« 2024年10月 | トップページ | 2024年12月 »

2024年11月の24件の記事

2024年11月30日 (土)

コンサートの記(872) 鈴木雅明指揮 京都市交響楽団第695回定期演奏会

2024年11月16日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都市交響楽団の第695回定期演奏会を聴く。指揮は鈴木一族の長である鈴木雅明。
本来は京響の11月定期は、常任指揮者である沖澤のどかが指揮する予定だったのだが、出産の予定があるということで、かなり早い時点でキャンセルが決まり、代役も大物の鈴木が務めることになった。

今日の演目は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:ジョシュア・ブラウン)、ドヴォルザークの交響曲第6番。


日本古楽界の中心的人物である鈴木雅明。古楽器の指揮や鍵盤楽器演奏に関しては世界的な大家である。神戸市生まれ。1990年にバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)を創設。以降、バッハ作品の演奏や録音で高い評価を得ている。なお、レコーディングは神戸松蔭女子学院大学の講堂で行われ、鈴木も神戸松蔭女子学院大学の客員教授を務めているが、神戸松蔭女子学院大学は共学化が決定している。難関大学ではないが、良家のお嬢さんが通う外国語教育に強い女子大学として知られた神戸松蔭女子学院大学も定員割れが続いており、来年度からの共学化に踏み切った。
モダンオーケストラにも客演しており、ベルリン・ドイツ交響楽団、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、フランクフルト放送交響楽団(hr交響楽団)、ニューヨーク・フィルハーモニック、サンフランシスコ交響楽団といった世界各国の名門オーケストラを指揮している。
東京藝術大学作曲科およびオルガン科出身(二度入ったのだろうか?)。古楽の本場、オランダにあるアムステルダム・スウェーリンク音楽院にも学ぶ。藝大の教員として、同校に古楽科を創設してもいる。現在は東京藝術大学名誉教授。


午後2時頃より、鈴木雅明によるプレトークがある。「今日の指揮者である鈴木雅明です。というわけで、今日の指揮者は沖澤のどかではありません。期待されていた方、残念でした」に始まり、楽曲解説などを行う。
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」については、「おどろおどろしい。お化け屋敷のような」ところが魅力でありと語り、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲については、「モーツァルトの次にベートーヴェンという王道。最も有名なヴァイオリン協奏曲の一つなのですが」ティンパニの奏でる音が全曲のモチーフとなること、またベートーヴェン自身はカデンツァを書き残していないと説明。ただベートーヴェンはヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲してあり、ピアノ向けにはカデンツァを書いているので、それをヴァイオリン用にアレンジして弾くこともあると紹介していた。
ヨーロッパなどでは王道の曲は「飽きた」というので、プログラムに載ることが少なくなったそうだが、その分、ドヴォルザークの交響曲第6番のような知られざる曲が取り上げられることも増えているようだ。ドヴォルザークの初期交響曲は出版されるのが遅れており、私の小学校時代の音楽の教科書にも「新世界」交響曲は第5番と記されていた。後期三大交響曲(その中でも交響曲第7番は知名度は低めだが)以外は演奏される機会は少ないドヴォルザークの交響曲。今日を機会にまた演奏出来るといいなと鈴木は語った。
鈴木が京都コンサートホールを訪れるのは久しぶりだそうで、リハーサルの時に「あれ、こんな音の良いホールだったっけ?」と驚いたそうだが(ステージを擂り鉢状にするなど色々工夫して音響は良くなっている)、パイプオルガンに中央にないのが不思議とも語ってた。一応であるが、演奏台は中央にある。


今日はヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。モーツァルトとベートーヴェンでは中山航介がバロックティンパニを叩く。
コンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。今日はソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積が乗り番。一方で、管楽器の首席奏者はドヴォルザークのみの出演となる人が大半であった。
首席奏者の決まらないトロンボーンは、京響を定年退職した岡本哲が客演首席として入る。
京響は様々なパートの首席が決まらず、募集を行っている状態である。


モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲。全面的に、H.I.P.を用いた演奏である。
鈴木雅明は音を丁寧に積み上げる指揮。音響が立体的であり、建築物を築き上げるような構築力が特徴である。息子の鈴木優人は流れ重視の爽やかな音楽を奏でるタイプなので、親子とはいえ、音楽性は異なる。
総譜を見ながらノンタクトでの指揮。総譜は置くが暗譜していてほとんど目をやらない指揮者も多いが、鈴木は要所を確認しながら指揮していた。


ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
ヴァイオリン独奏のジョシュア・ブラウンは、アメリカ出身の若手。シカゴ音楽院を経て、現在はニューイングランド音楽院で、学士号修士号獲得後のアーティスト・ディプロマを目指す課程に在籍している。今年ブリュッセルで開催されたエリザベート王妃国際コンクール・ヴァイオリン部門で2位に入賞し、聴衆賞も獲得している。
北京で開催された2023年グローバル音楽教育連盟国際ヴァイオリンコンクール第1位、レオポルト・モーツァルト国際ヴァイオリンコンクールでも第1位と聴衆賞を得ている。

ブラウンは美音家で、スケールを拡げすぎず、内省的な部分も感じさせつつ伸びやかなヴァイオリンを奏でる。ベートーヴェンということで情熱的な演奏をするヴァイオリニストもいるが、ブラウンは音そのもので勝負するタイプで、大言壮語しない小粋さを感じさせる。
鈴木雅明の指揮する京響はベートーヴェンの構築力の堅固さを明らかにする伴奏で、ブラウンのソロをしっかり支える。重層的な伴奏である。

ブラウンのアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。生まれたばかりの朝のようなイノセントな演奏であった。


ドヴォルザークの交響曲第6番。演奏会で取り上げられることは少ないが、スラヴ的な味わいのある独特の交響曲である。ドヴォルザークの傑作として「スラヴ舞曲」を挙げる人は多いと思われるが、そのスラヴ舞曲の交響曲版ともいうべきメロディーの美しい交響曲である。ただ構築や構造において交響曲的要素が薄いということが知名度が低い理由になっていると思われる。
旋律において、マーラーとの共通点を見出すことも出来る。第1楽章の終結部などは、マーラーの交響曲第1番「巨人」第2楽章のリズムを想起させる。マーラーはボヘミア生まれのユダヤ人で主にオーストリアで活躍という人で、自身のアイデンティティに悩んでいたが、幼い頃に触れたボヘミアの旋律が原風景になっている可能性は高いと思われる。
鈴木と京響は歌心に満ちた演奏を展開。音色は渋く、密度も濃い。かなり情熱的な演奏でもある。意外だったのはブラスの強烈さ。ティンパニと共にかなりの力強さである。通常ならここまでブラスを強く吹かせると全体のバランスが大きく崩れるところだが、そこは鈴木雅明。うるさくもなければフォルムが揺らぐこともない。結果として堂々たる演奏となった。

鈴木は、オーケストラを3度立たせようとしたが、京響の楽団員は鈴木を讃えて立たず、鈴木は指揮台に上って、一人喝采を浴びていた。

Dsc_6752

| | | コメント (0)

2024年11月27日 (水)

「PARCO文化祭」2024 2024.11.17 森山未來、大根仁、リリー・フランキー、伊藤沙莉、カネコアヤノ、神田伯山

2024年11月17日 東京・渋谷公園坂のPARCO劇場にて

東京へ。渋谷・公園坂のPARCO劇場で、「PARCO文化祭」を観るためである。

午後6時から、渋谷のPARCO劇場で、「PARCO文化祭」を観る。俳優・ダンサーの森山未來と、「TRICK」シリーズや「モテキ」などで知られる映像作家・演出家の大根仁がプレゼンターを務める、3夜に渡る文化祭典の最終日である。

新しくなったPARCO劇場に入るのは初めて。以前のPARCO劇場の上の階にはパルコスペースパート3という小劇場もあり、三谷幸喜率いる東京サンシャインボーイズが公演を行っていたりしたのだが(個人的には柳美里作の「SWEET HOME」という作品を観ている。結構、揉めた公演である)。今のPARCO劇場の上の階には劇場ではなく、アート作成スペースのようなものが設けられている。また、大きな窓があり、渋谷の光景を一望出来るようにもなっている。

PARCO劇場の内装であるが、昔の方が個性があったように思う。今は小綺麗ではあるが、ごく一般的な劇場という感じである。ただ、屋外テラスがあって、外に出られるのはいい。
PARCO劇場の内部は赤色で統一されていたが、それは現在も踏襲されている。

Dsc_0000_burst20241117171413467_cover

Dsc_6880


今日はまず森山未來らによるダンスがあり(3夜共通)、リリー・フランキーと伊藤沙莉をゲストに迎え、森山未來と大根仁との4人によるトーク、そしてシンガーソングライターのカネコアヤノによるソロライブ、神田伯山による講談、ZAZEN BOYSによるライブと盛りだくさんである。神田伯山の講談とZAZEN BOYSによるライブの間に休憩があるのだが、ZAZEN BOYSのライブを聴いていると今日中に京都に戻れなくなってしまうため、休憩時間中にPARCO劇場を後にすることになった。

Dsc_6881


森山未來らによるダンス。出演は森山未來のほかに、皆川まゆむ(女性)、笹本龍史(ささもと・りょうじ)。楽曲アレンジ&演奏:Hirotaka Shirotsubaki。音楽の途中に「PARCO」という言葉が入る。森山未來がまず一人で上手から現れ、服を着替えるところから始まる。照明がステージ端にも当たると、すでに二人のダンサーが控えている。ここからソロと群舞が始まる。ソロは体の細部を動かすダンスが印象的。群舞も力強さがある。振付は森山未來が主となって考えられたと思われるが、洗練されたものである。
森山未來は神戸出身ということもあって関西での公演にも積極的。今後、京都でイベントを行う予定もある。

大根仁が登場して自己紹介を行い、「もう一人のプレゼンター(森山未來)は今、汗だくになっている」と説明する。程なくして森山未來も再登場した。

そのまま、リリー・フランキーと伊藤沙莉を迎えてのトーク。伊藤沙莉であるが、リリー・フランキーに背中を押されながら、明らかに気後れした態度で上手からゆっくり登場。何かと思ったら、「観客とコール&レスポンス」をして欲しいと頼まれてコールのリハーサルまで行ったのだが、どうしても嫌らしい。楽屋ではうなだれていたようである。伊藤沙莉というと、酒飲んで笑っている陽気なイメージがあるが、実際の彼女は気にしいの気い遣い。人見知りはするが一人行動は苦手の寂しがり屋という繊細な面がある。リリー・フランキーが、「私が目の中に入れて可愛がっている沙莉」と紹介し、「(コール&レスポンスが)どうしても嫌だったら、やらなくていいんだよ」と気遣うが、伊藤沙莉は、「やらないと終わらないし」と言って、結局はやることになる。作品ごとに顔が違う、というより同じ映画の中なのに出てくるたびに顔や声が違うという、「どうなってんの?」という演技を行える人であるが、実物は丸顔の可愛らしい人であった。丸顔なのは本人も気にしているようで、SNSに加工ソフトを使って顔を細くし、脚を長くした写真を載せたところ、友人の広瀬アリスが激やせしたのかと心配して、「沙莉、どうした?」と電話をかけてきたという笑い話がある。「めっちゃ、はずかった」らしい。
丸顔好きで知られる唐沢寿明に気に入られているんだから別にいいんじゃないかという気もするが。

なお、リリー・フランキーと伊藤沙莉は、「誰も知らないドラマで共演していて、誰も知らない音楽番組の司会をしていて、誰も知らないラジオ番組をやっている」らしい。伊藤は、「FOD(フジテレビ・オン・デマンド)」と答えて、配信されているのは把握しているようだが、地上波でやっているのかどうかについては知らないようであった。ちなみに、誰も知らないドラマで伊藤沙莉の母親役に、丸顔の山口智子が選ばれたらしいが、顔の形で選んでないか? すみません、「丸顔」でいじりまくってますけど、Sなんで好きなタイプの人には意地悪しちゃうんです。

伊藤沙莉が嫌がるコール&レスポンスであるが、大根がまず見本としてやってみせる。客席の該当する人は、「Yeah!」でレスポンスする。
リリー・フランキーが大根に、なんでコール&レスポンスをするのか聞く。
PARCO文化祭の初日のトークのゲストがPerfumeのあ~ちゃんで、「Perfumeのコール&レスポンスがある」というので、まずそれをやり、2日目のトークのゲストの小池栄子にコール&レスポンスの打診をしたところ、「やります」と即答だったので、3日目は伊藤沙莉にやって貰うことにしたらしい。リリー・フランキーは、「あ~ちゃんは歌手でしょう。小池栄子は割り切ってやる人でしょ」と言っていた。確かに小池栄子は仕事を断りそうなイメージがない。若い頃はそれこそなんでもやっていたし。
で、伊藤は本当はやりたくないコール&レスポンスだが、仕事なのでやることになる。
「男の人!」「女の人!」「それ以外の人!」で、「それ以外の人!」にもふざけている人が大半だと思うが反応はある。リリー・フランキーは、「今、ジェンダーの問題」と言っていた。
その後も続きがあって、「眼鏡の人!」「コンタクトの人!」「裸眼の人!」「老眼の人!」と来て、最後に「『虎に翼』見てた人!」が来る。「虎に翼」を見ていた人は思ったよりも多くはないようだった。
伊藤は、この後残るとまた何かやらされそうで嫌なので、出番が終わった後すぐに行く必要のある仕事を入れたそうである。

ここで椅子が運ばれてくるはずだったのだが、運ばれてきたのは椅子ではなく箱馬を重ねたもの(「箱馬」が何か分からない人は検索して下さい。演劇用語です)。レディーファーストなのか、伊藤沙莉のものだけ、上にクッションが乗せられていた。大根が、「出演者にお金を掛けたので、椅子に使う金がなくなった」と説明していたが、まあ嘘であろう。

建て替えられる前のPARCO劇場についてだが、伊藤沙莉は朗読劇の「ラヴ・レターズ」を観に来たことがあるという。旧PARCO劇場には出る機会がなく、新しくなったPARCO劇場には、「首切り王子と愚かな女」という舞台で出演しているので、背後のスクリーンに「首切り王子と愚かな女」(作・演出:蓬莱竜太)の映像が映し出される、WOWOWで放送されたものと同一の映像だと思われる。面白いのは、男性3人は座ったまま後ろを振り返って映像を見ているのだが、伊藤沙莉だけは、客席とスクリーンの間にいるので気を遣ったということもあるだろうが、椅子代わりの箱馬から下り、床に膝をついてクッションに両手を乗せ、食い入るように映像を見つめていたこと。この人は映像を見るのが本当に好きなのだということが伝わってくる。リリー・フランキーは、長澤まさみの舞台デビュー作である「クレイジー・ハニー」(作・演出:本谷有希子)で旧PARCO劇場の舞台に立っており、「クレイジー・ハニー」の映像も流れた。ちなみにリリー・フランキーは舞台作品に出演したことは2回しかないのに2回とも旧PARCO劇場であったという(私は名古屋の名鉄劇場で「クレイジー・ハニー」を観ている。大阪の森ノ宮ピロティホールでの公演のチケットも取ったのだが都合で行けず、ただ「長澤まさみの舞台デビュー作は観ておかないといけないだろう」ということで名古屋公演のチケットを押さえた。カーテンコールで長澤まさみは嬉し泣きしていた)。

伊藤沙莉は笑い上戸のイメージがあるが、実際に今日もよく笑う。ただPARCOの話になり、千葉PARCOについて、「何売ってんの? 何か売ってんの?」とリリー・フランキーが聞いた時には、「馬鹿にしないで下さい!」と本気で怒り、郷土愛の強い人であることが分かる。実際、千葉そごうの話だとか、JR千葉駅の話などをしてくれる芸能人は伊藤沙莉以外には見たことがない。100万近い人口を抱えているということもあり、千葉市出身の芸能人は意外に多いが、余り地元のことを話したがらない印象がある。木村拓哉も若い時期を過ごした時間が一番長いのは千葉市で、実家も千葉市にあるのに、千葉の話をしているのは聞いたことがない。プロフィールでも出身地は出生地である東京となっている。しばしば神奈川愛を語る中居正広とは対照的である。原田知世も千葉県佐倉市に住んでいた頃は、よく千葉そごうに買い物に来ていたようだが、そんな話も公でしているのは聞いたことがない。郷土愛の強さからいって、これからは千葉市出身の芸能人の代表格は伊藤沙莉ということになっていくのだろう。

なお、残念ながら千葉PARCOは現在は存在しない。千葉市のショッピングというと、JR千葉駅の駅ビル「ペリエ」、その南側にある千葉そごう、JR千葉駅および京成千葉駅から京成千葉中央駅まで京成千葉線とJR外房線の高架下に延びる屋内商店街(C・ONEっていったかな?)、千葉駅前大通りに面した富士見町(旧千葉そごうで今はヨドバシカメラが入っていた塚本大千葉ビルと千葉三越など。千葉三越は撤退済み)、千葉駅からモノレール及びバスで少し行った中央三丁目(バス停はそのまま「中央三丁目」、千葉都市モノレールは葭川公園駅。千葉銀座商店街がある)などが主な場所だが、中央三丁目にあったセントラルプラザと千葉PARCOはいずれも営業を終えており、セントラルプラザがあった場所には高層マンションが建っている。セントラルプラザ(略称は「センプラ」。創業時は奈良屋。火災に遭ったことがあり、奈良屋の社長が亡くなっている)は、CX系連続ドラマで、真田広之と松嶋菜々子が主演した「こんな恋のはなし」に、原島百貨店の外観として登場し(内装は別の場所で撮影)、原島百貨店の屋外に面したディスプレイの装飾を手掛けている松嶋菜々子とそれを見守る真田広之の背後に、東京という設定なのに千葉都市モノレールが映っていた。「こんな恋のはなし」は松嶋菜々子の代表作と呼んでもよい出来で、おそらくこの作品出演時の彼女は他のどの作品よりも美しいと思われるのだが、残念ながらソフト化などはされておらず、今は見られないようである。
千葉PARCO跡地にも高層マンションが建つ予定だが、PARCOの系列である西友が入ることになっている。
なお、大阪では、大丸心斎橋店北館が心斎橋PARCOになり、そごう劇場として誕生した小劇場兼ライブスペースが大丸心斎橋劇場を経てPARCO SPACE14(イチヨン)と名を変えて使用されている。
森山未來が、「神戸にはPARCOはない」と言い、リリー・フランキーも「北九州にある訳がない。暴力団しかいない」と言い、大根が「工藤會」と続けて、伊藤が「そんな具体的な」と笑っていた。

ちなみに、伊藤沙莉は森山未來からのオファーで呼ばれたようで、二人は映画&Netflix配信ドラマ「ボクたちはみんな大人になれなかった」で共演していて、濃厚なあれあれがあるのだが、そういう人と別の仕事をする時はどういう気持ちになるのだろう。なお、撮影は渋谷一帯を中心に行われており、ラストシーンはすぐそこのオルガン坂で撮られたのだが、渋谷名所のスペイン坂などと違い、オルガン坂は余りメジャーな地名ではないので、森山未來も伊藤沙莉もオルガン坂の名を知らなかったようである。

大根が、「毎日リアルタイムで見てました。『虎の翼』」とタイトルを間違え、リリー・フランキーに訂正される。リリー・フランキーは、「今年のドラマといえば、『虎に翼』か(大根が監督し、リリー・フランキーが出演している)『地面師たち』。でも『「地面師たち」見てます』と言ってくる人、反社ばっか」と嘆いていた。

伊藤沙莉が紅白歌合戦の司会者に選ばれたという話。リリー・フランキーは、「歌うたえよ、上手いんだから。『浅草キッド』うたえよ」と具体的な曲名まで挙げてせがんでいるそうだ。伊藤本人は歌うことには乗り気でないらしい。
リリー・フランキーは紅白歌合戦の審査員を務めたことがあるのだが、トイレ休憩時間が1回しかなく、それも短いので、時間内に戻ってこられなかったそうだ。伊藤に、「どうする? おむつする?」と言って、「流石にそれは」という表情をされるが、「衣装どうしようか迷ってるんですよ」とは話していた。
紅白で失敗すると伝説になるから気を付けるようにという話にもなり、「都はるみを美空ひばりと間違えて紹介」、加山雄三が「少年隊の『仮面舞踏会』」と紹介すべきところを「少年隊の『仮面ライダー』」と言ったという話などが挙げられる。加山雄三の「仮面ライダー」はYouTubeなどにも上がっていて、見ることが出来る。


続いてカネコアヤノのソロライブ。昨日、島根でライブを行い、今日、東京に移動してきたそうだ。アコースティックギターを弾きながらソウルフルな歌声と歌詞を披露する。ギターも力強く、同じメロディーを繰り返すのも特徴。ただ、歌い終えて森山未來と大根仁とのトークになると、明るく爽やかで謙虚な人であることが分かる。作品と人物は分けて考えた方がいい典型のようなタイプであるようだ。


講談師(「好男子」と変換された)の神田伯山。「今、最もチケットの取れない講談師」と呼ばれている。森山も、「(PARCO文化祭も)伯山さんだけで一週間持つんじゃないですか?」と語っていた。
私は、上方の講談は何度か聞いているが、江戸の講談を聞くのはおそらく初めてである。同じ講談でも上方と江戸ではスタイルが大きく異なる。
「PARCO劇場では、落語の立川志の輔師匠がよく公演をされていますが、落語と講談は少し違う」という話から入る。
講談は早口なのでよく間違えるという話をする。出てくるのは徳川四天王の一人で、「蜻蛉切」の槍で有名な本多平八郎忠勝(上総大多喜城主を経て伊勢桑名城主)。「本多平八郎忠勝。槍を小脇に、馬を駆け巡らせ」と言うべきところを、つい「本多平八郎忠勝、馬を小脇に、槍を駆け巡らせ」と言ってしまうも講談師本人は気付いていないということがあるそうである。

信州松本城主、松平丹波守が、参勤交代で江戸に向かう途中、碓氷峠で紅葉を眺めていた時のこと。妙なる音色が聞こえてきたので、「あれは何だ?」と聞くと、「江戸で流行りの浄瑠璃というもののようでございます」というので、浄瑠璃を謡い、奏でていた二人が呼ばれる。伯山は、「浄瑠璃は今でいうヒット曲、あいみょんでございます。と言ったところ、あいみょんのファンから『お前にあいみょんの何がわかる』と苦情が来た」という話をしていた。
その、江戸のあいみょんに浄瑠璃の演奏を頼む松平丹波守。二人は迷ったが演奏を行い、松平丹波守からお褒めの言葉を賜る。ただ、二人は松平伊賀守の家臣で、他の大名の前で浄瑠璃を演奏したことがバレると色々とまずいことになるので、内密にと願い出る。ただ松平丹波守は、江戸で松平伊賀守(信州上田城主)に碓氷峠で面白いことがあったと話してしまい、口止めされていたことを思い出して、「尾上と中村というものが猪退治を行った」と嘘をつく。そこで松平伊賀守は、家臣の尾上と中村を見つけ出し、猪退治の話をするよう命じる。なんでそんなことになったのか分からない尾上と中村であったが、即興で猪退治の講談を行い、松平伊賀守にあっぱれと言われたという内容である。
伯山の講談であるが、非常にメロディアスでリズミカル。江戸の人々は今のミュージカルを聴くような感覚で講談を聴いていたのではないかと想像される。江戸の講談を聴くのは今日が初めてなので、他の人もこのようにメロディアスでリズミカルなのかどうかは分からないが、これに比べると上方の講談はかなり落ち着いた感じで、住民の気質が反映されているように思える。

森山未來が登場し、「伯山さんの講談を是非聴きに行って下さい。チケット取れませんけどね」と語った。


ちなみに私は、旧PARCO劇場を訪れたのは数回で余り多くはない。1990年代には、芸術性の高い作品は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで上演されることが多く、三茶によく行っていた。
旧PARCO劇場で良かったのは、何と言っても上川隆也と斎藤晴彦版の初演となった「ウーマン・イン・ブラック」。上川と斎藤版の「ウーマン・イン・ブラック」は、その後、大阪で2回観ているが、ネタを知った上での鑑賞となったので、PARCO劇場での初演が一番印象的である。私がこれまで観た中で最も怖い演劇で、見終わってからも1週間ほど家族に「上川隆也良かったなあ」と言い続けていた記憶がある。

朗読劇「ラヴ・レターズ」は、妻夫木聡のものを観ている。相手の女優の名前は敢えて書かない。検索すればすぐに出てくると思うが。ラストシーンで妻夫木聡は泣いていた。
朗読劇も劇に入れるとした場合、この作品が妻夫木聡の初舞台となる。

Dsc_6887

| | | コメント (0)

2024年11月26日 (火)

コンサートの記(871) カーチュン・ウォン指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団第155回定期演奏会 マーラー 交響曲第6番「悲劇的」

2024年11月9日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の第155回定期演奏会を聴く。指揮は、シンガポール出身の俊英、カーチュン・ウォン。

Dsc_6473

日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者を務めるカーチュン・ウォン。日本各地のオーケストラに客演した後で、日フィルが彼を射止めた。今年の9月からはイギリスのマンチェスターに本拠地を置く名門、ハレ管弦楽団(歴代のシェフに、サー・ジョン・バルビローリ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、ケント・ナガノ、サー・マーク・エルダーら名を連ねる)の首席指揮者及びアーティスティック・アドバイザーにも就任し、更にヘルベルト・ケーゲルやミシェル・プラッソンとのコンビで知られたドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者も務めている。

1986年生まれ。若い頃にシンガポールのユースオーケストラや軍楽隊でトランペット奏者として活躍し、渡独してハンス・アイスラー音楽大学ベルリンのオーケストラ及びオペラ指揮の修士号を獲得。2016年に第5回マーラー指揮者コンクールで優勝し、以後、様々な国のオーケストラと共演を重ねている。私もこれまで、京都市交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団との実演に接している。

今日はマーラーの交響曲第6番「悲劇的」1曲勝負。演奏時間約80分という大作だが、格好いい上に、特殊な楽器の使用が視覚的にも面白さを生むため、比較的プログラムに載る回数は多めである。1990年代にプロゴルファーの丸山茂樹が出演した栄養ドリンクのCMに冒頭が使われていた。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、毎年世界各地で行われるオーディションで選ばれた比較的若めの演奏家が、最大3年間在籍してトレーニングを積み、羽ばたいていくという人材輩出型のオーケストラである。京都市交響楽団首席トランペット奏者のハラルド・ナエス、NHK交響楽団首席オーボエ奏者の吉村結実、大阪交響楽団首席フルート奏者の三原萌など、国内のオーケストラに多くの人材を送り出しているほか、海外のオーケストラで活躍するOBやOGも多い。海外で行われたオーディションに合格して入団する外国人プレーヤーも多く、「日本人しか在籍していないのが問題。多様な音楽が奏でられない」とされる日本のオーケストラに外国人演奏家を送り込む役割も担っている。

ただ、若い人達だけでは心許ないので、毎回、トップにはベテランを配する。今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。おそらく第2ヴァイオリンの首席にゲスト・トップ・プレーヤーとして戸上眞理(京都市立芸術大学准教授、元東京フィルハーモニー交響楽団第2ヴァイオリン首席)。ヴィオラのゲスト・トップ・プレーヤーに、関西フィルハーモニー管弦楽団特別契約首席、神戸市立室内管弦楽団奏者の中嶋悦子。チェロのゲスト・トップ・プレーヤーに京都市立芸術大学准教授で神奈川フィルハーモニー管弦楽団特別首席の上森祥平(うわもり・しょうへい)。コントラバスのゲスト・トップ・プレーヤーに京都市交響楽団首席の黒川冬貴。オーボエのスペシャル・プレーヤーに新日本フォルハーモニー交響楽団首席の神農広樹(しんの・ひろき)。クラリネットのスペシャル・プレーヤーにロバート・ボルショス(名古屋フィルハーモニー交響楽団首席)。ホルンのスペシャル・プレーヤーに五十畑勉(いそはた・つとむ。東京交響楽団奏者)。トランペットのスペシャル・プレーヤーにオッタビアーノ・クリストーフォリ(日本フィルハーモニー交響楽団ソロ・トランペット奏者)。ティンパニのエキストラ・プレーヤーに京都市交響楽団打楽器首席の中山航介らが加わっている。この中にはPAC出身者も多く含まれる。


ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。第4楽章でハンマーで叩かれる台は下手の高いところに置かれているのだが、私は今日は下手寄りの最前列であったため、コントラバス奏者達の陰に隠れて、台やハンマーを見ることは出来なかった。


才気溢れる音楽作りが特徴のカーチュン・ウォン。今日は指揮棒の動きも鋭く、オーケストラから上手く音を掬い上げる。オーケストラの団員もかなり演奏しやすいはずである。

明るく輝かしい音色をカーチュンはPACから引き出すが、そのため却って悲劇的な要素(悲劇の音型ともいえる、「タンタタン、タタンタンタン」など)との対比が鮮やかになる。今日は最前列で聴いていたので、マスとして響きは分かりにくかったのだが、特に弦楽はキレキレであり、マーラーが音に込めた細やかな機微まではっきりと伝わってきた。
なお、「悲劇的」は第2楽章と第3楽章をどうするかという問題がある。マーラー自身も「スケルツォ」と「アンダンテ」のどちらを先に演奏するかの結論は出せなかったが、慣例としては1963年に出版されたスコアの、「スケルツォ」→「アンダンテ」の順番で演奏されていたが、今回は2003年版の「アンダンテ」→「スケルツォ」の順に則って演奏が行われた。
楽章の順番によって印象が異なるわけだが、個人的には「アンダンテ」→「スケルツォ」の方がしっくり来るように思う。あくまで好みの問題である。

PACオーケストラは長年在籍する楽団員が存在しないため、オーケストラとしての個性はほとんどないが、その分、指揮者の個性が反映されやすい。やはりカーチュンの指揮ということで、明晰さや鋭さ、細やかさやしなやかさ、巧みなオーケストラ捌きが目立つ。おそらく、カーチュンはマーラーよりもブルックナーの方が似合う指揮者だと思われるが、マーラーも作曲者の戦きや失意などを的確に表現していたように思う。オーケストラにもっとパワーがあればそうした要素も更にはっきりと出たと思われるのだが、PACも好演だった。
なお、この曲はコントラバスが重要な役割を果たすのだが、今日は古典配置ということでコントラバスは目の前。音の動きをはっきりと追うことが出来た。

ハンマーの回数は2回。ということで希望が残ったような印象であった。

 

今日は、カーテンコールのみ写真撮影可。ただ余り良い写真は撮れなかった。

Dsc_6513

| | | コメント (0)

これまでに観た映画より(354) 河合優実主演「ナミビアの砂漠」

2024年11月18日 京都シネマにて

京都シネマで、「ナミビアの砂漠」を観る。山中瑶子第1回長編監督作品。出演:河合優実、金子大地、寛一郎(かんいちろう)、新谷(しんたに)ゆずみ、中島歩(男性)、唐田えりか、渋谷采郁(しぶたに・あやか)、澁谷麻美(しぶや・あさみ)、倉田萌衣(くらた・もえ)、伊島空(いじま・くう。男性)、堀部圭亮、渡辺真起子ほか。名前が読めない人と男だか女だか分からない人が多い。
カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作品である。

映画界では名を知られていたが、一般にはほぼ無名に近かった河合優実であるが、今年はテレビドラマに立て続けに出演してブレイク。2024年に最も知名度を挙げた女優となった。
また、何の情報も入れずに観たため、いきなり唐田えりかが出てきてビックリする。映画ではすでに出演OKとなっているようだ。ただテレビの地上波ではまだ自粛状態のようである(BSには出ているらしい)。彼女も千葉県出身の女優で、顔は割と好きな方であるが、性格的には余り近づきたくないタイプである。この人は若いのに計算高さが顔に出てしまっている。

先に書いておくが、下系の話や場面が多く出てくるので、その手の映画が苦手な人は避けた方がいい作品である。また嘔吐シーンなども出てくるので、そういった場面が苦手な人も観ない方が良いと思われる。

変わった趣向の映画で、主人公のカナ(河合優実。苗字はミヤマであるが、どのような字なのかは分からない。「三山」などの場合は全国的な苗字、「深山」の場合は千葉県固有の苗字である)が最初から出てくるのだが、このカナが何者なのかがなかなか分からない。学生時代の女友達のイチカ(新谷ゆづみ)と会い、かつての同級生のチアキが自殺したという話を聞かされるのだが、この話はその後のどこにも繋がっておらず、やはりカナの詳しい事情は分からない。次第にカナが複数の男性と付き合い、そのうちの一人と同棲していることが分かってくる。年齢はかなり後の方になって21歳であることが明かされる。タイトルも話が大分進んでから表示される。変わった映画である。カナは同棲相手を乗り換えている。

ストーリーらしいストーリーはなく、ナミビアの砂漠が舞台になることもない。砂漠はカナ達の荒涼とした心象風景のことだと思われる。先行きが見通せない作品でもある。

カナが脱毛エステのスタッフとして働いていることが分かる。この手のスタッフで正社員というのはほぼないのでアルバイトと思われたが、遅く出掛けて早く帰ってくる、また簡単にクビになるため、やはりアルバイトであることが分かる。口調は丁寧だが、心は全くこもっておらず、好きで仕事にしている訳でもないようだ。男にもてるので割と気楽に過ごしているようである。
ただ、このカナ、かなり暴力的な性格で、彼氏としょっちゅう殴り合いの喧嘩になる。出来ることなら近づきたくないタイプである。

ワンカットの長回しが多いのが特徴。リハーサルを何度も重ねて演劇的に撮影していることが察せられる。暴力シーンもワンカメラワンシーンかカメラ2台で撮られることが多いが、かなり危ない動きや場面も見られるので、何度もリハーサルは重ねているものと思われる。ただそのために、段取りが良すぎて吉本新喜劇の喧嘩の場面に見えてしまったりもする。
カナが階段を転がり落ちるシーンがあるのだが、あれは河合優実が実際に落ちているのだろうか。普通ならスタントマンを使うところだが。男優ならスタントマン並みのアクションをこなす人もいるが、河合優実の運動神経については何の情報もないので今のところはよく分からない。

河合優実は、かなり個性的な女優である。何といっても影が濃く、同じタイプの日本人女優を思い浮かべることがほとんど出来ない。歌手兼俳優の人でも中森明菜や山口百恵まで遡らないと見当たらない。薄幸が似合う若手女優はいる。メジャーどころだけでも福原遥や浜辺美波は薄幸な役がピッタリくる。ただ河合優実は薄幸ともまた違う。顔も声も可愛い系なのだが、何か暗いものを引き摺っているような感じである。他にいないタイプ(古川琴音はちょっと似てるかな)なので、今後も次々に仕事は舞い込むものと思われる。

悪い映画ではないと思う。謎を残したままストーリーが展開していき、最後は中国語の「听不懂(聞き取って理解することが出来ない)」=「分からない」を使って暗喩的に終わる。

ただ、まともな人が余り出てこないということもあり、もう一度観たいかというと「もういいかな」とも思う。

Dsc_6891

| | | コメント (0)

2024年11月24日 (日)

これまでに観た映画より(353) 「リトル・ダンサー」デジタルリマスター版

2024年10月31日 烏丸御池のアップリンク京都にて

新風館の地下にあるアップリンク京都で、イギリス映画「リトル・ダンサー」のデジタルリマスター版上映を観る。
「リトル・ダンサー(原題:「Billy Elliot」)」は、2000年に制作された映画で、日本公開は翌2001年。その後、映画に感銘を受けたエルトン・ジョンによってミュージカル化され、原題の「ビリー・エリオット」のタイトルで、日本でも現在三演(再々演)中である。

ミュージカル化された「ビリー・エリオット」は、社会問題により焦点を当てた筋書きとなっており、マーガレット・サッチャー元首相も悪女として語られるのだが、映画版では社会性はそれほど濃厚には感じられない。イングランド北東部の炭鉱の町を舞台とした映画で、サッチャーの新自由主義的政策により、まさに切り捨てられようとしている人々が多数出てくるのだが、それよりもビリー・エリオットのサクセスストーリーが中心となっている。サッチャーも名前が一度、ラジオから流れるだけだ。ただ自分たちには未来がなく、ビリーだけが希望という悲しい現実は示されている。
日本で公開された2001年には、日本経済にもまだ余裕があったのだが、その後、日本は徐々に衰退していき、英国病に苦しんでいたイギリスと似た状況が続いている。そうした上でも「染みる」作品となっている。

監督は、スティーヴン・ダルトリー。これが長編映画デビュー作となる。ヒューマンドラマを描くのが上手い印象だ。ダルドリーは元々は演劇の演出家として活躍してきた人である。
ミュージカル「ビリー・エリオット」の演出も手掛けている。

脚本のリー・ホールは、ミュージカル「ビリー・エリオット」の脚本も手掛けた。賛否両論というより否定的な感想に方が多かった映画版「キャッツ」の脚本を書いてもいる(映画「キャッツ」は視覚効果やカメラワークの不評もあって評価は低めだが、脚本自体は悪いものではない)。

振付のピーター・ダーリングもミュージカル「ビリー・エリオット」での振付を担当している。

出演は、ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ジェイミー・ドラヴェン、ゲイリー・ルイス、ジーン・ヘイウッドほか。老婆役だったジーン・ヘイウッドは2019年9月14日に死去している。
ビリー・エリオット役のジェイミー・ベルも約四半世紀を経て大人の俳優となり、山田太一の小説『異人たちとの夏』を原作としたイギリス映画「異人たち」にも出演している。

「リトル・ダンサー」は、英国アカデミー賞英国作品賞、主演男優賞、助演女優賞を受賞。日本アカデミー賞で最優秀外国作品賞などを受賞している。

斜陽の炭鉱の街に生まれたビリー・エリオットは11歳。ボクシングを習っていたが、バレエ教室が稽古場の関係で、ボクシングジムと同じ場所で練習を行うことになり、ビリーは次第にバレエに魅せられ、またバレエ教室の先生からは素質を認められ、ロンドンのロイヤル・バレエ学校を受けてはどうかと勧められる。だが、ここは保守的な田舎町。父親から、「バレエは男がやるものではない。男ならサッカーやボクシングだ」とボクシングを続けるよう諭される。それでもビリーはロイヤル・バレエ学校のオーディションを受けることにするのだが、受験日と労働闘争の日が重なってしまい……。

前回「リトル・ダンサー」の映画を観た時と今との間に多くの映画・演劇作品に触れてきており、そのためもあってか、初めて観たときほどの感銘を受けなかったのも事実である。ただ「愛すべき映画」という評価は変わらないように思う。デジタルリマスターされた映像も美しく、俳優達の演技も生き生きとしている。

Dsc_5915

| | | コメント (0)

2024年11月23日 (土)

観劇感想精選(477) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再々演(三演) 2024.11.10 SkyシアターMBS

2024年11月10日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

12時30分から、JR大阪駅西口のSkyシアターMBSで、Daiwa House Presents ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。2000年に製作されたイギリス映画をミュージカル化した作品で、日本では今回が三演(再々演)になる。前回(再演)は、2020年の上演で、私は梅田芸術劇場メインホールで観ている。特別に感銘深い作品という訳ではなかったのだが(完成度自体は映画版の「リトル・ダンサー」の方が良い)、とある事情で観ることになった。

今年出来たばかりのSkyシアターMBS。このミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」もオープニングシリーズの一つとして上演される。先にミュージカル「RENT」を観ているが、この時は2階席。今日は1階席だが、1階席だと音響はミュージカルを上演するのに最適である。程よい残響がある。演劇やミュージカルのみならず、今後は斉藤由貴などがコンサートを行う予定もあるようだ。オーケストラピットを設置出来るようになっていて、今日はオケピを使っての上演である。

ロングラン上演ということもあって、全ての役に複数の俳優が割り当てられている。前回は、益岡徹の芝居が見たかったので、益岡徹が出る回を選んだのだが、今回も益岡徹は出演するので、益岡徹出演回を選び、濱田めぐみの歌も聴いてみたかったので、両者が揃う回の土日上演を選び、今日のマチネーに決めた。

今日の出演は、石黒瑛土(いしぐろ・えいと。ビリー・エリオット)、益岡徹(お父さん=ジャッキー・エリオット)、濱田めぐみ(サンドラ・ウィルキンソン先生)、芋洗坂係長(ジョージ・ワトソン)、阿知波悟美(おばあちゃん)、西川大貴(にしかわ・たいき。トニー)、山科諒馬(やましな・りょうま。オールダー・ビリー)、髙橋維束(たかはし・いつか。マイケル)、上原日茉莉(デビー)、バレエダンサーズ・ベッドリントン(組)、髙橋翔大(トールボーイ)、藤元萬瑠(ふじもと・まる。スモールボーイ)ほか。
ベッドリントン(組)=岩本佳子、木村美桜、清水優、住徳瑠香、長尾侑南。


ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」は、映画「リトル・ダンサー(原題「Billy Elliot」)」をエルトン・ジョンの作曲でミュージカル化(「Billy Elliot the Musical」)したもので、2005年にロンドンで初演。日本版は2017年に初演され、2020年に再演、今回が三演(再々演)となる。日本でも初演時には菊田一夫演劇大賞などを受賞した。

ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」は、トニー賞で、ミュージカル作品賞、脚本賞、演出賞、振付賞など多くの賞を受賞している。なお、脚本(リー・ホール)、演出(スティーブン・ダルドリー)、振付(ピーター・ダーリング)は映画版と一緒である(テキスト日本語訳:常田景子、訳詞:高橋亜子、振付補:前田清実&藤山すみれ)。
ただ、社会批判はかなり強くなっており、冒頭の映像で、マーガレット・サッチャー(劇中ではマギー・サッチャーの愛称で呼ばれる。マーガレットの愛称にはもう一つ、メグというチャーミングなものがあるが、そちらで呼ばれることは絶対にない)首相が炭鉱の国有化を反故にした明らかな悪役として告発されているほか、第2幕冒頭のクリスマスイブのパーティーのシーンではジョージがサッチャーの女装をしたり、サッチャーの巨大バルーン人形が登場したりして、サッチャーの寿命が1年縮んだことを祝う場面があるなど、露骨に「反サッチャー色」が出ている。実際にサッチャーが亡くなると労働者階級の多くがパーティーを開いたと言われている。
イングランド北東部の炭鉱の町、ダラムのエヴァリントンが舞台なので、炭鉱で働く人の多くを失業に追いやったサッチャーが目の敵にされるのは当然なのだが、サッチャー的な新自由主義そのものへと嫌悪感が示されているようである。新自由主義は21世紀に入ってから更に大手を振って歩くようになっており、日本も当然ながらその例外ではない。

炭鉱の町が舞台ということで、日本を代表する炭鉱の存在する筑豊地方の方言にセリフが置き換えられている。
子役は多くの応募者の中から厳選されているが(1374人が応募して合格者4人)、今日、ビリーを演じた石黒君も演技の他に、バレエ、ダンス、タンブリング、歌など、高い完成度を見せている(2023年NBA全国バレエコンクール第1位、2023年YBCバレエコンクール第1位などの実績がある)。


反サッチャー色が濃くなっただけで、大筋については特に変更はない。1984年、ボクシングを習っていた11歳のビリー(どうでもいいことですが、私より1歳年上ですね)は、ボクシング教室の後に同じ場所で行われるバレエ教室のウィルキンソン先生(自己紹介の時に「アンナ・パヴロワ」と「瀕死の白鳥」で知られる名バレリーナを名乗る)にバレエダンサーとしての素質を見出され、ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受けてみないかと誘われる。しかし、男臭い田舎の炭鉱町なので、最初はビリーも「バレエをやるのはオカマ」という偏見を持ち、炭鉱夫であるビリーの父親もやはり「バレエはオカマがやるもの」と思い込んでいる。なお、ビリーの母親はすでに亡くなっているが、幻影として登場する(演:大月さゆ)。現在、町はサッチャリズムに反対したストライキ中で、炭鉱の将来の見通しも暗い。
人々は、英語で「仕事と命を守れ」、「この町を地獄に追い落とすな」等の文句の書かれたプラカードを掲げている(英語が苦手な人は意味が分からないと思われる)。

元々筋が良いため、バレエも日々上達し、次第にロイヤル・バレエ・スクールのオーディションを受けることに関心を見せていくビリー。しかし、オーディションの当日、警官達がストライキ中の町を襲撃するという事件があり、ビリーはオーディションを受けることが出来なくなってしまう。

作曲はエルトン・ジョンであるが、ビリーがジュラルミンの楯を持った警官達と対峙するときに、チャイコフスキーの「白鳥の湖」より情景のメロディーが一瞬流れ、ビリーがオールダー・ビリーとデュオを踊る(ワイヤーアクションの場面あり)シーン(映画ではラストシーンだが、ミュージカルでは途中に配される)にも「白鳥の湖」が用いられ、更にその後も一度、「白鳥の湖」は流れる。

ウィルキンソン先生を、ビリーが母のように慕うシーンは映画版にはなかったもの(そもそも映画版とミュージカル版ではウィルキンソン先生の性格が異なる)。またビリーの父親であるジャッキーが故郷への愛着を三拍子の曲で歌ったり、炭鉱の人々がビリーを励ます歌をあたかもプロテストソングのように歌い上げたりするシーンもより政治色を強めている。
ビリーの兄のトニーがいうように、炭鉱の人々はサッチャーによって全員失業させられる。これからどうやって生きていくのか。ビリーのサクセスストーリーよりもそちらの方が気になってしまう。ビリーのために乏しい財布からカンパをした人々だ。この後、炭鉱の閉鎖が決まり、地獄のような時代が待っているはずだが、皆、生き抜いて欲しい。

ビリーは、出る時も客席通路からステージに向かう階段を昇って現れたが、去る時も母親の幻影と決別した後に階段を使って客席通路に降り、客席通路を一番上まで上って退場した。客席から第二のビリーが現れるようにとの制作側のメッセージが感じられた。実際、今日のビリーを演じた石黒瑛土君もミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」の初演と再演を観てオーディション参加を決めたという。

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

Dsc_6520

| | | コメント (0)

2024年11月20日 (水)

これまでに観た映画より(352) 「グレース」

2024年11月6日 京都シネマにて

京都シネマで、ロシア映画「グレース(grace)」を観る。イリヤ・ポヴォロツキー監督作品。ウクライナ侵攻が始まる前の2021年秋に撮影されている。出演:マリア・ルキャノヴァ、ゲラ・チタヴァ、エルダル・サフィカノフ、クセニャ・クテポワほか。ロシア語の他に、バイカル語、ジョージア語が用いられている。なお、固有名詞を持った人物は登場しない、というより登場人物の名前は一人も明かされないと書いた方が分かりやすいだろか。

コーカサスの荒涼とした風景。中国映画でよくあるような冒頭付近のシーンである。赤いバンに乗って旅をする父娘。野外で映画の上映会を行ったり(多分、非合法)、裏ビデオをコピーして売りさばいたりして資金を稼いでいる(日本の商品はモザイクばかりで人気がないそうだ)。母親は他界しているが、それがいつのことなのかは分からない。チラシには娘(マリア・ルキャノヴァ)が16歳であることが書かれているが、映画では年齢は明かされない(娘が中年の女性から「あなた美人ね。何歳?」と聞かれる場面があるが答えない)。二人がいつからそんな生活をしているのかも示されない。娘は「海に行きたい」というがその理由はラストで明かされる。ただそれがどこの海なのかははっきりしない。この海と遠ざかる娘を捉えたラストシーンは印象的である。
映画の上映会で、娘は、「盗んだバイクで走」っている尾崎豊の歌の主人公のような同世代の少年(エルダル・サフィカノフ)と出会う。ちなみにバイクは父親が日本で盗んだものだそうだ。少年は設営を手伝っているが映画には興味を示さない。そしてどうやってなのかは分からないが、娘の後を追ってくる。
ポラロイドカメラでの撮影が趣味の娘。少年の後ろ姿もカメラに収める。

父親(ゲラ・チタヴァ)は観測所で仕事をしている中年女性(クセニャ・クテポワ)の家に泊めてくれるよう頼む。父親と中年女性が親しくなりつつあることに気づいた娘は、バンのフロントガラスにものをぶつけて飛び出してしまう。


ロードムービーである。特に目的地もなく彷徨う父娘は人生に迷っているようにも見える。セリフは少なく、説明もほとんどなく、様々な理由が明かされることもなく、淡々と時間の流れる映画である。ロシアの空は常に曇っており、映像にも明るさはほとんどない。
ドラマティックなこともほとんど起こらないが、流浪する父娘の「二人ぼっち」の孤独感がしんみり伝わってくる映画である。

Dsc_6319

| | | コメント (0)

2024年11月19日 (火)

コンサートの記(870) 第28回 京都の秋 音楽祭「成田達輝&萩原麻未 デュオ・リサイタル」

2024年11月6日 京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホールムラタ」にて

午後7時から、京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホールムラタ」で、第28回 京都の秋 音楽祭「成田達輝&萩原麻未 デュオ・リサイタル」を聴く。
ヴァイオリンの成田達輝(たつき)とピアノの萩原麻未は夫婦である。年齢は萩原麻未の方が6つ上で、彼女の方から共演を申し出ており、その時点で「もう決まりだな」と多くの人が思っていた関係である。

Dsc_6346 

成田達輝は、1992年、青森県生まれ。中学生時代から群馬県前橋市で育ち、桐朋女子高校音楽科(共学)を経て(前橋から高崎まで出て新幹線で通学していたそうだ)、渡仏。パリ国立高等音楽院に学び、2010年のロン=ティボー国際コンクール・ヴァイオリン部門で2位入賞。SACEM著作権協会賞も合わせて受賞。12年のエリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)ヴァイオリン部門でも2位とイザイ賞受賞。13年の仙台国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門でも2位に入っている。現代の作曲家のヴァイオリン作品演奏に積極的で、酒井健治のヴァイオリン協奏曲「G線上で」初演で、芥川作曲賞(現・芥川也寸志作曲賞)受賞に貢献。一柳慧のヴァイオリンと三味線のための協奏曲も世界初演して、2022年度の芸術祭大賞を受賞している。
最晩年の坂本龍一ともコラボレーションを重ねており、東北ユースオーケストラのサポートメンバーとして最後のオーケストラ曲となった「いま時間が傾いて」の演奏にも参加している。

萩原麻未は、1986年、広島県生まれ。広島県人としては綾瀬はるかの1つ下となる。幼時からピアノの才能を発揮。ピアノを始めて数ヶ月でジュニアコンクールで賞を取っている。13歳の時に第27回パルマドーロ国際コンクール・ピアノ部門に史上最年少で優勝。ピアニスト志望の場合、多くが関東や関西の名門音楽高校へ進学するが、萩原麻未は地元の広島音楽高校(真宗王国の広島ということで浄土真宗本願寺派の学校であった。現在は廃校)に進学しており、「地方の音楽高校でもプロになれる」モデルケースとなっている。卒業後は文化庁海外新進芸術家派遣員として渡仏し、パリ国立高等音楽院および同音楽院修士課程を修了。ジャック・ルヴィエに師事。パリ地方音楽院で室内楽も学んでいる。その後、オーストリアに移り、ザルツブルク・モーツァルティウム大学でも学んだ。
2010年に第65回ジュネーヴ国際コンクール・ピアノ部門で8年ぶりの第1位獲得者となり、注目される。一方で、「バスケットボールでドリブルが出来ない」といったような訳の分からない逸話を多く持つ天然キャラとしても知られている。東京藝術大学常勤講師。
以前はそうでもなかったが、顔が丸みを帯びてきたので、今は横山由依はんに少し似ている。


曲目は、前半がストラヴィンスキーのイタリア組曲とデュオ・コンチェルタンテ。後半がジェフスキの「ウィンズボロ・コットン・ミル・ブルース」(ピアノ独奏)、アルヴォ・ペルトの「フラトレス」、ジョン・アダムスの「ロード・ムービーズ」。珍しい曲が並ぶ。

前後半とも成田達輝がマイク片手にプレトークを行う。
「ようこそこのコンサートにいらっしゃいました。2、30人しか入らないんじゃないかと思ってましたが、沢山お越しいただきましてありがとうございます(ただ、日本人は現代音楽アレルギーの人が多いので、成田達輝と萩原麻未のコンサートにしては後ろの方に空席が目立った)。今日のプログラムは私は100%考えまして、妻の萩原麻未の了解を得て」演奏することになったそうである。成田本人も「何これ? 誰これ?」となるプログラムであることは予想していたようだ。
ミニマル・ミュージックが軸になっている。純粋にミニマル・ミュージックの作曲家と言えるのは、ジョン・アダムスだけであるが、ミニマル・ミュージックの要素を持つ作品をチョイスした。ミニマル・ミュージックについては、カンディンスキーなど美術方面の影響を受けて、音楽に取り入れられ、成田は代表的な作曲家としてフィリップ・グラスを挙げていた。

前半はストラヴィンスキーの作品が並ぶが、イタリア組曲はバロックの影響を受けて書かれた曲でいかにもバロックっぽい、デュオ・コンチェルタンテは、アポロとバッカス(ディオニソス)の両方の神を意識した作風と解説。ちなみに、成田は2013年に北九州市の響ホールで幻覚を見たそうで(「怪しい薬とかそういうのじゃないですよ」)、ストラヴィンスキーに会ったという。「凄いでしょ」と成田。凄いのかどうかよく分からない。


ストラヴィンスキーのイタリア組曲とデュオ・コンチェルタンテ。二人とも前半後半で衣装を変えており、前半は萩原は白のドレス。成田は何と形容したらいいのかよく分からない衣装。中東風にも見える。
夫婦で、共にフランスで音楽を学んでいるが、芸風は異なり、成田はカンタービレと技巧の人、萩原は微細に変化する音色を最大の武器とする。なお、萩原はソロの時はかなり思い切った個性派の演奏をすることがあるが、今日はデュオなのでそこまで特別なことはしなかった。

端正な造形美を誇るイタリア組曲に、かなりエモーショナル部分も多いデュオ・コンチェルタンテ。ストラヴィンスキーは「カメレオン作曲家」と呼ばれており、作風の異なる作品をいくつも書いている。そのため、三大バレエだけでストラヴィンスキーを語ろうとする無理が生じる。


後半。成田達輝のプレトーク。ニッカーボッカーズというべきか、ピエロの衣装というべきか、とにかくやはり変わったズボンで登場。解説を行う。「音楽学者の池原舞先生がお書きになった素晴らしいパンフレットを読めば分かります。全て書いてあります。私、出てくる必要ないんですが」
ジェフスキの「ウィンボロ・コットン・ミル・ブルース」は、機械音を模した音楽で同じ音型が繰り返され、やがてブルースが歌われる。ドナルド・トランプが合衆国大統領に再選されたことを速報として告げ、ジェフスキがトランプとは真逆の思想を持ち、プロテスト・ソングなども用いたことを紹介していた。ちなみに「クラスター奏法」といって、腕で鍵盤を叩く奏法が用いられているのだが、萩原麻未は現在、妊娠6ヶ月で(地元の広島で行われる予定だったコルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲のソリストは負担が大きいためキャンセル。すでに代役も決まっている。左手のための協奏曲はバランス的にも悪い気はする)、外国人の聴衆もいるということで、「赤ちゃんがびっくりしちゃったらどうしようと恐れています」と英語で語っていた。

アルヴォ・ペルトは、現代を代表する現役の作曲家。来年90歳になる。エストニアの出身で、首都のタリンにはアルヴォ・ペルト・センターが存在する。成田自身はアルヴォ・ペルト・センターに行ったことはないそうだが、近くに住んでいる友人がいるそうで、色々と情報を得たという。

ジョン・アダムスについては、「聴けば分かります」と端折っていた。


ジェフスキの「ウィンズボロ・コットン・ミル・ブルース」。ピアノ独奏の萩原麻未は、緑地に、腰のところに白い横線の入ったドレスで登場。タブレット譜を使っての演奏であるが、演奏前に「スイッチが」と言って、すぐに弾き出せない何らかのトラブルがあったことを示していた。
実に萩原麻未らしいというべきか、スケールの大きな演奏である。この人に関しては女性ピアニストだからどうこうというのは余り関係ないように思われる。迫力と推進力があり、ブルースも乗っている。


アルヴォ・ペルトの「フラトレス」。疾走するヴァイオリンと祈るようなピアノの対比。ヴァイオリンが突然止まり、ピアノの奏でるコラールがより印象的に響くよう設計されている。


ジョン・アダムスの「ロード・ムービーズ」。3つの曲からなるが、1曲目の「Relaxed Groove」と3曲目の「40% Swing」は速めのテンポで、ミニマル・ミュージックならではのノリがあり、2曲目の「Meditative」はフォークのようなローカリズムが心地よい。ジョン・アダムス作品はコンサートで取り上げられることも増えており、今後も聴く機会は多いと思われる。


アンコールは、日本のミニマル・ミュージックの作曲家の作品をということで、久石譲の作品が演奏される。ただしミニマル・ミュージックではなく、お馴染みのジブリ映画の音楽である。まず、萩原麻未のピアノソロで、「天空の城ラピュタ」より“忘れられたロボット兵”、続いて成田と萩原のデュオで「ハウルの動く城」より“人生のメリーゴーランド”。海外で学んだとはいえ、ここはやはり日本人の感性がものを言う演奏であったように思われる。繊細でノスタルジックで優しい。


なお、カーテンコールのみ写真撮影可となっていたが、余り良い写真は撮れなかった。これまで成田だけがマイクで語っていたが、最後は萩原麻未もマイクを手にお礼を述べて、二人で客席に手を振ってお開きとなった。

Dsc_6355

| | | コメント (0)

2024年11月16日 (土)

ぴあ配信公演 松岡茉優&伊藤沙莉「お互いさまっす」公開イベント「さまっす生祭り うちらが会えばさまっすじゃん」

2024年10月30日

※有料配信であるため、内容を制限して公開しています。

午後6時30分から、松岡茉優と伊藤沙莉が隔週水曜日に配信しているネットラジオ「お互いさまっす」の初の公開イベント「さまっす生祭り うちらが会えばさまっすじゃん」をぴあの配信で視聴。有楽町よみうりホールからの配信である。

松岡と伊藤。ヤクルトスワローズの歴代最高を争う名投手(松岡弘と伊藤智仁)のような苗字である。

伊藤沙莉(いとう・さいり)が1994年生まれの30歳、松岡茉優(まつおか・まゆ)が1995年生まれの29歳であるが、松岡茉優は早生まれであるため、同学年であり、一般的には同い年である。子役時代から親友で一緒に遊園地に遊びに行ったりする仲だそうだ。有名女優二人でも案外気づかれないそうだが、伊藤沙莉が喋るとすぐにバレてしまうらしい。伊藤沙莉の方が先に生まれていて、今のところ年齢も1つ上だが、伊藤沙莉は妹キャラ(三人兄妹の末っ子)、松岡茉優はお姉さんキャラ(二人姉妹の姉)であるため、どちらかというと松岡茉優が引っ張って、伊藤沙莉が突っ込むというケースが多い。

NHKの「あさイチ プレミアムトーク」に伊藤沙莉が出演した際、山田よね役で共演した土居志央梨が、「沙莉語がある」として、「鉛筆を『細んこ』と呼ぶなど、語尾に『こ』をつける」と紹介していたが、今日も伊藤沙莉は「嘘んこ」「難(むず)んこ」などの沙莉語を使っていた。

松岡茉優側の資料はないが、伊藤沙莉には著書であるフォトエッセイの『【さり】ではなく【さいり】です。』(KADOKAWA)があるため、それを参照すると、松岡茉優は、伊藤沙莉が所属していた事務所の子役部門の閉鎖が決まり、わかりやすく言うとクビになったときに慰めてくれた女優の一人としてまず登場する。この頃、伊藤沙莉はオーディションに落ち続けており、俳優人生の瀬戸際だったが、連続ドラマ「GTO」のオーディションに合格。撮影前のワークショップのようなものに参加した際に、飯塚健監督から、「松岡茉優くらいかな、観れる芝居は」と言われて、初めて「悔しい」と思ったそうで、女優魂に火をつけた相手でもある。
ちなみに伊藤沙莉は、「お互いさまっす」でこれまで受けたオーディションを「500回くらい」と語っており、松岡茉優も今日、「200から300くらい」と話していたが、トップクラスの人でも大半は落ちるらしい。一人一役なのだから当然と言えば当然であるが。二人が初めて出会ったのもオーディション会場だったのだが、そのオーディションには二人とも受からなかったそうだ。伊藤沙莉は誰が受かったのか覚えているようだったが、はぐらかしていた。

本編の前に、二人がトランプでスピードの勝負をする。勝った方が本編でゲーミングチェアに、負けた方がパイプ椅子に座ることになる。
伊藤沙莉は、スピードでカードを出す際の言葉が、「せーの!」だったり、「スピード!」と言うことがあったり、じゃんけんをする前に手を組んで絡ませて中を覗くという仕草をして松岡茉優に「何してるの?」と言われるが、これらは私の地元で行われていることと完全に一緒。地元が一緒だから当然ではあるが。じゃんけんの前のポーズは志村けん由来だと思われるので、千葉県オリジナルではないが、志村けんと千葉県の知り合い以外でそういうことをする人を見るのは私は初めてである。地元出身者にはプロ野球選手が何人かいるが、プロ野球選手は野球以外のゲームを人前で見せることはないので、そうしたルーティンを行っているのかどうかは分からない。

伊藤は、語尾に「だべ」を使いながら、「千葉には方言がない」と言って、松岡に「『だべ』は方言じゃないの?」と聞かれるも、「分からない。伊藤家の口癖の可能性ある」と答えていた。「だべ」は千葉県のみならず、南関東で広く使われている方言で、神奈川県出身の中居正広がこの「だべ」を多用することで知られている。千葉県では、「だべ」と同等に「べ」を語尾に使うことが多い(例:「するべ(すっべ)」、「行くべ」、「やるべ(やっべ)」、「酷いべ」など)。松岡茉優も東京出身で方言がなく、二人とも方言が羨ましいようである。名古屋の女性からの「名古屋は方言が可愛くない」という趣旨のメッセージを読み上げた時も、二人とも「名古屋弁可愛い」と言っていた。南関東出身者の共通の不満がこの「方言を喋れない」である。ただ映画、ドラマ、演劇などでは標準語を使うことが多いため、普段から喋っている言葉を縦横無尽に扱えることは大きなアドバンテージともなっている。
伊藤沙莉は、肯定するときに、「勿論」というのが口癖なのだが、これは気に入っているようだ。松岡茉優は「ありがとう」と言うことを心がけているようである。

ちなみに私は京言葉は多少話せるが、話すことは基本なく(書き言葉で使用することはある)、標準語で通している。方言を話すと自分を偽っているような気分になるためだ。

今日何をやるか、内容は一切公開されておらず、伊藤沙莉は、「みんなよく来て下さいましたね」と感心していた。

「くちびるに歌を」という映画(新垣結衣主演)を観て、15年後の自分に手紙を書くことにした女の子からの投稿。15年後は34歳なのだが、「結局、元気ならそれで十分」ということになったようだ。
15年後には二人は45歳である。まだ今の私よりも若い。
伊藤沙莉が、「子ども産んでる」「二桁は産んでる」と子ども役の数のことを言う。伊藤沙莉は、「虎に翼」で佐田寅子として優未という娘を赤ちゃんの頃から50代まで育て上げている。

ちなみに松岡茉優は家族役を演じた俳優とはずっと家族のつもりでいるのだが、俳優によっては当然ながらそうではない人もいて、親しげに話しかけたら他人行儀な態度を取られてショックを受けることもあるらしい。

学校の成績が悪いという中学生の女の子からのお悩み相談。伊藤沙莉は、「茉優に聞いて下さい。私が喋っちゃダメ」と松岡茉優に全て譲ってしまう。松岡茉優は、「中学生までは成績が良くなかった。三者面談で心配されたり」と語るが、「高校入ってから、芸能科のある高校に転校して。お友達が出来なくて勉強がお友達になったの。ずーっと勉強しててオール5になった」と話し、「友達をなくす」と、とんでもないアドバイス(?)を送っていた。
伊藤沙莉は、「記憶力だけは良かったから、試験直前に友達のノート見て」覚えて乗り切っていたらしい。「とにかくテストを乗り切れればいい、赤点を免れられればいい」という考えだったそうだ。

「今日の朝ご飯なんですか?」の質問に伊藤沙莉が答えにくそうにしている。松岡茉優が、「もしかして忘れてんの?」と聞くと、「忘れてないんだけど、いっか。牛丼」と答えて、松岡茉優に「ガッツリだね」と言われる。朝から牛丼を食べていると知られるのが恥ずかしかったらしい。案外、乙女じゃん。松岡茉優は普通に「おにぎり」だそうである。

二人が手を見せる場面があったのだが、手自体は私の方がはるかに美人である。どうでもいいことだけれど。

「笑っていいとも」の「100人に聞きました」のコーナーのパクりで、「1000人に聞きました」(有楽町よみうりホールのキャパが1000人)をやる。伊藤沙莉は、「自宅からここまでスケボーで来た人」と聞くが、流石にそんな人いるわけない。道、ずっとスケボーで走っている人、見たことある?

伊藤沙莉は、JR千葉駅の話もしていた。よく千葉市の実家には帰っているようだ。近いからね。JR千葉駅は駅構内とペリエという愛称の駅ビル(伊藤沙莉が「ペリエ」と口にする場面がある)が長年に渡って工事を行い、大分雰囲気が変わっている。伊藤沙莉は「(千葉駅が)品川駅になった。ハンズが入った(伊藤は「東急ハンズ」と語っていたが、東急はハンズから撤退しているため、現在はハンズのみが名称となっている)」と発言する。多分、品川駅に比べると大分負けているとは思うが(新幹線も停まらないし。というより走ってないし)、以前より開けたのは確かである。伊藤沙莉は「千葉来てる」と地元贔屓発言を行った。

伊藤沙莉は、家族でよく通った映画館の話もすることがあるが、おそらくこれも千葉市内の映画館で、私も通った経験のある場所のはずである。東京や京都なら同じ映画館に通っていたとしても何らおかしくはないが、千葉で同じ映画館に通った経験のある人がテレビや映画に出ているというのは少し不思議な気がする。

ちなみに伊藤沙莉は、たまに自分のことを「沙莉」と名前で呼ぶことがある(呼ぼうとして、「あ、いけない」と引っ込めたこともある)のだが、自分のことを名前で呼ぶ女性は結構な確率で地雷物件である。「良くない」とされていることをするのだから、地雷率が高いのも当たり前なのだが、彼女の場合はどうなのだろう。ひどく成熟した部分と子どもみたいな部分が同居している人だけによく分からない。

「ここでこんな人からVTRが届いています」との伝言があり、二人とも「どうせ(親交の深い)八嶋智人でしょう」と言っていたが、実際に登場したのは再来年の大河ドラマの主役である仲野太賀。客席から歓声が上がる。朝ドラ「虎に翼」では、伊藤沙莉が演じた佐田寅子の夫である優三役で出演し好評を博した。「リラックスする時間作り」を二人に聞いた仲野だが、二人とも仲野太賀が出たのが嬉しくて何を言ったのかは聞き取れておらず、松岡は、「リラックスする方法ってこと? リラックス時間作りってこと?」、伊藤「電話する?」、松岡「今、舞台出てる」
松岡茉優のリラックス方法は、「月に1日でもいいから何の予定もない日を作る」。一方、伊藤沙莉はお酒を飲むとリラックスするので毎日リラックス出来ているようである。

明日はハロウィンということで、してみたい仮装は何かとの質問がある。伊藤沙莉は恥ずかしいので松岡にのみ耳打ちすることにしたが、思いっきり「キキ(「魔女の宅急便」)」と聞こえてしまう。ただ、実際に似合いそうではある。松岡茉優は自分はどんな仮装をしたいのか言い忘れたまま次に進もうとしたので、伊藤に「あなたは? 私にだけ恥かかせて!」と突っ込まれていた。ただ松岡のやりたい仮装は「恐竜がどうのこうの」というもので、伊藤沙莉も客席の多くも何のことか分からないようだった。


客席の座席表が載ったボードにダーツを投げ、当たった席の人にサイン入りのTシャツが当たるというコーナー。松岡茉優は、「沙莉はダーツの経験あるでしょ?」と聞くも、伊藤沙莉は「ダーツバーで飲んでただけ」と答えていた。実際に投げてみても特にダーツが上手いわけではない。当たった人はステージ上がって貰い、3人でチェキも撮れるという。折角当たったのに、その席に誰もいないということもあったが、当たった人(若い女性が多い)は皆、嬉しそうだった。二人ともアラサーでアイドルでもないので、若い男性が圧倒的に多いということではないようである。

撮影タイムが設けられ、配信で見ている人のために、スクリーンショットを撮るポーズも取られる。

20241103-1 

アンコールを待つ間、二人には内緒で、「茉優ちゃん、沙莉ちゃん、お疲れさまっすー!」を会場の人全員で言うというサプライズが用意され、実際に二人も驚いていた。

| | | コメント (0)

2024年11月15日 (金)

観劇感想精選(476) 上川隆也主演「罠」

2024年11月3日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

正午から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、読売新聞創刊150周年記念 よみうり大手町ホール開場10周年記念舞台「罠」を観る。ロベール・トマの人気サスペンス作品で、これまでに何度も上演されている。日本テレビの企画・製作。
作:ロベール・トマ、テキスト日本語訳:平田綾子、演出:深作健太。出演は、上川隆也、藤原紀香、渡辺大(わたなべ・だい)、財木琢磨、藤本隆宏、凰稀(おうき)かなめ、赤名竜乃介(あかな・りゅうのすけ)。
よみうり大手町ホールでの上演を経て、昨日今日が大阪。今後、北九州、高松、岡山、愛知県東海市、富山県氷見市を回る。

開演前にはずっと時計の針音が響いている。音楽に関しては何の説明も記述もないが、ピアソラではないかと思われる。いずれにせよ音楽は要所要所にしか用いられない。

フランスのシャモニーの山荘が舞台。黄昏時、ダニエル(渡辺大)が窓の外を気にしている。実は妻のエリザベートが失踪したのだ。警察には届け出ているのだが、行方は分かっていない。ダニエルとエリザベートは3ヶ月前に結婚したばかりである。ダニエルには余り資産がなく、エリザベートも家族は亡くしているが、親戚に金持ちのおじさんがいるようである。

カンタン警部(上川隆也)がやって来る。上川隆也は、声をいつもより低めにして貫禄を出している。カンタン警部がそういう人物であるようだ。喋り方にどこか警部コロンボを思わせるところがあるが、意識しているのかどうかは分からない。
カンタン警部は、右手に腕時計をしている。また、注射器を手にするシーンがあるのだが(注射を打つことに慣れているそうだが、なぜ警部が注射を打つことに慣れているのかは不明)、左手に注射器を持っていた。利き手以外に注射器を持つことはまずない。ということで、カンタン警部が左利きであることが分かる。左利きというキャラクター設定には特に意味がなさそうだが、帽子を取るときは右手で取って、そのまま右手で手にしている(いざという時のために、利き腕の左手を空けておく)、よく観察していると左手を使う頻度が高いなど、きちんと左利きの演技をしていることが分かり、上川の俳優としての技量の高さが感じられる。ちなみに上川は演出の深作健太から、「カンタンはこの物語における○○家」というアドバイスを貰ったそうだが、おそらく「演出家」だと思われる。

エリザベートが帰ってくる。神父のマクシマン(財木琢磨)と一緒である。しかしダニエルは「彼女はエリザベートではない」と断言する。実際、このエリザベートを名乗る女(藤原紀香)はエリザベートではない。マクシマン神父(フランスはカトリックの国なので神父になる)のところで過ごしていたというエリザベート。ダニエルの質問(「新婚旅行はどこに行った?」など)も全て言い当てるが、ジュネーヴのホテルにいたという記憶だけが異なる。カンタン警部は一応、中立を保つが、彼女が本物のエリザベートではないというダニエルの意見には同調する。

エリザベートは次第に偽物であることを露わにし始めるのだが、意図はダニエルには分からない。

ダニエルとエリザベートの結婚式に参加したという芸術家(といっても街角で絵を描いているような貧乏芸術家だが)のメルルーシュ(藤本隆宏)が呼ばれ、「この女はエリザベートではない」との証言を得るが、メルルーシュはエリザベートを名乗る女に銃撃され、入院することになる。銃撃はダニエルが行ったことにされる。

また、エリザベートを看護したことがあるという看護婦のベルトン(凰稀かなめ)も最初のうちは、「彼女はエリザベートではない」と語るも、エリザベートを名乗る女に何かを渡されて証言を覆す。
やがてメルルーシュが病院で死亡したという報告が届く。メルルーシュを撃ったのはダニエルということになっているので、ダニエルが午後8時に逮捕されることになる。一方でカンタン警部は、「彼女はエリザベートではない」と断言するが、ここからどんでん返しが始まる。

ロベール・トマはフランスの劇作家・脚本家・映画監督。1927年生まれというから、指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットと同い年である。1989年に没。「罠」は1960年にパリのブーフ・パリジャン劇場で初演。他にも「8人の女たち」や「殺人同盟」などの作品があり、「フランスのヒッチコック」と呼ばれている。


現在、舞台俳優として活躍している中堅男性俳優の中で、上川隆也は内野聖陽と並んでツートップを張る実力者だと思われる。少し下に阿部寛、堺雅人(最近は余り舞台をやらないが)、佐々木蔵之介が、そのまた少し下に高橋一生が来ると思われる。
現代を代表する舞台俳優だけに存在感は抜群。非常に理知的な演技を行う俳優であるが、今回はそれほど細かい演技は行わず、堂々とした演技を見せている。やはりカンタン警部は劇中の演出家なのであろう。

「代表作のない女優」などと揶揄されることも多い藤原紀香だが、今回は役にピッタリはまっており、予想以上の好演を見せる。この人は王道のヒロインをやるよりもこうしたミステリアスだったり、「翔んで埼玉 ~琵琶湖より愛を込めて~」の悪徳神戸市長のような癖のある役を演じた方が個性が生きるように思う。実は明るい女性の役は合っていないタイプなのだろう。藤原紀香は、女優デビュー時はとんでもなく下手だったのだが(セリフがまともに言えないレベル)、時を経て、演技力もかなり進歩しているようである。

現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」の赤染衛門役が好評を博している凰稀かなめの宝塚風ではあるが大仰さのない演技も好印象である。

その他の俳優も充実した演技を見せ、休憩時間なし約2時間の作品であるが、飽きることなく魅せてくれた。良い上演だったように思う。


座長である上川隆也の挨拶。「とう、とう(「東京」と言おうとしたようである。周りの俳優に突っ込まれる)大阪公演も無事千秋楽を迎えることが出来ました。これから皆様とキャスト全員でこの場を借りて1時間ほど芝居の感想を語り合いたいと思うのですが」と冗談を言い、「この後……(聞き取れず。おそらく「バラし」であろう)をしなければならないので、出来ません」と語ってからお礼を述べた。そして「これからもツアーは続きますが、大阪の千秋楽なので一丁締めを行いたいと思います。(客席に)一丁締めって分かります? 一回だけの」と言って、会場にいる人全員で一丁締め(一本締め、関東一本締め)を行った。俳優の退場の仕方にも個性があり、藤原紀香はエリザベートを名乗る女の正体にちなんだポーズを見せて、笑いを誘っていた。

Dsc_6098

| | | コメント (0)

2024年11月13日 (水)

おとの三井寺 vol.3 「二十四節気の幻想劇」

2024年11月2日 滋賀県大津市の三井寺勧学院客殿(国宝)にて

大津へ。三井寺こと園城寺の国宝・勧学院客殿で、「おとの三井寺 vol.3 『二十四節気の幻想劇』」を観る。作曲家の藤倉大が、三井寺の委嘱を受けて作曲した「Four Seasons(四季)」~クラリネット、三味線と和歌詠唱のための~を軸に、藤倉作品と藤倉が選曲に関わったと思われる作品の演奏に、串田和美によるテキスト、朗読、演出を加えた幻想劇として構成したものである。

午後2時開演で、開場は午後1時30分から。少し早めに三井寺に着いたので、三井寺の唐院灌頂堂、三重塔、金堂などを訪ねた。
三井寺には、延暦寺僧兵時代の武蔵坊弁慶が奪って延暦寺へと引き摺って歩いたという伝説のある弁慶引き摺り鐘などがある。

Dsc_6014


三井寺勧学院客殿で行われる「おとの三井寺 vol.3 『二十四節気の幻想劇』」。勧学院客殿は造営に豊臣秀頼と毛利輝元が関わっており、桃山時代を代表する客殿として国宝に指定されている。
床の間(で良いのだろうか)の前に台が用意されて、下手側から順に三味線・謡の本條秀慈郎、クラリネットと選曲・構成の吉田誠、テキスト・朗読・演出の串田和美の順に席に座る。
串田の「じゃ、やろうか」の声でスタート。

藤倉大の作曲と、おそらく選曲も手掛けた曲目は、藤倉大の「Autumn」(園城寺委嘱作品)、バルトークの44の二重奏曲から第36番「バグパイプ」、虫の音による即興、ドビュッシーの「月の光」~スティングの「バーボン・ストリートの月」、ジョン・ケージの「ある風景の中で」、ドナトーニのClair(光)から第2曲、ドビュッシーの「雪の上の足跡」、クルタークの「The Pezzi」からアダージョ、藤倉大の「Winter」(園城寺委嘱作品/世界初演)、端唄「淡雪」(編曲:本條秀太郎)、端唄「梅は咲いたか」、藤倉大の「Spring」(園城寺委嘱作品)、端唄「吹けよ川風」、藤倉大のタートル・トーテム~クラリネット独奏のための、端唄「夜の雨」、藤倉大の「Neo」~三味線独奏のための、坂本龍一の「honji Ⅰ」、藤倉大の「Summer」(園城寺委嘱作品/世界初演)、Aphex Twinの「Jynweythek」、ドビュッシーの「月の光」、藤倉大の「Autumn」(園城寺委嘱作品)のリピート。
楽曲構成は「おとの三井寺」の芸術監督である吉田誠が行い、串田和美の手によるテキストは「詩」とされている。

串田和美が読み上げるのは未来からの回想。かつて日本には四季と呼ばれる四つの季節があり(未来にはなくなっているらしい)、それを更に細分化した二十四節気というものも存在したと告げる。「幻想劇」と銘打っているため、テキストもリアリズムからは遠いものであり、ノスタルジアを感じさせつつ、季節が登場人物になったり、冬の寒さが原因で殺人事件が起こったり(カミュの『異邦人』へのオマージュであろうか)と、異世界のような場所での物語が展開される。だが、四季とは最初からあったのか、人間が決めたものではないのかとの問いかけがあり、人間は賢かったのか愚かだったのかの答えとして、「賢いは愚か、愚かは賢い」というシェイクスピアの「マクベス」の魔女達の言葉の変奏が語られたりした。夏休みの宿題の締め切りが、人類が抱えている課題への締め切りになったりもする。その上で、目の前の現実と、頭の中にある出来事、どちらが重要なのかを問いかけたりもした。フィクションやイマジネーション、物語の優位性や有効性の静かな訴えでもある。

今回メインの楽曲となっている藤倉大の「Four Seasons」~クラリネット、三味線と和歌詠唱のための~は、園城寺の委嘱作品であるが、「Autumn」と「Spring」は昨年初演され、「Winter」と「Summer」は、今日が世界初演で、全曲演奏も今日が初演となる。
季節ごとに鍵となる和歌が存在しており、「Autumn」は、大田垣蓮月(尼)の「はらはらと おつる木の葉に 混じり来て 栗のみひとり 土に声あり」、「Spring」も大田垣蓮月の「うかれきし 春のひかりの ながら山 花に霞める 鐘の音かな」、「Winter」は大僧正行尊(三井寺長吏)の、「(詞書:月のあかく侍りける夜、そでのぬれたりけるを)春くれば 袖の氷も 溶けにけり もりくる月の やどるばかりに」、「Summer」が源三位頼政の「(詞書:水上夏月)浮草を 雲とやいとふ 夏の池の 底なる魚も 月をながめば」。平氏に仕えながら、以仁王に平家打倒の令旨を出させた源頼政であったが、作戦は平家方に露見。以仁王は三井寺に逃げ込み、頼政もそれを追って三井寺に入っている。両者は宇治平等院の戦いで敗れているが、当時、平等院は三井寺の末寺であったという。
和歌のように無駄を省いた楽曲であり、音という素材そのもので勝負しているような印象も受ける。
吉田のクラリネットも本條の三味線も上手いだけでなく、勧学院客殿の雰囲気に合った音を生み出していたように思う。


最後に、三井寺第164代長吏・福家俊彦のお話がある。福家長吏は、この作品が四季を題材にしたものであることから、道元禅師の「春は花、夏ほととぎす秋は月冬雪せえて冷し(すずし)かりけり」を引用し、串田の詩の内容を受けて、最近は理性や理屈が力を持っているが、理性はある意味、危険。理性ばかりが大切ではないことを教えてくれるのが芸術、といったようなことを述べていた。

Dsc_6022

Dsc_5970

| | | コメント (0)

中山美穂 「50/50」

作詞:田口俊
作曲:小室哲哉

| | | コメント (0)

2024年11月11日 (月)

これまでに観た映画より(351) 「一粒の麦 荻野吟子の生涯」

2020年2月12日 京都シネマにて

京都シネマで日本映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」を観る。山田火砂子監督作品。出演は、若村麻由美、山本耕史、賀来千香子、佐野史郎、綿引勝彦、渡辺梓、堀内正美、平泉成、山口馬木也、柄本明、小倉一郎、渡辺哲、斉藤とも子、磯村みどり、村木路子ほか。音楽:渋谷毅。

日本初の女医である荻野吟子(若村麻由美が演じている)の伝記映画であり、日本赤十字社、日本医師会、日本女医会など多くの団体から後援を受けている。

幅広い層に訴えるため、極めてわかりやすい展開が行われている。そのためその人物の地位の説明など、後の展開には特に繋がらないセリフも多く、不自然な印象にはなっているが、荻野吟子が辿った激動の生涯はよく伝わってくる。

映画としては俳優の演技にムラがあるのが難点。多分、余りリハーサルを重ねずに撮ったと思われるテイクがいくつもあり、興ざめにはなる。子役を悪くいいたくはないが、他にもっと良い子はいなかったのだろうか。この間観た周防正行監督の「カツベン!」の子役とはかなりの開きがある。

伝記映画において余り重要とは思われなかったのか、荻野吟子の夫である志方之善(山本耕史)とのロマンスはばっさりカットされているため、荻野吟子が単なる変人と結婚したような印象を受けるのも難点である。

荻野吟子の生涯を知る上では貴重であるが、映画の完成度においては推せない作品となっている。
とはいえ、一緒に画面に映るシーンはないが、賀来千香子と佐野史郎が同じ映画に出ているというのは、なんとも懐かしい気分にさせられる。

若村麻由美と松たか子の顔がよく似てきているのが個人的には新たな発見であった。

Dsc_8679_20241111032201

| | | コメント (0)

2024年11月 9日 (土)

これまでに観た映画より(350) 英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2024年6月13日 桂川・洛西口のイオンシネマ京都桂川にて

イオンシネマ京都桂川で、英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。イギリス・ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で上演されたオペラやバレエを上映するシリーズ。今回は、今年の3月26日に上演・収録された「蝶々夫人」の上映である。最新上演の上映といっても良い早さである。今回の上演は、2003年に初演されたモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエによる演出の9度目の再演である。日本人の所作を専門家を呼んできちんと付けた演出で、そのため、誇張されたり、不自然に思えたりする場面は日本人が見てもほとんどない。

京都ではイオンシネマ京都桂川のみでの上映で、今日が上映最終日である。

指揮はケヴィン・ジョン・エドゥセイ。初めて聞く名前だが、黒人の血が入った指揮者で、活き活きとしてしなやかな音楽を作る。
演奏は、ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&ロイヤル・オペラ合唱団。
タイトルロールを歌うのは、アルメニア系リトアニア人のアスミク・グリゴリアン。中国系と思われる歌手が何人か出演しているが、日本人の歌手は残念ながら参加していないようである。エンドクレジットにスタッフの名前も映るのだが、スタッフには日本人がいることが分かる。

入り口で、タイムテーブルの入ったチラシを渡され、それで上映の内容が分かるようになっている。まず解説と指揮者や出演者へのインタビューがあり(18分)、第1幕が55分。14分の途中休憩が入り、その後すぐに第2幕ではなくロイヤル・オペラ・ハウスの照明スタッフの紹介とインタビューが入り(13分)、第2幕と第3幕が続けて上映され、カーテンコールとクレジットが続く(98分)。合計上映時間は3時間18分である。

チケット料金が結構高い(今回はdポイント割引を使った)が、映画館で聴く音響の迫力と美しい映像を考えると、これくらいの値がするのも仕方ないと思える。テレビモニターで聴く音とは比べものにならないほどの臨場感である。

蝶々夫人役のアスミク・グリゴリアンの声がとにかく凄い。声量がある上に美しく感情の乗せ方も上手い。日本人の女性歌手も体格面で白人に大きく劣るということはなくなりつつあり、長崎が舞台のオペラということで、雰囲気からいっても蝶々夫人役には日本人の方が合うのだが、声の力ではどうしても白人女性歌手には及ばないというのが正直なところである。グリゴリアンの声に負けないだけの力を持った日本人女性歌手は現時点では見当たらないだろう。

男前だが、いい加減な奴であるベンジャミン・フランクリン・ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロも様になっており、お堅い常識人だと思われるのだが今ひとつ押しの弱いシャープレスを演じたラウリ・ヴァサールも理想的な演技を見せる。

今回面白いのは、ケート・ピンカートン(ピンカートン夫人)に黒人歌手であるヴェーナ・アカマ=マキアを起用している点。アカマ=マキアはまず影絵で登場し、その後に正体を現す。
自刃しようとした蝶々夫人が、寄ってきた息子を抱くシーンで、その後、蝶々夫人は息子に目隠しをし、小型の星条旗を持たせる。目隠しをされたまま小さな星条旗を振る息子。父親の祖国を讃えているだけのようでありながら、あたかもアメリカの帝国主義を礼賛しているかのようにも見え、それに対する告発が行われているようにも感じられる。そもそも「現地妻」という制度がアメリカの帝国主義の象徴であり、アフリカ諸国や日本もアメリカの帝国主義に組み込まれた国で、アメリカの強権発動が21世紀に入っても世界中で続いているという現状を見ると、問題の根深さが感じられる。
一方で、蝶々夫人の自刃の場面では桜の樹が現れ、花びらが舞う中で蝶々夫人は自らの体を刀で突く。桜の花びらが、元は武士の娘である蝶々夫人の上に舞い落ち、「桜のように潔く散る」のを美徳とする日本的な光景となるが、「ハラキリ」に代表される日本人の「死の美学」が日本人を死へと追いやりやすくしていることを象徴しているようにも感じられる。日本人は何かあるとすぐに死を選びやすく自殺率も高い。蝶々夫人も日本人でなかったら死ぬ必要はなかったのかも知れないと思うと、「死の美学」のある種の罪深さが実感される。

Dsc_3775

| | | コメント (0)

2024年11月 8日 (金)

美術回廊(87) アサヒビール大山崎山荘美術館 「丸沼芸術の森蔵 アンドリュー・ワイエス展―追憶のオルソン・ハウス」

2024年10月14日 京都府乙訓郡大山崎町天王山にあるアサヒビール大山崎山荘美術館にて

京都府乙訓郡大山崎町にある、アサヒグループ大山崎山荘美術館で、「丸沼芸術の森蔵 アンドリュー・ワイエス展―追想のオルソン・ハウス」を観る。私が最も敬愛する画家、アンドリュー・ワイエスの展覧会である。
アメリカ、メイン州のワイエスの別荘の近く住む、クリスティーナ・オルソンとアルヴァロの姉弟に出会ったワイエス。彼らが住む築150年のオルソン家に惹かれ、彼らと30年に渡って交流を持つことになるワイエスが、オルソン・ハウスをテーマに描いた一連の作品の展覧会である。前期と後期に分かれており、現在は前期の展示が行われている。

ワイエスがオルソン・ハウスを題材にした展覧会は、2004年に姫路市立美術館で行われており、その時出展された作品も多い。なお、姫路市立美術館を訪れた日は、私が姫路に行きながら唯一、姫路城を訪れなかった日でもある。

Dsc_4957

オルソン・ハウスは、2階建てだったものを無理に3階建てに直した建物でバランスが悪いが、ワイエスの絵画もわざとバランスを崩すことで不吉な印象を与えている。
ワイエスは、「死の青」を用いる。ワイエスにとって青は死の象徴であり、鏡に映った自身の姿を幽霊と勘違いした姿を描いた「幽霊」の習作にも不吉な青が用いられている。「パイ用のブルーベリー」習作や「青い計量器」でも青がクッキリ浮かび上がってどことなく不吉な印象を与える。

また、アルヴァロがモデルになることを嫌がったという理由もあるのだが、本来、そこにいるべき主がいないままの風景が描かれており、孤独が見る者の心の奥底を凍らせる。

代表作の「クリスティーナの世界」は実物は展示されておらず、習作がいくつか並んでいる。クリスティーナの手の位置や、体の向き、指の形などが異なるのが特徴。ワイエスが最も効果的な構図を模索していたことが分かる。

やがてクリスティーナもアルヴァロも亡くなり、オルソン・ハウスは主を失う。小雪の舞う中、佇むオルソン・ハウス。サウンド・オブ・サイレンスが聞こえる。
一方、オルソン・ハウスの屋根と煙突を描いた絵があるのだが、在りし日のオルソン家の人々の声が煙突や窓から響いてきそうで、ノスタルジアをかき立てられると同時に、もう帰らない日々の哀しみがさざ波のように心の縁を濡らす。

1917年に生まれ、2009年に亡くなったワイエス。アメリカの国民的画家の一人だが、日本に紹介されるのは案外遅く、丁度、私が生まれた1974年に東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で展覧会が行われ、大きな話題となった。私の世代ではすでに美術の教科書に作品が載る画家になっている。
幼い頃から体が弱く、学校には通えず、家庭教師に教わった。「長生きは出来ない」と医者から宣告されていたワイエスは、画家活動を続けながら、常に死と隣り合わせの感覚であったが、結果として長寿を全うしている。

以前、阪急電車で梅田に向かっているときに、たまたま向かい合わせの前の席の人が嵯峨美(嵯峨美術短期大学。現在の嵯峨美術大学短期大学部)とムサビ(武蔵野美術大学)出身の女性で、私も美術ではないが京都造形芸術大学で、絵にはまあまあの知識があったので、絵画の話になり、アンドリュー・ワイエスが好きだというと、「埼玉県の朝霞市にワイエスをコレクションしている美術館がある」と教えてくれたのだが、今回、ワイエス作品を提供しているのが、その朝霞市にある丸沼芸術の森である。

Dsc_4933


アサヒグループ大山崎山荘美術館は、その名の通り、関西の実業家、加賀正太郎の大山崎山荘を安藤忠雄が美術館にリノベーションしたお洒落な施設である。美術作品と同時に、実業家の山荘の洗練度と豪壮さを楽しむことも出来るというお得な美術館。

ベランダから眺めると正面に男山(石清水八幡宮)を望むことが出来る。

Dsc_4940


庭園も芝生が敷き詰められた場所があるなど、優しさの感じられる回遊式庭園となっている。


「天下分け目」の天王山の中腹にあり、そのまま道を登ると天王山の山頂(山崎の戦いの後、豊臣秀吉が山崎城を築き、一時、居城としていた)に出ることが出来るのだが、早いとはいえない時刻であり、登山のための準備をしてきていないので、今日は諦める。山城は危険である。

| | | コメント (0)

2024年11月 7日 (木)

コンサートの記(869) 第28回 京都の秋 音楽祭 大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会 尾高忠明指揮

2024年10月27日 京都コンサートホールにて

午後3時から、京都コンサートホールで、第28回 京都の秋 音楽祭 大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会を聴く。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

毎年恒例の、京都コンサートホールでの大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会。今回は、オール・ベートーヴェン・プログラムで、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲(ピアノ三重奏:葵トリオ)と交響曲第6番「田園」が演奏される。

大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長の福山修氏がホワイエにいらっしゃったのでまず挨拶する。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。フォアシュピーラー(アシスタント・コンサートマスター)に尾張拓登。ドイツ式の現代配置による演奏である。なお、現在は京都市交響楽団のチェロ奏者だが、長年に渡って京都市交響楽団と大阪フィルハーモニー交響楽団の両方に客演を続けていた一樂恒(いちらく・ひさし)が客演チェロ奏者として参加している。彼は大フィルの首席ヴィオラ奏者である一樂もゆると結婚しているので、夫婦での参加となる。


ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲。ピアノトリオによる協奏曲で、比較的珍しい編成による曲である。少なくともベートーヴェンの三重協奏曲と同等かそれ以上に有名な三重協奏曲は存在しない。特殊な編成ということで、ベートーヴェンの協奏曲の中では人気がある方ではないが、実演に接するのはこれが3度目となる。

ヴァイオリンの小川響子、チェロの伊藤裕(いとう・ゆう。男性)、ピアノの秋元孝介という関西出身の3人の音楽家で結成された葵トリオ。第67回ミュンヘンコンクールで優勝し、一躍日本で最も有名なピアノトリオとなっている。紀尾井ホールのレジデンスを務めたほか、サントリーホールと7年間のプロジェクトが進行中。2025年からは札幌にある、ふきのとうホールのレジデントアンサンブルに就任する予定である。これまで第28回青山音楽賞バロックザール賞、第29回日本製鉄音楽賞フレッシュアーティスト賞、第22回ホテルオークラ賞、第34回ミュージック・ペンクラブ賞などを受賞している。
ヴァイオリンの小川響子(SNSからニックネームが「おがきょ」であることが分かる)は、今年の4月から名古屋フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターに就任している。
また、チェロの伊藤裕は、現在、東京都交響楽団の首席チェロ奏者を務めている。

三重協奏曲は、1803年頃から作曲が始められたことが分かっており、1804年もしくは1805年に完成したとされる。1804年の試演を経て、1808年にウィーンで公開初演が行われたが不評であったという。ピアノ三重奏の協奏曲という特殊な楽曲であり、チェロが最も活躍し、難度も高いことから優れたチェリストから依頼があったことが予想され、一方で、ピアノの技巧はそれほど高いものが求められないなど、各楽器の難度に差があることから、特定の奏者を想定して書かれたことが予想される。ただ、具体的に誰のために書かれたのかは分かっていないようだ。

普段からピアノ三重奏団として活躍している葵トリオの演奏だけに、息のピッタリあった演奏が展開される。技巧面は申し分ない。小川響子が旋律を弾き終えると同時に、弓を高々と掲げるのも格好いい。小川のヴァイオリンには艶とキレがあり、伊藤のチェロは温かく、秋元のピアノはスケールが大きい。
ベートーヴェンの楽曲としては決定的な魅力には欠けるとは思うが、ヴァイオリン、チェロ、ピアノとオーケストラのやり取りによって生まれる独自の音響がなかなか楽しい。

尾高指揮する大フィルは、磨き抜かれた音色を最大の特徴とする。ベートーヴェンの演奏としては綺麗すぎる気もするが、アンサンブルの精度も高く、構造もきっちりとして見通しも良く、「好演」という印象を受ける。


演奏終了後、何度かカーテンコールに応えた葵トリオ。最後は譜面を手にして現れ、アンコール演奏があることが分かる。
演奏されるのは、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第6番変ホ長調より第3楽章。瑞々しい音楽であり、叙情味に溢れた演奏であった。ピアノの音は三重協奏曲の時よりも輪郭がクッキリしていて、やはり難度によって響きが変わることが分かる。



ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。尾高と大フィルは、大阪・中之島のフェスティバルホールで「ベートーヴェン交響曲チクルス」を行っており、私も交響曲第3番「英雄」と第4番の回を除く全ての演奏を聴いているが、「田園」のみ大人しく、不出来であっただけに不安もある。
ただ、今回は弦の音色も瑞々しく、歌心にも溢れ、金管はやや安定感に欠けたが、木管も堅調で優れた演奏になる。

ベートーヴェンの交響曲の中でも「田園」は特に名演が少なく、演奏が難しいことが予想される。ベートーヴェンの交響曲の中でも旋律主体であり、描写的(ベートーヴェン本人は否定しているが)であるため、他の交響曲とは性質が異なり、ベートーヴェンを得意としている指揮者でも合わない人が多いのかも知れない。考えてみれば、「田園」の名盤を残していることで知られるブルーノ・ワルターもカール・ベームも「ベートーヴェン交響曲全集」を作成しているが全集の評判自体は必ずしも高くない。一方で、ベートーヴェン指揮者として知られるヴィルヘルム・フルトヴェングラーの「田園」は特異な演奏として知られており、「ベートーヴェン交響曲全集」を何度も作成しているヘルベルト・フォン・カラヤンや朝比奈隆の「田園」もそれほど評価は高くないということで、「田園」だけは毛色が違うようである。
ということで、フェスの「ベートーヴェン交響曲チクルス」では上手くいかなかったのかも知れないが、今回は「田園」1曲ということで、チクルスの時とスタンスを変えることが可能だったのか、しっかりとした構造を保ちつつ、流れも良く、日本のオーケストラによる「田園」の演奏としては上位に入るものとなった。
ピリオドを強調した演奏ではないが、弦のボウイングなどを見ると、H.I.P.なども部分的に取り入れているようである。ティンパニもバロックティンパニは使用していないが、堅めの音で強打するなど、メリハリを生み出していた。
第5楽章も神や自然に対する畏敬の念が大袈裟でなく表れていたように思う。ある意味、日本的な演奏であるとも言える。

演奏終了後、尾高のスピーチ。「お世辞でなく」「大好きなホール」と京都コンサートホールを讃えるが、その後の言葉はマイクを使っていないということもあってほとんど聞き取れず。「パストラルシンフォニーは」という言葉は聞こえたため、「田園」交響曲にまつわる話であるということが分かるだけであった。

Dsc_5795

| | | コメント (0)

2024年11月 5日 (火)

観劇感想精選(475) 広田ゆうみ+二口大学 別役実 「クランボンは笑った」京都公演@UrBANGUILD KYOTO

2024年10月15日 木屋町のUrBANGUILD KYOTOにて観劇

午後7時30分から、木屋町にあるUrBANGUILDで、広田ゆうみ+二口大学の「クランボンは笑った」を観る。別役実が1996年に書いて同年に初演された作品。別役実の100作目の戯曲に当たる(処女作をカウントせず、他の作品が100作目という説もあるようだが)。1996年ということで、携帯電話が普及しており、この作品にも登場する。
広田ゆうみと二口大学は、別役実の二人芝居を継続して上演しており、長野県上田市や愛媛県松山市、三重県津市などでの上演を行っているが、本拠地の京都での上演は劇場ではなくライブハウス兼イベントスペースであるUrBANGUILDを使って行われることも多い。小さな空間なので臨場感はある。演出は広田ゆうみが担当。

「クランボンは笑った」という言葉は教科書にも載っているので知っている人は多いと思われるが、宮沢賢治の「やまなし」という短い文芸作品の中に現れる謎に満ちた言葉(宮沢賢治の表記では「クラムボン」)である。

別役実のこの戯曲にも「クランボンは笑った」「クランボンは死にました」というセリフは出てくるが、宮沢賢治の「やまなし」の内容と直接的な関係はない。

ライブハウス兼イベントスペースでの上演なので、開演前は二口さんがずっといて、客席や知り合いに話すなど、リラックスしたムードである。上演時間は約65分。


上手から、広田ゆうみ扮する、死の間際の女が登場。月夜であるが、日傘(パラソル)を差している。病院で死を待つばかりなのだが、病棟を抜け出してハイキングを行うつもりなのだ。医師からは三月の命と宣告されたが、三月が過ぎても死の予兆はない。夜の病院の庭なので、誰もいないはずなのだが、下手から男(二口大学)が現れる。黒い衣装に白い手袋(この白い手袋は「覆うもの」の意味を持っているようである)。男は女のために椅子と机を用意し、テーブルクロスを掛けるが、テーブルクロスには染みがある。だがあってもいいものらしい。その後、男の正体が葬儀屋であり、病院の庭の一角にある道具小屋に住んでいることが分かる。なぜ葬儀屋が病院の一角に住んでいて庭にいるのかだが、末期の病人ばかりの病院なので、他の業者よりも遺体を早く引き取ろうという魂胆なのかもしれない。とにかく葬儀屋は椅子に腰掛け、女と話を始める。途中でケータイに電話がかかってきて、「クランボンは笑った…?」などと話して切るが(戯曲にはクエスチョンマークがついているので、男が「クランボン」がなんなのか分かっていないことが分かる)ちなみに「上から」かかってきた電話であるが、会社の上司というわけではないようだ。「クランボン」が暗号なのか何なのか意味が分からないのは宮沢賢治の作品と一緒である。男が女に近づいたのは、死が間近との情報を得ているので、亡くなった後の遺体の処理の契約を取り付けて金儲けしようとしているのかも知れない。実際、契約書の話なども出てくる。饗応のポーズをするのもそのためか。ただ詳しいことは明かされない。

女はバスケットの中にホットミルクティーの入ったポットを入れているのだが、カップを二つ持ってきている。まるで誰かとお茶するかのようである。また女はキュウリのサンドウィッチを持参している。これも二人分なので誰かと食べるためだろう。女は「あなた」と呼びかけるのだが、誰に対してなのかは本人も分かっていない。葬儀屋に呼びかける時もあるのだが、そうではない時もある。

汽笛が鳴る。最終列車だ。しかし女はそれよりも後に出発する列車があることを知っている。その列車はハルビンなどの旧満州(この言葉は劇中に出てこないため、知識のない人にはなぜこの都市の名前が出てくるのか分からないはずである)へ向かう。なお、別役実は旧満州出身である。
同じ病室にいた白系ロシア人の老婦人、マリアン・トーノブナの話が出てくる。夫のミハイルと共にハルビンに住み、大連に向かったという、白系ロシア人絡みの土地の名が出てくることから、白系ロシア人らしいことが分かるのだが、この白系ロシア人の老婦人が、死の前に、葬儀屋をロシア正教の神父と勘違いして懺悔を行い、告白を行っているのである。女はその情報を男から聞かされる。女はマリアン・トーノブナから葬儀屋がどこに現れるのかも聞いている。そして、何故、カップを二つ用意したのか、一緒にキュウリと辛子のサンドウィッチを食べるよう仕向けたのかが分かるようになる……。

結局、女と白系ロシア人の女性であるマリアン・トーノブナの秘密は封じられ(流れのようなものがあるそうである)、「クランボン」の正体はよく分からないことになっている(女は「クランボンは死にました」と「上から」の電話に答えているため、彼女は「クランボン」が何か分かっているようである)。ただヒントはいくつかありそうである。その秘密は日本人が知ってはいけないもののようで、女にはその理由が分かっているが、女もまた秘密を秘密のままにすることを図る。

一応、トーノブナ夫人が告白したのは、終戦間近に大連で夫のミハイル・トーノブナ(ロシア人は、同じ苗字でも苗字が男女では変換されて別のものになるので、ミハイル・トーノブナというのは厳密に言うと誤り。おそらくミハイル・トーノブンである)を青酸カリで毒殺したというものである。ただ、毒殺したといっても、ミハイルが自殺を願ったものでその補助とされる。ミハイルは体の状態が思わしくなく、日本には行けないので、死を望んだのだ。そしてマリアン・トーノブナだけが日本へと亡命した。これだけを封じるとしたのなら話は単純なのだが、もう死者であるマリアン・トーノブナ個人の秘密を封じる意味も、また女がそれに加担する必要もない。

背景には、1945年8月8日から始まったソビエトの満州侵攻があるだろう。満州の中でも北の方であるハルビンに住んでいた夫妻は、満州に留まるのは危険とみて南へ。港町の大連に向かい、そこから日本を目指したが、ミハイルの方は日本に行ける状態ではない。大連に留まったとしても赤軍に殺害される可能性が高いので死を選んだのだろうか。自分で青酸カリを飲めないほど弱っていたという訳でもなさそうであるが、何らかの形でトーノブナ夫人が自殺を幇助し、それを墓場まで持って行くつもりだった。うわごとで漏らすのが嫌なので、モルヒネも用いなかった(この辺りは、「麻酔を使うとうわごとを申すといいますので、麻酔なしでの手術」を願う女性を描いた泉鏡花の「外科室」を連想させる)。だがうっかり葬儀屋を神父と勘違いして告白してしまった。死が近いということもあっただろう。しかし、主人公の女とトーノブナ夫人は特に親しいという訳ではなさそうで、何故、女が葬儀屋の口を封じようとするのかは謎である。何か別の理由があるのだろうか。「クランボンは死にました」の意味も複数考えられる。単純な「葬儀屋がクランボン説」はおそらく違う。ちなみにミハイルが自殺、マリアンナから見ると殺害した事件が起こったのは「50年前」とされている。「クランボンは笑った」の初演が1996年なので、50年前は別役が満州から引き上げてきた1946年ということになる。

別役実が生まれたのは満州国の首都・新京(長春)である。そして生後10年近くをその地で過ごしている。そこで何らかの経験をしている可能性も高い。満州国にはソ連から逃げてきた白系ロシア人も多く、例えば、朝比奈隆が指揮していた時代のハルビン交響楽団は楽団員の大半をロシア人が占めるオーケストラであった。音楽の能力がプロ級のロシア人だけでフル編成のオーケストラを結成出来るのだから、一般の白系ロシア人はかなり多くいたことが予想される。白系ロシア人は日本にも逃げてきており、日本プロ野球初の300勝投手となったヴィクトル・スタルヒンが白系ロシア人であったことはよく知られている。白系ロシア人は、ソビエト共産党(赤)の迫害を逃れた人々であり、元々は上流階級の人も多く、朝比奈隆や服部良一の師であるエマヌエル・メッテルもウクライナ系ではあったが白系ロシア人に数えられている。

文化面においては、日本にかなり貢献をした白系ロシア人。単なるミハイル殺害の話だけとしなかった場合、彼らが日本人に語れない秘密とはなんなのか。実は日本軍に参加した白系ロシア人の多くが、ソビエトの満州侵攻と共に、ソビエト赤軍側に寝返っている。「日本人は殺せ」という雰囲気となり、朝比奈隆が日本に帰るのにかなりの苦労をしたことはよく知られているが、別役実が日本に帰ったのも終戦の翌年の1946年。素直には帰れていない。別役はこのことについて何も語ってはいない。ソ連軍が第一の攻撃目標とした首都・新京にいたので、何かはあった可能性は高いと思われるのだが。


終演後に、広田ゆうみさんと少し話す。白系ロシア人のこと、関東人の標準語とそれ以外の地域の人の標準語などについて(少し大袈裟に関東人の話す伸縮する標準語を話した)。

Dsc_5061

| | | コメント (0)

2024年11月 4日 (月)

観劇感想精選(474) NODA・MAP第27回公演「正三角関係」

2024年9月19日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後7時から、JR大阪駅西口のSkyシアターMBSで、NODA・MAP第27回公演「正三角関係」を観る。SkyシアターMBSオープニングシリーズの1つとして上演されるもの。
作・演出・出演:野田秀樹。出演:松本潤、長澤まさみ、永山瑛太、村岡希美、池谷のぶえ、小松和重、竹中直人ほか。松本潤の大河ドラマ「どうする家康」主演以降、初の舞台としても注目されている。
衣装:ひびのこずえ、音楽:原摩利彦。

1945年の長崎市を舞台とした作品で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と、長崎原爆が交錯する。「欲望という名の電車」も長崎に路面電車が走っているということで登場するが、それほど重要ではない。

元花火師の唐松富太郎(からまつ・とみたろう。『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイに相当。松本潤)は、父親の唐松兵頭(ひょうどう。『カラマーゾフの兄弟』のフョードルに相当。竹中直人)殺しの罪で法廷に掛けられる。主舞台は長崎市浦上にある法廷が中心だが、様々な場所に飛ぶ。戦中の法廷ということで、法曹達はNHK連続テレビ小説「虎に翼」(伊藤沙莉主演)のような法服(ピンク色で現実感はないが)を着ている。
検察(盟神探湯検事。竹中直人二役)と、弁護士(不知火弁護士。野田秀樹)が争う。富太郎の弟である唐松威蕃(いわん。『カラマーゾフの兄弟』のイワン=イヴァンに相当。永山瑛太)は物理学者を、同じく唐松在良(ありよし。『カラマーゾフの兄弟』のアレクセイ=アリョーシャに相当。長澤まさみ)は、神父を目指しているが今は教会の料理人である。
富太郎は、兵頭殺害の動機としてグルーシェニカという女性(元々は『カラマーゾフの兄弟』に登場する悪女)の名前を挙げる。しかし、グルーシェニカは女性ではないことが後に分かる(グルーシェニカ自体は登場し、長澤まさみが二役、それも早替わりで演じている)。

『カラマーゾフの兄弟』がベースにあるということで、ロシア人も登場。ロシア領事官ウワサスキー夫人という噂好きの女性(池谷のぶえ)が実物と録音機の両方の役でたびたび登場する。また1945年8月8日のソビエトによる満州侵攻を告げるのもウワサスキー夫人である。

戦時中ということで、長崎市の上空を何度もB29が通過し、空襲警報が発令されるが、長崎が空襲を受けることはない。これには重大な理由があり、原爆の威力を確認したいがために、原爆投下候補地の空襲はなるべく抑えられていたのだ。原爆投下の第一候補地は実は京都市だった。三方を山に囲まれ、原爆の威力が確認しやすい。また今はそうではないが、この頃はかつての首都ということで、東京の会社が本社を京都に移すケースが多く見られ、経済面での打撃も与えられるとの考えからであった。しかし京都に原爆を落とすと、日本からの反発も強くなり、戦後処理においてアメリカが絶対的優位に立てないということから候補から外れた(3発目の原爆が8月18日に京都に落とされる予定だったとする資料もある)。この話は芝居の中にも登場する。残ったのは、広島、小倉、佐世保、長崎、横浜、新潟などである。

NODA・MAPということで、歌舞伎を意識した幕を多用した演出が行われる。長澤まさみが早替わりを行うが、幕が覆っている間に着替えたり、人々が周りを取り囲んでいる間に衣装替えを行ったりしている。どのタイミングで衣装を変えたのかはよく分からないが、歌舞伎並みとはいえないもののかなりの早替わりである。

物理学者となった威蕃は、ある計画を立てた。ロシア(ソ連)と共同で原爆を作り上げるというものである。8月6日に広島にウランを使った原爆が落とされ、先を越されたが、すぐさま報復としてニューヨークのマンハッタンにウランよりも強力なプルトニウムを使った原爆を落とす計画を立てる。しかしこれは8月8日のソビエト参戦もあり、上手くいかなかった。そしてナガサキは1945年8月9日を迎えることになる……。

キャストが実力派揃いであるため、演技を見ているだけで実に楽しい。ストーリー展開としては、野田秀樹の近年の作品としては良い部類には入らないと思われるが、俳優にも恵まれ、何とか野田らしさは保たれたように思う。

NODA・MAP初参加となる松潤。思ったよりも貫禄があり、芝居も安定している。大河の時はかなりの不評を買っていたが、少なくとも悪い印象は受けない。

野心家の威蕃を演じた永山瑛太は、いつもながらの瑛太だが、その分、安心感もある。

長澤まさみは、今は違うが若い頃は、長台詞を言うときに目を細めたり閉じたりするという癖があり、気になっていたが、分かりやすい癖なので誰かが注意してくれたのだろう。あの癖は、いかにも「台詞を思い出しています」といった風なので、本来はそれまでに仕事をした演出家が指摘してあげないといけないはずである。主演女優(それまでに出た舞台は2作とも主演であった)に恥をかかせているようなものなのだから避けないといけなかった。ただそんな長澤まさみも舞台映えのする良い女優になったと思う。女優としては、どちらかというと不器用な人であり、正直、好きなタイプの女優でもないのだが、評価は別である。大河ドラマ「真田丸」では、かなり叩かれていたが、主人公の真田信繁(堺雅人)が入れない場所の視点を担う役として頑張っていたし、何故叩かれるのかよく分からなかった。

竹中直人も存在感はあったが、重要な役割は今回は若手に譲っているようである。
たびたび怪演を行うことで知られるようになった池谷のぶえも、自分の印を確かに刻んでいた。


カーテンコールは4度。3度目には野田秀樹が舞台上に正座して頭を下げたのだが、拍手は鳴り止まず、4回目の登場。ここで松潤が一人早く頭を下げ、隣にいた永山瑛太と長澤まさみから突っ込まれる。
最後は、野田秀樹に加え、松本潤、長澤まさみ、永山瑛太の4人が舞台上に正座してお辞儀。ユーモアを見せていた。

Dsc_4552

| | | コメント (0)

京都コンサートホール フォール ピアノ五重奏曲第1番、第2番よりダイジェスト映像

エリック・ル・サージュ(ピアノ)、弓新&藤江扶紀(ヴァイオリン)、横島礼理(ヴィオラ)、上村文乃(チェロ)
2024年10月5日 京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホールムラタ」にて

| | | コメント (0)

フォーレ 「パヴァーヌ」 ガブリエル・フォーレ(ピアノ)

| | | コメント (0)

「題名のない音楽会」60周年記念企画⑤ 鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパン 2024.8.31

録画してまだ見ていなかった8月31日放送の「題名のない音楽会」を見る。今回は「題名のない音楽会」60周年記念企画⑤として、鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏が紹介される。演目は、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」より第1楽章、第4楽章と、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」より序曲と「結婚行進曲」。メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」は、オーケストラ・ディスカバリーで抜粋版が上演されるはずであった。

バッハ・コレギウム・ジャパンは、その名の通り、バッハの作品を演奏するために結成された古楽器オーケストラ。鈴木雅明が結成し、現在はその息子の鈴木優人が首席指揮者を務めている。
有名奏者としては、チェロの上村文乃(かみむら・あやの)がいるが、ハーバード大学とジュリアード音楽院の両方を首席で出て才媛と騒がれた廣津留すみれもいつの間にかメンバーとして加わっているようである。

鈴木優人は、眼鏡なしのノンタクトで指揮。当然ながら古典配置での演奏である。


ベートーヴェンの交響曲第5番第1楽章では、最初の運命主題のフェルマータはナチュラルだがやや短めに、2度目はよりも流す感じ。古楽器の鄙びた音が独特の立体感を作り出し、推進力にも富む。古楽器は音が小さめなので、モダンオーケストラに比べると迫力を欠きがちだが、収録ということや、構築力を示すことを重視した音楽作りと言うことで不満はない。カットしたバージョンによるもので、哀切なオーボエソロはない。

第4楽章でも生き生きとした音によるドラマが繰り広げられた。モダン楽器と違い、音が必ずしも溶け合わないのも特徴である。音色も明るめで、爽快感のあるラストを迎える。
この曲で初めて使われた楽器として、ピッコロ(野崎真弥)、コントラファゴット(鈴木禎)、トロンボーン(清水真弓ほか)が紹介される。


メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」より序曲と「結婚行進曲」。「結婚行進曲」がラストに登場するのはおそらく意味があり、「運命」と「結婚」の冒頭の主題が実は、「タタタターン」という同じ音型なのである。メンデルスゾーンが意図的に真似たという説もある。

オフィクレイドという楽器が紹介される。今では使われていない楽器である。演奏は橋本晋哉。

序曲における底から湧き上がってくるかのようなエネルギーの横溢した表情。「結婚行進曲」(短縮版)の華やかさ(冒頭で吹かれるトランペットは、勿論、ナチュラルトランペットである)。いずれも聞きものであった。

| | | コメント (0)

2024年11月 3日 (日)

コンサートの記(868) 堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」

2024年9月29日 堺東のフェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、堺東のフェニーチェ堺大ホールで、堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つで、オペラ作品の代名詞的作品の一つである。ボーマルシェの原作戯曲をダ・ポンテがオペラ台本化。その際、タイトルを変更している。原作のタイトルは、「ラ・フォル・ジュルネ(狂乱の日)またはフィガロの結婚」で、有名な音楽祭の元ネタとなっている。
指揮はデリック・イノウエ、演奏は堺市を本拠地とする大阪交響楽団。演出は堺シティオペラの常連である岩田達宗(たつじ)。チェンバロ独奏は碇理早(いかり・りさ)。合唱は堺シティオペラ記念合唱団。

Dsc_4643


午後1時30分頃から、演出家の岩田達宗によるプレトークがある。なお、プレトーク、休憩時間、カーテンコールは写真撮影可となっているのだが、岩田さんは「私なんか撮ってもどうしようもないんで、終わってから沢山撮ってください」と仰っていた。

岩田さんは、字幕を使いながら解説。「オペラなんて西洋のものじゃないの? なんで日本人がやるのと思われるかも知れませんが」「舞台はスペイン。登場するのは全員スペイン人です」「原作はフランス。フランス人がスペインを舞台に書いています」「台本はイタリア語。イタリア人がフランスの作品をイタリア語のオペラ台本にしています」「作曲はオーストリア人」と一口に西洋と言っても様々な国や文化が融合して出来たのがオペラだと語る。ボーマルシェの原作、「フィガロの結婚 Le Mariage de Figaro」が書かれたのは、1784年。直後の1789年に起こるフランス革命に思想的な影響を与えた。一方、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚 La nozze di Figaro」の初演は1786年。やはりフランス革命の前であるが、内容はボーマルシェの原作とは大きく異なり、貴族階級への風刺はありながら、戦争の否定も同時に行っている。ただ、この内容は実は伝わりにくかった。重要なアリアをカットしての上演が常態化しているからである。そのアリアは第4幕第4景でマルチェッリーナが歌うアリア「牡の山羊と雌の山羊は」である。このアリアは女性差別を批判的に歌ったものであり、今回は「争う」の部分が戦争にまで敷衍されている。
岩田さんは若い頃に様々なヨーロッパの歌劇場を回って修行していたのだが、この「牡の山羊と雌の山羊は」はどこに行ってもカットされていたそうで、理由を聞くと決まって「面白くないから」と返ってくるそうだが、女性差別を批判する内容が今でも上演に相応しくないと考えられているようである。ヨーロッパは日本に比べて女性差別は少ないとされているが、こうした細かいところで続いているようである。私が観た複数の欧米の歌劇場での上演映像やヨーロッパの歌劇場の来日引っ越し公演でも全て「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされており、日本での上演も欧米の習慣が反映されていて、「牡の山羊と雌の山羊は」は歌われていない。コロナ禍の時に、岩田さんがZoomを使って行った岩田達宗道場を私は聴講しており、このことを知ったのである。

「フィガロの結婚」の上演台本の日本語対訳付きのものは持っているので(正確に言うと、持っていたのだが、掃除をした際にどこかに行ってしまったので、先日、丸善京都店で買い直した)、休憩時間に岩田さんに、「牡の山羊と雌の山羊は」の部分を示して、「ここはカットされていますかね?」と伺ったのだが、「今日はどこもカットしていません」と即答だった。ということで、「牡の山羊と雌の山羊は」のアリアに初めて接することになった。
岩田さんによると、今回は衣装も見所だそうで、戦後すぐに作られた岸井デザイン工房のものが用いられているのだが、今はこれだけ豪華な衣装を作ることは難しいそうである。
岩田さんには終演後にも挨拶した。

出演は、奥村哲(おくむら・さとる。アルマヴィーヴァ伯爵)、坂口裕子(さかぐち・ゆうこ。アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、西村圭市(フィガロ)、浅田眞理子(スザンナ)、山本千尋(ケルビーノ)、並河寿美(なみかわ・ひさみ。マルチェッリーナ)、片桐直樹(ドン・バルトロ)、中島康博(ドン・バジリオ)、難波孝(ドン・クルツィオ)、藤村江李奈(バルバリーナ)、楠木稔(アントニオ)、中野綾(村の女性Ⅰ)、梁亜星(りょう・あせい・村の女性Ⅱ)。


ドアを一切使わない演出である。


指揮者のデリック・イノウエは、カナダ出身の日系指揮者。これまで京都市交響楽団の定期演奏会や、ロームシアター京都メインホールで行われた小澤征爾音楽塾 ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」などで実演に接している。
序曲では、音が弱すぎるように感じたのだが、こちらの耳が慣れたのか、次第に気にならなくなる。ピリオドはたまに入れているのかも知れないが、基本的には流麗さを優先させた演奏で、意識的に当時の演奏様式を取り入れているということはなさそうである。デリック・イノウエの指揮姿も見える席だったのだが、振りも大きめで躍動感溢れるものであった。

幕が上がっても板付きの人はおらず、フィガロとスザンナが下手袖から登場する。
フィガロが部屋の寸法を測る最初のシーンは有名だが、実は何を使って測っているのかは書かれていないため分からない。今回は脱いだ靴を使って測っていた。スザンナの使う鏡は今回は手鏡である。

スザンナとバルバリーナは、これまで見てきた演出よりもキャピキャピしたキャラクターとなっており、現代人に近い感覚で、そのことも新鮮である。
背後に巨大な椅子のようなものがあり、これが色々なものに見立てられる。
かなり早い段階で、ドン・バジリオが舞台に登場してウロウロしており、偵察を続けているのが分かる。セットには壁もないが、一応、床の灰色のリノリウムの部分が室内、それ以外の黒い部分が廊下という設定となっており、黒い部分を歩いている人は、灰色の部分にいる人からは見えない、逆もまた然りとなっている。

この時代、初夜権なるものが存在していた。領主は結婚した部下の妻と初夜を共に出来るという権限で、今から考えると余りに酷い気がするが、存在していたのは確かである。アルマヴィーヴァ伯爵は、これを廃止したのだが、スザンナを気に入ったため、復活させようとしている。それを阻止するための心理面も含めた攻防戦が展開される。
フィガロとスザンナには伯爵の部屋に近い使用人部屋が与えられたのだが、これは伯爵がすぐにスザンナを襲うことが出来るようにとの計略から練られたものだった。スザンナは気づいていたが、フィガロは、「親友になったから近い部屋をくれたんだ」と単純に考えており、落胆する。

舞台がスペインということで、フィガロのアリアの歌詞に出てきたり、伴奏に使う楽器はギターである。有名な、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」もスザンナのギター伴奏で歌われるという設定である(実際にギターが弾かれることはない)。ちなみに「恋とはどんなものかしら」はカラオケに入っていて、歌うことが出来る。というよりも歌ったことがある。昔話をすると、「笑っていいとも」の初期の頃、1980年代には、テレフォンショッキングでゲストが次のゲストを紹介するときに、「友達の友達はみんな友達だ。世界に拡げよう友達の輪」という歌詞を自由なメロディーで歌うという謎の趣旨があり、女優の紺野美沙子さんが、曲の説明をしてから、「恋とはどんなものかしら」の冒頭のメロディーに乗せて歌うというシーンが見られた。

ケルビーノが伯爵夫人に抱く気持ちは熱烈であり、意味が分かるとかなり生々しい表現が出てくる。リボンやボンネットなどはかなりセクシャルな意味があり、自分で自分の腕を傷つけるのは当時では性的な行為である。

第1幕と第2幕は続けて上演され、第2幕冒頭の名アリア「お授けください、愛を」の前に伯爵夫人とスザンナによる軽いやり取りがある。ちなみに「amor」は「愛の神様」と訳されることが多いが、実際は「愛」そのものに意味が近いようだ。
第3幕と第4幕の間にも、歌舞伎のだんまりのような部分があり、連続して上演される。

伯爵夫人の部屋は、舞台前方の中央部に入り口があるという設定であるが、ドアがないので、そこからしか出入りしないことと、鍵の音などで見えないドアがあることを表現している。

フィガロの代表的なアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(やはりカラオケで歌ったことがある)は、戦地に送られることになったケルビーノに向けて歌われるもので、蝶々とは伊達男の意味である。ここにまず戦争の悲惨さが歌われている。この時代、日本は徳川の治世の下、太平の世が続いていたが、ヨーロッパは戦争や内乱続きである。
映画「アマデウス」には、サリエリが作曲した行進曲をモーツァルトが勝手に改作して「もう飛ぶまいぞこの蝶々」にするというシーンがあるが、これは完全なフィクションで、「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は100%モーツァルトのオリジナル曲である。ただ、このシーンで、モーツァルトが「音が飛ぶ作曲家」であることが示されており、常識を軽く飛び越える天才であることも暗示されていて、その意味では重要であるともいえる。

続いて表現されるのは、伯爵の孤独。伯爵には家族は妻のロジーナしかいない。フィガロは天涯孤独の身であったが、実はマルチェッリーナとドン・バルトロが両親だったことが判明し(フィガロの元の名はラファエロである)、スザンナとも結婚が許されることになったので、一気に家族が出来る。伯爵は地位も身分も金もあるが、結局孤独なままである。

なお、ケルビーノは、結局、戦地に赴かず、伯爵の屋敷内をウロウロしているのだが、庭の場面では、「愛の讃歌」を「あなたの燃える手で」と日本語で歌いながら登場するという設定がなされていた。クルツィオも登場時は日本語で語りかける。

「牡の山羊と雌の山羊は」を入れることで、その後の曲の印象も異なってくる。慈母のような愛に満ちた「牡の山羊と雌の山羊は」の後では、それに続く女性蔑視の主張が幼く見えるのである。おそらくダ・ポンテとモーツァルトはそうした効果も狙っていたのだと思われるのだが、それが故に後世の演出家達は危険性を感じ、「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされるのが慣習になったのかも知れない。

最後の場では、伯爵が武力に訴えようとし、それをフィガロとスザンナのコンビが機転で交わす。武力より知恵である。

伯爵の改心の場面では笑いを取りに来る演出も多いのだが、今回は伯爵は比較的冷静であり、誠実さをより伝える演出となっていて、ラストの「コリアントゥッティ(一緒に行こう)」との対比に繋げているように思われた。

岩田さんは、「No」と「Si」の対比についてよく語っておられたのだが、「Si」には全てを受け入れる度量があるように思われる。
井上ひさしが「紙屋町さくらホテル」において、世界のあらゆる言語のノーは、「N」つまり唇を閉じた拒絶で始まるという見方を示したことがある。「ノー」「ノン」「ナイン」「ニエート」などであるが、「日本語は『いいえ』だと反論される」。だが、拒絶説を示した井川比佐志演じる明治大学の教授は、「標準語は人工言語」として、方言を言って貰う。「んだ」「なんな」などやはり「N」の音で始まっている。なかなか面白い説である。

武力や暴力は、才知と愛情にくるまれて力を失う。特に愛は強調されている。

Dsc_4668

| | | コメント (0)

2024年11月 2日 (土)

これまでに観た映画より(349) 「つぎとまります」

2024年10月28日 京都シネマにて

日本映画「つぎとまります」を観る。客席数が一番多いシネマ1での上映である。京都府亀岡市を舞台としたご当地映画であり、公開直後は京都シネマに人が押し寄せたようで、公式ホームページに「ご入場いただけない場合がある」旨が記されていたが、日が経つにつれて集客数も落ち着いたものになってきたようだ。
京都市立芸術大学美術学部出身の若手クリエイター、片岡れいこ監督作品。これが長編映画3作目である。脚本:青木万央。文化庁「関西元気圏」参加事業となっている。上映時間70分の中編。

主演:秋田汐梨。出演:川合智己、三島ゆり子、渋谷哲平、梶浦梶子、黒川英二、清井咲希、佐渡山順久、三木葉南、森下稜稀、三浦康彦、宮島寶男、黒巌大五郎ほか。

主演の秋田汐梨を始め、京都出身者が多いようで、綺麗な京言葉が話される。

保津川美南(ほづがわ・みなみ。秋田汐梨)は、新卒で本命の京阪京都バス亀岡営業所を受ける。「日本一のバスの運転手」になることが夢で、すでに大型自動車免許も取得している。
亀岡生まれの美南だが、現在は両親の転居先である広島暮らし。だが、バスの運転手になるならどうしても生まれ故郷の亀岡市が良いと、亀岡まで面接を受けに来たのだ。
ちなみに面接の場面で、おそろしくセリフ回しの拙い重役役の人が出演しているが、おそらく俳優ではなく、本物の京阪京都バスの重役さんなのだと思われる。

内定を貰い、研修を受けることになる美南。まずは無人のバスを運転して感覚を養う。指導するのは千代川ヒカル(梶浦梶子)だ。最も古いタイプのバス(三菱ふそうエアロスター。通称「3500」。1998年式)で訓練を行うことになった美南。ある日、見覚えのあるバス運転手を見掛ける。美南が関西に住んでいた頃、大阪府能勢町の引っ越し先から亀岡の小学校までバス通学する必要があり、その時に運転していたバスの運転手、沓掛(川合智己)だった。ちなみに沓掛は以前、京都市立芸術大学のキャンパスがあった場所の地名である。
バスの路線を覚えるのに苦労する美南。自分でも「頭良くないからなあ」と嘆くが、自分の足で歩いたり走ったりして路線を覚えることにする。ただこの行為も先輩からは「変わっている」と言われる。
続いて、実際に客を乗せての研修。先輩運転手で15年目のベテランである湯野花男(黒川英二)が補佐としてつく。バス好きの広田広道(三浦康彦)や元バスガールの鹿谷マチ子(三島ゆり子)が常連客となる。余談であるが、バスガールを主人公にした映画に石井聰亙監督の「ユメノ銀河」という作品がある。夢野久作の「少女地獄」を原作とする映画で、とても良い出来なのだが、主演女優がその後、盛大なやらかしをしてしまったため、観る機会は少ないかも知れない。
難所を湯野の代理ドライバーで交わすシーンなどもあるが、美南も徐々に成長していく。

正直、上手い俳優は出ていないし(セリフはちゃんと言えているが、間などが一流の俳優などと比べると拙い)、ストーリー展開も、人物設定も、台詞回しも、カメラワークもありきたりで、優れた映画とは呼べないかも知れない。ただ京都のローカル映画と考えれば、これはこれで味があり、愛着の持てる作品となっている。少なくとも京都市民である私は好感を持った。おそらく千葉市民のままだったら全く評価しないだろうが。

これが映画初主演となる秋田汐梨は、美人と言うよりもどちらかというと親しみの持てる顔立ちで、ドラマや舞台での主演経験もすでにあり、事務所も強いところで、多くを望まなければ結構良いところまで行けそうな力はあるように感じる。

亀岡の新名所であるサンガスタジアム by KYOCERAなども登場し、京都サンガF.C.のunder15の選手達が客役で出るなど、つい最近生まれた亀岡らしさも盛り込まれており、京都府民にはお薦め出来る映画である。

Dsc_5821


なお、土居志央梨が永瀬正敏とW主演した「二人ノ世界」が「虎に翼」の好評を受けてだと思われるが再上映されることになり、現在、予告編が流れているのだが、上映終了後に、若い女性二人組が、「よね! よね! よねさんや!」と興奮気味に語ってた(土居志央梨の「虎に翼」での役名が山田よね)。

| | | コメント (0)

コンサートの記(867) アジア オーケストラ ウィーク 2024 大友直人指揮京都市交響楽団@京都コンサートホール

2024年10月22日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、アジア オーケストラ ウィーク 2024 京都市交響楽団の演奏会を聴く。今年度のアジア オーケストラ ウィークは、この公演を含む京都での2公演のみのようである。

シンガポール交響楽団と京都市交響楽団の演奏会には通し券があるので、今回はそれを利用。2公演とも同じ席で聴くことになった。

今日の指揮は、京都市交響楽団桂冠指揮者の大友直人。昨年は第九などを振ったが、京都市交響楽団の桂冠指揮者になってからは京響の指揮台に立つことは少なめである。
近年は、沖縄の琉球交響楽団というプロオーケストラ(沖縄交響楽団を名乗らなかったのは、先に沖縄交響楽団という名のアマチュアオーケストラがあったため。沖縄大学と琉球大学の関係に似ている)の音楽監督として指導に力を入れており、この間、定期演奏を行ったばかり。沖縄は地元の民謡や、アメリカ統治時代のロックやジャズなどは盛んだが、クラシック音楽を聴く土壌は築かれることがなく、沖縄県立芸術大学という公立のレベルの高い音楽学部を持つ大学があるにも関わらず、聴いて貰う機会が少ないため、卒業生は沖縄県外に出てしまう傾向があるようだ。
その他には、高崎芸術劇場の音楽監督を務めるほか、東京交響楽団名誉客演指揮者などの称号を持ち、大阪芸術大学教授や東邦音楽大学特任教授、京都市立芸術大学や洗足学園音楽大学の客員教授として後進の育成に励んでいる。


曲目は、伊福部昭の「SF交響ファンタジー」第1番、宮城道雄作曲/池辺晋一郎編曲の管弦楽のための「春の海」(箏独奏:LEO)、今野玲央(こんの・れお)/伊賀拓郎(いが・たくろう)の「松風」(箏独奏:LEO)、ブラームスの交響曲第1番。
今野玲央がLEOの本名である。


今日のコンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。泉原隆志と尾﨑平は降り番で、客演アシスタント・コンサートマスターに西尾恵子。第2ヴァイオリン客演首席には清水泰明、ヴィオラの客演首席には林のぞみ。チェロも今日は首席不在。トロンボーンも首席は空いたままである。いつもながらのドイツ式の現代配置による演奏。ステージのすり鉢の傾斜はまあまあ高めである。


伊福部昭の「SF交響ファンタジー」第1番。「ゴジラ」の主題に始まり、伊福部が手掛けた円谷映画の音楽をコンサート用にまとめたもので、第1番から第3番まであるが、「ゴジラ」のテーマがフィーチャーされた第1番が最も人気である。ちなみに「ゴジラ」のテーマは、伊福部がラヴェルのピアノ協奏曲の第3楽章から取ったという説があり、本当かどうか分からないが、伊福部がラヴェルの大ファンだったことは確かで、ラヴェルが審査員を務める音楽コンクールに自作の「日本狂詩曲」を送ろうとしたが、規定時間より長かったため、第1楽章を取ってしまい、そのままのスタイルが今日まで残っていたりする(結局、ラヴェルは審査員を降りてしまい、伊福部はラヴェルに作品を観て貰えなかったが、第1位を獲得した)。

「SF交響ファンタジー」には、若い頃の広上淳一が日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した音盤が存在するが、理想的と言っても良い出来となっている。
その広上と同い年の大友が指揮する「SF交響ファンタジー」第1番。大友らしい構築のしっかりした音楽で、音も息づいているが、映画のために書かれた音楽が元となった曲としては少しお堅めで、大友の生真面目な性格が出ている。もっと外連のある演奏を行ってもいいはずなのだが。
大友も1990年代には、NHK大河ドラマのオープニングをよく指揮していた。大河のテーマ音楽は、NHKの顔になるということで、当代一流と見なした作曲家にしか作曲を依頼せず、N響が認める指揮者にしか指揮させていない。近年では、正指揮者に任命された下野竜也が毎年のように指揮し、その他に元々正指揮者の尾高忠明(「八重の桜」、「青天を衝け」など)、共演も多い広上淳一(「光る君へ」、「麒麟がくる」、「軍師官兵衛」、「龍馬伝」、「新選組!」など)の3人で回している。なお、音楽監督であった時代のシャルル・デュトワ(「葵・徳川三代」)やウラディーミル・アシュケナージ(「義経」)、首席指揮者時代のパーヴォ・ヤルヴィ(「女城主直虎」)もテーマ音楽の指揮を手掛けている。将来的には現首席指揮者のファビオ・ルイージも指揮する可能性は高い。
ということで、大友さんも90年代は良いところまで行っていたことが窺える。それが21世紀に入る頃から、大友さんのキャリアに陰りが見え始めるのだが、これは理由ははっきりしない。大友さんは、「色々リサーチしたが、世界で最もクラシック音楽の演奏が盛んなのは東京なのだから東京を本拠地にするのがベスト」という考えの持ち主である。ただ海外でのキャリアが数えるほどしかないというのはブランドとして弱かったのだろうか。


LEOをソリストに迎えた2曲。箏奏者のLEOは、「題名のない音楽会」への出演でお馴染みの若手である。1998年生まれ、16歳でくまもと全国邦楽コンクールにて史上最年少での優勝を果たし、注目を浴びる。これまで数々の名指揮者や名オーケストラと共演を重ねている。

宮城道雄/池辺晋一郎の管弦楽のための「春の海」。お正月の音楽としてお馴染みの「春の海」に池辺晋一郎が管弦楽をつけたバージョンで、1980年の編曲。森正指揮のNHK交響楽団の演奏、唯是震一の箏によって初演されている。
尺八の役目はフルートが受け持ち(フルート独奏:上野博昭)。開けた感じの海が広がる印象を受ける。まるで地球の丸く見える丘から眺めた海のようだ。


今野玲央/伊賀拓郎の「松風」。作曲はLEOこと今野玲央が行っており、弦楽オーケストラ伴奏のためのアレンジを伊賀拓郎が務めている。
LEOは繊細な響きでスタート。徐々にうねりを高めていく。「春の海」が太平洋や瀬戸内の海なら、「松風」は日本海風。ひんやりとしてシャープな弦楽の波が現代音楽的である。
実際は、「松風」は海を描いたものではなく、二条城二の丸御殿「松」の障壁画を題材としたものである。二条城の障壁画は、私が京都に来たばかりの頃は、オリジナルであったのだが、傷みが激しいということで、現在はほぼ全てレプリカに置き換えられている。
「松風」は初演時にはダンスのための音楽として、田中泯の舞と共に披露された。


LEOのアンコール演奏は、自作の「DEEP BLUE」。現代音楽の要素にポップな部分を上手く絡めている。


ブラームスの交響曲第1番。コンサートレパートリーの王道中の王道であり、これまで聴いてきたコンサートの中で最も多く耳にしたのがこの曲のはずである。なにしろ、1990年に初めて生で聴いたコンサート、千葉県東総文化会館での石丸寛指揮ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)のメインがこの曲だった。
現在、来日してN響を指揮しているヘルベルト・ブロムシュテットの指揮でも2回聴いている(オーケストラは、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とNHK交響楽団)。パーヴォ・ヤルヴィ指揮でも2回聴いているはずである(いずれもドイツ・カンマ-フィルハーモニー・ブレーメン)。

大友さんは、21世紀に入った頃から芸風を変え始め、力で押し切るような演奏が増えた。どういう心境の変化があったのか分からないが、小澤征爾との関係が影響を与えているように思われる(小澤と大友は師弟関係であるが明らかに不仲である)。

ただ今日の演奏は、力技が影を潜め、流れ重視の音楽になっていた。
今日は全編ノンタクトで指揮した大友。この曲では譜面台を置かず、全て暗譜での指揮である。
冒頭はどちらかというと音の美しさ重視。悲哀がそこはかとなく漂うが、悲劇性をことさら強調することはない。ティンパニも強打ではあるが柔らかめの音だ。その後も押しではなく一歩引いた感じの音楽作り。大友さんもスタイルを変えてきたようだ。そこから熱くなっていくのだが、客観性は失わない。

第2楽章は、コンサートマスターの石田泰尚が、優美なソロを奏でる。甘く、青春のような若々しさが宿る。

第3楽章もオーケストラ捌きの巧みさが目立ち、以前のような力みは感じられない。第4楽章もバランス重視で、情熱や歓喜の表現は勿論あるが、どちらかというと作為のない表現である。ただ大友は楽団員を乗せるのは上手いようで、コンサートマスターの石田を始めヴァイオリン奏者達が前のめりになって弾くなど、大友の表現に積極的に貢献しているように見えた。

大仰でない若々しいブラームス。この曲を完成させた43歳時のブラームスの心境が伝わってくるような独特の味わいがあった。


大友の著書『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)の中に、小澤征爾は二度登場する。うち一度は電話である。いずれも大友にとっては苦い場面となっている。師弟関係であり、著書に登場しながら、巻末の謝辞を述べる部分に小澤征爾の名はない。
力で押すのは晩年の小澤の音楽スタイルでもある。そこからようやく離れる気になったのであろうか。

Dsc_5286

| | | コメント (0)

« 2024年10月 | トップページ | 2024年12月 »