観劇感想精選(433) 広田ゆうみ+二口大学 「受付」@UrBANGUILD 2022.4.19
2022年4月19日 木屋町のUrBANGUILDにて観劇
木屋町のUrBANGUILD(アバンギルド)で、広田ゆうみ+二口大学の「受付」という作品を観る。別役実が書いた二人芝居で、1980年に初演されている。今回の演出は、広田ゆうみが単独でクレジットされている。
別役実は、早大中退後、一時期労働組合の仕事に就いていたことがあるのだが、このことはこの作品を観る上では念頭に置いておいた方が良いように思う。
とある雑居ビルの一角にあるヨシダ神経科クリニック(神経科とあるが、精神科のことである。「精神科」という言葉に抵抗感を覚える人も多いため、「神経科」と少し柔らかめの表現にしている病院もかなり多い)の受付が舞台である。ここに45歳の男(二口大学)が訪ねてくる。メンタルの不調で、「重い」という程ではなさそうだが、苦しい思いをしているのは確かなようである。
余りにも自殺者が多いということもあり、20世紀から21世紀に移り変わる時期に始まった「うつ病キャンペーン」がメディアを中心に広まり、精神科にも普通に通える時代になった。少なくとも精神科に通っているというだけで不審者扱いされることは少なくなったが、「受付」が初演された1980年前後は精神科に通っただけで後ろ指をさされたり、今では放送禁止用語となっている言葉で呼ばれたりということは普通にあった。今でもその傾向は残っているが、「心を病むのは弱い人」「甘えている」「危険人物」というイメージがあり、症状が重くてもそれを嫌って精神科の受診をためらう人が多かった。この劇に登場する男も、会社の同僚には「神経科クリニックに行く」とは言えず、「歯の痛み止めを買ってくる」という理由で会社を出て、長引いたら「歯医者に回されることになった」と嘘をつくつもりでいた。メンタルで病院を受診したとばれたら、誰も口をきいてくれなくなるかも知れない。そんな時代にメンタルクリニックに通おうと決意するにはかなりの度胸が必要であり、また精神科にかかろうと思った時点で本人が自覚しているよりも症状が重い可能性もある。余り知られていないかも知れないが、精神障害が重篤化した場合、解雇の正当な理由となる。これは今でも変わっておらず、SEなどをデスマーチに追い込み、精神に傷を負わせて解雇し、新しい人材を入れて回すという使い捨て前提の悪徳IT企業の存在が問題視されていたりする。というわけで、男にもこれ以上症状を悪化させるわけにはいかないという理由があったのだと思われるが、受付の女(広田ゆうみ)は、受付の仕事らしい仕事はほとんど行わず、ベトナム(ベトナム戦争終結後ほどない時期である)やパレスチナの難民や餓死する孤児達が可哀そうなので寄付を行えだの、角膜移植が必要な子どもがいるからドナーになれだの、死後に献体をして欲しいだのと要求ばかり。受け付けているのは目の前の患者ではなく、雑居ビルにいる他の団体の希望で、患者に対しての振る舞いは押し売りとなんら変わらない(この時代には押し売りを生業とする人はまだいたはずである)。
受付の女は、突然なんの脈略もなく、「あなた独身ですか?」と聞いて、男に妻と4人の子どもがいることを聞き出す。男女雇用機会均等法が施行されるのは1986年のこと。ということでこの芝居が初演された時点では、全く同じ仕事をしていても女性は男性よりも時給が大幅に低いというのは当たり前であり、「寿退職」などという言葉もあったが、「結婚したら退職」が雇用契約書に堂々と書かれていたりもした。「女は仕事をする存在ではない」という前提があり、そんな時代に女の子ばかり4人ということで、将来的に十分な稼ぎ手になれない可能性も高い。男の子が生まれるか女の子が生まれるかは運でしかないが、男の子が欲しいために4人生んで全員女では、受付の女からでなくても叱られる可能性もゼロではない(フィクションなので笑っていられるが)。そういう時代である。
男は見た目以上に追い詰められているのではないかという推測も、決して的外れにはならないだろう。
そうやって追い詰めた男に、受付の女は雑居ビル内の他の受付からの要求を全て吞ませることに成功するのである。オレオレ詐欺などでも話題になったが、騙されてしまうのは、パニックになりやすい人、精神状態に余裕ない人である。この時代にメンタルクリニックを受診しようとしている男の精神状態は見た目よりも混乱している可能性が高く、受付の女はそれに付け込んだという見方も可能である。少なくとも受付の女は全てを得ることに成功する。
一方で、ヨシダ神経科クリニックの受付の女を始め、この雑居ビルの受付はある程度の年齢に達しているが全員独身。この時代は社会設計上、女性が一人で生きていくのは極めて困難であるため、早めに結婚する必要があるのだが、それに失敗していることが分かる。どうやらこの場にいる女達は全員不幸を背負っているようでもあり、絶対的な弱者であると見ることも出来る。一つ不幸が別の形の不幸を呼ぶことは歴史が証明しているのだが、外見上は華やかな時代にあって、この時代の人々はそうしたことにどれだけ自覚的であっただろう。
受付の女がなぜ受付の仕事に就いたのかは不明であるが、複数の受付の「不幸な」女達が訪れた人の身ぐるみを剥いでいくような過程は不気味である。そして受付の女たちが要求するのは、「反論のしようもない正義」であり、「反論のしようもない」ことの恐ろしさも浮かび上がる。誰かのための善意が目の前の人を追い詰めていく。目の前に苦しんでいる人がいるのにそれを無視して会ったこともない誰かの幸せを望むのは欺瞞でしかないが、こうした欺瞞は今もあちこちで見られる現象である。ウクライナの勝利を願っても、今朝、電車に飛び込んだ人のことは気にも留めないといったように。
1980年代。高度成長期が終わり、バブルの始まる前夜の時代である。華やかではあったが、今から見ればブラックな労働環境が当たり前で、1987年にはリゲインという栄養ドリンクの「24時間働けますか」というキャッチコピーが流行語となった。企業に全権を委任して就職し、自らを奴隷化して働くのが美徳とされた時代である。働いた分だけ給料が上がる時代でもあってそれが疑問視されることも少なかったのだが、この「受付」という芝居でも、男は死後に角膜やら遺体やらを全権委任する羽目に陥る。まるでメフィストフェレスや荼枳尼天との契約のようであるが、世相を反映していると見るべきか。一般的にはどうかわからないが、別役実はこの過酷なシステムに意識的であったように思われる。
ラストで、どうやら受付の女が医師への取次ぎを妨害していることがわかる。受付を通さないと医師には会えないらしい。受付は訪れた男のために設けられたもので、カフカの「門」のようでもあるが、治療を受ければ復帰できる可能性もある患者を医師に会わせないよう仕向けている。これはあるいは当時の「精神科のイメージ」をめぐるメタファーなのだろうか。受付の女は単なる受付の女ではなく、「社会の空気」そのものの象徴であるようにも見える。
目の前にいる人間を救えないどころか追い詰めるという「風潮」は、実際のところ今も余り変わっていない。
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