コンサートの記(803) ひろしまオペラルネッサンス アンサンブルシアターⅠ モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 2022.8.27
2022年8月27日 広島・加古町のJMSアステールプラザ大ホールにて
午後2時から、JMSアステールプラザ大ホールで、ひろしまオペラルネッサンス アンサンブルシアターⅠ モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つであり、オペラ史上最も有名な作品の一つでもありながら、結末が暗いためか上演回数は思ったよりも多くなく、私も「フィガロの結婚」や「魔笛」は何度も観ているが、「ドン・ジョヴァンニ」は過去一度しか観たことがない。その一度もカットのあるバージョンだったため、全編上演を観るのは今日が初めてとなる。個人的には、「フィガロ」や「魔笛」よりも完成度は高いと思っているのだが、世間的には楽しいオペラの方が好まれるのは必然という気もする。
指揮は川瀬賢太郎、演出は岩田達宗。演奏は広島交響楽団+ひろしまオペラルネッサンス合唱団。出演はWキャストで、今日は、折河宏治(おりかわ・ひろはる。ドン・ジョヴァンニ)、松森治(騎士長)、原田幸子(はらだ・さちこ。ドンナ・アンナ)、福西仁(ふくにし・じん。ドン・オッターヴィオ)、佐々木有紀(ドンナ・エルヴィーラ)、佐藤由基(さとう・ゆうき。レポレッロ)、山本徹也(マゼット)、並木円(なみき・まどか。ヅェルリーナ)。セリフのない出演者がこのほかに数人いる。
友人の竹本知行と、JMSアステールプラザの1階にある情報交流ラウンジで待ち合わせ。様々な公演のチラシなどを見ていたが、書棚に画集が並んでおり、一番手前に私の大好きなアンドリュー・ワイエスのものが、あたかも「取ってくれ」と言わんばかりに置かれていた。自然な形で手に取り、椅子に座って眺める。しばらく絵が続いた後に文章が載っており、タイトルが何と「父を超える」であった。映画「アマデウス」でも有名になったが、モーツァルトの父親であるレオポルト・モーツァルトの死が「ドン・ジョヴァンニ」の筋書きに影響を与えたという説がある。これはおそらく確かだと思われるのだが、「ドン・ジョヴァンニ」を観る前に同じテーマを扱った文章を読むことになった。ちなみにアンドリュー・ワイエスの父親は成功した挿絵画家であり、アンドリューは病弱だったため学校には通わず、我が子の才能を見抜いた父親によって絵画の英才教育を受けている。モーツァルトの父親であるレオポルトも、一般には教育パパとしてのみ有名だが、今も重要視されているヴァイオリンの教則本を書いていたり、おもちゃの交響曲の作曲者の候補(現在では別人の作曲とする説が有力)だったりと、偉大な音楽家であった。
「父を超える」というタイトルを見て、「呼ばれたな」と感じたが、個人的にはこうした巡り合わせは比較的頻繁に起こっているため、特に不思議とも感じなかった。
演出の岩田さんには開演前と終演後に挨拶し、終演後には大学の准教授である竹本知行を紹介した。
「ドン・ジョヴァンニ」が余り上演されない理由として、結末の暗さと共に内容の分かりにくさが挙げられる。筋書きが複雑な訳ではないのだが、言葉の意図が取りにくい。特にラスト(ウィーン第2版ではカットされる)の日本語訳で「悪人の最期はその生き様と同じ」という意味になる歌詞の意味が分かりにくいのである。
今回の字幕は、「悪人は死後も生前と同じ目に遭う」という意味の内容になっており、意味が受け取りやすくなっていた。
また、騎士長から「悪より悪を犯した」と地獄行きの理由が語られるのだが、さて、ドン・ジョヴァンニが犯した「悪より悪」なこととは何か。ドン・ジョヴァンニの女の落とし方は、甘い言葉で誘うもので、それ自体は刑事事件にはならないものである。一方で、ドンナ・アンナに対しては強姦に近いもので、十分刑事事件にはなる。ただ以前にも同じようなことがあったのかというと、歌詞を聴いた上では、そうとも思えない。少なくとも多くはないはずである。ドンナ・アンナが上司の娘なので、特別だった可能性もある。自身の娘を犯そうとしたことが「悪より悪」であるとするのも道理ではあるのだが、それだけでは奥行きがない。
ドン・ジョヴァンニは、常に「Non」と拒絶する。第2幕ではドン・ジョヴァンニに同情的となったドンナ・エルヴィーラから「心を入れ替えて」と愛より発生した懇願を受けるもこれを拒否。更に自身の父親的存在でもあり、場合によっては義父となっていた可能性もある騎士長(騎士の中ではドン・ジョヴァンニの評価は極めて高い)の石像からの「心を入れ替えろ」との最後通告も聞き入れない。
ドン・ジョヴァンニは、多くの女性を愛した。国籍も年齢も容姿の美醜も超えて愛したが、彼は一人の女性の愛も受け入れなかった。そして愛の孤児となった相手を放棄した。それが「悪より悪」の正体だと私は見なす。岩田さんは神戸のお寺の子で、私も比較的熱心な真宗門徒であるが、仏教では「愛」とは「愛着」「貪愛」のことであり、最も悪い種類の執着の一つである。そうでなくても愛というのは一方的に愛するだけでは駄目で、相手の愛を受け入れて初めて一つの体を成す。それをせずに、相手を芥川龍之介のいう「孤独地獄」へ追いやる行為、一方的に愛して終わりの愛は「悪より悪」であり得る。
八百屋(斜めになった舞台のこと。正式には八百屋飾り)になった十字架状の舞台の上で物語は展開する。レポレッロは片足が不自由という設定に変更になっており、「カタログの歌」の場面でもカタログは取り出さず、どうやら全ての女性の名前を諳んじているようである。もし片足が不自由でなかったら、平民階級出身とはいえ、学者になれるほどの才の持ち主であることが窺える。だが障害者ゆえに差別され、ドン・ジョヴァンニの従者としてゲスなことにその才能を用いるしかないということなのかも知れない。
ドン・ジョヴァンニというのは、容姿に優れ、知的レベルも高い開明的な人物で、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の初演の2年後に起こったフランス革命の「自由・平等・博愛」を体現したかのような存在である。だからレポレッロを差別せずに有能な従者として雇っているのだと思われるが、にしては扱いが酷い。また、差別なく女を愛す、平等に愛すと謳ってはいるが、そもそも女漁り自体が女性差別に他ならない。カタログに載せるようにコレクションしているため、この時点でも十分に悪である。ラストはカタログに記された女性達の復讐であるようにも見える。
こうした矛盾を抱える人物であるが、ドンナ・エルヴィーラが、捨てられてもまた好きになるような魅力的な人物でもある(ドンナ・エルヴィーラは、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちの後では再婚は望まず修道院に入る決意をする)こともまた事実である。
元のテキストとは異なり、騎士長はドン・ジョヴァンニより強く、ドン・ジョヴァンニは右手を斬られて負傷。この傷はその後も要所要所で痛み出すことになり、それが元で女性よりも立場が下になったりもする。ドン・ジョヴァンニは、レポレッロが持っていたピストルで騎士長を射殺するということで、ドン・ジョヴァンニの技量が騎士長を上回ったという訳でもない。キャットウォークから十字架型の枠が降りてきて、騎士長は枠から踏み出して冥途行きになろうとするも、枠はまたがず幽霊となってしばらくの間その場に留まるというのも元のテキストとは異なる。十字架型の枠は現世とあの世の境となるものであるが、ラストでドン・ジョヴァンニも上半身が枠からはみ出るも完全に枠の外には出ず、愛を語る人々を幽霊として見守ってから地獄へと落ちていく。生前、人の愛を受け入れなかったドン・ジョヴァンニは死後も愛されない運命にあるのかも知れないが、ドン・ジョヴァンニに自身を重ねていたであろうモーツァルトは死後に「誰からも」と書いても構わないほどに愛されているのが救いとなっている。
レオポルトの死後、モーツァルトは経済面でも仕事面でも行き詰まるようになる。人気は落ち、演奏会を開いても客がほとんど入らないという状態になっても、チェーホフの「桜の園」の人々のように散財を止められず、借金を重ねた。そうして改めて父親の偉大さを実感したであろうし、逆境から脱するためには父を超える必要も感じたであろう。それが「ドン・ジョヴァンニ」の騎士長とドン・ジョヴァンニの関係に反映されているのは間違いないであろうと思われる。
モーツァルトの凄さは、そうした「父の愛」、ひいては「父の呪縛」から逃れられないのではないかという戦きをオペラ作品として昇華してみせたところにある。台本自体は、ロレンツォ・ダ・ポンテの手によるものだが、モーツァルトも台本制作に協力しており、モーツァルト自身の意図もかなり反映されているはずである。
演出面では、カタログに書かれた女性の名が記された幕が「愛」を肯定する場面で用いられているのが効果的。逆に第1幕のドンナ・エルヴィーラのようにドン・ジョヴァンニの愛を否定する際には幕が落とされたり、ラストでは愛の負の面がドン・ジョヴァンニを地獄に突き落とすなど、視覚的に分かりやすい効果を上げていた。
川瀬賢太郎指揮する広島交響楽団は生き生きとした演奏を展開。会場の音響は必ずしもオペラ向きではなかったが、良い音楽を聴かせてくれる。若手中心の歌手陣もムラはあったが健闘していた。
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