コンサートの記(767) 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー 舞台神聖祝典劇「パルジファル」
2022年3月6日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて
午後1時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」を観る。ワーグナー最後の舞台音楽作品となっており、ワーグナー自身はバイロイト祝祭劇場以外での上演を認めなかった。
中世ドイツ詩人のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩「パルチヴァール」が現代語訳(当時)が出版されたのが1842年。ワーグナーはその3年後にこの本を手に入れているが、これを原作とした舞台神聖祝典劇という仰々しい名のオペラ作品として完成させるのは、1882年。40年近い歳月が流れている。
セミ・ステージ形式での演奏。指揮は沼尻竜典、演奏は京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)。演出は伊香修吾。出演は、青山貴(アムフォルタス)、妻屋秀和(ティトゥレル)、斉木建詞(グルネマンツ)、福井敬(パルジファル)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、西村悟、的場正剛(ともに聖杯の騎士)、森季子(第1の小姓)、八木寿子(第2の小姓、アルトの声)、谷口耕平(第3の小姓)、古屋彰久(第4の小姓)、岩川亮子、佐藤路子、山際きみ佳、黒澤明子、谷村由美子、船越亜弥(以上、クリングゾルの魔法の乙女たち)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。合唱はマスクを付けての歌唱である。
ステージ前方に白色のエプロンステージが設けられており、同じ色の椅子が並んでいる。出演者達はここで歌い、演技する。客席の1列目と2列目に客は入れておらず、プロンプターボックスの他にモニターが数台並んでいて、これで指揮を確認しながら歌うことになる。
ステージ後方には階段状の二重舞台が設けられており、短冊状の白色の壁が何本も立っていて、ここに映像などが投影される。
小道具は一切使用されず、槍なども背後の短冊状の壁に映像として映し出される。
びわ湖ホールで何度も印象的な演出を行っている伊香修吾だが、セミ・ステージ形式での上演ということで思い切った演出は出来なかったようで、複雑な工夫はしていない。
「パルジファル」に先だって、ワーグナーは当時傾倒していた仏教と輪廻転生をテーマにした「勝利者たち」という楽劇を書く予定であった。実現はしなかったが、「勝利者たち」のヒロインがその後に、「パルジファル」のクンドリの原型となっている。
ワーグナー最後のオペラとなった「パルジファル」であるが、何とも謎めいた作品となっている。聖杯伝説が基になっており、キリストが亡くなった時にその血を受けた聖杯と十字架上のキリストを刺したといわれる聖槍(「エヴァンゲリオン」シリーズでお馴染みのロンギヌスの槍である)が重要なモチーフとなっている。モンサルヴァートの城の王であるアムフォルタスは、キリストをなぞったような性質の人物であり、聖槍を受けて、その傷が治らないという状態は、危殆に瀕したキリスト教という当時の世相が反映されている。
中世には絶対的な権威を誇ったキリスト教であるが、19世紀も末になると無神論が台頭するなど、キリスト教の権威は失墜の一途を辿っていた。
「アムフォルタスの傷を治す」と予言された「苦しみを共に出来る聖なる愚か者」に当たる人物がパルジファルである。モンサルヴァートの森で白鳥を射落として取り押さえられた男こそパルジファルであるが、彼は自分の名前も、出自も何一つ知らないという奇妙な人物である。白鳥が神の化身であることは「ローエングリン」で描かれているが、パルジファルは特に理由もなく白鳥を射落としている。
「これこそ救済を行う聖なる愚か者なのではないか」と思い当たった騎士長のグルネマンツは、パルジファルに聖杯の儀式を見せる。だがパルジファルは儀式の意味を理解出来ず、グルネマンツによって城から追い出される。
モンサルヴァートの城にはクンドリという不思議な女性がいる。最初は聖槍によって傷つけられたアムフォルタスのために薬を手に入れたりしているのだが、クンドリにはもう一つの顔があり、第2幕では魔術師のクリングゾルに仕えてモンサルヴァートの騎士達の破滅を狙う魔女として登場する。クリングゾルも元々は騎士団に入ることを希望する青年だったのだが、先王ティトゥレルに拒絶され、妖術使いへと身を堕としていた。ただ妖術の力は確かなようであり、魔の園に迷い込んだパルジファルの正体を最初から見抜いている。第2幕ではクリングゾルに命じられたクンドリがパルジファルに言い寄って破滅させようとするのだが、逆にパルジファルは覚醒してしまい、アムフォルタスに共苦する。パルジファルはクリングゾルが放った聖槍を奪い、魔の園を後にする。
そして長くさすらった後で、モンサルヴァート城に戻り、救済者となる。最後の歌は、合唱によるもので「救済者に救済を!」という意味の言葉で終わる。
かなり複雑で不可解な進行を見せる劇であり、最後に歌われる「救済者」というのがイエス・キリストなのかパルジファルなのかもはっきり分かるようには書かれておらず、様々な説がある。
分かるのは、旧来のキリスト教に代わり、あるいはキリスト教を補助する形で新たなる信仰が生まれるということである。少なくとも誰もが疑いを持たずにキリストを信仰出来る時代は終わっている。新たなる何かが必要で、それを象徴するのがパルジファルである。最初は無垢で無知だったのに、突如目覚めて賢人となり、キリストの後を継ぐもの。それは何か。おそらく「音楽」が無関係ということはないだろう。この時代、音楽はすで文学や政治と絡むようになっており、ただの音楽ではなくなっている。
新たなる信仰の誕生、そこに音楽や芸術が関わってくるというのは、決して突飛な発想ではないように思う。
クンドリの原型が仏教を題材にしているということで、仏教がキリスト教を補完するという、おそらく正統的な形についても考えてみる。四門出遊前のゴータマ・シッダールタは、シャカ族の王子として何も知らぬよう育てられた。父王が聖者から「出家したらブッダになる」と預言され、国のことを考えた場合、王ではなくブッダになると困るので、世間を知らせぬようにとの措置だった。だが、四門出遊(ゴータマが王城の4つの門から出て、この世の現実を知るという出来事)により「生病老死」の「四苦」を知り、出家。「抜苦与楽(慈悲)」へと行き着く。そうしたゴータマからブッダになる過程をパルジファルが担い、イエスの化身ともいうべきアムフォルタスの苦を除く。ストーリーとしてはあり得なくもないが、木に竹を接ぐ感は否めない。当時のヨーロッパにおける仏教理解はかなりの誤解を含んでいたと思われる。
沼尻の音楽作りは、いつもながらのシャープでキレのあるもので、スケールをいたずらに拡げず、細部まで神経を通わせている。おどろおどろしさは余りないが、その方が彼らしい。
京都市交響楽団も音色に華があり、威力も十分であった。沸き続ける泉のように音に生命力がある。
歌手達も充実。動き自体は余り多くなかったが、その分、声の表情が豊かであり、神秘的なこの劇の雰囲気を的確に表現していた。
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