コンサートの記(811) 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室2022@ロームシアター京都 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」
2022年10月27日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて
午後1時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。東京・初台にある新国立劇場の高校生のためのオペラ鑑賞教室2022として開催されるもので、例年は当日券のみか、以前にモーツァルトの歌劇「魔笛」が開催された時には4階席のみ一般席として発売されたが、今回は1階席の後方が一般席として前売りが行われ、廉価でオペラを楽しめることになった。
指揮は京都出身の阪哲朗。演出は栗山民也。出演は、木下美穂子(蝶々夫人)、村上公太(ピンカートン)、近藤圭(シャープレス)、但馬由香(スズキ)、糸賀修平(ゴロー)、畠山茂(ボンゾ)、瀧進一郎(神官)、高橋正尚(ヤマドリ)、佐藤路子(ケート)、保坂真悟(ヤクシデ)、照屋睦(書記官)、藤永和望(母親)、塚村紫(叔母)、肥沼諒子(いとこ)。演奏は京都市交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団。
舞台正面の壁の上方に長方形の開かれた窓のような空間が開けられており、そこから下手側にスロープ上の緩やかな階段が降りている。窓のような空間の下には八畳間ぐらいのスペースが設けられており、ここが蝶々さんの家の居間ということになる。
開かれた窓のような空間には星条旗がはためいている。常にあるという訳ではないが、要所要所で現れ、第2幕第2場では蝶々さんが星条旗と並ぶシーンがある。おそらく蝶々さんの見知らぬ国への憧れとそこでのピンカートン夫人としての生活の夢を表しているのだと思われる。第1幕終盤でのピンカートンと二人の場面で蝶々さんは「星」について歌っているが、今回の演出ではその「星」も夜空に瞬くリアルなものではなく星条旗にデザインされた星のことと受け取ることが可能なように思えてくる。
海外の歌劇場での音楽監督としての活動も長かった阪哲朗。彼らしいシャープで生き生きとした音楽を生み出す。京都市交響楽団は、ピットでの演奏ということで音が濁る場面もあったが、力強くも美しい音を奏で、日本で聴けるオペラの演奏としては最上の一つと思われる上質の響きを生み出していた。
ロームシアター京都メインホールの1階でオペラを聴くのは初めてだが、潤いと迫力を合わせ持った音が届き、やはりこの会場はオーケストラがピットに入った時に最も良い響きを生むことが分かる。プロセニアムの形もあるいはオーケストラがピットに入った時に音を前に飛ばす設計なのかも知れない。
登場人物が上の開いた窓のような空間から下に降りてくるということで、理想的な場所から修羅場に向かってくるようにも見えるのだが、おそらくそこまでは想定していないであろう。ただ星条旗のはためく空間は理想と希望を表しているようにも見える。一方で星条旗は帝国主義と植民地主義の象徴でもあり、蝶々さんを苛むことにもなる。見方によっては、あるいは場合によっては希望と絶望は表裏一体になり得る。
初演が大失敗に終わったことでも知られる「蝶々夫人」。だがその際は、ピンカートンの性格が帝国主義と植民地主義の権化のようなものだったそうで、その場合はピンカートンと蝶々さんのロマンスが全く生きなくなったであろうことは想像に難くない。ということでピンカートンを色男にしたことで再演は成功したとされている。ちなみにピンカートンというのは「出来の悪い海兵」を表すスラングだそうで、初演時の人物設定が今以上に悪かったことが窺える。
タイトルロールを歌う木下美穂子は細やかな歌唱と心理描写が印象的。実力をいかんなく示す。シャープレスを歌う近藤圭も想像以上に貫禄があり、アメリカの駐日領事官としての重さを演技で表していた。
栗山民也は自害した蝶々さんを息子が見つけて呆然とする(あるいは何が起こっているのか分かっていないのかも知れないが)場面を最後に持ってくることで、この物語と植民地主義とピンカートンの残酷さを描き出していた。
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