODA・MAPにおいて野田本人が出演しないのは初めてとなるようである。

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「THE BEE」は、9.11事件後の聖戦という名の報復をテーマに2006年にロンドンで英語版を初演。野田のオリジナル台本ではなく、筒井康隆の短編小説を原作とした脚本が書かれた。2007年に日本初演が行われている。
その後、2012年に日本語版が再演され、今回が再々演(三演)となる。前回、フェイクニュースを題材にした「フェイクスピア」を上演した野田秀樹が今の時期に「THE BEE」を取り上げるというのも興味深い。

阿部サダヲが客席後方から通路を通って舞台に上がる。このことにも実は意味があるように感じられる。

紙製の幕を用いた演出が特徴で、この幕に影絵が投影されるなど、シンプルな装置を上手く使っている。また、残虐シーンに鉛筆が多用される。


物語は、脱獄犯である小古呂(おごろ。演じるのは川平慈英)に我が家を占拠され、妻と息子が人質となっているサラリーマンの井戸(阿部サダヲ)が会社から戻ってきたところから始まる。井戸は自宅の前で警察官に止められるまで、我が家で何が起こっているのか誰にも知らされていなかった。家の前の通路は封鎖されており、帰ることが出来ない。更に警官やらマスコミ(川平慈英、長澤まさみ、河内大和が早替えで演じる)に取り囲まれ、被害者らしく振る舞うよう強要される。

事件をより見栄えあるものに変えるべく脚色が加えられる様は、つかこうへいの「熱海殺人事件」を想起させられるが、実はこの「THE BEE」は、「熱海殺人事件」へのオマージュ、更にはポスト「熱海殺人事件」の時代が描かれているような気がする。主人公が黒電話でがなり立てる場面があるほか、「熱海殺人事件といえば」の「白鳥の湖」が「THE BEE」ではオルゴールで流れ(長澤まさみが「白鳥の湖」であることをわざわざ告げるセリフがある)、更には「熱海殺人事件」におけるもう一つの重要楽曲である「マイウェイ」もちゃんと流れる。ハチャトゥリアンの「剣の舞」の日本語歌詞付きバージョン(尾藤イサオの歌唱、なかにし礼の作詞)や、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」よりハミングコーラスなど、「熱海殺人事件」とは直接の関係がない楽曲も重要な場面で流れるが、野田秀樹の頭の中に「熱海殺人事件」が全くなかったとは考えにくい。

「熱海殺人事件」は、高度情報化社会が訪れ、イメージが事実に優先する時代を戯画風に描いた作品だが、今はポスト・トゥルースが当たり前のように幅を利かせる時代となっており、「フェイクスピア」で描かれたJAL123便墜落事故なども、「真相」という形を取って根拠不明の情報が溢れるようになってしまっている。そういう意味では現代は「熱海殺人事件」を数歩超えた時点に辿り着いてしまったという実感がある。それが今、「THE BEE」を再び世に問うた意義なのかも知れないが、ここではまず、「THE BEE」で描かれていることを追っていく。

妻と子を人質に取られた井戸は、「被害者を演じる力量が自分にはない」と悟り、案内役の刑事(川平慈英)の頭をバットで殴って拳銃を奪い、逆に脱獄犯・小古呂の妻(長澤まさみ)と小古呂の一人息子(川平慈英)を人質に取って、マンションの一室に立てこもる。

小古呂と連絡を取る内に、井戸に中に次第に狂気が芽生え始める。相手の家に押し入って妻子を人質に取るという行為からして異常だが、井戸のタナトスは次々に爆発していく。ついには小古呂を脅迫するために、小古呂の一人息子の指を切断し、封筒に入れて小古呂に送りつける。そうして井戸は小古呂の妻と情事に及び、翌朝は小古呂の妻が作った朝食を皆で共にする。そこへ、ドアポストから封筒に入れられたものが差し入れられる。井戸の一人息子の指であった。怒りに震える井戸であったが、また小古呂の息子の指を切断し、封筒に入れて送りつける。そして小古田の妻と情事に及び、翌朝には3人で食卓を囲み、そこへドアポストから井戸の息子の指を入れた封筒が投げ入れられる。それが繰り返される。
復讐の連鎖だが、何度も続いているうちに、それが日常風景のように思えてくる恐怖が観る者に忍び込んでくる。世界状況に照らし合わせれば、報復戦争が行われることが当たり前になり、感覚が麻痺していくのである。この連鎖が続いている間は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」のハミングコーラスが流れ続け、あと何回続くかは、長澤まさみが包丁でまな板を叩く回数でキューを出していることが分かる。

結局、21世紀に入ってからも人々は戦いを好み、己が信じるもののみを信じ続け、それが異常だという感覚すらなくなっていく。本当であること、「事実」、「真実」、それらに重みが置かれない。真偽に関わりなく自分の信じるものだけ信じるという姿勢。そうしたことが続けば人と人の間は切り裂かれ、共通の言葉も失い、寄って立つ場所もなくなる。
「熱海殺人事件」のイメージ優先がまだ可愛らしく思えるほど、我々は多数の「独善」が支配する怖ろしい場所へと、いつの間にか辿り着いてしまったのかも知れない。

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2022年1月 1日 (土)

観劇感想精選(419) 草彅剛主演「アルトゥロ・ウイの興隆」2021@ロームシアター京都

2021年12月23日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「アルトゥロ・ウイの興隆」を観る。2020年1月に、KAAT 神奈川芸術劇場で行われた草彅剛主演版の再演である(初演時の感想はこちら)。前回はKAATでしか上演が行われなかったが、今回は横浜、京都、東京の3カ所のみではあるが全国ツアーが組まれ、ロームシアター京都メインホールでも公演が行われることになった。ちなみにKAATもロームシアター京都メインホールも座席の色は赤だが、この演出では赤が重要なモチーフとなっているため、赤いシートを持つ会場が優先的に選ばれている可能性もある。アルトゥロ・ウイ(草彅剛)が率いるギャング団は全員赤色の背広を身に纏っているが、仮設のプロセニアムも真っ赤であり、3人の女性ダンサーも赤いドレス。演奏を担当するオーサカ=モノレールのメンバーもギャング団と同じ赤いスーツを着ている。

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アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)を皮肉る内容を持った「アルトゥロ・ウイの興隆」。元々のタイトルは、「アルトゥロ・ウイのあるいは防げたかも知れない興隆」という意味のもので、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)がアメリカ亡命中の1941年に書かれている。ナチスもヒトラーも現役バリバリの頃だ。ヒトラー存命中にその危険性を告発したものとしては、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者」と双璧をなすと見なしてもよいものだが、すぐに封切りとなった「独裁者」に対し、「アルトゥロ・ウイの興隆」はその内容が危険視されたため初演は遅れに遅れ、ブレヒト没後の1958年にようやくアメリカ初演が行われている。ブレヒトの母国でナチスが跋扈したドイツで初演されるのはもっと後だ。

ブレヒトの戯曲は、今がナチスの歴史上の場面のどこに当たるのか一々説明が入るものであるが(ブレヒト演劇の代名詞である「異化効果」を狙っている)、今回の演出ではブレヒトの意図そのままに、黒い紗幕に白抜きの文字が投影されて、場面の内容が観客に知らされるようになっている。

作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、演出:白井晃。
出演は、草彅剛、松尾諭(まつお・さとる)、渡部豪太、中山祐一朗、細見大輔、粟野史浩、関秀人、有川マコト、深沢敦、七瀬なつみ、春海四方(はるみ・しほう)、中田亮(オーサカ=モノレール)、神保悟志、小林勝也、榎木孝明ほか。


禁酒法時代のシカゴが舞台。酒の密売などで儲けたアル・カポネが権力を握っていた時代であるが、アル・カポネの存在は、セリフに一度登場するだけに留められる。
この時代が、ナチス台頭以前のドイツになぞらえられるのであるが、当時のドイツは深刻な不況下であり、ユンカーと呼ばれる地方貴族(ドイツ語では「ユンケル」という音に近い。「貴公子」という意味であり、ユンケル黄帝液の由来となっている。「アルトゥロ・ウイの興隆」では、カリフラワー・トラストがユンカーに相当する)が勢力を拡大しており、贈収賄なども盛んに行われていた。
清廉潔白とされるシカゴ市長、ドッグズバロー(榎木孝明)は、当時のドイツの大統領であったハンス・フォン・ヒンデンブルクをモデルにしている。ヒンデンブルクはヒトラーを首相に指名した人物であり、ナチスの台頭を招いた張本人だが、この作品でもドッグズバローはアルトゥロ・ウイの興隆を最初に招いた人物として描かれる。

小さなギャング団のボスに過ぎなかったアルトゥロ・ウイは、ドッグズバローが収賄に手を染めており、カリフラワー・トラストに便宜を図っていることを突き止め、揺する。それを足がかりにウイの一団は、放火、脅迫、殺人などを繰り返して目の前に立ち塞がる敵を容赦なく打ち倒し、暴力を使って頂点にまで上り詰める。
ぱっと見だと現実感に欠けるようにも見えるのだが、欠けるも何もこれは現実に起こった出来事をなぞる形で描かれているのであり、我々の捉えている「現実」を激しく揺さぶる。

途中、客席に向かって募金を求めるシーンがあり、何人かがコインなどを投げる真似をしていたのだが、今日は前から6列目にいた私も二度、スナップスローでコインを投げる振りをした。役者も達者なので、「わー! 速い速い!」と驚いた表情を浮かべて後退してくれた。こういう遊びも面白い。

クライマックスで、ヨーゼフ・ゲッペルスに相当するジュゼッペ・ジヴォラ(渡部豪太)とアドルフ・ヒトラーがモデルであるアルトゥロ・ウイは、客席中央通路左右の入り口から現れ、客席通路を通って舞台に上がるという演出が採られる。ナチス・ドイツは公正な民主主義選挙によって第一党に選ばれている。市民が彼らを選んだのである。市民に見送られてジヴォラとウイはステージに上がるという構図になる。

アメリカン・ソウルの代名詞であるジェイムズ・ブラウンのナンバーが歌われ、ステージ上の人物全員が赤い色の服装に変わり、ウイが演説を行って自分達を支持するよう客席に求める。ほとんどの観客が挙手して支持していたが、私は最後まで手を挙げなかった。お芝居なので挙手して熱狂に加わるという見方もあるのだが、やはり挙手ははばかられた。ただ、フィクションの中とはいえ、疎外感はかなりのものである。ナチスも熱狂的に支持されたというよりも、人々が疎外感を怖れてなんとなく支持してしまったのではないか。そんな気にもなる。流れに棹さした方がずっと楽なのだ。

アルトゥロ・ウイがヒトラーの化身として告発された後でも、音楽とダンスは乗りよく繰り広げられる。その流れに身を任せても良かったのだが、私はやはり乗り切ることは出来なかった。熱狂の中で、草彅剛演じるアルトゥロ・ウイだけが身じろぎもせずに寂しげな表情で佇んでいる。ふと、草彅剛と孤独を分かち合えたような錯覚に陥る。

こうやって浸ってみると孤独を分かち合うということも決して悪いことではない、むしろ世界で最も良いことの一つに思えてくる。誰かと孤独を分かち合えたなら、世界はもっと良くなるのではないか、あるいは「こうしたことでしか良くならないのではないか」という考えも浮かぶ。

ヒトラーが告発され、葬られても人々のうねりは止まらない。そのうねりはまた別の誰かを支持し攻撃する。正しい正しくない、良い悪い、そうした基準はうねりにとってはどうでもいいことである。善とも悪ともつかない感情が真に世界を動かしているような気がする。


大河ドラマ「青天を衝け」で準主役である徳川慶喜を演じて好評を得た草彅剛。私と同じ1974年生まれの俳優としては間違いなくトップにいる人である。横浜で観た時も前半は演技を抑え、シェイクスピア俳優(小林勝也。ヒトラーは俳優から人前に出るための演技を学んだとされるが、ヒトラーに演技を教えたのはパウル・デフリーントというオペラ歌手であると言われている。「アルトゥロ・ウイの興隆」でシェイクスピア俳優に置き換えられているのは、この作品がシェイクスピアの「リチャード三世」を下敷きにしているからだと思われる)に演技を学んでから生き生きし出したことに気づいたのだが、注意深く観察してみると、登場してからしばらくは滑舌を敢えて悪くし、動きにも無駄な要素を加えているのが分かる。意図的に下手に演じるという演技力である。


演説には乗れなかったが、スタンディングオベーションは誰よりも早く行った。良い芝居だった。

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