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2024年8月の7件の記事

2024年8月31日 (土)

NHKBS「クラシック俱楽部」 村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル 岡山県津山市公開収録

録画しておいたNHKBS「クラシック俱楽部」村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル 岡山県津山市公開収録を視聴。冒頭に村治佳織が演奏した、映画「ディア・ハンター」のテーマ曲であるマイヤースの「カヴァティーナ」が流れるが、公開収録ではこの曲は演奏されない。

演目は、カルッリの対話風小二重奏曲第2からロンド、エンニオ・モリコーネの映画「ミッション」から「ガブリエルのオーボエ」(村治佳織独奏。モーガン&ポーチン編曲)、坂本龍一の映画「戦場のメリークリスマス」から「Merry Christmas Mr.Lawrence」(村治佳織独奏。佐藤弘和編曲)、ヘンリー・マンシーニの映画「ひまわり」から「ひまわり」(村治奏一独奏:鈴木大介編曲)、映画「プマリアネッリの「プライドと偏見」から夜明け(牟岐礼編曲)、藤井眞吾の「ラプソディー・ジャパン」

津山城の一角にある津山文化センター大ホールでの2020年12月11日の収録。津山文化センターは1965年の竣工。2020年にリニューアル工事が行われ、リニューアルオープンを記念しての収録だと思われる。

コロナが猛威を振るっていた時期であるため、感染対策を十分に講じての収録となった。

4歳差の村治姉弟。ギタリストである村治昇の子である。デビューは姉の村治佳織の方が早く、15歳でデビュー。当時は「女子高生ブーム」だったので(今考えると変なブームである)「女子高生ギタリスト」としてもてはやされ、村治自身もそれを強みと考えている旨を発言していたりする。同世代の男子高校生は村治佳織のことを「ムラジー」のあだ名で呼んだとの記録があるが本当かどうかは定かでない。クラシック音楽の奏者としてはトップレベルのビジュアルの持ち主であり、若い頃からテレビ番組への出演も多く、写真集も出している。
姉がアイドルのような人気を博す一方で、弟の村治奏一は周囲に騒がれることなくギターに専念できた強みがある。

映画音楽を多く取り入れたプログラム。モリコーネの「ガブリエルのオーボエ」は、現在ではオーボエ奏者のアンコール曲目の定番となっているが、ギターで演奏されるのは珍しい。

坂本龍一の「Merry Christmas Mr.Lawrence」。村治佳織は生前の坂本龍一と交流があり、この曲も村治のギター、坂本龍一のピアノで共演しており、その時の映像は今でもYouTubeなどで確認することが出来る。2020年ということで、坂本龍一はまだ存命中であるが、今、放送ということで追悼の意味も込められているのかも知れない。
村治佳織の演奏はギターによるものとしてはスケールが大きいのが特徴である。

指揮者の藤岡幸夫の大のお気に入りでもあるマンシーニの「ひまわり」。私も簡単な編曲によるピアノ版を弾いたことがあるが、単に聴くよりも弾いた方が胸に響く楽曲である。マンシーニは、作曲する際には女優の顔を思い浮かべるのが常だったようだが、この曲もソフィア・ローレンを思い浮かべながら作曲したのだろうか。
村治奏一の演奏は切々とした語り口が印象的である。

二人によるトーク。村治佳織はパリのエコールノルマルで、村治奏一はニューヨークのマンハッタン音楽院で学んでいるため、スタイルが異なるはずなのだが、実の姉弟ということで、間の取り方や表現の仕方の根っこの部分が同じになるので、敢えて違えるように工夫しているそうである。
ちなみにテレビ収録ということで、村治佳織は弟のことを「奏一さん」、村治奏一は姉のことを「佳織さん」と呼んでいるが、普段はどう呼んでいるのかは分からない。


藤井眞吾の「ラプソディー・ジャパン」は、日本の民謡や日本人作曲家の旋律を取り入れた作品で、「さくらさくら」、瀧廉太郎の「花」(村治姉弟は東京都台東区出身なので隅田川を「地元」と語る)、川越城が舞台とされる「とおりゃんせ」、「かごめかごめ」、成田為三の「浜辺の歌」、「ずいずいずっころばし」 、「故郷」 などが次々に演奏され、ノスタルジアに浸ることが出来た。

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2024年8月27日 (火)

観劇感想精選(466) 佐々木蔵之介主演 モリエール「守銭奴 ザ・マネー・クレージー」

2023年1月6日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後6時30分から、大阪の森ノ宮ピロティホールで、モリエール原作の「守銭奴 ザ・マネー・クレイジー」を観る。テキスト日本語訳:秋山伸子。演出:シルヴィウ・プルカレーテ。出演:佐々木蔵之介、加治将樹、竹内將人、大西礼芳(あやか)、天野はな、長谷川朝晴、阿南健治、手塚とおる、壌晴彦ほか。

極端な吝嗇家(守銭奴)のアルパゴン(佐々木蔵之介)と彼を取り巻く人々の物語である。アルパゴンの息子であるクレアント(竹内將人)はマリアーヌ(天野はな)と恋仲である。だがそれを知らないアルパゴンは、マリアーヌとの再婚を望む。一方、アルパゴンの娘であるエリーズ(大西礼芳)は執事のヴァレール(加治将樹)と結婚を決めるのだが、アルパゴンはそれを知らずに娘と資産家のアンセルム(壌晴彦)との婚儀を進めようとしており……。

古典演劇だけに、喜劇作家の代名詞的存在であるモリエールの作品といえど、今とは笑いのポイントが異なることが分かるが(おそらくフランスでは笑いが来そうなところで今日は笑いが起こらなかった)、俳優陣も達者であり、楽しめる舞台になった。
一方で、プルカレーテの演出には疑問も多く、不吉で不穏な印象の音楽を多用する(音楽:ヴァシル・シリー)など、アルパゴンを怪物か何かのように描きたかったのかも知れないが、謎の演出も散見された。

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2024年8月26日 (月)

史の流れに(11) 京都国立博物館 豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」

2024年7月24日 東山七条の京都国立博物館・平成知新館にて

東山七条の京都国立博物館で、豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」を観る。3階建ての京都国立博物館平成知新館1階の3つの展示室を使って行われる比較的小規模な展示である。
豊臣秀吉の子である鶴松が幼くして亡くなり、実子に跡を継がせることを諦めた秀吉は、甥(姉であるともの長男)の秀次に関白職を譲り(この時、豊臣氏は、源平藤橘と並ぶ氏族となっていたため、秀次は豊臣氏のまま関白に就任。藤原氏以外で関白の職に就いた唯一の例となった。なお秀吉は近衛氏の猶子となり、藤原秀吉として関白の宣下を受けている)、秀次は聚楽第に入って政務を行い、秀吉は月の名所として知られた伏見指月山に隠居所(指月伏見城)を築いて、豊臣の後継者問題はこれで解決したかに思われた。
しかし、想定外のことが起こる。淀の方(茶々)が秀吉の子、それも男の子を産んだのだ。お拾と名付けられたこの男の子は後に豊臣秀頼となる。
どうしても実子に跡を継がせたくなった秀吉は、秀次排斥へと動き始める。

文禄4年(1595)、秀次に突如として謀反の疑いが掛けられる。秀次は、指月の秀吉の隠居所まで弁明に向かうが、城門は開くことなく、追い返される。やがて秀次の出家と高野山追放が決まり、切腹が命じられた。これには異説があり、出家した者に切腹が命じられることは基本的にないことから、秀次が命じられたのは出家と高野山追放のみであり、切腹は秀次と家臣が抗議のために自ら行ったという説である。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、こちらの説が採用されている(秀次を演じたのは新納慎也)。「真田丸」では、秀吉(小日向文世が演じた)が秀次の妻子を皆殺しにしたのは、勝手に切腹を行った秀次への怒りという説も採用されているが、これもあくまで一説である。ただ切腹を命じられなかったとしても、秀頼に跡を継がせるためには秀次は目障りな存在でしかない。即切腹とならなくても何らかの形で死を賜ることになったと思われる。
秀次の切腹を受けて、秀次の妻子は全員捕らえられ、三条河原で秀次の首と対峙させられた後、ことごとく切り捨てられた。その数、30名以上。老いも若きも区別はなかった。余りの残忍さに、京の人々も「太閤様の世も終わりじゃ」と嘆いたという。
秀次の妻子は三条河原に掘られた穴に投げ捨てられ、その上に塚を築き、塚の上に秀次の首を据えて、全体を「畜生塚」「秀次悪逆塚」と名付けた。これら一連の出来事を「秀次事件」と呼ぶ。晩年の秀吉は理性に問題があったという説があるが、これらの一連の出来事はその証左ともなっている。
「畜生塚」は、その後、顧みられることもなくなり、鴨川沿いということで何度も水害を受け、やがて朽ち果てた。近隣に邸宅を建てていた豪商・角倉了以が高瀬川の工事中に「畜生塚」の跡を発見し、立空桂叔を開山に秀次一族の菩提を弔う寺院を建立した。これが慈舟山瑞泉寺である。寺の名は秀次公の戒名「瑞泉寺殿」に由来する。


瑞泉寺に伝わる寺宝が並ぶ展覧会。「豊臣秀次および眷属像」(秀次公と殉死した家臣達、処刑された妻子の肖像が並ぶ)、絵巻物である「秀次公縁起」(秀次公が伏見指月山の秀吉公を訪ねるも入城を断られる場面に始まり、高野山への追放と切腹、三条河原での処刑と「畜生塚」が築かれるまでが描かれる)、秀次公による和歌(秀次公の字と伝わるが、字体的に桃山時代のものではないため、真筆ではない可能性が高いという)、妻子達の辞世の句(真筆とされるが、これも後世写されたものである可能性が極めて高いという)などが並ぶ。
武門に嫁いだからには、いつでも死を覚悟していたものと思われるが、せめて辞世の歌は良いものを詠みたい気持ちはあっただろう。だが、次々に秀次公の首の前に引きずり出されては辞世の歌を詠まされ、直ちに斬られたというから、十分に歌を考える暇もなかったと思われる。仏道への信心や極楽往生を願う同じような歌が多いのは、他のことを思い浮かべる余裕が時間的にも精神的にもなかったことを表しているようで、無念さが伝わってくる。
秀次公の妻の身分は様々で、公家や大名の娘から、僧侶や社家の子や庶民、中には一条で拾われた捨て子(おたけという名)などもいる。

処刑された女性の中で、最も有名なのは最上の駒姫であると思われる。出羽国の大名、最上義光(よしあき)の娘で、名はいま(おいま)。15歳であったという(19歳という説もある)。秀次との婚儀が決まり、上洛するが、秀次と顔も合わさぬまま夫は死に、自身は処刑されることが決まってしまう。流石にまずいと助命が入ったようだが、知らせは間に合わなかったという。瑞泉寺には何度も行ったことがあり、住職と息子さんの副住職さん(現在は住職さんになられているようである)とも話したことがあるが、今でも東北から「駒姫様可哀相」と弔いに訪れる人がいるという。駒姫は辞世に「罪なき身」と記しており、辞世の歌も「罪を斬る弥陀の剣」で始まっているが、「罪を斬る」は「罪を着る」つまり「濡れ衣」という意味の言葉に掛けられているようであり、怨念のようなものすら感じられる。
最上氏はこの事件を機に豊臣家と距離を置き始め、徳川家に近づいていくことになる。

秀吉の憎悪はこれでは収まらず、関白の政庁として自らが建て、秀次が居城としていた聚楽第を徹底的に破壊する。堀などの痕跡は流石に残ったが、建物などは釘一つ残さぬほどに破却。現在、京都市内には聚楽第の遺構とされる建物がいくつかあるが、一切残さなかった建造物の遺構があるとは思われず、伝承に過ぎないとされる。


秀次事件の翌年、伏見を大地震が襲う(慶長伏見地震)。伏見指月山の秀吉の隠居所も倒壊し、秀吉も危うく倒れてきた柱の下敷きになるところだった。人々は「秀次公の祟りだ」と噂したという。秀吉は残った木材を利用し、少し離れた木幡山に新たな城を築く(伏見城、木幡山伏見城)。指月山の伏見城とは異なり、木幡山の伏見城は大坂城を凌ぐほどの堅固な城であり、ここで後に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが起こって、大軍を率いた石田三成が僅かな手勢で守る城をなかなか落とせず大苦戦し(裏切り者が出て最終的には落城。鳥居元忠らが自刃した)、家康公が再建した伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、政務を行っている(後に俗に伏見幕府時代と呼ばれる)。実は慶長伏見地震が起こったのは、西暦でいうと、三条河原の惨劇が起こった丁度1年後(9月5日)に当たる。

秀次公は、近江八幡の礎を築いた人物である。山城である八幡山城を築き、その下に今も面影を残す美しい町並みを整備して、本能寺の変で主の織田信長を失った安土の人々を招いて楽市楽座を行い善政を敷いた。近江八幡は近江商人発祥の地であり、近江八幡を生み出した秀次公が名君でないわけがない。実際、近江八幡で秀次公を悪く言う人はいないという。


瑞泉寺は、三条木屋町という京都の中心部にある。浄土宗西山禅林寺派の寺院である。門の前を角倉了以が掘削させた高瀬川が流れ、寺紋は五七桐(豊臣家の家紋)。瑞泉寺は秀次公の汚名をすすぐことに尽力しており、東屋には秀次公に関するちょっとした資料が展示されている。
江戸時代に描かれた「瑞泉寺縁起」に、秀次公と一族の墓はすでに描かれているが、現在の墓所は、松下幸之助が創設した「豊公会」によって整備されたものである。
豊公会は地蔵堂も整備。秀次一族の処刑に引導を渡す役割を担った引導地蔵を祀り、地蔵堂に近づくと内側に灯りがともり、秀次公の眷属の姿が浮かび上がるようになっている。
街中ではあるが、訪れる者も少なく、落ち着いた感じの寺院で、お薦めの場所である。

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瑞泉寺豊臣秀次公一族の墓

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瑞泉寺 駒姫の墓

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瑞泉寺東屋にて

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2024年8月19日 (月)

Eテレ「クラシック音楽館」2024年8月11日 沖澤のどか指揮 NHK交響楽団第2014回定期演奏会ほか

Eテレ「クラシック音楽館」。今日は京都市交響楽団第14代常任指揮者である沖澤のどかがNHK交響楽団に初客演した第2014回定期演奏会の模様を送る。今年の6月14日、東京・渋谷のNHKホールでの収録。

イベールの「寄港地」、ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:デニス・コジュヒン)、ドビュッシーの「夜想曲」(女声合唱:東京混声合唱団)というオール・フレンチ・プログラム。沖澤は京響でもオール・フレンチ・プログラムの定期演奏会を行っているが、フランスものには自信があるようである。今まで何度か実演に接しているが、情熱バリバリ系では全くなく、知的コントロール系なのでフランス音楽は合っているだろう。

以前はドイツもの一辺倒だったN響だが、シャルル・デュトワを常任指揮者・音楽監督・名誉音楽監督として据え、フランスものも得意なパーヴォ・ヤルヴィを首席指揮者(現在は名誉指揮者)に招いたことで、音のパレットがどんどん広がっている。


イベールの「寄港地」は、京響の定期演奏会でも取り上げている沖澤だが、色彩感の豊かさや音の濃さ、エキゾチシズムなどをN響からも引き出している。


ラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲。ピアノ独奏のデニス・コジュヒンは1986年生まれのロシアのピアニスト。2010年にベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクール・ピアノ部門で優勝している。コジュヒンは重厚且つ力強い演奏を展開。沖澤指揮のN響は気品ある伴奏を展開する。

アンコール演奏は、チャイコフスキーの「子どものアルバム」から「教会で」。短く、音の冷ややかさが印象的な曲と演奏である。


ドビュッシーの「夜想曲」。この6月には、カーチュン・ウォン指揮日本フィルハーモニー管弦楽団も東京音楽大学の女声合唱で取り上げている。「夜想曲」が同一都市で同じ月に2度取り上げられるというは珍しい。しかも両方とも女声合唱を伴う第3曲「シレーヌ」をカットしないでの演奏である。
東京混声合唱団は、舞台下手端、オーケストラの最後列の後ろに陣取る。

カーチュンと日フィルの「夜想曲」は、シャープで音の色彩鮮やかといった印象だったが、沖澤とN響の「夜想曲」は丁寧さエレガントさが目立つ。カーチュンがドビュッシーの才気に、沖澤がドビュッシーの「粋」に焦点を当てているようでもある。音色もN響の方がソリッドな印象を受けるが、実演とテレビ放送なので単純に比較は出来ない。


続いて、京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホールムラタ」で行われたヴォーチェ弦楽四重奏団によるドビュッシーの弦楽四重奏曲(テロップが弦楽四重奏団と誤植されたままであった)とバルメールの「風に舞う断章」より第3曲。

ドビュッシーの「夜想曲」と弦楽四重奏曲は、いずれも坂本龍一が生前最も愛した曲であり、続けて聴くことになる。ヴォーチェ弦楽四重奏団はフランスのアンサンブルということで切れ味鋭く解像度の高い演奏を行うという印象。
バルメールの「風に舞う断章」より第3曲演奏終了後には作曲者がステージ上に姿を現し、拍手を受けた。

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2024年8月18日 (日)

コンサートの記(854) 久石譲指揮日本センチュリー交響楽団京都特別演奏会2024

2024年8月10日 京都コンサートホールにて

午後3時から、京都コンサートホールで、久石譲指揮日本センチュリー交響楽団の京都特別演奏会を聴く。今日と同一のプログラムで明日、山口県防府(ほうふ)市の三友(さんゆう)サルビアホールでも特別演奏会が行われる予定である。

スタジオジブリ作品や北野武監督の映画作品の作曲家としてお馴染みの久石譲であるが、それは仮の姿というか、彼の一側面であり、本来はミニマル・ミュージックをベースとした先鋭的な作曲家である。ちなみによく知られたことではあるが、久石譲は芸名であり(本名は藤澤守)、クインシー・ジョーンズをもじった名前である。
近年は指揮者としての活動が目立っており、ナガノ・チェンバー・オーケストラ(途中で改組されてフューチャー・オーケストラ・クラシックスとなる)とのベートーヴェン交響曲全曲演奏会とライブ録音した「ベートーヴェン交響曲全集」で高い評価を得たほか、新日本フィルハーモニー交響楽団を母体とした新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラの音楽監督に就任して活動継続中。現在は、日本センチュリー交響楽団の首席客演指揮者を務めており、2025年4月には同楽団の音楽監督に就任する予定である。その他、新日本フィルハーモニー交響楽団 Music Partner、作曲家としてロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のComposer in Associationを務めている。海外のオーケストラも指揮しており、ウィーン交響楽団、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団、メルボルン交響楽団、アメリカ交響楽団、シカゴ交響楽団、トロント交響楽団、ロサンゼルス・フィルハーモニックなどの指揮台に立っている。
国立(くにたち)音楽大学で作曲を学び、現在は同音大の招聘教授となっているが、指揮法に関してはおそらく誰かに本格的に師事したことはなく、ほぼ我流であると思われる。


曲目は、ブリテンの歌劇「ピーター・グライムス」より4つの海の前奏曲、久石譲の「Links」、久石譲の「DA・MA・SHI・絵」、ヴォーン・ウィリアムズの「グリーン・スリーヴス」による幻想曲、久石譲の交響組曲「魔女の宅急便」

久石譲の自作とイギリスものからなるプログラムである。

全曲、20世紀以降の新しい時代の作品であるが、ヴァイオリン両翼の古典配置を採用。無料パンフレットには楽団員表などは載っていないため、詳しい情報は分からない。

なお、久石譲の指揮ということで、チケット料金は高めに設定されているが、久石作曲・指揮のジブリ音楽が聴けるということもあり、完売となっている。


ブリテンの歌劇「ピーター・グライムス」より4つの海の間奏曲。
イギリスが久しぶりに生んだ天才作曲家、ベンジャミン・ブリテン。近年、再評価が進んでいる作曲家であるが、指揮者としても活動しており、録音も残されていて一部の演奏は評価も高い。
歌劇「ピーター・グライムス」より4つの海の間奏曲も、ブリテンの才気が溢れ出ており、瑞々しくも神秘的且つ不穏な音楽が展開されていく。様々な要素が高い次元で統一された音楽である。
センチュリー響は、第1ヴァイオリン12という編成。元々、フォルムの造形美に定評のあるオーケストラだが、この曲でもキレのある音と丁寧な音色の積み重ねで聴かせる。
弦の艶やかさが目立つが、管楽器も透明感があり、音の抜けが良い。
歌劇「ピーター・グライムス」より4つの海の間奏曲は、レナード・バーンスタインが生涯最後のコンサートで取り上げた曲目の一つとしても知られており、それにより知名度も高くなっている。
久石の指揮は拍をきっちりと刻むオーソドックスなもので、専業の指揮者のような派手さはないが、よくツボを心得た指揮を行っている。


久石譲の「Links」と「DA・MA・SHI・絵」。いずれも久石お得意のミニマルミュージックである。「Links」は2007年の作曲。「DA・MA・SHI・絵」はやや古く1985年の作曲であるが、2009年にロンドン交響楽団と録音を行う際に大編成用に再構成されている。エッシャーのだまし絵にインスピレーションを得た作品である。
「Links」は愛すべき小品ともいうべき作品。甘くて楽しい「久石メロディー」とは一線を画したシャープな音響である。
「DA・MA・SHI・絵」は、冒頭はミニマルミュージックの創始者とされるマイケル・ナイマンの作風に似ているが、徐々にスケールが大きくなり、迫力も増していく。


ヴォーン・ウィリアムズの「グリーン・スリーヴス」による幻想曲。
ヴォーン・ウィリアムズも徐々にではあるが人気が高まっている作曲家。特に日本には、尾高忠明、藤岡幸夫、大友直人といったイギリスものを得意とする指揮者が多く、ヴォーン・ウィリアムズの作品がプログラムに載る確率も思いのほか高い。
イギリスも近年では指揮者大国になりつつあり、ヴォーン・ウィリアムズやエルガーといった英国を代表する作曲家の作品が演奏される機会が世界中で多くなっている。先頃亡くなったが、サー・アンドルー・デイヴィスが「ヴォーン・ウィリアムズ交響曲全集」を作成しており、またアメリカ人指揮者であるがイギリスでも活躍したレナード・スラットキンも交響曲全集を完成させている。
「グリーン・スリーヴス」による幻想曲は、日本でもお馴染みの「グリーン・スリーヴス」のメロディーを取り入れた分かりやすい曲で、おそらくドビュッシーの影響なども受けていると思われているが、音の透明度の高さや高雅な雰囲気などが魅力的な楽曲となっている。以前は、ヴォーン・ウィリアムズというと、この「グリーン・スリーヴス」による幻想曲の作曲家として知名度が高かったが、時代は変わり、今は交響曲作曲家として評価されるようになってきている。

久石譲はノンタクトで指揮。この曲が持つ美しさとそこはかとない哀愁、神秘性、ノーブルで繊細な雰囲気などを巧みに浮かび上がらせてみせた。


久石譲の交響組曲「魔女の宅急便」。スタジオジブリの映画の中でもテレビ放映される機会も多く、人気作品となっている「魔女の宅急便」の音楽をオーケストラコンサート用にアレンジしたものである。初演は2019年に作曲者指揮の新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラによって行われている。アコーディオン独奏は大阪を拠点に活動する、かとうかなこ。マンドリン独奏は青山忠。
チャーミングでノスタルジックで親しみやすいメロディーが次から次へと登場する楽曲で、久石の表現も自作だけに手慣れたもの。センチュリー響の技術も高い。
この曲では打楽器の活躍も目立っており、木琴、鉄琴が2台ずつ使われる他、チューブラーベルズなども活用される。アコーディオンとマンドリンの独奏も愛らしさを倍加させ、トランペット奏者やトロンボーン奏者、クラリネット奏者が立ち上がって演奏したり、フルート奏者がオカリナを奏でるなど、とても楽しい時が流れていく。
ラストはコンサートマスターのソロ(自分で譜面台を移動させ、立ち上がってソリストの位置に立って演奏)を伴う楽曲で閉じられた。


アンコール演奏は、久石譲の組曲「World Dreams」よりⅠ.World Dreams。チェロの活躍が目立つメロディアスで構築のしっかりした曲である。

演奏終了後、多くの「ブラボー!」が久石とセンチュリー響を讃え、1階席はほぼ総立ち、2階席3階席もスタンディングオベーションを行う人の姿が目立ち、大いに盛り上がった。

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2024年8月 7日 (水)

コンサートの記(853) 井上道義指揮 京都市交響楽団第690回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル

2024年6月21日 京都コンサートホールにて

午後7時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第690回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。指揮は京響第9代常任指揮者兼音楽監督であった井上道義。井上の得意とするショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番(チェロ独奏:アレクサンドル・クニャーゼフ)と交響曲第2番「十月革命」(合唱:京響コーラス)の組み合わせ。明日はこれにショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番が加わる。

プレトークは開演の30分前が基本なのだが、今日は特別に開演10分前となっている。
井上道義は、「どうも井上です」と言いながら登場。「ショスタコーヴィチで完売になる日が来るなんて。今日は違います。明日です」
京都市交響楽団の音楽監督と務めたのがもう35年ほど前、京都コンサートホールが出来てから約30年(正確にいうと、1995年開場なので29年である)ということで時の流れの速さを井上は語る。あの頃は京響の宣伝のために燕尾服を着て鴨川に入った写真を撮ってテレホンカードにしたが、「今、テレホンカードなんて何の役にも立たない」

今ではショスタコーヴィチ演奏の大家となった井上であるが、ショスタコーヴィチの魅力に気づいたのは京響の音楽監督をしていた時代だそうで、京都会館でのことだそうである。ここから先は他の場所で話していたことになる。

以前に京都市交響楽団が本拠地としていた京都会館第1ホールは前川國男設計の名建築ではあるのだが、音響が悪いことで知られていた。音響の悪い原因は実ははっきりしており、なんとも京都らしい理由なのだが、ここには書かないでおく。井上は色々と試したのだが、何をやっても鳴らない。ただ唯一、ショスタコーヴィチだけはオーケストレーションが良いので音が通ったそうで、ショスタコーヴィチの凄さを知ったという。

ここで、今日、井上が語った内容に戻る。それまでは井上も、ショスタコーヴィチの音楽について、「重ったるい、暗い、社会主義的な音楽」だと思っていたのだが、いったん開眼するとそうではないことに気づいたという。明日演奏するチェロ協奏曲第2番についても、「クニャーゼフにも聞いたんだけど、暗い曲じゃない」。ただチェロ協奏曲第2番を演奏するのは明日なので、詳しくは明日話すことにするという。
ショスタコーヴィチの交響曲第2番「十月革命」は、ショスタコーヴィチが二十歳の時に書いた作品である(交響曲第1番は17歳で書いている)。この頃、ショスタコーヴィチは作曲家よりもピアニストに憧れていたというが、ショパン・コンクールでは入賞出来なかった。井上は客席に「二十歳以下の人」と聞く。結構手が上がるが、井上の見える範囲内では8人程度。「二十歳と言ったら(作曲家としては)まだ青二才です」
ショスタコーヴィチは「天才中の天才」と言える人で、「ソ連が生んだ初の天才作曲家」と言われているが、私の見るところ、「音楽史上最高の天才」で、おそらくモーツァルトよりも上である。ただモーツァルトの音楽が「天から降ってきた」ような音楽であるのに対し、ショスタコーヴィチの音楽は「あくまで人間が創造したもの」であるところが違う。
ロシア革命が起こり、それまでの体制が全てひっくり返る。若い人々がやる気に満ちている。井上は、「レーニンがみんな平等の社会を作ろうとした。ただ人間はそこまでクレバーじゃなかった。善意だけで国を作ろうとするとどうなるか」とその後のソ連の運命を暗示した。ただショスタコーヴィチが二十歳の頃のソ連は、世界のどこよりも自由で、ロシア・アヴァンギャルドなどの芸術が興り、何をどう表現してもいいような雰囲気に満ちていた。これはスターリンが台頭するまで続く。
無料パンフレットによると、ショスタコーヴィチはアレクサンドル・ベズィメンスキーの書いた「十月革命とレーニン礼賛」の詩を嫌っていたとあるが、井上はショスタコーヴィチはレーニンを尊敬していたと語った。
この曲ではサイレンが鳴るのだが、井上は、「サイレンが鳴りますがびっくりしないでね。心臓の悪い人、気をつけて」
この時代のショスタコーヴィチの音楽は、「まだ二枚舌じゃない」と井上は語り、「分かりやすい」とも付け加えた。


今日のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーには泉原隆志。チェロの客演首席には櫃本瑠音(ひつもと・るね)が入る。佐渡裕が創設したスーパーキッズオーケストラ出身のようである。
ティンパニは中山航介(打楽器首席)が皆勤状態だったのだが、今日は降り番。終演後にホールの外で京響の団員に「今日は中山さんどうされたんですか?」と聞いている人がいた。


ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番。私が初めて聴いたショスタコーヴィチの曲の1つである。聴いたのは高校1年生頃だっただろうか。今はソニー・クラシカルとなっているCBSソニーのベスト100シリーズの中に、レナード・バーンスタインとニューヨーク・フィルハーモニックが東京文化会館で行ったショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏のライブ収録のものがあり、それにカップリングされていたのがショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番であった。ヨーヨー・マ(馬友友)のチェロ、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の伴奏。2曲とも今でもベスト演奏に挙げる人がいるはずである。
今回、チェロ独奏を務めるアレクサンドル・タニャーゼフはロシア出身。1990年のチャイコフスキー国際音楽コンクール(ヴァイオリン部門で諏訪内晶子が優勝して話題になった年である)チェロ部門で2位入賞。ロシア国内外の名指揮者と共演を重ねている。一方でオルガンも習得しており、バッハ作品などをオルガンで演奏して好評を博しているという。今、ロシアは戦争中であるため、具体的には書かないが色々と制約があるようである。タニャーゼフも以前はウクライナで何度も演奏を行っていたが、今は入ることも出来ないそうだ。ちなみに井上とタニャーゼフの初共演は20年前だそうで、タニャーゼフが20年前とはっきり覚えていたようである。

力強いが豪快と言うよりは粋な感じのチェロ独奏である。ロシアよりもフランスのチェリストに近い印象も受ける。ロシア音楽はフランス音楽を範としているため、フランス的に感じられてもそうおかしなことではない。歌は非常に深く印象的である。
指揮台なしのノンタクトで指揮した井上の伴奏もショスタコーヴィチらしい鋭さと才気に溢れた優れたものであった。

タニャーゼフのアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第3番よりサラバンド。深々とした演奏であった。


ショスタコーヴィチの交響曲第2番「十月革命」。京響コーラスの合唱指揮(合唱指導)は大阪フィルハーモニー合唱団の指揮者である福島章恭(あきやす)が務めている。京響コーラスを創設したのは実は井上道義である。
宇宙的な響きのする曲で、一体どうやったら二十歳でこんな曲が書けるのか全く分からない。井上と京響も迫力と透明感を合わせ持った名演を展開し、「これはえらいものを聴いてしまった」という印象を抱く。なお、井上道義指揮による2度目の「ショスタコーヴィチ交響曲全集」を制作する予定があり、ホールの前にはオクタヴィア・レコードのワゴンが停まっていて、ホール内には本格的なマイクセッティングが施されていた。
粛清の嵐を巻き起こしたソビエト共産党との関係の中で、ショスタコーヴィチはミステリアスでアイロニカルな作風を選ぶ、というより選ばざるを得なくなるのだが、もっと自由な世界に生まれていたらどんな音楽を生み出していたのだろうか。更なる傑作が生まれていたのか、あるいは名画「第三の男」のセリフにあるように、「ボルジア家の悪政下のイタリア、殺戮と流血の日々はルネサンスを開花させた。一方、スイス500年の平和と民主主義が何を生み出したか。鳩時計さ」という聴衆にとっては不幸なことになっていたのか。想像は尽きない。

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2024年8月 2日 (金)

これまでに観た映画より(343) ドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」

2024年6月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」を観る。ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンドなどの中心メンバーとして活躍し、日本ポピュラー音楽界をリードし続けながら残念な最期を遂げた加藤和彦(愛称:トノバン)の姿を多くの音楽関係者達の証言を元に浮かび上がらせるという趣向の映画である。

京都市伏見区生まれの加藤和彦。実は生まれてすぐに関東に移っており、中高時代は東京で過ごして、自身は「江戸っ子」の意識でいたようなのだが、京都市伏見区深草にある龍谷大学経済学部に進学し、在学中にデビューしているため「京都のミュージシャン」というイメージも強い。ということもあってか、京都シネマは満員の盛況。一番小さいスクリーンでの上映であるが、それでも満員になるのは凄いことである。

監督:相原裕美。出演:きたやまおさむ(北山修)、松山猛、朝妻一郎、新田和長、つのだ☆ひろ、小原礼、今井裕、高中正義、クリス・トーマス、泉谷しげる、坂崎幸之助(THE ALFEE)、重実博、清水信之、コシノジュンコ、三國清三、門上武司、高野寛、高田漣、坂本美雨、石川紅奈(soraya)、斉藤安弘“アンコー”、高橋幸宏ほか。声の出演:松任谷正隆、吉田拓郎、坂本龍一。

加藤和彦は、バンドを始めるに当たって、雑誌でメンバーを募集。住所が京都市内となっていたため、それを見た、京都府立医科大生のきたやまおさむ(北山修)が、「京都で珍しいな」と思い、参加を決めている。参加したのは、加藤と北山を含めて5人。うち二人は浪人生で一人は高校生。浪人生二人は受験のために脱退。一人は東京の大学に進学したために戻ってこなかった。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)に進学を決めた芦田雅喜は戻ってくるが、再び脱退。加藤、北山、平沼義男の3人で再スタートする。
加藤和彦が龍谷大学への進学を決めたのは、祖父が仏師であるため、それを継ぐ志半分で、浄土真宗本願寺派の龍谷大学を選んだということになっているが、どうも東京時代に東京を離れたくなる理由があったようだ。龍谷大学には文学部に仏教学科と真宗学科があるが、加藤が選んだのは経済学部であり、特に仏教について学びたい訳ではなかったことが分かる。
常に新しいことをやりたいと考えていた加藤和彦。「帰ってきたヨッパライ」はメンバーが新しくなったので新しいことをやりたいという思いと、半ば「ふざけ」で作ったものだが、その先に何か新しいことが開ける予感のようなものがあるという風なことを若き日の加藤は語っている。

「帰ってきたヨッパライ」は、自主制作アルバム「ハレンチ」の1曲として発売された。当時、関西のミュージシャンが関西でレコーディングしたアルバムを出し、加藤もそのアルバムの録音に参加。「関西でもやろうと思えば出来る」との思いがあった。また関西の音楽人には、中央=東京に対する反骨心のようなものがあったと、北山は述べている。「帰ってきたヨッパライ」は、ラジオ関西で放送され、大きな反響を呼ぶ。それがやがて東京に飛び火。オールナイトニッポンのパーソナリティーだった斉藤安弘“アンコー(安弘を有職読みしたあだ名)”は、「帰ってきたヨッパライ」を一晩に何度も流したそうだ。
「帰ってきたヨッパライ」に関しては、高橋幸宏や坂崎幸之助が、「今まで聴いたことのない新しい音楽」と口を揃えて評価する。そんな曲が関西のアマチュア音楽家でまだ大学生の若い人々によって作られたというのは衝撃的だった。
一方、加藤、そして医大生だった北山は大学卒業と同時に音楽は終わりと考えていた。北山は大学院に進学して医師を目指し、加藤は普通に就職する気だった。だが、プロデビューの話が舞い込み、パシフィック音楽出版と東芝レコード(東芝音楽工業。後に東芝EMI、EMIミュージック・ジャパンを経て、ユニバーサル・ミュージックに吸収される)と契約。東芝からレコードを出し、1年限定のプロ活動を行うことにする。この時、はしだのりひこが加わる。どうもこの頃、加藤は学生生活が上手くいっていなかったようで、はしだが加藤の面倒をよく見ていたようだ。プロデビューのために龍谷大学は中退した。
東芝側は、第2、第3の「帰ってきたヨッパライ」を期待していたのだが、ビートルズは1曲ごとにスタイルを変えているということで、ザ・フォーク・クルセダーズ側は全く趣が異なる「イムジン河」を第2弾シングルとすることを決める。だがここで問題が起こる。ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーは全員、「イムジン河」が朝鮮の民謡だと思い込んでいたのだが、実際は北朝鮮の作詞家と作曲家が作ったオリジナル楽曲だったのだ。北山は、「南北分断が歌詞に出てくるんだから民謡の訳がない」と後になって気づいたそうだが、朝鮮総連から「盗作」「歌詞を正確に訳すように」と物言いが付き、東芝は当時、韓国進出に力を入れていて、北朝鮮と揉めたくないということで、「イムジン河」は発売中止となる。そこで、「加藤をスタジオに缶詰にするから」という条件で、サトウハチローに作詞を依頼して書かれたのが、「悲しくてやりきれない」だった。

その後、ソロミュージシャンとしての活動をスタートさせた加藤和彦。新しいものが好きで、「イギリスで、グラムロックというものが流行っている」と知るといち早く真似をして髪を染めてステージに立った。

北山との共作でベッツィ&クリスに「白い色は恋人の色」を提供。ヒットさせる。

北山修との共作で「あの素晴らしいを愛をもう一度」をリリースしてヒット。実は、クリスに歌って貰うつもりで作ったのだが、出来が良いので「俺たちで歌っちゃおうぜ」となったようだ。「あの素晴らしい愛をもう一度」は高校の音楽の教科書に載っており、私が初めて知った加藤和彦の楽曲である。また、若き日の仲間由紀恵も出演していた、村上龍原作、庵野秀明監督の映画「ラブ&ポップ」のエンディング曲として主役の三輪明日美が拙い歌声で歌っており、そのため却って印象に残っている。

代表曲「悲しくてやりきれない」は、実は最初は松本伊代によるカバーをラジオで聴いて知ったのだが、周防正行監督の映画「シコふんじゃった。」で印象的な使われ方をしていた。立教大学をモデルとした教立大学相撲部が合宿を行うシーンで、おおたか静流の歌唱で流れた。

1970年に加藤は同じ京都出身の福井ミカと結婚。サディスティック・ミカ・バンドの結成へと繋がる。ちなみに私が福井ミカの声を初めて聴いたのは、サディスティック・ミカ・バンドの音楽ではなく、YMOのアルバム「増殖」に含まれていた有名ナンバー「NICE AGE」の途中に挿入される「ニュース速報」のナレーション(ポール・マッカートニーが大麻取締法違反で逮捕されたことを仄めかしたもの)においてであった。
ちなみにドラムの高橋幸宏を加藤に紹介したのは、小原礼だそうで、小原は高橋幸宏と一緒に演奏活動をしており、「高橋幸宏といういいドラマーがいる」と加藤に紹介。加藤と高橋はロンドンでたまたますれ違い(そんなことってあるんだろうか?)、加藤が「話には聞いてます」と話しかけたのが最初らしい。

加藤和彦の若い頃の映像は見たことがあったが、高橋幸宏の若い頃の映像は余り見たことがなく、想像以上に若いのでびっくりする。
つのだ☆ひろは、若い頃にずっと加藤和彦にくっついており、サディスティック・ミカ・バンドにも加入するが、すぐに辞めてしまったそうだ。
サディスティック・ミカ・バンドは、日本よりも先にイギリスで評判となり、逆輸入という形で日本でも売れた。高橋幸宏はYMOでも同じような体験をしている。

この頃の加藤和彦は音響にも熱心で、「日本はPAが弱い」というので、イギリスから機材を個人輸入して使っていたそうだ。

イギリスでの好評を受けて、イギリスからクリス・トーマスが招かれ、サディスティック・ミカ・バンドのレコーディングが行われることとなる。クリス・トーマスは、ビートルズのアルバム制作にも関わったプロデューサーであり、レコーディングの初日にはメンバー全員が緊張していたというが、クリスはまず「左と右のスピーカーの音が違う」とスタジオの音響から指摘。スピーカーの調整から始まった。クリス・トーマスへのインタビューも含まれるが、福井ミカについては、「彼女は、何というか、音程が、その……自由だった」と語っている。クリスは気に入るまで作業をやめず、レコーディングが朝まで続くこともたびたびであった。
そんな苦労の末にセカンドアルバム「黒船」を完成させ、イギリスでのツアーも成功させる。日本に帰ってきた加藤であるが、東芝の新田和長に「ミカが帰ってこない」と漏らす。新田は若い頃に加藤とミカと暮らしていた経験を持つ人物である。新田は、「そのうち帰ってくるよ」と慰めるが、3、4日して、「これはミカはもう帰ってこない。クリス・トーマスと一緒になる」ということが明らかになる。そんな折りに加藤が失踪。ほうぼう電話しても見つからなかったが、しばらくして「ズズのところにいる」と加藤から連絡が入る。ズズというのは作詞家の安井かずみのことである。コシノジュンコの親友で、ハイクラスの人物であり、新田は「我々とは釣り合わないのではないか」と思ったというが、加藤と安井は結婚する。安井との結婚後、加藤もまたハイクラス志向になったそうで、明らかに影響を受けている。ちなみに、安井が亡くなった後、加藤は有名ソプラノ歌手の中丸三千繪と結婚しているが、そのことについては今回の映画では触れられていない。サディスティック・ミカ・バンドの再結成や再々結成についても同様である。

加藤和彦は、「ヨーロッパ三部作」という一連のアルバムを作成することになるが、レコーディングスタジオにはこだわったようだ。YMOのメンバーが参加しており、レコーディングの様子などについて坂本龍一が語っているが、細野晴臣は写真に写っているだけで、今回は何も語っていない。坂本は、加藤について「事前に何冊も本を読んで練り上げる人」といったような証言をしている。また加藤は、楽曲が出来上がってレコーディングをする振りをしてアレンジが出来る音楽家を呼び、「いいイントロない?」「いいアレンジ出来ない」と言っていきなり仕事を振ることがあったそうで、竹内まりやの「不思議なピーチパイ」で清水信之がそうした経験をしており、「教授にもやってる」と証言しているが、教授こと坂本龍一もそれを裏付ける発言をしている。
三部作最後のアルバム「ベル・エキセントリック」では、最後にサティの「Je Te Veux(ジュ・トゥ・ヴー)」(「おまえが欲しい」と訳される男版「あなたが欲しい」と訳される女版の二つの歌詞を持つシャンソン。ピアノソロ版も有名)を入れることにし、坂本龍一がピアノを担当することになった。楽譜は当時、坂本と事実婚状態にあった(その後、正式に結婚)矢野顕子が買ってきたそうである。

加藤和彦は料理が得意で、料理を味わう舌も肥えていた。いきつけの店だったという、京都の祇園さゝ木が紹介されている他、岡山の吉田牧場でのエピソードなどが語られる。

音楽面ではその後、映画音楽や歌舞伎の音楽に挑戦するなど、様々なチャレンジを行っているが、この映画では触れられていない。

2009年10月17日、加藤和彦は軽井沢のホテルで遺体となって発見される。首つり自殺であった。鬱病を患っており、鬱病の患者は自殺率が高いことから、精神科医となっていた北山修は加藤に「絶対に自殺はしない」と誓わせていたが、果たされることはなかった。

北山修は、加藤について、「完璧を目指す人。だが完璧を演じる自分と素の自分との間に乖離があり、それが広がっていったのではないか」という意味の分析を行っている。
プロデューサーの朝妻一郎、つのだ☆ひろ、坂崎幸之助なども「自分が何かしてあげられたら」結末は違うものになっていたのではないかとの後悔を述べている。

小原礼は加藤を「ワン・アンド・オンリー」と称し、北山修は「ミュータント。彼のような人に会ったことはない」と語り、高中正義は「加藤さんと出会わなかったら今の自分はない」と断言した。

最後は、「あの素晴らしい愛をもう一度」の2024年版のレコーディング風景。高野寛と高田漣がギターを弾き、きたやまおさむ、坂崎幸之助、坂本美雨、石川紅奈などのボーカルにより録音が行われる。坂本美雨を映像で見るのは久しぶりだが(舞台などでは見ている)、顔が両親に似てきており、体型は矢野顕子そっくりになっていて、遺伝の力の強さが伝わってくる。


映画の中では全く触れられていない、俳優・加藤和彦についての思い出がある。岩井俊二監督の中編映画「四月物語」である。松たか子の初主演作として知られている。今はなくなってしまったが、渋谷のBunkamuraの斜向かいにあったシネ・アミューズという映画館(上のフロアからハイヒールで歩く音が絶えず響いてくる映画館で、映画館側も苦情を入れていたようだが、上のフロアには何があったのだろう?)でロードショー時に観ている。ファーストシーンで観客を笑わせる仕掛けのある映画であるが、加藤和彦はラストシーンに登場する。千葉市の幕張新都心での撮影である。
主人公の楡野卯月(松たか子)は、高校時代、密かに思いを寄せる先輩(山崎先輩。田辺誠一が演じている)がおり、その先輩が東京の武蔵野大学(映画公開時には架空の大学であったが、その後、浄土真宗本願寺派の武蔵野女子大学が共学化して武蔵野大学となり、実態は違うが同じ名前の大学が存在することとなった)に進学したと知り、卯月も武蔵野大学を目指して合格。上京した四月の出来事を描いた作品である。卯月は先輩がアルバイトをしている本屋を探しだし、高校と大学の後輩だと打ち明けた後、スコールに襲われ雨宿りをする。ここで画廊から出てきた加藤と出会う。加藤もスコールだというので画廊の職員から傘を借りたところだったのだが、加藤は「傘ないの? じゃあこれ使いなさい。まだ中に傘あるから」と提案。卯月は傘を受け取るも、「傘買ってすぐ戻ってくるんで。すぐ戻りますから」と言って、先輩がアルバイトをしている本屋に引き返し、傘を借りようとする。しかし本屋にあるのは破れ傘ばかり。だが卯月は破れ傘を「これでいいです。これがいいです」と言って引き返す。加藤は破れ傘で戻ってきた卯月を見て、「それどうしたんだい? 拾ったのかい?」と笑いかけるという役であった。役名は画廊の紳士・加藤で、身分は明かされていなかったが、画家ではおそらくなく、知的な雰囲気であったことから、大学の先生か出版社の人物か何かの役で、エレガントな身のこなしが印象的であった。

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