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2024年4月の12件の記事

2024年4月22日 (月)

第七十四回京おどり in 春秋座 「時旅京膝栗毛」全九景

2024年4月14日 京都芸術劇場春秋座にて

京都芸術劇場春秋座で、第七十四回京おどり in 春秋座を観る。午後4時30分開演だが、お茶菓子付きの券なので、早めに行って、京都芸術大学のギャルリ・オーブという展示スペースを使ったお茶席で、抹茶と和菓子を味わう。菓子皿は持って帰ることになる。
点茶出番はローテーション制で、今日は、とし七菜さんと叶朋さんというパンフレットにも写真が載っている二人が出演した。

京おどりは宮川町の春のをどりであるが、宮川町歌舞練場が現在、建て替え工事中であるため使用出来ず、一昨年の河原町広小路の京都府立文化芸術会館での公演を経て、昨年と今年は都をどりが行われたこともある京都芸術劇場春秋座が会場に選ばれた。来年は公演休止で、再来年に新しい宮川町歌舞練場に戻って京おどりを行う予定である。

今年の京おどりは、「時旅京膝栗毛(ときのたびみやこひざくりげ)」全九景というタイトルで、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次喜多が、22世紀の夫婦、夫のヤジと妻のキタという設定になり、22世紀には普及している携帯式のタイムマシーンを使って江戸時代を訪れ、お伊勢参りをするが、タイムマシーンが壊れて様々な時代へと勝手にワープすることになるという設定である。それだけで十分怪しいが、果たして出来は良くなかった。

作・演出:北林佐和子、作曲:四世・今藤長十郎、作調:田中傳次郎、笛作調:藤舎名生、作舞:若柳吉蔵、指導:若柳由美次。
出演者は、三つの組によるローテーション制で、今日は三組が出演する。第一部に出演者の重複は少ないが、第二部は出演者が重なっている場合も多く、「月に舞う」の立方は三組とも、ふく葉一人が務める。

二部構成で、第一部第一景が「元禄の藤」、第二景が「平安の雪」、第三景が「応仁の乱」、第四景が「風流踊」、第二部の第五景が「水に色めく」、第六景が「風を商う」、第七景が「月に舞う」、第八景が「花暦」、第九景フィナーレが「宮川音頭」となっている。

まず幕にアニメーションが投影される。セリフはRPG風に枠に囲われたものが映る。「奥様は魔女」を真似たナレーション風の字幕も出てくる。京都芸術大学の学生が作成したものなのだが、それ以降の舞踊の雰囲気と全く合っておらず、完全に浮いてしまっている。そもそもアニメーションと伝統芸能を合わせるのには無理がある。都をどりでも当時の京都造形芸術大学はアニメーションを使って不評だったが、今回も同じ間違いが繰り返される。

「元禄の藤」は、「藤娘」と同様、藤の枝を小道具として行われる舞である。ヤジ役とキタ役の二人が登場して、藤娘達と絡んでいく。
「平安の雪」は、小野小町と深草少将の百夜通いの話で、深草少将はヤジとキタに小野小町との仲立ちを頼む。そこで二人の仲を叶えてしまったことから歴史が変わってしまい、何故か応仁の乱が始まってしまう。「応仁の乱」では芸妓達が閉じた扇を太刀に見立てて斬り合いの舞を演じる。迫力十分である。ちなみに歌詞に「先の戦」という言葉が出てくるが、本気で用いているのかどうかは分からない。
続く「風流踊」では、鳥居の前で舞が行われるのだが、京都芸術大学作成のねぶたがタイムマシーンとして登場。しかしこれが余りにチャチで見栄えが悪い。これでOKを出したら駄目だと思う。
その後に幕が下りて、またアニメーションが投影されるのだが、2024年の宮川町の町並みを歩くヤジとキタが映るだけで、単なる今の宮川町の描写に留まる。
「時旅京膝栗毛」はここで終わりとなるようである。音源はスピーカーから聞こえているようで、あるいは録音だったのかも知れない。プログラムに地方の記載もない。

第二部の「水に色めく」「風を商う」「月に舞う」は芸妓による正統的な舞で、こうしたものだけで十分のはずである。地方も舞台上手に現れる。「風に商う」は扇売りや投扇興の場面、屋島の戦いでの那須与一(扇を拡げて弓に見立てる)や五条大橋西詰の平敦盛ゆかりの扇塚なども登場する花街の演目らしい楽しさがある。
舞妓達による「花暦」。宮川町は祇園甲部などに比べて格下と見られていたが、芸妓ではなく、見習いとしか見られていなかった舞妓を前面に出すことで人気を上げ、メディアとも積極的にコラボレーションを行ってきた。舞妓シアターなるものまで存在したほどである。
舞妓を前面に出す手法は現在も続いているようで、春秋座のある京都芸術大学のエントランスホールの一角にほぼ等身大の舞妓達が写ったパネルがあり、一人ひとりへのインタビュー記事や自作のエッセイが書かれたしおりが置かれていて、自由に持ち帰ることが出来るようになっている。
舞妓に力を入れているだけあって、「花暦」の舞も可憐。センター(でいいのかな?)の女の子は広末涼子系の顔立ちの、誰が見ても「可愛い」と思える子で、やはり容姿も重要視されているようである。

第九景フィナーレの「宮川音頭」(作曲:三世・今藤長十郎)は、京おどりの名物で、出演者総出で行われる舞と調べは華やかさと儚さが同居しており、煌びやかにして切ないという京の町や花街の一面を色濃く描いている。

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2024年4月20日 (土)

コンサートの記(840) びわ湖ホール オペラへの招待 オッフェンバック作曲「天国と地獄」(新制作)

2023年12月23日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 オッフェンバック作曲「天国と地獄」(新制作)を観る。オペレッタにも分類されるということで日本語上演・日本語字幕付きである。終盤のみフランス語が用いられる。台本と演出を手掛けるのは神戸出身の岩田達宗。岩田はホワイエに展示された神々相関図のイラストも手掛けていて、神々の可愛らしい絵姿を描いていた。訳詞は宮本益光。びわ湖ホール声楽アンサンブルの指揮者である大川修司指揮大阪交響楽団(コンサートマスター・林七奈)の演奏。出演は、有本康人、山岸裕梨、藤居知佳子、奥本凱哉、市川敏雅、森季子、佐々木真衣、船越亜弥、西田昂平、迎肇聡、黒田恵美、島影聖人。合唱はびわ湖ホール声楽アンサンブル。ダンサーは、浅野菜月、片山未知、天上うらら、天上さくら(振付:河森睦生)。
今回の演出では、字幕が「世論」として重要な役割を果たす(びわ湖ホールを制御するコンピューターの言葉という設定)。

フレンチカンカンの音楽がとにかく有名なオペラ(オペレッタ)だが、私が「天国と地獄」(原題は「地獄のオルフェ」)を観るのは映像も含めて初めてになる。

グルックのオペラでも有名な「オルフェオとエウリディーチェ」の話を当時の世相を反映させる形の奔放なパロディーに仕立てた作品で、今回の演出でも、自民党安倍派のパーティー券問題、アメフトの日大フェニックスの不祥事、インボイス制度の導入などが風刺されている。今年(2023年)亡くなった、吉本新喜劇の桑原和男の玄関先ネタも加えられていた。

今日は前から2番目の席で聴いたのだが、大川の指揮する大阪交響楽団に威力があり、歌手の歌唱の水準も高く、バカ騒ぎのようなファルスを楽しむことが出来た。

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2024年4月19日 (金)

観劇感想精選(458) 村川拓也 「ムーンライト」

2023年1月12日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、左京区岡崎のロームシアターサウスホールで、「ムーンライト」を観る。演出・構成:村川拓也。声の出演:中島昭夫。出演(ピアノ演奏):荒俣麗奈、伊東沙希子、梶原香織、杉田彩智乃。ドラマトゥルク:林立騎。

「ムーンライト」は、2018年に、目の不自由な老人ピアノ演奏者である中島(なかしま)昭夫に取材して作られた作品で、当初は、中島もステージに上がり、村川のインタビューを受けるという趣向の作品であった。その後、東京、札幌でも上演されたが、札幌公演が行われる直前の2022年5月に中島が逝去し、札幌と今回の京都での上演は中島なしでの上演となっている。

中島がステージ上にいると仮定して村川は話しかけるのだが、中島の返答は当然ながら客席にいる人には聞こえてこないので、中島の人となりを知ることは出来ない。村川が一人芝居で中島から聞き取ったことにする断片的な情報が知られるだけである。ただ、ピアノを通して浮かび上がる中島の姿は興味深い。

中島は大学生時代に医師から「将来失明する」と告げられ、点字を読めるようにすることを勧められるのだが、視力は中島が定年退職するまではもった。だがその後、視力の低下は進み、やがて見えなくなる。

演奏される曲目は、ドビュッシーの「小さな黒人」、「旅愁」、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」より第2楽章、バイエルより、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」より第1楽章(この曲のみ記録音源)。

ラストは、10年前に中島さんが日比谷にあるスタインウェイのショールームで試し引きした「月光」ソナタ第1楽章の映像。聴覚を失ったベートーヴェンと、視力を失いつつある中島さんが一体化し、メカニックも表現も素人だが心を揺さぶる演奏となっている。

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2024年4月18日 (木)

コンサートの記(839) ミシェル・タバシュニク指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第577回定期演奏会

2024年4月12日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第577回定期演奏会を聴く。指揮はミシェル・タバシュニク。

知名度抜群という程ではないが、隠れた巨匠的存在のミシェル・タバシュニク。特に現代音楽の解釈者として高い評価を得ている。1942年、スイス・フランス語圏最大の都市であるジュネーヴの生まれ。生地の音楽院で作曲、指揮、ピアノを学ぶ。ロンドンのBBC交響楽団では当時の首席指揮者であるピエール・ブーレーズの助手を4年に渡って務め、スペイン放送交響楽団では設立当初から初代首席指揮者のイーゴリ・マルケヴィッチのアシスタントとして活躍した。ヘルベルト・フォン・カラヤンにも師事し、ベルリン・フィルの指揮台に招かれている。
ピエール・ブーレーズが創設した現代音楽専門の楽団であるアンサンブル・アンテルコンタンポラン、ポルトガル・リスボンのグルベンキアン管弦楽団、フランスのロレーヌ国立フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を歴任し、2008年よりブリュッセル・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者&芸術監督を務め、2015年からは名誉指揮者。ノールト・ネーデルラント交響楽団では首席指揮者を経て、こちらも名誉指揮者の称号を得ている。
現代音楽、特にクセナキス作品の指揮で高い評価を得ているが、自身も作曲家として活動しており、2016年にリヨン国立歌劇場からの委嘱作品であるオペラ「ベンジャミン、ラスト・ナイト」を初演したほか、ヴァイオリンやチェロのための協奏曲なども発表している。トロント大学音楽学部やデンマーク王立音楽院の教授として、またユースオーケストラの創設者として後進の育成に当たったこともある。


曲目は、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」、ベルクの管弦楽のための三つの小品、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。


モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」。モーツァルトがわずか4日間で書き上げたという伝説で知られる曲である。
非常に見通しが良く、爽やかなモーツァルトだ。バロックティンパニを用いているが、ラストを除いては柔らかめの音で通し、最後の最後で音を固くして効果を上げていた。
どちらかというと弦楽主体のスタイルで、音の抜けが良く、テンポも適切。春の宵に相応しいモーツァルトとなった。


ベルクの管弦楽のための三つの小品。ベルク最初の管弦楽曲であるが、同時期に書かれた傑作歌劇「ヴォツェック」を連想させるような響きがある。

新ウィーン学派の中では比較的分かりやすい音楽を書いたアルバン・ベルク。ただ、管弦楽のための三つの小品は、シェーンベルクからの影響も濃厚である。夜の雰囲気が漂うような第1楽章「前奏曲」だが、第2楽章「輪舞」を経て、第3楽章「行進曲」に至ると、豪快にして巨大な音楽となる。100名を超える大編成による演奏だが、広大なフェスティバルホールの空間を揺るがすような大音響が生まれる。第3楽章「行進曲」は、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」と関連のある音楽のようだが、「悲劇的」同様、ハンマーが打楽器の一つとして用いられており、最後もハンマーの一撃で終わる。


リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。特に有名な序奏で印象的なオルガンが入る曲だが、フェスティバルホールにはパイプオルガンがないので、電子オルガンが用いられる(演奏:片桐聖子)。
絢爛豪華なオーケストレーションを得意としたリヒャルト・シュトラウス。そのため演奏によってはコッテリした厚化粧風になることもあるのだが、タバシュニクの生む響きはすっきりしていて各楽器の分離も良く、ケバケバしさを感じさせない。
名画「2001年宇宙の旅」で用いられた序奏ばかりが有名な曲だが、実際には内容は多彩で、室内楽風になるところもあれば、謎めいた響き、甘美な調べで魅せる場面もあるなど、聴き所の多い作品である。
コンサートマスターによる長めのソロがあるのだが、須山は甘い響きで華麗な演奏を行う。チェロの独奏は近藤浩志が堅実な腕を見せていた。
管楽器も威力があり、輝きにも欠けていなかった。

リヒャルト・シュトラウスは、今年が生誕160年ということで、日本全国で様々な企画が行われるようである。

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2024年4月16日 (火)

楽興の時(46) 「古今東西 弦MEETING」2024.4.11

2024年4月11日 右京区西院のLIVE HOUSE GATTACAにて

午後6時30分過ぎから、西院にあるライブハウス「GATTACA」で、「古今東西 弦MEETING」のライブに接する。出演:尾辻優衣子(二胡)、戸田大地(ボーカル、エレキギター&アコースティックギター)、奥村由希(ボーカル&アコースティックギター)、津軽三味線itaru。

itaruさんは、現在、浄土宗の僧侶としても活動しているが、真宗大谷派の浄慶寺で行われていた仏教の勉強会で知り合いになっている。

尾辻&itaru組と、戸田&奥村組に分かれての演奏。

尾辻&itaru組は、第1曲として松任谷由実の「春よ、来い」を演奏する。二胡は単音しか弾けない楽器なので旋律を奏で、itaruの津軽三味線が合いの手を入れる。二胡が単音しか出せないということで、基本的にほとんどの楽曲でマイナスワンの音源(要はカラオケの伴奏)を用いての演奏が行われた。「今年は桜が遅くて、今の時期にピッタリの曲」と尾辻は述べる。
尾辻は、自作曲の「倖龍(こうりゅう)」(「四神相応」の四神を束ねる黄龍に由来する曲である。京都では学生団体によるよさこい踊りが盛んで、龍谷大学のよさこいサークルとコラボしたことのある曲だそうだ。この曲ではないが、尾辻は母校である同志社大学のよさこいサークルと共演したこともあるそうである)、「犬夜叉 時代(とき)を超える想い」、「朱雀 紫の花」を演奏。自作の「花紐解」では戸田大地のギターとデュオを行った。
itaruは、「アメイジング・グレイス~津軽あいや節」、津軽三味線の曲と言えばの「津軽じょんがら節」を演奏する。
「二胡と言えば」の曲である「賽馬」が最後に尾辻とitaruの二人で演奏された。

itaru、戸田、奥村の3人によるフラワーカンパニーズの「深夜高速」。SMBCのCMソングとして、岡崎体育、三浦透子、岸井ゆきの(英語バージョン)にカバーされている楽曲である。サビの「生きててよかった」は、コロナ禍を経て「生きていてよかった」に変更されたそうで、今日は戸田が「生きていてよかった」、奥村が「生きててよかった」の歌詞で歌う。


戸田&奥村組は、戸田が「ミルキーウェイ」、「平成ブルーバード」を弾き語りし、「侍ハリケーン」でitaruとのデュオも行う。
奥村由希と戸田大地の共演。戸田が、ザ・タイマーズの日本語版「デイ・ドリーム・ビリーバー」(後に忌野清志郎名義でも発表)のイントロを奏で、奥村が不快感を表す。奥村はセブンイレブンで長年アルバイトをしているようで(長いのでバイトリーダーになっているようである)、迷惑な客に対する不満を歌詞にした曲「711」を歌う。セブンイレブンのCMや店内で「デイ・ドリーム・ビリーバー」が流れているので、バイト先でのことを思い出してしまうようだ。
奥村は尾辻の二胡伴奏で、「月」という不倫をテーマにしたバラードも歌った。
最後は戸田と奥村の二人で、コロナの時期に作った「なんかせなあかんな」のデュオを行う。


座談会。奥村が尾辻に、「二胡で弾き語りすることはあるんですか?」と聞く。尾辻は「する人がいないことはないけれど、二胡自体が歌う楽器なので歌ってから弾いてまた歌って」ということで、同時に弾き語りをする人はほとんどいないようである。三味線も弾き語りは余りしないが、三味線の祖に当たる沖縄の三線は弾き語りのための楽器で、演奏者と歌い手の分業制である津軽三味線とはそこが決定的に違うとitaruは述べていた。
PAを務めた人は、今月からGATTACAに入ったばかりだそうで、二胡や三味線など、普段ライブハウスで使われることの少ない楽器の生音を聴いたのは今日が初めてだそうである。

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2024年4月15日 (月)

近鉄アート館復活10周年記念 春の演芸ウィーク「ブギウギ講談 笠置シヅ子と服部良一の時代」

2024年4月3日 あべのハルカス近鉄本店ウイング館8階・近鉄アート館にて

午後6時から、あべのハルカス近鉄本店ウイング館8階にある近鉄アート館で、近鉄アート館復活10周年記念 春の演芸ウィーク「ブギウギ講談 笠置シヅ子と服部良一の時代」に接する。共に大阪育ちで、作曲家と歌手として師弟関係にあった服部良一と笠置シヅ子の二人の音楽人生を講談に仕立てたもの。出演:四代目玉田玉秀斎、演奏:スイートルイジアナ楽団、歌手:前川歌名子、ゲスト:桜花昇ぼる(おうか・のぼる。元OSK日本歌劇団トップスター)。

約100年前、大阪・船場は北浜二丁目の料亭「灘万」で日本初のジャズ・サックスプレーヤーと呼ばれる前野港造らによってジャズが毎晩演奏され、ジャズが大阪に広まっていく。その後、少年音楽隊ブームが起こり、服部良一も鰻屋チェーンである「出雲屋」の少年音楽隊結成を聞いて応募。1番の成績で入り、ここでサックス、フルート、バンジョー、オーボエ、ピアノなどを習うことになる。我流で編曲や作曲も始めた。

服部は尋常小学校時代は成績優秀で試験はトップ争い。級長も務めたことがあるが、実家が貧しかったため中学校には進めず、尋常高等科に2年通い、その後、夜学の大阪実践商業に進み、昼は大阪電通の下っ端として働いて学費を捻出して、貿易商を目指すが、その頃に出雲屋少年音楽隊に入り、貰った給金で学費を払える上に出雲屋少年音楽隊も夜学に通うことを許してくれたため、大阪電通は辞めている。出雲屋少年音楽隊の結成式が行われたのは1923年9月1日。関東大震災が起こった日で、大阪でも式の最中に余震があったという。関東大震災で壊滅した東京から多くのジャズメンが大阪に移り、大阪のジャズは最盛期を迎えるようになる。大阪実践商業を卒業した服部は、大阪放送局(後のNHK大阪放送局)が組織した大阪フィルハーモニック・オーケストラ(放送用オーケストラで、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団とは別団体。現在の大阪フィルは、NHKが所持していた大阪フィルハーモニーの商標を朝比奈隆が買い取って関西交響楽団から改称したものである)の第2フルート奏者となり、ここで大阪フィルハーモニック・オーケストラの指揮者を務めていたエマヌエル・メッテルと出会い、神戸の自宅まで和声学、対位法、管弦楽法、指揮法のレッスンに通うようになる。大阪フィルの内職としてジャズの演奏を始めた服部。ジャズのメッカとなっていた道頓堀のカフェでジャズの演奏を行い、ボーカルも務めて、特に「テル・ミー」という曲を十八番としていたことで、「テルミーさん」というあだ名が付くほどだったという。ということで、今回の公演ではスイートルイジアナ楽団によって「テル・ミー」の演奏と歌唱が行われたりもした。スイートルイジアナ楽団は、エノケンこと榎本健一がヒットさせた「私の青空」も披露する。

一方の笠置シヅ子は、服部の7歳下である。現在の香川県東かがわ市の生まれ。非嫡出子であり、母親の乳の出が悪かったため、丁度お産で大阪から里帰りしていた亀井うめという女性に添え乳をして貰っていたのだが、うめの情が移り、養女として貰い受けることになる。ちなみに笠置シヅ子の最初の名は、亀井ミツエであり、その後、志津子を経て静子が本名となっている。我が子とシヅ子を連れて大阪へと帰ったうめ。大阪駅で待ち構えていた夫の音吉は、「双子かいな」と驚いたという。
尋常小学校を出たシヅ子は、宝塚音楽学校を受験。常識試験や面接の出来は良かったが(歌唱の試験はなかった)、背が小さく痩せていたため、体格検査で不合格となってしまう。負けん気の強いシヅ子は、両親に落ちたとは言わず、「あんなとこ好かん。やめてきてしもた」と嘘を言い、道頓堀の松竹座を本拠地としていた松竹楽劇部(のちのOSSKこと大阪松竹少女歌劇団、現在のOSK日本歌劇団の前身)の養成所に押しかける。当時、松竹楽劇部養成所は生徒を募集していなかったが、何日も事務所に通い詰め、強引に入団を勝ち取ってしまう。この場面で桜花昇ぼるが客席通路から現れ、松竹への押しかけ入団の場面では、OSKのテーマソングである「桜咲く国」を歌う。桜花昇ぼるは、OSK日本歌劇団の元男役トップであるが、今日は女性の格好で登場。ドレスに着物にと次々に衣装を替えた。
桜花昇ぼるのステージに接するのは10年ぶり、前回は奈良県文化会館国際ホールで行われた、ムジークフェストならの関西フィルハーモニー管弦楽団とのジョイントコンサートで、まだOSKに男役トップとして在籍中であった。

今回の公演は、桜花昇ぼるが笠置シヅ子のナンバーを歌い、前川歌名子がその他の楽曲を受け持つ。まず前川がジャズナンバー2曲をしっとりとした声で歌った。

松竹少女歌劇団に入ったシヅ子は先輩の世話などの下積みやレッスンに精を出し、更には舞台を食い入るように見つめてセリフを全て覚え、怪我人や病人が出た時にいつでも代役として出られるよう備えた。
18歳の時に香川を訪れた際に自身の出生の秘密を知ったシヅ子。実母とも対面するが話が弾むことはなく、実父の形見の時計を受け取っただけであった。
やがてOSSKで頭角を現すようになったシヅ子は、東京で新しく組織されることになった男女混合のレビュー劇団、松竹楽劇団(SGD)に招かれ、ここの作曲家兼編曲家、第2指揮者となった服部良一と出会う。服部は、「大阪で一番人気のある歌手がやって来る」と聞き、「どんなプリマドンナか」と胸を弾ませていたのだが、やって来たのは頭に鉢巻きを巻き、下がり眉の目をショボショボさせた小柄な女性で、「笠置シヅ子です。よろしゅう頼んまっせ」と挨拶された服部は失望したという。しかしその夜の稽古を見て服部のシヅ子に対する印象は一変。長いつけまつげの下の目はパッチリ開き、舞台を所狭しと動き回るシヅ子に魅せられた服部は彼女のファンを自認するまでになった。
服部と笠置の名コンビはまず、「ラッパと娘」を披露する。桜花昇ぼるは、かなり速めのテンポで「ラッパと娘」を歌ったが、録音で残された「ラッパと娘」における笠置の歌声は、今の平均的な楽曲に比べるとテンポがかなり遅いようで、服部良一の孫である服部隆之もそのことを指摘している。ということで今の時代に合わせたアレンジだったようだ。
桜花昇ぼるは、アドリブも駆使しており、ジャジーな味わいをより深いものにしていた。

戦時色が濃くなり、音楽家達は各地に慰問に出掛けるようになる。服部も志願して中国へと慰問に渡る。作曲家は慰問の対象にはならなかったので、サックスプレーヤーとして渡ったようだ。蘇州を経て、杭州に渡り、西湖に船を浮かべてソプラノ・サックスを吹いた時に浮かんだのが、「蘇州夜曲」の元となる旋律だったそうで、服部の種明かしによると蘇州は全く関係ないそうだ。
前川が「蘇州夜曲」を歌う。「蘇州夜曲」は映画では李香蘭が歌っているが、レコードでは渡辺はま子と霧島昇のデュエット曲としてコロムビアから発売されている。

戦争が激化を見せ、時流に合わなくなった松竹楽劇団は解散。ジャズを歌っていたため敵性歌手と見なされ、丸の内界隈で歌うことが出来なくなった笠置シヅ子は服部良一の尽力で「笠置シズ子とその楽団」を結成し、地方公演に活路を見出す。名古屋を訪れた時に、シヅ子は眉目秀麗の青年と出会う。元々、笠置シヅ子は面食いで美男子に弱い。その青年の正体は、吉本興業を女手一つで大企業に育て上げた吉本せいの一人息子である吉本穎右(えいすけ)と判明する。ちなみに玉田玉秀斎は、本名は吉本というそうだが、吉本興業とは縁もゆかりもなく、ただ親しみを覚えるだけだそうである。
笠置シヅ子の大ファンだったという穎右はこの時、早稲田大学仏文科の学生で9歳年下であった。神戸での公演を控えていたシヅ子。穎右は大阪に帰る前に和歌山まで行く予定だったのだが、変更して神戸まで同行することになる。
その後、東京に帰った二人は、9歳差という年齢を超えて愛し合うようになる。朝ドラ「ブギウギ」とは違い、穎右は結婚したらシヅ子には歌手を辞めて貰う予定で、シヅ子もそのつもりだった。穎右は結婚を認めて貰うために早大を中退し、吉本の東京支社で働き始めるが、仕事の整理のために大阪に帰ることにし、シヅ子も帰阪する穎右を琵琶湖まで送り、湖畔の宿で別れを惜しんだ。穎右はここで服部良一作曲の「湖畔の宿」を口ずさんだそうで、前川が再び登場し、「湖畔の宿」を歌う。

東京に戻ったシヅ子は妊娠を知る。すぐ穎右に知らせ、穎右も喜ぶが、帰京するはずがいつまで経っても戻る様子がない。体調が悪いようで、風邪ということであったが、病状がそれより悪いのは明らかであった。身重の体で「ジャズ・カルメン」に主演した笠置であるが、客席に穎右が現れることはなかった。大阪からは穎右の容態悪化の報が次々に届き、出産を間近に控えた時期に穎右は西宮の実家において25歳の若さで他界してしまう。
その10日後に笠置は女の子を産んだ。穎右は、生まれた子が「男だったら静男、女だったらヱイ子と名付けてほしい」と遺言しており、吉本静男名義の預金通帳が後日送られてきた。

シヅ子は、引退の撤回を決め、日本の復興ソングの作曲を服部に頼む。服部がコロムビアで霧島昇の「胸の振り子」のレコーディングを終え、家路につく電車の中で吊革につかまっていた時、ガタンゴトンというレールの響きと吊革の揺れがエイトビートに聞こえ、メロディーが浮かぶ。服部は最寄り駅で降りて駅前の喫茶店に駆け込み、紙ナプキンを五線紙代わりにして浮かんだばかりのメロディーを書き付けた。こうして生まれたのが、不朽の名曲「東京ブギウギ」である。
「東京ブギウギ」の録音は、内幸町にあった東洋拓殖ビル内のコロムビアの吹込所で行われたのだが、録音の時間が近づくと米軍の下士官が続々と入ってくる。「東京ブギウギ」の原詩を手掛けたのは、仏教哲学者・鈴木大拙の息子で、通訳などもしていたジャーナリストの鈴木勝であるが、東洋拓殖ビルの隣にあり、進駐軍が下士官クラブとして接収していた政友会ビルで英語の得意な鈴木が自作の録音が行われることを触れ回り、それが広まってしまったようで、下士官のみならず音楽好きの将校や軍属までもが噂を聞きつけて見物にやってきた。そんな中で録音が行われ、「東京ブギウギ」は米兵達に大受け。大合唱まで始まってしまう。服部はブギの本場であるアメリカ人達に好評だったことに喜びを感じたという。
桜花は、笠置の動きを元にしたオリジナルの振付で「東京ブギウギ」を熱唱する。

シングルマザーとして生きる道を選んだ笠置の姿は多くの未亡人に勇気を与えた。

シヅ子は、新しいブギを服部に依頼する。服部はアメリカではコールアンドレスポンスが流行っているということで、「ヘイヘイブギー」を笠置に提供。桜花も観客と「ヘイヘイ」 のコールアンドレスポンスを行った。

服部が他の歌手のために書いた曲を1曲ということで、淡谷のり子の「雨のブルース」が前川によって歌われる。

一方、笠置の曲を巧みに歌う少女の存在が話題となっていた。「ベビー笠置」「豆ブギ」などと呼ばれたこの少女がのちの美空ひばりである。幼い頃の美空ひばりは笠置シヅ子の持ち歌を物真似しており、笠置と服部がアメリカ横断ツアーを行う1ヶ月前に、一足早くアメリカツアーを行うことを決定。しかしこれに服部が難色を示す。ひばりが歌うのは笠置の楽曲ばかり。ということで先に歌われてしまうとひばりが本家で笠置が二番手のように誤解されてしまう。そこで服部は日本著作権協会を通して、ひばりにアメリカで自身の楽曲を歌うことを禁じた。
その後、ひばりは、人真似ではなく独自の音楽性を持った楽曲を発表し、江利チエミ、雪村いづみと共に三人娘として次代を牽引していくこととなる。
そんなひばりのナンバーから初期の「東京キッド」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)が前川によって歌われた。

笠置が次に狙うのは紅白歌合戦用のナンバー。書かれたのは「買い物ブギー」である。笠置は第2回の紅白歌合戦で「買い物ブギー」を歌っている。
この講談では大阪弁を全国に広めるための楽曲として制作されたことになっている。笠置と服部のブギーシリーズの中で初動売り上げ枚数が最も多かったのが、この「買い物ブギー」。2番目は「東京ブギウギ」ではなく「大阪ブギウギ」だったはずである。インターナショナルな「東京ブギウギ」とは違い、ローカル色豊かな「大阪ブギウギ」は長い間忘れられた存在となっていたが、最近、NHKの「名曲アルバム」において矢井田瞳の歌唱で取り上げられるなど、再評価される可能性が高まりつつある。
「買い物ブギー」は、ハワイでも大ヒットしたようで、アメリカ横断ツアーの最初の目的地であるハワイで町を歩いていると、服部は「おっさんおっさん」、笠置は「ワテほんまによう言わんワ」と呼びかけられたそうである。
当時としてはかなりの長編で、最初のバージョンはSPレコードに収まりきらずカットがされている。このオリジナル版は映画で用いられ、今ではYouTubeで見ることが出来るが、放送自粛用語が入っており、リメイク版では歌詞が変わっている。今回も当然ながらリメイク版の歌詞での歌唱である。
着物姿で登場した桜花は、関西人(奈良県斑鳩町出身)の利点を生かして、コミカル且つニュアンス豊かにこの歌を歌い上げる。

本編はここまでで終わりなのだが、アンコールとして、笠置の歌手引退と、次世代へのバトンタッチの意味を込めた楽曲として、桜花と前川が「たよりにしてまっせ」を歌う。KinKi Kidsがカバーしているということもあって比較的知られた曲である。この曲も全編に大阪弁が用いられている。一応、笠置最後のレコーディング曲なのだが、資料によるとその後に「女床屋の歌」という作品が録音はされていないものの舞台用楽曲として制作されているようで、「たよりにしてまっせ」が笠置最後の歌とは必ずしも言えないようである。
最後は、桜花と前川のデュオで再び「東京ブギウギ」が歌われた。

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2024年4月14日 (日)

ETV特集「未来へのETUDE ~坂本龍一監督から東北ユースオーケストラへ~」

2024年4月13日

Eテレで、ETV特集「未来へのETUDE ~坂本龍一監督から東北ユースオーケストラへ~」を見る。NHK名古屋放送局の制作。語りは、のんが務める。
東北ユースオーケストラ(TYO)は、東日本大震災で大きな被害が出た福島、宮城、岩手の3県に震災発生時に暮らしていた小学生から大学院生までの若者で結成されたオーケストラ。音楽経験は不問である。坂本龍一が創設し、監督も務めた。毎年、震災の起きた3月に定期演奏会を行っており、坂本龍一と共演を続けてきたが、昨年の3月26日に行われたコンサートに坂本龍一の姿はなく、その2日後の3月28日に坂本はこの世から旅立つことになる。坂本は26日のコンサートを病床で見守っていたことが先日放送されたNHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」で明らかになった。
そして今年、坂本龍一のいない東北ユースオーケストラは、坂本の追悼演奏会を東北3県と東京で行う。指揮は結成当時から参加している栁澤寿男(やなぎさわ・としお)。坂本から直々にTYOの指揮者に指名されている。栁澤は、京都フィルハーモニー室内合奏団のミュージックパートナーとして、京都でも知られた存在である。

生前の坂本龍一との交流と、坂本亡き後のメンバーの思いや活動が中心となったドキュメンタリーであるが、象徴的な楽曲である「いま時間が傾いて」の紹介とハイライト映像が流れる。坂本が3.11のレクイエムとして東北ユースオーケストラのために作曲した「いま時間が傾いて」の第3部「predicament(苦境)」には、楽譜に音符が一切書かれていない部分が存在する。「津波のスローモーション」をイメージし、楽団員がおのおの即興で旋律を奏でるのだが、坂本はこの曲の創作メモに「自発性」を重要視するよう記している。坂本も自身の寿命がそれほど長くないことは十分に自覚していたはずで、自身がこの世を去ってからも東北ユースオーケストラに自発的に活動を続けて欲しいとのメッセージが込められているように感じられる。

今年は元日に能登半島を中心に北陸地方で大きな地震があった。東北ユースオーケストラはサントリーホールでの公演をパブリックビューイングという形で北陸地方に同時配信することに決める。富山県氷見市でのパブリックビューイングの様子が流れ、遠く離れてはいるが、被災という共通点を持つ者同士の心の通い合いが伝わってきた。

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2024年4月10日 (水)

令和六年 第百五十回記念公演 都をどり「都をどり百五十回源氏物語舞扇」

2024年4月6日 祇園甲部歌舞練場にて

午後4時30分から、花見小路にある祇園甲部歌舞練場で、令和六年 第百五十回記念公演都をどり「都をどり百五十回源氏物語舞扇(げんじものがたりまいおうぎ)」を観る。タイトルに「都をどり」の文字が入るのは史上初めてのことだそうである。

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五花街筆頭格の祇園甲部の本拠地である祇園甲部歌舞練場であるが、耐震性に問題があるとして、平成28年10月から休館期間に入っていた。耐震工事に思いのほか手間取ったようで、その間は、京都芸術劇場春秋座や南座を借りて都をどりを続けてきたが、新型コロナの流行により2年連続で公演が中止になるなど、苦難が続いた。昨年、耐震工事を終えて久しぶりに祇園甲部歌舞練場で都をどりが上演され、今年が本拠地での復活2年目となる。

今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公が紫式部ということで、千年に渡って読み継がれてきた『源氏物語』を題材にした舞が多く披露される。
構成は、第一景「置歌」、第二景「多賀大社梅花香(たがたいしゃばいかのかおり)」、第三景「夕顔垣根納涼」、第四景「葵上」、第五景「須磨明石」、第六景「大原野神社紅葉彩(おおはらのじんじゃもみじのいろどり)」、第七景「雪景色鷺舞(ゆきげしきさぎのまい)」、第八景「歌舞練場桜揃(かぶれんじょうさくらぞろえ)」。紅白が対比される背景や衣装が多い。
曜日によるローテーション制で、今日は「三番」の第2組が出演する。立方は1組と同じだが、囃子と長唄、浄瑠璃の人員が異なる。

客席には比較的多くの外国人が詰めかけている。


「都をどりはー」「ヨーイヤサー」の掛け合いで始まる、浅葱色の衣装を纏った芸舞妓達による「置歌」。祇園甲部歌舞練場は花道が左右に1本ずつ、計2本あるのが特徴で、花道1本の春秋座や南座では不可能な対比の構図が出来上がる。

第二景では、今年の恵方である東北東にちなんで、都の東北東にある多賀大社が長寿の神ということもあって背景に選ばれたそうである。

『源氏物語』より「夕顔納涼」と「葵上」、「須磨明石」。このうち、光源氏が登場するのは「須磨明石」だけだが、「須磨明石」は昭和30年に谷崎潤一郎の監修、猪熊兼繁の構成・考証、吉井勇の作詞、山田抄太郎と富崎春昇の作曲によって制作されたもので、他の景とは少し趣が異なるようである。竜神が登場して雷を起こすのだが、多様な照明が用いられる。
「葵上」は能「葵上」を改作したもので、六条御息所の生き霊が能舞台にはないセリを使って現れる。

「大原野神社紅葉彩」。大原というと三千院や寂光院で有名な左京区の北寄りにある大原を思い起こしがちだが、大原野は大原とは全く別の現在の西京区にある地名で、大原野神社は桓武天皇の長岡京在位期間に奈良の春日大社から勧進された歴史ある社である。春日大社同様、藤原氏の氏神を祀る社で、藤原氏一族に女の子が生まれると、中宮、皇后の位を得られるよう一族で祈願に訪れたという。中宮彰子の行啓に従い、紫式部も彰子の父親である藤原道長らと共に大原野神社を参詣したことがあり、『源氏物語』にも大原野御幸の場面が存在する。

「鷺娘」に由来する「雪景色鷺舞」。白の衣装で統一した芸妓達が雪を背景に舞う。雪は吉兆、鷺は神の使いに例えられているそうである。

「歌舞練場桜揃」。祇園甲部歌舞練場と桜が背景となっている。祇園甲部歌舞練場は国登録有形文化財に指定されているため、勝手に改修は出来ず、内装にもなるべく元の部材を用いるようにしたそうである。なお、八坂女紅場学園の祇園女子技芸学校は新築され、小劇場も併設されるようになったそうである。
都をどりの繁栄と存続を願って、出演者総出による舞台と花道を使った舞が行われた。

念願の本拠地での150回記念公演ということもあり、芸舞妓の舞も総じて可憐で、京都の春を代表する催しとして恥じない出来となっていた。


祇園甲部歌舞練場の桜も満開だったが、より多くの桜の競演を求めて、帰りは花盛りの建仁寺の境内を横切って、大和大路から祇園四条駅へと向かった。

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2024年4月 9日 (火)

コンサートの記(838) リオ・クオクマン指揮 京都市交響楽団スプリング・コンサート2024

2024年4月7日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団スプリング・コンサートを聴く。
今回の指揮はマカオ出身のリオ・クオクマン。京響とは4度目の顔合わせとなる。

現在、マカオ管弦楽団の音楽監督・首席指揮者、香港フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者、マカオ国際音楽祭プログラム・ディレクターなどを務めるリオ・クオクマン。香港演芸学院を出た後でアメリカ東海岸に留学。ニューヨークのジュリアード音楽院、フィラデルフィアのカーティス音楽院、ボストンのニューイングランド音楽院でピアノと指揮を学び、2014年にスヴェトラーノフ国際指揮者コンクールで最高位を獲得。2016年まで、ヤニック・ネゼ=セガンの下でフィラデルフィア管弦楽団の副指揮者を務めている。
ピアノも達者であり、京響の定期演奏会では、「ラプソディ・イン・ブルー」のピアノ弾き振りなども行っている。

オール・フレンチ・プログラムで、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、プーランクのオルガン協奏曲(パイプオルガン独奏:桑山彩子)、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」(パイプオルガン独奏:桑山彩子)が演奏される。


今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平が入る。


ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」。切れ味と推進力が心地よい演奏で、各楽器の音色も輝かしく、純度も高い。全体的に溌剌とした印象である。


プーランクのオルガン協奏曲。単一楽章による作品だが、3部に分かれており、実質的にはオーソドックスな協奏曲と変わりない。
弦楽5部とティンパニによる編成である。
オルガン独奏の桑山彩子は、広島市のエリザベト音楽大学と同大学院を経て渡仏。リヨン国立高等音楽院を審査員一致のプルミエ・プリを得て首席で卒業。高等音楽学国家免状を取得している(ヨーロッパでは国家からの免状を得ないとプロの演奏家になれないところも多い)。第6回ゴットフリート・ジルバーマン国際オルガンコンクールで優勝。現在は、エリザベト音楽大学非常勤講師、京都カトリック河原町教会オルガニストなどを務めている。
桑山はステージ上でリモートでのパイプオルガン演奏。舞台下手端、すり鉢状にせり上がっていくステージの最上段に第二演奏台を置いての演奏である。
豪壮な響きでパイプオルガンが鳴ってスタート。この主題は第3部で形を少し変えて戻ってくる。
「パリのモーツァルト」とも呼ばれるプーランク。フランス六人組の中でも最も有名な作曲家だが、旋律や音色が洒落ており、第3部には、パリの街角をプーランクがウキウキと歩く姿が見えるようなチャーミングな場面も出てくる。
京響は生真面目な演奏で、音色にもう少し洒脱さがあると良かったのだが、技術は高い。
ティンパニが活躍する曲で、演奏終了後、ティンパニ奏者の中山航介が喝采を浴びた。


サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。サン=サーンスの作品の中で、「動物の謝肉祭」と並んで最も有名な曲である。MOVIX京都の映画予告編では、この曲の第1楽章第1部の展開部が宝石店のCM曲として使われている。
2楽章からなるという異色の交響曲だが、それぞれの楽章が2部に分かれており、4楽章の伝統的な構成と見なすことも出来る。なお、重要な役割を果たすピアノデュオは、佐竹裕介と矢野百華が受け持つ。
リオと京響は、この曲の神秘的な雰囲気を上手く浮かび上がらせ、フォルムも適切で格好いい。
表情の描き分けも巧みで、厳かな場面はそれらしく、落ち着いた箇所はニュアンスたっぷりに、爽やかな部分は薫風が吹き抜けるように奏でられる。
桑山のパイプオルガンとの息もピッタリで、春の初めに相応しい生気溢れる演奏となった。

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2024年4月 5日 (金)

これまでに観た映画より(328) 「ラストエンペラー」4Kレストア

2024年3月28日 アップリンク京都にて

イタリア、中国、イギリス、フランス、アメリカ合作映画「ラストエンペラー」を観る。4Kレストアでの上映である。監督はイタリアの巨匠、ベルナルド・ベルトルッチ。中国・清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(宣統帝)の生涯を描いた作品である。プロデューサーは「戦場のメリークリスマス」のジェレミー・トーマス。出演:ジョン・ローン、ジョアン・チェン、ピーター・オトゥール、英若誠、ヴィクター・ウォン、ヴィヴィアン・ウー、マギー・ハン、イェード・ゴー、ファン・グァン、高松英郎、立花ハジメ、ウー・タオ、池田史比古、生田朗、坂本龍一ほか。音楽:坂本龍一、デヴィッド・バーン、コン・スー(蘇聡、スー・ツォン)。音楽担当の3人はアカデミー賞で作曲賞を受賞。坂本龍一は日本人として初のアカデミー作曲賞受賞者となった。作曲賞以外にも、作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣装デザイン賞、美術賞も含めたアカデミー賞9冠に輝く歴史的名作である。

清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(成人後の溥儀をジョン・ローンが演じている)。弟の愛新覚羅溥傑は華族の嵯峨浩と結婚(政略結婚である)して千葉市の稲毛に住むなど、日本にゆかりのある人で、溥儀も日本の味噌汁を好んだという。幼くして即位した溥儀であるが、辛亥革命によって清朝が倒れ、皇帝の身分を失い、その上で紫禁城から出られない生活を送る。北京市内では北京大学の学生が、大隈重信内閣の「対華21カ条の要求」に反対し、デモを行う。そんな喧噪の巷を知りたがる溥儀であるが、門扉は固く閉ざされ紫禁城から出ることは許されない。

スコットランド出身のレジナルド・フレミング・ジョンストン(ピーター・オトゥール)が家庭教師として赴任。溥儀の視力が悪いことに気づいたジョンストンは、医師に診察させ、溥儀は眼鏡を掛けることになる。ジョンストンは溥儀に自転車を与え、溥儀はこれを愛用するようになった。ジョンストンはイギリスに帰った後、ロンドン大学の教授となり、『紫禁城の黄昏』を著す。『紫禁城の黄昏』は岩波文庫から抜粋版が出ていて私も読んでいる。完全版も発売されたことがあるが、こちらは未読である。

その後、北京政変によって紫禁城を追われた溥儀とその家族は日本公使館に駆け込み、港町・天津の日本租界で暮らすようになる。日本は満州への侵略を進めており、やがて「五族協和」「王道楽土」をスローガンとする満州国が成立。首都は新京(長春)に置かれる。満州族出身の溥儀は執政、後に皇帝として即位することになる。だが満州国は日本の傀儡国家であり、皇帝には何の権力もなかった。

満州国を影で操っていたのが、大杉栄と伊藤野枝を扼殺した甘粕事件で知られる甘粕正彦(坂本龍一が演じている。史実とは異なり右手のない隻腕の人物として登場する)で、当時は満映こと満州映画協会の理事長であった。この映画でも甘粕が撮影を行う場面があるが、どちらかというと映画人としてよりも政治家として描かれている印象を受ける。野望に満ち、ダーティーなインテリ風のキャラが坂本に合っているが、元々坂本龍一は俳優としてのオファーを受けて「ラストエンペラー」に参加しており、音楽を頼まれるかどうかは撮影が終わるまで分からなかったようである。ベルトルッチから作曲を頼まれた時には時間が余りなく、中国音楽の知識もなかったため、中国音楽のCDセットなどを買って勉強し、寝る間もなく作曲作業に追われたという。なお、民族楽器の音楽の作曲を担当したコン・スーであるが、彼は専ら西洋のクラシック音楽を学んだ作曲家で、中国の古典音楽の知識は全くなかったそうである。ベルトルッチ監督の見込み違いだったのだが、ベルトルッチ監督の命で必死に学んで民族音楽風の曲を書き上げている。
オープニングテーマなど明るめの音楽を手掛けているのがデヴィッド・バーンである。影がなくリズミカルなのが特徴である。

ロードショー時に日本ではカットされていた部分も今回は上映されている。日本がアヘンの栽培を促進したというもので、衝撃が大きいとしてカットされていたものである。

後に坂本龍一と、「シェルタリング・スカイ」、「リトル・ブッダ」の3部作を制作することになるベルトルッチ。坂本によるとベルトルッチは、自身が音楽監督だと思っているような人だそうで、何度もダメ出しがあり、特に「リトル・ブッダ」ではダメを出すごとに音楽がカンツォーネっぽくなっていったそうで、元々「リトル・ブッダ」のために書いてボツになった音楽を「スウィート・リベンジ」としてリリースしていたりするのだが、「ラストエンペラー」ではそれほど音楽には口出ししていないようである。父親が詩人だというベルトルッチ。この「ラストエンペラー」でも詩情に満ちた映像美と、人海戦術を巧みに使った演出でスケールの大きな作品に仕上げている。溥儀が大勢の人に追いかけられる場面が何度も出てくるのだが、これは彼が背負った運命の大きさを表しているのだと思われる。


坂本龍一の音楽であるが、哀切でシリアスなものが多い。テレビ用宣伝映像でも用いられた「オープン・ザ・ドア」には威厳と迫力があり、哀感に満ちた「アーモのテーマ」は何度も繰り返し登場して、特に別れのシーンを彩る。坂本の自信作である「Rain(I Want to Divorce)」は、寄せては返す波のような疾走感と痛切さを伴い、坂本の代表曲と呼ぶに相応しい出来となっている。
即位を祝うパーティーの席で奏でられる「満州国ワルツ」はオリジナル・サウンドトラック盤には入っていないが、大友直人指揮東京交響楽団による第1回の「Playing the Orchestra」で演奏されており、ライブ録音が行われてCDで発売されていた(現在も入手可能かどうかは不明)。
小澤征爾やヘルベルト・フォン・カラヤンから絶賛されていた姜建華の二胡をソロに迎えたオリエンタルなメインテーマは、壮大で奥深く、華麗且つ悲哀を湛えたドラマティックな楽曲であり、映画音楽史上に残る傑作である。

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2024年4月 2日 (火)

これまでに観た映画より(327) TBSドキュメンタリー映画祭2024 「坂本龍一 WAR AND PEACE 教授が遺した言葉たち」

2024年3月28日 アップリンク京都にて

TBSドキュメンタリー映画祭2024「坂本龍一 WAR AND PEACE 教授が遺した言葉たち」を観る。監督は金富隆。前半は坂本龍一が「NEWS23」に出演したり「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」の企画に参加したりした際の映像を中心とし、後半はTBSが収録したドキュメンタリーの映像の数々が登場する。

出演:坂本龍一、筑紫哲也、細野晴臣、高橋幸宏、DREAMS COME TRUE、佐野元春、桜井和寿(Mr.Children)、大貫妙子、TERU(GLAY)、TAKURO(GLAY)、Chara、シンディ・ローパー、デヴィッド・シルヴィアン、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)ほか。

筑紫哲也がキャスターを務めたTBS50周年特別企画「地雷ZERO」で、坂本龍一がモザンビークの地雷撤去作業地域を訪れるところから映画は始まる。2001年のことである。坂本龍一は、地雷撤去のための資金を集めるためにチャリティー音楽「ZERO LANDMINE」を作成することを思い立ち、デヴィッド・シルヴィアンの作詞による楽曲を完成。シンディ・ローパーなど海外のアーティストも参加した作品で、国内からも多くのミュージシャンが参加した。

その後、植樹の活動(モア・トゥリーズ)なども始めた坂本龍一。環境問題に取り組み、ライブのための照明も水力発電によるものを買って使用するようになる。

2001年9月11日。アメリカで同時多発テロが発生。発生時、ニューヨークの世界貿易センター(ワールドトレードセンター)ビルから1マイルほどのところにいた坂本はカメラで炎上する世界貿易センタービルを撮影。その後、ツインタワーであった世界貿易センタービルは倒壊し、土煙を上げる。アメリカは報復措置として、アフガン空爆、そしてイラク戦争へと突入する。坂本は「世界に60億の人がいても誰もブッシュを止められない」と嘆く。
「ニュース23」の企画で、戦争反対の詩を募集し、坂本の音楽に乗せるという試みが行われる。全国から2000を超える詩の応募があり、中には6歳の子が書いた詩もあった。その中から坂本自身が19編の詩を選び、作者のナレーションを録音して音楽に乗せる作業を行う。作業はコンピューターを使って行われるのだが、微妙なズレを生むために何度も繰り返し行われる。

日本では安保法案改正問題があり、坂本も反対者の一人として国会議事堂前でのデモに参加し、演説も行う。都立新宿高校在学時の若き坂本龍一がアジ演説を行っている時の写真も紹介される。

2011年3月11日。東日本大震災が発生。福島第一原子力発電所ではメルトダウンが起こる。
坂本は原発稼動への反対を表明。電気よりも命を優先させるべきだと演説し、50年後には電気は原発のような大規模な施設ではなく、身近な場所で作られるものになるだろうとの理想を述べる。
東日本大震災では家屋にも甚大な被害が出たが、坂本は植樹運動で育てた樹を仮設住宅に使用する。
その後、東北ユースオーケストラを結成した坂本。東北の復興のために音楽で尽力する。東北ユースオーケストラは坂本が亡くなった現在も活動を続けている。

坂本の最後のメッセージは、明治神宮外苑再開発による樹木の伐採反対。交流があった村上春樹も反対の声明をラジオで発しているが、東京23区内で最も自然豊かな場所だけに、再開発の影響を懸念する声は多い。

名物編集者、坂本一亀(かずき)の息子として生まれた坂本龍一。若い頃には父親への反発から文学書ではなく思想書ばかり読んでいたというが(音楽家になってからも小説などはほとんど読まなかったようである)、若き日に得た知識の数々が老年になってからもなお生き続けていたようである。また、音楽家が自らの思想を鮮明にするアメリカに長く暮らしていたことも彼の姿勢に影響しているのかも知れない。

映画のラストで流れるのは、「NEWS23」のエンディングテーマであった「put your hands up」のピアノバージョン(「ウラBTTB」収録)。心に直接染み渡るような愛らしい音楽である。

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2024年4月 1日 (月)

これまでに観た映画より(326) 公開30周年「ピアノ・レッスン」4Kデジタルリマスター(2K上映)

2024年3月25日 京都シネマにて

京都シネマで、フランス、ニュージーランド、オーストラリア合作映画「ピアノ・レッスン(原題「The Piano」)」公開30周年4Kデジタルリマスターを観る(京都シネマでは2Kでの上映)。ニュージーランド生まれでオーストラリア育ちのジェーン・カンピオン監督作品。出演:ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、サム・ニール、アンナ・パキンほか。音楽:マイケル・ナイマン。

第46回カンヌ映画祭でパルム・ドールに輝いたほか、米アカデミー賞では、アンナ・パキンが史上2番目の若さとなる11歳で助演女優賞の栄誉に輝いたことでも話題となった(ホリー・ハンターが主演女優賞を獲得した他、ジェーン・カンピオン監督も脚本賞も受賞している)。
ピーター・グリーナウェイ監督とのコンビで名を上げたマイケル・ナイマンが従来の「ミニマルミュージックの鬼」ともいうべき作風からロマンティックなものへと転換するきっかけとなった作品でもある。セルジュ・チェリビダッケの下で黄金時代を築いていたミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏を手掛けた音楽は評判となり、サウンドトラックは大ヒットした。オリジナル・サウンドトラックは私も購入したが、テーマ曲的存在のピアノ曲「楽しみの希う心」のミニスコアが入っていた。
この音楽に関して、公開当時、浅田彰と坂本龍一が対談で語っているのだが、二人して散々にこき下ろしているのが印象的だった。また映画本編に関してはシナリオライターの石堂淑朗が今では考えられない性差別発言を「音楽現代」誌に載せていた。それが30年前である。

主舞台となるのは、まだ荒廃した土地であった19世紀のニュージーランドである。原住民のマオリ族の人々も多く登場する。
決められた結婚によりスコットランドからニュージーランドへと渡ったエイダ(ホリー・ハンター)。彼女には一人娘のフローラ(アンナ・パキン)がいる。エイダは6歳の時に話すのをやめ、会話は手話や文筆で行うようになる。当時、意識されていたのかどうかは分からないが、症状としては全緘黙(言語が分かり会話能力もあるのに全く話せなくなってしまう症状。21世紀に入ってから場面緘黙と共に広く知られることになる)に似ている。話せない代わりにエイダにはピアノの腕があり、ピアノを演奏することで言語表現の不自由感を補ってきた。エイダはニュージーランドに渡る時もボックス型のピアノを運んでいくが、新しい夫のスチュアート(サム・ニール)が家まで運ぶのが面倒と判断し、エイダの分身であるピアノは浜に置き去りにされる。ピアノはスチュアートの家の近くに住む、マオリ族の入れ墨を顔に入れたベインズ(ハーヴェイ・カイテル)が、スチュアートに川の向こうの土地との交換を提案して手に入れる。エイダはピアノのレッスンのためにベインズの家に通うことになるのだが、ベインズは自分では弾こうとせず、エイダの演奏を聴く。ベインズの要求は次第にエスカレートしたものになっていくが、エイダの心もベインズへと移っていく。

他人が決めた結婚に従わざるを得なかった時代に、自由を求める女性の話である。
スチュアートはエイダの分身ともいうべきピアノを浜に置き去りにする。普段は優しげな男であるが、そうした態度からも男尊女卑の考えの持ち主であることが分かる。またスチュアートはエイダとベインズの関係を知ると、家の窓に板を張り付け、外側からかんぬきを掛けてエイダを幽閉してしまう。女性が置かれた窮屈な環境を作り出す人物でもある。一方、ベインズは粗野で強引だが、ピアノには理解を示す。エイダが求めたのはスチュアートではなくベインズの方だった。
マオリ族の男達が漕ぐカヌーでニュージーランドを去るエイダとベインズ。カヌーにはピアノも載せられるが、エイダは途中でピアノを海へと捨てるように要求する。これまでの自分との決別だった。その後に再生を経たエイダは自立した女性として別のピアノに向かう。象徴的なシーンである。

一言もセリフを発しないという難役に挑んだホリー・ハンター。彼女自身が脚本に惚れ込み、ピアノが弾けるということをアピールして売り込んだそうだが、キリリとした表情で気高さを示し、男の所有物になることを拒否する女性を演じる。ナイマンのピアノ曲を演奏するほか、日本では「太田胃散」のCM曲として知られるショパンの前奏曲第7番を弾く場面もある。

旧世代を代表する人物であるスチュアートを演ずるサム・ニールは同時期にスピルバーグの「ジュラシック・パーク」に主演している。彼もまたニュージーランド人である。

出演当時9歳だったアンナ・パキンもアカデミー賞を受賞しているだけに達者な演技を示している。

ベインズを演じるハーヴェイ・カイテル。彼はこの映画で長髪にしているのだが、それを見た故宮沢章夫が、「俺も長髪にしなきゃ」と一時期髪を伸ばしていた。私が初めて出会った時の宮沢章夫は長髪だった。この話は宮沢本人から直接聞いたものである。

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