コンサートの記(765) ガエタノ・デスピノーサ指揮 京都市交響楽団第664回定期演奏会
2022年2月18日 京都コンサートホールにて
午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第664回定期演奏会を聴く。
本来は、若手指揮者・原田慶太楼の京響定期デビューコンサートとなるはずだったが、原田は本拠地であるアメリカのオーケストラを振る仕事があり、その後に日本に再入国する際に必要とされる隔離期間2週間の確保が難しいため降板。代わって、昨年の暮れに来日し、以後、日本に長期滞在して各地のオーケストラを指揮しているガエタノ・デスピノーサが指揮台に立つ。
また、ピアノ独奏を務めるはずだった三浦謙司(ドイツ在住)も日本入りが不可能となったため、昨年9月のリーズ国際ピアノコンクールで第2位に輝いた若手・小林海都(かいと)がピアノソロに抜擢される。
曲目は当初と変わらず、ヴェルディの歌劇「運命の力」序曲、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノ独奏:小林海都)、チャイコフスキーの交響曲第5番。
コロナ禍により、指揮者が足りないという状態が続いている。日本のオーケストラは良くも悪くも白人の指揮者頼りの傾向が続いていた。私が学生定期会員をしていた時期のNHK交響楽団は、定期演奏会の大半を白人、それもヨーロッパ出身の指揮者に委ねていた。同じ白人指揮者でもアメリカの指揮者は当時はまだそれほど信頼が置かれていなかったような気がする。定期的に招かれていたのはレナード・スラットキンなど数名だったと思う。
昨今も劇的に状況が変わったという訳ではなかったが、コロナによる外国人入国規制により、いやでもこれまでの方針を変えざるを得なくなった。私が学生定期会員をしていた時期のN響を例に挙げると、日本人指揮者が出演するのは4月定期のABC3つあるプログラムだけで、それを3人の日本人指揮者で振り分けるということをやっていたが、そんなことでは演奏会が開けない。
オーケストラだけではなく、日本のクラシック音楽の聴衆も同傾向。白人の名指揮者に人気が集中していた。そのため、客の呼べる日本人指揮者の数は限られており、争奪戦となっている。
そんな中で、昨年暮れに来日したデスピノーサとジョン・アクセルロッドは客の呼べる貴重な実力派白人指揮者。共に日本に長期滞在し、聴衆を魅了。アクセルロッドは先日、アメリカに帰ったが、デスピノーサは引き続き日本での活動を続けている。
出演者の急遽変更ということでバタバタしたのか、無料プログラムに記載されたプレトークの時間が「午後2時から」とマチネーの時間帯になっている。午後7時開演の公演のプレトークを午後2時から行っても客席に誰もいないが、客も間違えるはずもない。ということで午後6時30分からデスピノーサによるプレトークがある。英語でのスピーチ。通訳は小松みゆき。
デスピノーサは、まず「こんばんは」と日本語で挨拶してから、「Good Evening」と英語に直す。
「今回のプログラムは私が選んだわけではないのですが」と前置きした上で、「いいプログラムだと思います」と語る。
デスピノーサは、1978年、パレルモ生まれのイタリア人。ということで、まずは祖国の大作曲家であるジュゼッペ・ヴェルディの話。「ヴェルディはとても長生きした人で、活躍の時期も長かった」「チャイコフスキーは、27歳下ですが、チャイコフスキーが亡くなった後もヴェルディは生きて活躍していました」
そして、「ヴェルディは当初はシンプルなオペラを書いていたのですが、次第に交響詩のようなオペラを作曲することになります」
非常に有名だが、「椿姫」の“乾杯の歌”のオーケストラ伴奏は、「ブンチャッチャ、ブンチャッチャ」と三拍子のリズムを刻んでいるだけだったりする。それがワーグナーへの対抗心ともいわれるが、声を含むオーケストラによる一大叙事詩を指向するようになっていった。「運命の力」についてデスピノーサは、そんなシンプルと重厚の合間にある重要な作品としていた。
続いて、チャイコフスキーだが、「ヴェルディはオペラの人だが、チャイコフスキーはオペラの人とは言えないかも知れない(一応、「エフゲニー・オネーギン」や「スペードの女王」といった比較的有名なオペラも書いている)が、舞台的な発想をする人だ」と語る。バレエ音楽も優れたものが揃っている。そして舞台的な音楽発想という意味だと思われるが、チャイコフスキーはマーラーの先達、先駆けになる人」との解釈を披露する。
交響曲が私小説化していくのも、マーラーやチャイコフスキーの後期三大交響曲の特徴である。
ラフマニノフについては、「ノスタルジックな作曲家というイメージがあるが」新しいことも色々やった未来的なところもある作曲家、「パガニーニの主題による狂詩曲」にも新しいところがあるとの見解を述べていた。
今日のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの豊島泰嗣。フォアシュピーラーに泉原隆志。管楽器首席奏者ではオーボエの髙山郁子が全編に出演。トロンボーン首席の岡本哲がラフマニノフからの参加。それ以外はチャイコフスキーのみの出演となっている。
ヴェルディの歌劇「運命の力」序曲。
デスピノーサの実演には、昨年暮れの大フィルの第九で接しているが、相性は京響との方が良さそうである。全般的に明るめの音色と屈強なブラスという京響の長所が生きており、憂いや情熱、パースペクティブの表出などがイタリア音楽に相応しい。
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。
ピアノ独奏の小林海都は、バーゼル音楽院在学中の若手。残念ながら醜聞続きの上野学園の高校で学んでいたのだが、マリア・ジョアン・ピリスのワークショップを受けた際に留学を勧められ、まずはベルギーのエリザベート王妃音楽院でピリスに師事した後でスイスに移っている。昨年12月にはデスピノーサの指揮でN響定期デビューも果たした。
見た目は芸術家というよりも「真面目なサラリーマン」風である小林だが、エッジの立ったキリリとしたピアノを弾くため、ギャップが凄い。今日は「パガニーニの主題による狂詩曲」とアンコール演奏の2曲だけだったが、音色やスタイルを自在に変えられるタイプであることが察せられるため、他の曲の演奏も聴きたくなる。
デスピノーサ指揮の京響も甘美で語り上手な伴奏を展開した。
小林のアンコール演奏はスクリャービンの24の前奏曲より第9番。デスピノーサは舞台から下り、客席に座って聴いていた。
チャイコフスキーの交響曲第5番。フルートの上野博昭、クラリネットの小谷口直子、ホルンの垣本昌芳、トランペットのハラルド・ナエス、ファゴットの中野陽一朗といった首席奏者が並んだこともあり、輝かしい音による白熱した演奏が展開される。
デスピノーサであるが、かなりテンポを揺らす。「一気に加速した後減速」を繰り返すため、下手をすると粗い演奏になりがちだが、そうした印象は余り受けず、時間を素材に全体像をきっちり組み立てる名建築家のような優れたフォルム作りが特徴。バランス感覚が人並み外れて優れているのだと思われる。
管楽器は鋭く、弦楽器はそれに比べると甘くと分けているのも特徴で、チャイコフスキーの多面性を描いているようでもある。ティンパニに硬い音を出させているのも独特。
第1楽章冒頭の小谷口直子のクラリネットソロ、第2楽章の垣本昌芳のホルンソロはいずれも技術が高く、表現力も豊かである。交響曲第5番はクラリネットとホルンが独奏的に用いられる場面が多く、交響的協奏曲のようでもある。
第4楽章も堂々と始まる。デスピノーサは、チャイコフスキーに関する最新の研究を余り取り入れてはいないように感じられたが、音が輝かしいが故に却って伝わってくる哀しさのようなものも特に弦には乗っているように感じられる。
疑似ラストの後の凱歌も爽快であるが、音の輝かしさ故に同時に生まれた陰の部分も目の前に差し出されているような感覚になる。ラストも「ジャ・ジャ・ジャ・ジャン」と切って演奏しており、「本当の凱歌」なのか疑問に思えてくる要素も隠さずに出していた。だが、昨今流行りの演奏とは異なり、地平の彼方に希望が見えているような終わり方でもあった。
演奏終了後、デスピノーサは再び客席に下り、京都市交響楽団に向かって拍手をするというパフォーマンスを行っていた。
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