これまでに観た映画より(273) 「ドライブ・マイ・カー」
2022年1月13日 T・ジョイ京都にて
八条のイオンモールKYOTO内にある映画館T・ジョイ京都で、「ドライブ・マイ・カー」を観る。村上春樹の長めの短編小説(もしくは短めの中編小説)を、黒沢清監督の「スパイの妻」の脚本も手掛けた濱口竜介の脚本と監督で映画化した作品であるが、「ドライブ・マイ・カー」は短編小説で、そのまま映画化するとかなり短いものになってしまうため、「ドライブ・マイ・カー」が収録された短編集『女のいない男たち』に入っている「シェエラザード」と「木野」という2編の短編小説に出てくる要素を加えて一本の映画としている。
『ダンス・ダンス・ダンス』や『国境の南、太陽の西』といった村上春樹のその他の小説に影響を受けた可能性のある展開も出てくるのだが、たまたま似たのか意図的に加味したのかは不明である(濱口竜介監督は村上春樹作品の愛読者である)。
「ドライブ・マイ・カー」の主人公である家福が舞台を中心に活躍している俳優であり、今現在出演している舞台であるチェーホフの「ワーニャ伯父さん(小説中では「ヴァーニャ伯父さん」表記)」が、この映画では「柱」と言っていいほどの存在となっている。
出演は、西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいか、パク・ユリム、安部聡子、ジン・デヨン、ソニア・ユアンほか。日本トップレベルの映画俳優である西島秀俊、話題作に次々出演している三浦透子、十代からイケメン俳優として注目され続けてきた岡田将生、アラフィフとは思えないほどの美貌を持つ霧島れいかなど魅力的な俳優が揃っており、かなり力が入っていることが窺える。
上映時間約3時間。村上春樹作品の特徴である比喩、隠喩、寓喩などの多用や重層構造を生かした芸術映画であり、監督が観客に要求するレベルが高めであることが分かる。「ワーニャ伯父さん」は知っていて当然というスタンスで、もし「ワーニャ伯父さん」のタイトルも知らないレベルで観に行ってしまうと、実際には何が起こっているのかほとんど分からないのではないかと思えるほどである。
舞台俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)は、様々な国の俳優とコラボレートした多言語上演に意欲的に取り組んでおり、注目を浴びている。まず上演シーンが映されるのはベケットの「ゴドーを待ちながら」である。家福はジジ(ウラジミール)を演じている。
そして次に演じられるのが、「ワーニャ伯父さん」である。タイトルロールは家福が演じており、十八番となっている。
家福の妻である音(おと。この「音」という役名は「極めて」重要である。演じるのは霧島れいか)は、元女優で現在は脚本家として活躍している。脚本家としてはまずまず売れっ子のようであり、夫とベットを共にした時に自らが創作した物語を語って聴かせていた。音が語るのは、好きな男の子の家に空き巣として何度も入る女子高生の話である(短編小説「シェエラザード」に出てくるエピソードだが、細部や結末は映画の筋に合うよう変えられている)。女子高生は、男の子の部屋に忍び込み、そこに母親の影響を嗅ぎ取る。そして女子高生は男の子の部屋から何かを盗み、代わりに自分のものを置いていく。それが繰り返される。王家衛の映画「恋する惑星」(村上春樹の『ノルウェイの森』に影響を受けた作品である)のような展開だが、これは実は暗示である。音は夫の留守中に他の男と寝ていた。それも複数人と。全員俳優である。音は寝たことのある、もしくは寝る予定の俳優を家福に紹介する癖があった。高槻耕史(岡田将生)もその一人だった。
ウラジオストックでの演劇祭に審査員として招かれた家福は成田国際空港に向かうが、空港の駐車場に車を停めた直後に天候不順によりウラジオストック行きの飛行機が全て欠航となったことを知り、一度都内の自宅に戻る。そこで妻と男の不貞行為を目撃してしまう。家福は二人に見つからないようにそっと家を出て成田に向かい、演劇祭の実行委員が宿泊代を負担してくれるホテルに泊まり、妻の音とのビデオ電話ではウラジオストックにいると嘘をついた。その後も家福は俳優の技量を生かして「気付かない」ふりを演じ続ける。
「ワーニャ伯父さん」に出演するようになった家福は、音からセリフを吹き込んだカセットテープを渡される。ワーニャ伯父さんのセリフの部分だけが抜けた、音楽でいうと「マイナスワン」仕様のもので、他の登場人物のセリフは全て音が吹き込んでいた。
ある日、家福は自動車事故に巻き込まれ、左目が緑内障によって視野に死角(ブラインドスポット)が生じていると医師から告げられる。それでも運転は続けた。ちなみに「死角」や「死角にいる妻」は、村上春樹の代表作の一つである『ねじまき鳥クロニクル』で重要なモチーフとなっている。
仕事に向かう際に、音から「今晩帰ったら少し話せる?」と訊かれる家福。寄り道せずに帰ろうとするのだが、別れを切り出されるのではないかとの予感があったため、仕事を終えてからも都内を彷徨い帰宅が遅れる。ようやく家に帰った家福は、音がリビングに倒れているのを見つけ、119番。だが、くも膜下出血により音は帰らぬ人となった。「もし早く帰っていたのなら」と家福は自責の念にとらわれる。
2年後。家福は、広島市で行われる国際演劇祭に演出家として招かれる。広島県内に2ヶ月ほど滞在し、世界各国からオーディションのために集まった俳優達の中から出演者を選び、1ヶ月半の稽古を行った後で本番を行うのだが、演劇祭のスタッフは、家福のために瀬戸内海に面した宿を用意し、そこまでの送り迎えのドライバーとして、渡利みさきという若い女性(原作には見た目が良くないという設定があり、これが劇中劇のある人物に繋がっている。演じるのは三浦透子)を手配していた。最初の内は自分で運転すると主張していた家福だが、抜群に運転の上手いみさきの技量に惚れ、運転を任せるようになる。
オーディション参加者の中には高槻もいた。2年の間にそれなりの売れっ子俳優となっていた高槻だったが、ハニートラップに引っ掛かり、未成年との淫行疑惑で事務所を退所(事実上のクビだと思われる)、現在はフリーの俳優となっていた。
アーストロフ役を希望する高槻に、家福はワーニャ伯父さん役を振る。「ワーニャ伯父さん」がどういう話か知っている人は、半ば当てつけだと気付くはずである。村上春樹の原作には「ワーニャ伯父さん」の上演シーンはなく、高槻に対する家福の思いは、セリフと地の文で語られるのだが、映画では「ワーニャ伯父さん」のテキスト及び稽古との二重構造となっている。その後も、見た目ではそれほどでもないが、意識下では激しい殴り合いが起こっていることが感じられるような描写が続き、この映画の優れた部分の一つとなっている。「ワーニャ伯父さん」を知らないと、ここまでの激闘になっているとは気付かないかも知れない。
「ワーニャ伯父さん」も「ゴドーを待ちながら」も、敗北を抱えながら生きていく、生きていかざるを得ない人間を描いたものだが、この映画でも妻を亡くしたことで喪失感を抱きながら生きる家福の姿が描かれており、俳優としての家福と彼の実生活の部分がオーバーラップする技法が取られている。それまで自分で車を運転していた家福が、みさきという運転手を得たことで、新たな視座と視野を得るという展開にも上手さを感じる。
「みさき」というのは、今の時代ではありふれた女性の名前だが、実は「事故死したため成仏出来ない幽霊」という意味もあり、縁起は良くなかったりするのだが、「神様の先触れや案内役=御先」という意味も存在している。運転手として家福を導いていくみさきは、御先由来の名前である可能性もある。
一方で、みさきは現在23歳で、4歳の時に亡くなった家福と音の娘が生きていたとしたら同い年。またみさきの父親は実は家福と同い年であるため、前者の「みさき」の可能性もあって、その場合も奥行きが出るのだが、こちらの方は主筋にはさほど関係がないため、どちらでも良いような気がする。
広島での「ワーニャ伯父さん」の稽古では、日本語、韓国語、北京語、タガログ語、英語、韓国語の手話などが飛び交い、無国籍的な芝居が現出しているが、言葉では通じ合えない部分という、村上春樹がよく取る手法が却って浮き彫りになる。村上春樹の場合は、基本的には肉体関係、つまりセックスという形を取ることが多く、これが村上作品への好悪を分かつ一番の理由にもなっているのだが、それは人間の根源的な謎へのアプローチでもある。妻の音がなぜ隠れて他の男と情を交わし続けねばならなかったのかという、答えのない謎に家福は戸惑い続けていたのだが、一つの「啓示」のようなものがみさきの口から語られている。
また、劇中劇の重要なセリフが「音ではない手法」で語られるのも効果的である。
「ワーニャ伯父さん」でも「ゴドーを待ちながら」でも、そして「ドライブ・マイ・カー」でも人々は空虚、虚無、喪失感の中で生き続けている。それは人間の宿命でもある。
そうしたことと向かい合うことの出来る文学、映画、演劇の素晴らしさを改めて感じさせてくれる好編であった。
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