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2022年10月の10件の記事

2022年10月31日 (月)

スタジアムにて(42) 日本シリーズ2022 第3戦 オリックス・バファローズ対東京ヤクルトスワローズ@京セラドーム大阪

2022年10月25日 京セラドーム大阪にて

京セラドーム大阪で行われる、オリックス・バファローズ対東京ヤクルトスワローズの日本シリーズ第3戦を観戦する。なんとかかんとか手に入れたチケットは、外野寄りの内野三塁側最上段の最後列であった。

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初めてプロ野球の試合を生で見たのは、1990年の4月末か5月上旬。いずれにせよゴールデンウィークのことだったはずである。その時座った神宮球場の席から見たグラウンドもちょうどこんな感じだったことを思い出して懐かしくなる。その時の試合は、ヤクルトスワローズ対東京読売ジャイアンツの一戦。スワローズの先発は加藤博人、ジャイアンツの先発は宮本和知で、川相昌弘のレフトへのホームランでジャイアンツが勝っている。

思い出はともかくとして今日の試合。スワローズの先発は龍谷大平安高校出身で左のエース的存在に成長した高橋奎二。バファローズの先発も左のエースというべき宮城大弥。

スワローズは、日本シリーズ第1戦第2戦と当たりが出ていない山田哲人を1番に起用。それまでの2試合でトップバッターを務めていた塩見泰隆が入れ替わるように3番に入る。2番ライトには宮本丈、8番レフトには今日はキブレハンが入る。サンタナはDHで7番に入った。

今シーズン終盤には調整に入って登板がほとんどなかった高橋奎二だが、今日もMAXは150キロを記録するなど球威があり、バファローズ打線を打ち取っていく。

宮城大弥は、MAX149キロだが、ストレートの多くは140キロ台前半。しかし、100キロちょっと、一番遅い時は96キロを記録したスローカーブが効果的であり、こちらもスワローズ打線を交わし続ける。

5回表、センターの中村悠平、続くサンタナの連続ヒットでチャンスを作る。その後、ツーアウトとなるが、今日は1番に入った山田哲人がレフトへの大飛球を放つ。
京セラドーム大阪の外野とその近くの内野席の上部席には欠陥があり、打球がスタンドインしたかどうか分からないのである。そのため、選手達の動きや審判のゼスチャーを見る必要があるのだが、それらから「どうやらホームランになったようだ」と分かり、スワローズファンが盛り上がる。

7回表。先頭の丸山和郁がセーフティバンドを決め、長岡秀樹は倒れるが山田哲人はフォアボールで、先に盗塁を決めていた丸山と共に二塁一塁となる。その後、宮本は倒れるも、塩見泰隆が今日2つめとなるデッドボールを受けて二死満塁となる。対するバッターは村上宗隆。バファローズのピッチャーは3番手の竹安。竹安のストレートは150キロを記録するが、コントロールがまとまらず、村上に押し出しのフォアボールを与えて、4-0とスワローズがリードを拡げる。

スワローズは9回表にも村上宗隆の2点タイムリーツーベースとオスナのタイムリーで7-0と点差を拡げる。

最後まで見たかったのだが、10時を回ってしまうと京都に帰れない可能性が出てしまうため、9回表の攻撃を見終えた時点で席を立つことにする。日本シリーズは午後6時30分過ぎのプレーボールである。午後6時プレーボールだと良かったのだが。

9回裏には久保と小澤が登板し、1点を失ったがそれだけに抑え、7-1で東京ヤクルトスワローズが勝利して通算成績を2勝1分けとした。

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2022年10月26日 (水)

史の流れに(10) 京都文化博物館 「新選組展2022」

2022年10月4日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「新選組展2022」を観る。
京都文化博物館で、「新選組展」が行われたのは2004年のこと。大河ドラマ「新選組!」放送を記念してのことだった。だがその時点では歴史学界では、松浦玲の『新選組』(岩波新書)によると「研究に値しない団体」と見なされていた。小説やマンガ、ゲームなどでは新選組は特に女子に人気で、当時流行り始めていた言葉を使うと幕末の「『イケメン』剣豪集団」としてもてはやされていた。だがそれらは全てフィクションの世界を主舞台としており、地道な研究の道には繋がりにくいものだったのである。それが大河ドラマ「新選組!」が契機となってようやく研究の俎上に乗り、以降の研究の成果が「新選組展2022」として発表されることになった。

文書が中心の展示であるため、比較的地味であり、私は崩し字は読めないということで、「真の成果」がどこにあるのか判別しがたい状態ではあるのだが、文書に記された「小島鹿之助」「佐藤彦五郎」といった多摩の人々の名前を見ると、久しぶりに出会った親戚のように思えて懐かしくなる。

新選組の土台を築いたのは、主に近藤勇が宗家を務める天然理心流の道場「試衛」一派と芹沢鴨ら水戸派の二派である。「試衛」と書いたが、実は近藤勇の道場を一般に知られる試衛館と記した史料は見つかっておらず、伝わっているのは試衛の2文字もしくは試衛場とした3文字だけである。主立った江戸の剣術道場、例えば千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館の三大道場などには全て「館」の字がつくため、「試衛の2文字だけでは不自然だから館が付いたのだろう」との推測によって試衛館とされているのである。ただ試衛館という名は現時点ではあくまでも想像上のものであるため、今回の展覧会の説明書きでは試衛の2文字で記されている。

新選組は、「京都守護職御預」と記されることも多いが、これも厳密にいうと誤りで、松平容保(松平肥後守)が約2ヶ月だけ京都守護職を離れて陸軍総裁となり、京都守護職が松平春嶽となった際も、松平春嶽ではなく容保の配下となっていることから、役職に従っていたのではなく、松平肥後守個人に従っていたことが分かるようである。そのため松平肥後守御預とした方が実態に近いようである。

新選組にはもう一つ、新撰組という表記もあり、これらは併用されていた。近藤や土方も両方の表記を用いている。当時は漢字などは「読めればいい」「分かればいい」という考えが一般的であったため、正式な表記というものもないということになっている。だが、研究の結果、正式な場では「新選組」表記がなされる傾向にあるということは分かったそうである。

土方歳三の愛刀は和泉守兼定、脇差が堀川国広ということはよく知られているが、根拠となっているのは近藤勇の書簡だそうで、今回の展覧会ではその書簡の現物も展示されている。
なお土方所蔵の和泉守兼定は現存しており、今回の展覧会でも展示されていたが、堀川国広は行方不明となっていて、本当に国広が打ったものなのかどうかは定かではない(近藤勇の愛刀である長曽根虎徹もまた見つかってはおらず真贋不明である)。

新選組の活躍を今に伝える史料として重要視されているものの一つに、永倉新八(本姓は長倉。維新後の名前は杉村義江)が書いた『新選組顛末記』(こちらは厳密に言うとインタビュー記事をまとめたもの)と『浪士文久報国記事』が挙げられる。いずれも最晩年の永倉が遺したもので、共に今も文庫版を手に入れて読むことが出来るが、残念ながらこの時代は今と違って編集者が内容を面白おかしく書き換えてしまうのが常識となっており、『新選組顛末記』の方は掲載された小樽新聞の記者が脚色した可能性が高く、『浪士文久報国記事』の方も永倉が記した原本は失われたままだが、『新選組顛末記』よりは永倉の実体験に近い内容が記されていると考えられているようである。

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2022年10月23日 (日)

コンサートの記(810) 齋藤友香理指揮 京都市交響楽団第672回定期演奏会

2022年10月14日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第672回定期演奏会を聴く。今日の指揮は若手の齋藤友香理。

東京生まれの齋藤友香理。桐朋女子高校音楽科を経て、桐朋学園大学ではピアノを専攻する。「一人だけで練習するのは寂しい」という理由から副専攻では指揮クラスを受講していた。卒業後に同大学の科目履修生『指揮』に在籍して指揮者としての第一歩を踏み出している。2010年から1年間、公益財団法人新日鉄住友文化財団「指揮研究員」として紀尾井ホール室内管弦楽団(旧紀尾井シンフォニエッタ東京)や東京フィルハーモニー交響楽団で研鑽を積み、2013年からはドレスデン音楽大学(カール・マリア・フォン・ウェーバー音楽大学)大学院に進み、修了後には、ハインリッヒ・シフやキリル・ペトレンコのアシスタントなどを務めている。第54回ブザンソン国際指揮者コンクールでは、聴衆賞とオーケストラ賞を受賞。


曲目は、ワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲、ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番(クラリネット独奏:小谷口直子)、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」


午後6時30分頃から、ステージ上で齋藤友香理によるプレトークがある。女性としては低めの落ち着いた声である。
齋藤は、「私は東京生まれなのですが、京都コンサートホールには縁がありまして」と語り、2009年の小澤征爾音楽塾のコンサートで京都コンサートホールの指揮台に立ち、生まれて初めてに近い形でオーケストラ相手の指揮を行ったという。その後、ローム ミュージック ファンデーションのセミナーに参加した際には、京都コンサートホールで京都市交響楽団相手にブラームスの交響曲第1番を指揮したことがあるそうである。

その後の楽曲解説では、ワーグナーの「リエンチ」がヒトラーに影響を与えたことや、ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番のソリストである小谷口直子(京都市交響楽団首席クラリネット奏者)とミュンヘンで会ったことがあるという話や、渡独する際にはメンデルスゾーンのことは余り頭になかったが、受講した音楽セミナーの会場がライプツィッヒのメンデルスゾーンハウス(その名の通りメンデルスゾーンが過ごした家。その天才ぶりから「進めど進めど薔薇また薔薇」と称されるほど順風満帆だったメンデルスゾーンであったが、この家において38歳の若さで亡くなっている)であったという縁から興味を持ち始めたという。


今日はヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。コンサートマスターは京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。今日は客演首席チェロ奏者としてNHK交響楽団首席の「藤森大統領」こと藤森亮一が入る。フルート首席の上野博昭、ホルン首席の垣本昌芳らはメンデルスゾーンのみの出演である。


ワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲。しっかりとした「ドイツ」の「ワーグナー」の音が出ていることに感心する。ドイツ在住なのでドイツの空気とドイツ音楽を常に肌で感じているということもあるだろうが、そもそもドイツ音楽に適性がありそうである。細部の彫刻も見事で、その分全体像がぼやけているような気がしないでもなかったが、若手でこれだけのワーグナーが振れるのは見事である。
日本の若手指揮者、女性指揮者共に充実しているようだ。


ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番。個人的な思い出を語ると、生まれて初めて買ったクラリネット協奏曲のCDは、モーツァルトではなくウェーバーのものであった。ベルリン・フィル入団を巡るゴタゴタで話題になったザビーネ・マイヤーのクラリネットソロによるEMIのCDで(伴奏はヘルベルト・ブロムシュテット指揮のシュターツカペレ・ドレスデン)、私もザビーネ・マイヤー事件(ザビーネ・マイヤーのベルリン・フィル入団辞退のみならず、ヘルベルト・フォン・カラヤンの芸術監督辞任にまで発展した)を知っていたため、彼女のCDを購入したのであった。

小谷口直子は、深紅のドレスで登場。オーケストラのメンバーが協奏曲のソロを務めた場合、かっちりしすぎたりスケールが小さくなったりしがちなのだが(ソリストとオーケストラプレーヤーではそもそも求められるものが違う)、小谷口の場合はそういったことはなく甘く伸びやかな音色で天を翔る。
齋藤指揮の京都市交響楽団も陰影に富んだ優れた伴奏を聴かせる。

アンコール演奏は、ベールマンのクラリネットと弦楽五重奏のためのアダージョ。典雅な演奏であった。
本編終了後とアンコール演奏終了後に、齋藤と小谷口は抱き合って互いを称え合う。


メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。メンデルスゾーンの交響曲は第5番まであるが、番号は出版順であり、実際には「スコットランド」が彼の最後の交響曲である。
「スコットランド」交響曲は、高校生の時に定番のひとつであるオットー・クレンペラー指揮のCDで初めて聴き、その後にペーター・マークの2種類のCD(定番のDECCA盤ではなくいずれもデジタル録音の輸入盤)で繰り返し楽しんだが、ひょっとしたら今は手元にCDがないかも知れない。なくても今はYouTubeでそれなりに楽しめる時代であるが。

齋藤は中庸からやや速めのテンポを採用。濃厚なロマンティシズムよりも古典的な造形美を優先させたような演奏であるが、時折、馥郁としたロマンが立ち上る。若手指揮者らしい颯爽とした味わいもあり、京響共々豊かな音像を構築。「スコットランド」交響曲はメンデルスゾーンの最高傑作に挙げられることも多いが、実際はコンサートでプログラムに載ることは比較的少ない。今日のコンビはたまにしか聴けない名曲を存分に味わわせてくれた。

最後に齋藤はオーケストラメンバーに立つよう指示を送るが、京響の団員は指揮者に敬意を示して立たず、齋藤が一人で喝采を浴びた。

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2022年10月20日 (木)

コンサートの記(809) ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団第1965回定期演奏会 マーラー 交響曲第9番

2022年10月15日 東京・渋谷のNHKホールにて

東京・渋谷のNHKホールで、NHK交響楽団の第1965回定期演奏会を聴く。指揮は95歳の名匠、ヘルベルト・ブロムシュテット。

実はブロムシュテットは、今年の6月に足を骨折しており、来日が危ぶまれたが何とか間に合った。

マーラーの交響曲第9番1曲勝負。ブロムシュテットの指揮ということで、今日もヴァイオリン両翼の古典配置での演奏である。

京都コンサートホールではクロークも復活しているが、東京はまだコロナの感染者が多いためか、NHKホールのクロークはまだ稼働していなかった。一方でホール内でのCD販売などは様々なホールで復活している。

今日のコンサートマスターは「マロ」こと篠崎史紀。フォアシュピーラーには郷古廉(ごうこ・すなお)が入る。
NHK交響楽団も団員がステージに現れると同時に聴衆が拍手を送るスタイルに変わっている。ブロムシュテットは、篠崎に支えられるようにしてステージに登場。椅子に座りながらの指揮である。


「心臓の鼓動のよう」と形容されることも多いマーラーの交響曲第9番の冒頭。だが、ブロムシュテットが指揮するとなんとも懐旧的に響く。過ぎた日々への愛おしさが伝わってくるかのようである。

私がブロムシュテット指揮の演奏会に初めて触れたのは、1995年9月のNHK交響楽団の定期演奏会。それから27年の歳月が流れたが、その間に接したブロムシュテット指揮の演奏会数々が、目の前で鳴り続ける音に呼応してマドレーヌ式に蘇ってくるような心地がした。演奏会のみならず、27年の間には本当に色々なことがあった。

怪我が治りきっていないということもあってか、あるいは曲想ゆえか、ブロムシュテットが誇る強靱なフォルムは感じられないが、透明で儚げで懐かしさを感じさせる音が響き続ける。それに縁取りを与えるN響の力強いアンサンブルも見事である。27年前のN響はこんな音は出せなかった。

死に向かう嘆きを描いたかのような第4楽章も、ブロムシュテットの手に掛かると、彼岸を見つめつつ現世を愛おしむような曲調へと変わったように聞こえる。これまで出会った人々、接した事象、森羅万象への感謝が音の背後から匂うように伝わってくる。唯一無二の美演であった。

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2022年10月18日 (火)

観劇感想精選(447) 「FORTUNE(フォーチュン)」

2020年2月15日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後6時30分から、大阪の森ノ宮ピロティホールで「FORTUNE(フォーチュン)」を観る。ゲーテの「ファウスト」を原案に、設定を現代のイギリスの映画界に置き換えて描いた作品である。作:サイモン・スティーヴンス、テキスト日本語訳:広田敦郎。演出:ショーン・ホームズ。美術・衣装:ポール・ウィリス。出演:森田剛、吉岡里帆、田畑智子、市川しんぺー、平田敦子、菅原永二、内田亜希子、皆本麻帆、前原滉、斉藤直樹、津村知与支、根岸季衣、鶴見辰吾。

ロンドン。映画監督であるフォーチュン・ジョージ(森田剛)は、次の仕事を一緒にすることになったプロデューサーのマギー(吉岡里帆)と出会う。マギーに一目惚れしたフォーチュンであったが、マギーは既婚者。夫のデイヴィッドは構造エンジニアで、道路工事現場などで指揮に当たっているという。フォーチュンはマギーに告白するが、あっさり断られてしまう。
フォーチュンの父親のショーン(鶴見辰吾)は、飲んだくれのろくでなしであり、家を出てイギリス中をフラフラしていたが、52歳の時にリヴァプールで自殺している。母親のキャサリン(根岸季衣)は花屋を経営しており、慎ましやかに暮らしている。フォーチュンは少々マザコンの気があるようである。
フォーチュンは、ネット上で知り合ったルーシーという女性(田畑智子)と会う。ルーシーが開設している「シルクロード」というサイトを見るよう言われるフォーチュン。そこには不思議な契約が書かれている。
フォーチュンは現在41歳であり、父親の享年を抜く53歳になるまでの12年間、望んだものが手に入る思うがままの生活を送ることが出来るという契約に血文字でサインする。望みは主に3つ。53歳の7月1日まで生きること、映画監督としての世界的な成功、そしてマギーである。だが望みが叶う代わりにフォーチュンは魂を売る必要がある。
フォーチュンは喩えとして、「木を素手で引き裂けるようになる」「水がワインに変わる」などを挙げるが、それらは全て現実のものとなる。そしてまず最初に起こった大きな出来事は、マギーの夫、デイヴィッドの事故死である。フォーチュンは「誰が殺して欲しいと言った!」とルーシーをなじるのだが……。

ホラー作品であり、恐怖を描く術にはかなり長けている。演出の進め方は巧みで、同じステージ上で現実と魔界が交錯する様が見えるような独特の不気味さを醸し出している。音楽の使い方も実に上手い。
だがストーリーも面白いことは面白いのだが、ストーリーそのもので終わってしまうため、残るものがほとんどない。展開に特になんのひねりもないため、「3時近く費やしてこれなの?」と拍子抜けする。この内容ならわざわざ舞台にする必要もない。壮大な無駄遣いという印象も受ける。劇中に、「過ぎ去った時間を戻すことは出来ない」という忠告のセリフもあるが、皮肉に思えてしまった。


連続ドラマ「カルテット」で大いに注目されながら、主演ドラマは低視聴率、主演映画は大コケと伸び悩んでいる吉岡里帆。真面目すぎる性格が役の幅を狭めている印象も受けるが、演技に関してはかなり才能がありそうである。基本的に自然体の構えであるが、感情をちょっと動かしただけで大きくスライドしたように感じられるというのはやはり並の女優では出来ないことである。表現の幅がかなり広いタイプと見た。ただ、マギーは終盤になるとほとんど出てこなくなってしまうため、役としての美味しさは十分ではないかも知れない。
最も良かったのは悪魔のルーシー役を演じた田畑智子である。飛び抜けて良かったと書いても構わないだろう。普通の女性やいいとこのお嬢さんを演じることが多い田畑智子だが、今回はコケティッシュにしてサディスティックという役を見事にものにしており、実力を十二分に示した。これからも従来のイメージを覆す役のオファーが来そうである。
タイトルロール(「幸運とはなにか」を問うタイトルであるが、芝居を観た後では薄っぺらく感じられてしまう)を演じた森田剛も切れがありながら重厚という特筆すべき出来であり、いい味を出していた根岸季衣と鶴見辰吾を含めて役者陣は満点である。それだけになんとも惜しい作品であった。

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2022年10月13日 (木)

MBSドキュメンタリー 「【悲運の神童】天才バイオリニスト渡辺茂夫の『劇的すぎる半生』輝かしい未来から命の淵に…」

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2022年10月11日 (火)

美術回廊(80) 「アンディ・ウォーホル・キョウト」

2022年9月21日 左京区岡崎の京都市京セラ博物館・東山キューブにて

京都市京セラ美術館の新館である東山キューブで、「アンディ・ウォーホル・キョウト」を観る。アメリカのモダンアートを代表するアンディ・ウォーホル(本名:アンドリュー・ウォーホラ。1928-1987)の没後最大級の回顧展である。ちなみにウォーホルは、1956年と1974年に来日しており、京都も訪れているようである。

会場内はスマホ内蔵のカメラでの撮影のみ可であり、フラッシュの使用や動画撮影は禁止となっている。

ウォーホルの美術の特徴は、ポップなタッチや豊かな色彩もさることながら、「芸術における唯一性の逆転」を最大のものとしている。それまでの美術は、「一点しかないこと」「真作であること」に価値があったのだが、ウォーホルは大量生産・大量消費の時代を反映して、同じものをいくつも描き、オリジナリティも否定して、「唯一でないことの唯一性」を示すことの成功した。そうしたポップアートを提唱したのはウォーホルが最初であったはずである。そこにはあるいは「ミニマル」という観念が作用していたかも知れない。

ウォーホルが京都を訪れた時のスケッチの展示があるほか、YMO時代の坂本龍一や葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を取り入れたアートがあり、日本からの影響も分かりやすく示されている。坂本龍一の肖像は、2枚1組であるが、同様の肖像画としてアレッサ・フランクリンやシルヴェスター・スタローンのものが並んでいる。また、本展覧会のポスターに採用されている3つの顔が並んだマリリン・モンローのものも観ることが出来る。

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有名なキャンベルスープの缶を描いた作品や、ジャクリーン・ケネディの複数の表情をモチーフにした「ジャッキー」という作品などが興味深い。

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プライベートを明かさなかったウォーホルであるが、敬虔なキリスト教徒であり、協会での礼拝を欠かさなかった。展覧会の後半には、キリスト教をテーマにした作品も並ぶが、「最後の晩餐」には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に20世紀のアメリカ的な要素を持ち込んだオリジナリティを放棄したことで逆に独自のオリジナリティを発揮するというウォーホルらしい技巧がちりばめられている。

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ウォーホルの「生死観」については、壁に以下のような文字が投影されている。「ぼくは死ぬということを信じていない。起こった時にはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんかしていないから何も言えない(I don't believe it(death),because you're not around to know that it's happend.I can't say anything about it because I'm not prepared for it.)」

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2022年10月 6日 (木)

コンサートの記(808) サー・サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団来日演奏会2022@フェニーチェ堺

2022年10月1日 フェニーチェ堺大ホールにて

午後4時から、フェニーチェ堺大ホールで、サー・サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団の来日演奏会に接する。コロナ禍以降、初めて接する海外オーケストラの来日演奏会である。

サー・サイモン・ラトルの実演に接するのは2度目。前回は1998年に東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”でのバーミンガム市交響楽団の来日演奏会で、ポディウム席(P席)で聴いている。メインはベートーヴェンの交響曲第5番、いわゆる「運命」であったが、前半の2曲がいずれも現代音楽であったため、客席はガラガラ。ラトルの指揮だというのに半分入っているのかどうかも怪しいという惨状で、日本人の現代音楽アレルギーが露わになった格好であった。
他の人が記した記録を参考にすると、コンサートが行われたのは1998年6月3日のことで、前半のプログラムは、武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」とバートウィスル「時の勝利」(日本初演)である。武満の「鳥は星形の庭に降りる」は超有名というほどではないものの比較的知られた楽曲だが、バートウィスルの曲の情報が不足していたため避けられたのかも知れない。当時はまだ今ほどネットが普及しておらず、YouTubeなどで音源を気軽に聴くなどということも出来なかった。

ベートーヴェンの交響曲第5番はとにかく面白い演奏だったが、それが「ピリオド・アプローチ」なるものによる演奏であったことを知るのはそれからしばらく経ってからである。

それから24年ぶりとなるラトル指揮の演奏会。今回は現在の手兵で祖国を代表するオーケストラのロンドン交響楽団との来日であるが、ラトルはすでにロンドン交響楽団を離れ、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任することが決定しており、ロンドン交響楽団の音楽監督としては最後の来日公演となる。
本来は、2020年にラトルとロンドン響の来日演奏会が行われる予定で、京都コンサートホールでの演奏曲目はマーラーの交響曲第2番「復活」に決まっていたが、コロナにより来日演奏会は全て流れた。

今回の来日ツアーでも京都コンサートホールでの演奏会は組まれており、メインはブルックナーの交響曲第7番(B=G.コールス校訂版) であるが、フェニーチェ堺ではシベリウスの交響曲第7番がプログラムに入っていたため、少し遠いが京都ではなく堺まで出掛けることにした。流石に両方聴く気にはなれない。

演奏曲目は、ベルリオーズの序曲「海賊」、武満徹の「ファンタズマ/カントスⅡ」(トロンボーン独奏:ピーター・ムーア)、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、シベリウスの交響曲第7番、バルトークのバレエ「中国の不思議な役人」組曲。

フランス、日本、フィンランド、ハンガリーと国際色豊かな曲目が並ぶ。

アメリカ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは指揮者の正面ではなく舞台上手奥に配される。


ベルリオーズの序曲「海賊」。オーケストラのメカニック、アンサンブルの精度などは日本のオーケストラと五分五分といったところ、ホールの音響もあると思われるが音の厚みではむしろ勝っているほどで、日本のオーケストラの成長の著しさが確認出来るが、音色の多彩さや輝きなどは日本のオーケストラからは聞こえないものである。おそらく音に対する感覚が異なっているのだと思われるが、そうなると日本のオーケストラがもうワンランク上がることの困難さが想像出来てしまう。
フランス音楽らしい響きが出ているが、ジェントルでノーブルであるところがイギリスのオーケストラらしい。このジェントルなノーブルさはコンサートを通して聴かれ、ロンドン交響楽団ならではの個性となっている。よく「日本のオーケストラは個性がない」と言われることがあるが、こうした演奏に接すると「確かにそうかも知れない」と納得しそうになる。


武満徹の「ファンタズマ/カントスⅡ」。
武満徹が書いたトロンボーン協奏曲で、ロンドン交響楽団首席トロンボーン奏者のピーター・ムーアがソリストを務める。
夢の中で更に夢を見るような重層的な夢想の構図を持つ作品で、次第に光度を増し、彼方からまばゆい光が差し込むようなところで終わる。
まどろみながら歩き続けているような、武満らしい楽曲である。ピーター・ムーアのソロも良い。


ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。一昨日参加した「JUN'ICHI'S Cafe」で広上淳一が、「ラヴェルの書いた『ダフニスとクロエ』はディアギレフに気に入られなかった」という話をしていたが、「ラ・ヴァルス」もディアギレフのためのバレエ音楽として書かれながら採用されなかった曲である。
雲の上から俯瞰で見るという冒頭の描写力も高く、典雅な演奏が繰り広げられるが、フランスの指揮者やフランスのオーケストラによる演奏に比べると上品である。エスプリ・ゴーロワに当たる性質を有していない(大枠でそれに含まれるものもあるにはあるだろうが)ということも大きいだろう。


シベリウスの交響曲第7番。これを聴きたいがために堺まで出向いた曲目である。
ラトルはシベリウスを得意としており、バーミンガム市交響楽団とベルリン・フィルを指揮した二種類の「シベリウス交響曲全集」をリリースしているが、シベリウスの交響曲の中でも後期の作品の方がラトルに合っている。
武満やラヴェルとはまた違った幻想的なスタートを見せる。人間と自然とが完全に溶け合った、シベリウスならではの音楽が巧みに編まれていく。フルートのソロなども谷間の向こうから聞こえてくるような広がりと神秘性を宿している。
ロンドン交響楽団は、わずかに乳白色がかったような透明な響きをだし、このオーケストラの上品な個性がプラスに作用している。
金管がややリアルなのがこの曲には合っていないような気がしたが、それ以外は理想的なシベリウス演奏であった。


バルトークのバレエ「中国の不思議な役人」組曲。実はシベリウスの交響曲第7番と同じ年に書かれた作品なのであるが、シベリウスとは真逆の個性を放っている。猟奇的なストーリーを持つバレエの音楽であり、鋭く、キッチュでストラヴィスキーにも通じる作風だが、バルトークの作曲家としての高い実力が窺える作品と演奏である。
バルトークは20世紀を代表する作曲家として、今でも十分に高い評価を受けているが、今後更に評価が上がりそうな予感もする。


今日は最前列の席も販売されており、最前列に座った男性が「BRAVISSIMO(ブラヴィーッシモ。ブラヴォーの最上級)」と書かれた紙を広げ、ラトルは気に入ったようで、その男性と握手を交わす。
ラトルは、「皆さんお聴き下さりありがとうございました」と日本語で語り、最前列の男性を指して「ブラヴィーッシモ!」と言ってから、「フォーレの『パヴァーヌ』を演奏します」とやはり日本で語る。

そのフォーレの「パヴァーヌ」。繊細でエレガント。耳ではなく胸に直接染み込んでくるような嫋々とした演奏であった。

楽団員の多くがステージから去った後も拍手は鳴り止まず、ラトルが再登場して拍手が受ける。ラトルは客席に向かって投げキッスを送っていた。

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2022年10月 2日 (日)

これまでに観た映画より(312) ウォン・カーウァイ4K 「恋する惑星」

2022年9月21日 京都シネマにて

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「恋する惑星」を観る。1994年の制作、日本では1995年の初夏にロードショー公開され、何度も書いているが、私は今はなき銀座テアトル西友で5回観ており、同一の映画館で何度も観た映画の自己最多記録となっている。それまでは、カンフー映画か「チャイニーズゴーストストーリー」やキョンシーなどのホーラーというイメージだった香港映画のイメージを一作で変えた画期的な作品であった。
その後もBSやDVD、アップリンク京都での上映などを経て、今日でスクリーンで観るのは7回目となって、自己単独2位の記録となった。私の個人記録などはどうでもいい訳であるが。

脚本・監督:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影監督:クリストファー・ドイル(杜可風)。出演は、トニー・レオン、フェイ・ウォン、ブリジット・リン、金城武、チャウ・カーリン(ヴァレリー・チョウ)ほか。

金城武演じる刑事とブリジット・リン演じる麻薬の運び屋の一瞬の恋と、トニー・レオン演じる警官とフェイ・ウォン演じる軽食店の店員の未来を感じさせる恋の二通りの恋愛が描かれたオムニバス。本来はここに殺し屋とエージェントの恋が加わるはずだったが、2つの話で映画1本分の長さに達したため独立した映画とし、これが「天使の涙」となっている。セリフは広東語ベースだが、金城武のセリフには北京語、広東語、英語、日本語が用いられており、モノローグには北京語が使用されている。

原題は「重慶森林」で、香港で最も治安が悪いとされる重慶マンション(重慶ビルディング)と、村上春樹の小説『ノルウェイの森』に由来するタイトルとなっている。「重慶森林」こと「恋する惑星」は、作り方も村上春樹の『風の歌を聴け』などの影響を受けており、朝にウォン・カーウァイ監督が書いた短い台本を俳優が貰って撮影、ただし順撮りではないので、俳優は今がなんのシーンでどう繋がるのか分からないままであった。村上春樹の『風の歌を聴け』も、断片を書いて後で編集するというスタイルで書かれており、技法も真似た上での「重慶森林」というタイトルなのかも知れない。

金城武の役名の「モウ」については、これまでは「某」由来なのではないかと思ってきたが、今回見直してみて、名乗るシーンがありそこでは北京語で「Wu」と発音しているのが確認出来た。「Wu」というのは「武」という字の北京語の発音であり、金城武のファーストネームを役名として採用したようである。

返還前の混沌とした香港の姿もよく捉えられており、疾走感溢れるクリストファー・ドイルのカメラワークも相まって、極めてパワフルな映像が生まれている。


今回の4Kレストアでは、本来無音の演出が行われていた箇所に音楽が挿入され、またエンドロールが新しくなっている。個人的には無音の演出がなくなったのは残念であった。

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2022年10月 1日 (土)

コンサートの記(807) ジョン・アクセルロッド指揮京都市交響楽団第671回定期演奏会 マーラー 交響曲第2番「復活」

2022年9月25日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第671回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、京響首席客演指揮者のジョン・アクセルロッド。マーラーの交響曲第2番「復活」1曲勝負である。

セレモニアルな場面で演奏されることの多いマーラーの交響曲第2番「復活」。20世紀半ばまでは、そうした折りにはベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏されることが多かったが、マーラーの交響曲がコンサートレパートリーに定着するようになってからは、「復活」が演奏されることも多くなった。個人的には「復活」の実演に接するのは今日で3度目だが、初めての聴いたのは大阪音楽大学創立90周年記念(於ザ・シンフォニーホール。西本智実指揮大阪音楽大学カレッジ・オペラハウス管弦楽団+大阪音楽大学関係者ほか)、2度目はパーヴォ・ヤルヴィのNHK交響楽団首席指揮者就任記念演奏会(於・NHKホール)といずれも祝祭的な節目で演奏されている。アクセルロッドと京響の「復活」も本来はアクセルロッドの京響首席客演指揮者就任記念として演奏されるはずだったのだが、コロナによって今回に延期となっている。ということで特別な折りでの演奏ではなくなったが、コロナ禍からの「復活」の烽火を京都から上げる演奏会となった。


午後2時頃から、ジョン・アクセルロッドによるプレトークがある(通訳:小松みゆき)。アクセルロッドは、1995年に小澤征爾が終戦50年記念演奏会として長崎で「復活」を取り上げたことに触れ、「復活」という曲目の特別性について語る。アクセルロッドは、第九(日本語で「第九」と発音する)やベートーヴェンの「田園」についても触れ、「復活」はそれらと違ってマーラーの哲学や精神を描いた作品であるとする解釈を披露していた。
またコーラスはマスクをつけながらの歌唱となることを明かし、コーラスが活躍する第5楽章には、キリスト教、ユダヤ教、仏教などの各宗教を超えたメッセージがあると述べる。

ちなみに、私が生まれて初めて買った交響曲のCDがマーラーの交響曲第2番「復活」である。高校1年生の時で、CBSソニー(現ソニー・クラシカル)から出ていたロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ほかによる演奏であった。「復活」というタイトルとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏ということに惹かれて購入している。他に比較対象がなかったが、曲の巨大さと演奏の力強さに驚いた記憶がある。


京都市交響楽団がマーラーの交響曲第2番「復活」を取り上げるのは、これで5回目だが、これまでの4回は全て京都会館第1ホールでの演奏で、本拠地が京都コンサートホールに移ってからは初の「復活」となるようである。
最初に取り上げたられたのは、山田一雄の指揮による1974年5月18日の演奏会で、2度目も山田一雄指揮による1981年5月29日の京響創立25周年演奏会である。1981年の演奏はビクターによってライブ録音されており、今もタワーレコードから出ている復刻版CDを入手することが出来る。
3度目に取り上げられたのはその5年後の1986年6月18日の京響創立30周年記念演奏会に於いてで、指揮は小林研一郎が務めている。
4度目の演奏は、井上道義の指揮によって1990年11月15日に、京都国際音楽祭の一環として行われている。
今回も特別な節目ではないものの、京都の秋 音楽祭の演目として「復活」が取り上げられている。


今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別名誉友情コンサートマスターの豊島泰嗣。フォアシュピーラーに泉原隆志。ドイツ式の現代配置による演奏で、今日はヴィオラの首席にソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積が入る。特別首席チェロ奏者の山本裕康は降り番で、チェロの第1プルトは、中西雅音(まさお。チェロ副首席奏者)とドナルド・リッチャーが務める。
ソプラノ独唱はテオドラ・ゲオルギュー(以前にも実演に接したことがあるが、有名ソプラノ歌手であるアンジェラ・ゲオルギューとは血縁関係にはないようである)、メゾ・ソプラノ独唱は山下牧子。合唱は京響コーラス。コーラスはポディウム(P席)に陣取っての歌唱である。


アクセルロッドのテンポは中庸。各楽器の分離は明瞭であり、音色も明るめで、そのためか演奏時間約80分の大作とは思えないほど時が過ぎるのが速く感じられた。
大音量での迫力も十分だがそれ以上にノスタルジックな場面での透明で優しい音色が印象的であった。京響も強弱硬軟自在の演奏でアクセルロッドの指揮に応える。

舞台上の段差を目一杯使っての演奏で、前を通る隙間がないということで、山下牧子とテオドラ・ゲオルギューはいったん客席通路に下りて(今日は最前列は発売されていない)指揮台の近くにある階段を上がって持ち場についていた。二人ともアクセルロッドのほぼ真横に立って歌うのだが、アクセルロッドの振る指揮棒がゲオルギューの顔に当たりそうに思えて少しヒヤヒヤした。

その山下とゲオルギューの歌唱も言うことなしであり、マイクをつけての歌唱となった京響コーラスも神秘的にして輝かしい歌唱を展開した。

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