近鉄アート館復活10周年記念 春の演芸ウィーク「ブギウギ講談 笠置シヅ子と服部良一の時代」
2024年4月3日 あべのハルカス近鉄本店ウイング館8階・近鉄アート館にて
午後6時から、あべのハルカス近鉄本店ウイング館8階にある近鉄アート館で、近鉄アート館復活10周年記念 春の演芸ウィーク「ブギウギ講談 笠置シヅ子と服部良一の時代」に接する。共に大阪育ちで、作曲家と歌手として師弟関係にあった服部良一と笠置シヅ子の二人の音楽人生を講談に仕立てたもの。出演:四代目玉田玉秀斎、演奏:スイートルイジアナ楽団、歌手:前川歌名子、ゲスト:桜花昇ぼる(おうか・のぼる。元OSK日本歌劇団トップスター)。
約100年前、大阪・船場は北浜二丁目の料亭「灘万」で日本初のジャズ・サックスプレーヤーと呼ばれる前野港造らによってジャズが毎晩演奏され、ジャズが大阪に広まっていく。その後、少年音楽隊ブームが起こり、服部良一も鰻屋チェーンである「出雲屋」の少年音楽隊結成を聞いて応募。1番の成績で入り、ここでサックス、フルート、バンジョー、オーボエ、ピアノなどを習うことになる。我流で編曲や作曲も始めた。
服部は尋常小学校時代は成績優秀で試験はトップ争い。級長も務めたことがあるが、実家が貧しかったため中学校には進めず、尋常高等科に2年通い、その後、夜学の大阪実践商業に進み、昼は大阪電通の下っ端として働いて学費を捻出して、貿易商を目指すが、その頃に出雲屋少年音楽隊に入り、貰った給金で学費を払える上に出雲屋少年音楽隊も夜学に通うことを許してくれたため、大阪電通は辞めている。出雲屋少年音楽隊の結成式が行われたのは1923年9月1日。関東大震災が起こった日で、大阪でも式の最中に余震があったという。関東大震災で壊滅した東京から多くのジャズメンが大阪に移り、大阪のジャズは最盛期を迎えるようになる。大阪実践商業を卒業した服部は、大阪放送局(後のNHK大阪放送局)が組織した大阪フィルハーモニック・オーケストラ(放送用オーケストラで、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団とは別団体。現在の大阪フィルは、NHKが所持していた大阪フィルハーモニーの商標を朝比奈隆が買い取って関西交響楽団から改称したものである)の第2フルート奏者となり、ここで大阪フィルハーモニック・オーケストラの指揮者を務めていたエマヌエル・メッテルと出会い、神戸の自宅まで和声学、対位法、管弦楽法、指揮法のレッスンに通うようになる。大阪フィルの内職としてジャズの演奏を始めた服部。ジャズのメッカとなっていた道頓堀のカフェでジャズの演奏を行い、ボーカルも務めて、特に「テル・ミー」という曲を十八番としていたことで、「テルミーさん」というあだ名が付くほどだったという。ということで、今回の公演ではスイートルイジアナ楽団によって「テル・ミー」の演奏と歌唱が行われたりもした。スイートルイジアナ楽団は、エノケンこと榎本健一がヒットさせた「私の青空」も披露する。
一方の笠置シヅ子は、服部の7歳下である。現在の香川県東かがわ市の生まれ。非嫡出子であり、母親の乳の出が悪かったため、丁度お産で大阪から里帰りしていた亀井うめという女性に添え乳をして貰っていたのだが、うめの情が移り、養女として貰い受けることになる。ちなみに笠置シヅ子の最初の名は、亀井ミツエであり、その後、志津子を経て静子が本名となっている。我が子とシヅ子を連れて大阪へと帰ったうめ。大阪駅で待ち構えていた夫の音吉は、「双子かいな」と驚いたという。
尋常小学校を出たシヅ子は、宝塚音楽学校を受験。常識試験や面接の出来は良かったが(歌唱の試験はなかった)、背が小さく痩せていたため、体格検査で不合格となってしまう。負けん気の強いシヅ子は、両親に落ちたとは言わず、「あんなとこ好かん。やめてきてしもた」と嘘を言い、道頓堀の松竹座を本拠地としていた松竹楽劇部(のちのOSSKこと大阪松竹少女歌劇団、現在のOSK日本歌劇団の前身)の養成所に押しかける。当時、松竹楽劇部養成所は生徒を募集していなかったが、何日も事務所に通い詰め、強引に入団を勝ち取ってしまう。この場面で桜花昇ぼるが客席通路から現れ、松竹への押しかけ入団の場面では、OSKのテーマソングである「桜咲く国」を歌う。桜花昇ぼるは、OSK日本歌劇団の元男役トップであるが、今日は女性の格好で登場。ドレスに着物にと次々に衣装を替えた。
桜花昇ぼるのステージに接するのは10年ぶり、前回は奈良県文化会館国際ホールで行われた、ムジークフェストならの関西フィルハーモニー管弦楽団とのジョイントコンサートで、まだOSKに男役トップとして在籍中であった。
今回の公演は、桜花昇ぼるが笠置シヅ子のナンバーを歌い、前川歌名子がその他の楽曲を受け持つ。まず前川がジャズナンバー2曲をしっとりとした声で歌った。
松竹少女歌劇団に入ったシヅ子は先輩の世話などの下積みやレッスンに精を出し、更には舞台を食い入るように見つめてセリフを全て覚え、怪我人や病人が出た時にいつでも代役として出られるよう備えた。
18歳の時に香川を訪れた際に自身の出生の秘密を知ったシヅ子。実母とも対面するが話が弾むことはなく、実父の形見の時計を受け取っただけであった。
やがてOSSKで頭角を現すようになったシヅ子は、東京で新しく組織されることになった男女混合のレビュー劇団、松竹楽劇団(SGD)に招かれ、ここの作曲家兼編曲家、第2指揮者となった服部良一と出会う。服部は、「大阪で一番人気のある歌手がやって来る」と聞き、「どんなプリマドンナか」と胸を弾ませていたのだが、やって来たのは頭に鉢巻きを巻き、下がり眉の目をショボショボさせた小柄な女性で、「笠置シヅ子です。よろしゅう頼んまっせ」と挨拶された服部は失望したという。しかしその夜の稽古を見て服部のシヅ子に対する印象は一変。長いつけまつげの下の目はパッチリ開き、舞台を所狭しと動き回るシヅ子に魅せられた服部は彼女のファンを自認するまでになった。
服部と笠置の名コンビはまず、「ラッパと娘」を披露する。桜花昇ぼるは、かなり速めのテンポで「ラッパと娘」を歌ったが、録音で残された「ラッパと娘」における笠置の歌声は、今の平均的な楽曲に比べるとテンポがかなり遅いようで、服部良一の孫である服部隆之もそのことを指摘している。ということで今の時代に合わせたアレンジだったようだ。
桜花昇ぼるは、アドリブも駆使しており、ジャジーな味わいをより深いものにしていた。
戦時色が濃くなり、音楽家達は各地に慰問に出掛けるようになる。服部も志願して中国へと慰問に渡る。作曲家は慰問の対象にはならなかったので、サックスプレーヤーとして渡ったようだ。蘇州を経て、杭州に渡り、西湖に船を浮かべてソプラノ・サックスを吹いた時に浮かんだのが、「蘇州夜曲」の元となる旋律だったそうで、服部の種明かしによると蘇州は全く関係ないそうだ。
前川が「蘇州夜曲」を歌う。「蘇州夜曲」は映画では李香蘭が歌っているが、レコードでは渡辺はま子と霧島昇のデュエット曲としてコロムビアから発売されている。
戦争が激化を見せ、時流に合わなくなった松竹楽劇団は解散。ジャズを歌っていたため敵性歌手と見なされ、丸の内界隈で歌うことが出来なくなった笠置シヅ子は服部良一の尽力で「笠置シズ子とその楽団」を結成し、地方公演に活路を見出す。名古屋を訪れた時に、シヅ子は眉目秀麗の青年と出会う。元々、笠置シヅ子は面食いで美男子に弱い。その青年の正体は、吉本興業を女手一つで大企業に育て上げた吉本せいの一人息子である吉本穎右(えいすけ)と判明する。ちなみに玉田玉秀斎は、本名は吉本というそうだが、吉本興業とは縁もゆかりもなく、ただ親しみを覚えるだけだそうである。
笠置シヅ子の大ファンだったという穎右はこの時、早稲田大学仏文科の学生で9歳年下であった。神戸での公演を控えていたシヅ子。穎右は大阪に帰る前に和歌山まで行く予定だったのだが、変更して神戸まで同行することになる。
その後、東京に帰った二人は、9歳差という年齢を超えて愛し合うようになる。朝ドラ「ブギウギ」とは違い、穎右は結婚したらシヅ子には歌手を辞めて貰う予定で、シヅ子もそのつもりだった。穎右は結婚を認めて貰うために早大を中退し、吉本の東京支社で働き始めるが、仕事の整理のために大阪に帰ることにし、シヅ子も帰阪する穎右を琵琶湖まで送り、湖畔の宿で別れを惜しんだ。穎右はここで服部良一作曲の「湖畔の宿」を口ずさんだそうで、前川が再び登場し、「湖畔の宿」を歌う。
東京に戻ったシヅ子は妊娠を知る。すぐ穎右に知らせ、穎右も喜ぶが、帰京するはずがいつまで経っても戻る様子がない。体調が悪いようで、風邪ということであったが、病状がそれより悪いのは明らかであった。身重の体で「ジャズ・カルメン」に主演した笠置であるが、客席に穎右が現れることはなかった。大阪からは穎右の容態悪化の報が次々に届き、出産を間近に控えた時期に穎右は西宮の実家において25歳の若さで他界してしまう。
その10日後に笠置は女の子を産んだ。穎右は、生まれた子が「男だったら静男、女だったらヱイ子と名付けてほしい」と遺言しており、吉本静男名義の預金通帳が後日送られてきた。
シヅ子は、引退の撤回を決め、日本の復興ソングの作曲を服部に頼む。服部がコロムビアで霧島昇の「胸の振り子」のレコーディングを終え、家路につく電車の中で吊革につかまっていた時、ガタンゴトンというレールの響きと吊革の揺れがエイトビートに聞こえ、メロディーが浮かぶ。服部は最寄り駅で降りて駅前の喫茶店に駆け込み、紙ナプキンを五線紙代わりにして浮かんだばかりのメロディーを書き付けた。こうして生まれたのが、不朽の名曲「東京ブギウギ」である。
「東京ブギウギ」の録音は、内幸町にあった東洋拓殖ビル内のコロムビアの吹込所で行われたのだが、録音の時間が近づくと米軍の下士官が続々と入ってくる。「東京ブギウギ」の原詩を手掛けたのは、仏教哲学者・鈴木大拙の息子で、通訳などもしていたジャーナリストの鈴木勝であるが、東洋拓殖ビルの隣にあり、進駐軍が下士官クラブとして接収していた政友会ビルで英語の得意な鈴木が自作の録音が行われることを触れ回り、それが広まってしまったようで、下士官のみならず音楽好きの将校や軍属までもが噂を聞きつけて見物にやってきた。そんな中で録音が行われ、「東京ブギウギ」は米兵達に大受け。大合唱まで始まってしまう。服部はブギの本場であるアメリカ人達に好評だったことに喜びを感じたという。
桜花は、笠置の動きを元にしたオリジナルの振付で「東京ブギウギ」を熱唱する。
シングルマザーとして生きる道を選んだ笠置の姿は多くの未亡人に勇気を与えた。
シヅ子は、新しいブギを服部に依頼する。服部はアメリカではコールアンドレスポンスが流行っているということで、「ヘイヘイブギー」を笠置に提供。桜花も観客と「ヘイヘイ」 のコールアンドレスポンスを行った。
服部が他の歌手のために書いた曲を1曲ということで、淡谷のり子の「雨のブルース」が前川によって歌われる。
一方、笠置の曲を巧みに歌う少女の存在が話題となっていた。「ベビー笠置」「豆ブギ」などと呼ばれたこの少女がのちの美空ひばりである。幼い頃の美空ひばりは笠置シヅ子の持ち歌を物真似しており、笠置と服部がアメリカ横断ツアーを行う1ヶ月前に、一足早くアメリカツアーを行うことを決定。しかしこれに服部が難色を示す。ひばりが歌うのは笠置の楽曲ばかり。ということで先に歌われてしまうとひばりが本家で笠置が二番手のように誤解されてしまう。そこで服部は日本著作権協会を通して、ひばりにアメリカで自身の楽曲を歌うことを禁じた。
その後、ひばりは、人真似ではなく独自の音楽性を持った楽曲を発表し、江利チエミ、雪村いづみと共に三人娘として次代を牽引していくこととなる。
そんなひばりのナンバーから初期の「東京キッド」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)が前川によって歌われた。
笠置が次に狙うのは紅白歌合戦用のナンバー。書かれたのは「買い物ブギー」である。笠置は第2回の紅白歌合戦で「買い物ブギー」を歌っている。
この講談では大阪弁を全国に広めるための楽曲として制作されたことになっている。笠置と服部のブギーシリーズの中で初動売り上げ枚数が最も多かったのが、この「買い物ブギー」。2番目は「東京ブギウギ」ではなく「大阪ブギウギ」だったはずである。インターナショナルな「東京ブギウギ」とは違い、ローカル色豊かな「大阪ブギウギ」は長い間忘れられた存在となっていたが、最近、NHKの「名曲アルバム」において矢井田瞳の歌唱で取り上げられるなど、再評価される可能性が高まりつつある。
「買い物ブギー」は、ハワイでも大ヒットしたようで、アメリカ横断ツアーの最初の目的地であるハワイで町を歩いていると、服部は「おっさんおっさん」、笠置は「ワテほんまによう言わんワ」と呼びかけられたそうである。
当時としてはかなりの長編で、最初のバージョンはSPレコードに収まりきらずカットがされている。このオリジナル版は映画で用いられ、今ではYouTubeで見ることが出来るが、放送自粛用語が入っており、リメイク版では歌詞が変わっている。今回も当然ながらリメイク版の歌詞での歌唱である。
着物姿で登場した桜花は、関西人(奈良県斑鳩町出身)の利点を生かして、コミカル且つニュアンス豊かにこの歌を歌い上げる。
本編はここまでで終わりなのだが、アンコールとして、笠置の歌手引退と、次世代へのバトンタッチの意味を込めた楽曲として、桜花と前川が「たよりにしてまっせ」を歌う。KinKi Kidsがカバーしているということもあって比較的知られた曲である。この曲も全編に大阪弁が用いられている。一応、笠置最後のレコーディング曲なのだが、資料によるとその後に「女床屋の歌」という作品が録音はされていないものの舞台用楽曲として制作されているようで、「たよりにしてまっせ」が笠置最後の歌とは必ずしも言えないようである。
最後は、桜花と前川のデュオで再び「東京ブギウギ」が歌われた。
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