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2024年4月22日 (月)

第七十四回京おどり in 春秋座 「時旅京膝栗毛」全九景

2024年4月14日 京都芸術劇場春秋座にて

京都芸術劇場春秋座で、第七十四回京おどり in 春秋座を観る。午後4時30分開演だが、お茶菓子付きの券なので、早めに行って、京都芸術大学のギャルリ・オーブという展示スペースを使ったお茶席で、抹茶と和菓子を味わう。菓子皿は持って帰ることになる。
点茶出番はローテーション制で、今日は、とし七菜さんと叶朋さんというパンフレットにも写真が載っている二人が出演した。

京おどりは宮川町の春のをどりであるが、宮川町歌舞練場が現在、建て替え工事中であるため使用出来ず、一昨年の河原町広小路の京都府立文化芸術会館での公演を経て、昨年と今年は都をどりが行われたこともある京都芸術劇場春秋座が会場に選ばれた。来年は公演休止で、再来年に新しい宮川町歌舞練場に戻って京おどりを行う予定である。

今年の京おどりは、「時旅京膝栗毛(ときのたびみやこひざくりげ)」全九景というタイトルで、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次喜多が、22世紀の夫婦、夫のヤジと妻のキタという設定になり、22世紀には普及している携帯式のタイムマシーンを使って江戸時代を訪れ、お伊勢参りをするが、タイムマシーンが壊れて様々な時代へと勝手にワープすることになるという設定である。それだけで十分怪しいが、果たして出来は良くなかった。

作・演出:北林佐和子、作曲:四世・今藤長十郎、作調:田中傳次郎、笛作調:藤舎名生、作舞:若柳吉蔵、指導:若柳由美次。
出演者は、三つの組によるローテーション制で、今日は三組が出演する。第一部に出演者の重複は少ないが、第二部は出演者が重なっている場合も多く、「月に舞う」の立方は三組とも、ふく葉一人が務める。

二部構成で、第一部第一景が「元禄の藤」、第二景が「平安の雪」、第三景が「応仁の乱」、第四景が「風流踊」、第二部の第五景が「水に色めく」、第六景が「風を商う」、第七景が「月に舞う」、第八景が「花暦」、第九景フィナーレが「宮川音頭」となっている。

まず幕にアニメーションが投影される。セリフはRPG風に枠に囲われたものが映る。「奥様は魔女」を真似たナレーション風の字幕も出てくる。京都芸術大学の学生が作成したものなのだが、それ以降の舞踊の雰囲気と全く合っておらず、完全に浮いてしまっている。そもそもアニメーションと伝統芸能を合わせるのには無理がある。都をどりでも当時の京都造形芸術大学はアニメーションを使って不評だったが、今回も同じ間違いが繰り返される。

「元禄の藤」は、「藤娘」と同様、藤の枝を小道具として行われる舞である。ヤジ役とキタ役の二人が登場して、藤娘達と絡んでいく。
「平安の雪」は、小野小町と深草少将の百夜通いの話で、深草少将はヤジとキタに小野小町との仲立ちを頼む。そこで二人の仲を叶えてしまったことから歴史が変わってしまい、何故か応仁の乱が始まってしまう。「応仁の乱」では芸妓達が閉じた扇を太刀に見立てて斬り合いの舞を演じる。迫力十分である。ちなみに歌詞に「先の戦」という言葉が出てくるが、本気で用いているのかどうかは分からない。
続く「風流踊」では、鳥居の前で舞が行われるのだが、京都芸術大学作成のねぶたがタイムマシーンとして登場。しかしこれが余りにチャチで見栄えが悪い。これでOKを出したら駄目だと思う。
その後に幕が下りて、またアニメーションが投影されるのだが、2024年の宮川町の町並みを歩くヤジとキタが映るだけで、単なる今の宮川町の描写に留まる。
「時旅京膝栗毛」はここで終わりとなるようである。音源はスピーカーから聞こえているようで、あるいは録音だったのかも知れない。プログラムに地方の記載もない。

第二部の「水に色めく」「風を商う」「月に舞う」は芸妓による正統的な舞で、こうしたものだけで十分のはずである。地方も舞台上手に現れる。「風に商う」は扇売りや投扇興の場面、屋島の戦いでの那須与一(扇を拡げて弓に見立てる)や五条大橋西詰の平敦盛ゆかりの扇塚なども登場する花街の演目らしい楽しさがある。
舞妓達による「花暦」。宮川町は祇園甲部などに比べて格下と見られていたが、芸妓ではなく、見習いとしか見られていなかった舞妓を前面に出すことで人気を上げ、メディアとも積極的にコラボレーションを行ってきた。舞妓シアターなるものまで存在したほどである。
舞妓を前面に出す手法は現在も続いているようで、春秋座のある京都芸術大学のエントランスホールの一角にほぼ等身大の舞妓達が写ったパネルがあり、一人ひとりへのインタビュー記事や自作のエッセイが書かれたしおりが置かれていて、自由に持ち帰ることが出来るようになっている。
舞妓に力を入れているだけあって、「花暦」の舞も可憐。センター(でいいのかな?)の女の子は広末涼子系の顔立ちの、誰が見ても「可愛い」と思える子で、やはり容姿も重要視されているようである。

第九景フィナーレの「宮川音頭」(作曲:三世・今藤長十郎)は、京おどりの名物で、出演者総出で行われる舞と調べは華やかさと儚さが同居しており、煌びやかにして切ないという京の町や花街の一面を色濃く描いている。

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