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2022年3月28日 (月)

コンサートの記(771) 日本オペラプロジェクト2022 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」西宮公演

2022年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。木下順二の代表的戯曲を「セリフの一字一句に至るまで変更しない」という約束の下、オペラ化した作品で、日本が生んだオペラとしては最高の知名度を誇っている。今回は2013年に初演されたプロジェクトの再々演(三演)である。2013年の公演は私は観ていないが、2018年に行われた再演は目にしている。

演出は引き続き岩田達宗が担当。美術も故・島次郎のものをそのまま踏襲している。
今回の指揮者は、1989年生まれの若手、粟辻聡(あわつじ・そう)。京都市生まれで京都市少年合唱団出身。2015年に第6回ロブロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで第2位に入賞。京都市立芸術大学、グラーツ芸術大学大学院、チューリッヒ芸術大学大学院においていずれも首席を獲得して卒業している。京都市立芸術大学では広上淳一に師事。現在は奈良フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める。大阪音楽大学講師。
演奏は、大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートマスター:赤松由夏)。

つうと与ひょうはいずれもダブルキャストで、今日は老田裕子(おいた・ゆうこ。ソプラノ)と中川正崇(テノール)のコンビとなる。運ずは晴雅彦(バリトン)、惣どに松森治(バス)。少年合唱は、夙川エンジェルコール。

開演前にホワイエで、岩田さんに前回観た「夕鶴」の解釈について質問したりした。上演内容自体は、今回もほとんど変わりない(プログラムノートも同一である)。

「夕鶴」は、人間と鶴とのすれ違いを描いた悲恋と観るのが一番面白いように私は思う。
実は互いは互いにとって最高のパートナーともいえる関係にある。押しかけ女房のつう(正体は鶴)は、矢で射られて倒れていたところを与ひょうから治療を受けて、その感動から人間となって与ひょうの前に現れる。冒頭の少年合唱による童謡のシーンでメンバーの一人が弓矢遊びをしているが、当時は鶴の数も多く、天然記念物という概念もなく、あったとしてもそれには該当せず、鶴は普通に狩りの対象であった。そんな鶴に優しくしてくれた与ひょうは人間に化けたつうにも当然ながら優しい。
この与ひょうというのがかなり不思議なキャラクターであり、金銭というものにほとんど興味を示さない。示すとしてもそれはつうのためになることだけである。つうが織った千羽織が売れて、熱心に働くことを止めてしまったようだが、それは働くのが嫌になったというよりも、つうと一緒にいる時間を増やしたいからであろう。与ひょうはそれほどつうのことを愛しているのである。

千羽織も、元は与ひょうに求められて織ったのではない。つうの方から織って与ひょうに贈ったのである(民話「鶴の恩返し」とは違い、恩返しのために織った訳ではない)。つうは与ひょうに喜んで貰って嬉しい。ただ、ここはちょっと引っ掛かる。つうの正体は鶴である。「正体がばれたら捨てられる」。つうは当然ながらそう思っただろう。正体が露見する危険を冒しながら、それでも敢えて自分の身を傷つけて千羽織を作るのであるが、そうでもしない限り与ひょうに捨てられるという恐怖を抱き続けていたのではないだろうか。子供達と「かごめかごめ」の遊びをした時の必要以上の動揺を始めとして、常に別れにおびえているような印象を受ける。そうであるが故に、与ひょうのちょっとした変化に敏感になりすぎてしまったのではないか。客観的に見ると与ひょうは終始一貫しておおらかな性格であり(惣どと運ずに、「千羽織をもっと織らせるように」と言われたときも、「(出来の良い)千羽織はつうが作った」とのろけており、金銭欲はほとんど感じられない)、全てはつうの勘違いであった可能性が高い。そのままでいようと思えばいられたかも知れないのだが、怖れが逆に別れへの道を開いてしまった。

与ひょうはつうに千羽織を作るよう頼むが、それはつうと一緒に都に出掛けるためである(「つうも都に行きたいと思っているはず」だと勝手に思い込んでもいるのだが)。だが、つうはそれ以前の与ひょうの「金がいる」という内容の言葉の数々に耳をふさいでしまったため、肝心の「つうと都に行く」ためという、理由となる言葉を聞き逃してしまうという演出を岩田は施す。
ラストで同じ内容の言葉が出て、つうは与ひょうの本心を初めて知るのだが、時すでに遅しである。更には、つうの正体が鶴であったと分かっても与ひょうはそれを受け容れる気でいた。そんな男は他にはいないだろう。だがつうの体はもうボロボロ、そして当時の通念からすれば、恥を掻かされた以上は、死ぬか別れるか、あるいはその両方かしか残されていない。つうは千羽織を二反作った(岩田の解釈では千羽織は二人の「子供」であるが、見る側はそれに従っても従わなくても良いように思う)。一つは売って金にするために、もう一つは自分の形見として。二反織ったためにつうは精も根も尽き果ててしまったのだが、与ひょうはつうと別れる気はさらさらなく、形見として一反余計に織る必要は全くなかったのである。最愛のパートナーとして末永く暮らせる可能性がありながら、分かり合えなかったという悲劇が浮かび上がる。誰もが一度は経験する最愛の人から理解されないという孤独。
単なるストーリーで出来ている訳ではない戯曲とそれを説明するだけでない音楽。木下順二も團伊玖磨もやはり偉大な芸術家である。

粟辻聡の指揮に本格的に接するのは初めてであるが、ドラマティックなうねりと雄大なフォルムを築くことに長けた指揮者である。オペラにはかなり向いていそうだ。

つう役の老田裕子のハリのある声と体全体を使った巧みな心理描写、穏やかな佇まいと柔らかな声を持つ与ひょう役の中川正崇も実に良い。役にはまっている。晴雅彦と松森治の安定感も良かった。

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