これまでに観た映画より(325) ドキュメンタリー映画「アアルト」
2024年3月21日 京都シネマにて
京都シネマで、フィンランドのドキュメンタリー映画「アアルト」を観る。フィンランドのみならず北欧を代表する建築家にしてデザイナーであるアルヴァ・アアルトの生涯と彼の二人の妻に迫る作品。ヴィルビ・スータリ監督作。
母校のヘルシンキ工科大学が現在はアアルト大学に校名変更されていることからも分かるとおり、絶大な尊敬を集めたアルヴァ・アアルト(1898-1976)。「北欧デザイン」といわれて何となく頭に浮かぶイメージは彼が作り上げたものである。彼の最初の妻であるアイノは4つ年上であり、同じヘルシンキ工科大学の出身であった。
アアルトがヘルシンキ工科大学卒業後にユヴァスキュラに建築事務所を設立。従業員を募集し、それに応募してきたのがアイノであった。
アアルトの設計の最大の特徴は、「人間的」であること。また自然との調和も重視し、人間もまた自然の一部であるという発想はシベリウスを生んだフィンランド的である。
二人三脚で仕事を進めたアアルトとアイノ夫人。アイノもアアルトと同じヘルシンキ工科大学を卒業しているだけあって、アイデアも豊富でセンスにも長け、アアルトが起こしたデザイン企業アルテックの初期の家具などのデザインにはアイノ夫人の発案も多く取り入れられているようである。
ただ、二人とも家具職人ではないので、実用的な部分は専門家に任せていたのだが、彼が亡くなると家具デザイナーとしてのアアルトは全盛期を過ぎることとなる。
地中海を行く船上で行われた近代建築国際会議(CIAM)に出席し、ル・コルビュジエなどの知遇を得、パリ万博やニューヨーク万博のフィンランド館(パビリオン)、ニューヨーク近代美術館(MoMA)での個展などで注目を浴びたアアルト。作風を次々に変えながら、「人間的」という意味では通底したものを感じさせる建築を次々に発表。マサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授に就任し、MITの学生寮も設計。蛇行した川に面したこの学生寮は、全ての部屋から川面が見えるよう、建物自体もうねっているという独特のものである。
1948年にアイノ夫人が若くして亡くなると、3年後に24歳年下のアアルト事務所職員で同じヘルシンキ工科大学出身のエリッサと再婚。エリッサ夫人は、アアルトが亡くなると、彼が残した設計図を元に建築の仕上げなども行っているようである。
アアルトの最大の仕事は、ヘルシンキ市中心部の都市設計であったが、これはフィンランディアホールを完成させるに留まった。このフィンランディアホールは白亜の外観の美しさで有名であるが、それ以上に劣悪な音響で知られており、ヘルシンキのクラシック音楽演奏の中心は、現在ではヘルシンキ音楽センターに移っている。
晩年になると海外での名声は高まる一方であったアアルトであったが、フィンランド国内では逆に保守的な建築家と目されるようになり、国民年金協会本部や村役場、大学などの設計を行うことで、体制側と見なされることもあったという。
フィンランド以外での建築物としては、前記MITの学生寮、ハーバード大学のウッドベリー・ポエトリー・ルーム、ベルリン・ハンザ地区の集合住宅、ノイエ・ファールの高層集合住宅(ドイツ・ブレーメン)、フランスのルイ・カレ邸、ヴォルフスブルクの文化センター(ドイツ)、同じくヴォルフスブルクの精霊教会、エドガー・J・カウフマン記念会議室(アメリカ・ニューヨーク)、リオラの教会(イタリア)などがある。
ラジオなどで収録されたアアルト自身の肉声、アアルトが残した手紙などを朗読する声優(アアルトの声を当てているエグゼクティブ・プロデューサーで俳優でもあるマルッティ・スオサオは、ヴィルビ・スータリ監督の夫だそうである)の他に、建築家の仲間や専門家、大学教授などの証言を豊富に収めており、アカデミックな価値も高いドキュメンタリー映画である。
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