コンサートの記(766) 池辺晋一郎作曲 新作オペラ「千姫」
2021年12月12日 アクリエひめじ大ホールにて
姫路へ。
午後3時から、アクリエひめじ大ホールオープニングシリーズ公演:新作オペラ「千姫」を観る。池辺晋一郎の作曲。構想も池辺によるもので、池辺は姫路市の隣にある加古川市在住の作家、玉岡かおるに台本の作成を依頼したが、玉岡は、「小説家の私はシナリオでなく小説を書いて本に残すのが使命なのでは?」ということで、原作となる小説『姫君の賦~千姫流流』を執筆。それを平石耕一が台本に直すという過程を経た。
演出は、新作の演出を手掛けることも多い岩田達宗。出演は、小林沙羅(千姫)、古瀬まきを(おちょぼ)、矢野勇志(本多忠刻)、池内響(本多忠政)、井上美和(お熊)、小林峻(徳川秀忠)、尾崎比佐子(お江)、井上敏典(宮本武蔵)、近藤勇斗(宮本三木之助)、伊藤典芳(松坂の局)、奥村哲(坂崎出羽守)、山田直毅(桂庵)、林真衣(芥田四左衛門)、金岡伶奈(奥女中)。
子役が二人出演(松姫=東福門院和子と千姫の娘である勝姫の役。共に達者な演技を見せた)。刺客役という歌のない役で、河本健太郎と青山月乃が出演する。
二幕十九場からなる大作であるが、それぞれの場の名称は背面のスクリーンに投影される。
演奏は、田中祐子指揮の日本センチュリー交響楽団。注目の女性指揮者として人気を博していた田中祐子だが、更なる研鑽の必要を感じ、日本での仕事を徐々に減らしてパリに留学。その最中にコロナ禍に見舞われたが、日本での仕事も再開を始めており、今回久々の日本でのオペラ指揮である。
ストーリーも音楽も分かりやすいが、その分、「ここがクライマックス」という盛り上がりには少し欠ける印象は否めない。
徳川二代将軍秀忠と、浅井長政の三女である江の娘として生まれた千姫。夫となった豊臣秀頼と義母で伯母でもある茶々(淀殿)を生家である徳川家に殺された悲劇のヒロインとして有名であるが、その後に美男子として知られる本多忠刻と自ら望んで再婚。忠刻との間の娘である勝姫は江戸時代前期の三大名君の一人として知られる池田光政の正室となり、全国屈指の大大名である備前池田家の繁栄に貢献している。
そもそも千姫の弟は三代将軍家光、妹は後水尾天皇に嫁した東福門院和子(最初は「かずこ」で降嫁後は「まさこ」)、姪は奈良時代以来の女帝となる明正天皇という華麗この上ない血筋。忠刻の没後に江戸に戻ってからも大奥で権勢を振るうなど、恵まれた一生であり、親豊臣の人々からは余り好かれていなかったようである。そのために後世、「刑部姫と本多忠刻」や、千姫が夫二人に先立たれたショックから狂女になったとする「千姫御殿」といった怪談が生まれている(共に姫路での上演には相応しくないので、当然ながら登場しない)。千姫一人が幸福に過ごしたということを認めたくない人々がいたのだろう。実際には千姫は江戸に帰ってから狂女になったどころか、有名人の墓地が多いことでも知られる鎌倉の縁切り寺・東慶寺を再建するなど、女性のための施策も行っており、このオペラでも姫路時代の発案として登場する。
姫路と姫路城というのがこれまた危ういバランスの上にあり、西国将軍・池田輝政が現在まで聳えている五重の大天守などを築いているが、最初に姫路城に天守を築いたのは羽柴秀吉である。秀吉は毛利攻めのための山陽道の拠点として黒田官兵衛から本丸を譲り受け、居城としている。
一方で江戸期以降の姫路は江戸を手本とした街作りを行っており、城郭のみならず惣構えを渦を巻くような水堀で囲い、水運の便を図っている。渦郭式城郭と呼ばれるものだが、大規模な渦郭式城郭は日本には江戸城と姫路城しか存在しない。
豊臣と徳川の双方が息づいているということなのだが、それは千姫にも当てはまる。
舞台は大坂夏の陣、大坂城落城の場面から始まる。秀頼と淀殿の助命を父親である秀忠に請う千姫であったが(今回のオペラには家康は登場しない)受け容れられず、劫火に包まれる大坂城の姿が千姫のトラウマとなる。そのトラウマの火を消す水の役目を司るのが本多忠刻である。
池田輝政は現在の姫路城の礎を築いたが、外堀などは完成させることが出来なかった。惣構えを築き、播磨灘への水運を開いたのは本多忠刻であり、このことはこのオペラでも描かれている。
千姫の大坂城脱出というと、坂崎出羽守直盛との関係が有名で(「千姫事件」として知られる)、このオペラでもどう描かれるのか気になっていたのだが、千姫のトラウマと直結しているものの、余り深くは描かれていなかった。姫路での千姫のオペラということで、坂崎出羽守の話を大きくするとバランスを欠くためだと思われる。
千姫は名前だけはとにかく有名だが、実際に何をした人なのかは広く伝わっておらず、最初の夫と二番目の夫に先立たれた悲運の徳川の姫という印象だけが強い。もし仮に大坂の陣で秀頼や淀殿と運命を共にしていたら、あるいは宮本武蔵の養子である三木之助のように本多忠刻の後を追っていたら、悲劇の女性として更に名高かったかも知れない。祖母であるお市の方のように。だが、死んだとして、それで何かを成し得たと言えるのだろうか。
死んでいれば、坂崎出羽守の千姫事件や千姫御殿の物語で汚名を着ることもなかったかも知れない。死を美徳とするこの国にあっては尚更そうだ。だが彼女は生きた。人には知られなかったかも知れないが、生きて成すべきことを成した。名門に生まれたことで発生した義務を彼女は果たした。女が政治の道具でしかなかった時代、徳川と豊臣の政略結婚として大坂城に嫁ぎ、その後は徳川四天王の一人、忠勝系本多氏に入って、徳川の結束を高めた。だが、これらは親が決めたことであり(千姫が忠刻の妻になることを自ら望んだというのも事実であろうが)、その犠牲になったとしても「千姫可哀相」で終わってしまう。その後の彼女は徳川家や豊臣家でなく、彼女の運命を生きた。「千姫事件」や「千姫御殿」のようにドラマティックではないかも知れないが、真に美しい生き方だったと思う。
あるいは、「本当の美しさ」とは「ドラマティック」の中にはないのかも知れない。そう思わせてくれるオペラだった。
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