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2024年5月15日 (水)

コンサートの記(844) 山下一史指揮大阪交響楽団第271回定期演奏会「外山雄三追悼」

2024年4月26日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大阪交響楽団の第271回定期演奏会「外山雄三追悼」を聴く。指揮は、大阪交響楽団常任指揮者の山下一史。

日本指揮者界の重鎮として、また作曲家として活躍した外山雄三(1931-2023)。晩年は大阪交響楽団のミュージックアドバイザーを務め、2020年に名誉指揮者の称号を得ていた。
東京・牛込の音楽一家の生まれ。東京音楽学校本科作曲科に入学。在学中に学制改革があり、官立東京音楽学校本科作曲科から国立東京芸術大学音楽学部作曲科の学生へと変わる。芸大在学中に「クラリネット、ファゴット、ピアノのための<三つの性格的断片>」で、第20回音楽コンクールに入賞。作曲家としてのデビューの方が早い。
芸大卒業後は、NHK交響楽団の打楽器練習員となり、その後、指揮研究員へと変わって、1956年9月にNHK交響楽団を指揮してデビュー(盟友である岩城宏之と同じコンサートを振り分けてのデビューである)。その間、林光、間宮芳生と作曲家グループ・山羊の会を結成。作曲家としての活動も活発化させている。
1958年から60年に掛けてウィーンへと留学。少し足を伸ばしてザルツブルク・モーツァルティウム音楽院で、オーケストラトレーナーとしても知られるエーリヒ・ラインスドルフのマスタークラスにも参加している。
1960年のNHK交響楽団世界一周旅行に岩城宏之と共に指揮者として帯同。アンコール演奏用曲目として作曲されたのが、代表作となった「管弦楽のためのラプソディ」である。
当初は現在の3倍ぐらいの長さがあったらしいが、岩城から、「ここいらない」「ここもいらない」と次々に指摘され、今の長さに落ち着いたという。

その後、大阪フィルハーモニー交響楽団の専属指揮者となり、初のシェフのポストとして京都市交響楽団の第4代常任指揮者を1967年から1970年までの3年間務めている。3年は短いように感じるが、この頃の京都市交響楽団は常任指揮者を2、3年でコロコロ変えており、外山だけが短いわけではない。在任中の第100回定期演奏会ではストラヴィンスキーの3大バレエ(「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」)全てを演奏するなど意欲的な試みを行っている。

1979年にNHK交響楽団の正指揮者に就任。私がNHK交響楽団の学生定期会員をしていた頃には、外山に加え、岩城宏之、都響から移った若杉弘の3人がNHK交響楽団の正指揮者であったが、当時のN響は定期演奏会は完全に外国人指揮者指向。4月の定期に日本人指揮者の枠があったが、若手優先ということで、正指揮者は指揮台に立つ機会が限られていたため、N響と外山の組み合わせのコンサートを聴くことはなかった。外山もN響以外の東京のオーケストラに客演しており、私もサントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した自作自演コンサートなどは聴いている。これはライブ録音が行われ、CDとして出ている。京都に来てからは、先斗町歌舞練場で行われた京都市交響楽団の創立50年記念コンサートを聴いている。大響とのコンサートは、大阪4オケの第1回の演奏会で聴いたのが唯一である。

音楽総監督兼常任指揮者を務めていた名古屋フィルハーモニー交響楽団時代には、広上淳一がアシスタント・コンダクターに就任。1年だけだが面倒を見ている。1991年に広上がスウェーデンのノールショピング交響楽団の首席指揮者になった際には外山に「ノールショピング交響楽団のためのプレリュード」の作曲を依頼し、初演してCD録音も行っている。ちなみに名フィルのアシスタント・コンダクターの最終候補2人に広上と共に入り、落選したのは佐渡裕であるが、外山は佐渡に「君はうちとは方向性が違うみたいだから他の場所で」頑張るよう告げている。その後、仙台フィルハーモニー管弦楽団や神奈川フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務め、愛知県立芸術大学では教鞭も執った。民音コンクール指揮者部門(現・東京国際指揮者コンクール)の審査員も長きに渡って務めている。
2023年5月27日に、東京芸術劇場コンサートホールで行われたパシフィックフィルハーモニア東京の演奏会のリハーサル中に体調を崩し、本番は後半のシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」のみを指揮することになったが、本番中に指揮が出来なくなり、車椅子で退場。オーケストラは指揮者なしで演奏を続けた。カーテンコールには車椅子に乗ったまま現れたが、それが公に見せた最後の姿となった。7月11日、自宅にて没。92歳での大往生、生涯現役であった。


大阪交響楽団は、普段はプレトークを行う習慣はないようだが、今日は特別に午後6時40分頃に山下一史が舞台に現れ、プレトークが行われる。
山下は桐朋学園大学で尾高忠明に師事しているが、外山はその尾高の師匠だそうで、先生の先生に当たると話す。
山下と外山の出会いは民音コンクールで、山下がブラームスの交響曲第3番の第1楽章を指揮した後で、審査員の外山が近づいてきて、「君のブラームスが一番良かった」と褒めてくれたそうである。
2022年4月から山下が大阪交響楽団の常任指揮者となることが決まり、外山に電話で報告したのだが、「僕はもう名誉指揮者だから(自由にやりなさい)」と言われたそうである。4月23日には外山の卒寿を祝うコンサートがザ・シンフォニーホールで行われ、そのゲネプロの時に挨拶したのが外山との最後だったようである。
外山の没後、八ヶ岳の外山の自宅を訪ねた山下は、奥さんに「そのままにしてあるから」と言われた自室で、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の総譜が開かれたままになっていることに気づく。近く「ドイツ・レクイエム」を指揮する予定はなく、研究をしていたようだ。「主にあって死ぬものは幸いである」のページが開かれていたという。
また、外山がいつも腰掛けていたというダイニングルームの椅子からはリビングルームの壁に掛けてある小さな十字架を見ることが出来たという。外山はクリスチャンだった。
山下は帰り際に、外山雄三の追悼コンサートを行うことを決めたという。


曲目は、1960年代、外山が30代だった頃の楽曲から選ばれている。管弦楽のためのディヴェルティメント(1961)、ヴァイオリン協奏曲第2番(ヴァイオリン独奏:森下幸路。1966)、バレエ「幽玄」演奏会用組曲(1965)、交響曲「帰国」(1965-66/1977・78改作)。

外山雄三の作品の中では先に挙げた通り「管弦楽のためのラプソディ」が有名で、山下もこれまでに100回ぐらい指揮しているそうだが、今日のプログラムは全て初めて取り組む曲ばかりだそうで、勉強して演奏に臨むという。
「管弦楽のためのラプソディ」は演目に含まれていないが、アンコールで演奏されることが予想される。


今日のコンサートマスターは、今月付でコンサートマスターからソロコンサートマスターに格上げになった林七奈(はやし・なな)。アソシエイトコンサートマスターという肩書きで岡本伸一郎が、アシスタントコンサートマスターの名で里屋幸がフォアシュピーラーを務める。


管弦楽のためのディヴェルティメントは、プラハ交響楽団に客演することになった岩城宏之から、「外国のお客さんに楽しんで貰えるものを」との依頼を受けて書かれたもので、秋田のドンパン節を筆頭に様々な民謡を入れたショーピースで、日本情緒に溢れている。


ヴァイオリン協奏曲第2番。ソリストの森下幸路(もりした・こうじ)は、大阪交響楽団の首席ソロコンサートマスター。桐朋学園大学に学び、シンシナティ大学特別奨学生としてドロシー・ディレーに師事。仙台フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターを経て、大阪交響楽団の首席ソロコンサートマスターに就任。大阪音楽大学特任教授も務めている。
「通りゃんせ」のメロディーが登場する外山節の曲調だが、第3楽章でピッチカートの場面が連続するのが印象的。まるで箏曲を聴いているような錯覚に陥る。
聴くからに「難曲」と思わせる曲であるが、森下の技術は高かった。


バレエ「幽玄」演奏会用組曲。私は外山の「幽玄」が好きで、NHK交響楽団を指揮した自作自演盤(DENON)を何度も聴いているが、鮮烈な響きに始まり、日本的なメロディーをストラヴィンスキー的な鋭さでくるんだような、和と洋の止揚された作風が魅力的である。京響の第100回定期演奏会で、ストラヴィンスキーの3大バレエを取り上げたことからも分かる通り、外山はストラヴィンスキーに大きな影響を受けており、響きにも似たところがある。
バレエ「幽玄」はオーストラリア・バレエ団の監督兼振付師であったロバート・ヘルプマンの依頼で書かれたものだが、NHK交響楽団は1964年に岩城と外山の指揮で行ったツアーでオーストラリアを訪れており、外山作品も演奏されている。ヘルプマンはその公演を聴いて外山にオファーしたようである。


交響曲「帰国」。外山は交響曲作品を何曲も書いているが、何曲書いたと断定することは難しいそうで、通し番号があるのは第2番から第4番まで、しかしそれ以外にも交響組曲や交響連歌と題されたものもあり、第1番の番号を持つものがない。作曲年代やスタイルから考えると、この交響曲「帰国」が交響曲第1番に相当するもののようである。
「帰国」というタイトルが何を意味するのかも不明で、謎めいた作品である。
外山はミュージカル「祇園祭」の音楽も書いているが、「帰国」に聴かれる打楽器の派手な活躍は祭り囃子を思わせ、やはり民謡を引用しつつも鮮烈な響きを生む日本の祝祭感を謳い上げたかのような作品となっている。
ちなみにこの曲は、音響最悪で知られた京都会館第1ホールで、作曲者指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏により1966年1月に初演が行われているが、響きの良いザ・シンフォニーホールで聴くものとは明らかに違う曲に聞こえたことは間違いないと思われる。


演奏が終わってから、各楽器の奏者達が新しい譜面を取り出すのが見える。

拍手に応えて指揮台に上がった山下は、「外山先生と言えばこの曲でしょう」と告げ、「管弦楽のためのラプソディ」が演奏される。お馴染みの曲だけに大阪交響楽団も手慣れており、音色、輝き、迫力共に十分な演奏となった。


山下は1曲ごとに総譜を掲げて敬意を表したが、最後は全ての総譜を抱えて現れ、高々と示した。

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