美術回廊(82) 京都国立近代美術館 没後100年 富岡鉄斎「Tessai」
2024年4月13日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて
左京区岡崎の京都国立近代美術館で、没後100年 富岡鉄斎「Tessai」を観る。「最後の文人画家」とも呼ばれ、京都で活躍した富岡鉄斎の展覧会である。
富岡鉄斎は、1837年(天保7)の生まれ。坂本龍馬の1つ年下となる。長命で数えで89歳となる1924年(大正13)の大晦日まで生きた。1924年は関東大震災の翌年であるが、鉄斎も義援金を送っている。
三条新町の法衣商の家に生まれる。富岡家の先祖は石田梅岩から直接、石門心学を教わっており、代々、心学の教えが受け継がれてきた。鉄斎も心学を学び、その後、儒学、国学、漢学、南画、仏典、詩文、書、陽明学、勤王思想などを学んで、勤皇派の人物とも交流を持つ。坂本龍馬が暗殺された近江屋事件の当日に近江屋を訪れて、自作の「梅椿図」の掛け軸を贈った(結果としてその掛け軸は龍馬の血染めの掛け軸として有名になる)勤皇派文人の板倉筑前介(淡海槐堂)とは友人である。長崎遊学時代には龍馬の支援者でもあった文人画家・書家の小曽根乾堂にも師事している。19歳の頃には北白川(今の左京区北白川)の心性寺(現在の日本バプテスト病院付近にあった。廃寺となり現存しない)で、歌人で陶芸家の太田垣蓮月尼の学僕として住み込みで学んでいる。
儒学者を志し、それなりに評価もあったようだが、聖護院村(現在の左京区聖護院)に開いた私塾は繁盛せず、絵を描いて収入を得るようになる。若い頃には複数の神社の宮司も務めた。その中には有名な社も含まれる。
文人画家の心得である「万巻の書を読み、万里の道を征く」を座右の銘とした人物であり、日本国中を旅して回った。北海道の名付け親である松浦武四郎とも親しく、北海道にも渡っている。また富士山を愛し、たびたび絵の題材とした。
勤皇家ということで、明治天皇の東京行きの際には同行しているが、母親が亡くなったため、すぐに京都に戻っている。今の京都市内で度々転居を繰り返し、頼山陽の邸宅であった鴨川沿いの山紫水明處で暮らしたこともあったが、明治14年に室町一条下ルの薬屋町に転居し、ここが終の棲家となった。屋敷内には無量寿仏堂という名のアトリエがあったようである。
教育者としても活動し、西園寺公望の私塾・立命館で教えたほか、京都市美術学校(現在の京都市立芸術大学美術学部及び京都市立美術工芸高校の前身)でも教員となっている。美術学校の教師ではあるが、教えていたのは絵ではなく修身(道徳)だったようで、鉄斎自身は自分のことを学者と見なしていたようである。
鉄斎の絵の特徴はまず余白が少ないこと。ダイナミックで迫力があり、山岳の描写なども筋骨隆々といった感じで、男性的である。絵の中心に描く対象を縦に並べたり、中心に川や道といった縦の空間を作って、その横に家屋や人物を並べるなど、センターラインを重視した構図のものが多い。また自然の描写が雄渾なのと対照的に人物は小さく可愛らしく描かれており、対比がなされている。人物画の特徴は細くて吊り上がった目の持ち主が多く描かれていることで、南画の影響かとも思われる。
刻印収集が趣味であり、淡海槐堂や松浦武四郎らの篆刻による刻印がずらりと展示されている。鉄斎自身も篆刻を行った。
書家としても評価されていたようで、力強い筆致が印象的である。
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