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2022年8月14日 (日)

観劇感想精選(442) 「観世青年研究能」 令和4年8月6日

2020年8月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて

左京区岡崎の京都観世会館で、「観世青年研究能」を観る。午前11時開演。能楽観世流若手による上演だが、時節柄体調不良の者が多く、出演者にかなりの変更がある。

演目は、「田村」、大蔵流狂言「太刀奪」、「杜若」、「鵺」

先日、上七軒文庫のシラス講座「能と唯識」で取り上げられた「鵺」が上演されるということで、講師で観世流シテ方の松井美樹が宣伝していた公演である。今日は本来なら出勤日なのだが、手掛けている仕事も一段落ということで、休みを取って観に行くことにしたのだ。同じ講座を受講している人と会えるかなとも思ったのだが、残念ながら観に行ったのは私一人だけだったようである(松井美樹は地謡として「鵺」に出演していた)。

謡本は、Kindleで買ったものをスマホにダウンロードしており、昨日、一通り読んで来たのだが、いざ本番となると、肝心要のセリフが聞き取れなかったりする。「聞き取れない部分の面白さ」も能にはあるわけだが、なるべくなら謡も聞き取れた方がいい。ということで、売店でミニサイズの謡本「杜若」と「鵺」を購入。不思議なもので本を読んでいると謡も「そう言っているようにしか聞こえない」ようになる。周りを見ると、謡本を手に能を観ている人も結構多い。


謡本を購入する前に観た「田村」。この作品は、YouTubeなどで何度か観たことがあり、あらすじも分かっているのだが、次回は謡本を手に観た方が良さそうである。
「田村」というのは、征夷大将軍・坂上田村麻呂(劇中では田村丸)のことである。
ワキの僧侶は、東国出身で都(京都。平安京)を見たことがないというので、上洛してまず清水寺(「せいすいじ」「きよみずでら」の両方で読まれる)に詣で、そこで地主権現(現在の地主神社)の桜の精(前シテ)と坂上田村丸の霊(後ジテ)に出会うという物語である。「杜若」に出てくる僧侶が京の生まれで東国を見たことがないというので東下りするのと丁度真逆の設定となっている。
出演:谷弘之助(前シテ、後ジテ)、岡充(ワキ。旅僧)、島田洋海(アイ。清水寺門前ノ者)。

坂上田村麻呂と縁の深い清水寺。この演目ではその由来が語られる。懸造りの舞台が有名な清水寺であるが、勿論そればかりではない。音羽の滝の清水や、地主神社、十一面観音などの来歴がシテや地謡によって語られていく。


狂言「太刀奪」。野村万作、野村萬斎、野村裕基の親子三代による和泉流狂言も観ているが、大蔵流は設定からして和泉流とは異なる。

和泉流では太郎冠者がすっぱに太刀を奪われるのであるが、大蔵流では太郎冠者が北野天満宮通いの男の太刀をすっぱよろしく奪おうとするという真逆の設定になっている。
出演:山本善之(太郎冠者)、茂山忠三郎(主人)、山口耕道(道通の者)。

和泉流でも大蔵流でも霊験あらたかな寺社に詣でるのは一緒だが、和泉流の鞍馬寺に対して大蔵流は北野天満宮となっている。どちらも京都の北の方にある寺社ということだけ共通している。


「杜若」。三河の八つ橋の在原業平伝説にちなみ演目である。出演:河村晴道(代役。シテ。杜若ノ精)、有松遼一(ワキ。旅僧)。
当代一の色男にして色好み(三河は「実は三人の女」、八つ橋も「実は八人の女」説があるようだ)、加えて天才歌人と見なされた才能。だがそれ故にか嫉妬され、出世を阻まれ東下り(実際にはそれなりに出世しており、東下りも伝説に留まる)と不遇の貴公子のイメージも強い業平であるが、この演目では、業平の霊と共に業平の愛人である高子后の霊、杜若の霊が一体となって舞う場面がある。
「田村」での田村丸の舞、「鵺」での鵺の前も勇壮であり、気が飛んでくるような迫力があるが、この「杜若」での舞はそれとは真逆の静寂でたおやかなものである。「色ばかりこそ昔なれ」という謡の前に置かれていることから、それは「単なる時の経過」を表していると見ることも出来るのだが、その発想が尋常ではない。「時の過ぎゆく様を舞で表したい」とは普通は着想も実現も出来ない。しかしこの「杜若」での舞は、そうした様子が悲しいほど切実に伝わってきた。時が過ぎゆくほど残酷なことはない。そしてこの杜若の舞が、「草木国土悉皆成佛」へと繋がっていくのである。


「鵺」。以前に春秋座の「能と狂言」公演で観たことのある演目である。世阿弥の作といわれている。出演:寺澤拓海(シテ)、原陸(ワキ。旅僧)、増田浩紀(アイ。里人)。

頭は猿、尾は蛇、手足は虎、胴体は狸に似ているというキメーラの鵺。鳴き声が鵺という鳥(トラツグミ)に似ているので鵺と名付けられた怪物である。近衛天皇の御代(この時の近衛天皇は今でいう中学生と同い年ぐらい。その後、わずか17歳で崩御している)、東三条の空に黒雲が宿り、やがて御所へと押し寄せて近衛天皇を気絶させるほどに苛むものがあった。その正体が鵺である。三位頼政、源三位頼政として知られる源頼政がこの鵺を弓矢で射て退治することになる。

鵺退治の褒美として頼政は宇治の大臣(悪左府の名で知られる左大臣藤原頼長)の手を通して獅子王という剣を拝領するのだが、その時にホトトギスが鳴いたので、頼長は、「ほととぎす名をも雲居に揚げるかな」と上の句を詠み、頼政が「弓張月のいるにまかせて」と下の句を即興で継いだという下りが出てくる。三位頼政も悪左府頼長も平安時代末期の人であり、室町時代初期の人である世阿弥は彼らの最期がどうなったかを当然ながら知っている。それを考えた場合、鵺の最期も悲惨であろうと想像することは必然でもある。

鵺の悪とは、天皇を苛んだことであるが、それ以上に大きななにかがありそうである。だがそれは劇中では明らかにされない。なぜ鵺として現れたのか、なぜ天皇を苛んだのかいずれも謎である。

春秋座で「鵺」を観た時には、渡邊守章が「鵺=秦河勝説」を唱えていたが、世阿弥自身も秦河勝の末裔を名乗っており、秦河勝は能楽(猿楽)の祖ともいわれている。
最晩年に赤穂・坂越に流罪になったともいわれる秦河勝は、キメーラである摩多羅神と同一視されてもいるという。
「鵺」は世阿弥の最晩年に書かれた作品とされている。世阿弥の心に何か去来するものがあったのであろうか。

午前11時に開演して、終演は午後4時近く。約5時間の長丁場であった。

Dsc_1232

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