美術回廊(73) 京都国立近代美術館 新収蔵記念「岸田劉生と森村・松方コレクション」&コレクション・ギャラリー 令和3年度第5回コレクション展
2022年3月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて
左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「岸田劉生と森村・松方コレクション」という展覧会を観る。
美術の教科書に必ず載っている「麗子像」(「麗子像」という作品は多数存在する)で知られる岸田劉生(1891-1929)。
ジャーナリストの岸田吟香の長男として東京・銀座に生まれ、高等師範学校附属中学校中退後に白馬会に入り、黒田清輝に師事。白樺派の文学に傾倒し、雑誌「白樺」に載ったフランスの画家達に憧れる。高村光太郎らと共にヒュウザン会を結成し、代々木に家を構えて創作活動に入るが、肺結核と診断され(後に誤診であったことが分かる)白樺派の武者小路実篤が所有していた藤沢・鵠沼の貸別荘で転地療養を行う。その間に関東大震災が発生。岸田は関東を諦め、かねてより憧れていた京都移住を決断。南禅寺の近くに2階家を見つけて妻子と共に暮らし始める。東京にいた頃から歌舞伎見物を好んだ岸田は、南座にも通い詰める。また祇園でお茶屋遊びも楽しんだ。だがこの頃、春陽会のメンバーと不仲になり脱退。ただ梅原龍三郎は岸田によくしてくれたという。3年の京都生活を経て、岸田は鎌倉に移る。その後、満鉄の松方三郎(松方正義の息子)の招きで、満州に旅行。ここでも絵を描いて渡仏のための資金に充てるつもりだったという。だが慣れぬ大陸での生活ということもあってか、体調を崩してしまい、同行していた若き画商の田島一郎と共に帰国。山口県の徳山(平成の大合併により今は周南市となっている)にある田島の実家に身を寄せるが、そこで更に体調は悪化。38歳の若さで帰らぬ人となっている。奥さんの蓁(しげる)や娘の麗子は岸田の最期には間に合わなかったという。
初期の岸田の画風は、師である黒田清輝の模倣である。全体的に白っぽい画風がそれを表している。そこから白樺派によってフランスの画家を知るようになり、画風を大きく変える。1912年に描かれた「夕陽」という作品は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホからの影響が濃厚で、エネルギー重視の画風となっている。その他の作品も西洋の有名画家の作風をモデルとしており、初期の白馬会風のものとは大きく異なっているが、どうも岸田は、理想の絵画を求めて画風をコロコロ変えるというカメレオン的なところがあったようである。その後、後の奥さんとなる小林蓁と出会う。蓁は、鏑木清方に日本画を学んでおり、岸田も彼女の影響を受けて日本画や南画を描くようになっている。
鵠沼に移ってからの岸田は、立体感を求めた絵をいくつか描いている。「鵠沼風景」や「壜と林檎と茶碗」といった絵である。こうした立体感に富む絵が私は気に入った。
一方で、結核という当時としては死の病に冒された(実際には誤診であったが)ことで、宗教画なども描いている。岸田が子供の頃に両親が相次いで亡くなっており、岸田は洗礼を受け、クリスチャンとなって宗教家を志したこともあった。牧師の田村直臣を慕っており、岸田に画家を目指すよう進言したのも田村であったようだ。
有名な「麗子像」であるが、今回は、「麗子裸像」、「童女と菊花」、「二人麗子」、「三人麗子」、「麗子提灯を喜ぶ之図」、「麗子弾絃図」などが展示されている。
歌舞伎を好んだ岸田劉生。初代中村鴈治郎主演舞台を描いた作品があるが、舞台上よりもそれを観る観客の方がリアルに描かれているのが特徴である。
京都時代には愛らしい日本画も残している岸田。鎌倉時代には静物画の比重が大きくなっていったようである。
1929年に満州で描かれた「大連星ヶ浦風景」という絵が素晴らしい。この作品は武者小路実篤ら白樺派の面々も絶賛しているようだ。
その時々によって画風を大きく変えた岸田劉生。だた彼が真に目指した作風への道のりは、38歳で早逝したことで未完のまま途切れた印象が強い。
岸田劉生の展示会に続いて、森村・松方コレクションの展示がある。共に松方正義の息子である森村義行(森村家に養子に入っている)と松方三郎の兄弟は岸田劉生を支援していた。
この兄弟は美術品の蒐集にも熱心であり、葛飾北斎、歌川広重、藤田嗣治らの作品をコレクションしており、今回、それらが展示されている。
また岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の芝川コレクションも展示されている(岸田劉生や椿貞雄が描いた芝川照吉の肖像は、ギョロリとした目の輝きが印象的である)。青木繁、坂本繁二郎らの作品を観ることが出来る。
4階で行われている令和3年度第5回コレクション展には、「岸田劉生の友と敵」というコーナーがある。岸田劉生は生前に様々な画家と激突したようである。性格的に円満とはいえないところがあったようだ。先に書いたように春陽会の中でも梅原龍三郎は味方であったが、他のメンバーとは折り合いが悪くなり、1925年に退会している。
「劉生が生きた時代の西洋美術」のコーナーもある。この中ではやはりユトリロ(「モンマルトルのミミ・パンソンの家」)とデュフィ(「静物」)の画風が私の好みに合う。
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