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2022年1月29日 (土)

観劇感想精選(424) 「万作 萬斎 新春狂言 2022」大阪

2022年1月19日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作 萬斎 新春狂言 2022」を観る。

まず新年を祝う謡初・連吟「雪山」でスタート。出演は、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(舞台上手側から下手側に向かう順番)。

次いで、野村萬斎によるレクチャートークがある。萬斎はまず「出にくい中、お越し頂きましてありがとうございます」と述べる。大阪では新型コロナウイルス・オミクロン株の感染拡大が続いており、連日のように新規感染者の最多記録が更新されている。

今回の演目は、「成上がり」と「小傘(こがらかさ)」。野村萬斎による「小傘」は、以前にびわ湖ホール中ホールで観たことがある。

「今年は寅年ということで、関西で寅というと阪神タイガースを思い浮かべてしまう訳ですが」という話から、大阪での「新春狂言」は、毎年その年の干支を題材にした作品を選ぶことにしていると語り、「成り上がり」が寅年にちなむ作品であるとする。
実際には寅年ではなく、寅の日の話なのだが、「寅」繋がりではある。
舞台は洛北・鞍馬寺。主が太郎冠者を連れて、初寅の日に鞍馬寺に参詣する。昔は堂籠の習慣があったようで、そのまま鞍馬寺の堂内か堂の付近で一夜を過ごすことが多かったそうだ。そこへすっぱがやって来て、太郎冠者が眠ったまま抱えている太刀を盗もうとするという話である。
野村萬斎は、コロナが広まってからは感染を避けるために初詣には行っていないようだが、昔は明治神宮などに初詣に行き、「機動隊とまでは行きませんか、警察の方々が装甲車のようなものを並べて、『スリや置き引きにご注意下さい!』と大音量を響かせていた」という話をする。「関西ではそういうのありませんか?」と聞くが、そこまでのことはないような反応である。私は、例えば伏見大社のような参拝客でごった返す神社には初詣に行かないので、状況については全く知識がない。
「熊野別当」という役職についての話になり、「武蔵坊弁慶はご存じですか? 義経と良い関係な人。手下。解釈は色々ありますが、武蔵坊弁慶の父親が熊野別当だった」という話をする。ちなみに、昨年の3月に、野村萬斎は熊野で三谷幸喜脚本のアガサ・クリスティシリーズの新作の収録を行ったと明かしていた。
熊野別当がうっかり太刀を落としてしまう。「武士にとって太刀を落とすというのは大変なことで、今でいうと実印を落とすような」と例えた、人に盗まれないよう太刀自身がくちなわに化けたという話をする。太郎冠者の言い訳が、この熊野別当の太刀落とし由来である。
「今年で91になるお年寄りが、舞台の上でゴロンゴロンします。森光子さんが『放浪記』ででんぐり返しをして拍手を貰ったという話がありますが、家の父親はそれより凄い」

「小傘」については、僧堂を建てたは良いが、肝心の堂守(住職のようなもの)がいないので困っている男が、「街道に出れば誰か見つかるかも知れない」というので出掛けていくところから始まる。丁度、僧形をした男が街道を歩いていた。その男は博打好きで、金子は勿論、家財一式まで失ったという遊び人。僧の身なりをすれば食えるらしいということで、格好だけは僧侶になったが、にわか坊主か三日坊主ということで経典を読むことは一切出来ない。偽僧侶は、弟子を新発意(しんぼち。小僧のこと)に変身させ、小傘を持たせる。堂守を探している男と堂守になりすましたい男が「Win-Winの関係」になり、僧堂に向かうのだが、経が読めないので、「昨日通る小傘が今日も通り候。あれ見さいたいよこれ見さいたいよ」という小歌を経典ぽく謡ってごまかそうとする話である。
「お寺にはキンキラキンのものが一杯ある」というのでそれを盗むのだが、萬斎は、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが出所後に教会に泊めて貰い、金細工や銀細工のものを盗むというシーンに重なるという話をしていた。
ラストに「なーもーだー、なーもーだー」という「南無阿弥陀仏」の六字の省略形が謡われるのだが、「私は浄土真宗の回し者でもなんでもないわけですが」客と一緒にパフォーマンスを行うことにする。萬斎が発する「なーもーだー、なーもーだー」と謡に合わせて、観客が手拍子をするというもので、「以前は、一緒に『なーもーだー』と言う形式でやっていたのですが(コロナ前のびわ湖ホールでの公演ではそういうスタイルでやっていた)、昨今は声を出すのは余りよろしくない」ということで手拍子に変えている。萬斎が「なーもーだー」と言いながら膝を叩くのに合わせて観客が手拍子をした。本番については、「私がそれとなく合図をします」


「成上がり」。出演は、野村万作(太郎冠者)、野村裕基(主)、野村萬斎(すっぱ)という三代そろい踏みである。

鞍馬寺での堂籠の最中に眠ってしまった太郎冠者。そこへ、「去年は不幸せだったが、今年は幸せに」と言いつつ、すっぱがやって来る。太郎冠者が眠り込んでいるのを見て、太刀を抜き取ろうとするが、太郎冠者は寝ているのに反応。そこですっぱは、青竹と太刀をすり替えることでまんまと獲物を手に入れる。
東の空が白んできた頃に目を覚ました主は太郎冠者を起こすが、太郎冠者が抱えていたはずの太刀が青竹に変わっている。そこで太郎冠者は熊野別当の故事を引き合いに出して、「山芋が鰻、蛙が甲虫、燕が飛び魚、嫁が姑(これについては主から突っ込まれる)」になるような成り上がりが起こり、太刀がこの青竹にと誤魔化そうとする。

「成上がり」は大蔵流にもあるそうだが、大蔵流の「成り上がり」はこの場面で終わるのに対し、和泉流は続きがある「デラックス版」となっている(?)そうである。
すっぱに太刀を盗まれたと悟った主は、「すっぱが太刀だけ盗んで帰るとは考えにくい。また近くで盗みを行うだろうから、そこを捕らえよう」と決め、二人で木陰に隠れる。
そこに太刀を持った太郎冠者が再び姿を現す。主がすっぱを羽交い締めにするが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄を綯う」を地で行ってしまい、主を苛立たせる。更にすっぱは太郎冠者を足で転がして妨害する。野村万作が転がった時には拍手が起こっていた。
結局、縄で縛めようとするものの、太郎冠者はすっぱではなく主の二の腕を体に巻き付けてしまい、状況を把握していない主が手を離すと、すっぱはまんまと逃げ出してしまう。

野村萬斎の三代は、三人が三人ともタイプが違うため、良い意味で肉親であることが感じられないような個性の引き立つものになっている。
「雌雄眼」の代表例として挙げられることも多い野村萬斎は、悪党をやるとダークなオーラのようなものが出る。何故そんなものが出るのかは良く分からない。


「小傘」。出演は、野村萬斎(僧)、深田博治(田舎者)、高野和憲(新発意)、内藤連、飯田豪、野村裕基(以上、立衆)、石田幸雄(尼)。この上演では野村万作が後見を務める。
先に書いたように、立派な僧堂をこしらえたものの、肝心の堂守がいないと嘆く田舎者が、街道で堂守候補をスカウトしようとする。そこへ僧(偽物)と新発意(こちらも偽物)がやって来る。博打ですってんてんの僧は、「出家したら金が儲かるらしい」というので、堂守になると見せかけて盗みを働く気でいた。
経が読めないので、小歌をそれらしく謡って誤魔化すと新発意に伝え、続きがある場合は、経典を持ってくるのを忘れたということにするが、新発意が、「堂に経典があったら?」と聞くので、「その時は自分が面白おかしくやって切り抜ける」と自信を見せる。
果たして、堂内には経典があり、「にくい奴」などと僧は述べるが、「自分は子供の頃から修行を行っていて、経文は全て暗記しているので、経は目にする必要はない」とする。
新発意が傘を持っているのを不審がられるも僧は、「傘こそ最高の仏具」とし、拡げた時に「後光になる」としてしまう。
さて、立衆が揃い、僧と新発意は「小傘」の謡を始める。「小傘」の謡は徐々にデフォルメされていき、笑いを誘う。またそれを真面目な顔で聞いている立衆との落差がベルグソン的である。
そして、観客の手拍子入りの「なーもーだー」。アッチェレランドしていき、高揚感が増す。一遍が始めた踊り念仏もかくやと思えるほどエネルギッシュなトランス状態へと見る者を巻き込んでいった。

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