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2022年3月の28件の記事

2022年3月31日 (木)

コンサートの記(772) 原田慶太楼指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2021(年度)「発見!もっとオーケストラ!!」第4回「オーケストラ・ミーツ・シネマ」

2022年3月27日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2021(年度)「発見!もっとオーケストラ!!」第4回「オーケストラ・ミーツ・シネマ」を聴く。映画で使われたクラシック音楽や映画音楽をフィーチャーした演奏会。指揮は、史上最高の映画音楽作曲家の一人であるジョン・ウィリアムズの弟子にして友人である原田慶太楼。京響の2月定期に出演するはずが、アメリカでの仕事を終えて日本に向かった場合、コロナ待機期間を満たせないという理由で降板した原田慶太楼(ガエタノ・デスピノーサが代役を務めた)。今回のオーケストラ・ディスカバリーには十分間に合った。
1985年に生まれ、高校からアメリカで学び始めた原田慶太楼。吹奏楽の指揮者として知られるフレデリック・フェネルにまず師事。複数の大学で音楽を学んだ後、シンシナティ交響楽団とシンシナティ・ポップス・オーケストラ(主に演奏する曲目が違うだけで両者は同一母体である)などのアソシエイト・コンダクターなどを経て、現在はジョージア州のサヴァンナ・フィルハーモニックの音楽&芸術監督として活躍している。「題名のない音楽会」など、メディアへの出演も多く、2021年春からは東京交響楽団の正指揮者に就任し、日本でもポストを得ている。京都市交響楽団とは、ロームシアター京都メインホールで行われた、ジョン・ウィリアムズの楽曲を中心としたコンサートで共演している。今日は全編、ノンタクトでの指揮。


曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った(かく語りき)」冒頭(オルガン:桑山彩子)、エルガーの行進曲「威風堂々」第1番(合唱:京響コーラス)、ポンキエルリの歌劇「ジョコンダ」から「時の踊り」、ジョン・ウィリアムズの「シンドラーのリスト」からメインテーマ(ヴァイオリン独奏:石田泰尚)、ロジャース&ハマースタインⅡ世の「サウンド・オブ・ミュージック」セレクション、久石譲の「千と千尋の神隠し」から「あの夏へ」(ピアノ独奏:佐竹裕介)、ジョン・ウィリアムズの「ハリー・ポッターと賢者の石」から「ヘドウィグのテーマ」(チェレスタ独奏:佐竹裕介)、「スター・ウォーズ」から「インペリアル・マーチ(ダース・ベイダーのテーマ)」、「スター・ウォーズ」から「運命の決闘」(合唱:京響コーラス)、シベリウスの交響詩「フィンランディア」

前半は、「2001年宇宙の旅」に使われた「ツァラトゥストラはこう語った」の冒頭、ディズニー映画の「ファンタジア」で使われた「威風堂々」第1番と「時の踊り」というクラシック作品が演奏され、その後は映画のためのオリジナル曲を経て、ロシアの圧政に苦しんでいた時代のフィンランドの音楽である交響詩「フィンランディア」に至るというプログラム。

今日のコンサートマスターは京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。今日はヴァイオリン両翼配置での演奏である。
管楽器の首席奏者は前半にほぼフル登場。フルート首席の上野博昭、ホルン首席の垣本昌芳は前半のみの出演となった。

ナビゲーターは、オーケストラ・ディスカバリーではお馴染みとなったロザンの二人が務める。


リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」。ヴァイオリン両翼配置のせいか、原田慶太楼が京都コンサートホールの音響に慣れていないためか、あるいは私が座った席が悪かったのか、もしくはその全てか、いつもに比べて音がモヤモヤしており、直接音が弱めに聞こえる。その後、どんどん音響が良く聞こえるようになったので、私の席や耳の問題か、原田と京響が響きをさりげなく調整したのか、音響に関する不満はなくなっていった。

エルガーの行進曲「威風堂々」第1番では「英国第2の国歌」と言われる部分を京響コーラスが歌うのだが、最初の場面では、オーケストラサウンドに隠れて声が思うように届かず。不織布マスクを付けての歌唱と言うことで、声量が十分出なかったのかも知れない。再度合唱が入る場面では、前回よりは声が通って聞こえた。

ロザンは、菅ちゃんが大の映画好きということで、楽しそうである。宇治原には映画を観ているようなイメージはないが、実際にどうなのかは分からない。

原田が菅ちゃんに、「今日は豪華です」と京響コーラスを紹介するも、菅ちゃんは、「あの背中向けてる人」とパイプオルガン独奏の桑山彩子にまず興味を持ったようだった。
今日も宇治原が楽曲解説などを真面目に行い、菅ちゃんがかき回すというパターンである。

ポンキエルリの歌劇「ジョコンダ」から「時の踊り」はラストで急速な加速を行い、聴衆の興奮をあおる。原田は若いだけあって、キビキビとした指揮姿であり、体中からエネルギーがほとばしる様が見えるかのようだ。


ジョン・ウィリアムズの「シンドラーのリスト」。私もロードショー時に映画館で観た作品である。どぎついシーンもあるということで、全編モノクロームの映画となっている。
ヴァイオリン独奏の石田泰尚に、菅ちゃんが「昔、悪かったでしょう?」と聞くも、原田は、「いや、ナイスガイだと思いますよ」とフォロー(?)していた。
オリジナルはイツァーク・パールマンが、磨き上げられた厚みのある音で歌った美演であったが、石田のヴァイオリンソロはそれに比べると陰影がクッキリしており、良い意味で日本人的感性にフィットする独奏であったと思う。


ロジャース&ハマースタインⅡ世による「サウンド・オブ・ミュージック」セレクション。「サウンド・オブ・ミュージック」もヒットナンバーがずらりと並ぶ名作ミュージカル。反ナチスのプロパガンダ映画という側面があるが、そういう見方をしなくても楽しめる作品である。私は、小学校、中学校、高校で計4回、この映画を見せられている。ということで、見飽きてしまい、自分ではなかなか食指が動かない作品になってしまった。高校1年生の音楽の授業では、「サウンド・オブ・ミュージック」の1場面を演じることになり、私は、トラップ大佐の「ロルフ、君は騙されているんだ」というセリフを日本語で語り、「すべての山に登れ」を同じグループの人と英語詞で合唱した。そんな思い出が今も鮮やかに脳裏に浮かぶ。
映画は積極的に観ることはなかったが、「サウンド・オブ・ミュージック」のCDはテラークから出ていたものを買って何度も聴いている。エリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス・オーケストラによるものであった。90年代には、ジョン・ウィリアムズ指揮ボストン・ポップス・オーケストラ(こちらはボストン交響楽団の団員のうち、首席奏者を除いたメンバーで構成されており、ボストン交響楽団と同一ではない)とエリック・カンゼル指揮シンシナティ・ポップス・オーケストラが人気を二分していた。

選ばれたのは、「サウンド・オブ・ミュージック」「恋のゆくえは」「ひとりぼっちの羊飼い」「私のお気に入り」「もうすぐ17歳」「さようなら、ごきげんよう」「ド・レ・ミの歌」「エーデルワイス」「ふつうの夫婦」「誰も止められない」「マリア」「すべての山に登れ」。ちなみに「ド・レ・ミの歌」は、各国で翻訳が違い、「ミ」はという話になったところで、客席にいたちびっ子が、「me,for myself」と答えを歌っていた。
編曲者は不明だが、生き生きとした描写力の高い演奏が続く。
演奏終了後、原田はスキップしながら再登場していた。


第2部。久石譲の「千と千尋の神隠し」より「あの夏へ」。久石譲のコンサートでは作曲者自身がアンコール曲として弾くことも多い曲だが、佐竹裕介のピアノもリリカルで、京響の響きも日本のオーケストラらしい弱音の美学を体現していた。


ジョン・ウィリアムズの「ハリー・ポッターと賢者の石」から「ヘドウィグのテーマ」。映画監督からもしくは原作者からという二つの説があるが、「魔法の様な音が欲しい」と言われたジョン・ウィリアムズは、ある楽器を選ぶ。原田が客席に、「ヴァイオリンだと思う人」「ハープだと思う人」と聞いていくが、ジョン・ウィリアムズが選んだのは、チェレスタであった。結構有名な話、というより「ハリポタ」シリーズの映画を観た人は知っている情報である。原田は、チェレスタを独奏する佐竹裕介に、「魔法のような音出して」と言うも、佐竹が奏でたのは、新幹線が目的駅に近づいた時に流れるベルの旋律。その後、原田の求めで、「ヘドウィグのテーマ」の冒頭のチェレスタソロが演奏された。
菅ちゃんが、「魔法っぽいと思った人」と客席に聞くが、続いて「新幹線っぽいなあと思った人」と聞いて宇治原に突っ込まれる。

ジョン・ウィリアムズのアシスタントとして、本番でウィリアムズが指揮する際の前振りなども行っているという原田。自信と確信に溢れた音運びである。

ちなみに、スティーヴン・スピルバーグをゲストに招き、スピルバーグとウィリアムズがトークを行うイベントでも原田は指揮を担い、トークが一段落してからウィリアムズの音楽を奏でるという仕事もしたことがあるそうだ。


ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」から「インペリアル・マーチ(ダース・ベイダーのテーマ)」と「運命の決闘」。「運命の決闘」では、合唱を受け持つ京響コーラスが、最後の音で全員が右手を突き出していた。

ここで、菅ちゃんが花束を持って登場。チェロの古川真差男は、このコンサートをもって京都市交響楽団を定年退職するというので、原田から花束が贈られる。古川は、「大学時代から京都市交響楽団で演奏していた」と語る。菅ちゃんが、「どこの大学ですか?」としつこく聞くので、古川は「京都市立芸術大学」と答え、菅ちゃんが宇治原に、「どうですか? 京都市立芸術大学」と聞き、京大芸人の宇治原が「まあまあやね」と答えて菅ちゃんに頭をはたかれる。これがやりたかったらしい。
余談だが、京都市立芸術大学は、音楽学部は一部の専攻を除いてそうでもないが、美術学部は受験科目が他の美大よりも多いため、併願が難しいことで知られている。例えば東京芸術大学と京都市立芸術大学の美術学部を併願しようとなった場合、京都市立芸大の方が東京芸大より入試の試験科目が多いため、本命を京都市立芸大にして勉強しないと少なくとも両方受かるのは難しい。
とまあ、ロザンに乗って受験の話をしてみたが、正直、自分が受けるわけでもないのでどうでもよかったりする。

それよりも重要なのはサプライズがあったということで、原田と京響チェロ奏者達の提案で、古川がプリンシパルの位置で「フィンランディア」を弾くことになる。特別首席チェロ奏者であるチェロ康こと山本裕康と場所を入れ替えての演奏である。

宇治原が、「フィンランディア」が書かれた当時、フィンランドがロシアの圧政に苦しんでいたことを紹介してから演奏スタート。京響は鳴りが実に良い。京響コーラスは、日本語での歌唱(翻訳者不明)で「スオミ(フィンランドで自国と自国民を指す言葉)の平和の里」と、平和へのメッセージを歌い上げた。


アンコール演奏は、「美女と野獣」より。この曲でも京響コーラスは日本語の歌詞を歌った。
なお、今回は、原田が新しい才能にチャンスを与えるプロジェクトを手掛けているということで、山本菜摘による新編曲版での初演となる。ウインドマシーンやレインスティックといった比較的珍しい楽器を取り入れた編曲であった。山本菜摘は会場に駆けつけており、ステージ上から原田に紹介されたが、若くて可愛らしい女性で、作・編曲家らしい雰囲気は纏っておらず、驚いた。

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2022年3月30日 (水)

これまでに観た映画より(289) アッバス・キアロスタミ監督作品「友だちのうちはどこ?」

2022年3月24日 出町座にて

出町座で、アッバス・キアロスタミ監督作品の映画祭「そしてキアロスタミはつづく」より、「友だちのうちはどこ?」を観る。1987年の製作。キアロスタミの出世作となった作品である。出演は、パパク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ホダパフシャ・デファイ、イラン・オタリほか。素人を俳優に起用し、セットを使わずオールロケによる映画作りを行っている。

イラン北部の小さな村にある小学校。小学2年生のモハマッド=レザが3回も宿題の提出を怠ったため、教師は「今度やったら退学だ」と告げる。モハマッド=レザの隣の席に座る友人のアハマッドは、帰宅後、間違えてモハマッド=レザのノートも一緒に持って帰ってしまったことに気付く。ノートを返しに行こうとするが、母親は「早く宿題を済ませなさい。外出はそれから」と告げる。イラクの風習なのか、それとも地方の村だからなのか、大人の子供に対する躾が厳しい。アハマッドの祖父は、「何も悪いことをしなくても4日に1度は子供を殴るべき」と主張している。

大昔には全世界的に子供という観念は存在せず、子供という言葉はあったが、それは子供という形態よりも「未熟な大人」という状態を指しており、そのため子供であっても働く必要があった。学校制度が出来てからは子供は学校に通うようになったが、この映画でも農業や家事など、様々な仕事を子供が請け負っていることが分かる。子供に関する考え方が、現代日本とは違っている。

そんな制約だらけの中で、アハマッド少年は初の冒険を試みる。母親の目を盗んで飛び出し、モハマッド=レザの家に向かうのだ。だが、モハマッド=レザの家はなかなか見つからず、アハマッドは見知らぬ場所で様々な大人や少年と触れ合うことになる。

大事件が起こる訳ではないが、子供にとってはその人生における重要な一歩となる場面を描き出している。ペルシャ語についての巧拙は私は全く分からないが、生き生きとした表情の出演者達は、みな魅力的である。拡大されたとある子供の一日。ノスタルジアに浸るのも良いかも知れない。

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2022年3月29日 (火)

これまでに観た映画より(288) 「焼け跡クロニクル」

2022年3月22日 アップリンク京都にて

新風館の地下にあるアップリンク京都で、ドキュメンタリー映画「焼け跡クロニクル」を観る。監督・撮影・編集:原まおり、原將人。

広末涼子の映画デビュー作である「20世紀ノスタルジア」などの監督を手掛けた、京都在住の映画人である原將人。彼の自宅が、2018年7月27日に全焼するという事件が起こった時に、原將人の奥さんである原まおりがスマホのカメラで捉えた映像などを中心にドキュメンタリー映画として再構成された作品である。

原將人の自宅があったのは、広義でいうと京都の西陣。より正確な住所を書くと、北野や上七軒辺りということなる。原將人自身のナレーションによると最初に出火に気付いたのは原將人のようで、「小さな火だと思ったのですぐ鎮火出来るだろう」と予想するも、思いのほか火の回りが速く、原將人は、新作映画の映像が収められたハードディスクと、その編集用のノートパソコンを取るために、煙の中に飛び込み、顔や腕に火傷を負う。出火原因については、電気コードが古くなっていた可能性が高いことが原將人監督の口から語られているが、結果は不明ということに落ち着いたようである。
風の吹いていない日だったということで、延焼は免れたのが不幸中の幸いで、原夫妻は騒がせたことを周囲の家に謝罪に行ったが、皆、同情してくれたようである。

2018年の夏は、歴史上稀な降雨量を記録しており、気温も高かった。火傷を負ったため救急車で運ばれ、入院することになった原監督であるが、熱中症の患者が多く運ばれていたためか、翌日には退院させられてしまったようである。火傷の処置は長男が手伝ってくれた。
新作の映像は無事であったが、それまでに撮った映画のフィルムや、プライベートを収めた8ミリフィルムは駄目になってしまう。8ミリフィルムのなんとか再生可能な箇所がスクリーンにたびたび映される。家族の思い出がそこには収められていた。

原將人は、親子ほども年の離れたまおり夫人と結婚。奥さんの実家から猛反対されたそうだが、長男が生まれると態度も軟化し、一家を応援してくれるようになったという。原監督は、自身と奥さん、長男と双子の女の子の計5人家族。まおり夫人は当日、仕事に出ており、長男から電話で知らせを受けても、頭が真っ白になって、すぐには実感が生まれなかったようである。帰宅後、全員の無事を確認、とっさにスマホで撮影を行い、これが本編映像として生きることになる。その後もまおり夫人はスマホでの撮影を続行する。スマホによる録画であるが、最近のスマホは性能が良いため、商業作品に耐えるだけのクオリティを持った映像が続く。原將人監督とまおり夫人が、山田洋次、大林宣彦、大島渚等と共に撮影した写真が収められたアルバムは焼け残っていた。

家を失った一家は、公民館に身を寄せるが、数日で退去する必要があり、それまでに知人の紹介により、なんとか家財道具付きのアパートを見つけることが出来た。家が全焼するという災難に遭った一家であるが、前向きに困難を乗り越えていく様が印象的である。原監督とまおり夫人の性格を受け継いだためか、子供達が動揺せずに、淡々と現実に向き合っていることも心強い。

一方で、原將人監督の芸術家としての資質を強く感じさせる場面もある。出火を目にした時に、「火が手を繋いで踊っているように見えた」と原監督は語る。困難に遭遇した時でさえそこに美を見いだす感性。十代の頃から映像を撮り続けている原監督の映画人としての矜持と本質が垣間見える気がした。

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2022年3月28日 (月)

コンサートの記(771) 日本オペラプロジェクト2022 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」西宮公演

2022年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。木下順二の代表的戯曲を「セリフの一字一句に至るまで変更しない」という約束の下、オペラ化した作品で、日本が生んだオペラとしては最高の知名度を誇っている。今回は2013年に初演されたプロジェクトの再々演(三演)である。2013年の公演は私は観ていないが、2018年に行われた再演は目にしている。

演出は引き続き岩田達宗が担当。美術も故・島次郎のものをそのまま踏襲している。
今回の指揮者は、1989年生まれの若手、粟辻聡(あわつじ・そう)。京都市生まれで京都市少年合唱団出身。2015年に第6回ロブロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで第2位に入賞。京都市立芸術大学、グラーツ芸術大学大学院、チューリッヒ芸術大学大学院においていずれも首席を獲得して卒業している。京都市立芸術大学では広上淳一に師事。現在は奈良フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める。大阪音楽大学講師。
演奏は、大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートマスター:赤松由夏)。

つうと与ひょうはいずれもダブルキャストで、今日は老田裕子(おいた・ゆうこ。ソプラノ)と中川正崇(テノール)のコンビとなる。運ずは晴雅彦(バリトン)、惣どに松森治(バス)。少年合唱は、夙川エンジェルコール。

開演前にホワイエで、岩田さんに前回観た「夕鶴」の解釈について質問したりした。上演内容自体は、今回もほとんど変わりない(プログラムノートも同一である)。

「夕鶴」は、人間と鶴とのすれ違いを描いた悲恋と観るのが一番面白いように私は思う。
実は互いは互いにとって最高のパートナーともいえる関係にある。押しかけ女房のつう(正体は鶴)は、矢で射られて倒れていたところを与ひょうから治療を受けて、その感動から人間となって与ひょうの前に現れる。冒頭の少年合唱による童謡のシーンでメンバーの一人が弓矢遊びをしているが、当時は鶴の数も多く、天然記念物という概念もなく、あったとしてもそれには該当せず、鶴は普通に狩りの対象であった。そんな鶴に優しくしてくれた与ひょうは人間に化けたつうにも当然ながら優しい。
この与ひょうというのがかなり不思議なキャラクターであり、金銭というものにほとんど興味を示さない。示すとしてもそれはつうのためになることだけである。つうが織った千羽織が売れて、熱心に働くことを止めてしまったようだが、それは働くのが嫌になったというよりも、つうと一緒にいる時間を増やしたいからであろう。与ひょうはそれほどつうのことを愛しているのである。

千羽織も、元は与ひょうに求められて織ったのではない。つうの方から織って与ひょうに贈ったのである(民話「鶴の恩返し」とは違い、恩返しのために織った訳ではない)。つうは与ひょうに喜んで貰って嬉しい。ただ、ここはちょっと引っ掛かる。つうの正体は鶴である。「正体がばれたら捨てられる」。つうは当然ながらそう思っただろう。正体が露見する危険を冒しながら、それでも敢えて自分の身を傷つけて千羽織を作るのであるが、そうでもしない限り与ひょうに捨てられるという恐怖を抱き続けていたのではないだろうか。子供達と「かごめかごめ」の遊びをした時の必要以上の動揺を始めとして、常に別れにおびえているような印象を受ける。そうであるが故に、与ひょうのちょっとした変化に敏感になりすぎてしまったのではないか。客観的に見ると与ひょうは終始一貫しておおらかな性格であり(惣どと運ずに、「千羽織をもっと織らせるように」と言われたときも、「(出来の良い)千羽織はつうが作った」とのろけており、金銭欲はほとんど感じられない)、全てはつうの勘違いであった可能性が高い。そのままでいようと思えばいられたかも知れないのだが、怖れが逆に別れへの道を開いてしまった。

与ひょうはつうに千羽織を作るよう頼むが、それはつうと一緒に都に出掛けるためである(「つうも都に行きたいと思っているはず」だと勝手に思い込んでもいるのだが)。だが、つうはそれ以前の与ひょうの「金がいる」という内容の言葉の数々に耳をふさいでしまったため、肝心の「つうと都に行く」ためという、理由となる言葉を聞き逃してしまうという演出を岩田は施す。
ラストで同じ内容の言葉が出て、つうは与ひょうの本心を初めて知るのだが、時すでに遅しである。更には、つうの正体が鶴であったと分かっても与ひょうはそれを受け容れる気でいた。そんな男は他にはいないだろう。だがつうの体はもうボロボロ、そして当時の通念からすれば、恥を掻かされた以上は、死ぬか別れるか、あるいはその両方かしか残されていない。つうは千羽織を二反作った(岩田の解釈では千羽織は二人の「子供」であるが、見る側はそれに従っても従わなくても良いように思う)。一つは売って金にするために、もう一つは自分の形見として。二反織ったためにつうは精も根も尽き果ててしまったのだが、与ひょうはつうと別れる気はさらさらなく、形見として一反余計に織る必要は全くなかったのである。最愛のパートナーとして末永く暮らせる可能性がありながら、分かり合えなかったという悲劇が浮かび上がる。誰もが一度は経験する最愛の人から理解されないという孤独。
単なるストーリーで出来ている訳ではない戯曲とそれを説明するだけでない音楽。木下順二も團伊玖磨もやはり偉大な芸術家である。

粟辻聡の指揮に本格的に接するのは初めてであるが、ドラマティックなうねりと雄大なフォルムを築くことに長けた指揮者である。オペラにはかなり向いていそうだ。

つう役の老田裕子のハリのある声と体全体を使った巧みな心理描写、穏やかな佇まいと柔らかな声を持つ与ひょう役の中川正崇も実に良い。役にはまっている。晴雅彦と松森治の安定感も良かった。

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配信公演 パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団 フィルハーモニー・ド・パリ セカンドガラコンサート2015(文字のみ)

2015年1月17日

インターネット録画中継で、フィルハーモニー・ド・パリのセカンドガラコンサートを視聴。パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団の演奏。arteの制作。休憩時間にはパーヴォへのインタビュー映像が流れ、パーヴォはフィルハーモニー・ド・パリの内装について、「東京のサントリーホールから影響を受けた」と語る。パーヴォは指揮者としてサントリーホールのステージに上がったことがあるだけではなく、一聴衆としてサントリーホールの客席でギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団の来日演奏会を聴いたことがあると、以前語っていた。

曲目は、ボロディンの歌劇「イーゴリ公」より“ダッタン人の踊り”、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:ラン・ラン)、ベルリオーズの幻想交響曲。


ボロディンの歌劇「イーゴリ公」より“ダッタン人の踊り”。オリエンタリズムに溢れた旋律をパーヴォは瑞々しく歌い上げる。


チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。ソリストであるラン・ランは中国を代表するピアニストである。神童として有名で、幼い頃から日本のテレビでも紹介されていたが、今は立派な青年になった。ただ、情感を込める余り、弾きながら変顔をする癖があり、それを苦手とする人も多いと聞く。

今日もラン・ランは半目になったりと、顔の表情を付けすぎであるが、ピアノの表情は個性があって豊か。普通は力強く弾くところを軽く流して旋律の美しさを際立てたりする。
ただ崩して弾くだけでなく、造形は堅固で、スケールの大きさにも欠けていない。

パーヴォ指揮のパリ管弦楽団も、ラン・ランに負けじと雄大な演奏を繰り広げる。

ラン・ランは、アンコールとして、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」より1曲を弾く。叙情味溢れる演奏であった。


ベルリオーズの幻想交響曲。

2011年に京都コンサートホールで聴いたパーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団の幻想交響曲をメインとするコンサートは、私が生で聴いた演奏会の中でナンバーワンである。
あの時の幻想交響曲は視覚的演出もあって、迫力と狂気の放出が半端ではなく、パーヴォの指揮者としての才能を思い知らされたのであった。

映像であるため、当然ながら生で聴くような臨場感はないが、巧みな演奏であり、聴かせる。

パーヴォはシンシナティ交響楽団を指揮して幻想交響曲をレコーディングしており、素晴らしい出来を示しているが、そのCDも今日のインターネット中継も実演には敵わない。

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2022年3月27日 (日)

これまでに観た映画より(287) クリストス・ニク監督デビュー作品「林檎とポラロイド」

2022年3月19日 京都シネマにて

京都シネマで、ギリシャ=ポーランド=スロベニア合作映画「林檎とポラロイド」を観る。
ギリシャ出身のクリストス・ニク監督のデビュー映画である。
出演は、アリス・セルヴェタリス(男性)、ソフィア・ゲオルゴヴァシリほか。2020年の製作。ヴェネチア映画祭でのワールドプレミアを観て気に入ったケイト・ブランシェットがエグゼクティブ・プロデューサーとして参加することを申し出て、新たに名がクレジットされている。ニク監督の次回作はブランシェットのプロデュースによるハリウッド映画となることが決まっているようだ。

肝心の部分をカットしたり、医師以外のセリフは饒舌でなかったりと、表現を抑えた技法が目立つ。

とある部屋の各部分がクローズアップされた映像で映画は始まる。「ゴツン、ゴツン」という音が響き続けているが、やがてそれは主人公の男(アリス・セルヴェタリス)が、壁に頭を打ち付けている音であることが分かる。
次のシーンでは男は天井を見上げてボーッとしている。ラジオから、「記憶喪失者のための回復プログラム『新しい自分』が生み出された」というニュースが聞こえてくる。
そして男は外出。だが、バスの中で眠っている内に、自身の名前も住所も全て忘れるという記憶喪失者となってしまう。覚えているのはとにかく林檎が好きだということだけだ。
救急車で運ばれた男は、番号で呼ばれるようになり、精神科医(だと思われる)から回復プログラム「新しい自分」を行うよう告げられる。住居は新たに与えられる。

ただこの「新しい自分」、かなり滅茶苦茶な内容である。行ったことをポラロイドカメラで撮影して医師に見せるのだが、「自転車に乗ってみる」「プールの飛び込み台から飛び込む。10mなら大丈夫」「ホラー映画を観る」「車を運転してわざと木にぶつける」という、本当に意味があるのかどうか分からないものばかり。要求される内容は更にエスカレートしていく。

ホラー映画を観に行った映画館で、男は不審な動きをしている若い女性(ソフィア・ゲオルゴヴァシリ)を見掛ける。彼女も「新しい自分」の参加者であった。やがて彼女との間に新たな関係が芽生えそうになるのだが、思わせぶりな彼女の態度は、実は全て「新しい自分」の指令によるものだった。アンジャッシュの来島じゃない方を連想させる指令である。

「新しい自分」のプログラムはカセットテープに吹き込まれたものが送付され、写真もポラロイドカメラで撮ったものを直接送るという形式で、今のようにスマホで撮ってメールに添付ではない。過去の時代ではなく「記憶喪失が流行っている別世界」という設定である。

男が映画の冒頭で、「新しい自分」に関するニュースを聴いていることから、本当に記憶喪失になったケースと記憶喪失の振りをしているケースの2つの可能性が考えられるが、終盤に来て、亡くした妻を忘れるための「喪の仕事」として「新しい自分」に取り組んでいることが分かるようになっている。本当に記憶喪失になったら出来ないことをしているためである。
そして男は、「新しい自分」から降り、自宅に戻って(同じアパートメントに住む住人のことを覚えている)そこにあった林檎を囓る。おそらく林檎は妻との思い出のある食べ物なのだろう。そして「知恵の実」として知られる林檎を囓ることで、「新しい自分」に代表される社会の洗脳に立ち向かうことを決めるのだった。

正直、底は浅い気もするが、架空の社会を描くことで、洗脳が日常的となった世界の「今」を炙り出している。

この「洗脳を強いる社会」は、特定の共同体のカリカチュアではなく、世界全体を覆うものであろう。IT技術の発達により、世界は小さくなったが、同質化され、コントロールしやすいものになってしまった。この映画でははっきりとは描かれていないが、これは結構なホラー状態である。

なお、チラシのコピーは、「記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界――。それでも男は毎日リンゴを食べる」であるが、これはマルティン・ルターの言葉、「明日世界が終わるとしても、それでも私はリンゴの木を植える」が由来であると思われる。

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2022年3月26日 (土)

コンサートの記(770) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVⅢ ヨハン・シュトラウスⅡ世 喜歌劇「こうもり」@ロームシアター京都 2022.3.20

2022年3月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、ロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVⅢ ヨハンシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」を観る。

新型コロナウイルス流行のため、2020、2021と2年連続で公演中止になっていた小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト。昨年はオペラ公演が行えない代わりに宮本文昭指揮によるオーケストラコンサートが東京文化会館大ホールで行われたようだが、オペラ・プロジェクトとしては、また京都での公演は3年ぶりとなる。私は2019年の「カルメン」の公演も風邪を引いて行けなかったので、実に4年ぶりとなった。

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ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇(オペレッタ)「こうもり」は、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトのロームシアター京都メインホールでの初公演の演目となったものである。私は、ロームシアター京都で聴く初オペラを、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場の引っ越し公演となるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」にしたかったので、小澤征爾音楽塾の公演には足を運ばなかった。ウクライナ危機の影響により、ゲルギエフは西側の音楽界から弾き出される形となっており、今後日本で聴く機会があるのかどうかも不透明である。あるいは「エフゲニー・オネーギン」が最初で最後のゲルギエフ指揮によるオペラ体験となってしまうのかも知れないが、それはそれとして小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトの「こうもり」である。小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトと銘打たれているが、小澤征爾は癌の後遺症、そして高齢であるため、もう指揮台に立つことは出来ない。私が聴きに行けなかった2019年の「カルメン」でも小澤は前奏曲だけを指揮して、後は弟子であるクリスティアン・アルミンクに託しており、もう「小澤征爾の『カルメン』」とは言えない状態であった。
今回は、小澤征爾は音楽監督として教育のみに徹し、全編の指揮はディエゴ・マテウスに委ねられている。

1984年生まれの若手指揮者であるディエゴ・マテウス。ベネズエラの音楽教育制度、エル・システマの出身であり、「第二のドゥダメル」とも呼ばれる逸材である。
エル・システマではヴァイオリンを専攻し、グスターボ・ドゥダメルが組織したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(現:シモン・ボリバル交響楽団)ではコンサートマスターを務める。その後に指揮者に転向し、クラウディオ・アバドの推薦によりアバド自身が組織したモーツァルト管弦楽団の首席客演指揮者に抜擢されるなど、若い頃から頭角を現している。フェニーチェ歌劇場首席指揮者、メルボルン交響楽団の首席客演指揮者などを経て、現在は自身の音楽故郷的存在のシモン・ボリバル交響楽団の首席指揮者を務めている。2018年に、小澤征爾と交互にサイトウ・キネン・オーケストラを振り分け、これが小澤との縁になったようだ。以降、セイジ・オザワ松本フェスティバルなどにも参加している。昨年6月にヴェローナでヴェルディの歌劇「アイーダ」を成功させており、また今年7月には、ローマのカラカラ劇場でレナード・バーンスタインの「ミサ」の指揮を行う予定である。

つい最近まで、日本は外国人の入国を基本的に禁止としており、今回の公演は白人メインとなるため、公演が行われるのかどうかも定かでなかったが、なんとか外国人の入国も原則OKとなり、間に合った。

出演は、エリー・ディーン(ロザリンデ)、アドリアン・エレート(ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン)、アナ・クリスティー(アデーレ)、エリオット・マドア(ファルケ博士)、エミリー・フォンズ(オルロフスキー公爵)、ジョン・テシエ(アルフレート)、デール・トラヴィス(フランク)、ジャン=ポール・フーシェクール(ブリント博士)、栗林瑛利子(イーダ)、イッセー尾形(フロッシュ)ほか。演奏は小澤征爾音楽塾オーケストラ、合唱は小澤征爾音楽塾合唱団、バレエは東京シティ・バレエ団。
演出は今回もデイヴィッド・ニースが受け持つ。

アジア各地で行われるオーディションを勝ち抜いた若手によって結成されて来た小澤征爾音楽塾オーケストラであるが、今回はコロナ禍のためアジアでのオーディションが行えず、日本国内のオーディションによって選抜されたメンバーによる編成となった。


上演開始前に、指揮者のディエゴ・マテウスによってメッセージが伝えられる。英語によるスピーチだったため、全ての言葉を理解することは出来なかったが、京都市と姉妹都市であるキエフ市を首都とするウクライナの平和を願うという意味の言葉であったと思われる。


マテウス指揮する小澤征爾音楽塾オーケストラは序曲などでは荒削りなところがあり、楽器によって技術のばらつきがあるように感じられたが、演奏が進むにつれて音も洗練され、音楽をする喜びが伝わってくるようになる。勢い任せのように感じられるところもあるマテウスの音楽作りであるが、生命力豊かであり、この指揮者の確かな才能が確認出来る。

歌手陣も充実。ただ、ロームシアター京都メインホールは、客席の奥行きが余りないということもあって、音がどの席にも伝わりやすく、オペラの音響には最適だが、歌手によっては声が通りにくい場面があったのも確かである。おそらく単なる喉の不調だと思われるのだが。
マテウスはかなり器用な指揮者のようで、そうした場面に瞬時に対応。オーケストラの音を下げていた。

メトロポリタン歌劇場出身のデイヴィッド・ニースは、今回も豪華で色彩感豊かな舞台装置を背景に、こうした折りではあるが人海戦術なども駆使した華麗な演出を展開させる。
第2幕などは、本当に夢の世界へさまよい込んだような心地で、心が中空で躍る。
「こうもり」は即興的な演出が加えられるのが恒例であるが、今回もプッチーニの歌劇「トゥーランドット」より“誰も寝てはならぬ”がお遊び的に加わっていた。復讐される側のガブリエル・フォン・アイゼンシュタインが、モーツァルトの歌劇「魔笛」より夜の女王のアリア“復讐の心は炎と燃え”をハミングするシーンなどもあり、遊び心に溢れている。また要所要所で白人キャストに日本語を語らせるのも効果的であった。

バレエシーンの音楽にはヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と電光」を採用。日本人はどうしても体格では白人に劣るが、東京シティ・バレエ団のメンバーは迫力もまずまずで、花を添えていた。

フロッシュ役のイッセー尾形も得意とするコミカルな演技で客席の笑いを誘い、オペレッタを聴く楽しみに満ちた幸福な時間が過ぎていった。

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2022年3月25日 (金)

BSプレミアム「アナザーストーリーズ」 村上春樹『ノルウェイの森』“世界のハルキはこうして生まれた”

2022年2月1日

NHKBSプレミアム「アナザーストーリーズ」。今回は村上春樹の代表作の一つである『ノルウェイの森』の誕生秘話が紹介される。
『ノルウェイの森』は、私が2度目に読んだ村上春樹の小説である。初めて読んだ村上春樹の小説は、長編第2作目である『1973年のピンボール』で、私の生まれた前年である1973年というタイトルに惹かれて購入した。中学1年の時である。実のところ、『1973年のピンボール』は、村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』の続編であり、『1973年のピンボール』だけを読んだのでは何のことかよく分からないのである。「不思議な小説」という印象だけ持った。

『ノルウェイの森』を初めて読んだのは、高校2年生の時。かなり辛く追い詰められた青春時代を送っていた私にとって、『ノルウェイの森』は福音のような役割を果たした。「このまま生きていていいんだ」とそれまでの人生を肯定された気になったことを今も忘れることはない。特別な小説である。

その後、明治大学文学部で日本史を専攻するはずだった私は、受験の壁に弾き飛ばされ、やむなく明治大学の夜間の文学部のみに設置されていた文芸学専攻に入学した。敬愛する詩人である田村隆一の直接の後輩になれた訳だが、やはり誰よりも得意だった歴史学を生かせないのは後々痛手になるのではないかと、心が震えるような日々を過ごしていた。3年生になった時、津田洋行教授が、ゼミで村上春樹作品を取り上げることを知る。ゼミに入れるかどうかは早い者勝ちであるため、私は受付当日に事務室の前に3時間前から並び(当然ながら一番乗り)、音楽之友社から発行されていた「世界の指揮者名鑑」を読みながら待ち続けて、参加券を得た。ゼミ自体では上手くいかないこともあったが、ゼミ最後の席でなかなか良い発言が出来たため、そのままの流れで津田先生の担当により村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を卒論に選ぶことになる。自身が書いた論文の文体が気に入らなかったが(論文の文体ではなく、フィクション作品を書く時のような文章であった)、高い評価はいただけた。

そんなこんなで村上春樹は私にとって特別な作家の一人となっている。余談だが、村上春樹を卒論で取り上げなかった場合は、中島敦論を書く予定であった。そのため1年生の頃からちくま文庫の『中島敦全集』を全て読むなど準備を進めてきたのだが、3年の時に方向転換することになる。

『ノルウェイの森』は、読んだことのない人には「お洒落な小説」と映っているようである。1987年に単行本が出た時の装丁が、上巻が赤地に緑の抜き字、下巻が緑に赤の抜き字で、「クリスマスみたい」と言われていたのを記憶している。ただ私にとって『ノルウェイの森』はお洒落でもなんでもない、痛切なサーヴァイブの小説であり、巨大な世界と対峙して敗れていく若者の姿を描いたシリアスな文学だった。東京と京都が舞台となっているというのも気に入った。東京と京都への憧れを持った少年だったから。

自分がどこにいるのか分からなくなるラストは、おそらくは夏目漱石の『それから』へのオマージュであると同時に、多くの若者が体験するであろう乖離のような感覚が叩きつけられるほど鮮烈に描かれていた。『ノルウェイの森』に描かれた風景は確かに私の中にあった。まだ大学にも入っていないのだが、その存在は現実よりもありありと私の眼前にあった。東京23区内の大学に進むことで、それを追体験してみたい気持ちもあった。

そして私は、ヴィルヘルム・バックハウスのピアノ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD(ロンドン=DECCA)を買った。京都の花脊峠の向こうにあるという療養所での会話で紹介されている録音である。高校2年生の時の京都・奈良への修学旅行の帰りに、千葉そごう内にあったレコードショップで買って帰って聴いている。まだ演奏の良し悪しがさほど分からない頃だが(ただ感動だけはする)そうやってそれまでの自分とは決別した、新たな自覚を持って歩み始めた人生の後押しをしてくれたのが、『ノルウェイの森』だったような気がする。

トラン・アン・ユンが監督した映画「ノルウェイの森」を観たのは、折しも私が36歳の時。『ノルウェイの森』の冒頭で、語り手であるワタナベトオルが、今「36歳」であることを告げる場面がある。かなりの苦みを伴うシーンなのだが、ワタナベと同じ36歳で「ノルウェイの森」の映画と向き合える巡り合わせを喜んだ。

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Eテレ 「ドキュランド 『プーチン大統領と闘う女性たち』」

2022年2月25日

Eテレでドキュランド「プーチン大統領と闘う女性たち」を見る。2021年製作のイギリスのドキュメンタリー。プーチン大統領独裁下のロシアで、反プーチンのナワリヌイを支持しようとしたり、自ら立候補しようとする女性達に迫っているが、ロシアのやり方はかなり強引且つ滅茶苦茶で、立候補の完全阻止が行われている。「新型コロナウイルスを広めようとした」「新型コロナウイルスに感染した」として刑務所化している病院に閉じ込めるという政策である。「『よし、パンデミックだ、これを利用しよう』。こんなことをしている国は世界でロシアだけ」と彼女達も揃って苦笑するが、ここには民主主義も公正な選挙もなく、20世紀のソ連となんら変わりのない警察国家が続いている。

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2022年3月24日 (木)

美術回廊(74) 京都文化博物館 特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」

2022年3月9日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」を観る。

個性派の浮世絵師であり、「相馬の古内裏」など、グロテスクで大胆な構図で知られる歌川国芳と、その弟子である月岡芳年の作品を中心とした展覧会であるが、国芳から「芳」の字を授かった弟子達の作品も多く展示されている。写真撮影可である。

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今では人気のある歌川国芳であるが、「グロテスクで大胆な構図」に拒否反応を起こす人も多かったようで、一時埋もれそうになったそうである。名古屋に住む国文学者にして教師の尾崎久弥と、九州帝国大学の医学者・高木繁が国芳を高く評価しており、コレクションしていたものが再評価されるようになったのだが、高木繁の息子は名古屋大学の教授となったそうで、尾崎久弥のコレクションと共に名古屋市博物館に収められることになっている。今回展示されているのも全て名古屋市博物館の所蔵品である。


初期の歌川国芳の画風は中心を取り囲むような構図に特徴がある。酒呑童子を描いた作品が2点あるが、どちらも酒呑童子を中心に描き、頼光四天王がそれを取り囲んでいる。
また映画館のスクリーンや最近のテレビモニターのように横長の絵(3枚続)を描いているのも特徴である。

弁慶が三井寺の鐘を引きずっているところを描いた国芳の絵が2点あるが、いずれも鐘の下の部分が枠の外に出て見えないという構図で描かれており、それによって鐘の重さが増しているように感じられるという高度なテクニックが駆使されている。
また宇治川の戦いを描いたもの2点は、いずれも水流の描き方が巧みで、動く様が容易に想像出来る。動かない動画ともいうべき浮世絵の真骨頂である。

源三位頼政が鵺(ぬえ)を退治する様子を描いたものが3点あるが、うち1点は頼光が矢を放った直後の絵であり、鵺は描かれていない。頼光の目は鵺のいる方角ではなく、こちらを見つめている。今でいうカメラ目線であるが、意図は不明で不思議な感じもする。メッセージ性があるわけではおそらくない。

国芳に反体制的なところがあったのは確かなようで、暗愚と定評のある徳川家定を揶揄したと思われる絵なども展示されている。流石にこれは公儀にも分かったようで、尋問を受けたりもしたそうだ。

国芳の弟子である歌川芳虎も、徳川幕府への反発からだと思われるが、「道外武者 御代の若餅」で、「織田が撞き羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに喰うは徳川」という落首を元にした絵を描いている。別の川柳が書かれながら、羽柴秀吉の顔が猿になっているところに風刺が効いているが、それだけにすぐに意図が見透かされたようで、この絵は即日発禁処分となり、芳虎も手鎖50日の刑に処されたそうである。

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猟奇的な絵画を集めているのもこの展覧会の特徴で、その手の絵は1カ所に集められ、そうしたものが苦手な人は見ないで通過出来るようになっている。歌舞伎を題材にしたものが多いが、血が飛び散って、首が飛んで、というさながらスプラッターホラーである。
このコーナーの少し手前に有名な「相馬の古内裏」が展示されている。

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続くは人物画のコーナー。何かをしながら物思いに耽っている美人画が多く、静止の中に躍動があるのが特徴となっている。

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2022年3月23日 (水)

コンサートの記(769) アンサンブル九条山コンサート Vol.10「標-SIGNE」

2022年3月11日 京都府立府民ホールアルティ(ALTI)にて

午後7時から京都府立府民ホールアルティで、アンサンブル九条山コンサート Vol.10「標(しるし)-SIGNE」を聴く。全曲、2010年代に書かれた邦人作品で編まれたプログラム。

曲目は、馬場法子の「カノンではない変奏曲」(2011)、網盛将平(あみもり・しょうへい)の「Practice of chimeric movement on static syntax」(2015)、前川泉の「レンブラントとして笑う自画像」(2019。アンサンブル九条山公募選出作品)、西村朗の「氷蜜(ひみつ)」(2019)、坂田直樹の「カンデラ」(2019。世界初演)、坂田直樹の「黒曜石の波」(2019。アンサンブル九条山、アンサンブル・エクート共同委嘱作品。日本初演)。

作曲者3名が会場に駆けつけており、舞台転換の合間にトークのコーナーが設けられ、パーカッションの畑中明香(はたなか・あすか)が馬場法子に、ヴァイオリンの石上真由子が前川泉(女性)に、ソプラノの太田真紀が坂田直樹にインタビューを行った。
馬場と坂田はパリ在住。前川は現在、東京藝術大学大学院修士課程に在学中である。


古典派やロマン派の時代を経ずに、素朴な作曲が行われていた時期に続いてほぼ現代音楽から西洋音楽作曲法の受容が行われた日本。他の東アジアの国に先駆けて西洋文化を取り入れているとはいえ、音楽史がいびつになるのはどうしても避けられない。今日聴いた曲も、いずれも面白いところはあったが、後世まで生き残る作品なのかどうかは正直良く分からない。良く分かったら、私も音楽史上に名を残せるわけだが、そんな才能があったら千年に一人の天才である。


馬場法子の「カノンではない変奏曲」。編成は、フルート(若林かをり)、クラリネット(上田希)、ヴァイオリン(石上真由子)、チェロ(福富祥子)。指揮を佐渡裕の弟子で大阪教育大学の教員でもあるヤニック・パジェが務める。

意図的に息漏れをする管楽器がおもちゃの楽器のような愛らしい音色を出してスタート。ヴァイオリンとチェロがうねり、やがてチェロが寄せては引く波のような音型を奏で始める(指揮者の影になっていたので見えなかったが、弦に洗濯ばさみを挟むという特殊奏法を行っていたようだ)。ラストはヴァイオリンが弓ではなく青い棒のようなもので弦を擦るという特殊奏法を行っていた。


網守将平の「Practice of chimeric movement on static syntax」。出演は、太田真紀(ソプラノ)と森本ゆり(ピアノ)。

太田真紀と森本ゆりがピアノの連弾をしながらセリフを喋るというスタイルで開始。英語そして日本語が語られ、旋律へと変わっていく。ポピュラー音楽ならピアノの弾き語りはごくごく当たり前だが、クラシックでピアニストが語ったり歌ったりすることはまずないので珍しい(以前、同じアルティで児玉桃が語りながらピアノを弾いていたことはある)。
その後、太田真紀が後方へと移り、客席に背中を向けながらうなったり語ったりを行い、最後は少し上手寄りに移動して客席に横顔を見せながら叫んだりしていた。


前川泉の「レンブラントとして笑う自画像」。古代ギリシャの伝説的画家であるゼウクシスが、醜い老婆から「自分を女神として描いて欲しい」と頼まれ、仕事を開始するも余りの滑稽さに笑い転げ、息を詰まらせて死んだ、という話を題材にした作品をレンブラントが描いており、それを音楽として再現するという試み。編成は、バス・フルート(若林かをり)、バス・クラリネット(上田希)、チェロ(福富祥子)。石上真由子が行ったインタビューによると、前川は自身が習っていたのはヴァイオリンであるが、なぜか低音楽器が好きで、このような特殊な編成になったという。

各楽器が震えるような音を出す中、奏者達が実際に笑い声を上げていく。その後、楽器の旋律も笑いを模したようなものに近づいていく。


西村朗の「氷蜜(ひみつ)」。若林かをりによるフルート独奏作品である。いかにもフルート独奏のための現代曲といった特殊奏法満載の曲であるが、弱音で彼方から祭り囃子のような旋律が吹かれるのが印象的。今日聴いた作品の中ではこの瞬間が一番魅力的に聞こえた。


京都市出身で、今年41歳の若手作曲家、坂田直樹による「カンデラ」。上田希によるクラリネット独奏作品で、坂田は上田が演奏することを念頭に置いて作曲。上田が高い技術を持っているということで、より難度の高い楽曲となったようだ。
クラリネットの音をキャンドルの明滅に例えたもののようで、中盤に表れる重音奏法が光と影の重奏のようで印象的である。


最後の曲となる坂田直樹の「黒曜石の波」。坂田が大分県の姫島で見た黒曜石の輝きを音の波や潮騒に見立てた作品である。編成は、フルート(若林かをり)、クラリネット(上田希)、ヴァイオリン(石上真由子)、チェロ(福富祥子)、ピアノ(森本ゆり)、打楽器(畑中明香)。ヤニック・パジェの指揮による演奏。
3つの楽章からなるが、この曲はイメージがしやすかった。特にピアノの低音と鉄琴の煌めきが描写的で受け取りやすい。現代音楽の聴き方として、耳で聴くというよりは音を頼りに想像を楽しんだ方が理解しやすいということが上げられると思うが、この曲はまさに想像力で聴く作品であった。

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2022年3月21日 (月)

配信公演 パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団 フィルハーモニー・ド・パリ オープニングプレミアムガラコンサート2015(文字のみ)

2015年1月15日

フランス・パリに出来上がった初の本格的コンサートホール、フィルハーモニー・ド・パリのオープニングプレミアムガラコンサートをインターネットで視聴。arteの制作である。パーヴォ・ヤルヴィ指揮パリ管弦楽団の演奏。

パリとロンドンには本格的なコンサートホールがなく、「ロンドンとパリには一流のオーケストラはあっても一流のコンサートホールはない」と言われ続けてきたが、パリ管弦楽団の音楽監督に就任したパーヴォ・ヤルヴィが「今のままでは駄目だ」ということで、新たな本拠地とするための音響設計のきちんとなされたホールを作るよう進言。パリ管弦楽団の評価を高めたパーヴォの発言力は大きく、すぐさま実行に移されることになった。一方で、パリ管弦楽団がこれまで本拠地としてきたサル・プレイエルは歴史があり、パリの都心に近いとして(一応、パーヴォがパリ管弦楽団の音楽監督に就任した際に内部改修工事が行われている)新ホールへの本拠地移転に反対する意見もあるようだ。

フィルハーモニー・ド・パリのオープニングにパーヴォが選んだのはオール・フランス・プログラム。エドガー・ヴァレーズの「チューニング・アップ」、アンリ・デュティユーの「ひとつの和音の上で」(ヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏:ルノー・キャピュソン)、フォーレの「レクイエム」、ラヴェルのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:エレーヌ・グリモー)、ティエリー・エスケシュ(Thierry ESCAICH)の管弦楽のための協奏曲(世界初演)、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲。

通常の定期演奏会の倍近い時間を要する特別コンサートである。

マイクを通してだが、音響の良さが伝わってくる。映像で見る限り、内装はベルリン・フィルハーモニーに似ており、左右非対称なのも特徴である。


ヴァレーズの作風はそれほど易しいものではないが、「チューニング・アップ」は冗談音楽のような作品であり、楽しい。デュティユーの「ひとつの和音の上で」はクリスティアン・テツラフのヴァイオリンとパーヴォ指揮パリ管のCDが発売されたばかりだが、音だけで聴くより、演奏している風景が伴った方がわかりやすいような気がする。

フォーレの「レクイエム」は、パーヴォとパリ管はすでにCDと映像(Blu-rayとDVD)をリリースしているが、今回の演奏でも好演を示している。


ラヴェルのピアノ協奏曲。フランスを代表する天才ピアニストにして変人美人のエレーヌ・グリモーのピアノ。
チャーミングにしてリズミカルな演奏をグリモーは展開。パーヴォ指揮パリ管の伴奏も粋だ。

アンコールとしてグリモーとパーヴォ、パリ管は、ラヴェルのピアノ協奏曲の第3楽章を再度演奏した。


ティエリー・エスケシュの管弦楽のための協奏曲(オーケストラのための協奏曲)。
ティエリー・エスケシュはフランスの現役の作曲家兼オルガニスト。才気溢れる作風で知られているようだ。
今回が世界初演となる管弦楽のための協奏曲も分かり易い音楽ではないかも知れないが響きは美しい。


ラストの曲目となるラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲。繊細さ、緻密さ、熱狂の度合い、どれを取ってもお手本となるような高水準の出来。フィルハーモニー・ド・パリのオープニングプレミアムガラコンサートは大成功とみて良いだろう。

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2022年3月20日 (日)

柳月堂にて(3) ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団 ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)ほか

2022年3月2日

出町柳の名曲喫茶・柳月堂で、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏によるムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)を聴く。

ラストが「キエフの大門」という曲で終わる「展覧会の絵」。ロシアがウクライナに侵攻している最中であり、他の誰かがリクエストしているかどうか気になったので、他に客はいなかったということもあり、リクエストノートを少し振り返って見たのだが、リクエストしている人はいないようであった。

史上最も完璧なアンサンブルの一つとして知られるジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団。今もアメリカのビッグ5(ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団)というSクラスの楽団の1つとして知られている。

楽曲の隅々にまで光を当てたような明確にして明晰な演奏であり、取りようによっては影に乏しいのがマイナスとなるが、ラヴェル寄りのオーケストレーションの煌めきを味わう演奏として、今も高い評価を受けそうである。

ビッグ5の最盛期のコンビを上げていくと、ニューヨーク・フィルハーモニックはレナード・バーンスタイン、ボストン交響楽団はセルゲイ・クーセヴィツキー、シカゴ交響楽団はゲオルグ・ショルティ、フィラデルフィア管弦楽団はユージン・オーマンディ、クリーヴランド管弦楽団はジョージ・セルとなるだろう。いずれも20世紀のコンビであるが、当時と今とでは指揮者と楽団の関係が異なるため、今後もこれらの時代を上回るコンビは出て来ないかも知れない。

ラファエル・クーベリック指揮シカゴ交響楽団によるスメタナの「モルダウ」を経た後で、次の人がリクエストしたユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏によるドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」が流れる。この演奏は人気で、以前にも1回聴いたことがある。
今でこそ大人気というわけではないユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏であるが、往時はレナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニックの演奏よりも人気で、ジョージ・セルとクリーヴランド管はそのあおりを食って、バーンスタインやオーマンディが録音していたCBSではなく、その傘下のエピックレーベルとしか契約出来なかった。エピックの録音技術はCBSよりも劣り、そのため最晩年にEMIに移籍したセルは、EMIの音質に満足していたという。

ユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団による「新世界」であるが、万人向けの仕上がりである。超名演ではないかも知れないが、この演奏に物足りなさを感じる人は余りいないだろう。

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2022年3月19日 (土)

コンサートの記(768) 広上淳一指揮京都市交響楽団第665回定期演奏会 広上淳一退任コンサート

2022年3月13日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第665回定期演奏会を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。広上淳一の常任指揮者兼芸術顧問の退任公演となる。

曲目は、マーラーの交響曲第3番が予定されていたが、出演予定であった京都市少年合唱団のメンバーにコロナ陽性者が出たため少年合唱の練習が出来なくなり、曲目変更となった。

新たなる曲目は、尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「甃(いし)のうへ」(詩:三好達治)と「子守唄」(詩:立原道造。2曲とも合唱は京響コーラス)、マーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子)、マーラーの交響曲第1番「巨人」


プレトークでは広上と門川大作京都市長が登場し、門川市長から広上に花束の贈呈があった。門川市長が退場した後は、音楽評論家で広上の友人である奥田佳道と、京都市交響楽団演奏事業部長の川本伸治、そして広上の3人でトークは進む。90年代だったか、広上が指揮したマーラーの「復活」について書いた演奏批評を後に広上が絶賛するということがあったが、その批評の書き手が奥田だったような気がする。かなり昔のことなので、正確には覚えていない。奥田は当初は客席で聴くだけの予定だったようだが、広上から「プレトークに出てよ」と言われたため、東京からの新幹線を早いものに変えて京都に来たそうである。
奥田は、広上と京響について、「日本音楽史に残るコンビ」と語り、サントリー音楽賞という通常は、個人か団体に贈られる賞を、「広上淳一と京都市交響楽団」というコンビでの異例の受賞となったことなどを紹介する。「ラジオで話すよりも緊張する」そうだが、音楽評論家というのは基本的には人前に出ない仕事なので、当然ながら聴衆を前に話すことには慣れていないようである。

川本は新日本フィルハーモニー交響楽団からの転身であるが、その前はボストン交響楽団と仕事をしていたそうで、「ヨーロッパテイストの響き」や「前半と後半で管楽器奏者が変わる」ことなどが京響とボストン響の共通点だと語っていた。

広上が京響を離れることについては、広上自身が「今生のお別れではありません」「また遊びに来ます」と語る。

曲目変更についてだが、前半の曲目については、「キザな言い方になりますが、我々の絆の温かで一番しっとりとした部分」が感じられるようになったのではないかと広上は述べる。

今日も尾高惇忠の作品が1曲目に演奏されるが、広上は最近、プロフィールの変更を行い、まず最初に尾高惇忠に師事したことを記すようにしたようである。湘南学園高校音楽科時代に尾高に師事しており、最初のレッスンで広上が弾いたのモーツァルトのソナタの印象を尾高が「バリバリに上手い訳じゃないけど、この年でこれほど味のあるピアノを弾く奴はそうそういないと感じた」と奥田に語ったことが紹介される。ただ広上によると続きがあったそうで、「でも来週も聴きたいとは思わない」というものだったそうである。
尾高惇忠の女声コーラス曲「春の岬に来て」は、元々はピアノ伴奏の曲だったようだが、「オーケストラ伴奏の曲にしたら面白いんじゃない」と進言したのが広上であることも奥田から紹介された。

また、ヨーロッパで通用する唯一の日本人声楽家といっていい、藤村実穂子が今回の京都市交響楽団の定期演奏会に出演するためだけにドイツから帰国したことが奥田によって語られる。


今日のコンサートマスターは、「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。
ドイツ式の現代配置での演奏だが、ピアノやチェレスタが舞台下手に来るため、ハープは舞台上手側に置かれている。


尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「甃のうへ」と「子守唄」。女声合唱はポディウムに陣取り、左右1席空け、前後1列空けでの配置となって、マスクをしたまま歌う。
叙情的で分かりやすい歌曲であるが、入りが難しそうな上に、技術的にも高度なものが要求されているようである。


藤村実穂子の独唱による、マーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲。
藤村の深みと渋みを兼ね備えた歌声による表現が見事である。ノンシュガーのコーヒーの豆そのものの旨味を味わうような心地に例えれば良いだろうか。広上指揮の京響も巧みな伴奏で、第4曲「真夜中に」の金管の鮮やかさ、第5曲「私はこの世から姿を消した」における弦の不気味な不協和音など、マーラーならではの音楽を巧みに奏でる。


マーラーの交響曲第1番「巨人」。マーラーの青春の歌である「巨人」だが、冒頭の弦の響きから明るめで、第1楽章では強奏の部分でも爽やかな風が吹き抜けるような見通しの良さなど、濃密系が多い他の「巨人」とは異なる演奏となっていた。

広上の指揮はいつもよりオーバーアクションであり、縦の線がずれたところもあったが、生命力豊かな音楽作りとなる。
低弦や打楽器の威力と金管の輝きという京響の長所が引き出されており、「これが常任指揮者としては最後」とは思えないほどのフレッシュな演奏となっていた。

1956年創設の京都市交響楽団であるが、これからのことを思えばまだまだ青春期である。未来に向かって歩み出すような軽やかさと半世紀以上の歴史が生む濃密が上手く掛け合わされていたように思う。


演奏終了後に広上はマイクを手にして再登場し、スピーチを行う。京都市交響楽団の潜在能力に高さに気付いたのは自分(「不肖、私であります」と発言)であるが、それを伸ばすにはどうしたらいいか、急いでも駄目出し、そのままだと変わらないと思いつつやっていたら急に良くなったことなども述べたが、国内に二つ三つ優れたオーケストラがあるだけでは駄目で、ヨーロッパの名門オーケストラを上げながら、日本各地のオーケストラを個性ある団体に育てる必要を感じていることなどが語られた。

今月一杯で対談する廣瀬加世子(第1ヴァイオリン)と古川真差男(チェロ)への花束贈呈、広上に肖像画が贈られるという話(京都市立芸術大学学長である赤松玉女の推薦により、同大学及び大学院出身の城愛音によってこれから描かれる予定である)があった後で、アンコール曲として尾高惇忠の「春の岬に来て」から「子守唄」がもう一度演奏された。

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2022年3月18日 (金)

コンサートの記(767) 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー 舞台神聖祝典劇「パルジファル」

2022年3月6日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後1時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」を観る。ワーグナー最後の舞台音楽作品となっており、ワーグナー自身はバイロイト祝祭劇場以外での上演を認めなかった。

中世ドイツ詩人のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩「パルチヴァール」が現代語訳(当時)が出版されたのが1842年。ワーグナーはその3年後にこの本を手に入れているが、これを原作とした舞台神聖祝典劇という仰々しい名のオペラ作品として完成させるのは、1882年。40年近い歳月が流れている。

セミ・ステージ形式での演奏。指揮は沼尻竜典、演奏は京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)。演出は伊香修吾。出演は、青山貴(アムフォルタス)、妻屋秀和(ティトゥレル)、斉木建詞(グルネマンツ)、福井敬(パルジファル)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、西村悟、的場正剛(ともに聖杯の騎士)、森季子(第1の小姓)、八木寿子(第2の小姓、アルトの声)、谷口耕平(第3の小姓)、古屋彰久(第4の小姓)、岩川亮子、佐藤路子、山際きみ佳、黒澤明子、谷村由美子、船越亜弥(以上、クリングゾルの魔法の乙女たち)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。合唱はマスクを付けての歌唱である。

ステージ前方に白色のエプロンステージが設けられており、同じ色の椅子が並んでいる。出演者達はここで歌い、演技する。客席の1列目と2列目に客は入れておらず、プロンプターボックスの他にモニターが数台並んでいて、これで指揮を確認しながら歌うことになる。
ステージ後方には階段状の二重舞台が設けられており、短冊状の白色の壁が何本も立っていて、ここに映像などが投影される。
小道具は一切使用されず、槍なども背後の短冊状の壁に映像として映し出される。

びわ湖ホールで何度も印象的な演出を行っている伊香修吾だが、セミ・ステージ形式での上演ということで思い切った演出は出来なかったようで、複雑な工夫はしていない。


「パルジファル」に先だって、ワーグナーは当時傾倒していた仏教と輪廻転生をテーマにした「勝利者たち」という楽劇を書く予定であった。実現はしなかったが、「勝利者たち」のヒロインがその後に、「パルジファル」のクンドリの原型となっている。


ワーグナー最後のオペラとなった「パルジファル」であるが、何とも謎めいた作品となっている。聖杯伝説が基になっており、キリストが亡くなった時にその血を受けた聖杯と十字架上のキリストを刺したといわれる聖槍(「エヴァンゲリオン」シリーズでお馴染みのロンギヌスの槍である)が重要なモチーフとなっている。モンサルヴァートの城の王であるアムフォルタスは、キリストをなぞったような性質の人物であり、聖槍を受けて、その傷が治らないという状態は、危殆に瀕したキリスト教という当時の世相が反映されている。
中世には絶対的な権威を誇ったキリスト教であるが、19世紀も末になると無神論が台頭するなど、キリスト教の権威は失墜の一途を辿っていた。

「アムフォルタスの傷を治す」と予言された「苦しみを共に出来る聖なる愚か者」に当たる人物がパルジファルである。モンサルヴァートの森で白鳥を射落として取り押さえられた男こそパルジファルであるが、彼は自分の名前も、出自も何一つ知らないという奇妙な人物である。白鳥が神の化身であることは「ローエングリン」で描かれているが、パルジファルは特に理由もなく白鳥を射落としている。

「これこそ救済を行う聖なる愚か者なのではないか」と思い当たった騎士長のグルネマンツは、パルジファルに聖杯の儀式を見せる。だがパルジファルは儀式の意味を理解出来ず、グルネマンツによって城から追い出される。

モンサルヴァートの城にはクンドリという不思議な女性がいる。最初は聖槍によって傷つけられたアムフォルタスのために薬を手に入れたりしているのだが、クンドリにはもう一つの顔があり、第2幕では魔術師のクリングゾルに仕えてモンサルヴァートの騎士達の破滅を狙う魔女として登場する。クリングゾルも元々は騎士団に入ることを希望する青年だったのだが、先王ティトゥレルに拒絶され、妖術使いへと身を堕としていた。ただ妖術の力は確かなようであり、魔の園に迷い込んだパルジファルの正体を最初から見抜いている。第2幕ではクリングゾルに命じられたクンドリがパルジファルに言い寄って破滅させようとするのだが、逆にパルジファルは覚醒してしまい、アムフォルタスに共苦する。パルジファルはクリングゾルが放った聖槍を奪い、魔の園を後にする。
そして長くさすらった後で、モンサルヴァート城に戻り、救済者となる。最後の歌は、合唱によるもので「救済者に救済を!」という意味の言葉で終わる。


かなり複雑で不可解な進行を見せる劇であり、最後に歌われる「救済者」というのがイエス・キリストなのかパルジファルなのかもはっきり分かるようには書かれておらず、様々な説がある。

分かるのは、旧来のキリスト教に代わり、あるいはキリスト教を補助する形で新たなる信仰が生まれるということである。少なくとも誰もが疑いを持たずにキリストを信仰出来る時代は終わっている。新たなる何かが必要で、それを象徴するのがパルジファルである。最初は無垢で無知だったのに、突如目覚めて賢人となり、キリストの後を継ぐもの。それは何か。おそらく「音楽」が無関係ということはないだろう。この時代、音楽はすで文学や政治と絡むようになっており、ただの音楽ではなくなっている。
新たなる信仰の誕生、そこに音楽や芸術が関わってくるというのは、決して突飛な発想ではないように思う。
クンドリの原型が仏教を題材にしているということで、仏教がキリスト教を補完するという、おそらく正統的な形についても考えてみる。四門出遊前のゴータマ・シッダールタは、シャカ族の王子として何も知らぬよう育てられた。父王が聖者から「出家したらブッダになる」と預言され、国のことを考えた場合、王ではなくブッダになると困るので、世間を知らせぬようにとの措置だった。だが、四門出遊(ゴータマが王城の4つの門から出て、この世の現実を知るという出来事)により「生病老死」の「四苦」を知り、出家。「抜苦与楽(慈悲)」へと行き着く。そうしたゴータマからブッダになる過程をパルジファルが担い、イエスの化身ともいうべきアムフォルタスの苦を除く。ストーリーとしてはあり得なくもないが、木に竹を接ぐ感は否めない。当時のヨーロッパにおける仏教理解はかなりの誤解を含んでいたと思われる。


沼尻の音楽作りは、いつもながらのシャープでキレのあるもので、スケールをいたずらに拡げず、細部まで神経を通わせている。おどろおどろしさは余りないが、その方が彼らしい。

京都市交響楽団も音色に華があり、威力も十分であった。沸き続ける泉のように音に生命力がある。

歌手達も充実。動き自体は余り多くなかったが、その分、声の表情が豊かであり、神秘的なこの劇の雰囲気を的確に表現していた。

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これまでに観た映画より(286) アッバス・キアロスタミ監督作品「風が吹くまま」

2022年3月10日 京都みなみ会館にて

東寺のそばの京都みなみ会館で、アッバス・キアロスタミ監督作品の映画祭「そしてキアロスタミはつづく」より、「風が吹くまま」を観る。1999年の作品、イラン=フランス合作映画。出演:ベーザード・ドーラニー、ファザード・ソラビほか。原案:マハムード・アイェディン。

テヘランのテレビ局のディレクターであるベーザード(ベーザード・ドーラニー)らのクルーがクルド系の小さな村を訪れる。その村では独特の葬儀を行う風習があるため、収録するためにはるばるやって来たのだった。その村に住む老婆が今日明日にも他界するという情報を得ていた。村の入り口の近くで、一行はファザード(ファザード・ソラビ)という少年と出会う(俳優の名前と役名が一緒だが、完全なフィクションの作品であり、本人役で登場している訳ではない)。ファザードは一行を村へと案内する。丘の斜面に家屋が連なるという独特の外見を持つ村であった。

テレビ局の一行は老婆の他界を待つのだが、意に反して、老婆はなかなか死なない。

村では携帯電話の電波が繋がりにくい。ベーザードの携帯の着信音は鳴るのだが、会話がほとんど出来ないため、ベーザードは車を運転して高台の墓地まで出掛けることになる。ここでは電波が上手く繋がる。電話の向こう側の声は聞こえないが、上司から矢の催促が来ていることが察せられる。
高台の墓地で穴を掘り続ける男が一人(地下にいるので最後まで姿は見えない)。墓掘り人ではなく井戸を掘っているようだ。ベーザードは男から大腿骨と思われる骨をプレゼントされたりする。ベーザードは携帯で話すために何度も高台の墓地を訪れることになり、そこで陸亀やスカラベ(フンコロガシ)の姿を目にする。

意図的にステーリー性を排して、ベーザードとファザードを中心とした村の人々とのやり取りが描かれる。ドラマティックな出来事は終盤まで起きない。ということで途中で退屈してしまう人もいるかも知れない。

ただ、人が死ぬのを待っているという奇妙にして滑稽な状態にベーザードが次第に気付き始め、老人の無村医とバイクに二人乗りして会話しているうちに、ベーザードの視線は死から生へと転換していく。イラクの大地の美しさが、生きることの素晴らしさ、この世界への肯定へとベーザードの意識を静かに転換させていく様が押しつけがましくなく描かれており、好感の持てる一作になっている。

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2022年3月16日 (水)

観劇感想精選(432) 野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』@びわ湖ホール2022春

2022年3月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後5時から、びわ湖ホール中ホールで、野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』を観る。「名取川」は、先日、茂山千五郎家の公演で観たばかりなので、比較が出来る。

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まず高野和憲による解説がある。「カラスと雀が親子という話があります。カラスが『コカー、コカー』と鳴き、雀が『チチ、チチ』と応える。これで笑えないと狂言では笑えません」といった話から、狂言における約束事、更に「名取川」と「止動方角」の内容の紹介を行い、「伝統芸能なので、パンフレットに書かれていること以外は起こりません」と語る。「止動方角」には馬が登場し、歌舞伎と違って一人で演じる必要があるのだが、無理な姿勢を続ける必要があり、更に「止動方角」の上演時間は一般的な狂言の演目よりかなり長く、40分ほどあるため、かなり大変だという話もしていた。
最後に高野は、「今苦しい思いをなさっている方もいらっしゃるかも知れません。今日、狂言を観ても何も変わりません。ただ、狂言に出てくる人は失敗ばかりする。それでもたくましく生きている」ということがメッセージになれば、という意味の話で締めた。


「名取川」。出演は、野村万作(僧)、内藤連(名取の何某)。地謡:野村萬斎、高野和憲、野村裕基。後見:石田幸雄。地謡が3人いるのが、茂山千五郎家(大蔵流)と和泉流の違いである。

大蔵流では、シテの僧が自己紹介をする前に謡と舞を行っていたが、和泉流ではそれはない。
遠国(名取川という地名から奥州出身であることが分かる)出身の僧が、受戒をしないと正式な僧侶と認められないというので、比叡山まで出て、戒を授かった。その後、ある寺の大稚児と小稚児から僧としての名前を付けて貰うことにする。僧は大稚児から「希代坊」、小稚児から替え名である「不肖坊」という名を授かる。大蔵流では名の意味が説明されるのだが、和泉流ではそれはない。僧は記憶力が悪いため、大稚児と小稚児に頼んで、名を袖に墨で書き付けて貰った。それでも思い出せないと困るというので、様々な節を付けて謡いながら進む。そうしている内に、現在の宮城県名取市と仙台市の間を流れる名取川という川に差し掛かった僧は、「水かさが増して濁っているが、徒歩で渡れる」と見て、そのまま川へと入るのだが、中央付近は思いのほか深く、水に飲まれてしまう。流されたものはないかと確認し、ものは紛失していないことが分かって一安心の僧であったが、袖に書き付けて貰った僧侶としての名は流れてしまっていた。僧は、「まだ掬えるかも知れない」となぜか思い、笠で名を掬おうとする。これで地謡が「川づくし」の謡を行い、僧が舞う。野村万作は今年で91歳。流石にキレは失せたが、年齢を考えると驚異的に体が動く。

そこに名取の何某が現れ、「名は掬えず雑魚ばかり」とこぼしている僧を、「殺生を行っている」と勘違いして詰め寄る。訳の分からぬことを述べる僧に、名取の何某は、「希代」「不肖」の独り言を述べて、僧が名を思い出すという趣向である。


「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村裕基(主)、石田幸雄(伯父)、飯田豪(馬)。後見は内藤連。

京の東山で茶くらべがあるというので、主が太郎冠者に、「伯父のところへ行って、極上の茶と太刀、それに馬を借りてこい」と命じる。主の家にも茶はあるのだが、「まだ封を切っていない」という謎の理由で借りてこいと命じる、ということでかなりの吝嗇家であることが分かる。一人で借りてこいという命令に、野村萬斎演じる太郎冠者は例によって言い方にアレンジを加え、不承不承であることや主に呆れていることを表す。

上手いこと伯父から茶、太刀、馬を借りることに成功した太郎冠者であるが、伯父から、「この馬は後ろで咳をすると暴れ出す」というので、馬を鎮めるための「寂蓮童子、六万菩薩、鎮まり給え、止動方角」という呪文を授かる。

大成功ということで、意気揚々と戻ってきた太郎冠者であるが、主に「遅い!」と叱責され……。

主を馬に乗せ、わざと背後で咳をして落としたり、立場を入れ替えることになったり(主が太郎冠者になり、太郎冠者が主という設定で進める)という太郎冠者のいたずらが見所。無理無体を言う主に対する復讐劇であるが、太郎冠者も意地が悪そうなのがリアルである。

王子系のルックスである野村裕基、立ち振る舞いも凜々しく、メディアへの露出が増えるにつれて狂言界のアイドルとなりそうな予感がある。

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2022年3月15日 (火)

観劇感想精選(431) 第265回「市民狂言会」

2022年3月4日 京都観世会館にて

午後7時から、京都観世会館で、第265回「市民狂言会」を観る。

演目は、「名取川」(出演:茂山千之丞、丸石やすし)、「真奪(しんばい)」(出演:茂山逸平、茂山七五三、茂山宗彦)、小舞「泰山府君」(茂山忠三郎)、「三人夫(さんにんぷ)」(茂山あきら)、「放下僧(ほうかそう)」(茂山茂)、「朝比奈」(出演:茂山千五郎、鈴木実)


「名取川」。現在の宮城県仙台市と名取市を流れる名取川。この川の名に着想を得たと思われる作品である。
シテの出家(茂山千之丞)は、自己紹介をする前に戒壇に関する謡と舞を行う。
陸奥国出身の出家は、これまで私度僧であったが、比叡山に登って戒壇院で戒を授かり、公認の僧となる。陸奥への帰り道、二人の稚児とのやり取りで、「希代坊」という正式な名と「不承坊」という替えの名を名乗ることになった出家であるが、記憶力が人並み外れて悪いことを自覚しているため、衣の袖に二つの名を書き付けて貰った上で、その名を口ずさみながらみちのくへと向かう。途中、名取川という大きな川に出会った出家であるが、「浅い」と見て徒歩での渡河を決意。しかし水深が思いのほかあり、結局ずぶ濡れ。袖に書いた僧侶としての名も消えてしまう。
そこに通りかかった名取の某(丸石やすし)。出家は、「名を奪ったのはこの男だ」と勝手に決めつけ、名取の某を組み伏せるのだが……。

やり取りをしている内に名前を思い出すという趣向であり、最後はほのぼのと終わる。


「真奪(しんばい)」。生花の中心になる花のことを「真」というそうである。
室町時代も中期となり、太平の世となったことを喜ぶ主人(茂山七五三)は、立花(生花)に凝っているのだが、「真」となる良い花がないので、太郎冠者(茂山逸平)と共に東山まで探しに出掛ける。途中、菊の真を持った男(茂山宗彦。「もとひこ」と読む)と出会った二人。太郎冠者がこの菊の真を奪うことに成功するのだが、逆に持っていた太刀を男に奪われてしまう。それに気付かず、主人に真を渡す太郎冠者であったが、主人から太刀を持っていないことを指摘される。
男が真を届けに行く途中と話していたことから、「同じ道を戻ってくる」と考えた太郎冠者は、主人と共に隠れて待つ。果たして男が戻ってきた。主人が男を後ろから捕まえ、太郎冠者に縄を持ってくるよう命じるのだが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄をなう(泥縄)」のことわざ通りのことを始めてしまい……。

以降は、今年の1月にサンケイホールブリーゼで観た野村萬斎、万作、裕基の「成上がり」と同じ展開となる。違うのは、男が太刀を使って太郎冠者を転がすことと、太郎冠者の物わかりが異様に悪いということである。


小舞「泰山府君」、「三人夫」、「放下僧」
「泰山府君」は短い踊りだが、茂山忠三郎の舞は他の二人に比べるとメリハリに欠ける。
茂山あきらの佇まいと動きの細やかさとそこから生まれる静の迫力、茂山茂のダイナミックさは共に魅力的であった。


「朝比奈」。「あさひな」という読みと「あさいな」という読みがあるようだが、今回は「あさひな」とされている。
鎌倉武士である朝比奈三郎義秀が登場する。庶民を描いた芸能である狂言においては、実在の人物が登場することは比較的珍しい。

そもそも登場するのが閻魔王(鈴木実)と冥界へ向かう途中の朝比奈(読みは「あさいな」である。茂山千五郎)の二人で、共にこの世の人物ではないという、狂言としては珍しい演目である。

この演目も、自己紹介する前に謡や舞がある。囃子方は、杉信太朗(笛)、吉阪一郎(小鼓)、谷口正壽(大鼓)、前川光範(太鼓)。

まず閻魔王が、最近、人間が賢くなってみな極楽に行ってしまい、地獄の商売があがったりになっていると愚痴をこぼす。そこで閻魔自らが六道の辻まで出向き、やって来た霊を罪人として地獄に落としてやろうと企む。
「泣く子も黙る」はずの閻魔が地獄に来る者がいないので困っており、落ちぶれてしまって六道の辻までこちらから出向くというのがまず情けなくて笑える設定となっている。また仕草も情けないものが多い。

やって来たのが折悪しく、剛の者として名高き朝比奈三郎義秀であったことから、閻魔のドタバタが始まる。朝比奈は死に装束をしているが、七つ道具(光背のように見えなくもない)を背負い、堂々たる立ち振る舞いである。橋懸かりにて自己紹介を行う。
朝比奈三郎義秀は、和田義盛の三男。母は巴御前という説があるが、俗説である。
安房国朝夷(あさい)に所領を持ったため、姓を和田から朝比奈に変えたとされる。怪力の持ち主で、鎌倉の代表的な切通しである朝比奈の切通し(鎌倉から横浜市内の金沢八景へと抜ける道)を一夜で開いたという伝説を持つ。
和田合戦では獅子奮迅の働きをするが、結局、和田氏は敗れ、朝比奈は領地のある安房国に逃れたという。以後の消息は不明。ということで、勇猛果敢とはいえ、実は敗軍の武将が閻魔と対峙するという、これまたひねくれた構図となっている。為政者が見た場合、あるいは隠された反権力の意図に気付いたかも知れない。

朝比奈を地獄に導くことに失敗した閻魔は、朝比奈に和田合戦での活躍を語るようせがむ。朝比奈は大倉御所南門の突破、一対三十の力比べに勝ったことなどを朗々と述べる。最後には朝比奈は閻魔を調伏し、極楽への道案内をさせることになる。かなり思い切った逆転の構図である。

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2022年3月11日 (金)

観劇感想精選(430) 京都四條南座 「三月花形歌舞伎」(令和4年3月5日 午後の部)

2022年3月5日 京都四條南座にて

午後3時30分から、京都四條南座で「三月花形歌舞伎」を観る。平成生まれの若手歌舞伎俳優を中心とした公演である。演目は、「番町皿屋敷」と「芋掘長者」。

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開演前に、中村壱太郎(かずたろう。成駒家)と中村隼人(萬屋)によるトークがある。
上村淳之デザインの緞帳が上がり、定式幕が下がる中、坂東巳之助の影アナに続いて上手から壱太郎が登場。「今日は土曜日ということでいつもより沢山のお客さんにお越し頂いております」といったような挨拶を行った後、「隼人君、早く出て来ないかなと思ってらっしゃる方も多いと思いますので(中村隼人はイケメン歌舞伎俳優として知られている)」中村隼人が呼ばれる。隼人は花道から登場。拍手が起こるので、隼人は手で更に盛り上げる仕草をして、「パン、パンパン、パン」という手拍子を誘う。

二人は番付(パンフレット)や公演グッズなどの説明を行う。隼人に「宣伝?」と言われた壱太郎は、「紹介」と直していた。
その後、写真撮影コーナーなどがあり、二人でポーズを決めていた。スマホで撮影される方は、電源を切るのではなく、マナーモード(バイブではなく呼び出し音オフ)にしておくのが良いと思われる。
そして二人は、「番町皿屋敷」が南座で上演されるのは51年ぶり(前回の上演は昭和46年8月、片岡孝夫=現・仁左衛門の青山播磨、坂東玉三郎のお菊)、「芋堀長者」に至っては70年ぶり(前回の上演は昭和27年12月、十七代目中村勘三郎の主演)であると紹介する。


「番町皿屋敷」。「半七捕物帖」などで知られる岡本綺堂が大正5(1916年)に書いた歌舞伎である。従来の怪談「番町皿屋敷」を恋愛物に解釈し直したという、当時としては意欲的な作品である。
午前の部と午後の部で配役が異なるが、午後の部の配役は、中村橋之助(青山播磨)、中村米吉(腰元お菊)、中村蝶紫(腰元お仙)、中村橋吾(用人柴田十太夫)、中村蝶一郎(奴権次)、中村歌之助(並木長吉)、坂東巳之助(放駒四郎兵衛)ほか。

旗本と町人が徒党を組んで争っているという、「ウエスト・サイド・ストーリー」のような設定の中、旗本の青山播磨は、腰元のお菊と身分違いの恋仲にある。播磨は旗本なので、当然ながら良い縁談に事欠かない。それがお菊には気がかりである。
そんな中、青山家では家宝である高麗焼きの皿を用いて水野十郎兵衛らを接待することとなる。家宝であるため、1枚でも割れば命はない。だが播磨の心の内を信じ切れないお菊は、わざと皿を割り、播磨が自分を許すかどうか試そうとする。だが意図的に割るところを、折悪しく同僚のお仙に目撃されていた。
お菊が皿を割ったことを、当然ながら播磨は許すが、お菊が皿をわざと割ったことを知り、自分に対する不信故に試そうとしたと悟るや態度を一変させる。自分のことを信じ切れていないということが許せなかったのである。播磨は一生涯掛けてもお菊以上の女には出会えないと知りつつ、お菊の行いを裏切りと感じ、手討ちにするのだった。

理屈では理解出来るが、共感は難しい展開である。旗本とその腰元という身分の違いがあり、この時代、主従関係は絶対ではあるが、それ以上に男女の格差というものが感じられる。「女は男より生まれながらに身分が低い」それが常識であってこそ成り立つ展開であり、今現在の価値観を持ってこの筋書きに心から納得するのは難しいだろう。身分差故の悲恋といえば悲恋だが、お菊の意志は一切尊重されていない。ただ、時代を感じるから上演しない方がいい、筋書きを変えようということではない。往時の世界観を知る上でも上演を行うことは大切だと思う。

やはり歌舞伎はキャリアがものをいうようで、声の通りが良くなったはずの南座であっても若手俳優達のセリフが聞き取りにくかったり、こなれていなかったり、間が妙だったりという傷は散見される。
そんな中で中村米吉の細やかな演技が光る。女声に近い声を発することの出来る女形だが、だんまりの場面や、皿を差し出す時の手の震えなど、セリフ以上に仕草で心理描写を行うことに長けている。将来の名女形の座は約束されたも同然である。


「芋堀長者」。こちらも大正7(1918)年という「番町皿屋敷」と同時期に書かれた作品である。岡村柿紅の作で、六世尾上菊五郎や七世坂東三津五郎らによって東京市村座で初演されている。大正期の上演は初演の時だけ、昭和に入ってからも僅かに3回と人気のない演目だったが、十代目坂東三津五郎がこの作品を気に入り、自らの振付で復活させている。
出演は、坂東巳之助(十代目坂東三津五郎の長男。芋堀藤五郎)、中村隼人(友達治六郎)、中村橋之助(魁兵馬)、中村歌之助(莵原左内)、中村歌女之丞(松ヶ枝家後室)、中村米吉(腰元松葉)、中村壱太郎(息女緑御前)。振付は、十代目坂東三津五郎、坂東三津弥。

松ヶ枝家の後室は、娘の緑御前に婿を取らせたいと思っているのだが、婿にするなら踊り上手が良いということで、歌合戦ならぬ踊合戦のようなものが行われることになる。
そんな中、緑御前に懸想する芋堀藤五郎も踊合戦に加わろうとするのだが、芋堀を家業としている藤五郎には踊りの素養は全くない。そこで舞を得意とする友人の治六郎と共に参内し、面を被ったまま踊るとして治六郎と入れ替わることにする。

まんまと成功する藤五郎と治六郎だが、緑御前に「直面で踊って欲しい」と言われたため、事態は一変。藤五郎は下手な人形遣いによる操り人形のような動きしか出来ず、緑御前達を訝らせる。治六郎が衝立の向こうで藤五郎にだけ見えるよう舞の見本を見せるのだが、舞ったことがないので上手くいく訳もない。緑御前の前で緊張したということにして、藤五郎は緑御前と連舞を行うことになるのだが……。

幼い頃から舞を行っている人達であるため、手足の動きの細やかさ、無駄のなさ、動作の淀みなさなどいずれも見事である。

コミカルな動きが笑いを誘うが、百姓ならではの舞も「荒事」に通じる豪快さがあり、それまでに舞われていた上方風のたおやかな舞との対比が生きていた。

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2022年3月 8日 (火)

柳月堂にて(2) ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団 ドヴォルザーク 交響曲第8番

2022年2月5日

名曲喫茶・柳月堂に入り、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏でドヴォルザークの交響曲第8番を聴く。

晩年、心臓発作を起こしたことにより指揮者を引退し、ビバリーヒルズで余生を過ごしていたワルターだったが、コロンビア(CBS)レーベルが、新たに開発されたステレオ録音でワルターの演奏を録音することを希望。ワルターを説得し、自前のオーケストラであるコロンビア交響楽団を結成して、心臓に持病を抱えるワルターに無理のかからないペースでのスタジオ録音を実現させる。今日聴いたドヴォルザークの交響曲第8番もそうして録音された貴重な記録であるが、かなりドラマティックな演奏であり、ワルターが最晩年であることを感じさせないエネルギーを放っている。時に阿修羅の如き怒濤の行進や熟練のドライバーのような自在なオーケストラドライブなどを見せ、今なお聴く者を魅了する。

ワルターというと、フルトヴェングラーやトスカニーニ、クレンペラーといった個性の極めて強い、というよりも今の基準でいうと異常なところのある濃い顔ぶれの中にあって、「中庸」「穏健派」というイメージが強いが、実際にはこのドヴォルザークの交響曲第8番に聴かれるようなダイナミックで個性に溢れた演奏を行っていた。強面の指揮者達と比較して顔が穏やかということもあったのだろうが、先入観は取り去って聴くべきだと思う。

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2022年3月 7日 (月)

美術回廊(73) 京都国立近代美術館 新収蔵記念「岸田劉生と森村・松方コレクション」&コレクション・ギャラリー 令和3年度第5回コレクション展

2022年3月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「岸田劉生と森村・松方コレクション」という展覧会を観る。

美術の教科書に必ず載っている「麗子像」(「麗子像」という作品は多数存在する)で知られる岸田劉生(1891-1929)。
ジャーナリストの岸田吟香の長男として東京・銀座に生まれ、高等師範学校附属中学校中退後に白馬会に入り、黒田清輝に師事。白樺派の文学に傾倒し、雑誌「白樺」に載ったフランスの画家達に憧れる。高村光太郎らと共にヒュウザン会を結成し、代々木に家を構えて創作活動に入るが、肺結核と診断され(後に誤診であったことが分かる)白樺派の武者小路実篤が所有していた藤沢・鵠沼の貸別荘で転地療養を行う。その間に関東大震災が発生。岸田は関東を諦め、かねてより憧れていた京都移住を決断。南禅寺の近くに2階家を見つけて妻子と共に暮らし始める。東京にいた頃から歌舞伎見物を好んだ岸田は、南座にも通い詰める。また祇園でお茶屋遊びも楽しんだ。だがこの頃、春陽会のメンバーと不仲になり脱退。ただ梅原龍三郎は岸田によくしてくれたという。3年の京都生活を経て、岸田は鎌倉に移る。その後、満鉄の松方三郎(松方正義の息子)の招きで、満州に旅行。ここでも絵を描いて渡仏のための資金に充てるつもりだったという。だが慣れぬ大陸での生活ということもあってか、体調を崩してしまい、同行していた若き画商の田島一郎と共に帰国。山口県の徳山(平成の大合併により今は周南市となっている)にある田島の実家に身を寄せるが、そこで更に体調は悪化。38歳の若さで帰らぬ人となっている。奥さんの蓁(しげる)や娘の麗子は岸田の最期には間に合わなかったという。

初期の岸田の画風は、師である黒田清輝の模倣である。全体的に白っぽい画風がそれを表している。そこから白樺派によってフランスの画家を知るようになり、画風を大きく変える。1912年に描かれた「夕陽」という作品は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホからの影響が濃厚で、エネルギー重視の画風となっている。その他の作品も西洋の有名画家の作風をモデルとしており、初期の白馬会風のものとは大きく異なっているが、どうも岸田は、理想の絵画を求めて画風をコロコロ変えるというカメレオン的なところがあったようである。その後、後の奥さんとなる小林蓁と出会う。蓁は、鏑木清方に日本画を学んでおり、岸田も彼女の影響を受けて日本画や南画を描くようになっている。

鵠沼に移ってからの岸田は、立体感を求めた絵をいくつか描いている。「鵠沼風景」や「壜と林檎と茶碗」といった絵である。こうした立体感に富む絵が私は気に入った。
一方で、結核という当時としては死の病に冒された(実際には誤診であったが)ことで、宗教画なども描いている。岸田が子供の頃に両親が相次いで亡くなっており、岸田は洗礼を受け、クリスチャンとなって宗教家を志したこともあった。牧師の田村直臣を慕っており、岸田に画家を目指すよう進言したのも田村であったようだ。

有名な「麗子像」であるが、今回は、「麗子裸像」、「童女と菊花」、「二人麗子」、「三人麗子」、「麗子提灯を喜ぶ之図」、「麗子弾絃図」などが展示されている。

歌舞伎を好んだ岸田劉生。初代中村鴈治郎主演舞台を描いた作品があるが、舞台上よりもそれを観る観客の方がリアルに描かれているのが特徴である。

京都時代には愛らしい日本画も残している岸田。鎌倉時代には静物画の比重が大きくなっていったようである。

1929年に満州で描かれた「大連星ヶ浦風景」という絵が素晴らしい。この作品は武者小路実篤ら白樺派の面々も絶賛しているようだ。

その時々によって画風を大きく変えた岸田劉生。だた彼が真に目指した作風への道のりは、38歳で早逝したことで未完のまま途切れた印象が強い。


岸田劉生の展示会に続いて、森村・松方コレクションの展示がある。共に松方正義の息子である森村義行(森村家に養子に入っている)と松方三郎の兄弟は岸田劉生を支援していた。
この兄弟は美術品の蒐集にも熱心であり、葛飾北斎、歌川広重、藤田嗣治らの作品をコレクションしており、今回、それらが展示されている。

また岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の芝川コレクションも展示されている(岸田劉生や椿貞雄が描いた芝川照吉の肖像は、ギョロリとした目の輝きが印象的である)。青木繁、坂本繁二郎らの作品を観ることが出来る。


4階で行われている令和3年度第5回コレクション展には、「岸田劉生の友と敵」というコーナーがある。岸田劉生は生前に様々な画家と激突したようである。性格的に円満とはいえないところがあったようだ。先に書いたように春陽会の中でも梅原龍三郎は味方であったが、他のメンバーとは折り合いが悪くなり、1925年に退会している。

「劉生が生きた時代の西洋美術」のコーナーもある。この中ではやはりユトリロ(「モンマルトルのミミ・パンソンの家」)とデュフィ(「静物」)の画風が私の好みに合う。

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ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ニューヨーク・フィルハーモニック ウクライナ国歌「ウクライナは滅せず」

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2022年3月 6日 (日)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関するメモ(3)

2022年2月27日

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。源頼朝(大泉洋)がいよいよ鎌倉入りする。2万騎を率いる上総介平広常(上総広常。演じるのは佐藤浩市)であるが、新たに加わった畠山重忠(中川大志)の方が見栄えがいいという頼朝の命令で先陣を譲ることになり、誇りが傷つけられる。上総広常は、味方ながらも難敵ということで、佐藤浩市が2004年の大河ドラマ「新選組!」で演じた芹沢鴨と同じ役割である。それを示すように、広常が瓢箪で酒をあおるという、芹沢のトレードマーク的な仕草をする場面がある。ちなみに芹沢鴨も広常同様、平家の血筋でかなりの名家の出である。

「新選組!」で土方歳三を演じた山本耕史が今回は三浦義村役で出ているが、ブレーン役であり、やはり「新選組!」の時と全く同じ役回りとなっている。

三谷幸喜は、バルザックの「登場人物再登場法」のようなものを用いることがあり、例えば、「振り返れば奴がいる」の中川淳一外科部長(鹿賀丈史)は、その後「古畑任三郎」に登場している。
以前は、「赤い洗面器を頭の上に乗せた女」のエピソードが様々な作品に登場していたが、その他にも、舞台「出口なし!」で唐沢寿明が語っていたセリフを、映画「記憶にございません」では中井貴一が語っていたりと、作品の枠を超えて繋がることもある。

鎌倉に向かっている源義経(菅田将暉)であるが、急に富士山登山を思いついたり、潮の香りを聞いて海を見に出掛けてしまうなど、衝動を抑えられない傾向がある。発想も合理的だが大胆で、人の内面に疎そうである。
実は、源義経にはADHD説が存在する。直接診断しようもない故人に勝手にレッテル張りしてはいけないのだが、説自体はかなり以前から存在しており、今回はそれに則ったのかも知れない。

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2022年3月 5日 (土)

観劇感想精選(429) 三谷幸喜 作・演出 斉藤由貴&長澤まさみ「紫式部ダイアリー」

2014年12月11日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後7時から、大阪の森ノ宮ピロティホールで「紫式部ダイアリー」を観る。作・演出:三谷幸喜。出演:長澤まさみ、斉藤由貴。開場は開演の30分前が演劇の基本であるが、森ノ宮ピロティホールは屋外で開場を待つことになり、冬は寒いため、午後6時15分頃にロビー会場、6時30分に客席開場となった。

「紫式部ダイアリー」は「紫式部日記」のことで、紫式部が清少納言のことをこれでもかとばかりにこき下ろしていることで有名であるが、今回はそれを舞台に転じたものではない。舞台は現代である。清少納言(斉藤由貴)は『枕草子』という大ヒット作を持つベテランエッセイスト、紫式部(長澤まさみ)は『源氏物語』という長編恋愛小説が大ヒット中の新進ベストセラー作家という設定になっている。

実は、斉藤由貴と長澤まさみの他にもう一人、セリフを一言も発さない男優がバーテンダーとして出演しているため、厳密な意味でこれが二人芝居といえるのかどうかは微妙なところである。セリフで物語を進めるのは二人だけなので、二人芝居に入れてもいいのかも知れないが。

音楽は、モーツァルトやベートーヴェンのような作曲家が書いたものではない正真正銘の「トルコ行進曲」を使用。その他にもイスラム系の音楽が用いられる。


とあるバー。あけぼの文学賞の選考委員である清少納言は、このバーに紫式部を呼んだ。紫式部は今年からあけぼの文学賞の選考委員に選ばれたのである。そこで打ち合わせをしたいということでこのバーを選んだのだ。だが、バーのスツールは清少納言には高すぎて、いったん下りてしまうと上るのに苦労する。

廻り舞台を用いており、バーのカウンターが回転する。時系列を飛ばすときなどに廻り舞台が用いられる。この劇は三谷の劇によく見られる一幕物であるが、カウンターの回転は場面転換と取れるし、同時系列ではない。

清少納言が苦労するスツールに、紫式部はすんなりと座ってしまう。紫式部を演じる長澤まさみはセクシー路線を取っているため、肩や背中の開いた露出の多い衣装である。

紫式部は常にノートパソコンを携帯、思いついたらすぐに小説の続きなどを書けるようにしている。


清少納言と紫式部は初対面。『蜻蛉日記』の藤原道綱母の葬儀の時に互いに顔を見たことがあるだけで言葉を交わすのは今日が初めてである。

二人はまず日本語の乱れを指摘し合う。

あけぼの文学賞の今回の受賞者は、二人とも和泉式部で決まりだと思っているのだが、清少納言は授賞式の講論(代表が講評を口頭で論じること)を自分にやらせて欲しいという。清少納言は前回と前々回で講論を務めており、好評だったので、今回もやりたいというのだ。だが、紫式部は……というところで、長澤まさみがミスをする。「(マスコミが)今回の講論は紫式部さんでお願いしますって」というべきところを「今回の講論は清少納言でお願いしますって」と言ってしまった。それだと清少納言の意が通ってしまうことになり、その後の展開に支障を来すため、斉藤由貴は少し間をおいてから「あなた今なんて言ったの?」というセリフをアドリブで入れ、長澤まさみが今度は「今回の講論は紫式部さんでお願いしますって」と言って軌道修正した。

その後、紫式部は出版社から電話で『源氏物語』の続きのプロットの締切が今日だと告げられ、清少納言も何故か『源氏物語』の今後のストーリー展開を作らされる羽目になるのだが、清少納言が描いたシノプシスは紫式部にことごとく否定されてしまう。紫式部は『枕草子』についても「軽い」と批評する。

紫式部は今、『紫式部ダイアリー』なるものを執筆中である。紫式部初のエッセイで日記の体裁を取るという。紫式部はパソコンで今日のこともエッセイにする。清少納言は紫式部がトイレに立った隙に自分のことを紫式部がどう書いたのか読みたくてパソコンを開くが、4桁の暗証番号が必要であり、読むことが出来ない。

紫式部はパソコンの蓋に罠としてピーナッツの殻を3つ置いており、それが全て落ちていたので清少納言が『紫式部ダイアリー』を読もうとしたことの確証を得る。

本音を言うと清少納言は紫式部のことが大嫌いである。

清少納言は「自分は書くことしか能が無い人間だ」と語り、紫式部に向かって「あなたは文章も書けるし、スタイルも良い。狡い! どっちかにしなさいよ!」と堂々と嫉妬を語るが、紫式部は「あなたは美人の気持ちがわかっていない」とやり返す。「誰も私の文章をちゃんと読んでいない。最近は文章も荒れ放題なのに誰もそれを指摘しない。顔の皺が少しでも荒れたらすぐにでも取り上げる癖に」と不満を口にする。


作家論であると同時に女優論、アイドル論とも取れる芝居である。紫式部も自分よりも若くて男にモテモテの和泉式部のことを憎むほどに嫌っている。作家も俳優もだが、それ以上に女優や女性アイドルは自分よりも若くて勢いがある人に少なからず脅威の念を持つものである。


残念ながら、「もっと掘り下げて欲しい」と思う場面が沢山あった。ここからどうなるかとこちらが期待していると「トルコ行進曲」が鳴り、次のシーンへと移ってしまう。ドロドロしたものにしたくなかったのかも知れないが(斉藤由貴演じる清少納言のセリフにそのような内容のものがある)、見ている側としては中途半端なまま置き去りにされた気分になってしまう。


さて、紫式部は清少納言のことを『紫式部ダイアリー』にどう書いたのか? これは明かせない。というより明かす意味がないと書くべきだろうか。


長澤まさみであるが、今回の演技は一本調子に見えた。だが紫式部のキャラクターがぶれないため、多彩な演技を披露する必要がなかったのも事実であり、一本調子だから必ずしも悪いということにはならない。

斉藤由貴はコミカルな味わいがなかなかである。

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2022年3月 3日 (木)

これまでに観た映画より(285) 「私にも妻がいたらいいのに」

2022年2月20日

DVDで韓国映画「私にも妻がいたらいいのに」を観る。2001年の作品。監督:パク・フンシク。出演:チョン・ドヨン、ソル・ギョング、ソ・テファ、チン・ヒギョンほか。

非モテ系男女の王道ラブストーリーである。
銀行員のキム・ボムス(当時29歳。演じるのはソル・ギョング)は、1997年の元日、ビデオレコーダーに向かって3年以内に結婚したいという意味のメッセージを録画する。まだ見ぬ彼女へのメッセージという、取りようによってはちょっとあれな内容である。

時間は飛んで、2000年7月。32歳になったキム・ボムスは相変わらず独身である。友人のチョン・ホンタク(ソ・テファ)よりは先に結婚するはずだと思っていたキムだが、チョンは出版社に勤める女性と結婚を決めてしまい、キムはチョンの車に乗って洗車機の中に入り、チョンを散々に罵る。

キムが勤めるハンミ銀行の向かいにある学習塾(韓国ではこの2000年まで学習塾は認められていないため、放課後のみの補助塾というのが実際に近いようだ)の講師であるチョン・ウォンジュ(チョン・ドヨン)は、ハンミ銀行にたびたび寄り、窓口担当のキムとも顔を合わせている。そしてその他の場所でもすれ違っている。
という訳で、どう考えてもこの二人のラブストーリーであり、二人が結婚するまでにどういう展開があるのかが映画の軸となる。塾の蛍光灯が切れかかった時に、ウォンジュが銀行から出てきたキムに声を掛けて蛍光灯の交換を頼むなど、すんなり恋愛関係になれそうな間柄なのだが、キムが鈍い上に、彼が乗っていたタクシーが後続の車に追突され、入院した時に、学生時代の友人であるテラン(チン・ヒギョン。特別出演とクレジットされている)と再開したことから、キムの心はテランへと傾き始める。キムのことを彼氏候補だと思っていたウォンジュは、ある日思い切って振り込み用紙に「この間のお礼に夕食をご一緒しませんか」と書いて窓口にいるキムに渡すが、キムは「先約があります。からかわないで」と返事を書き、ウォンジュはショックを受ける……。

結末は見えているだけに、安心して楽しめる甘い物語である。特別なことは何も起こらないが、チャーミングな一本と評価出来る。

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関するメモ(2)

2022年1月16日

女性に母を求める頼朝(大泉洋)とそれを見抜いている政子(小池栄子)。
考えれば、義経が母である常盤御前に寄せる思慕の念を描いたものは比較的多いのですが、頼朝の間接的であれ母への思いを表した作品は今回の大河ドラマが初めてではないでしょうか。

考えてみれば、「王様のレストラン」に登場する北条政子由来の三条政子(鈴木京香)と源範頼+源頼朝の水原範朝(西村雅彦=現・西村まさ彦)にも似たところはありましたね。

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2022年3月 2日 (水)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関するメモ(1)

2022年1月9日

三谷幸喜脚本の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がスタート。

「新選組!」で最後の武士を描き(野田秀樹演じる勝海舟が、「ありゃあ本物の武士だよ。そして最後のな」と香取慎吾演じる近藤勇を評する場面がある)、「真田丸」で最後の戦国武将を描いた三谷幸喜が主人公に選んだのは、最初の武家政権を築いたという見立ても出来る北条義時。小栗旬が演じている。

最初に武士による政権を打ち立てたのは平清盛だが、平氏を公家化しての政権。源頼朝が築いた鎌倉幕府も源氏が三代しか続かず、また朝廷から征夷大将軍を授かっての政権運営である。また源氏三代の政権は基本的に東国統治であり、西国は朝廷に任されていた。

北条義時は承久の乱で朝廷を屈服させ、六波羅探題を置いて朝廷の監視と西国支配を完成させ、また執権という朝廷から頂いた官位ではない地位での合議制による政治を行ったということで、武家政権という新世界の確立者と見ることが出来る。それを象徴するかのように、ラストではドヴォルザークの「新世界」交響曲第4楽章のアレンジ版が流れた。

また、氏姓制度で、氏の場合は、「ふじわらの」「たいらの」「みなもとの」のように「~の」となり、姓の場合は「の」が入らないのが一般的であるが、今回は、「ほうじょうの」「いとうの」のように「の」を付けた読みを採用していたのが新しいところである。

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2022年3月 1日 (火)

これまでに観た映画より(284) 「再会の奈良」

2022年2月21日 京都シネマにて

京都シネマで、日中合作映画「再会の奈良」を観る。脚本・監督:ポンフェイ(鹏飞)。エグゼクティブプロデューサー:河瀨直美、ジャ・ジャンクー(贾樟柯)。出演:國村隼、ウー・イエンシュー(吴颜姝)、イン・ズー(英泽)、秋山真太郎(劇団EXILE)、永瀬正敏(友情出演)ほか。音楽:鈴木慶一。鈴木慶一はワンシーンのみであるが出演している(セリフあり)。

2005年の秋の奈良を舞台に、姿を消した元中国残留孤児の女性を探す、彼女の育ての親である陳おばさん(ウー・イエンシュー)、その孫のような存在(遠縁らしい)で日中ハーフの女性、清水初美(中国名は萧泽。演じるのはイン・ズー)、定年退職した元警察官の吉澤(國村隼)の3人を主役としたロードムービーである。
奈良市の他に、河瀨直美の故郷である御所(ごせ)市も撮影に協力しており、主舞台となっている。

映画が始まってしばらく経ってから、中国残留孤児の説明アニメが入る。第二次大戦中、日本から中国東北部に約33万人の開拓者が送り込まれ、満州国発展のために農村を拓いていったのだが、1945年8月にソビエトが突如参戦。満州にいた人々は逃げるのに必死であり、自分達の子供を現地の中国人に託すか、捨てるかしかなかった。この時、約4千人の中国残留孤児が生まれたという。1972年に日中の国交が正常化されると、残留孤児と呼ばれた人々の身元が判明するようになり、続々日本への帰国を始める。

この作品で行方が捜されることになる陳麗華という女性は、1994年に日本に帰国。奈良県で親族と思われる人を探し出していた。その際に名前を日本名に変えたことが分かっているが、その名を誰も記憶しておらず、手掛かりがつかめない。

陳おばさんに手紙を書いていた麗華だが、ある日を境に居場所がようとして知れなくなる。その後、何年にも渡って音信不通となったため、陳おばさんは来日して麗華を探す決意をする。初美も当然ながらそれに参加。更に、初美が居酒屋でアルバイトをしていた時代に知り合った元警察官の吉澤も加わり、少ない情報を手掛かりとした捜査のようなものが始まる。
当初は居酒屋に勤めていた初美だが、今はみかん工場でのアルバイト。麗華を探すために休みがちであり、上司からは「今度やったらクビだよ」と言われている。


淡々とした描写の映画であり、秋の奈良の光景が美しいが、劇的な展開を意図的に避けてユーモアを盛り込んでおり、さほどドラマティックにもならない。それでいて結論として導き出された答えは悲劇的である。奈良県の伝統芸能などが登場するなど盛り上がる場面もあり、残留孤児の問題や、日本と中国の間に横たわる底知れぬ溝などを正面から見据えていて、悪い映画ではないのだが、探す行為に終始するため、どうしても物足りなさは感じてしまう。

ただ奈良を舞台としたロードムービーはほとんどないため、貴重な一本となっている。奈良の景色はやはり美しい。

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