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2022年8月 4日 (木)

観劇感想精選(440) 兵庫県立ピッコロ劇団 「三人姉妹」

2022年7月20日 尼崎・塚口の兵庫県立ピッコロシアター中ホールにて観劇

午後6時30分から、尼崎・塚口のピッコロシアター中ホールで、兵庫県立ピッコロ劇団の「三人姉妹」を観る。ピッコロ劇団の島守辰明の翻訳と演出での上演である。島守はロシア国立モスクワ・マールイ劇場(「マールイ」は「小さい」という意味で、「大きい」を意味する「ボリショイ」の対義語)及びマールイ劇場附属シェープキン演劇学校で学んでおり、ピッコロ劇団でもチェーホフ作品を手掛けている。

チェーホフの四大戯曲の一つである「三人姉妹」。日本語訳テキストの上演のほかに翻案作品も数多く作られていることで知られている。私も「三人姉妹」はいくつか観ているのだが、納得のいく出来のものにはまだ出会えていない。チェーホフの上演は想像よりも難しく、そのまま上演するとあらすじを流したようになってしまい、下手に手を加えるともうチェーホフ作品にならない。かなり繊細な本で、これまでは無理に「面白くしてやろう」と手を加えて、全体が捉えられなくなり、結果としてとっちらかったような印象ばかりが残ってしまうことが多かった。


出演は、吉江麻樹(オリガ)、樫村千晶(マーシャ)、有川理沙(イリーナ)、谷口遼(アンドレイ)、山田裕(ヴェルシーニン)、今仲ひろし(クルイギン)、鈴木あぐり(ナターリヤ=ナターシャ)、堀江勇気(ソリョーヌイ)、三坂賢次郎(トゥーゼンバフ)、杏華(アンフィーサ/母)、風太郎(フェラポント/父)、チェブトゥイキン(森好文)。

「三人姉妹」に通じた方の中には、「あれ?」と思われる役名が存在すると思われるが、「生と死」「在と不在」を強調するために、幽霊役も演じる俳優がいるのである。


ロシアの田舎。チェーホフの指定によると県庁所在地の街が舞台である。ただ、三人姉妹が暮らす屋敷は、駅や街の中心地からも遠い。

三人姉妹の長女であるオリガは教師として働き、次女であるマーシャ(マリア)は、教師であるクルイギンと結婚。二十歳で世間知らずのイリーナは働くことに夢と希望を持っているが、実際に電信局で働き始めると、夢も詩も思想もない生活に辟易し始める。

三人の憧れの地として、11年前に離れた故郷であるモスクワの名が何度も語られるが、結局はその街は、行くことのままならない理想郷としてのみ語られる。人類がたどり着くべき未来などもモスクワという言葉に仮託されている。良いことなどなにも起こらぬままの人生を働くことなどでなんとか乗り切ろうとする人生の悲しい姿がそこにある。

この作品の最大の謎の一つが、ナターシャ(ナターリヤ。ロシア語には愛称の種類がたくさんあり、一人の人間に対して多くの愛称が語られるため、ロシア語圏以外の観客を戸惑わせる元となっている。ロシアの小説には、愛称の注釈なども載っていることが多いので、読んで慣れるしかない)という女性である。最初は恥ずかしがり屋で頼りない印象を与える(今日はそれほどではなかったが)が、冒頭から4年ほどが経過した第2幕では、アンドレイとの間に生まれた子どもの環境を良くするために、イリーナの部屋を明け渡すよう要求するなど、かなり図々しい性格に変化しており、最終的には当家の女主のように振る舞う。この女性は一体何なのか? ただの悪女として登場しただけではないはずである。
ロシア文学を読んでいると、当初は大人しく世間知らずだった若い女性が、いつしか相手の男をしのぐ強い女性に変身しているというケースがままあることに気づく。チェーホフの「かもめ」のニーナもその一人だし、プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」のタチヤーナもそうだ。いずれも「余計者」の相手役であるが、ナターシャの相手となるアンドレイも「余計者」とまではいかないが、大学教授や市井の研究家となることを期待されるも果たせず、片田舎の市会議員で満足するしかなく、子どもをあやして生活するような、ナターシャの尻に敷かれている男である。
単純に時が経過したということなのかも知れないが、ナターシャの場合は、ニーナやタチヤーナに比べてはるかに化け物じみており、実際に「怪物」と形容するセリフがある。なにかのメタファーだと考えてよいと思われるが、すぐに思い浮かぶもの、例えばロシアという国家などはおそらく正解ではない。目の前の人生を生きやすくし、一方で誰かに迷惑を掛けるような指向性のメタファーである。そうなると現在の世界を覆う多くの主義主張はナターシャのような怪物になってしまう訳だが。あるいは「現実主義」という言葉が彼女の性格をより的確に表しているのかも知れない。
見方を変えれば、ロシアがヨーロッパに対して抱く恐れをあるいは体現しているのかも知れないが。

街は駐屯している軍隊の恩恵を受けており、実際にマーシャはヴェルシーキンと、イリーナはトゥーゼンバフやソリョーヌイという軍人と恋愛関係になるが、軍隊が去るのと同時に彼らも目の前から消えていく。トゥーゼンバフに至ってはこの世から去る。太宰治がとある有名小説にその影響を記したと思われる言葉は果たされることなく終わる。

神も希望もなにもない世界を、ゴドーが来るまで立ち去ることが出来ないジジとゴゴのようにただ生きなければならないという寂寥。今回のラストでは、三人姉妹とアンドレイの父と母、ヴェルシーキン、トゥーゼンバフとソリョーヌイら去る人、去った人が竹林をイメージした茂みの向こうに立ち、上手へと去って行くという演出が施されていた。皆、「希望」でもあった人である。そうした何の望みもない場所で、生きていかねばならないという不条理がカタルシスを呼ぶよう工夫されていた。

「生と死」「在と不在」と描くため、青や緑といった寒色系の照明の多用が特徴。音楽も、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章以外は、アンビエント系のものが用いられており、生きる希望が沸くようなドラマに欠けた現実世界を照射しているかのようであった。

これが正解という訳では勿論ないが、「三人姉妹」の再現として良い点を突いた演出であることは間違いない。大手プロダクションが手掛ける「三人姉妹」は、どうしても大物女優がキャスティングされやすくなるが、「三人姉妹」に関しては、有名女優であることが却ってマイナスに働くであろうことは容易に察せられる。必要なのは三人の特別な姉妹ではなく、群像劇に溶け込める平凡な三人の姉妹である。その点でも今日の上演は理想に近いものであったといえる。

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