コンサートの記(802) 飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団 いずみ定期演奏会№28「歌を手にしたトランペット」 ハイドンマラソン第2回
2015年9月25日 大阪・京橋のいずみホールにて
午後7時から、大阪・京橋のいずみホールで、日本センチュリー交響楽団 いずみ定期演奏会№28「歌を手にしたトランペット」を聴く。センチュリー響首席指揮者である飯森範親の指揮でハイドン交響曲チクルスを目指す「ハイドンマラソン」の第2回演奏会である。
オール・ハイドン・プログラム。交響曲第77番、トランペット協奏曲変ホ長調(トランペット独奏:小曲俊之)、交響曲第14番、交響曲第101番「時計」が演奏される。
コンサートミストレスは松浦奈々。今日は女性奏者達が思い思いにドレスアップして登場。センチュリー響は(というよりも日本の大半のオーケストラはそうだが)女性団員の方が多いので、ステージ上が華やかになる。
当然ながら古典配置、ピリオド・アプローチによる演奏である。交響曲第77番と第14番には通奏低音としてチェンバロ(独奏:パブロ・エスカンデ)が加わる。ハイドンは初期の交響曲に関しては自身がチェンバロを弾きながら、いわゆる弾き振りをしていただろうと推測されており、初期のハイドンの交響曲を演奏する時には普通はチェンバロが入る。ただ、飯森範親によると、交響曲第77番はチェンバロをいれるべきかどうか微妙な時期に書かれているという。比較的知名度の高い後期の交響曲(ニコラウス・エステルハージ候没後)はチェンバロなしで演奏されていたことがわかっているため、チェンバロ入りだと不都合が出る。交響曲第77番はどちらなのか詳しいことはわかっていないが(ニコラウス・エステルハージ候は存命中だが、ロンドンでの演奏を念頭に入れて書かれており、英国でハイドン自身のチェンバロなしでも演奏出来るよう書かれた可能性もある)、飯森は「入れよう」と判断したそうである。
今日の飯森は全曲ノンタクトで指揮した。
交響曲第77番は、活きの良い演奏であり、ノンビブラートの弦の音色が美しく、管もまろやかに響く。いずみホールは天井が高いため、最後の音が鳴り終わった後も音が天井に留まるような感覚がある。ただ、これはオーケストラが良く鳴った時限定であり、その意味ではセンチュリーは素晴らしい演奏を展開したことになる。
トランペット協奏曲変ホ長調。ソリストを務める小曲俊之(こまがり・としゆき)は、日本センチュリー交響楽団の首席トランペット奏者であるが、名手として知られているらしい。
場面転換の間は、飯森範親がマイクを片手にトークで繋いでいたが、オーケストラ奏者達がさらう音がステージ上までかしましく響いてきたため、飯森が袖に向かって「静かにしてー!」と呼びかける場面があった。
小曲俊之のトランペットは燦々と輝く音色が特徴であり、高いメカニックもあって豊かな歌が展開される。この曲はトランペットとオーケストラとの対話が特徴的であり、小曲とセンチュリー響の掛け合いは、小曲がセンチュリー響の楽団員ということもあって、スムーズかつ温かく進行する。
後半。交響曲第17番。初期のハイドンの交響曲であり、比較的シンプルで分かり易い。センチュリー響は精緻なアンサンブルで聴かせる。
編成が異なるため、交響曲第17番と第101番「時計」の間に転換があり、飯森が再びマイクを手に登場し、交響曲第17番の最終楽章について、「男女が喧嘩をして、男役のオーボエが落ち込んでしまい、弦がみんなでそれを慰める」という解釈を披露する。また、交響曲第101番「時計」の第3楽章について、「オーケストラの妖精のような少女が現れて、彼女にスケベ心を持った男が近づこうとし」という、バレエ音楽的な解釈をしてみせる。第3楽章はトリオ形式だが、実際に聴いてみると、中間部に現れるフルートの旋律が妖精のような少女、なれなれしく近づく男をファゴットが表しているのだと受け取ることが出来た。
交響曲第101番「時計」は、第2楽章がチクタクと時を刻む時計の描写のようだというので「時計」という愛称が付いたのだが、実際は時計を表したものではなく、タイトルも後に第三者が付けたものである。
飯森は、トークで「『時計』の演奏はとても難しい」と語っていたが、それまでの3曲に比べてみると大掛かりな仕掛けが多い上、スケールも大きく、各パート毎の旋律も高い技術がないと弾けないものであることがわかる。
しかし、センチュリー響は大健闘。飯森はピリオドを意識してやや速めのテンポを採用したが、飯森の腕の動きにセンチュリー響は機敏に反応し、立派なハイドン像を築き上げる。
ハイドンの音楽は、モーツァルトやベートーヴェンに比べると内容に深みがないためか、記憶に残りにくいのだが、演奏が行われている間は、幸福な時間に浸ることが出来た。
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