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2022年9月の20件の記事

2022年9月29日 (木)

コンサートの記(806) 広上淳一指揮オーケストラ・アンサンブル金沢大阪定期公演2022

2022年9月23日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、オーケストラ・アンサンブル金沢の大阪定期公演を聴く。指揮は、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)アーティスティック・リーダーに就任したばかりの広上淳一。広上とOEKは、今月18日にシェフ就任のお披露目となる演奏会を行い、同じプログラムで、名古屋、大阪、東広島、境港を回る。

京都市交響楽団退任後は、名誉称号も断り、フリーランスの指揮活動に専念しようと思っていたという広上だが、岩城宏之や井上道義という広上も影響を受けた指揮者の薫陶を受けてきたオーケストラ・アンサンブル金沢のシェフをOEKアーティスティック・リーダーという称号で受諾している。


曲目は、コダーイのガランタ舞曲、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」(デシャトニコフ編曲。ヴァイオリン独奏:神尾真由子)、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」


今日のコンサートミストレスはアビゲイル・ヤング。ドイツ式の現代配置での演奏である。通常のティンパニの横にバロックティンパニが置かれており、「英雄」がピリオドスタイルで演奏されることがわかる。


広上淳一は頭髪をきれいに剃って登場。老眼鏡を掛けてスコアを確認しながらの指揮である。


コダーイのガランタ舞曲。コダーイが子供時代を過ごしたガランタの街で聞いたジプシーの音楽に影響を受けたというガランタ舞曲。いかにもそれらしい旋律で始まり、オリエンタルムードにも富む旋律も登場する。
広上指揮するオーケストラ・アンサンブル金沢は音の分離が良く、ノリの良さと同時に構築力の確かさも感じられる。


ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」。聴く機会が徐々に増えつつある作品である。元々は室内楽編成による曲で、室内楽バージョンも演奏会のプログラムでよく目にするようになっているが、今回はウクライナ出身のレオニード・デシャトニコフ(1955- )の編曲による独奏ヴァイオリンと弦楽合奏版で演奏される。曲順は、「ブエノスアイレスの秋」「ブエノスアイレスの冬」「ブエノスアイレスの春」「ブエノスアイレスの夏」の順番だが、ブエノスアイレスのある南半球は北半球と季節が逆転しているということで、「ブエノスアイレスの秋」にはヴィヴァルディの「春」の、「ブエノスアイレスの夏」はヴィヴァルディの「冬」の、「ブエノスアイレスの春」はヴィヴァルディの「秋」の、「ブエノスアイレスの夏」はヴィヴァルディの「冬」からの引用がある。それとは別に「ブエノスアイレスの春」にはヴィヴァルディの「春」からの直接的な引用がある。

特殊奏法も数多く用いられている作品であるが、神尾真由子は切れ味鋭いヴァイオリンで、ブエノスアイレスの四季とヴィヴァルディの四季、合わせて8つの季節を描きあげる。
広上指揮のOEKも雰囲気豊かな演奏を展開。クールな出来である。

神尾のアンコール演奏は、お得意のパガニーニの「24のカプリース」より第5番。超絶技巧が要求される曲だが、音階をなぞる部分も音楽的に聞こえるのが、神尾のヴァイオリニストとしての資質の高さを物語っている。


ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。広上の十八番の一つである。
ピリオドを援用した演奏であるが、かなりゆったりとしたテンポを採用。「たおやか」な表情も見せる演奏で、一般的な「英雄」の演奏とは大きく異なる。
おそらく第4楽章に登場するプロメテウスの主題に重要な意味を持たせた演奏で、プロメテウス主題のみならず、第1楽章から音楽の精が舞っている様が見えるような音楽礼賛の演奏となる。ナポレオンは死んでも音楽は生き残る。あるいは第1楽章の軍事的英雄は、直接的もしくは間接的な「死」を経て、ミューズとなって復活するのかも知れない。
ただ単調な演奏ではなく、第2楽章も濃い陰影を伴って演奏されるなど、適切な表情付けが行われるが、基本的には他の演奏に比べると典雅な印象を受ける。この曲の「ロマン派の魁け」的一面よりも古典的な造形美を重視したような演奏であった。


広上は演奏終了後にマイクを手に登場し、「いかがだったでしょうか?」と客席に語りかけて拍手を貰い、「来週、私はしつこくまた登場します」「『またおまえか』と言われそうですが」と10月1日に行われる京都市交響楽団の大阪公演の宣伝を行っていた。


アンコール演奏は、ビゼーの「アルルの女」よりアダージェット。しっとりとした美演であった。

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2022年9月27日 (火)

美術回廊(79) 「とびだせ!長谷川義史展」@大丸ミュージアム〈京都〉

2022年9月17日 大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階にある大丸ミュージアム〈京都〉で、「とびだせ!長谷川義史展」を観る。今日が開催初日である。

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絵本作家として人気の長谷川義史。私自身はそれほど詳しくはなかったが、上七軒文庫で行われる「井上歳二絵本ライブ」で長谷川義史の絵本が多く取り上げられるため、馴染みの存在となっていた。

長谷川義史は、1961年、大阪府藤井寺市生まれ。高校卒業後に専門学校に進み(本当は美大に行きたかったが、母子家庭であったため、費用面で無理であった)、その後にデザイン事務所などでアルバイトとして働きながら更に絵を学ぶ。その頃に週刊朝日の「山藤章二の似顔絵塾」に投稿した似顔絵も展示されている。その後、南河内万歳一座の作品ポスターを手がけて注目され、絵本を発表する。奥さんもデザイナーから絵本作家に転じた人で、長谷川の背中を押したのは奥さんだそうだ。
自身のルーツをたどる『おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん』、寛容さの大切さを説くような『いいからいいから』、反戦のメッセージを持った『ぼくがラーメンたべてるとき』、同じく『へいわってすてきだね』などの原画が並ぶ。顔が大きく、パーツが中心に寄っているなど、「こども」の要素を持つ人物が登場することで、愛らしさが強調され、大人から子どもまで親しまれるであろうタッチが特徴となっている。またストーリー展開があるというよりも、一枚ワンシーンの構図で完結した絵が連続するという感じであり、昔ながらの紙芝居を想起させるところもあって、なんともいえない懐かしさが画面から溢れている。紙芝居が子どもたちの娯楽であった戦後すぐの時代が作品の中で広がっているかのようだ。

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映像展示もあり、長谷川が絵を描く様子も見ることが出来る。長谷川は下絵は描かず、「塗るんじゃなくて描く」「やりにくいをチャンスと思おう」「正解したと思う方が絵は失敗」といったような創作哲学を説いている。

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東日本大震災後の福島での野球を題材にした絵本もある。『ぼんやきゅう』という作品で、興味を引かれる。物販コーナーもあったのだが、今日は持ち合わせが余りなかったため、買うのは諦めた。いずれどこかで購入したいと思う。

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2022年9月25日 (日)

コンサートの記(805) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第561回定期演奏会

2022年9月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第561回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

オール・ワーグナー・プログラムで、歌劇「リエンツィ」序曲、ヴェーゼンドンク歌曲集(メゾ・ソプラノ独唱:池田香織)、楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲。ブリュンヒルデの自己犠牲のメゾ・ソプラノ独唱は池田香織)


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。


歌劇「リエンツィ」序曲。トランペットのソロ(信号ラッパを表している)に続く弦楽の典雅な響きは、尾高の指揮ということもあってエルガーの音楽のように聞こえる。「ノーブル」という言葉が最も似合う音だ。ただ、ワーグナーの音楽の特徴は聖と俗の混交にあるため、「上品すぎるかな」とも思ったのだが、金管などには俗な要素も振っており、尾高の解釈の確かさが感じられる。


ヴェーゼンドンク歌曲集。「天使」「とどまれ」「温室にて」「苦しみ」「夢」の5曲からなる歌曲である。チューリッヒでワーグナーと出会い、愛人関係となったマティルデ・ヴェーゼンドンクという絹織物商人の夫人のために書かれた歌曲で、歌詞はマティルデが書いたものである。
ワーグナーは「夢」のみに小規模オーケストラのための編曲を施しており、残りの4曲はフェリックス・モットルによる編曲で演奏されるのが一般的であるが、今回は全5曲をハンス・ヴェルナー・ヘンツェが1976年に編曲したものが採用されている。ヘンツェの編曲も小規模オーケストラのために行われたもので、今日は第1ヴァイオリン6、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが各4、コントラバスが2という弦楽編成。管楽器はフルートとホルンが2管編成である。

日本を代表するワーグナー歌手の一人である池田香織。喉の調子が絶好調という訳ではなかったようだが、落ち着いた声による情感豊かな歌声を聞かせていた。


楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲)。
朝比奈隆以来のワーグナー演奏の伝統を持つ大阪フィルハーモニー交響楽団。「大フィルサウンド」と呼ばれる重厚な響きもワーグナーには似つかわしい。

尾高はスケール雄大で厚みと輝きのあるワーグナーサウンドを大フィルから弾き出すが、この音は尾高と今の大フィルが出したというよりも、これまでドイツ音楽に徹底して取り組んできた大フィルの長い歴史が生んだものであり、大フィルの歴史が背景のようにそそり立つのが見えるかのようだ。伝統によってもたらされた重層的な響きである。
大フィルの歴史が生んだ音を生かしつつ、尾高は彼らしい見通しの良い演奏を行う。毒こそ控えめだが、堅牢なフォルムと煌びやかな音色がワーグナーそのものの山脈を築き上げていく。
ブリュンヒルデの自己犠牲で独唱を務めた池田香織。池田はブリュンヒルデを当たり役としている。ヴェーゼンドンク歌曲集の時よりもずっと生き生きして見えるのは決して偶然ではないだろう。声に中にブリュンヒルデの命が息づいている。
歌い終えてすっくと佇む池田の姿はまるで慈母のような格好良さであった。

ワーグナーの良さを堪能出来る夜となった。

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2022年9月24日 (土)

観劇感想精選(446) 日本初演30周年記念公演 ミュージカル「ミス・サイゴン」@梅田芸術劇場メインホール 2022.9.15

2022年9月15日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ミス・サイゴン」を観る。日本でもたびたび上演される大ヒットミュージカルである。ロングランのため複数人がキャストに名を連ねており、今日の出演は、伊礼彼方(エンジニア)、高畑充希(キム)、チョ・サンウン(クリス)、上原理生(ジョン)、松原凜子(エレン)、神田恭兵(トゥイ)、青山郁代(ジジ)、藤元萬瑠(タム)ほかとなっている。

プッチーニの歌劇「蝶々夫人」の舞台をベトナム戦争とその直後に置き換えて制作されたミュージカル。作曲は、「レ・ミゼラブル」のクロード=ミシェル・シェーンベルクである。クロード=ミシェル・シェーンベルクは、「蝶々夫人」の旋律を生かしており、「ここぞ」という場面では、「蝶々夫人」の旋律が効果的にアレンジされた上で奏でられる。またベトナムが主舞台ということで、東南アジア風の旋律も要所要所で登場する。どことなくラヴェル風でもある。

ベトナム最大の都市にして、南ベトナムの主都であったサイゴン市(現ホーチミン市)。戦災により家を失い、サイゴンへと逃げてきたキムは、女衒のエンジニアの後について、売春宿にやってくる。キムは米兵のクリスに買われて一夜を共にするが、それがキムの初体験だった。二人は愛し合い、結婚式を挙げるが、アメリカの傀儡国家であった南ベトナム(ベトナム共和国)の首都であるサイゴンが陥落し、米国の敗北が決定的になったことから、米兵であったクリスはサンゴンを後にしてアメリカへと戻る。その間にキムは、クリスの子である男の子を生んでいた。


有名作であるが、私は「ミス・サイゴン」を観るのは初めて。プッチーニの音楽を大胆に取り入れた音楽構成と、ベトナムの風習や衣装を生かし「蝶々夫人」では日本人以外は納得しにくかったラストを改変するなどしたストーリーが魅力で、「蝶々夫人」を観たことがない人でも楽しめる作品になっている。
「蝶々夫人」のラストは、日本人以外には納得しにくいもののようである。台本を担当したジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカ、原作小説を書いたジョン・ルーサー・ロングとそれを戯曲化したデーヴィッド・ベラコス、更にはプッチーニも日本的な美意識を理解していたということになるが、「自決の美学」は西洋人にはピンとこない事柄であるようだ(そもそも西洋人の大半がキリスト教の信者であり、キリスト教では自殺は罪とされている)。そこで蝶々夫人にあたるキムを積極的にわが子に命を与える女性に設定し、死ぬことで子どもの未来を開いた女性の「自己犠牲」を描いた悲劇となっている。ただ日本人である私は、この改変に対しては「合理的」に過ぎるという印象を受け、良くも悪くも「死」でもって何かと決着をつけようとする日本的な美意識の方により引き付けられる。ただ日本人の美意識もたびたびの転換を迎えており、日本人であっても「蝶々夫人」のラストの意味が分からない人が大半になる日が来るのかも知れない。そしてそれは第二次大戦時の残酷さを思えば、必ずしも悪いことではないのだろう。

私自身は、高畑充希が演じるキムが見たかったので、この日を選んだが、童顔系でありながらパワフルな歌唱を聞かせる高畑充希は、キム役に合っていたように思う。何度も上演されているミュージカルなので、そのうちにまた高畑充希以外のキムで聴くのもいいだろう。今日は視覚・聴覚(歌詞が聞き取れない部分がいくつもあった)両面で問題のある席だったので、別の席で観る必要も感じた。今回のプロジェクトで再び観る気はないが、次回以降のプロジェクトでも観てみたくなる作品であった。

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2022年9月20日 (火)

スタジアムにて(41) J1 京都サンガF.C.対横浜F・マリノス@サンガスタジアム by KYOCERA 2022.9.14

2022年9月14日 サンガスタジアム by KYOCERAにて

午後7時から、サンガスタジアム by KYOCERAで、J1 京都サンガF.C.対横浜F・マリノスの試合を観る。
J1昇格は果たしたが苦戦することも多い京都サンガF.C.。現在のところ降格圏にはいないが13位に甘んじている。一方、対戦相手の横浜F・マリノスは現在首位であり、サンガの劣勢が予想される。

今日は試合前に京都市交響楽団の楽団員(塩原志麻、片山千津子、小田拓也、渡邉正和、黒川冬貴)による弦楽五重奏団の演奏がある。
まずは今日は宇治市DAYということで、宇治市内の中学校から各部門で業績を上げた生徒らがスタジアム内(といっても端の方だが)を歩き、京都市交響楽団の弦楽五重奏団が大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のオープニングテーマを3回ほど繰り返して演奏した。
弦楽五重奏団はキックオフの前のセレモニーでも演奏を行ったが、よく知らない曲で、音も応援団の太鼓にかき消されがちであった。


サンガとF・マリノスの実力差は、パッと見で分かるものではないが、上がりはF・マリノスの選手の方が速めである。

サンガも相手ゴール前で決定的なチャンスを迎えたりもしたが、あと一押しが足りず、逆にF・マリノスのエドゥアルドにヘディングシュートをゴール右隅に決められ、先制点を許す。

後半に入ってもF・マリノスのペースは続き、エルベルのループシュートがキーパーとその後ろにいたディフェンダーの頭の上を超えてゴールネットを揺らす。2-0。

サンガは、残り後3分というところで、コーナーキックを得る。クロスに井上黎生人が反応。これは相手キーパーに阻まれるが、こぼれたボールを金子大毅が蹴り上げ、ゴールの上のネットを揺らす。サンガ、一矢報いて更に攻撃を続けるが追加点はならず。J1首位の壁は厚く、サンガは1ー2での惜敗となった。

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2022年9月19日 (月)

楽興の時(45) チューバ奏者・坂本光太×演出家・和田ながら 「ごろつく息」京都公演

2022年9月9日 木屋町のUrBANGUILDにて

午後7時から、木屋町のUrBANGUILDで、チューバ奏者・坂本光太×演出家・和田ながら「ごろつく息」を聴く。チューバの特殊演奏とパフォーマンスからなるプログラム。出演は、坂本光太、長洲仁美(俳優)、杉山萌嘉(すぎやま・もえか。ピアニストただし今回はピアノ演奏はせず)。

坂本光太は、1990年生まれのチューバ奏者。現代音楽、即興演奏を得意とする。現在は京都女子大学の助教を務めている。

杉山萌嘉は、1991年生まれのピアニスト。東京音楽大学附属高校ピアノ演奏家コースを卒業後に渡独し、フライブルク音楽大学を卒業。更にカールスルーエ音楽大学の修士課程を修了している。カールスルーエ音楽大学には管楽器科の伴奏助手として勤務。帰国後は京都を拠点としている。

長洲仁美は、茨城県生まれ。京都造形芸術大学を卒業後に、和田ながらのしたためなどに出演している。


プログラムは、「浮浪」(長洲仁美の一人語り)、チャーリー・ストラウリッジの「カテゴリー」、ヴィンコ・グロボカールの「エシャンジュ」(坂本光太&長洲仁美)、坂本光太と杉山萌嘉の「オーディションピース」(二人によるモノローグ)、池田萌の「身体と管楽器奏者による序奏、プレリュードと擬似的なフーガ」(坂本光太&長洲仁美)、坂本光太と長洲仁美による「一番そばにいる」


長洲仁美による「浮浪」は、超口語演劇を模した一人語りだが、個人的には超口語演劇は、友達面してズカズカ人の家に上がり込んで来る厚かましい奴のようで嫌いである。


チャーリー・ストラウリッジの「カテゴリー」は、演奏するというよりもチューバの可能性を広げる音楽で、蠕動のような響きから草原を渡る風のような音へと変わり、機械音のようなものへと変貌していく。

ヴィンコ・グロボカールの「エシャンジュ」は、鍋の蓋(のようなもの)、プラスチック製の盥、道路工事のコーンなどでチューバをミュートしていく音楽で、指示はスマホの画面に映し出され、ミュートするものは長洲仁美がチューバのベルへと指示に沿って差し込んでいく。実のところ、入れるものによって音色が極端に変わるということはなく、むしろマウスピースの使い方によって音が変化していく。動物の声のように聞こえる瞬間があるが、それが「吐く息」のよって作られる音色なのだということを再確認させられる。


坂本光太と杉山萌嘉による「オーディションピース」。二人は楽器は演奏せず、演奏している時の心の声を語る。「のだめカンタービレ」の演奏シーンの拡大版のようでもあり、あるいはコロナ禍にニコニコ動画で行われた無観客演奏の配信時に観客が演奏中の心の声を書き込んだように、今回は演奏家側が演奏中の心の声を届けるという試み。ただし音楽は奏でられないし聞こえない。一応、台本はあるようだが、譜面を見ながら即興で語る部分も多そうである。
二人とも音楽家であるが、喋りもなかなか達者であった。


池田萌の「身体と管楽器奏者による序奏、プレリュードと擬似的なフーガ」。
坂本光太と長洲仁美がペットボトル入りのミネラルウォーターを手に登場。坂本は、マウスピースを接続したビニールチューブを持っているが、先には朝顔が着いていて、これで演奏を行う。演奏中は坂本が長洲を抱え上げ、人体がチューバに見立てられる。
長洲は、水を一口含む度に、「屯田兵」「富田林」といったように「と」で始まる単語を口ずさむのだが(私だったら途中からさりげなく「徳川十五代将軍全員の名前」をつっかえつつ挙げるという演出にしたと思う)、ビニールチューブチューバの演奏は、「『ドローン』から『ローン』を取り、濁点を抜いた『ト』」の音で演奏される。


「一番そばにいる」は、坂本の演奏するチューバのすぐそばに長洲がいて、メロディーを模倣したり(もう少し近づけても良かったかも知れない)、状況を説明したりで(今いるUrBANGUILDから、高瀬川と鴨川の間、そして京都盆地、更には日本全土へと拡がり、またすぐそばの状況へと戻ってくる)、格段面白いというほどではないのだが、親しみの持てる画を作り出していた。

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2022年9月16日 (金)

観劇感想精選(445) 「VAMP SHOW」2022

2022年9月10日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後5時から、森ノ宮ピロティホールで、PARCO STAGE「VAMP SHOW」を観る。作:三谷幸喜、演出:河原雅彦。出演:岡山天音、平埜生成、戸塚純貴、塩野瑛久、尾上寛之、久保田紗友、菅原永二。

「VAMP SHOW」は、三谷幸喜が池田成志のために書き下ろしたホラーコメディで、1992年に初演。池田成志と板垣恭一が共同で演出を担当し、東京サンシャインボーイズの看板俳優だった西村雅彦や、個性派俳優として頭角を現しつつあった古田新太らが出演。三谷幸喜も一橋壮太朗の芸名で出演している。
その後、2001年にやはり池田成志の演出で再演。公演は映像収録されてPARCOからDVDとして発売されており、私はこれを視聴している。DVDは今でも購入することが出来るが、その時の出演は、堺雅人、佐々木蔵之介、橋本じゅん、河原雅彦、伊藤俊人、手塚とおる、松尾れい子という、当時、第一線に踊り出しつつあった俳優を起用した豪華なものであった。また2002年に逝去した伊藤俊人はこれが最後の舞台出演作となっている。
今は手元にDVDがないので記憶が曖昧だが、ジャケットの裏に、三谷幸喜が「この作品は、私と池田成志との友情から生まれた」といったような文章を寄稿していたことを覚えている。

今現在は劇作と演出の両方を行うことの多い三谷幸喜だが、東京サンシャインボーイズの上演形態が、作:三谷幸喜、演出:山田和也が基本であったことからも分かるとおり、元々は作と演出は分けるべきと考えていた人である。「VAMP SHOW」も出演はするが演出はしないのが基本路線となっており、三谷幸喜が「VAMP SHOW」の演出を手掛けたことは一度もない。

「VAMP SHOW」は三谷幸喜の作品の中でも異色作である。ほぼ若者しか登場せず、ストーリーも陰惨な場面が多い。現在、「鬱大河」などと評されている「鎌倉殿の13人」を手掛けている三谷幸喜だが、この機会に「VAMP SHOW」を再演するのも良いと思ったのかも知れない。再演に至る詳しい過程は分からないが、「鎌倉殿の13人」を見ていない人がこの芝居を観た場合、「え? 三谷幸喜ってこんな本を書く人だったの?」と戸惑うことも十分に考えられる。
また三谷作品としては珍しく、誰もが気づくレベルで論理破綻しており、三谷もそれを自覚していたと思われるが、そうまでしても内容を重視したかったということなのだと思われる。「孤独」というテーマを浮かび上がらせるために。


藤原是清(菅原永二)が一人駅長を務める田舎の寂しい駅が舞台である。小田巻香(おだまき・かおり。演じるのは久保田紗友)という若い女がホームに佇んでいる。事故があり、列車は遅れている。そこへ、島寿男(岡山天音)、坂東正勝(平埜生成)、丹下和美(戸塚純貴)、佐竹慎一(塩野瑛久)、野田英介(尾上寬之)の5人の若い男がやってくる。 彼らは同じ大学の落語研究会(「おち研」と略される場合が多いが、今回の上演では略称は「らく研」となっている)出身なのだが、とある理由で同じ病気に罹患してしまい、就職もままならず全国を放浪していた……。

タイトルにあるので、病気の正体を「吸血鬼(ヴァンパイヤ)」と明かしてしまっても特に問題はないと思われる。問題があるとしたら「ヴァンパイヤ」が何かのメタファーであるのかどうかだが、「正確に○○のメタファー」といえるものは三谷幸喜も想定していないと思われる。だが、初演から時を経て、何らかのメタファーに見えるということも確かである。あるとしても初演時は「俳優仲間」や「表現者」といった程度だった可能性は高いが、今は様々な理由で「上手く生きられない人」が思いのほか多いということも分かってきた。そうした一種の「種族」に当たる人にとっては、当初の想定を越えて胸に刺さる作品へと進化している可能性もある。その点では1992年の初演時よりも2022年現在の方が、背後にある三谷幸喜すら考えていなかった「可能性」を見出しやすくなっている。

2001年版では元落研副部長の佐竹慎一役で出演していた河原雅彦の演出。河原が演出した舞台作品にはいくつか接しているが、この「VAMP SHOW」でも河原雅彦らしいテンポが感じ取れ、個性が刻印されている。

2001年版の俳優が豪華なので、どうしてもそれと比較してしまうが、俳優陣は全般的に持ち味を上手く発揮出来ていたように思う。2001年版に比べると個性が弱く、セリフもものに出来ていないシーンが散見されるが、そもそも現在の若手俳優で再現することを目論んだプロジェクトであり、ないものねだりはしない方がいいだろう。よくやっていたと思う。

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2022年9月15日 (木)

これまでに観た映画より(311) 「トップガン マーヴェリック」

2022年9月12日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、「トップガン マーヴェリック」を観る。大ヒットしたトム・クルーズ主演作の36年ぶりの続編である。前作をリアルタイムで観た人も(私は残念ながら前作はロードショーでは観ていない)、前作を知らない人でも楽しめるエンターテインメント大作となっている。こうした娯楽大作の場合は、解説や解釈を書いても(そもそも解釈の入る余地はほとんどない)余り意味はないと思われるが(あるとすれば、「スター・ウォーズ」の意図的な模倣――おそらくリスペクト――ぐらいだろうか)、取り敢えず紹介記事だけは書いておきたい。

監督:ジョセフ・コシンスキー、脚本:アレン・クルーガーほか。製作にトム・クルーズが名を連ねている。実は、今月16日からは、前作「トップガン」の公開も始まるそうで、前作を観たことがない人は、「トップガン」もスクリーンで観る機会が訪れた。私もこの機会にスクリーンで観てみたいと思っている。

出演:トム・クルーズ、マイルズ・テラー、ジェニファー・コネリー、グレン・パウエル、モニカ・バルバロ、ルイス・プルマン、ヴァル・キルマー、エド・ハリスほか。

世界最高峰のパイロット養成機関トップガン出身のピート“マーヴェリック”ミッチェル(トム・クルーズ)は、今も現役のパイロットとして活躍。マッハ9、更にはマッハ10の壁を破ることに挑戦しようとしていた。だがそのプロジェクトに横槍が入りそうになる。今後、飛行機は自動運転化が進み、パイロットは不要となるということで、人間が運転して音速の何倍も速く飛ぼうが意味はないというのだ。AI万能論が台頭しつつある現代的な問題が提示されているが、マーヴェリックは、「(パイロットが不要になるのは)今じゃない」と答え、見事マッハ10の壁と突破する。
そんなマーヴェリックに課せられたミッションがある。トップガンの教員となって敵対する某国のウラン濃縮プラントの破壊に協力して欲しいというのだ。マーヴェリックは座学だけでなく、自らジェット機の操縦桿を握り、実戦形式で若いパイロット達を鍛えていくのだった。

とにかくジェット機によるアクションが見所抜群で、これだけでもおつりが来そうな感じである。マーヴェリックを巡る人間ドラマは、実のところそれほど特別ではないのだが(既視感のあるシーンも多い)、それによって空中でのシーンが一層引き立つように計算されている。
それにしてもトム・クルーズは大変な俳優である。宗教の問題が取り沙汰される昨今、サイエントロジー教会の広告塔ということだけが気になるが(難読症・失読症の持ち主として知られるが、サイエントロジーによって文字が読めるようになったと語っている)、マーヴェリックその人になりきって全てのシーンで観客を魅了してみせている。

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2346月日(40) 京都国立博物館 特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺ー真言密教と南朝の遺産」

2022年9月7日 京都国立博物館にて

東山七条の京都国立博物館で、特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺-真言密教と南朝の遺産」を観る。3階建ての平成知新館の2階と1階が「観心寺と金剛寺」の展示となっている。

観心寺と金剛寺は、南朝2代目・後村上天皇の仮の御所となっており(南朝というと吉野のイメージが強いが、実際は転々としている)、南朝や河内長野市の隣にある千早赤阪村出身である楠木正成との関係が深い。

共に奈良時代からある寺院であるが、平安時代に興隆し、国宝の「観心寺勘録縁起資材帳」には藤原北家台頭のきっかけを作った藤原朝臣良房の名が記されている。

観心寺や金剛寺は歴史ある寺院であるが、そのためか、黒ずんでよく見えない絵画などもある。一方で、非常に保存状態が良く、クッキリとした像を見せている画もあった。

1回展示には、ずらりと鎧が並んだコーナーもあり、この地方における楠木正成と南朝との結びつきがよりはっきりと示されている。

明治時代から大正時代に掛けて、小堀鞆音が描いた楠木正成・正行(まさつら)親子の像があるが、楠木正成には大山巌の、楠木正行には東郷平八郎の自筆による署名が記されている。楠木正成・正行親子は、明治時代に和気清麻呂と共に「忠臣の鑑」とされ、人気が高まった。今も皇居外苑には楠木正成の、毎日新聞の本社に近い竹橋には和気清麻呂の像が建っている。

河内長野近辺は、昔から名酒の産地として知られたそうで、織田信長や豊臣秀吉が酒に纏わる書状を発している。

観心寺や金剛寺の再興に尽力したのは例によって豊臣秀頼である。背後には徳川家康がいる。家康は秀頼に多くの寺社の再興を進め、結果として豊臣家は資産を減らすこととなり、大坂の陣敗北の遠因となっているが、そのために豊臣秀頼の名を多くの寺院で目にすることとなり、秀頼を身近に感じる一因となっている。木材に記された銘には、結果として豊臣家を裏切る、というよりも裏切らざるを得ない立場に追い込まれた片桐且元の名も奉行(現場の指揮官)として記されている。

最期の展示室には、上野守吉国が万治三年八月に打った刀剣が飾られている。陸奥国相馬地方中村の出身である上野守吉国(森下孫兵衛)は、実は坂本龍馬の愛刀の作者として知られる陸奥守吉行(森下平助。坂本龍馬の愛刀は京都国立博物館所蔵)の実兄だそうで、共に大坂に出て大和守吉道に着いて修行し、吉国は土佐山内家御抱藩工、吉行も鍛冶奉行となっている。価値としては吉国の方が上のようである。

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2022年9月12日 (月)

コンサートの記(804) 三ツ橋敬子指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2022「ザ・フォース・オブ・オーケストラ」第2回「2-ウェイ・ミュージシャンズ」

2022年9月4日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2022「ザ・フォース・オブ・オーケストラ」第2回「2-ウェイ・ミュージシャンズ」を聴く。指揮はお馴染みの三ツ橋敬子。ナビゲーターはガレッジセールの二人。


曲目は、レナード・バーンスタインのオーケストラのためのディヴェルティメントと「オン・ザ・タウン」から「3つのダンス・エピソード」、武満徹の「乱」組曲から第4楽章と「海へⅡ」(アルト・フルート、ハープ、弦楽オーケストラのための。フルート独奏:上野博昭、ハープ独奏:松村衣里)、ニーノ・ロータのトロンボーン協奏曲(トロンボーン独奏:岡本哲)、久石譲の「魔女の宅急便」とオーケストラのための「DA・MA・SHI・絵」


バトンテクニックに長けた三ツ橋敬子は、現代音楽を得意としている。なお、今回は三ツ橋が「演奏に専念したい」ということでガレッジセールとの絡みはなし。ガレッジセールの二人が進行を引き受ける。


今日のコンサートマスターは、「組長」こと石田泰尚(やすなお)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏である。管楽器の首席奏者は、前半はホルンの垣本昌芳を除くほぼ全員が出演。垣本は後半に登場。クラリネット首席の小谷口直子は前半のみの出番となった。


レナード・バーンスタインのオーケストラのためのディヴェルティメント。死後に作曲作品の再評価が進むレナード・バーンスタイン。指揮者の弟子が非常に多く、彼らが頻繁に師であるレナード・バーンスタイン(愛称:レニー)の作品を取り上げるということもあるだろう。三ツ橋もレニーの愛弟子である小澤征爾に師事しており、レニーの孫弟子ということになる。
三ツ橋の指揮する京都市交響楽団であるが、非常に良く鳴る。今日は1階席で聴いたのだが、やはり音楽専用ホールを持つアドバンテージは非常に大きいようである。以前は1階席の鳴りが悪かった京都コンサートホールであるが、京響の成長と、舞台をすり鉢型にする工夫により、「良いオーケストラは良く鳴り、そうでないと良く鳴らない」という素直で演奏家には怖い響きの音響へと変わった。
レニーの多様な作風が窺えるオーケストラのためのディヴェルティメント。三ツ橋による表情の描き分けも巧みであった。

演奏が終わってガレッジセール登場。ゴリは今日は前髪を下ろしている。まず川田広樹が、京響と三ツ橋敬子を紹介。今回のテーマである「2-ウェイ・ミュージシャンズ」の意味が、「クラシック音楽ともう一つ。つまり二刀流」であると明かす。ゴリは、「二刀流と言えば大谷翔平選手」ということで、「ベーブ・ルースの持っていた二桁勝利二桁本塁打の記録を104年ぶりに破った」「今、全国の女子アナ、女性タレントが彼を狙っています。もうすぐ三刀流に」というところで川田に止められていた。

レナード・バーンスタインは、クラシックやミュージカルの優れた作曲家であり、同時に世界最高峰の座をカラヤンと争う大指揮者でもあった。作曲と指揮の二刀流である(同時に名ピアニストにして名教師でもあったが、ややこしくなるので今日は紹介されなかった)。
ゴリは、「バーンスタインも子どもの頃にお父さんとオーケストラを聴きに行き、そこでオーケストラの魅力に目覚めた。だから今日もここに将来のバーンスタインがいるかも知れない。大人になったらどうなるか分かりません。でも吉本興業に来るのは止めましょう」と言って川田に「何でよ」「素敵な会社よ」と突っ込まれていた。ちなみにゴリは、「給料がめちゃくちゃ安い」と語っていた。

「オン・ザ・タウン」は、レニーが最初に作曲したミュージカルで、映画化もされている(邦題は「踊る大紐育」)。「オン・ザ・タウン」はオペラ形式で上演されることもあり、日本でも佐渡裕が半オペラ半ミュージカルというスタイルで上演している。
「3つのダンス・エピソード」は、1945年にレニー自身が編曲したショーピースで、アメリカ的なノリが楽しい曲である。三ツ橋と京響も雰囲気豊かな演奏を繰り広げた。

続く武満徹は、クラシック音楽と映画音楽の二刀流である。がレッジセールの二人にとっては、映画音楽というと、「スター・ウォーズ」、「インディ・ジョーンズ」といったジョン・ウィリアムズの楽曲が印象深いようである。ゴリは、「インディ・ジョーンズ」には多分に影響を受けており、大学受験時に勉強をやる気が起こらず、東京の予備校でダラダラ二浪していて「もう諦めて沖縄帰ろうかな」と思っていたのだが、ある日、予備校の仲間から「何が好きなの」と言われて、「『インディ・ジョーンズ』のような世界が好きでああいうのやりたいんだよね」と答えたところ、「だったら日大藝術学部に映画学科があるからそこ受けてみたら。真田広之とか有名な人が出てるよ」と言われて初めて日芸を知り、途端に勉強にもやる気が出て合格出来たという話をする。
ゴリは、「ロッキー」シリーズも好きなようで、「絶対勝てないよ」と言われたロッキーが頑張っていいところまで行く。「人生何があるか分からないですよ。でも吉本興業に来るのは止めましょう」
ちなみにゴリは、中学生の時に彼女と二人で「ロッキー」シリーズを観に行って、見終わった後、シャドーボクシングをしながら「彼女を守る」というポーズを取っていたが、向こうからヤンキー五人組が来るのを見て、「肩こりの人」に変えたという話をしていた。

黒澤明の映画「乱」は、シェイクスピアの「リア王」を翻案したもので、黒澤の晩年の代表作である。黒澤映画のラッシュフィルムには、あらかじめクラシックの音楽が付けられていて、「これによく似た曲を書いて欲しい」と作曲家に頼むのが常だったようだ。「乱」のフィルムにも、マーラーの「巨人」などの音楽が付けられていたことが窺える。最終的にはこの「乱」で、武満と黒澤は喧嘩別れしてしまうことになるのだが、フィルムミュージック「乱」は今でも武満の代表作として世界中で演奏されている。光と影の明滅するような「タケミツトーン」はこの曲でも発揮されている。
三ツ橋と京響はこの曲の「抑えたドラマティシズム」を巧みに描き出していた。


武満徹の「海へⅡ」(アルト・フルート、ハープ、弦楽オーケストラのための)。
メルヴィルの小説「白鯨」に着想を得た作品で、「夜」「白鯨」「鱈岬」の3部からなる。武満は晩年に、「鯨のような優雅で頑健な肉体を持ち、西も東もない海を泳ぎたい」と語ってたそうだが、武満本人は若くして結核を患うなど、かなり病弱な人であり、65歳という、作曲家としては比較的若い年齢で亡くなっている。

生前、フランスの音楽評論家から、「タケミツは日系フランス人音楽家である」と評された武満徹であるが、この「海へⅡ」を聴くと、武満がドビュッシーなどから受けた影響がよく分かる。
余り関係ないが、「海へⅡ」は、私にとっても重要な作品である。ここでは説明はしないが。


ニーノ・ロータのトロンボーン協奏曲。それほど有名な曲ではないのだが、何故か2ヶ月連続で聴くことになった。先月末に、東大阪文化創造館 Dream House 大ホールで、愛知室内オーケストラの演奏で聴いているが、京都コンサートホールで聴く京響の演奏の方がオーケストラとしての馬力や色彩感に優れている。
ソリストの岡本哲(京響トロンボーン首席奏者)も、余裕を持って旋律を吹いていた。

ゴリは、ニーノ・ロータについて、「『ゴッドファーザー』などの映画音楽を書いた人」と紹介するが、映画の内容を考えて「大人になってから観て下さい」と伝えていた。


映画音楽とクラシック作品の二刀流のもう一人である久石譲。ゴリは、「久石譲は元々はミニマル・ミュージックという音楽を書いていた人」と紹介。エッシャーのだまし絵に着想を得た「DA・MA・SHI・絵」におけるミニマル・ミュージックの手法について説明する。

「魔女の宅急便」の愛らしさ、オーケストラのための「DA・MA・SHI・絵」の爽快さなど、いずれも優れたオーケストラ演奏であった。

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2022年9月11日 (日)

柳月堂にて(5) シャルル・ミュンシュ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現:ニューヨーク・フィルハーモニック) サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付き」

2022年6月22日

出町柳の名曲喫茶・柳月堂で、シャルル・ミュンシュ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現:ニューヨーク・フィルハーモニック)の演奏で、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」を聴く。後年、手兵であるボストン交響楽団と演奏した盤もあるのだが、ニューヨーク・フィルとの演奏は1947年に録音されたモノラル盤である。CD化もされており、現在でも入手出来るようだ。オルガンは、エドゥアルド・ニース=ベルガーの演奏のようである。

フランスを代表する指揮者の一人であるシャルル・ミュンシュ。小澤征爾やシャルル・デュトワの師としても知られている。ドイツ国境に近いアルザス地方のストラスブール(出生当時はドイツ帝国領シュトラウスブルク)の生まれ。アルザス地方は戦争によってフランス領になったりドイツ領になったりした歴史を持つが、ミュンシュの家系はドイツ系で、元はカール・ミュンヒという名前であった。後にフランスに帰化してフランス風のシャルル・ミュンシュに名を改める。ヴァイオリニストとして活躍し、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターをしていた時代に、カペルマイスターを務めていたヴィルヘルム・フルトヴェングラーの影響を受けて指揮者に転身している。ミュンシュは即興的な音楽作りでも知られるが、「音楽は即興的でなければならない」を旨としたフルトヴェングラーの影響を受けていることは明らかである。

ミュンシュといえば、最晩年にパリ管弦楽団の初代音楽監督として録音したベルリオーズの幻想交響曲とブラームスの交響曲第1番という2つの名盤が有名である。すでに指揮者を引退していたミュンシュだが、アンドレ・マルローによる「世界に通用するフランスのオーケストラを創設したい」との強い希望によりパリ音楽院管弦楽団を発展的に改組して作られたパリ管弦楽団の音楽監督就任要請を受諾している。最後の力を振り絞って行われたこれらの演奏は、「狂気」すれすれの怪演でもあり、多くの人を虜にしてきた。

そんなこともあって、ミュンシュというと「ちょっと危ない」イメージもあるのだが、第二次大戦終結後まもなくに行われたこの録音では、端正でスマートな演奏を聴かせており、従来のミュンシュのイメージを覆す出来となっている。「熱い」イメージもあるミュンシュだが、それとは異なる演奏も行っていたことが分かる。

ミュンシュはボストン交響楽団の黄金時代を築いてもいるが、エレガントなボストン交響楽団の音に比べ、この当時のニューヨーク・フィルの音は都会的。今ではボストン響もニューヨーク・フィルもそれぞれの個性を保ちつつ、大きくは「アメリカ的」でくくれるオーケストラとなっているが、当時はかなり違う個性を持つ団体だったことがうかがえる。

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2022年9月10日 (土)

これまでに観た映画より(310) 「ポルトガル、夏の終わり」

2022年9月8日

録画しておいた映画「ポルトガル、夏の終わり」を観る。2019年の制作。アメリカ・フランス・ポルトガル合作。セリフは英語とフランス語、一部ポルトガル語が用いられている。
監督:アイラ・サックス。出演:イザベル・ユペール、グレッグ・キニア、マリサ・トメイ、ジェレミー・レニエ、ブレンダン・グリーソン、ヴィネット・ロビンソン、パスカル・グレゴリーほか。

原題は、主演女優であるイザベル・ユペールの役名である「フランキー」(フランソワの愛称)であるが、ポルトガルの避暑地であるシントラ(世界文化遺産指定)を舞台に繰り広げられる群像劇であり(フランキーは中心にはいるが)、「夏の終わり」がフランキーの病状に重ねられているため、邦題としてはまずまず良いのではないかと思われる。多分、「フランキー」というタイトルだったら、「観たい」と思う日本人はかなり少なかったはずである。

比較的淡々と物語は進んでいく。

有名女優であるフランキーことフランソワ・クレモント(イザベル・ユペール)は、末期の癌に冒されており、診断によると年を跨ぐことは出来ない。そこで、家族や友人を連れて、ポルトガルのシントラで晩夏を過ごすことにする。夫に元夫、元夫との間の息子とその恋人候補、現在の夫の娘(連れ子)とその夫と娘などの行く末を見定めるつもりでもあっただろう。特に息子のポール(ジェレミー・レニエ)を友人のヘアメイクアーティストのアイリーン(マリサ・トメイ)とめあわせようとするのだが、実のところ……といった展開になる。アイリーンはニューヨーク在住で、息子のポールは仕事でニューヨークに移るということで期待したのであるが、アイリーンにはすでに婚約者候補があり、ポールもそれとなくアイリーンにアプローチをするのだが、断られている。

最期は登山のシーンである。フランキーがプランを立てたのだ。先に山に登ったフランキーが下にいるジミーとアイリーンを見つめる。そのフランキーを更に上から元夫のミシェルが望遠鏡で覗いている(ミシェルは今では男と恋愛関係にあるようだ)。その後、更に上の場所から山頂に到達した人々を捉える視点。おそらく神の視点であろう。計画はフランキーの予定通りには進まなかった。だが人々は思い思いに人生を過ごしていく。それを見つめる神の視座にいるカメラは、最後の頂に立ったフランキーのもう一つの視点なのかも知れない。

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2022年9月 9日 (金)

楽興の時(44) さわひらき×mama!milk×かなもりゆうこ 「Ephemera」

2022年9月2日 木屋町のUrBANGUILD Kyotoにて

午後8時から、木屋町のUrBANGUILD(アバンギルド) Kyotoで、さわひらき(映像)、mama!milk(生駒祐子=アコーディオン、清水恒輔=コントラバス)、かなもりゆうこ(効果)による公演「Ephemera」に接する。

さわひらきの映像は、揚羽蝶の舞に始まり、それぞれ速度の異なる3つのメトロノーム(映像がmama!milkの公式チャンネルにアップされている)、羊たちの動き、海の波、鍵穴から見た揺れる木馬、林、羽ばたく鳥の群れなど、象徴的な素材が用いられている。

京都を本拠地としているだけに接する機会も多いmama!milkの音楽は、記憶の片隅で鳴っているような趣。細かく書くと、手を伸ばせた届きそうな記憶や、まだ接していない未知の風景が目の前に浮かんでは消えるかのようである。今日は前半は3拍子中心の音楽で、終盤に4拍子の音楽が登場し、全編で1時間15分ほど。アンコール演奏もあった。生駒祐子はアコーディオンのみならずトイピアノも演奏。

夏の終わり、秋の始まりに相応しいライブだったように思う。

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2022年9月 8日 (木)

「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」2022

2022年8月31日 七条の京都中央信用金庫旧厚生センターにて

東本願寺の近くにある京都中央信用金庫旧厚生センターで、「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」を聴くのか観るのか、まあ「体験する」と書くのが適当だろうか。とにかく接する。
アンビエントミュージックの提唱者であり、今も第一人者として活躍するブライアン・イーノの個展で、音楽と映像、美術からなる。京都中央信用金庫旧厚生センターの1階から3階までの全てを利用し、4つのスペースを用いて展示は行われる。3階から観ていくのが順路である。
3階の「The Ship」は、タイタニック号の沈没や第一次大戦、そして傲慢さやパラノイアの間を揺れ動き続ける人間をコンセプトとした作品であり、「Whe I was young Soldier」という言葉や、カーテンがはためくような音楽、そして続くポップスのような歌など、多彩な作風による音楽が薄闇の中で流れている。目が慣れるまでに時間が掛かるがそれもまた一興である。

「時効警察」の三日月しずか(麻生久美子)のセリフ、「いいのいいの、ブライアン・イーノ」でもお馴染みの(?)ブライアン・イーノ。私がイーノを知ったのは例によって坂本龍一経由である。1992年に発売された雑誌で坂本龍一の特集が組まれており、教授のインタビューとお薦めのCDが載っていて、その中にブライアン・イーノのCDの紹介記事があった。

ブライアン・イーノのアンビエントミュージックと映像に接するのは初めてではなく、以前も大阪で同様の個展に接しているが、その時はイーノ一人ではなく、複数のアンビエントミュージックのミュージシャンによる合同での個展であった。イーノ一人の個展に接するのは初めてだと思われる。

3階にはもう一つ、「Face to Face」(世界初公開作品で、36000人以上の顔を写真に収め、特殊なソフトウェアを使って一つの顔から別の顔へと少しずつ推移していく様を繰り返すという展示と音楽である。この「Face to Face」は、音楽よりも映像が主役という印象を受けた。

2階には、「Light Boxes」という展示がある。キュビズムのような表現作品(絵画ではないので、そうとしか言い様がない)がLED照明によって徐々に色を変え、それを彩るような音楽が流れる。

メインとなるのは1階の「The Lighthouse」で、この展示だけ「滞在時間30分間」という時間制限がある。ソファーがいくつも置かれ、そのソファーの群れと対峙する形で、時計のように円形に広がった展示作品がある。展示作品は複数の画で構成されており、徐々に移り変わる。音楽も面白く、ここには20分ほど滞在した。

ブライアン・イーノの音楽は細胞の一つひとつに染み込んで、体内で膨張していくような静かな生命力を感じるものである。

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追悼おおたか静流

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2022年9月 6日 (火)

これまでに観た映画より(309) ウォン・カーウァイ4K「花様年華」

2022年9月1日

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「花様年華」を観る。2000年の作品。脚本・監督・製作:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影:クリストファー・ドイル(杜可風)&リー・ピンピン。挿入曲「夢二のテーマ」の作曲は梅林茂(沢田研二主演、鈴木清順監督の映画「夢二」より)。出演:トニー・レオン、マギー・チャン、レベッカ・パン、ライ・チン、声の出演:ポーリン・スン&ロイ・チョン。全編に渡って広東語が用いられている。

1962年から1966年までの香港と、シンガポール、カンボジアのアンコールワットなどを舞台に繰り広げられる抑制の効いた官能的な作品である。私は、ロードショー時には目にしていないが、一昨年にアップリンク京都で上映されたものを観ている。その時に書いた感想、更にはそれ以前にDVDで観た時の感想も残って、新たに付け加えることはないかも知れないが、一応、書いておく。

1962年。新聞記者のチャウ・モーワン(トニー・レオン)は、借りようとしていた部屋を先に借りた人がいることを知る。社長秘書を務める既婚のスエン夫人(マギー・チャン)である。しかし、その隣の部屋も空いたというので、その部屋を確保するチャウ。二人は同じ日に引っ越すことになる。屋台に向かう途中で、二人はすれ違うようになり、惹かれていく。だが二人とも既婚者であり、「一線を越えない」ことを誓っていた。一方で、チャウの妻とスエンの夫が不倫関係になっていたが判明する(チャウの妻とスエンの夫は後ろ向きだったりするなどして顔は見えない)……。

シンガポールに渡ったチャウ。チャウはスエンに、「一緒に行ってくれないか」と、「2046」における木村拓哉のようなセリフを話す。

ちなみにチャウが宿泊して、スエン夫人と共に執筆の仕事をしている香港ホテルの部屋のナンバーは「2046」で、この時にすでに「2046」の構想が練られていたのだと思われる。

共に結婚していたが、チャウはシンガポールに渡る際に奥さんと別れたようであり、またスエン夫人が、シンガポールのチャウの部屋に勝手に上がり込む(ウォン・カーウァイ作品のトレードマークのように頻用される場面である)際に、手がクローズアップされるのだが、薬指に指輪がない。ということでシンガポールに来る前にスエン夫人は旦那と別れた可能性が高く、その際に情事があったのだと思われる(映像には何も映っていないがそう考えるのが適当である)。

こうした、本来なら明示することを隠すことで、匂い立つような色香が全編に渡って漂うことになった。けだし名作である。

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2022年9月 4日 (日)

これまでに観た映画より(308) ウォン・カーウァイ4K「2046」

2022年8月30日 京都シネマにて

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「2046」を観る。2004年に公開された映画で、日本では木村拓哉が出演したことで話題になった。それ以外にも香港のトップシンガーであったフェイ・ウォンが「恋する惑星」に続いてウォン・カーウァイ作品に出演し、「恋する惑星」同様にトニー・レオンと共演している。更には80年代の中国のトップ映画女優で、日本では「中国の山口百恵」とも呼ばれて人気であったコン・リーと、90年代以降の中国のトップ女優となったチャン・ツィイーが、共演のシーンこそないものの、同じ映画に出ているという、かなり豪華なキャスティングである。脚本・監督:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影監督:クリストファー・ドイル(杜可風)。出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー(巩俐)、フェイ・ウォン(王菲)、チャン・ツィイー(章子怡)、カリーナ・ラウ、チャン・チェンほか。特別出演:マギー・チャン。音楽:ペール・ラーベン&梅林茂。

セリフは、トニー・レオンが広東語、コン・リーとチャン・ツィイーが北京語、北京出身で香港で活躍していたフェイ・ウォンが北京語と広東語、更には日本語(フェイ・ウォンは日本の連続テレビドラマに主演したことがある)、木村拓哉が日本語である。

ウォン・カーウァイ監督は、「2046という数字に大した意味はない」とも発言していたように記憶しているが、2046年は、香港の一国二制度(一国両制)が終わる年である。それを裏付けるように、木村拓哉が冒頭と中盤で「997」という、香港返還の1997年に掛かる数をカウントしている。2016年に行われたウォン・カーウァイ監督へのインタビューでは、この一国二制度のことが語られているようだ。

舞台は、1966年から1969年までの香港のクリスマス期間と、2046という未来の場所である。そして2046はトニー・レオン演じるチャウ・モーワンが住もうとしたアパートメントの番号であり、同時にチャウが書いている小説のタイトルでもある。二つの世界を行き来するということで、私は、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を連想したのだが、ウォン監督のイメージでは、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が念頭にあり、その他に太宰治の『斜陽』などからも着想を得たそうだ。

以前にDVDを観て書いた感想があり、大筋での感想はそれとは大差ないのだが、「花様年華」ではラブシーンが一切ないのに比べ(撮影はされたようだがカットされた)、続編とも考えられるこの映画ではかなり積極的にセクシャルなシーンが用いられているというのが最大の違いであると思われる。その点において、この映画が「花様年華」の完全な続編ではないということが見て取れ、「花様年華」の異様さといってはなんだが、特異性がより際立って見えることになる。

2046は香港の一国二制度が終わる年であることは先に書いたが、そうした「境」を越える者と越えられない者の対比が描かれていると見ることも出来る。フェイ・ウォン演じるワン・ジンウェンは、木村拓哉演じる日本人のタク(本名は不明)と恋仲であり、いつか日本に行くために日本語の練習をしている。実際にこの二人は国境という具体的な境を越えて日本へと向かうことになる。
一方で、境を越えられず、かつての恋人であるスー・リーチェン(マギー・チャン)との思い出から離れようと複数の女性と関係を持ちながら抜け出せない、変われない男の姿をチャウ・モーワンに見いだすことになる。この作品にも「天使の涙」のような二項対立の構図を見出すことが出来る。

 

現実の時の流れはフィクションよりも速い。今や一国二制度は形骸化しつつあり、中国本土と香港の対立は前例を見ないほど激しいものになりつつある。私の思い描いた「2046」の香港のイメージはあくまでイメージに過ぎないのだと思い知らされるのは、想像よりも遥かに早かった。

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2022年9月 3日 (土)

これまでに観た映画より(307) ウォン・カーウァイ4K「天使の涙」

2022年8月29日 京都シネマにて

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「天使の涙」を観る。ウォン・カーウァイ作品の4Kレストアの上映であるが、京都シネマでは2Kで上映される。

「天使の涙(原題:堕落天使)」は、日本では1996年にロードショーとなった作品で、私は渋谷のスペイン坂上にあったシネマライズという映画館で3度観ている。元々は、「恋する惑星(原題:重慶森林)」の第3部となるはずだった殺し屋の話が基である。「恋する惑星」は、金城武とブリジット・リン、フェイ・ウォンとトニー・レオンという2組のカップルのオムニバスで、この2つの話で映画1本分の長さとなったため、レオン・ライとミシェル・リーによる殺し屋とそのエージェントの話を独立させ、金城武演じる「5歳の時に賞味期限の切れたパイナップルを食べたのが原因で」口の利けなくなったお尋ね者の話を加えて新たな映画としたのが「天使の涙」である。そのため、「恋する惑星」と同じ要素が劇中にいくつか登場する。

監督・脚本:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影監督:クリストファー・ドイル(杜可風)。出演:レオン・ライ、ミシェル・リー、金城武、チャーリー・ヤン、カレン・モク、チャン・マンルイ、チャン・ファイフン、斎藤徹ほか。

「恋する惑星」は、村上春樹の小説『ノルウェイの森』に影響を受けた映画で、原題の「重慶森林」は、香港で最も治安が悪いとされた「重慶(チョンキン)マンションの森」という意味であり、『ノルウェイの森』へのオマージュとしてタイトル以外にも、台詞回しなどを真似ている。実際、90年代半ばには村上春樹の小説の登場人物のような話し方をする若者が香港に現れており、「ハルキ族」と呼ばれていた。

「天使の涙」でも、台詞回しやナレーションは村上春樹風のものが採用されている。言語は基本的に広東語ベースだが、金城武のナレーションだけは北京語が用いられており、また斎藤徹によって日本語が話される場面がある。

「恋する惑星」が、『ノルウェイの森』のポップな面を掬い取ったのだとすると、「天使の涙」はよりシリアスな「孤独」というテーマをモチーフにしている。主要登場人物達は皆、怖ろしいほどに孤独である。

殺し屋の男とそのエージェントの女の話。殺し屋(レオン・ライ)は、「依頼を受けるだけでいい」というそれだけの理由で殺し屋を選んだ。本来は、殺し屋とそのエージェント(ミシェル・リー)が会うのは御法度のようなのであるが、二人は会っている。最初に会った日の場面がファーストカットなのだが、エージェントを演じるミシェル・リーが手にした煙草が震えている。そして二人の会話は全く弾まないどころか、ほとんど何も語られない。殺し屋の方は生まれつき無口な性格のようだが、エージェントの女は極度に社会性を欠いており、気のある男の前だと何も話せなくなってしまうようだ。そうした性格ゆえ、人と余り接しなくてすむ殺し屋のエージェントを職業として選んだようである。「恋する惑星」のフェイ・ウォン演じる女性が、トニー・レオン演じる警官のアパートに勝手に忍び込んで模様替えをしてしまうという設定は比較的知られているが、「天使の涙」でもミシェル・リー演じるエージェントの女は、レオン・ライ演じる殺し屋のアパート(ノルウェーならぬ、「第一フィンランド館(芬蘭館)」という名前である)に留守中に上がり込み、勝手に掃除し、ゴミを漁るという行動に出ている。ゴミの中から名前を見つけた殺し屋行きつけのバーに通い、自宅では殺し屋のことを思いながら自慰にふける(この自慰の場面は、映画史上においてかなり有名である)。だが、性格から勘案するに、エージェントの女が男性経験を有しているのかどうか微妙である。あの性格では男とベッドにたどり着くこと自体が困難なように思える。異性の誰とも真に心を通わすことの出来ない女である。

一方、殺し屋の方にも孤独な影を持つ女性が訪れる。カレン・モク演じるオレンジの髪の女で、マクドナルドで一人で食事をしていた殺し屋の隣の席に座ってきたのだ。ちなみにマクドナルドの店内には、殺し屋とオレンジの髪の女以外、誰もいなかった。
二人でオレンジの髪の女のアパートに向かうが、最終的には男女の関係にはならない。

「5歳の時に賞味期限切れのパイナップルを食べ過ぎて口が利けなくなった」男、モウ(何志武。演じるのは金城武)は、口が利けないので友達も出来ず、就職も不可能。というわけで、夜間に他の人が経営している店をこじ開けて勝手に商売をしている。この映画では金城武はセリフは一切用いない演技を求められ、内面の声がアフレコのナレーションで語られる。暴力に訴える野蛮な男だが、仕事中に、金髪アレンという女に裏切られたヤンという女(チャーリー・ヤン)と出会う。モウとヤンは、金髪アレンの家を二人で探し、その過程で互いに寄り添い合うようにもなるのだが、二人の間が一定以上に縮まることはない。

この映画の結末は二つに分かれる。永遠にすれ違うことになった者達と、一瞬ではあっても心を通い合わせることの出来た二人である。前者は余りにも切ないし、後者はたまらなく愛しい。生きることの悲しさと愛おしさの両方を感じさせてくれる映画であり、返還前の活気のある香港と、そこで生み出されたお洒落にして猥雑でパワフルで無国籍的且つ胸に染みるストーリーを味わうことの出来る一本である。

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これまでに観た映画より(180) 王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作品「天使の涙(堕落天使)」

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2022年9月 2日 (金)

コンサートの記(803) ひろしまオペラルネッサンス アンサンブルシアターⅠ モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 2022.8.27

2022年8月27日 広島・加古町のJMSアステールプラザ大ホールにて

午後2時から、JMSアステールプラザ大ホールで、ひろしまオペラルネッサンス アンサンブルシアターⅠ モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つであり、オペラ史上最も有名な作品の一つでもありながら、結末が暗いためか上演回数は思ったよりも多くなく、私も「フィガロの結婚」や「魔笛」は何度も観ているが、「ドン・ジョヴァンニ」は過去一度しか観たことがない。その一度もカットのあるバージョンだったため、全編上演を観るのは今日が初めてとなる。個人的には、「フィガロ」や「魔笛」よりも完成度は高いと思っているのだが、世間的には楽しいオペラの方が好まれるのは必然という気もする。
指揮は川瀬賢太郎、演出は岩田達宗。演奏は広島交響楽団+ひろしまオペラルネッサンス合唱団。出演はWキャストで、今日は、折河宏治(おりかわ・ひろはる。ドン・ジョヴァンニ)、松森治(騎士長)、原田幸子(はらだ・さちこ。ドンナ・アンナ)、福西仁(ふくにし・じん。ドン・オッターヴィオ)、佐々木有紀(ドンナ・エルヴィーラ)、佐藤由基(さとう・ゆうき。レポレッロ)、山本徹也(マゼット)、並木円(なみき・まどか。ヅェルリーナ)。セリフのない出演者がこのほかに数人いる。

友人の竹本知行と、JMSアステールプラザの1階にある情報交流ラウンジで待ち合わせ。様々な公演のチラシなどを見ていたが、書棚に画集が並んでおり、一番手前に私の大好きなアンドリュー・ワイエスのものが、あたかも「取ってくれ」と言わんばかりに置かれていた。自然な形で手に取り、椅子に座って眺める。しばらく絵が続いた後に文章が載っており、タイトルが何と「父を超える」であった。映画「アマデウス」でも有名になったが、モーツァルトの父親であるレオポルト・モーツァルトの死が「ドン・ジョヴァンニ」の筋書きに影響を与えたという説がある。これはおそらく確かだと思われるのだが、「ドン・ジョヴァンニ」を観る前に同じテーマを扱った文章を読むことになった。ちなみにアンドリュー・ワイエスの父親は成功した挿絵画家であり、アンドリューは病弱だったため学校には通わず、我が子の才能を見抜いた父親によって絵画の英才教育を受けている。モーツァルトの父親であるレオポルトも、一般には教育パパとしてのみ有名だが、今も重要視されているヴァイオリンの教則本を書いていたり、おもちゃの交響曲の作曲者の候補(現在では別人の作曲とする説が有力)だったりと、偉大な音楽家であった。
「父を超える」というタイトルを見て、「呼ばれたな」と感じたが、個人的にはこうした巡り合わせは比較的頻繁に起こっているため、特に不思議とも感じなかった。


演出の岩田さんには開演前と終演後に挨拶し、終演後には大学の准教授である竹本知行を紹介した。


「ドン・ジョヴァンニ」が余り上演されない理由として、結末の暗さと共に内容の分かりにくさが挙げられる。筋書きが複雑な訳ではないのだが、言葉の意図が取りにくい。特にラスト(ウィーン第2版ではカットされる)の日本語訳で「悪人の最期はその生き様と同じ」という意味になる歌詞の意味が分かりにくいのである。
今回の字幕は、「悪人は死後も生前と同じ目に遭う」という意味の内容になっており、意味が受け取りやすくなっていた。

また、騎士長から「悪より悪を犯した」と地獄行きの理由が語られるのだが、さて、ドン・ジョヴァンニが犯した「悪より悪」なこととは何か。ドン・ジョヴァンニの女の落とし方は、甘い言葉で誘うもので、それ自体は刑事事件にはならないものである。一方で、ドンナ・アンナに対しては強姦に近いもので、十分刑事事件にはなる。ただ以前にも同じようなことがあったのかというと、歌詞を聴いた上では、そうとも思えない。少なくとも多くはないはずである。ドンナ・アンナが上司の娘なので、特別だった可能性もある。自身の娘を犯そうとしたことが「悪より悪」であるとするのも道理ではあるのだが、それだけでは奥行きがない。

ドン・ジョヴァンニは、常に「Non」と拒絶する。第2幕ではドン・ジョヴァンニに同情的となったドンナ・エルヴィーラから「心を入れ替えて」と愛より発生した懇願を受けるもこれを拒否。更に自身の父親的存在でもあり、場合によっては義父となっていた可能性もある騎士長(騎士の中ではドン・ジョヴァンニの評価は極めて高い)の石像からの「心を入れ替えろ」との最後通告も聞き入れない。
ドン・ジョヴァンニは、多くの女性を愛した。国籍も年齢も容姿の美醜も超えて愛したが、彼は一人の女性の愛も受け入れなかった。そして愛の孤児となった相手を放棄した。それが「悪より悪」の正体だと私は見なす。岩田さんは神戸のお寺の子で、私も比較的熱心な真宗門徒であるが、仏教では「愛」とは「愛着」「貪愛」のことであり、最も悪い種類の執着の一つである。そうでなくても愛というのは一方的に愛するだけでは駄目で、相手の愛を受け入れて初めて一つの体を成す。それをせずに、相手を芥川龍之介のいう「孤独地獄」へ追いやる行為、一方的に愛して終わりの愛は「悪より悪」であり得る。

八百屋(斜めになった舞台のこと。正式には八百屋飾り)になった十字架状の舞台の上で物語は展開する。レポレッロは片足が不自由という設定に変更になっており、「カタログの歌」の場面でもカタログは取り出さず、どうやら全ての女性の名前を諳んじているようである。もし片足が不自由でなかったら、平民階級出身とはいえ、学者になれるほどの才の持ち主であることが窺える。だが障害者ゆえに差別され、ドン・ジョヴァンニの従者としてゲスなことにその才能を用いるしかないということなのかも知れない。
ドン・ジョヴァンニというのは、容姿に優れ、知的レベルも高い開明的な人物で、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の初演の2年後に起こったフランス革命の「自由・平等・博愛」を体現したかのような存在である。だからレポレッロを差別せずに有能な従者として雇っているのだと思われるが、にしては扱いが酷い。また、差別なく女を愛す、平等に愛すと謳ってはいるが、そもそも女漁り自体が女性差別に他ならない。カタログに載せるようにコレクションしているため、この時点でも十分に悪である。ラストはカタログに記された女性達の復讐であるようにも見える。
こうした矛盾を抱える人物であるが、ドンナ・エルヴィーラが、捨てられてもまた好きになるような魅力的な人物でもある(ドンナ・エルヴィーラは、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの後では再婚は望まず修道院に入る決意をする)こともまた事実である。

元のテキストとは異なり、騎士長はドン・ジョヴァンニより強く、ドン・ジョヴァンニは右手を斬られて負傷。この傷はその後も要所要所で痛み出すことになり、それが元で女性よりも立場が下になったりもする。ドン・ジョヴァンニは、レポレッロが持っていたピストルで騎士長を射殺するということで、ドン・ジョヴァンニの技量が騎士長を上回ったという訳でもない。キャットウォークから十字架型の枠が降りてきて、騎士長は枠から踏み出して冥途行きになろうとするも、枠はまたがず幽霊となってしばらくの間その場に留まるというのも元のテキストとは異なる。十字架型の枠は現世とあの世の境となるものであるが、ラストでドン・ジョヴァンニも上半身が枠からはみ出るも完全に枠の外には出ず、愛を語る人々を幽霊として見守ってから地獄へと落ちていく。生前、人の愛を受け入れなかったドン・ジョヴァンニは死後も愛されない運命にあるのかも知れないが、ドン・ジョヴァンニに自身を重ねていたであろうモーツァルトは死後に「誰からも」と書いても構わないほどに愛されているのが救いとなっている。

レオポルトの死後、モーツァルトは経済面でも仕事面でも行き詰まるようになる。人気は落ち、演奏会を開いても客がほとんど入らないという状態になっても、チェーホフの「桜の園」の人々のように散財を止められず、借金を重ねた。そうして改めて父親の偉大さを実感したであろうし、逆境から脱するためには父を超える必要も感じたであろう。それが「ドン・ジョヴァンニ」の騎士長とドン・ジョヴァンニの関係に反映されているのは間違いないであろうと思われる。
モーツァルトの凄さは、そうした「父の愛」、ひいては「父の呪縛」から逃れられないのではないかという戦きをオペラ作品として昇華してみせたところにある。台本自体は、ロレンツォ・ダ・ポンテの手によるものだが、モーツァルトも台本制作に協力しており、モーツァルト自身の意図もかなり反映されているはずである。

演出面では、カタログに書かれた女性の名が記された幕が「愛」を肯定する場面で用いられているのが効果的。逆に第1幕のドンナ・エルヴィーラのようにドン・ジョヴァンニの愛を否定する際には幕が落とされたり、ラストでは愛の負の面がドン・ジョヴァンニを地獄に突き落とすなど、視覚的に分かりやすい効果を上げていた。


川瀬賢太郎指揮する広島交響楽団は生き生きとした演奏を展開。会場の音響は必ずしもオペラ向きではなかったが、良い音楽を聴かせてくれる。若手中心の歌手陣もムラはあったが健闘していた。

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2022年9月 1日 (木)

観劇感想精選(444) 「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」2022 第2部

2022年7月25日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後6時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」第2部を観る。午前10時半から第1部の公演があり、少し開けて第2部の公演が行われる。

第2部の演目は、「右近」、狂言「舎弟」、「鞍馬天狗」

女性能楽師の松井美樹によるナビゲーションがあり、公演の趣旨や演目のあらすじが紹介される。同じ内容を白人の男性通訳が海外からのお客さんのために英語に訳した。


「右近」。半能として後半のみの上演である。出演は、吉田篤史、有松遼一。
北野天満宮の右近の馬場が舞台であり、鹿島神宮の神職が在原業平の歌を口ずさむと、桜場の女神(じょしん)が感応して舞を始めるという内容である。
長い袖を腕に絡ませながらの舞であるが、その瞬間に桜の花が咲いて散る様が見えるような、桜そのものの舞となる。おそらく意識しているのだと思われるが、凄いアイデアである。


狂言「舎弟」。出演は、茂山千之丞、鈴木実、網谷正美。
この辺りの者(シテ。茂山千之丞)には兄がいるのだが、名前ではなくいつも「舎弟、舎弟」と呼ばれている。シテの男は「舎弟」の意味が分からないので、ものをよく知っている知り合い(鈴木実)に「舎弟」の意味を聞きに行く。いい年なのに「舎弟」という言葉も意味も知らないということで知り合いは呆れ、「舎弟るといって、人のものを袖に入れて持ち去る」いわゆる盗人だと嘘を教える。シテの男は信じ込んで激怒。兄の正美のところへ文句を言いにやってくる。

いつのまにか「舎弟る」という言葉が一人歩きし、二人で「舎弟る」の話になって別の喧嘩が始まるのが面白い。


「鞍馬天狗」。通常とは異なり、白頭の装束での上演となったが、膨張色ということもあり、鞍馬の大天狗が大きく見えて効果的であった。出演は、原大、茂山逸平、島田洋海、松本薫、井口竜也。
鞍馬寺にはその昔、東谷と西谷があり(東谷って嫌な言葉だなあ)、一年おきに片方の僧侶が相手の所に出向いて花見を行い、それを当地の僧侶がもてなすという習慣があった。そんな折り、東谷を訪れた山伏。正体は鞍馬の大天狗(「義経記」などの鬼一方眼に相当)である。稚児達が遊んでいるが、皆、山伏が来たのを見て帰ってしまう。その中で一人、残った稚児がいる。この子こそ後に源九郎判官義経となり日本一の戦上手として名をはせる人物であるが、「帰ったのはみな平家の稚児、それも平清盛に近い稚児で、自分だけ彼らとは立場が異なる」と語る。それを見た山伏は、兵法の奥義を後に義経となる牛若丸、大天狗の名付けによると遮那王に授けることに決める。

能の演目であるが、狂言方による笑えるシーンなどもあり、大天狗の舞も見事で、能のもう一つの魅力であるダイナミズムが前面に出た演目となった。とにかく迫力がある。

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