« 2024年11月 | トップページ | 2025年1月 »

2024年12月の23件の記事

2024年12月31日 (火)

NHK連続テレビ小説「虎に翼」全話概要、解釈及び解説

第1回
明治大学法学部OGで、日本初の女性弁護士、日本初の女性裁判官、日本初の家庭裁判所女性所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ。1914-1984)をモデルにしたNHK連続テレビ小説「虎に翼」。ちなみに三淵さんは誕生日も私と1日違いです。ヒロインの猪爪寅子(いのつめ・ともこ)を演じるのは、私と同郷の伊藤沙莉(いとう・さいり)。今回はヒロインオーディションは行われず、制作側から直々にオファーを受けてのヒロイン抜擢です。三淵さんが、五黄の寅年の生まれなので、寅子という名がつけられました。ちなみに私も寅年。三淵さんとは丁度60年違います。

三淵さんは上流階級の出身。父親は東京帝国大学卒で、当時の日本領・台湾の基幹銀行だった台湾銀行に勤務。シンガポールに赴任中に嘉子が生まれたのですが、その名はシンガポールの漢字表記、新嘉坡の中の1字から取られています。父親はニューヨーク支店にも勤めたことのあるエリートです。余りにエリート過ぎて、庶民とは感覚が異なり、視聴者の支持を得にくいので、今回の朝ドラは子役を使わず、寅子が高等女学生だった頃から始まります。ちなみに寅子が通っている高等女学校は、お茶の水女子大学附属高等学校の前身で、日本で最も頭の良い女子が集う学校。寅子はそこで2番の成績(学科では同等だったが、態度面で減点)という才女です。
高等女学校に行くのは、良家に嫁ぐためのブランド作りという時代。しかし、寅子は父親の方針により自立した女性を目指します。

「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき」(東歌)で知られる多摩川。笹舟が流れます。
ファーストシーン。新聞で「日本国憲法」を読む寅子。
尾野真千子さんによる日本国憲法第14条の朗読。
弁護士資格を持ちながら今は無職の寅子は、法務局人事課を訪れます。そこにいたのは旧知の桂場等一郎(松山ケンイチ)。寅子は、自分を裁判官に任命して欲しいと桂場に頼みます。これは戦後のシーン。

時系列的なファーストシーンは寅子のお見合いの場面になります。やる気が全くない寅子。
実は見合いが嫌で前日に家出をしようとしていました。大阪にある梅丸少女歌劇団に入ろうとしていたのです。梅丸少女歌劇団には、前作の朝ドラのヒロイン、福来スズ子(趣里)が在籍しています。階段から転倒し、家出がバレた寅子。それでも父親の直言(岡部たかし)は寅子の歌と踊りのセンスを褒めるのですが、母親のはるさん(石田ゆり子)は呆れ顔。
頭の回転の速さを表すために寅子はかなりの早口です。

女学校の親友の花江ちゃん(森田望智)。女学生時代に結婚することが夢で、実現しつつあります。

明治大学枠で出演の藤森慎吾とお見合いする寅子。かなりのアメリカかぶれを演じる藤森であるが、寅子は明らかにこれまでと顔が違う。知的な印象に惹かれ、社会面に明るい寅子は蕩々と持論を展開して、「女のくせに」という常套句を投げつけられてしまう。
女に求められるものが、今とは違う時代。寅子の前に道はない。切り開いて行く必要がある。

 

 

第2回
寅子の空気クラッシャーぶりはこの頃から。猪爪寅子の名前の通り猪突猛進。

花江ちゃん。寅子の兄の直道(上川周作)と結婚。

書生の優三(仲野太賀)。高等試験司法科(現在の司法試験の前身)に落ち続ける。昼間は直言の斡旋で帝都銀行で働き、明律大学の夜学に通う。明律大学の記念館(モデルとなった明治大学の記念館は1928年=昭和3年竣工なので出来たばかり)に優三のためにお弁当を届けに行ったことで、穂高先生(小林薫)と桂場と出会うことになる寅子。桂場の方が穂高先生よりほんの少し前に寅子と出会っている。
穂高先生は法学者。桂場は現場の人間。師弟関係にあるが立場が違う。

婚姻状態にある女性は「無能力者」
寅子「はあ?!」

はるさんは香川・丸亀の出身。丸亀城は一度は行った方が良い城。ただ四国は運転のマナーが悪い。福来スズ子もその両親も香川県出身なので、2作続けて香川繋がり。
大物声優(田中真弓)、花江ちゃんの使用人。
高井理事。共亜事件(帝人事件がモデル)にも登場。
男達の見栄、女達の聞き分けの良い、「スン」。日本人の美徳ではあるのだが。
若い寅子はあらゆることが機敏。

 

 

第3回
寅子「はあ?!」3連発。この後も繰り出されます。
「続けて」初登場(穂高先生)。女性の言うことを受け入れる男性。
優三、うろ覚え。桂場がフォロー。旧民法では女性の地位はかなり低く、家に縛り付けられる。
失笑を買う寅子だが、桂場が学生達に「何が可笑しい」と一喝。かなり精悍な印象。
すぐ拍手する穂高先生、これも受け継がれます。

穂高先生「いいね、君。うち(明律大学)の女子部に来なさい」
実はこの後ろで、桂場、微妙な態度。

直言に甘える寅子だったが、直言は言うことばかり大きくて、実は頼りにならないことが分かる。寅子「ええ?」
女学校の先生に進学を反対される寅子。嫁の貰い手がなくなる。直言は楽観視。

別嬪アピールの花江ちゃん。実は直道に一目惚れしたのは花江ちゃん。狙った獲物を逃がさない策士。実は寅子を利用していた。寅子、花江ちゃんを「えげつない女」

 

 

第4回
直道と花江ちゃんを見て寅子、「なにこのバカップル」。当人達はいいけれど、これでは結婚に憧れなど持てない。
直道と花江ちゃんの結婚。披露宴。寅子が結婚を望んでいるものだと思い込んでいるはるさん。当時としては当然か。
寅子、「モン・パパ」初披露。「モン・パパ」はシャンソン。様々な歌詞があることからかなり流行ったと思われます。コミカルソングだが、ピアノソロになると悲しくなるメロディー。笑いと哀しみは表裏一体。複雑な表情の寅子。哀しみとかすかな怒り。
直言とはるさんの馴れ初めを語る穂高先生。
穂高先生と握手した後、漫画のように固まったままの寅子。はるさんに明律大進学がバレた。目が鬼龍院花子なはるさん。はるさんは娘のいうことを聞こうとしません。実はここではるさんと穂高先生は対比されています。
お見合いをしたくないと正直に言う寅子。はるさんは穂高先生が策士だと気づいているようですね。
はるさん「あなたが優秀なことぐらい分かってます」
優秀でも女ではダメな時代。はるさんも複雑でしょう。ただこう考えると紫式部の時代からほとんど変わってない。人類、何してた?

 

 

第5回
米津玄師は、「さよーならまたいつか!」において、「人が宣う地獄」という表現を用いている。これは単なる「地獄」ではなく、「誰かが定義した地獄」という意味である。漠然と思い浮かべる地獄とは別のものであるということ。誰が定義するのか、それは「地獄」という言葉を最初に使う人物、つまりはるさんです。
はるさんは、寅子の優秀さを知っており、法律家にだってなれるかも知れないと述べる。だが、なれなかった時は、なれたとしても上手くいかなくなって辞めなくてはいけなくなった時は「地獄」。
そうなるためには、「頭のいい女が確実に幸せになるためには頭の悪いふりをするしかない」。そのためには結婚して男性の庇護下に入る必要がある。だが、寅子は、「お母さんの言う幸せも地獄にしか思えない」と返す。夫の言いなりになる(無能力者)地獄。直言は良い人なので地獄にはならないだろうけれども。
では逆の「地獄」とは、「頭の良い女が頭の良いまま生きる」ということになる。寅子は確かにこうした生き方を選んでいる。女が女として生きていく。道なき道。

竹もとで偶然出会った桂場にも相談する寅子。桂場はこの時、寅子について良くは知らない。穂高先生は学者で、桂場は現場の人間。桂場は穂高先生を現実を知らない理想主義者と見ている。桂場は寅子が頭がいいことを認めるが、「時期尚早」。この「時期尚早」はその後口癖にように何度も出てくる。
女が男の世界に飛び込んだとしても、優秀な男と肩を並べて生きる必要がある。勿論、男は女に配慮などしない。女として先陣を切っても報われない。これが桂場の地獄の定義。
同じ土俵に上がれば男に負ける気はないと言う寅子だが、桂場は泣いて逃げ出すと「決めつけ」る。ここではるさんが現れて反論するが、やってもいないことを「決めつけ」ることに反発していることが分かる。「決めつけ」。これをやる人、この後、何人か出てきますね。これにあらがう必要があるのが第三の地獄。

そしてはるは寅子を連れて、法律専門書店で「六法全書」を購入する。これが翼。地獄を生き抜くための。だが翼があったとしても前には地獄が立ちはだかっている。
「賢い女として生きられない」地獄。「先陣を切らなければならないし、それが報われるとは限られない」地獄。これは後の寅子を地獄へと叩き落としましたね。「先入観で女を決めつける人々に抗わねばならない」地獄。何度も出てきます、寅子に限らず。これは「さよーならまたいつか!」の「したり顔で触らないで背中を殴りつける的外れ」に相当します。これらの地獄を見る覚悟。確かにこれらの地獄は寅子の前に立ちはだかってきます。

 

 

第6回
寅子が「地獄へ行って参ります」と言っていることから、地獄が一般的な女性が歩む道とは別のものであることが分かります。

明律大学講堂。アールデコ。モデルになった明治大学記念館は1928年(昭和3)竣工。京都の三条寺町西入ルに1928ビルというビルがあって(旧毎日新聞社京都支局庁舎)があって、これも同じく1928年竣工です。今はギア劇場になっていますが、ステージの上を囲むように、同じアールデコ調のアーチがあります。

涼子様も実は演技に癖があるんですね。

竹中記者(高橋努)登場。女子部の誰よりも早く寅子に話しかける。名刺を片手で渡すなど、余り行儀は良くない模様。

よね(土居志央梨)が例えられた「ターキー」こと水の江瀧子。男装の麗人。松竹歌劇団の大看板です。

小橋(名村辰)登場。魔女呼ばわり。これも地獄。幼稚な地獄。
すぐ泣く中山先輩(安藤輪子)。法律を学ぶ女は嫌だと婚約破棄。これも地獄。
いきなり歌い出す寅子。これも見方によっては結構な地獄。法律の定義がまだ幼い。
超早口の寅子。頭の回転は速いが、すぐに答えを求めたがる悪い癖。

 

 

第7回
直道、見る目なし。
浮いてる人ばかりが結果的に残るということは、やはりこの時代は一般的な女性には法律は向かないということ。
周囲の理解も得られず。

好き勝手書かれることに慣れてるという涼子様。ずっと後にリフレインが来ます。

 

 

第8回
寅子、人生初の裁判傍聴。民事裁判。妻と夫の争い。
シソンヌライブ。
寅子は、偏見の塊。まだまだ幼い。一方のよねは、怒りと復讐心が原動力。こちらも法曹の資質には遠いです。

旧民法はジャイアニズム。妻のものは俺のもの、俺のものも俺のもの。
江戸時代も、夫から離縁する際は、三行半で良かったのですが、妻から離縁を切り出すのは難しく、今は有名人のお墓が多いことで知られる鎌倉・東慶寺などの駆け込み寺に入って、様々な手続きをする必要がありました。

結婚は罠。結婚すれば女は全てを奪われる。このことが寅子を奮い立たせるのですが、これも一種の罠で、寅子もこれに引っかかります。

法廷に正解はない。穂高先生は、どんな弁護をするかどんな判決をするか考えるように問いかける。今後、寅子は何度も法律を定義しようとするとするが、そのきっかけを作ったのが、この穂高先生の言葉。

 

 

第9回
竹もと来訪。あんみつを美味しそうに食べる玉ちゃん。普段はこうしたものは食べられない様子。
ヒャンちゃん、口癖の「ありえない」
女性は戸主の庇護下にある。穂高の著書を暗記している寅子と涼子様。
「妻の無能力。これは妻にとって必ずしも不利益な制度ではない」「しかしこれは妻を一個の人格者として考えるならば恥ずかしき保護と言わねばならず」。ただそれから踏み出すと茨の道。とりあえずヤケ食い。みな原告側敗訴の結論。
みなで裁判の傍聴。課外授業。ヒャンちゃん楽しそう。
面白いのは、涼子様と梅子さんの脳内映像。モノクロームの映像ですが、これが後にカラー映像として出てきます。部分的な記憶が先行して暗示的に登場する。

何事かと見つめる桂場登場。小窓から覗く。

 

 

第10回
判決は予想を覆して、裁判官の「自由ナル心證」(民事訴訟法第185条)により原告の女性側に有利なものに。明律大学専門部女子部法科の学生沸く。「権利の濫用」は日本国憲法にも出てきます。小窓から覗き続ける桂場。これを寅子がリフレインする日が来ます。夫婦喧嘩。夫を威嚇する寅子。ただ引っ掻く真似だけですね。
よねは法律を力を持たない者の武器と定義。夫に妻を殴らせれば暴行罪が成立するので、殴らせれば良かったと考える。寅子は弱い人を守る楯や傘や温かい毛布のようなものと定義。穂高先生は「正解はなし」。「人と会う約束がある」と出て行ってしまう穂高先生。実際は裁判所内にいました。判決の黒幕が穂高なのではないかと疑う桂場。
寅子「女のくせに。一個の人格者として認められていない女のくせに法律を学んでいる地獄の道を行く同士」

 

 

第11回
明律大学専門部女子部存続の危機。最終学年の3年に進んだのは、久保田先輩と中山先輩だけ。意味なく泣く中山先輩。
YWCA(NHKなので具体名は出せずYWSAとなっている)で水泳をする寅子。御茶ノ水(神田駿河台)のYWCAは小栗上野介忠順の屋敷跡にあります。よね「なんだその髪?」。「濡れた髪を初めて見せた夜」。夜ではないか昼か。濡れ髪寅子は例のシーンでまた出てきます。ちなみに伊藤さんは高校生まで顔も洗えないほど水が嫌いで、当然、泳げない模様。「前世でなんかあったんじゃないか」レベルらしい。

次第にはるさんとの関係が悪化する花江ちゃん。

法廷劇を上演することになった女子部。寅子、月のものが重い。大学を4日も休む。
2年生ではリーダー格となった寅子だが、この頃から空気を読むのは苦手。

「毒饅頭殺人事件」。モノクロ映像になりイメージ内で活動弁士を演じる寅子。声音を変えて演じる。出演者は猪爪家の人々。「よよよよよ」って泣く人がいるのか?
防虫剤入りの毒饅頭を作り、変装して饅頭を置く。変装だが、頬被りしただけじゃ却って怪しい。

寅子の部屋に張り子の虎。女中さんと間違えられる花江ちゃん。「女中みたいなもの」と自虐発言する花江ちゃん。寂しそうな顔。寅子は気づいていないが、花江ちゃんとはるさんとの関係悪化中。「虎ちゃんにお嫁に来た人の気持ちなんて分からないわよ」
はるさん「家のことは私がやっておくから、寅子の手伝いしてあげて頂戴」。言葉は優しいが、実質的には使いっ走りの命令で、女中に対するようなものの言い方。花江ちゃん、キレ気味。
よねは褒められることに慣れていないので、評価されるとすぐ動揺する。
花江ちゃんの前には義母のはるさんが、涼子様の前には実母が立ちはだかります。

当時の「夜の街」上野。今はこれらの施設は一つ北の駅である鶯谷の方に移っています。女郎や娼婦のことを俗に「地獄」と呼びます。
涼子様の先ほどの記憶のリフレイン。

 

 

第12回
法廷劇の衣装作り。花江ちゃん、相変わらず不機嫌。桜川家の執事、岸田。有無を言わせぬ態度。
桜川家は、婿養子が3代続いており、涼子様は男の子を生むことを母から義務づけられている。「女は子どもを産む機械」と発言して失脚した政治家がいたが、この時代はそうした考えがまかり通っていた。
よね、孤高の意識。桂場も同じように孤高の意識を持っている。「私は孤独じゃない、孤高なの」。これ、実は伊藤沙莉さんが発したことのあるセリフです。
またもダメ出しされて表情をなくす花江ちゃん。
竹中記者再登場。オノマチさん叫ぶが、寅子は平静を装う。

明律大学法廷劇。みなわざと下手に演じる女優陣。小橋らの妨害。小橋らが頭の良い女性を脅威に感じていたことがずっと後になって分かる。

 

 

第13回
誤って優三を引っ掻いてしまう寅子。よね、金的一発。しかしこれで足を痛める。暴力に訴えたものは報いを受ける。

「なれ合いは好きじゃないから誤解されてもしょうがない」

上野の店の中に桜。「東京音頭」に「花は上野」と出てくるように往時の上野は桜の名所。
寅子は本人がいないところでの噂話が嫌い。

よねの告白。
貧しい農家の子は売られる。この時代は女であること自体が地獄の人もいる。女を捨てたよね。だが男になった訳でもない。このスタンスはずっと続く。
法に目覚めたよね。明律大学専門部女子部の創設を新聞で知る。よねの年齢については不詳だが、高等女学校を出てストレート入学の寅子よりは上のはず。寅子はよねを常に「よねさん」とさん付けで呼ぶ。高等女学校出身者は簡単に入れるが、学歴のない人は女子部に入るのは難しいようです。

 

 

第14回
寅子が考えるバーチャルよね反応。何度も繰り返す寅子だが。
よね全員を否定。男性にとっては気まずい内容の話。
「性格が悪いでしょ」→「お気立てに難がおありでしょ」

毒饅頭事件の再検証。伊藤さん、ハスキーボイスですが、透明度は操れます。
まだまだ甘さが足りないといわれる花江ちゃん。ちなみに香川県は砂糖の名産地で、白砂糖は全国の7割を占めていた時代もある。

伊藤さんが子どもの頃に言われたことがあるようなセリフを吐くよね。

ヒャンちゃんの口癖。「ありえない」

「哀れな女を救う健気な女性の図」。女性をイメージの道具にする。これは良くも悪くもなんですが。後に寅子もこのイメージに足をすくわれることになります。

 

 

第15回
文字通り華やかに見える華族階級の孤独。仲間のいない花江ちゃんの孤独。寅子は同じミスは繰り返しません。

よね、「こんな奴」って言わない。人を指ささない。

人は皆、自分の中に地獄を抱えている。

伊藤さんは、自殺願望を抱えた人達の弱音を聞く「ももさんと7人のパパゲーノ」をやっているので、こうした展開になるのかも知れませんね。強くあらねばならない、弱くあってはいけないという呪縛。

直道、家を出る決意。
直道「思ってることは口に出していかないとね。その方が良い」の登場。今後、何度も変奏されます。

「よねはよねでいて」の寅子のメッセージ。実際、その通り、よねはよねであり続けます。

生理に効くツボを教えるよねに群がる女子部の面々。よねにとって意外な展開が多い。

女子部卒業。なんとなく余ってた5人のみ。いざ、明律大学法学部へ。男子学生と共に学ぶ。キザな花岡。

 

 

第16回
直道と花江ちゃんの長男、直人誕生。
次第に弱気になる優三。余計なことを言う直道。
地獄の入り口。弁護士法が改正されて女子にも弁護士の道が。

ここで松山ケンイチさんが寅子のことを「可愛い顔」と表現。

勇みながら教室へ乗り込む女子達を迎えるのはイケメン花岡。明律大学法学部の男子学生は一部を除いて皆優しい。呆けた表情の女子達。女子には余り優しくない時代。ということは優しくされたら女は弱い。玉ちゃんは呆れ気味。

俺たちの轟登場。笑止! 男と女が分かり合えるはずがない。小橋、机の陰に隠れていた。

梅子さんのおにぎりを、男は全員右手でも持ち、女は両手で持つ。例外はよね。右手で持つ。轟と張り合うよね。

はるさんの日記は伝言板の役割も持つ。

梅子さんの夫、大庭登場。弁護士としては優秀らしいのだが。梅子さん、スンの表情。というより露骨に嫌い。

 

 

第17回
梅子さんを気にする寅子。

寅子脳内劇場。甲子、直言降板、花江ちゃんに。森田さんは普通の喋り方なので口を大きく開けます。
嫁入り前の女性が犬に顔を傷つけられた事件。異例とも言える高額の慰謝料。大庭、何から何まで無神経。健気な梅子さん。敢えて明るく振る舞う。こうした女性、また出てきます。
特別な女性。これ、実は伏線ですね。

東京帝国大学に通う梅子さんの息子、竹もとに登場。明律大の男達、帝大生にコンプレックス。

御茶ノ水橋の下。冷たい花岡を目撃する寅子。

ハイキング。これまで制服以外は着物姿だった寅子。フェミニンな格好。

 

明律大の男達。女にモテモテの花岡。寅子達のことをファイブウィッチーズと呼んでいることも判明。花岡に抗議する轟。

 

 

第18回
松山ケンイチさんは玉ちゃんのこと「お玉」って呼ぶんですね。神田お玉が池の千葉周作道場(玄武館)を連想します。細川ガラシャ夫人(明智光秀の娘)も「たま」でしたね。

ハイキング先はどこなんでしょう。東京だと多摩方面の可能性が高いですが。
靴擦れ寅子。花岡に介抱される。朝見掛けた花岡との態度の違いに戸惑う寅子。
ハイキング向きの格好じゃない人数名。

男の甲斐性の話。男社会の一側面。寅子もちょっと強情ですね。若いだけあって潔癖です。
「君たちを僕たちは最大限敬い尊重している。特別だと認めているだろう」。上からですね。また、そうでない女性は尊重しなくていいということになってしまいます。それが実際に橋の下での態度に出てましたね。
結局、男が女より上なのは当たり前って意味ですね。寅子が納得するはずがない。

花岡転落。断崖で喧嘩をしてはいけない。

梅子さんの理想の話。「それでも恋は恋」
以前、モノクロで出てきた映像がカラーで。息子から見下される母親。離婚し、親権を取るために法を学ぶ。

民法第877条。「子はその家にある父の親権に服す」。離婚しても親権は取れない。何らかの糸口。みな梅子さんの味方。

 

 

第19回
花岡入院。病院で「地獄」の女性達にモテモテの花岡。寅子、見舞いに行っては会えずに引き返す。罪悪感だけが増す。

花岡が退院するので付き添う轟。寅子も花岡が入院する病院へ。

寅子への態度を変えようと語る花岡に、轟張り手一発。男っぷりが日に日に下がっていく。
寅子、退院に間に合わず。
オノマチさん「寅子の馬鹿! 寅子の大馬鹿!!」

柱に隠れての立ち聞き。花岡、梅子さんに謝罪。
佐賀と言えば、大隈重信の出身地ですが、この世界に早稲田大学はあるんでしょうか?
実は花岡も小橋と同じ怖れを抱いていることが分かります。

「どれもあなたよ」「人は持っている顔は一つじゃないから」
本当の自分とは何か?

教室に二人でいて。花岡、告白。「はて?」じゃないよ寅子。春が来た。

共亜事件始まる。モデルは帝人事件。大阪の帝人本社内にあるホールには入ったことがあります。

 

 

第20回
優三、思いのほか優秀。

猪爪家家宅捜索。はるさん、「書く女」

優三、過敏性腸症候群。この病気、「悪魔の病気」とも呼ばれています。
「遅いよ、お兄ちゃん!」。まるで遅刻癖のある兄を叱る伊藤沙莉って子のよう。

 

松本サリン事件や和歌山毒物カレー事件を連想させるマスコミの態度。

寅子、大学に行けず。花岡と共に猪爪家に向かう穂高先生。
裏庭から猪爪家に忍び込み花岡と穂高先生。女の人の悲鳴好き、あ、ここカットね。

 

堀部圭亮さんが出演された舞台、ハロルド・ピンターの「昔の日々」は良かった演劇作品のトップスリーに入ります。
堀部さん、最初は火野玉男の芸名で欽ちゃんの番組に出てました。1987年ですね。そこからお笑いコンビのK2を経て俳優に。

 

 

第21回
共亜事件の続き。
穂高先生。直言の弁護人になることを申し出る。

穂高先生の励ましもあって登校する寅子。抜き打ちの試験があるが、仲間達の協力で乗り切る。厚い友情。「ぼくの味方」

轟と小橋、稲垣の喧嘩。轟も額に傷を負う。

花岡の逡巡。「不器用で色々考え過ぎちゃう人なのね」。え? そういう人、目の前にいない?(寅子のことです)

黒幕の水沼。

直言、囚人のジレンマ。

直言、帰宅するも罪の自白。「虚偽自白」
寅子に出来ること。「いわれなき罪」からの開放。

 

 

第22回
日々を記す、はるさん。

調書の筆写。穂高先生の手伝いをする寅子。明律大のみんなも手伝ってくれる。

直道一家に、猪爪から籍を抜くよう勧めるはるさん。花江ちゃんは、「今じゃないです」

はるが残した手帳が証拠になると気づく寅子。

 

初の「家族裁判」。日記との齟齬の指摘。書き記すことの効用。いわば脳の記憶力を外部に置くようなもの。

雲野先生(塚地武雅)登場。

穂高先生、「無罪」を目指す。

 

鼻をほじる子役。松山ケンイチさん、そこ、ご覧になってましたか。
鼻をほじるシーンで有名なのは映画「スウィング・ガールズ」の上野樹里さん。
矢口史靖(しのぶ)監督から、「君はアイドルになりたいのか? 女優になりたいのか?」と聞かれて、「女優になりたいです!」と即答。鼻をほじるシーンに挑みました。

 

 

 

第23回
いきなり連れてこられて事情が飲み込めない寅子。

寅子の法律観「法は強き者が弱き者を虐げるものじゃない。法は正しい者を守る者だと私は信じたいんです」

才気を発揮する寅子。竹中記者に記事の依頼をし、断られるが、それは竹中が寅子の身を気遣ってのことだった。他の記者の取材に答えて新聞に顔写真が載る寅子。しかしこれが寅子を危険へと陥れる。若いので危機管理が甘い。
花岡と一緒にいるところを何者かに後をつけられ、複数の男達に襲われる寅子。竹中記者が現れて寅子を救う。おそらく寅子が襲われることを予見して彼も寅子をつけていたのだろう。襲われたことを秘密にする寅子。

竹中記者は強い。竹中次郎記者役の高橋努さんは国士舘大学ですので、と書くと偏見のようですが、あそこはその名の通り国士養成の大学なので男子は武道必修です。だから強い人多いんですね。

大阪大学は水泳必修で、泳げない人は苦労します。

共亜事件。桂場が裁判長。桂場を怒鳴りつけたことを後悔するはるさん。

猪爪家の住所、東京市麻布区笄町(こうがいちょう)は武藤嘉子(三淵嘉子)さんの実家の住所と一緒です。今は港区になっていますので、寅子は港区女子なんですね。

 

 

第24回
直言、罪を否認。
検察は自白を楯に取る。
弁護人を買って出た穂高先生と検察官・日和田(堀部圭亮)との対立。穂高の賢さと同時に策士ぶりが目立つ。
寅子、監獄法施行規則第49条を思い出し、穂高先生にアドバイス。

桂場に圧力を掛ける貴族院議員、水沼淳三郎(森次晃嗣=モロボシ・ダン)。
「今よ!」
「今じゃない! 未来だ」
(野田秀樹『パンドラの鐘』より)

 

 

第25回
「水中に月影を掬う」
李白です。

伊藤座長、見てるんじゃない?(伊藤沙莉を牽制)

 

 

第26回
専門部女子部廃止騒動。実際には明治大学専門部女子部は廃止されず、明治大学短期大学に直結しています(現在は廃止)。
明治大学は新しいことを始めるのが好きな大学で、私立大学初の商学部や日本初の経営学部などを作っています。

 

 

第27回
「何かしそうな思想犯」
(野田秀樹『カノン』より)

 

 

第28回
那时候的伊藤沙莉(Shali)小姐很可爱、可现在的她非常漂亮。
なんで北京語で書いたかって? 日本語で書くのが気恥ずかしいからに決まってるじゃないですか。

専門部女子部廃止騒動は実際にあったようですが、明治大学専門部女子部は存続し、明治大学短期大学に直結しています(現在は廃止)。

 

 

第29回
高等試験司法科試験、寅子二度目の受験。梅子さん出奔。梅子からの手紙を受け取った寅子、声を抑えるようにして泣き崩れる。
寅子、優三、よね、轟、中山先輩、筆記試験合格。口述試験に向かっての準備。
口述試験の日に月経が来てしまい、体調不良の寅子。試験に手応えがなく、さめざめと泣く。泣き方や泣き声が梅子さんからの手紙を受け取った時とは違うのが特徴。はるさんへの報告も放心状態。再び泣くが今度は涙だけを流して静かになく。優三さん、法曹への道を諦める。寅子、目に涙を溜めて泣き顔。涙は溜めるだけで流さず。同じ「泣く」でも演じ分けてみせる伊藤沙莉の真骨頂。あの子、元々泣き虫だけどね。
寅子は合格し、法曹への第一歩を踏み出す。

 

 

 

第30回
千葉出身で今は京都にいますが、南関東出身の俳優さんはアドバンテージがあります。セリフは標準語であることが多いのですが、南関東の人は普段の言葉が標準語かそれに近いものなので、緩急、強弱、メリハリ全て自在に操りやすいです。伊藤沙莉さんも千葉なので、標準語を音楽のように操れます。

東京出身で、今は静岡のSPACにいる舞台俳優の関根淳子さんの一人芝居を観て思ったことでもあります。
関西の舞台俳優は標準語のセリフを喋ると、音楽でいうインテンポで進むことが多いです。自在感は出ない。勿論、関西の言葉を喋ると良いですけれど、関西の言葉自体緩急をつけるものではないように思います。

関根淳子さんは、お茶の水女子大学附属高校出身ですので、三淵嘉子さんや寅子の直接の後輩になります(学校の所在地は異なる)。

 

 

第31回
優三さんのいない孤独。法の知識がある者同士だから分かりあえた。

体を揺すって喜びを表す寅子が可愛いのですが、ト書きなどでは説明出来ないはずなので(出来ても「全身で喜びを表す」ぐらい)、伊藤さんに任されてるんじゃないでしょうか。これが「仕事行きたくねー」ダンスに繋がるのかも。

 

 

第32回
寅子としてはもっと手を握っていたかったし振り向いて欲しかったのですが。花岡は敢えて振り向きませんでした。別れの場は名古屋の鶴舞公園。最寄り駅は鶴舞(つるまい)ですが、鶴舞公園は「つるまこうえん」と読みます。背後にあるのは名古屋市公会堂。

直明、岡山へ。岡山にあるのは第六高等学校(六高)です。

 

 

第33回
シニカルに本質をつく竹中記者。
日常が大きく変わったということはありませんが、竹もとの食材が足りなくなったり、「ぜいたくはできないはずだ」の看板が出たり。戦争が足音もなく忍び寄ってきます。

 

 

第34回
はるさんも花岡が良かったんですね。あんなにムキになるんですから。

 

 

第35回
寅子は優三と世間体を自身のキャリア形成のために結婚。はるさん試しました。優三は即答した。ずっと前から本気で相手を好きで色々考えてないとあんな問いに即答出来ませんよ。合格です。寅子は気づいていません。

田中BOBA要次さん。BOBAさん。元・自主制作映画の帝王。元・国鉄職員。

 

 

第36回
寅子、お人好しなのをつけ込まれ、悪女にあっさり手玉に取られる。
岡本玲さん。知性派の結構凄い女優さんです。

 

 

第37回
オノマチさんのナレーションも久保田先輩の言葉も、呪縛、というより「罠」として寅子に利いてきます。「自分しか、もう自分しか」

 

 

第38回
直道出征。自分の言うことが一度も当たったことがないので帰れないことは自覚してます。寅子の「お兄ちゃんが言うなら女の子だね」に直道頷く。運命を知ります。

寅子は自分が駄目になったら女性が法曹に進む道が絶たれてしまうと思っている。穂高先生は「そうだね」「犠牲」という言葉を使ってしまいました。

 

 

第39回
なんか罠にかかってる気がするんですけど。

轟も全く悪気はないのですが、言葉が寅子には呪縛になる。
穂高先生に相談したのは失敗で、良心から話をどんどん進めてしまう人。頭の良い人にありがちなんですが。

青春との決別の涙。真下に落とすには屈んで目を開けたままから切るですよね。難しそう。

 

 

第40回
この回は見てるだけでいいでしょう。

明天见吧。

 

 

第41回
会津磐梯山。

この時代は検閲があるので、手紙に本音は書けません。直道が本当は何を思っていたのかは分かりません。残酷ですね。

直明は本当に人が変わったみたいですねえ。歌うたうと格好良さそう。

岡山空襲では烏城の由来となった旧国宝・岡山城天守が灰燼に帰しました。

 

 

第42回
『嫌われる勇気』のアドラー。読んでない。読む気もない。
アイリーン・アドラーは好きです。「ボヘミアの醜聞」でシャーロック・ホームズを出し抜く女性。

優三さん、上等兵でした。水島さんと一緒。

 

 

第43回
テレビにトラブルがあったのですが、意地で直しました。

まず、石田ゆり子さん、お誕生日おめでとうございます。

ショックが大きいと感情が死ぬ。目の焦点が合ってない寅子。
目の焦点は近眼か両目の視力が大きく異なると自然にぼやけやすいですけれど、それをやっているのかは不明です。

「花岡君が良いなあ」を否定できない、はるさん。言っていることは残酷だが、この夫婦、かなり良い人たち。

 

 

第44回
カメラのキタムラで売ったんですかね?

「今年も海へ行くって、いっぱい映画も観るって」

日本国憲法。優三からの贈り物です。

声を上げて泣く寅子。産声です。

 

 

第45回
顔つきが変わった寅子。

今日はアップが多いので、花江ちゃんの声の作り方が分かりやすい。

名古屋市公会堂に向かう寅子。多分、そこコンサートホール。
柴田淳のコンサートで入ったことあります。2011年のことです。
オープニングを後に回した演出は大河ドラマ「真田丸」でもありました。2016年です。朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でもありました。

 

 

第46回
強力なライバルの登場に興奮気味の桂場、いや松山さん。

ライアンかあ。ノーヒットノーラン7回やったり、スワローズのエースになったり、『ピッチャーズ・バイブル』とか出しそうだな。
つば九郎「らいねんはふたけたかってね」

「一冊の百貨店」(それは「シャディ」や!。「愛」って意味らしい)。

 

 

第47回
江川卓と対決しそうな外国人選手登場。選手ではないか。

全然避ける気のない桂場。

憲法では「両性の合意」だが、民法では「双方の合意」

保守派の神保教授。演じるのは明治大学出身の木場勝己さん。

試される寅子。

 

 

第49回
Not enough your family,Here.
Thank you for children.

あとはよく聞き取れない。
「とんでもございません」は元々は誤用とされています。「とんでもない」の「ない」は「無い」ではないので。山本富士子の誤用とされていますが、それ以前にイプセンの戯曲を翻訳した原千代海が使ってます。

 

 

第50回
善意からなのですが、穂高先生のやってることは典型的なパターナリズムです。なので発想が戦前なんです。寅子が怒りを鎮めるために新憲法を唱えるのはそのためです。まず憲法第12条が出ました。この作品、たいへんリフレインが多いのですが、民法第750条や他のセリフも再登場します。

 

 

第51回
この回で轟とよねがいい関係になると分かるんです。いい関係というのはいい関係ですよ。
松山ケンイチさんが引用した「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」というのは、京都アニメーション放火殺人事件(2019年)を挟む形で作られた作品で、参加したスタッフの多くが亡くなっています。

 

 

第52回
いかん、もう桂場が寅子を見つめて「可愛い顔だなあ」と思いながら喋ってるようにしか見えない。また「顔が好き」発言あるし。

高麗屋(多岐川幸四郎。滝藤賢一)登場。玲美さんもさり気なく登場。直明は東大生ですが、玲美さんも東大なのかは実は不明。今でいうインカレ団体でしょうからね。壇と浦野の壇ノ浦コンビも登場。

 

 

第53回
「東京ブギウギ」をハミングする高麗屋。福来スズ子の「東京ブギウギ」が流れることは一度もありませんでした。

伊藤さん、ロシアンティーの飲み方知らないで本気で食べた可能性あり。本来ならいらないシーンですからね。

宇治に香子。『源氏物語』だねえ。

 

 

第54回
ソウル特別市は日本統治時代は京城に名が変わりましたが、ソウル自体には漢字がありませんでした。戦後は漢陽表記になりましたが、21世紀になってからソウルに近い漢字表記が欲しいということで、「首尔(首爾)」に決まりました。

松山さんが仰っていた「ドラゴンボール」のことはR藤本さんに聞くと詳しいと思います。

 

 

第55回
姉弟揃って恋愛ごとには疎いらしい。
その中に未来の奥さん、いますよ!

高麗屋に似てるのか。松たか子だったのか。

喜びと眠気の混ざった寅子の顔、良いですね。

 

 

第56回
滝藤さんが出た無名塾は、仲代さんの「俳優はアスリート」という方針の下、身体訓練はかなりやるんですよね。
真木よう子さんも滝藤賢一さんと同期だったはずですが、仲代達矢さんと喧嘩して辞めちゃいました。仲代さんにサボってると勘違いされたようで。彼女も千葉県ですね。印西市だったはず。

 

 

第57回
負けず嫌いの寅子。なりゆきで道男を家に連れて帰ってしまう。

道男「おばさん(花江ちゃん)よく見ると綺麗な顔してんな」
そうか、寅子は綺麗じゃなかったのか。

みんな道男のマナーばかり気にしているけれど、寅子、それはねぶり箸といってね。

 

 

第58回
「バカかお前は!」。篠原涼子(雪平夏見)登場。男だったけど。

今回の内容もリフレインされますね。

「ちゃん」づけで呼ぶ年上の女性の友人、一人だけいます。2005年に初めて会ったのですが、こちらは向こうを年下だと思ってて、向こうはこちらを年上だと思ってた。実際は逆だった。

 

 

第59回
はるさんの死。
燈台では道男が映っていて寅子はいくつかを除いて声だけですけど、声だけなのが効果的です。
子どものように泣く寅子。多摩川で声を出して泣いたのが新生寅子の産声なのでまだ幼い訳ですが、頑是無い態度なのが「死なないで」という気持ちをダイレクトに伝えます。

 

 

第60回
(松山ケンイチさんの「花江ちゃんと呼べない」に対し)え、俺、花江ちゃんって呼んでるし。

道男を家族認定したのは寅子でも花江ちゃんでもありません。はるさんです。はるさんが最後に道男を呼ぶということがどういうことなのか。猪爪家の人々は全員頭がいいので言葉不要で分かるんですね。

最後まで撮らずにぶち切りにするのは堤幸彦編集です。
日記とは日々の遺書なり。

寅子の性格だと母親の日記に甘えて自立できなくなる可能性があるのでそれを恐れたんじゃないでしょうか。だからそうなる前に燃やしてと。これも愛情です。

ずっとに後、母親の残した言葉にとらわれた美雪という少女が登場します。ですのでこれも伏線ですね。

 

 

第61回
何か食べようとすると邪魔が入る桂場。みんな高麗屋の話を聞いているのに我関せずでマイペース。

でまかせで「愛のコンサート」。高麗屋と松寅子の漫才始まる。

小橋は音楽の知識ゼロですね。

民法第1028条遺留分については明治民法の通り。

伊藤さんは顔だけで何を考えてるのか伝える演技。

 

 

第62回
梅子さん、もしあの場で目を合わせていたら多分、泣いてしまっていたでしょうね。

高麗屋、松寅子を連れてコンサート会場探し。それは法曹の仕事ではないが。
「東京ブギウギ」を歌う高麗屋。この世界に福来スズ子がいることが分かる。

静馬さん、じゃなかった静子さん怖い。
家父長制の亡霊。

 

 

第63回
常と静子。さては常盤御前と静御前だな。義経はいない。ただ源九郎判官義経の判官は裁判官兼任警察官だから法曹とは関係がある。

「あーあー」言っているところに高麗屋からラジオ出演を持ちかけられる松寅子。

寅子と離れるときに寂しそうな花江ちゃん。寅子が遠い人になる予感。

 

 

第64回
ひかりTVの調子が悪いのでパソコンで視聴。

伊勢志摩さんと平岩紙さん、大人計画繋がり。

高麗屋と松寅子ラジオ出演。松寅子、「ご婦人をか弱いとは思っておりません」。穂高先生=戦前の価値観否定。

梅子さん。「私が全力を傾けた人生はこんな程度ものだったのか」の泣き笑い。「ごきげんよう!」。『人形の家』。

 

 

第65回
「昔は良かったねといつも口にしながら生きていくのは本当にイヤだから」

「自分が幸せでない者は誰も幸せに出来ない」これ引用だと思います。

 

茨田りつ子。「愛のコンサート」。「雨のブルース」。「ブギウギ」からの転用なので髪型が違い、マイクも戦中のもの。
松寅子リサイタル「モン・パパ」
寅子が歌う「モン・パパ」は、二村定一&榎本健一バージョンです。他のバージョンは歌詞が違います。

 

 

第66回
茨田りつ子はんのおかげでスターになりはった松寅子はん。
高麗屋はんと松寅子はん、顔が近うおす。
寅子はんのアップが多うて松山はん大喜びやないの。
身体障害者福祉法の話。
寅子はんを気遣う桂場はん、「べっぴんやな」思うてはるわ。
航一さんと初対面。寅子はん、困ってはる。

 

 

第67回
「原来如此(yuanlairuci)」=「なるほど」
平田さんの民法関連の著書を航一と改訂する寅子。これが家族劇中心になる布石。改訂者として名が載る。
平田さん、ようやく登場。百合さん、名前だけ。
平田さんと穂高先生。つかこうへい事務所対状況劇場。
自筆の序文を読む平田さん。ほどなく退場。

 

 

第68回
双方、親権を持ちたくない。太田緑ロランスさん、舞台「首切り王子と愚かな女」では伊藤さんと姉妹役でした。

少年部と家事部をまとめることに奔走する寅子。

優未、点数改竄事件。秀才、寅子、反応が冷たい。優未との間に溝。

航一と寅子会う。

尊属殺が違憲か問われる。声を挙げる意味。

 

 

第69回
壇に歩み寄る寅子。

穂高先生の退任記念祝賀会。本来は穂高が策士ぶりを発揮し、寅子に謝罪した上で寅子から花束を受け取り、無理やり仲直りと師弟愛のアピールの一挙両得を狙う話でした。ただカットされ、意味が変わります。穂高先生が弱気になって自分がやったことに意味がないと言ってしまう。

穂高先生は医務室で、「犠牲」という言葉を使っているので、女子部創設も、女子部に寅子を招いたことも、寅子が法曹になったことも、女子部で挫折した仲間も犠牲になるのはやむを得ないと言っているようなもの。寅子としては穂高先生に女性を法曹界に送り出したことを誇って欲しかったはず。

ただあの言い方だと寅子は失敗から生まれた失敗作になってしまいます。
穂高先生が謝罪した名残は小林薫さんのセリフに残っていて、「謝っても駄目、反省しても駄目」はその場で謝罪したことを意味していて、セリフからカットされなかったのだと思われます。

 

 

第70回
進歩的であった穂高先生がパターナリズム(父権主義)から抜け出せない古い人であったことは悲しくなります。しかし尊属殺否定という未来に繋がる課題を残してくれました。しかし寅子もすぐに父権主義の罠に落ちてしまうことになります。
第三の道を見出す寅子。家事部と少年部を近づけます。

 

 

第71回
アメリカかぶれの寅子。「予定通りいかんのが人生だろう」。この後の伊藤さんのセリフは全部アドリブ。ライアンのハグも今は受け入れる。

『The Catcher in the Rye』はチャーリー・シーンが初めて読んだ小説。彼は野球をやっていてCatcherが入っているので野球の本だと思ったらしいですよ。
見落としがちですけれど、寅子は英語の本以外のものも買ってきてます。

直人が「コンサートに連れて行ってくれて、弟(直治)はそれからはすっかり音楽に夢中」と語りますが(なんのコンサートかは不明)、これが直治が音楽家を目指す伏線ですね。
ただ竹中記者の「ご苦労さんでした。ハハハハハ」という皮肉に寅子は気づいていません。
花江ちゃんが抱く寅子への不満。

天狗になっていく寅子。もう古くなりかけてる。

 

 

第72回
ラジオ番組に出る高麗屋と松寅子。調子に乗って正論だけどいらんことを。おじさん達は喜んでるけれど。「オタサーの姫」状態。
草彅剛の娘登場。寅子の言っていることは正論ではあるのですが、一般論ですね。「寄り添って」にカチンとくる草彅剛の娘。
否定したはずの家父長制に嵌まってしまった寅子。花江ちゃん泣く。

 

 

第73回
寅子は出来る人なので、そうでない人への想像力にはやや欠けます。
眠れない花江ちゃん。翌朝、早起きに見せかけていますが、森田さんが眠そうな演技をしているので一睡もしてませんね。
後輩から悪く言われ、梅子さんに遠まわしに「あなたが悪い」と言われてしまう。草彅剛の娘に襲撃される寅子。

中立を心がけたため、「寄り添う」と言いながら個人的な事情には踏み込みませんでした。正しいは正しいのですが、正しさは受け止められる範囲が狭いんですね。現実を見失いがちです。

 

 

第74回
家族会議や裁判は好きじゃありません。

花江ちゃんは、というより森田さんは、長台詞を言うときに意味が切れる場所や句読点が来そうな場所で口をキュッと結ぶ癖があります。気づくと面白いですよ。

「俺達に好かれてしまっている」発言をする桂場。「顔が可愛い」発言をする誰かさんみたい。

 

 

第75回
あの場面では優未は「はい」しか言えないよね。
竹中記者の記事はノベライズでは掲載されてはいます。
竹中記者の発言は、この後登場した時の最後の言葉に繋がります。

香子が本名説の人、他のドラマにも出てますよ。まひろって名前だけど。

男はいざという時、バカ。「なんじゃこりゃ」

三條へ。

 

 

第76回
弥彦神社の中にある三條支部(実際には弥彦神社は三條にはありません)。歓迎のシーン。リフレインされます。
優未が初めて見る母が仕事する姿。

ラジオ体操。リフレインされます。

新潟の観光名所は城郭しかない。

「休みの日は休んでいますね」
「…そうですか」を口の中で言うテクニック。

 

 

第77回
何度も出てくるイマジナリーの演出。

文化系男子差別

杉田太郎の人治主義。

暴力に訴えた者は報いを受ける。

オフィーリア寅子。伊藤さんが尊敬する樹木希林と一緒。ちなみに伊藤沙莉は「水が怖い」人で、高校生までは顔も洗えないほどの水恐怖症。スタッフも伊藤の水恐怖症を知っていたため、「ヒロイン水落ち」の時はみんなが心配してくれたらしい。

「来し方に帰るこの身か水の中
新たに仰ぐ澄みし青空」

「報われぬこの世なりせば行く川に浮かべるただの一葉ならまし」

 

 

第78回
閉鎖的な田舎。

過敏性腸症候群。優三は下痢型。優未はガス型。

優未の心を掴むチャンスで話せない寅子。思い出に出来るほど優三の死を受け入れられていない。

「仕事行きたくねー」ダンス。

寅子「どうしたの?」
それはこっちのセリフだ。

「泣きましたか」。航一、気付いてもそれは言うな。

「仕事行きたくねー」ダンスを伊藤沙莉さん以外の女優がやることは想像できませんね。誰だったらできるだろう。

 

 

第79回
航一の言うことは寅子にも該当。寅子、航一をじっと見る。

航一「溝を自ら作りに行く質」。この言葉、後で効いてきます。

高瀬の三谷幸喜的セリフ(舞台「出口なし!」、映画「記憶にございません」)。

「高瀬さんがいないと仕事回らなくて大変なんだから」。高瀬の価値を伝える寅子の優しさ。

迷惑こと明和九年の前年。

「この土地」に挑む寅子。

 

 

第80回
弱い者への寅子の眼差し。疲労困憊。リフレインあり。

寅子「あら誘って下さるの」
航一「・・・」

寅子「例のお店に連れてって下さるんですよね。そう思ってお弁当も持ってきませんでした。お腹ももうペコペコで」
航一「(もう連れてくしかねえじゃねえか)」

ライトハウス(燈台)! 涼子様!

 

 

第81回
上野・燈台、新潟・ライトハウス。

斜陽族の涼子様。
身体障害者となった玉ちゃん。

岡部ジュニア差別主義者の片鱗。

憲法第14条第1項の英訳。

美佐江登場。

大物声優再登場。

友達は多ければ多いほどいいという考えへのカウンター。リフレインあり。

 

 

第82回
三淵嘉子さんの趣味は麻雀。ちなみに伊藤沙莉さんも事務所の先輩である萩原聖人さんに麻雀を習おうとしたことがあったようですが、計算が苦手なので苦戦した模様。

少年法問題への伏線、というより提言。2022年、少年法改正。

恋愛以外には敏い寅子。

麻雀の本を持ち歩いている航一。岡田将生の顔をした萩原聖人だった。

玉ちゃんの罪の意識。障害者が自分を罪ありと考えてしまうことは今に繋がる問題です。

 

 

第83回
寅子は見慣れていることと伊藤さんの表情の演技が上手いので、セリフなしでも考えていることが分かるのですが、美佐江は読めない。

身体障害者福祉法は轟が話す場面がありました。俺たちの轟、三谷幸喜の映画「スオミの話をしよう」にいい役で出てます。

太宰治の『斜陽』。実は革命小説です。

 

 

第84回
涼子様の前から密かに消えようとしていた玉ちゃん。しかし寅子は敢えて涼子様と玉ちゃんの二人の問題にしました。尊敬語、謙譲語などのある日本語ではなく、上下関係のほぼない言語の英語で語ることで主従から親友になる二人。

孤独を怖れる涼子様。これと正反対の性格の人がいます。優未ですね。

 

 

第85回
拠り所をたくさん作る話。これはその後の優未の生き方の指針になります。寅子は優未に生き方を教えていたんですね。優未の「My Favorite Things」はリフレインされます。

航一が女性を誘うのは初めてで涼子さんも玉さんも意味にすぐに気づきます。航一と娘に嫉妬する寅子。割り込んで続かない話。

 

 

第86回
差別の話。坂町事件。寅子って基本的に噂話が嫌いですよね。
美佐江への疑い。
岡部ジュニア、差別発言。
スマートボール場火災事件。もう一人のトモコ(堺小春)の朝鮮語。
寅子が麻雀に興味を持ったことが嬉しい航一。寅子外れ。男心に疎い。

 

 

第87回
涼子さん、相変わらずの「玉」呼び。長年の習慣変わらず。

突き落とした者は突き落とされる。

よね「友達じゃないし、仲良くなってない」

寅子って相手の懐にすっと自然に入り込むんですよね。航一は実感。

寅子は大正12年には関東にはいませんでしたからね。朝鮮人虐殺事件。甘粕事件もこの時。

 

 

第88回
誤訳に気づいた被告だが抗弁する気力はない。
困っている人を助けるのは普通のこと=リーガル・マインド。このドラマは日常に法の精神(モンテスキューじゃないですよ)を挟んできます。
汐見夫妻を強引に呼ぶ。慣用句の問題。
反論せず認めてしまう。これは直言のリフレインでもありますね。

 

 

第89回
金城一紀の小説『GO』とクドカン脚本による映画化作品に韓国人と日本人の恋愛の話が出てきます。男女逆ですが。
日韓の恋。実際は人には隠してるような重い話ですけれど、説明は敢えて避けましたね。ただ根本の根本は愛があっただけですね。

高橋克実さんの朗読、聴きたかった。

 

 

第90回
初の尾野真千子さん不在回。

総力戦研究所。机上演習の結果は日本敗戦。戦争責任。
秘密のある男性は額を隠しがち。
寅子だと気づいたのはハイヒールの音ですね。戦争の失敗を分かち合う。チョコレートを分けたシーンが利きます。
許しの白い雪、再出発の船の汽笛。光が射して未来を示します。

 

 

第91回
「え? なにをしに?」じゃないでしょ寅子。まさかの答えに航一は麻雀を思い出して切り抜ける。新潟の男は涙腺弱いらしい。「クソババア」と言われたので「クソ小僧」と返しただけで大して意味はありません。「クソ男」は避けましたね。
麻雀という理由があるので4人になるため杉田兄弟が来ちゃう。

 

 

第92回
意味なく訪れる美佐江。瞬きをしない伊藤さん。美佐江が目を左右にやるのは次にどうするか迷ってるからですね。間を空けて釣りに行く寅子。美佐江かからず。
話の展開上、優未が来ちゃう訳ですが、抱き寄せてすぐに「しまった!」という顔をする寅子。この後、一言かけてあげれば良かったのですが。

 

 

第93回
ライトハウスで美佐江は不敵に微笑んでいるように見えますが、残されたメモを見ると寅子に会えたのが嬉しかっただけかも知れません。

無理のある理由で寅子の家を訪れる航一。「でも」
航一、言葉のセンスが悪いふりをして一歩踏み込む。寅子は牽制しましたね。
深田がテレビレポーターの真似。この年、テレビ放送開始。新潟での放送はまだ。テレビ時代の到来を告げる芝居の嘘でしょう。

花江ちゃんが三條へ。いきなり現れて驚かせるつもりが、「ビューティフル・マインド」かと疑って挙動不審の寅子に逆に驚かされる。抱き合ってからはアドリブ。仲がいい。

あとオノマチさん、お仕事中大変申し訳ないのですが、寅子一人のシーンの時は沈黙を。伊藤さん見てれば分かりますので。

松山ケンイチ「寅ちゃん2人に言って、自分に言ったな!」
これは間違いないです。トモコさんとユウ三ロウさんなんで。
オノマチさんのナレーションにも「優三とのことを思い出して」とありますね。

 

 

第94回
アドリブ多め。女子会。服部良一も新聞配達してました。

「砂山」歌える。

単なる「寅子はねんね」を美しく修飾する涼子さん。

優三からの手紙。伊藤さんのお手本のような泣き顔。
「いつもいつも」の後は「私のことばっかり」らしいですが、寅子との思い出も欲しかった。

自由とは無責任である。

 

 

第95回
前回に続き尾野真千子さんお休み。

夜の裁判所。前回の「でも」の続き。
余生。リフレインあり。

生真面目な二人の不真面目でだらしがない愛。

派手な転倒。3カットで撮るのはスタントマンを使っているからです。
転倒が二人が手を繋ぐきっかけ。

キスシーン。
「こっち?」
「そっち嫌だ」
「でもこっち」
「うん」
一人で書いてるとバカみたいである。

 

 

第96回
「心配しないで」
新潟の海。佐渡島が見えます。
伊藤さんのお姉さんが海好きらしいです。その影響で伊藤さんも海で遊ぶのが好きらしい。基本的に千葉県人は海好きで、海が誇りです。

三條支部でのファーストシーンのリフレイン完了。次郎の説明ゼリフ。

寅子、「家族を紹介したい」の意味が分からず航一と優未どん引き。

直明の恋人との同居を嫌がる花江ちゃん。「しゅしゅ姑」。結婚論展開。

 

 

第97回
よね、弁護士に。伊藤さんの表情いいですね。
イケオジ達の地位は寅子が説明します。ナレーションでもいいのですが、3人を気にかけていたことを表現するためでしょうね。

「ヒャンちゃん」って呼んじゃ駄目だよ。

漆間さん、法然と同じ苗字。

団子試験。

星家訪問。空気の読めない寅、航、優。

 

 

第98回
航一は人がいるところでプロポーズします。頭の良い女性限定ですが「恥をかかせられない」という意識が働くので断りづらくなります。

「勇気を振り絞って」の主語を間違える寅子。花江ちゃん、1秒で諦める。

ピンぼけ星家。

直明は寅子には本音を言う。

原爆裁判。

ビキニはあのビキニの由来。

 

 

第99回
桂場。眉間に皺を寄せて以前より厳しい表情。

日能研のCMのような寅子の掃除。

航一は単純に玄関の位置が分からなかったのだと思います。

玲美さん再々々登場。

家族裁判。
母親の留守に玲美を家に呼ぶ。それ駄目だろ。あ、こいつら優未に点数改竄を教唆した奴らだった。

主婦の誇りを失いかける花江ちゃん。

 

 

第100回
玲美さん、ただののろけ。

航一が裁判官。のはずが、なぜか花江ちゃんの考えを封じる。航一、Sだと思う。

またも人前でプロポーズする航一。やはりS。寅子を追い詰めるなよ。

朋一ものどかも無反応。それを不思議と思わぬ航一。

添い寝する轟と遠藤。寅子、意味が分からず。同性愛の知識がない。

 

 

第101回
「なんともいえない顔」をする寅子。本当に「なんともいえない顔」をする伊藤さんが凄い。告白を聞いても意味が分からず、目を動かして二人を見てやっと察する。

よね、すぐに悟る。
結婚の悩み。
よね、轟と遠藤を見る。寅子何かを察するが、何を間違えたのか分からない。
よねの「帰れ」が優しい。
竹ものでの航一の説明。氷塊。

民法第750条。「夫婦は婚姻の際、定めるところに従い夫または妻の氏を称する」
しかし寅子以外は妻が夫の氏を称することに何の疑問も抱いていません。実は新民法の苗字の話はすでに出ていて、はるさんの旧姓が直井なので「直ばかり」もすでに出ています。

 

 

第102回
夢の中で五役の寅子。未来の星寅子は計算高いキャラらしい。映像なので演じ分けの難度はそれほど。ただ舞台でいきなり別人になっちゃう人いるんですね。「中谷さん、それ反則!」。あ、誰がやったのかわかってしまいましたね。

憲法第24条。「婚姻は両性の合意」。つまり同性は含まれない。
ここで寅子は、「男性同士で結婚したい人がいるかも知れない」「でも出来ない」「そんな人たちの前で結婚を軽視した話」をしてしまったことに気づきます。法律で気づくのがリーガルドラマです。轟に謝罪に行く寅子。
航一、星の苗字を捨てる覚悟。星家は名家。その当主が苗字を捨てるのは無理ですね。

 

 

第103回
優未は航一に「佐田姓になって」とは言っていないはずで、航一が寅子に相談せずに独断で決めたことです。航一は意外に強引な性格。

忌野清志郎の「世界中の人に自慢したいよ」のような話。

こだわりは本来は悪い意味。桂場、石頭に見えて柔軟。

裁判官が旧姓を名乗れるようになるのは平成29年のこと。ついこの間。
中村 中さんは歌手のイメージが強いですが、役者をやっている時間の方が長いはず。
よねの発言は自身のことを語っているようにも取れますが、どうなんでしょ?

寅子の「はて?」。社会がどうのこうの言っていますが、確かにみんながみんな好きに生きると社会は成立しませんね。
この時点では、寅子は星寅子になることに決めていました。
ただ航一が考えを変えます。
「結婚するのやめましょう」と言われ、振られると焦った寅子が言おうとしたのは、
「航一さん、私(星寅子になります)」
で間違いないでしょう。

 

 

第104回
今でいう事実婚の選択。
考えながら喋るように見せる伊藤さんの演技。これ本当に上手いよ。
航一、「君」を初めて使用。
寅子が語る夢は「永遠を誓わないだらしない愛」の具体例です。
提案をしたのは航一なのですが、決定を寅子に委ねたことで、男性側が「はい」という珍しいシーンになりました。
事実婚ですがみんな喜んでくれました。

竹もとにて、サプライズ。
不可解な状況、驚き、喜び、これまでの記憶などが一気に押し寄せて混乱。もはや笑うしかないという超絶高難度のシチュエーションでの演技を行う伊藤さん。混乱から歓喜、感動へと切れ目なく移行。初めて見た時は驚きました。

 

 

第105回
民法第750条の不備と憲法第13条および第14条を混ぜたような判決のようなもので結婚のようなもの。

明律大学卒業生を中心とした二次会。
何かの拍子に香子ちゃんの正体がヒャンちゃんだとばれるとまずい小橋と稲垣は呼びません。

「家族」宣言。

「海」。伏線。

何も言わない朋一とのどか。

 

 

第106回
のどか、明律大学文学部英文科に入学。優未は寅子のお下がりのワンピース。
麻雀。朋一とのどかは航一に麻雀を教わったことはない。
笑顔を見せて瞬殺の航一。やはりS。

百合さんの態度が、寅子と優未とそれ以外では違う。

秋山登場。「ブギウギ」の秋山美月(伊原六花)が由来だと思われます。

ヒップホップ系小躍り。この時代の人は盆踊りしか知りません。

朋一、百合さんを家政婦扱い。

頭の良いもの同士の争い。引くときは引く。

のどかは大学に入ったら家には寝に帰るだけになるので、家族なんてどうでもいい。

優未は朋一と寅子を比べるが、寅子は花江ちゃんへのリスペクトを欠いたことはない。ので優未の間違いだが寅子が引いて収める。

 

 

第107回
「ちちんぷいぷい」。ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。アーノルド・シュワルツェネッガー。

相手が何を言うのかだいたい分かるので会話の間が短い。

朋一&のどか「手なんか繋いだことねーし」

この世代の大学生はまだ学生服着てますね。

中学生の勉強会。

優未の茶道。伏線。

女車掌。夢野久作の「少女地獄」。「ユメノ銀河」という素敵な映画になっているのですが、主演女優がやらかしまして。

 

 

第108回
小橋の「分かる」
中途半端との自認。女がライバルになる。小橋が女子部を魔女部と呼んだ理由が分かる。
基本的に自分語り。「弱い者たちが夕暮れ更に弱い者を叩く」は嫌だろう。

秋山妊娠。「子どもを授かって『しまいました』」
過去がよぎる寅子。

女性の働き方改革。桂場、最初勘違い。
秋山のことだと分かる桂場。「時期尚早」

競争社会。これも伏線。寅子、わざと受け取らず。
明律大学医務室の記憶。これは以前に撮って今出したのでしょうね。

よね、前髪に白髪。この後、白髪染めを使う。

寅子の悪口を言った後輩も着いてきている。

「よねよね」。意外に芸のないネーミング。

 

 

第109回
ダンディーライアン。実は優しい桂場。ただバレバレ。愛想笑いにもならない愛想笑い。

「一緒に」。キーワード。航一が朋一に言うのは初めて。

寅子「かっこいいわ」
朋一「(お世辞か?)」
寅子「あら、また何か余計なこと言った?」
朋一「(お世辞じゃなかったか)」
母と寅子を重ねる。
家族のようなもののはずだったのに皆、家族のように。のどか一人が取り残される。

航一と寅子は言葉なしでも通じ合う。

寅子「んー、卵もベーコンもこのパンも最高ね」
朋一「毎日そんな反応して疲れません?」
寅子「???」
朋一「(この人、裏表ないな)」
なので寅子の励ましも素直に受ける。

孤立したのどかの苛立ち。寅子と優未が家族の中心に。
実は伊藤沙莉さん、似た状況を演じたことがあるんです。「家族泥棒!」なんて言われてましたね。

優未の麻雀対決。松山さんも勘違いしていますが、優未は過敏性腸症候群ガス型ですね。優三とは違います。

まるで指揮者の小泉和裕のようにお菓子を買って来てみんなで食べようとする寅子。

 

 

第110回
やはり疎外されたのどか。

航一と寅子、アイコンタクトで通じる。

百合さんの過去(百合さんの由来は、石田ゆり子、本名・石田百合子さんでしょうね)。

秋山に自分がして欲しかったことをする寅子。内容が優三。寅子は勝手にレールを敷かれてしまいましたからね。

写真。手をつなぐ寅子と優未。

 

 

第111回
寅子、更年期障害。百合さんは認知症。

雲野先生、代表作のオマージュで他界。寅子と轟&よね。電話越しで向き合う構図。
百合さん、言葉が浮かばず。名前が出ないのだと察した寅子は「のどか」と呼びかけることで教えようとするが、のどかは寅子の意図に気づかず。

原爆裁判第1回口頭弁論。老境・竹中次郎記者現る。

 

 

第112回
よね「意義のある裁判にするぞ」。これは実は「一緒に」が抜けていますが、寅子は気づきます。寅子は「一緒に海に行きましょう」などと提案するタイプですが、よねの方からは初めて。寅子が驚いて振り返るのはそのためです。
竹中記者とは生存者の中で最も古い付き合い(女子部の面々より先に寅子に声をかけています)。

のどかは銀行に就職。認知症が進む百合さん。余貴美子さん、流石の演技。

鑑定人尋問。
保田先生。原爆は国際法違反と指摘。
嘉納先生。原爆は国際法で禁止されておらず安易な敷衍は危険と指摘。
嘉納先生。日本は損害賠償権を放棄。戦争中に主権在民の今の憲法は存在しない。

よね「原告は今を生きる被爆者ですが」
感情論になったため、よね、いったん引く。

 

 

第113回
寅子の質問。被爆者はどこに助けを求めればいいのか。
嘉納先生、明言を避ける。

竹中記者、寅子の発言をタイトルに記事を書く。ペンは剣よりも強し。

航一、「分けてくれないか」返し。

百合さんの財布を家族で探す中、のどか何もせず。

竹もと。寅子と桂場、シンクロあくび。圧力の存在。桂場のアドバイス。
寅子と梅子さん。更年期経験者として明るく受け入れる梅子さん。この後、カットがかからず、ずっとアドリブ。
「ほてほて」と意味不明になってくる。

当事者尋問。漆間が読み上げたリストにもあった吉田ミキさん。

憲法第13条(すべて国民は、個人として尊重される)を呟く寅子。

何の協力もしないのどか。
美大進学を反対された恨み。
今はいないお茶汲みOL。おそらく百合さんが望んだ路線でしょうが、不満ののどか。
優未、「バカ」を連発して、のどかを蹴り倒す。横蹴りは相手を確実に倒すのでやめましょう。優未を演じる毎田さんの目。驚いています。隠されていた暴力性。
隠されていた暴力性は誰もが持っているもので自覚がないと危険です。これを描いた印象に残る小説として宮本輝の『優駿』、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が挙げられます。
「私ってこんな子だったの?」と驚いて家を飛び出してしまう優未。

 

 

第114回
山田轟法律事務所に逃げ込んだ優未。遠藤の発言。実は三條で寅子が高瀬に語った内容に似ています。ここもリフレイン。

覗き見する寅子。桂場のオマージュ。
自分の暴力性を受け止められず、謝れない優未。

「カレーカレー」と歌う寅子。優未を巻き込む。さては伊藤さん、岡田さんも巻き込んだな。
吉田ミキさん登場。入山法子さん。
ケロイドあり。
美貌が自慢だったミキさんも今は昔。憲法第14条の「差別されない」に容姿は含まれていない。
自分が犠牲になろうとするミキさん。憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」。だがその前にご自分を尊重しないと。幸福を追求して下さい。

 

 

第115回
梅子さん、合格。無表情で拍手する桂場。
道男、梅子さんと組む。

原爆裁判。弱気の汐見と漆間。寅子、一矢報いようとする。

認知症が悪化する百合さん。寅子は敢えて自分の話。その後、百合さんに寄り添う。謝る人が非常に多いが、原罪か。

判決文は実際のものです。
まず原爆の国際法違反。ただ損害賠償権の根拠なし。
記者達が走って出ようとするのを汐見が声を大きくして制止。伊藤さんはまばたきをほとんどしない演技。当事者の眼差し。
寅子の提案で書き加えられたとされたのは、国と政治の貧困を嘆く部分。よねは目の角度から寅子を見ていることが分かる。
寅子は立ち上がる際に、よねを一瞬見ます。よねは泣いている。嬉し涙です。寅子が意義のある裁判にしてくれたことの。よねは微かに頷いています。裁判は原告側敗訴でしたが一矢報いました。
そして尊属殺の裁判もこれに呼応します。

 

 

第116回
竹中次郎記者。初の著作。竹中が言おうとしたのは、「思い残すことはない」でしょうが、寅子の前向きな目を見て言うのをやめます。竹中記者、笑顔で退場。
山田轟法律事務所に来た寅子。「私」の後に来る言葉は航一との会話で明かされます。「できることはやった」です。「でもこれで原告の被爆者の方が報われる訳じゃない」
声を上げ続けることの大切さ。分け合う、もがく。
写真では寅子と優未が手を繋いでいましたが、百合さんは義理の息子の航一と手を繋いで退場します。対になりました。

高麗屋久しぶりに登場。「腹の傷、見るか」。原田左之助だったようだ。

優未は大学院生。
博士課程3年まで行きます。

慈母の目をした寅子。
桂場、最高裁長官就任。星家にテレビが現れたのはこれが初めてで、いきなりカラーです。

 

 

第117回
尊属殺裁判。
笹寿司と竹もとを合わせた笹竹誕生。

高麗屋は病み上がりなので猫背。なので伊藤さんは顎を引いて高麗屋を上目遣いで見つめます。この眼差しが美しい。

航一が階段を下りるシーン。声が老けてます。息が抜けます。

東大安田講堂占拠事件。

汐見とヒャンちゃんの娘、薫。こちらの薫は娘なので女です。小泉進次郎構文みたいですが、あちらの薫は息子なので男です。
美位子。深刻なことほど明るく言う女性。尊属殺の犯人。寅子はやはりその場にいない人の話を嫌う。

穂高先生は尊属殺は違憲と主張するも退けられていた。

原爆裁判を争った反町は寒河江議員の秘書に。

興福寺阿修羅像の目をした寅子。全身から優しさが溢れ出る。背が低いのもプラス。

 

 

第118回
始まる前から泣いている中山先輩。早いと指摘したよねも怒るのが早い。中山先輩、泣くのも早いが怒るのも早い。寅子はこれまでとは別人のように冷静。

一方の航一は人が変わったように情緒を乱す。

行政の司法への介入。露骨に嫌悪感を示す桂場。

「自己批判」は文化大革命でよく使われた言葉ですが、文革の実態は日本ではまだ明らかになっていない時代。ソ連の「インターナショナル」が歌われますが、武満徹がギターソロ版に編曲したものが美しいです。村治佳織盤がお薦め。

過敏性腸症候群の優未。生田絵梨花さんも最近、過敏性腸症候群の役をやられていましたし、中谷美紀さんもやられています。「R17」ってドラマだったかな。

階段を上るのも苦しそうな航一。確実に老いていきます。

 

 

第119回
のどかの恋人、誠也。
優未は大学院生博士課程3年だが中退を考える。ポスドク問題。競争社会で勝てと航一。
「航一さん、黙って!」
航一の言うことも正論だが、寅子は優未の意志を尊重。はるさんとの会話のリフレイン。そしてラストへ繋げる。

誠也のウルトラポジティブな勘違い。間違いの喜劇。
はるかはそんなこと言ってないのだが、結婚話が進む。航一と寅子の対比。航一興奮しすぎ。
寅子「あら嫌だ怖い」
航一、語るが寅子、無視するように話を始める。「大丈夫?」は伊藤さんのアドリブ。不意打ちに近いが岡田さん、よく返す。全て寅子中心に回るが、寅子は常に航一を気にかけている。というより寅子しか航一にしか気を配っていない。この夫婦は寅子の方が上手。
興奮しすぎて倒れる航一。家族が大丈夫だと思ってるんだから大丈夫でしょう。
寅子「怒っている航一さんもチャーミングでしたよ」のフォローからの「お疲れ様でした」即退散。航一、振り回されて笑うしかない。これ撮ってスタッフは楽しくて仕方ないと思います。
少年法改正論議。ライアンの静かな怒り。
公害裁判。企業側に不利となる桂場の判断。
寅子同様、降参した優未。「モン・パパ」以外も歌えるように(「恋の季節」。寅子からの自立の第一歩か)。
死を覚悟する幸四郎。

 

 

第120回
高麗屋の家に集う人々。穂高イズムは何度もリフレインされます。
「ありえない」はヒャンちゃんの口癖。
小橋と稲垣からヒャンちゃんを隠す寅子。隠すのやーめた。二人ともヒャンちゃんを覚えていました。
すぐ抱擁したがる高麗屋。小橋は演出家さんに特別に出世する設定に変えてもらったそうです。
少年法改正反対。刑罰よりも更正を。それが再犯防止。愛を語る滝藤さん。師の仲代さんが乗り移ったかのような名演技。

高麗屋、桂場に来て欲しいと電話。断る桂場。結局、会えずに終わる。

歴史の流れの中では人間は小さい。トルストイが『戦争と平和』でナポレオンについて何度も書いたように。
多岐川逝く。朝鮮滞在経験があり、朝鮮と朝鮮人に理解を示し、朝鮮人のヒャンちゃんを庇護したまさに高麗屋。

「瀬を早み岩にせかるるたき川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(崇徳院)
意味は偶然にも、さよーならまたいつか!

 

 

第121回
銀残し風の映像。
よね、今日は白髪染めが粗め。

寒河江幹事長。アル・カポネみたい。司法への介入。

朋一の勉強会。

「国民」「社会」という曖昧な主語。

笹竹にて。注文していない団子を道男から差し入れとして貰う。目をクシャとさせてじっくり味わう寅子が可愛い。

おそらく同和問題。
今も真偽不明の一覧がネット上に出回る。

集団左遷。ブルーパージ。朋一の強がりを航一は見抜く。

 

 

第122回
寅子、音羽屋(円井わん)とのコンビ。

桂場と対峙する寅子。ブルーパージを認める桂場。
ブルーパージの理由を述べる桂場だが、本当に寅子は「理由が分からない」と言っているのでしょうか。主語を切り替えて「あなたが分かりません」と言っているのではないでしょうか。桂場が語った内容には触れません。
聞くのは桂場のスタンスについて。桂場の述べた理由は「純度が低い」どころか正論でもない。ただの決めつけ。寅子は真意を見抜けなかった桂場に、「私の言うことももう分からないんですか?」と聞いてきます。ハイテクスト。
穂高イズムを否定する桂場。

暴力は魂を殺す。人類は繰り返してきた。

 

 

第123回
音羽屋、家裁のバランスと性質を疑問視。家裁のために東奔西走した寅子ですが、下の世代には伝わっておらず。ただ人事の問題とはいえ、家裁を離れていたのも事実。

少年犯罪討論会。マスコミへの不信を語る直明と寅子。
「寄り添う」というキーワード。

明律会。航一は明律OBではないので遠慮。
青春の日々の回想。「輝いた青春の木漏れ日が眩しい」

 

美佐江によく似た少女、美雪登場(片岡凜二役)。前歯を突き出すようにした不気味な笑顔。揺らぐカメラ。
でも美雪、演技は下手。
音羽屋の腕を探る。寅子のトラウマ。

 

 

第124回
直道の精神を受け継ぐ寅子。お兄ちゃん大好き。まるで伊藤沙莉って子みたい。

美雪、大根演技。この時、片岡さんは両肩を前ですぼめて、不自然に見えないよう両手を前で重ねています。

言いよどむ美位子。

涼子さん、司法試験合格。しかし法曹にはならず。知ったかぶりする世間への反抗。
法曹になることだけが法の道ではない。

よね、煎餅をこぼす。
伊藤さん「ぶちまけたわね」とアドリブ。土居さん、顔が笑ってる。桜井さん、「お醤油煎餅」を食べながらだったので「おしょうず煎餅」と噛む。伊藤さんの「なんですって?」に吹き出す二人。
本来NGのはずが可愛いので採用テイクに。
自分だけが不幸なんじゃないと確認したい美位子。よねに見抜かれる。

朋一、裁判官を辞める決意。

 

 

第125回
航一対桂場。
航一、言ってる内容が寅子。そして穂高先生。穂高先生と喧嘩した寅子サイドが穂高を擁護し、穂高イズムの継承者であるはずの桂場が穂高を否定するという逆転の構図。半沢直樹が始まった。かと思ったが半沢ではないので、鼻血が。
なんか可愛い桂場。
航一が目を閉じているシーン。
なのでそれを利用してサプライズのハッピーバースデーが行われた場面でもあります。

寅子必殺の上目遣い。
桂場との思い出。法律を知った若い頃の本当の自分。桂場と穂高先生、肯定される。
「どの私も私。つまり全部含めてずっと私」

「はて? 妬ける? 何に?」。ここはチェンジアップです。寅子は分かってます。航一とじゃれてるだけ。笑い合う二人。桂場も妬かれてるのが自分なので怒れません。
朋一を見つめ続ける寅子の視点ショット。愛情に溢れています。

意見をちゃんと読んでくれる桂場。ちゃんとした人。

美佐江の死。残されたメモ。人に見られた時のことを考えてわざと数ページ空白。美佐江、頭いい。
青春の蹉跌。罪の告白。「身ごもれば」。例えば太宰治の『斜陽』はそんな話。

意図的に文章を変えて読み変える片岡さん。

あの後、美佐江と話し合いたいと言っていたのに、ライトハウスで会っても何も出来ず、フォロー出来なかった。美佐江が墜ちた「孤独地獄」

 

芥川龍之介 「孤独地獄」

 

 

第126回
美雪が手帳を忘れたのはわざとで、手帳を「こんな大切なもの」と寅子に聞かせるためです。片岡さんが敢えて下手に演じているので、美雪の意図がバレていますが。

航一「寅子さんの独り言を盗み聞きするつもりはないよ」
これは「何でも聴いてあげるから話してご覧」の言い換え。一々ハイテクスト。
航一の「ちちんぷいぷい」。ものすごい顔で受ける寅子。

家具職人を目指す朋一。ハリソン・フォードみたい(ハリソン・フォードの前職は大工とされていますが、戸田奈津子さんによると家具職人に近いようです)。

尊属殺裁判。
よねの弁論は史実ベースです。「はて?」はそれが寅子の口癖だと分かるものに向けて発せられたもの。

六道。「畜生道」以下は「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」

「無力な司法を」「嘆かざるを得ない」
寅子が着想した設定の原爆裁判判決文「政治の貧困を嘆かずにはおられない」と対になる。
寅子は政府をよねは司法を批判。二人が盟友であることが分かる瞬間。

 

 

第127回
美雪は相変わらず肩を前にすぼめています。

「どうして人を殺しちゃいけないのか」。人類の歴史は戦争の歴史で人を殺し続けてきた訳です。

寅子の答えは特別なものではありません。ただ母親を社会に殺されたようなものの美雪には効きます。仏教の基本に待機説法というものがあるのですが、それに近いものがあると思います。仏教系苗字の漆間さん(法然上人が出た家と同じ苗字)いましたね。待機説法は「寄り添う」ことでもあります。かつて寅子は一般論を述べて寄り添ったつもりでした(見抜かれて襲撃される)。今は違います。
実は釈迦も答えの出ない質問には答えませんでした。
「分からないからこそやらない」はそれに通ずるものがあります。

寅子を正面から捉えた映像で寅子は顔を向かって左に傾けています。美雪が顔を向かって右に傾けているのでそれに合わせています。視覚的な「寄り添う」です。

ここで唐突に美雪は美佐江の話をします。母親の話はしていないのに。
美佐江が残した言葉の呪縛です。はるさんが自身の日記を燃やすよう言ったのは自分が残した言葉にとらわれて欲しくなかったのも一因。寅子の性格ならとらわれてしまう可能性はあります。
美雪は美佐江の亡霊を背負っている。
それを看破する寅子。ここでの片岡さんの表情の移り変わり、いいです。
刃物を取り出す美雪。寅子は昔と違い、うろたえません。「救うに値しない」。これは意味は違いますが、ナチスのT4作戦を連想させます。
ただ美雪言っているのはどちらかというと優生思想です。
美佐江が優れていたのか怪物だったのかもう分かりません。もう彼女はこの世にいません。ライトハウスで会っているのに何もしなかったんです。何もしないのは見捨てたも同然です。
見捨てた結果が美幸を母親の虜にします。美雪から呪縛から解こうとする寅子。美雪は自分が特別でありたいのですが、そんな必要はありません。憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」。特別でなくても尊重されるんです。伊藤さん、瞬きをしない演技。
美雪は出て行く。疲労困憊の寅子。三條リフレイン。やはり疲労困憊になるシーンがありました。寅子は全力でぶつかるんですね。

半年後、美雪との再会。美雪は肩を張ってます。姿勢から違います。
寅子の背後から西日が差して後光のよう。まるで寅薬師。西光寺。

 

 

第128回
最高裁開廷。

寅ちゃんさんと美位子との対話。罪の意識。美位子、悪魔の囁きを受けている状態。憲法第31条「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」。判決は出ていないので自分を罰する必要はありません。憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。寅ちゃんさんの答えはこれがベースです。

桂場、尊属殺を否定。桂場最後の仕事となった。どうやら甘いものが不足。
そうだ、多岐川が絵にしたチョコレートがあった。
繋がった。

美位子、自由に。サルトル「人間は自由の刑に処されている」。でも実際の刑よりはましでしょう。

寅子。声よりも抜ける息の方が大きい。老いが訪れる。

「愛」

清志郎「愛しあってるかい?」「Love&Peace」
寅子は他責を主張。直後に効きます。

美位子「さよなら」
寅ちゃんさん「またいつか」

 

 

第129回
他責、何かのせいを、何かのお陰とプラスに転換。「My Favorite Things」リフレイン。拠り所を作って欲しいと言ったのは寅子です。寅子の育て方を優未が肯定。

優三登場。航一も気配を察することになるのでイマジナリーではなく幽霊です。
優三は寅子に「好きに生きること」を願い、寅子も優未にそれを繋げました。感謝する優三。

航一帰宅。「泣いてました?」。三條リフレイン。「二人だけ」と本当に二人だけの時は言わないことを口にする寅子。

航一「(茶室に誰かいたな)」

横浜家裁の所長に就任することになった寅子。
花江ちゃん長ゼリフ。やっぱり癖出てますね。気づいている人、少ないので大丈夫。
夫(寅子にとっては兄)に成り代わって花江ちゃんを賞賛する寅子。最大級のリスペクト。三條女子会リフレインですが、これはアドリブでしょう。

寅子。三淵嘉子さんと同じ服装。

笹竹にて。有志によるお祝い。
「たとえば君がいるだけで心が強くなれること」

和服姿の桂場。指定席に座る。
寅子の前で、団子を、食べた。寅子も邪魔しませんでしたが、相手を信頼している証。
法とは船のようなもの。例えば憲法は国を規定するものなので、日本を船に例えることにもなります。
そして憲法第14条からの憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」

桂場「私は今でもご婦人が法律を学ぶことも職にすることも反対だ」

 

 

第130回
星寅子にはならなかったが、星になった寅子。音楽なしでのラジオ体操。三條リフレイン。三條市は金物工業が盛んな街で、朝ドラバトンタッチの時に伊藤沙莉さんは三條産のフライパンを橋本環奈さんに贈っています。

時は飛んで平成11年。優未は自分の得意を生かした静かな生活。
家族に親族、お弟子さんや仕事仲間はいても、友達はいないようですね。それでも寂しくはなさそう。

花江ちゃんは最後までしたたかな女。

本物の笹竹(竹むら)の外観。

優未は寅子がいつも座っていた席で寅子そっくりの団子の食べ方。

死後も寄り添う寅子。

営業の仕事に就いたと思われる美雪。
突然のクビ宣告。法律の力で助けようとする優未。星になった寅子の後押し。親子二代で美雪と関わる。舞台は寅子青春の御茶ノ水。

朋一は家具職人、のどかは美術関係の仕事を選択。
憲法第22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」

老境、航一。
寅子「法律は船のようなもの」
優未「法律はお母さん」
優未の見解は効いてきます。

航一の独り言。余生が諦観に満ちたものから楽しむものに変わる。
実は霊感があって寅子と話せる。「はて?」と「なるほど」の交代、というよりももう二人の言葉になっているのでしょう。

航一「ほら、あの時ですよ」

あの時、
笹竹での桂場との対面。法を知れば知るほど女性たちは苦しむ。だから女性が法に関わることに桂場は反対する。

穂高イズム最後まで生きる。
犠牲になるのも自ら望むものなら、それが未来に繋がるのなら至極光栄。「人はみな大河の一滴」(五木寛之)

今はもう寅子の志を受け継ぐ者がいる。
明律大学の仲間だけではない。後輩もいる。
桂場、前言撤回。時代は変わった。

はるさん登場。
優未「法律はお母さん」
六法全書を寅子に買い与えたのは、はるさん。法律は寅子の翼。つまり翼を与えたのははるさんで、はるさんが翼=法律。
法とは何かを問う寅子。
最後のピントは女性たちではなく悠然と団子を味わう桂場に合っています。
思えば、最初に寅子の能力を見抜いたのはあなたでしたよね。寅子、ものになりましたよ。おめでとうございます。どうですか、勝利の味は。

女性の地位はまだ低いです。彼女たちも犠牲になるのかも知れません。しかし、
「いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です」(太宰治『斜陽』)

さよーならまたいつか!

あー、終わっちゃった。
法律とは、憲法なら国家を規定するものではありますが、国民を等しく照らし肯定する太陽のようなものと申しましょうか。中でも憲法第11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」

「私は私、全て私」と肯定でき、将来の人々に生まれた日から「私は私」を保証するこの条文は燦々と輝いています。
完走しました。読んで下さる方がいらっしゃるんですね。どなたか分からないのですが嬉しいです。

あ、プロデューサーの伊藤沙莉さん、最高でしたよ。

「このつぎの人生も会いましょう」(サーカス「風のメルヘン」より)

 

| | | コメント (0)

コンサートの記(877) ユベール・スダーン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2024

2024年12月30日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。指揮はユベール・スダーン。

イギリスと並ぶ古楽の本場、オランダ出身のスダーン。2019年には京都市交響楽団の年末の第九を指揮しており、オランダ出身らしいピリオド援用の演奏を聴かせたが、今回も同様のアプローチが行われることが予想される。

今日は最前列ほぼ下手端での鑑賞。フェスティバルホールの最前列端側で第九を聴くのは旧フェスティバルホールを含めてこれが3回目だが(前回の指揮は尾高忠明、前々回の指揮は大植英次。大植指揮の第九は旧フェスティバルホール最終公演となったもの)、指揮者の姿が全く見えない。そのため、予め配置などを確認。指揮台は用いず、譜面台に総譜を置いての指揮。スダーンは基本的にノンタクトで振るが、見えないので確認出来ず(入退場時には指揮棒を手にしていなかった)。ドイツ式の現代配置での演奏である。バロックティンパニが用いられ、指揮者の正面よりやや下手側に置かれる。その更に下手に台が設けられ、第4楽章だけ出番のある大太鼓、シンバル、トライアングル奏者が陣取る。3人とも板付きである。

今日のコンサートマスターは須山暢大。独唱は、今井実希(ソプラノ)、富岡明子(アルト)、福井敬(テノール)、妻屋秀和(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
合唱団は最初から舞台に上がり、独唱者は第2楽章終了後に下手から入場。今日は独唱者が現れても拍手は起こらなかった。

オーケストラ奏者も第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの後ろ姿が見えるだけ。第4楽章のみ登場する打楽器の3人は全身が見えるが、その他はホルンのセカンドに入った蒲生絢子の横顔が確認出来るだけである。ただ蒲生さんは手元も見え、指の動きだけで「この人は上手い」と悟ることが可能であった。

全般的に速めのテンポを採用。特に「歓喜に寄す」の合唱はかなり速い。実演に接したことのある第九の中では上岡敏之の次に速いと思われる。弦楽器は完全にH.I.P.を採用。ビブラートを控えめにし、しばしば弓を弦から放して音を切るように演奏する。音の末尾では弓を胴体から大きく離していた。
版であるが、第4楽章末尾のピッコロの浮かび上がりは完全にベーレンライター版のそれであった。ただ第2楽章は一般的なベーレンライター版の演奏とは異なっており、ティンパニが5つの音を強、強、強、強、弱で叩く場面は全てフォルテで通し(これは京響との第九でも同様であった)、比較的長めのホルンのソロはセカンドの蒲生絢子も一緒に吹いていたため、ソロではなくなっていた。
第1楽章でもホルンが浮き上がる場面があったが、これはホルンに近い席に座っていたためそう聞こえた可能性もあり、どの版を使ったのは正確には分からなかった。
バロックティンパニを使ったことによりリズムが強調され、京響を振ったときと同様、ロックな印象を受ける。
第3楽章冒頭では弦楽がノンビブラートとなり、ガット弦に近いような鄙びた音を発していた。
最前列で音が上方から降ってくるような印象を受けたこともあって、第2楽章はやはり宇宙の鳴動のように聞こえる。

ベートーヴェンを得意レパートリーとしている大フィルらしい重厚さと軽妙さを合わせ持った演奏。ピリオド・アプローチを得意とするスダーンの指揮でベートーヴェンの他の交響曲も聴いてみたくなる。独唱者と大阪フィルハーモニー合唱団も快速テンポをしっかりと歌いこなしていた。


大フィルの楽団員がステージを後にしてから会場が溶暗となり、恒例のキャンドルサービスによる「蛍の光」の合唱が福島章恭(ふくしま・あきやす)の指揮で歌われて、去りゆく令和6年を思い返し、しみじみとした心地となった。

Dsc_7215_20241231164201

| | | コメント (0)

コンサートの記(876) ガエタノ・デスピノーサ指揮 京都市交響楽団特別演奏会「第九」コンサート 2024

2024年12月28日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「第九」コンサートを聴く。指揮はガエタノ・デスピノーサ。

コロナの時期には海外渡航が制限されたということもあり、半年近くに渡って日本国内に留まって様々なオーケストラに客演したデスピノーサ。指揮者不足を補い、日本のクラシック楽壇に大いに貢献している。入国制限により来日不可となったラルフ・ワイケルトの代役として大阪フィルハーモニー交響楽団の年末の第九も指揮した
イタリア・パレルモ出身。ヴァイオリン奏者としてキャリアをスタート。ザクセン州立歌劇場(ドレスデン国立歌劇場)のコンサートマスターとして活躍し、当時の音楽監督であったファビオ・ルイージの影響を受けて指揮者に転向。2012年から2017年までミラノ・ヴェルディ交響楽団首席客演指揮者を務めている。歌劇場のオーケストラ出身だけにオペラも得意としており、新国立劇場オペラパレスでの指揮も行っている。

独唱は、隠岐彩夏(ソプラノ)、藤木大地(カウンターテナー)、城宏憲(テノール)、大西宇宙(おおにし・たかおき。バリトン)。合唱は京響コーラス(合唱指導:小玉洋子、津幡泰子、小林峻)。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。ヴィオラの客演首席には湯浅江美子、チェロの客演首席には水野優也が入る。ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏だが、ソリストと合唱団はステージ上に設けられたひな壇状の台の上で歌うため、ティンパニは舞台上手端に設置され、そのすぐ横にトランペットが来る。

ステージにまず京響コーラスのメンバーが登場し、次いで京響の団員が現れる。独唱者4人は第2楽章演奏終了後に下手からステージに上がった。

デスピノーサは譜面台を置かず、暗譜での指揮である。頭の中に入っているのはベーレンライター版の総譜だと思われる。


弦楽が音の末尾を切るなど、H.I.P.を援用した演奏。アポロ的な造形美が印象的である。京響の明るめの音色もプラスに働いている。
第2楽章では最後の音をかなり弱めに弾かせたのが特徴。またモダンティンパニを使用しているが、この楽章のみ先端が木製のバチを使って硬めの音で強打させていた(ティンパニ:中山航介)。
第3楽章は比較的速めのテンポを採用。ロマンティシズムよりも旋律の美しさを優先させた演奏である。

通常はアルトの歌手が歌うパートを今回はカウンターテナーの藤木大地が担うが、音楽的には特に問題はない。女声の方がやはり美しいとは思うが、たまにならこうした試みも良いだろう。定評のある藤木の歌唱だけに音楽性は高い。
端正な演奏を繰り広げるデスピノーサだが、たまに毒を忍ばせるのが印象的。美演ではあるが、綺麗事には留めない。第4楽章では裁きの天使・ケルビムの象徴であるトロンボーンを通常よりかなり強めに吹かせており、人間が試される段階に来ていることを象徴しているかのようだった。

Dsc_7201

| | | コメント (0)

2024年12月30日 (月)

コンサートの記(875) 井上道義 ザ・ファイナルカウントダウン Vol.5「最終回 道義のベートーヴェン!究極の『田園』『運命』×大阪フィル ありがとう道義!そして永遠に!」

2024年11月30日 大阪・福島のザ・シンフォニーホール

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、井上道義 ザ・ファイナルカウントダウン Vol.5「最終回 道義のベートーヴェン!究極の『田園』『運命』×大阪フィル ありがとう道義!そして永遠に!」を聴く。今年の12月30日をもって指揮者を引退する井上道義が、大阪フィルハーモニー交響楽団と行った5回に渡るファイナルカウントダウンコンサートの5回目、つまり今日は井上と大フィルとのラストコンサートとなる。

1946年、東京生まれの井上道義。父親は井上正義ということになっているが、正義は育ての父で実父はアメリカ人である(ガーディナーさんという人らしい)。井上道義は40歳を過ぎてからそのことを知ったそうだ。
成城学園高等部を経て、桐朋学園大学指揮科に入学。グイド・カンテッリ指揮者コンクールで優勝して頭角を現す。若い頃は指揮者の他にバレエダンサーとしても活躍した。
ニュージーランド国立交響楽団首席客演指揮者に就任したのを皮切りに、新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督、京都市交響楽団音楽監督兼常任指揮者、大阪フィルハーモニー交響楽団首席指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任。
大阪フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者時代(最初は第3代音楽監督への就任を打診されたようだが、荷が重いとして首席指揮者に変えて貰ったようである)は1期3年のみに終わったが、第500回定期演奏会で、朝比奈隆へのリスペクトを露わにした「英雄」交響曲を演奏したり、レナード・バーンスタインの「ミサ曲」を上演するなど、多くの話題を提供した。


今日の演目は、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」と交響曲第5番「運命」という王道プログラム。おそらく日本で最もベートーヴェンの楽曲を演奏しているであろう大阪フィルとの最後に相応しい演目である。


「田園」と「運命」とではアプローチが異なり、「田園」は初演当時に近い第1ヴァイオリン8人の小さめの編成での演奏。「運命」はフルサイズで挑むことになる。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。

配置であるが独特である。ぱっと見はドイツ式の現代配置であるが、実は第1ヴァイオリンの隣にいるのはヴィオラであり、ヴィオラと第2ヴァイオリンの場所が入れ替わって、ヴァイオリンの対向配置となっている。具体的に書くと、舞台下手前方から時計回りに、第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンとなる。音の低い楽器を奥に置いた格好だ。コントラバスは普通に上手奥に置かれる。同じ編成を誰かがやっていた記憶があるが、誰だったのかは思い出せない。
またティンパニは指揮者の正面奥に置かれているが、「田園」では正面のティンパニではなく、上手奥に置かれたバロックティンパニが使用された。


交響曲第6番「田園」。指揮台を用いず、ノンタクトでの指揮である。
通常の演奏とは異なる楽器が鳴る場面があったり、第5楽章でチェロが浮かび上がるなど、聴いたことのない場面があるが、おそらくブライトコプフ新版の楽譜を使用したのだと思われる。初挑戦の可能性もある。最後までチャレンジを行うのが井上流だ。

弦楽器のビブラートは多めであるが、旋律の歌い方に角張ったところがあるなど、完全にピリオド・アプローチでの演奏である。モダンスタイルのように自然に流さないので、却って鄙びた趣が出て良い感じである。ピリオドではあるが、学問的・学究的な感じではなく、面白く聴かせることに心を砕いているのも井上らしい。
第3楽章や第5楽章では終盤にグッとテンポを落としたのが印象的であったが、「田園」交響曲の性格を考えた場合、効果的だったのかどうか少し疑問は残る。
なお、「田園」交響曲には、ティンパニ、トランペット、トロンボーンなど、第4楽章まで出番のない楽器があるのだが、彼らは第3楽章の演奏途中に上手側入り口からぞろぞろと登場。舞台上手後方に斜めに着座して第4楽章から演奏に加わる。結果としてロシア式の配置ともなった。井上らしい視覚的演奏効果である。
ノンタクトということもあって、それこそバレリーナのような身のこなしで指揮を行う井上。自分を出し切ろうという覚悟も感じられる。

演奏終了後、井上は、「休憩の後、アンコールとして第5をやります」と冗談を言っていた。


ベートーヴェンの交響曲第5番。この曲では指揮台を用い、タクトを手にしての指揮で、視覚的にも「田園」と対比させている。演奏スタイルも完全にモダンだ。ヴァイオリンの対向配置は、「田園」ではさほど意味は感じられなかったが、この曲では音の受け渡しが分かりやすくなって効果的である。
4つの音を比較的滑らかに奏でさせる流線型の格好いいスタート。フェルマータの後の間は短めで、流れ重視のドラマティックな演奏であるが、音のドラマよりも全体としての響きと4つの音からなる構築感を優先させているようにも感じられる。たびたび左手を大きく掲げるのが特徴だが、これは外連のようで直接音楽的に変化があるわけではない。
第1楽章でのホルンの浮かび上がり、ティンパニのロールの違いや第4楽章でのピッコロの音型などからやはりブライトコプフ新版の譜面を用いた可能性が高いと思われる。
若い頃、盟友の尾高忠明と共に「桐朋の悪ガキ・イノチュウ(「チュウ」は尾高忠明の愛称で、「忠」を音読みしたもの)」と呼ばれた井上道義。尾高さんは大分ジェントルになったが、井上さんは、「俺は絶対に丸くなんかならない」という姿勢を貫き通し、やりたいことを全てやるという、最後まで暴れん坊のいたずら小僧であった。
最後の音を、井上は両手で指揮棒を持って剣道のように振り下ろす。今後も井上指揮のコンサートはあるが、関西ではこれが最後。私にとっても最後の井上体験である。ラストの指揮姿は永遠に忘れないだろう。

井上は元バレエダンサーということでクルクル回りながら退場。客席を沸かせる。
再登場した井上に、下手側から花束を手にした大フィルのスタッフが歩み寄るが、今度は上手側から大フィル事務局長の福山修さんが花束を持って登場。男からではあったが両手に花となった。
井上は、「もうアンコールはありません」と言った後で指揮台に上がり、「長い間ありがとうございました」と頭を下げた。


楽団員が退場した後も、鳴り止まない拍手に応えて井上は二度登場。最後は女性楽団員2人がコンサートマスターの崔文洙と共に現れ、女性団員がかしずいて井上に花束を捧げる真似をして(やはり男性から両手に花よりも女性から両手に花の方がいいだろう)、それを崔文洙が賑やかすということをやっていた。

Dsc_7028

| | | コメント (0)

2024年12月29日 (日)

2346月日(42) ナカノシマ大学2024年12月講座「大阪にオーケストラを! 江戸っ子・朝比奈隆の冒険」

2024年12月19日 大阪の中之島図書館にて

午後6時から、大阪・中之島の中之島図書館で、ナカノシマ大学2024年12月講座「大阪にオーケストラを! 江戸っ子・朝比奈隆の冒険」を受講。講師は、実業之日本社代表取締役社長で、編集者・音楽ジャーナリストの岩野裕一(いわの・ゆういち)。
岩野裕一は1964年東京生まれ。上智大学卒業後、実業之日本社に入社。社業の傍ら、満州国時代の朝比奈隆に興味を持ち、国立国会図書館に通い詰め、研究を重ねた。著書に『王道楽土の交響楽 満州-知られざる音楽史』(音楽之友社。第10回出光音楽賞受賞)、『朝比奈隆 すべては交響楽のために』(春秋社)。朝比奈隆の著書『この響きの中に 私の音楽・酒・人生』の編集も担当している。


日本を代表する指揮者であった朝比奈隆(1908-2001)。東京・牛込の生まれ。正式な音楽教育を受けたことはないが、幼い頃からヴァイオリンを弾いており、音楽には興味があった。旧制東京高校に進学(現在の私立東京高校とは無関係)。サッカーが得意で国体にも出ている。京都帝国大学法学部に進学。京都帝国大学交響楽団にヴァイオリン奏者として入る。当時の京大にはウクライナ出身の音楽家であるエマヌエル・メッテルがおり、朝比奈はメッテルに師事した。メッテルは服部良一の師でもあり、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」に登場した服部良一をモデルにした音楽家、羽鳥善一(草彅剛)の自宅の仕事場に置かれたピアノの上にはメッテルの写真が置かれていた。
メッテルの個人レッスンは、神戸のメッテルの自宅で行われている。曜日が異なるので、朝比奈と服部が顔を合わせることはなかったが、服部良一の自伝によると、メッテルは朝比奈には「服部の方が上だ」と言い、服部には「朝比奈はそれくらいもう出来ているよ」と言ってライバル心を掻き立てる作戦を取っていたようだ。
京都帝大を出た朝比奈は、阪急に就職し、運転士の訓練を受けたり阪急百貨店の販売の仕事をしたりしたが(阪急百貨店時代には、NHK大阪放送局がお昼に行っていた室内楽の生放送番組に演奏家として出演するためにさりげなく職場を抜け出すことが何度もあったという)、2年で阪急を退社。退社する際には小林一三から、「どうしても音楽をやりたいなら宝塚に来ないか」と誘われている。宝塚歌劇団には専属のオーケストラがあった。それを断り、京都帝国大学文学部哲学科に学士入学する。しかし、授業には1回も出ず、音楽漬けだったそうだ。丁度同期に、やはり全く授業に出ない学生がおり、二人は卒業式の日に初めて顔を合わせるのだが、その人物は井上靖だそうで、井上は後年の随筆で、第一声が「あなたが朝比奈さんでしたか」だったことを記している。

京都帝国大学文学部哲学科在学中に大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)に奉職。3年後には教授になっている。なお、大阪音楽大学には指揮の専攻がないため、ドイツ語などの一般教養を受け持つことが多かったようだ。後に大阪音楽大学の優れた学生を大阪フィルハーモニー交響楽団にスカウトするということもやっている。
大阪音楽学校のオーケストラを振って指揮者としての活動を開始。京都大学交響楽団の指揮者にもなっている。1940年には新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮して東京デビュー。翌年には東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)出身のピアニスト、田辺町子と結婚し、居を神戸市灘区に構える。町子夫人とは一度共演しているが、結婚後は「指揮者の妻が人前でピアノを弾くな」と朝比奈が厳命。町子夫人は大阪音楽大学の教員となり、ピアニストとしての活動はしなくなった。この町子夫人は101歳と長命だったそうだが、大阪フィルの演奏会を聴きに行き、「私より下手なピアニストが主人と共演しているのが許せない」と語るなど、気の強い人であったようだ。

その後、外務省の委嘱により上海交響楽団の常任指揮者となる。上海交響楽団はアジア最古のオーケストラとして知られているが、この当時の上海交響楽団は現在の上海交響楽団とは異なり、租界に住む白人中心のオーケストラであった。
その後、満州国に移住しハルビン交響楽団と新京交響楽団の指揮者として活躍。ハルビン交響楽団は白人中心のオーケストラ、新京交響楽団は日本人、中国人、朝鮮人の混交の楽団だったようである。町子夫人は満州に行くことに文句を言っていたようだ。

終戦はハルビンで迎える。「日本人は殺せ!」という雰囲気であり、朝比奈も命からがら日本へと帰る。

朝比奈隆は朝比奈家の生まれではない。小島家に生まれ、名前も付けられないうちに子どものいなかった朝比奈家に養子に入っている。本人はずっと朝比奈家の子どもだと思っていたようだが、両親が相次いで亡くなると、近所に住む小島家のおばさんから、「あなたは家の子だから」と告げられ、小島家で暮らすようになる。朝比奈家では一人っ子だと思っていたが、兄弟がいたことが嬉しかったようである。朝比奈の養父である朝比奈林之助は「春の海」で知られる宮城道雄と親しく、宮城は弟子への稽古を朝比奈家の2階で付けていたそうで、朝比奈隆は宮城道雄の音楽を聴いて育ったことになる。宮城道雄は朝比奈林之助のために「蒯露調」という曲を書いている。

さて、朝比奈の実父であるが、小島家の人間ではない。日本を代表する大実業家である渡邊嘉一(わたなべ・かいち)が実父である。小島家は渡邊の妾の家だったのである。
渡邊は京阪電鉄の初代専務取締役であった。朝比奈隆というと阪急のイメージが強いが、バックにあったのは実は京阪だったようだ。朝比奈が阪急に入ったのもコネ入社で、渡邊嘉一が小林一三に「預かってくれないか」と頼んだようである。
後に朝比奈は大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮するのみでなく経営にも携わるのだが、それには渡邊の実業家としての血が影響している可能性があるとのことだ。

さて、終戦後、関西の楽壇では「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」という雰囲気であり、実際に朝比奈が1946年に帰国すると、翌47年に関西交響楽団が組織され、朝日会館で第1回の定期演奏会を行っている。「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」は朝比奈の音楽性もさることながら、京都帝国大学を二度出ているため、同級生は大手企業に就職。その人脈も期待されていた。
1949年には関西オペラグループ(現・関西歌劇団)を発足させ、オペラでの活躍も開始。当初は演出なども手掛けていたようだ。
ちなみに朝比奈は大阪フィルを、関西交響楽団時代も含めて4063回指揮しているそうだが、「楽団員を食わすため」とにかく指揮しまくったようである。
当時、東京にはオーケストラが複数あったが、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団(文化放送・フジテレビ)、東京交響楽団(元は東宝交響楽団で、東宝とTBSが出資)と全てメディア系のオーケストラであった。そうでないオーケストラを作るには「大阪しかない」と朝比奈も思ったそうである。京都帝国大学を出て阪急に入った経験があり、関西に土地勘があるというだけではなかったようだ。

二度目の京都帝国大学時代、上田寿蔵という哲学者に師事しているのだが、上田は、「音楽は聴衆の耳の中で響くもの」とし、「西洋音楽だから日本人に分からないなんてことはない」という考えを聞かされていた。
東京では、齋藤秀雄とその弟子の小澤征爾が、「日本人にどこまでクラシックが出来るのか実験だ」という考えを持っていた訳だが、朝比奈は真逆で、その後にヘルシンキ市立管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っているが、「自分がやって来たことが間違っていないか確認する」ために行っており、本場西洋の楽壇への挑戦という感じでは全くなかったらしい。朝比奈的な考えをする日本人は今ではある程度いそうだが、当時としては異色の存在だったと思われる。

朝比奈と大阪フィルハーモニー交響楽団は、関西交響楽団時代も含めて、朝比奈が亡くなるまでの53年間コンビを組んだが、これも異例。オーケストラ創設者は創設したオーケストラから追い出される運命にあり、山田耕筰や近衛文麿も新交響楽団を追われているが、朝比奈は近衛からそうならないように、「自分たちで稼ぐこと」「間断なく仕事を入れること」などのアドバイスを受けて大フィルと一心同体となって活動した。更に日本の他のオーケストラに客演した時のギャラは全て大阪フィルに入れ、レコーディングなどの印税も大フィルに入れて、自身は大阪フィルからの給料だけを受け取っていた。神戸の自宅も戦前に建てられたものをリフォームし、しかもずっと借家だった。朝比奈の没後の話だが、町子夫人によると、税務署が、「朝比奈はもっと金を儲けているはずだ」というので、朝比奈の自宅を訪れ、床を剥がして金を探したことがあったという。


最後には大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長の福山修氏が登場し、朝比奈との思い出(外の人には優しかったが、身内には厳しかった)のほか、来年度の大阪フィルの定期演奏会の宣伝と、音楽監督である尾高忠明との二度目のベートーヴェン交響曲チクルスの紹介などを行っていた。

Dsc_7107

| | | コメント (0)

2024年12月28日 (土)

これまでに観た映画より(360) National Theatre Live「ワーニャ(Vanya)」

2024年11月14日 大阪の扇町キネマにて

大阪の・扇町キネマで、National Theatre Live「ワーニャ(Vanya)」を観る。チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を、ロイヤル・コート劇場のアソシエイト劇作家でマンチェスター・メトロポリタン大学の脚本教授でもあるサイモン・スティーヴンス(1971年生まれ。ローレンス・オリヴィエ賞最優秀新作プレイ賞やトニー賞プレイ部門最優秀作品賞を受賞した経験がある)が一人芝居用にリライト(翻案&共同クリエイターとクレジットされている)した作品。演出&共同クリエイターはサム・イェーツ(1983年生まれ)。
1976年生まれのアイルランド出身の俳優で、イギリス映画「異人たち」(原作:山田太一 『異人たちとの夏』)、英国のTVドラマ「SHERLOCK」やNetflix配信ドラマ「リプリー」で知られるアンドリュー・スコット(2019年にローレンス・オリヴィエ最優秀主演男優賞を受賞)が、一人で9役を演じ分ける。突然変わるため、すぐには誰の役なのか分からないところも多い。
2024年2月22日、ロンドンのデューク・オブ・ヨークス劇場での収録。上演時間は休憩込みの117分である(映画版には休憩時間はない)。ローレンス・オリヴィエ賞最優秀リバイバル賞受賞作。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」は、チェーホフの四大戯曲の一つなのだが、「かもめ」、「三人姉妹」、「桜の園」の三作品に比べると地味な印象が強く、上演機会も4つの作品の中では一番少ないはずである。それでも濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」では西島秀俊演じる舞台俳優兼演出家の主人公・家福が積極的に取り上げる作品として、一時、注目を浴びた。
ワーニャというのはイワンの相性で、英語版なのでアイヴァンという名で呼ばれている。47歳。なんと今の私よりも年下である。ちなみにチェーホフは44歳と若くして他界しているので、この歳にはたどり着けていない。
ワーニャ伯父さんは、大学教授のアレクサンドルに心酔し、支援を惜しまなかったが、結局は、アレクサンドルに失望し、怒りの余り発砲騒ぎを起こしてしまって、姪のソーニャ(今回の劇での役名はソニア)が慰めるという物語である。ちなみにソーニャについては、戯曲にはっきりと「器量が良くない」との記述がある。

今回は舞台を現代のアイルランドに置き換え、アレクサンドルはアレクサンダーという名で映画監督という設定に変わっている。ちなみに医師のマイケル(原作ではミハイル)はテニスボールをつくという謎の癖がある。
チェーホフというと「片思い」の構図が有名で、「かもめ」では好きな人は別の人を好きという片思いの連鎖が見られるのだが、「ワーニャ伯父さん」でも片思いが見られ、今回の「ワーニャ」にもそのまま反映されている。
中央にドアがあり(デザイン&共同ディレクター:ロザンナ・ヴァイズ)、それを潜った時に人物が変わることが多いが、それ以外にも突然、別人になるなど、一貫性があるわけではない。

アイヴァンは、アレクサンダーの映画監督としての才能に惚れ、援助を惜しまず、作品はセリフを全て覚えるほど何度も観たが、今はアイヴァンはアレクサンダーを「詐欺師」だと思っている。アレクサンダーは「国民的映像作家」と呼ばれたこともあったようなのだが、17年に渡ってスランプに陥っており、作品を発表出来ていない。アイヴァンの妹のアナがアレクサンダーの妻だったのだが、アナは若くして他界。アレクサンダーはヘレナという二番目の妻と一緒になっている。そのアレクサンダーとヘレナがアイヴァンの住む屋敷に長きに渡って滞在している。ヘレナはいい女のようで、アイヴァンも、主治医のマイケルも思いを寄せている。マイケルは特に診察が必要な訳でもないのに、毎日のようにヘレンが現在いるアイヴァンの家を訪ねてくる。

一人の俳優が男性女性問わず、入れ替わりながら演じることで、俳優、おいては人間の多面性が浮かび上がることになる。何の前ぶれもなくいきなり変わるので、正直、すぐに誰にチェンジしたのかは分かりにくいのだが、要所要所でははっきり分かるよう示されている。

ある男が将来を賭けてある人物に期待したのに、実態はろくでもない人間だった。地位に騙された。もし彼のために費やした歳月を自分のために使っていたのなら、自分も一廉の人物に――なれたかどうかは分からないのだが――アイヴァン(イワン、ワーニャ)はそう思っており、最終的には発砲事件を起こして、自己嫌悪に陥る。ソーニャ(ソニア)がそれでも生きていくことの大切さを説くという、現在でも多くの人々が抱えている問題を描いたチェーホフの筆致は、他の戯曲ほどではないが冴えているように思う。ちなみに発砲はライフルを用い、実際の発砲音に近い音が用いられている。

アンドリュー・スコットはコミカルな表現も得意なようで、デューク・オブ・ヨークス劇場の客席からは、しばしば爆笑の声が聞こえる。

様々な表情で多くの人物を演じていくアンドリュー・スコットであるが、ラストのソニアのメッセージは誠実さをもって語られ、「何があっても生きていかなければならない」という人間の業と宿命と、ある種の希望が示される。

複数の人物が登場する戯曲を一人芝居に置き換えるというのは、さほど珍しいことではないが、一人芝居というのは、文字通り、ステージ上に一人しかいないため、誤魔化しが利かないということと、役者に魅力を感じなかった場合、客が付いてこないというリスクがある。複数の俳優が出ている芝居だったら、中には気に入る役者が一人はいるかも知れないが、一人芝居は一人しかいないので一人で惹きつけるしかない。その点で、アンドリュー・スコットはユーモアのセンスとイケオジ的雰囲気を前面に出して成功していたように思う。

| | | コメント (0)

2024年12月27日 (金)

観劇感想精選(479) 松竹創業百三十周年「 當る巳歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部 令和六年十二月十四日

2024年12月14日 京都四條南座にて

午後4時から、京都四條南座で、松竹創業百三十周年 當る巳歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎夜の部を観る。

演目は、「元禄忠臣蔵」二幕 仙石屋敷、「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」かきね、「曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」二幕 御所五郎蔵、「越後獅子」

Dsc_7080

「元禄忠臣蔵」二幕 仙石屋敷。今日、12月14日は討ち入りの日である(ただし旧暦)。というわけで忠臣蔵なのだが、「元禄忠臣蔵」二幕 仙石屋敷で描かれるのは、本所吉良邸で吉良上野介義央の首を挙げ、浅野内匠頭長矩の眠る高輪・泉岳寺に向かう途中に幕府大目付・仙石伯耆守の屋敷に吉田忠左衛門と富森助右衛門が伝令として寄り、その後、赤穂浪士達(寺坂吉右衛門が伝令に出たため、一人少なくと46名)が仙石屋敷に身柄を移され、討ち入りの子細を報告するという場面である。というわけで、12月14日の話ではない。
配役は、大石内蔵助に片岡仁左衛門、仙石伯耆守に中村梅玉、吉田忠左衛門に中村鴈治郎、堀部安兵衛に市川中車、磯貝十郎左衛門に中村隼人ほか。

大石内蔵助を演じる片岡仁左衛門の長台詞が一番の見所である。仙石伯耆守は、討ち入りを行ってしまったことを残念に思うが(老人一人の命を大勢で狙うという行動に反感を覚える人は案外多いようである)、内蔵助は、自分たちの行動が大儀に則ったものであることを諄々と述べる。そして喧嘩両成敗であるはずなのに、主君の浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はおとがめなしという裁定はあってはならないものであり、また浅野内匠頭の松の廊下での刃傷は短慮からではなく、覚悟の上であり、遺臣である自分たちが主君の本懐を遂げるのは当然と述べ、旧赤穂藩の遺臣は300名以上いたのにそれが47人に減ったことについては、「これが人間の姿」と述べる。仁左衛門の情感たっぷりのセリフは聞きもの。また仙石伯耆守が去った後の、赤穂浪士達の強い結びつきを感じさせるシーンも胸を打つ。
やがて浪士達の引取先が決まり、次々と去って行く。仙石伯耆守は「内匠頭はよい家臣を持たれた」と感慨にふけるのであった。


「色彩間苅豆」かさね。百姓与右衛門実は久保田金五郎は片岡愛之助が演じる予定であったが稽古中の怪我で降板。代役を中村萬太郎が務めることになった。愛之助は今回の公演の目玉で、二階に飾られたお祝いもほぼ全て愛之助宛のものであった。

下総国羽生村(現在の茨城県常総市)に住む百姓の助は、同じく百姓の与右衛門(中村萬太郎)に殺された。百姓とはいえ、与右衛門は元は侍で久保田金五郎といった。
金五郎は腰元のかさね(中村萬壽)と恋仲になったが、不義密通で出奔。その際、かさねと心中する約束をした。その後、助の女房の菊と恋仲になり、助が邪魔になって手に掛けたのである。
物語は、かさねが与右衛門に一緒に心中してくれるよう頼むところから始まる。最初は拒絶する与右衛門だったが、かさねの願いを受け入れることに。しかし、川を髑髏が流れてくる。与右衛門が殺害した助のものであった。更に、かさねが助と菊の娘であることが判明する。そこへ捕り方が現れ、もみ合いとなる。捕り方が落とした書状には与右衛門の罪が書き連ねてあった。
かさねに異変が起こる。左目が腫れ、片足が動かなくなる。亡くなった時の助そのものの姿に与右衛門は祟りを感じ、かさねを殺害する。
橋で息絶えたかさねであったが、亡霊となり、与右衛門を引き戻す(花道から去ったが、花道から再び現れ、舞台まで戻される)。
怪談話である。元々は浄土宗の高僧祐天上人の霊験譚であったようだ。
代役の萬太郎であるが、体のキレも良く、代役として立派な演技を見せた。


「曽我綉侠御所染」御所五郎蔵。
配役は、御所五郎蔵に中村隼人、星影土右衛門に坂東巳之助、甲屋(かぶとや)女房お松に片岡孝太郎、傾城皐月に中村壱太郎、傾城逢州に上村吉太朗ほか。

陸奥国の大名、浅間巴之丞に仕える須崎角弥は腰元の皐月と恋仲になった。しかし星影土右衛門が横恋慕する。不義の罪で死罪になるところを巴之丞の母である遠山尼の温情により国許追放に刑が減じられる。角弥は武士の身分を捨て、町人となって皐月と共に京に向かう。一方、土右衛門も訳あって藩を追われ、同じく京へと出てきていた。

京の五條坂仲之町の廓が舞台である。皐月はこの廓の傾城(「花魁」という言葉が使われるが、正確に言うと京都には花魁はいない。太夫がいるが、花魁とは性質が異なる)となっていた。
廓の甲屋の店先に、子分を連れた土右衛門がやって来る。そこへ現れたのはこの界隈で伊達男として知られる御所五郎蔵。実は須崎角弥である。やはり子分を従えているが、土右衛門の子分は武士、五郎蔵の子分は町人である。浅間巴之丞が上洛した際、土右衛門の子分に言い掛かりを付けられ、これを五郎蔵が懲らしめたことから、両者の間に険悪な空気が漂う。子分達は今にも争いそうになるが、五郎蔵も土右衛門も「手を出すな」と言い、言い合いが続く。しかし、土右衛門が皐月への思いを語ると五郎蔵も激高。一触即発というところを甲屋の女房であるお松が間に入って止める。

舞台は甲屋の奥座敷に移る。浅間巴之丞は傾城(やはり「花魁」と言われる)逢州に入れ揚げており、揚げ代の200両の支払いが滞っている。旧主への恩義のため、金をこしらえようとする五郎蔵。妻の皐月にも金の工面を頼む。しかし皐月は客が取れない。皐月の窮状を知った土右衛門が五郎蔵への退き状を書けば二百両払おうと皐月に申し出る。いったんは断る皐月だったが、五郎蔵も金の用意は出来ないだろうから、これを逃すと命はないだろうと迫られ、やむなく退き状を書くことになる。事情を知らない五郎蔵は皐月に激怒。逢州が五郎蔵を宥める。
怒りに震える五郎蔵は土右衛門と皐月を殺害することを決意。一方で皐月は二百両を五郎蔵に渡す手立てを考えている。土右衛門は身請けのために皐月を伴って花形屋に向かおうとするが、皐月は具合が悪いとこれを断る。怪しむ土右衛門だったが、逢州が自分が代わりに行って顔を立てるからというので納得する。逢州は皐月の打掛を着る。
廓の中で待ち伏せしていた五郎蔵は皐月と思って逢州に斬りかかり、殺害するが、すぐに正体が逢州であることに気付く。そこへ妖術を使って潜んでいた土右衛門が現れ、五郎蔵と斬り合いになる。

イケメン俳優として人気の隼人であるが、声が細く、所作もまだ十分には身についていないように見える。見得などは格好いいのだが。まだまだこれからの人なのだろう。巳之助は堂々としていて貫禄があった。演技だけ見ると巳之助の方が主人公に見えてしまう。
当代を代表する女形となった壱太郎は、繊細な身のこなしと強弱を自在に操るセリフ術で可憐な女性を演じ、見事であった。


「越後獅子」。中村鴈治郎、中村萬太郎、中村鷹之資の3人が中心になった舞で、実に華やかである。布を様々な方法で操るなど、掉尾を飾るに相応しい演目となった。

Dsc_7087

Dsc_7076

| | | コメント (0)

2024年12月26日 (木)

コンサートの記(874) 沼尻竜典 歌劇「竹取物語」2024 大津公演2日目 阪哲朗指揮日本センチュリー交響楽団ほか

2024年11月24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典作曲の歌劇「竹取物語」を観る。約2年ぶりの上演。

びわ湖ホールに行くのも久しぶり。京阪びわ湖浜大津駅で降りてなぎさ公園を抜け、びわ湖ホールまで歩く。良い気分である。

2014年に、横浜みなとみらいホールで、セミ・ステージ形式で初演された歌劇「竹取物語」。指揮者・ピアニストとして活躍している沼尻竜典が初めて手掛けたオペラである。オペラを指揮する経験も豊かな沼尻だけに(ピットで指揮する回数は日本人指揮者の中でもかなり上位にランクされるはずである)オペラの構成や旋律、和音などの知識に長けており、平易でバラエティに富んだ内容の歌劇に仕上げている。

前回は、沼尻による自作自演であったが、今回はびわ湖ホール芸術監督の阪哲朗が指揮を担う。オーケストラは日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター:松浦奈々)。オーケストラはステージ上での演奏(古典配置に近いが、金管楽器は上手に斜めに並ぶロシア形式に近く、ティンパニも視覚面の問題で上手端に置かれる)。その周りをエプロンステージが取り囲み、ここで演技が行われるという形式である。
前回はオペラ演出界の重鎮である栗山晶良が演出を手掛け、高齢だというので中村敬一が演出補という形で入ったのだが、栗山は昨年6月に死去。栗山と共に仕事を行うことが多かったびわ湖ホールが、栗山が演出を手掛けたオペラの再上演を行うことを決め、その第1弾が今回の「竹取物語」である。原演出:栗山晶良、演出:中村敬一という表記になっているが、中村は基本的に栗山の演出を踏襲する形であり、自分のカラーは余り表に出していない。栗山演出の再現が目的なのだからそれは当然である。

また、前回はびわ湖ホールのみでの上演だったが、今回は阪哲朗が常任指揮者を務める山形交響楽団が演奏を担う、やまぎん(山形銀行)県民ホールでの山形公演、iichiko総合文化センターでの大分公演(管弦楽:九州交響楽団)、札幌コンサートホールkitara(管弦楽:札幌交響楽団)での公演が加わり、全4公演となっていて、これらのホールの共同制作という形を取っている。東京や関東は敢えて避けられているのかも知れない。

大津公演では、主役のかぐや姫はWキャストで、今日は若手の高田瑞希(たかだ・みずき)が歌う。昨日は砂川涼子のかぐや姫で、砂川は山形、大分、札幌でもかぐや姫を歌う(いずれも1回公演)。高田の出番は今日1回きりだが、それだけに貴重とも言える。ちなみに前回は砂川涼子のかぐや姫を聴いている。
出演はほかに、迎肇聡(むかい・ただとし。翁)、森季子(もり・ときこ。媼)、西田昂平(帝)、有本康人(石作皇子)、大野光星(庫持皇子)、市川敏雅(阿倍御主人)、晴雅彦(はれ・まさひこ。大伴御行)、平欣史(たいら・よしふみ。石上麻呂足)、有ヶ谷友輝(大将・職人)、徳田あさひ(月よりの使者)ほか。合唱は、「竹取物語」合唱団(大津公演のために公募で集まったメンバーからなる。他の場所での公演は、当地の合唱団や有志を中心に編成される予定)。

『竹取物語』は物語の祖(おや)とも呼ばれているが、作者は不明である。紀貫之説などがあるが決定打に欠ける。
竹の中で生まれたかぐや姫が成人して美女となり、多くの貴族が求婚するが、かぐや姫は無理難題を出して、彼らのアプローチを避けようとする。かくてかぐや姫を射止める者は誰も現れず、やがてかぐや姫は自身が月からの使者であることを打ち明け、月へと帰って行く。置き土産として帝に渡したものが、「不死の命を得る」という薬であるが、「かぐや姫のいない世界で生きていても仕方ない」と、帝は駿河国にある大和で最も高い山の頂、つまり月に最も近い場所で不死の薬を燃やした。かくてこの山は不死の山、転じて富士山となったという話である。沼尻竜典は現代語訳したテキストを、特別な脚色はせずにそのまま生かした台本としている。

シャープな音楽性を持ち味とする沼尻の指揮に対して、阪の音楽作りは寄り造形美重視。耳馴染みのない音楽なので、具体的に比較してみないと詳しいことは分からないと思うが、これまでの両者の音楽作りからいって、おそらく傾向そのものの把握は間違っていないと思われる。不協和音を使った現代的な場面から、アコーディオンを使ったシャンソン風音楽、クレイジーキャッツのようなコミカルな要素の多いものや、現代のポップス風などあらゆる要素の音楽が取り込まれている。かぐや姫には、特に高い声が望まれる場面があるが、高田瑞希は無難にこなしていた。

高田瑞希の紹介をしておくと、京都市生まれ。京都少年合唱団出身の若手ソプラノ。京都市立芸術大学声楽科卒業と同時に、真声会賞、京都音楽協会賞、佐々木成子奨励賞を受賞。京都市立芸術大学大学院に進み、声楽専攻を首席で修了。京都市長賞を受賞している。令和2年度青山音楽財団奨学生となっている。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー。
大学2回生の時に京都市内の御幸町竹屋町の真宗大谷派小野山浄慶寺で行われた「テラの音」に出演しており、「お喋りな子」として紹介されている。その後、京都コンサートホールで行われた京都市立芸術大学音楽学部及び大学院音楽研究科のコンサートで、ホワイエに友達といるのを見掛けたことがある。知り合いに「よ! 久しぶり」などと挨拶していて、やたらと明るそうな子であった。

かぐや姫は罪を犯して月から追放されたという設定である。この時代の女性の罪というと、大抵は色恋沙汰であり、かぐや姫も男性と恋に落ちて断罪されたのだと思われる。月の人々は不死身であるが、そのため子どもを作る必要がない。恋愛などというものは味気ない言い方をしてしまうと、子どもを作るための準備段階。だが不死身で子どもが必要ないとなると、良い感情と思われないであろうことは目に見えている。そこで、月よりも恋愛事情に溢れている地球で一定期間修行し、恋に落ちなければ月に帰れるという約束だったのであろう。かぐや姫が、石作皇子(いしつくりのみこ)、庫持皇子(くらもちのみこ)、右大臣 阿倍御主人(あべのみうし)、大納言 大伴御行(おおとものみゆき)、中納言 石上麻呂足(いそのかみのまろたり)に難題をふっかけるのは、そもそも達成不可能な課題を与えれば、自ずと諦めるだろうという魂胆だったと思われる。とにかく恋愛をしてはいけないのだから。ただ地球の男達は、かぐや姫が予想していたよりも、欲深く、あるいは執念深く、あるいは努力家で、あらゆる手を使って困難を克服しようとする。ほとんどは嘘でかぐや姫に見破られるのであるが。大伴御行のように「わがままな女は嫌い」と歌う人がいたり、石上麻呂足のように命を落とす人も出てくるが、これらはかぐや姫の心理に大きな影響を与えたと思われる。なお、阿倍、大伴、石上(物部)のように、実在の豪族の苗字を持つ人物が登場しており、『竹取物語』の作者と対立関係にあったのではないかとされる場合があるが、これもよく分かっていない。

その後、かぐや姫は帝と歌のやり取りをするようになる。帝を遠ざけてはいたが、やまと心を理解するようになるかぐや姫。次第に月よりも今いる場所が恋しくなるが、帰らなければならない定めなのだった。
かぐや姫の成長を描くというか、「マイ・フェア・レディ」(そしてパロディの「舞妓はレディ」)の原作となった「ピグマリオン」に通じるというべきか、とにかく日本的情調の豊かさを歌い上げる内容になっているのが特徴である。このことが紀貫之原作者説に通じているのかも知れない(紀貫之は『古今和歌集』仮名序で、やまと心と和歌の重要性を記している)。


オーケストラの後方に、横に長い階段状の舞台があり、ここに声楽のメンバーが登場する。また月からの使者が現れるのもこの階段状の舞台である。その上方にスクリーンがあり、ここに竹林や月、内裏などの映像が投影される。大がかりなセットは用いられず、映像で処理されるが、21世紀に書かれたオペラなので、その方が似つかわしいかも知れない。
登場人物の歌と演技も安定していた。


なお、会場には作曲者の沼尻竜典が駆けつけており、阪の紹介を受けて立ち上がって拍手を受けていた。

Dsc_6938

Dsc_6946

| | | コメント (0)

2024年12月25日 (水)

コンサートの記(873) 広上淳一指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団ほか 「躍動の第九」2024

2024年12月15日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団 広上淳一指揮「躍動の第九」を聴く。
日本の師走の風物詩となっているベートーヴェンの第九演奏会。日本のプロオーケストラのほとんどが第九演奏会を行い、複数の第九を演奏するオーケストラもある。大フィルこと大阪フィルハーモニー交響楽団もその一つで、本番ともいえる第九は、今月29日と30日に本拠地のフェスティバルホールでユベール・スダーンを指揮台に迎えて行うが、その前に、ザ・シンフォニーホールでの第九演奏会も行い、今年は広上淳一が招聘された。広上は以前には大フィルの定期演奏会や特別演奏会によく客演していたが、京都市交響楽団の常任指揮者となってからは、「オーケストラのシェフは同一地区にあるプロオーケストラの演奏会には客演しない」という暗黙の了解があるため、大フィルの指揮台に立つことはなかった。京都市交響楽団の常任指揮者を辞し、一応、「京都市交響楽団 広上淳一」という珍しい称号を得ているが(「名誉指揮者」などの称号を広上は辞退したが、京響としては何も贈らないという訳にはいかないので、折衷案としてこの称号になった)、シェフではないため、関西の他のオーケストラへの客演も再開しつつある。
広上は以前にも大フィルを指揮して第九の演奏会を行っているが、もう20年以上も前のこととなるようだ。

なお、無料パンフレットは、ABCテレビ(朝日放送)が主催する3つの第九演奏会(広上指揮大フィルほか、ケン・シェ指揮日本センチュリー交響楽団ほか、延原武春指揮テレマン室内オーケストラほか)を一つにまとめた特殊なものである。

さて、広上と大フィルの「躍動の第九」。曲目は、ベートーヴェンの序曲「献堂式」と交響曲第9番「合唱付き」。独唱は、中川郁文(なかがわ・いくみ。ソプラノ)、山下裕賀(やました・ひろか。アルト)、工藤和真(テノール)、高橋宏典(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)。

今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏。合唱団は最初から舞台後方の階段状に組まれた台の上の席に座って待機。独唱者は第2楽章演奏終了後に、大太鼓、シンバル、トライアングル奏者と共に下手から登場する。

重厚な「大フィルサウンド」が売りの大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、広上が振るとやはり音が違う。透明感があり、抜けが良い。広上はベテランだが若々しさも加わった第九となった。

まず序曲「献堂式」であるが、立体感があり、重厚で音の密度が濃く、広上と大フィルのコンビに相応しい演奏となっていた。金管の輝きも鮮やかである。

広上の第九であるが、冒頭から深遠なる別世界からの響きのよう。ベートーヴェンの苦悩とそそり立つ壁の峻険さが想像され、悪魔的に聞こえる部分もある。
第2楽章はあたかも宇宙が鳴動する様を描いたかのような演奏だが(広上自身の解釈は異なるようである)、京響との演奏に比べると緻密さにおいては及ばないように思う。手兵と客演の違いである。それでも思い切ったティンパニの強打などは効果的だ。チェロの浮かび上がらせ方なども独特である(ベーレンライター版使用だと思われ、特別なスコアを使っている訳ではないはずである)。

第3楽章はかなり遅めのテンポでスタート。丁寧にロマンティシズムを織り上げていく。麗らかな日の花園を歩むかのようだ。

第4楽章冒頭は音が立体的であり、大フィル自慢の低弦が力強く雄弁である。独唱者や大フィル合唱団も充実した歌唱を聴かせ、フェスティバルホールで行われるであろう第九とは異なると思われる溌剌として爽やかな演奏に仕上げていた。スダーンの指揮の第九は京都市交響楽団とのものを聴いているが、古楽が盛んなオランダの指揮者だけあって、結構、ロックな出来であり、また聴くのが楽しみである。

Dsc_7089_20241225234401

| | | コメント (0)

これまでに観た映画より(359) 森山未來主演「ボクたちはみんな大人になれなかった」

2024年12月7日

Netflixで、Netflix製作映画「ボクたちはみんな大人になれなかった」を観る。森山未來主演作品。原作は燃え殻の同名小説。監督は森義仁。出演は森山未來の他に、伊藤沙莉、東出昌大、SUMIRE、篠原篤、平岳大、片山萌美、高嶋政伸、ラサール石井、大島優子、原日出子、萩原聖人ほか。

渋谷が主舞台となっている。渋谷のゴミ収集場所の場面から始まる。このシーンは後にリフレインされる。
佐藤(森山未來)は、1999年に恋人のかおり(伊藤沙莉)と別れた。というより、かおりが一方的に姿を消したのだ。その後、SNSが発達した時代になると、佐藤はFacebookでかおりを見つける。かおりは他の男と結婚し、子どもをもうけていた。

時代が次々と飛ぶ作品で、一番古い時代は1995年、公開年の2021年の前年であるコロナ禍の2020年が最新の場面となる。

佐藤は、映像のテロップを作る会社の社員だが、後にスタートアップの社員であることが分かる。高校卒業後に製菓会社のアルバイト社員をしていたのだが、まだマンションの一室をオフィスにしていた弱小テロップ製作会社に応募して採用されたのだ。とにかく人がいないので誰でも良かったらしい。その後、会社は規模を拡大し、現在では広めのオフィスを持つようになる。
この時、佐藤はかおりと付き合っていた。二人が出会ったのは1995年。文通の雑誌に、かおりが「犬キャラ」のペンネームでペンフレンドを募集していたのを佐藤が見つけたのが始まりであった。ちなみに「犬キャラ」というのは、小沢健二の「犬は吠えるがキャラバンは進む」というかなり有名なアルバムに由来しており、小沢健二がキューピット役となっている。かおりは渋谷にあるインドなどアジア系の雑貨を売る店で働いているようである。

最初はペンフレンドであるが、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」(今度、この曲にインスパイアされた映画が公開されるようである)の歌詞にあるように会いたくなるのは必然。二人は渋谷で会うことになり、デートを重ねる。おそらく佐藤がテロップ製作会社に就職したのは、かおりとの結婚を意識したためだと思われるが、就職のお祝いにかおりにラブホテルに誘われる佐藤。かおりはそれまで経験がなかった。以降はかおりとのデートシーンが中心となる。タワーレコード渋谷店でCDを購入し、スペイン坂上にあった映画館、シネマライズの前を通ると、王家衛監督の「天使の涙」がロードーショー公開されている。私は1997年にシネマライズで「天使の涙」を三回観ており、タワーレコード渋谷店は、NHK交響楽団の定期演奏会を聴いた帰りにしばしば寄っていて、私自身の青春と重なる。
佐藤と出会ったばかりで、人見知り気味の初々しい姿を見せるかおりを演じる伊藤沙莉がとても可愛らしい。その後、ドライブデートなどをする二人だったが(かおりが、「宮沢賢治は東北から一歩も出なかった」という意味のセリフを語る場面があるが、これは明らかに誤りである)、円山町のラブホテル(どうも常連になっているようだ。かおりが群馬県出身であることが、ラブホテルの受付のおばちゃんとの会話で分かる)に泊まり、オルガン坂を上るかおりが振り向いて「今度CD持ってくるからね」と語りかけた姿が、佐藤にとってのかおりの最後の姿となった。

その後、佐藤には、恵(大島優子)という恋人が出来たり、スー(SUMIRE。浅野忠信とCHARAの娘)といい感じになったりするのだが、深い関係にまでは至らない。
パーティーで出会った、いわい彩花(という芸名でセクシー系のDVDを6枚出している子。演じるのは片山萌美)を誘った佐藤は、彩花から「子どもの頃なりたかった大人になれてる?」と聞かれる。
結構、ごちゃごちゃした作りなのだが、最終的には佐藤がかおりを忘れられないという心境が示されることで終わる。二十代から四十代になっても忘れられない女となると、やはり伊藤沙莉ぐらいは起用しないと説得力は出ない。なお、かおり役が誰なのかは公開直前まで伏せられていた。
小説家になりたいという夢を持ちつつ、面白いものが書けないでいる佐藤。かおりの、「君は大丈夫だよ。面白いもん」の言葉が背中を押してくれるのだが、その時は花開かない。ただ、「その後」は明かされていないが、自伝的小説を基にしているということは、この後、佐藤はかおりとの思い出を小説にして世に出ることになるのかも知れない。

約四半世紀が描かれるため、世界も様変わりしている。最初の頃は公衆電話を使っており、ポケベルで連絡したり、パソコンもブラウン管内蔵の旧式のものだったりする。今は若者の間では見なくなったガラケーも登場する。
大傑作という訳には残念ながらいかないだろうが、森山未來と伊藤沙莉のコンビが実に良く、特に若い人には薦められる作品となっている。

| | | コメント (0)

2024年12月21日 (土)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program2

2024年12月8日 京都芸術劇場春秋座

午後1時から、京都芸術劇場春秋座で、「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program2に接する。今日上映されるのは、「エンドゲーム」、「フィルム」、「ハッピーデイズ」の3本。
司会進行役は昨日に引き続き、小崎哲哉が務める。


「エンドゲーム」は、目が見えず椅子に座ったままの主人公・ハム(演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのマイケル・ガンボン)と、下半身を失いバケツに入れられたその両親、そしてその使用人で足の悪いグロヴ(デヴィッド・シューリス)である。監督はコナー・マクファーレン。
グロヴが部屋の両方にある窓にかかったカーテンを開けるところからスタート。
グロヴは常にこの部屋にいるわけではなく、厨房などに行っている場合もある。
セリフは情報量が多い上に早口で、こちらが字幕を読み終わらない間に次の字幕に移行してしまうことも多い。
様々なことが語られるが、一貫性がないというのも特徴。あたかも時間を言葉で埋める作業をしているかのようだ。
バケツに入っているという奇妙な設定の両親であるが、出番やセリフは余りなく、ハムとグロヴとのやり取りが中心となる。
出演者全員が障害者であるが、使用人のグロヴが次第に雇い主で暴君のハムよりも優勢になっていくように見えるのが、タイトルである「エンドゲーム」(チェスの用語で、チェックメイトが近い終盤戦のこと)を表しているようである。


「フィルム」はバスター・キートン主演映画。チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドと共に三大喜劇人の一人に数えられるバスター・キートン。ベケットはこの映像作品の脚本と総合製作を担当しているが、様々なアドバイスをしていることから、実質共同監督と見なされている。監督はアラン・シュナイダー。上映時間24分の短編である。ベケットが唯一、映画だけのために脚本を書いた作品でもある。
ベケットは、当初はチャップリンに出演依頼をしたが、チャップリンは自身が監督した作品にしか出ないということもあって断られ、バスター・キートンに話が回った。キートンも依頼を受けたときは特に興味を示さなかったようだが依頼は引き受けている。

キートンの目のクローズアップから始まり、キートンが目を閉じたときに出来る襞に似た模様を持つ壁が立った公園内を走るキートンの後ろ姿に繋がる。
一組の男女をキートンは追い抜くのだが、そこから先に何かがあったようで、男女は顔をしかめる。
とある建物に入るキートン。階段を老女が降りてくるのを見て姿を隠すのだが、この老女が何かを発見したのか、もの凄い表情をする。その間にキートンは老女の横をすり抜けて階段を上がる。
部屋に入ったキートン。落ち着かない様子であるが、椅子に腰掛けた時に初めてキートンの顔が正面から捉えられる。キートンは片方の目を黒い眼帯で隠している。
そして現れるキートンのドッペルゲンガー。
「ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ」と言われているので、キートンも最期を迎えることになると思われるのだが、キートンを追っていたカメラは実はドッペルゲンガーの視点なのではないかと思われるところもある。


ここで、映画批評家で、京都芸術大学映画学科主任の北小路隆志を迎え、小崎哲哉が聞き手となるゲストトークの時間となる。
北小路もベケットについては特に詳しくはないとのことだったが、「映画と演劇は別物」とした上で、先ほど上映した「フィルム」や昨日上映された「ねえ、ジョー」は映画作品として成功しているが、「エンドゲーム」や昨日上映された「クラップの最後の録音」は、役者の演技が前に出すぎているため、ベケット作品の映画化としては上手くいっているとはいえないのではないかとの感想を述べた。ベケットの理想を考えれば、もっと「機械的」になった方が良いという。


最後に上映されるのは、「ハッピーデイズ」。老女が第1幕は腰まで埋もれ、第2幕は首まで埋まりながら話し続けるという奇妙な設定の作品であるが、埋まれば埋まるほど死が近いというメタファーはよく分かる。監督:ジャン=ポール・ルー。出演:マドレーヌ・ルノー、レジス・ウタン。
体が埋まっているという不自由な状態でありながら、「今日もハッピーな1日」と語るセリフが興味深い。言葉と体の分離が行われているようである。回想が語られることが多いが、カバンの心配をしたり、手がまだ自由な第1幕ではピストルを取り出したり、パラソルを差したりと、まだ体の動きが表現出来ることは多いのだが、第2幕になるとそれもなくなっていく。死を意識したようなセリフも出てくるのだが決して悲観的にはなっていないのが印象的である。


小崎哲哉による締め。「昨日、ゲストに来ていただいた森山未來さんから、『ベケット、1日3本はきついっすね』と言われましたが、皆さんお疲れ様でした」と語り、京都芸術大学舞台芸術学科主任の平井愛子からも挨拶があった。

| | | コメント (0)

2024年12月20日 (金)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program1 ゲスト:森山未來

2024年12月7日 京都芸術劇場春秋座にて

午後1時から、京都芸術劇場春秋座で、「疫病・戦争・災害の時代に―― サミュエル・ベケット映画祭」2024 program1に接する。2019年のベケット没後30年のサミュエル・ベケット映画祭に続く二度目のサミュエル・ベケット映画祭である。前回は京都造形芸術大学映写室での上映会がメインだったが、今回はキャパの大きい春秋座での開催である。
先にオープニングイベントがあり、今日が本編の初日となる。今日は、「ゴドーを待ちながら」、「ねえ、ジョー」、「クラップの最後の録音」の3作品が上映される。またトークの時間が設けられ、俳優・ダンサーの森山未來が登場する。森山未來を生で見るのは、先月17日のPARCO文化祭以来、と書くと不思議と長そうに思えるが、半月ちょっとぶりなので、同一の有名人に接する期間としては比較的短い。
総合司会兼聞き手は、京都芸術大学大学院芸術研究科教授の小崎哲哉(おざき・てつや)。


まずベケットの代表作である「ゴドーを待ちながら」が上映されるのだが、その前に小崎による解説がある。ベケットが長身で男前だったこと、語学の才に長け、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などを操ったことを紹介する。性格的には怖い人だったようである。また人前に出るのが嫌いで、ノーベル文学賞を受賞しているが、授賞式には出なかったという。また、下ネタが好きで、「高尚なものから下品なものまで描くのが芸術」だと考えていたようである。便器を「泉」というタイトルで芸術作品にしたマルセル・デュシャンとは仲が良かったようである。


「ゴドーを待ちながら」は、2019年のサミュエル・ベケット映画祭で、京都造形芸術大学映写室で上映されたものと同一内容だと思われる。この時は再生トラブルがあり、途中で中断があって、デッキを交換して上映を続けている。この時はこうした手際の悪さに呆れて以降に上映された作品は観ていない。この大学のいい加減さを象徴するような出来事であった。

「ゴドーを待ちながら」は、エストラゴン(ゴゴ)とウラディミール(ジジ)が一本の木が生えた場所で、ゴドーなる人物を待ち続けるという作品である。途中で、資本家の権化のようなパッツオと、奴隷のラッキーとのやり取りが2回ある。
監督:マイケル・リンゼイ=ホッグ。出演:バリー・マクガヴァン、ジョニー・マーフィーほか。マイケル・リンゼイ=ホッグ監督は、瓦礫だらけの場所を舞台に設定している。明らかに第二次大戦後の荒廃した光景を意識している。
エストラゴンとウラディミールという二人の浮浪者については、余り分かりやすいセリフではないのだが、いい加減に生きてきたから浮浪者になっているのではなく、頑張ってやるだけのことはやったが結局努力が実らなかったことが察せられるものがある。そして二人の人生はもうそれほど長くはない。大人の男の寂寥感が漂っている。ベケットは黒人による「ゴドー」の上演は強化したが、女優による「ゴドー」の上演は禁じている。「女性差別じゃないか」との批判もあったが、ベケットは「女性には前立腺がないから」というをその理由としている。ただ女性二人組にした場合、寂寥感は出ないかも知れない。男性でしか表現出来ないもの、女性にしか表現不可能なものは確かにある。
資本家のポッツォと奴隷のラッキーであるが、こうした組み合わせは戦前までは当たり前のように存在していた構図でもある。法律上は禁止されていても、金持ちが貧乏人がいいように扱うというのは一般的で、今でもある。世界の縮図がこの二人の関係に表れている。
人生そのものを描いたかのような「ゴドーを待ちながら」。何があるのか分からないのだが、とにかく待って生き続けるしかない。


上映終了後、15分の休憩を挟んで、森山未來を迎えてのトークがある。先に書いたとおり、聞き手は小崎哲哉が務める。

小崎はベケットと森山の共通点として、「多領域で活躍し」「格好いい(森山は「イヤイヤ」と首を振る)」などを挙げていた。森山はこれまでベケット作品にはほとんど触れてこなかったそうで、「初心者です」と述べていた。
「ゴドーを待ちながら」は、事前に映像データを貰っていたのだが、冒頭をパソコンで観て、「これはパソコンで観られる作品ではない」と感じ、知り合いの神戸の喫茶店がスクリーン完備だというので、そこを貸してもらって観たそうだ。「見終わって体力的に疲れた」という。
小崎が「ゴドー」が人生を描いたものという説を紹介し、森山も「人生暇つぶし」というよくある解釈が思い浮かんだようだ。

NHK大河ドラマ「いだてん」では森山は落語家の古今亭志ん生の若い頃を演じ、老成してからの志ん生は北野武が演じたが、入れ替わりになるので接点はなかったそうである。ただ、小崎は北野武はベケットから影響を受けているのではないかと指摘する。監督4作目の「ソナチネ」で、沖縄のヤクザに戦いを挑んだ弱小ヤクザ軍団が見事に敗れ、離島に逃げて何もやることがないので時間を潰すというシーンがあるのだが、これは「ゴドー」を念頭に置いているのではないかとのことだった。
なお、落語家の演技は、亡くなった中村勘三郎が抜群に上手かったそうだが、実は勘三郎は、立川談志の楽屋を訪れて弟子入りを志願したそうで、談志に実際に師事していたそうである。また殺陣は勝新太郎に習っていたそうだ。

ベケットの作品は自身の戦争体験が基になっているということで、ダンサーの田中泯の話になる。田中泯は、1945年3月10日、東京の西の方で生まれている。実はこの日、東京の東の方では、いわゆる東京大空襲があり、田中泯自身には東京大空襲の記憶はないだろうが、その日に生まれたということで様々な話を聞かされたのではないかと小崎は語っていた。

小崎は、森山が2020年に行った朗読劇「『見えない/見える』ことについての考察」の話をする。実は小崎はこの公演は観ていないようだが(私は尼崎での公演を観ている)、使われたテキストの作者、ジョゼ・サラマーゴとモーリス・ブランショは共にベケットから強い影響を受けた作家とのことだった。森山未來はそのことについては知らなかったという。


森山未來は神戸市東灘区の出身である。11歳の時に阪神・淡路大震災に被災。しかし東灘区は神戸市内でも特に被害が大きかった場所であるにもかかわらず、森山未來の自宅付近は特に大きな被害はなく、周囲に亡くなった人もいないということで、当事者でありながら周縁者という自覚があり、コンプレックスになっているそうだ。「ゴドー」を観てそんなことを思い出したりしたそうだが、小崎に「ラッキーをやってみたらどうですか? 合うと思いますよ」と言われてちょっと迷う素振りを見せた。

なお、阪神・淡路大震災発生30年企画展「1995-2025 30年目のわたしたち」が兵庫県立美術館で今月21日から開催されるが、森山未來も梅田哲也と共に出展している。


続けて「ねえ、ジョー」の上映。上映時間16分の短編である。監督:ミシェル・ミトラニ、出演:ジャン=ルイ・バロー。声の出演:マドレーヌ・ルノー。
モノクロの映像。男が室内を歩き回り、やがてこちら向きに腰掛ける。そこへ女の声がする。「ねえ、ジョー」と呼びかける女の声は、ジョーのこれまでの人生などを語る。ジョーは涙を流す。
声と表情を分離したテレビ作品である。


「クラップの最後の録音」。ベケット作品の中でも知名度は高い部類に入る。
監督:アトム・エゴヤン。出演:ジョン・ハート。
69歳になる老人、クラップは、これまで毎年、誕生日にテープレコーダーにメッセージを吹き込んできた。30年前に録音した自分の声を聞いたクラップはその余りの内容の乏しさに、自身の人生の空虚さを感じ、悔いを語るメッセージを残すことにする。
小さめのオープンリールのテープレコーダーを使用。実際には民生用のテープ録音機材が発売されてから間もない時期に書かれているため、30年前の録音テープが残っているというのはフィクションである。
老年の寂しさ、生きることの虚しさなどが伝わってくるビターな味わいの作品である。


最後に森山未來が登場。「皆さん、これ3本観るわけでしょう。体力ありますね」と述べていた。

Dsc_7056

| | | コメント (0)

2024年12月13日 (金)

これまでに観た映画より(358) 「BACK TO BLACK エイミーのすべて」

2024年11月27日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス・フランス・アメリカ合作映画「BACK TO BLACK エイミーのすべて」を観る。27クラブのメンバーとなってしまったイギリスのシンガーソングライター、エイミー・ワインハウスの人生を描いた作品である。監督:サム・テイラー=ジョンソン。脚本:マット・グリーンハルシュ、出演:マリア・アベラ、ジャック・オコンネル、エディ・マーサン、ジュリエット・コーワン、サム・ブキャナン、レスリー・マンヴィルほか。

27クラブの説明から行いたい。英語圏では27歳で早逝するミュージシャンが多く、この不吉な年齢で亡くなった場合、「27クラブに入った」と見なされる。27歳は若いので、自然死や病死の人は少なく、オーバードーズや自殺など、世間から見て「良くない」とされる死に方をしている人が大半である。エイミー・ワインハウスも急性アルコール中毒で、一応、病気の範疇には入るが、つまりは酒の飲み過ぎで、自ら死を招いている。
27クラブの主なメンバーには、ジミ・ヘンドリックス(変死)、ジャニス・ジョプリン(オーバードーズ)、ジム・モリソン(心臓発作であるがオーバードーズの可能性が高い)、カート・コバーン(自殺)がいる。

「私の歌を聴くことで現実を5分だけでも忘れることが出来たら」との思いで歌い続けるエイミー・ワインハウス(マリア・アベラ)。音楽好きの一家の生まれ、に見えるのだが、すでに両親は別居していることが分かる。演劇学校に合格し、入学当初は「ジュディ・ガーランドの再来」などと期待されるも素行不良で退学に。煙草と酒が好きでドラッグにも手を出すなど、かなりだらしない人という印象も受ける。特にアルコールには目がなかったようで、酒を飲みながらライブを行うシーンがある。
この映画では描かれていないが、エイミーは、酩酊したまま舞台に上がり、ほとんどまともに歌えないまま本番を終えて、「史上最悪のコンサート」とこき下ろされたライブを行っている。これを「笑っていいとも」でタモリが紹介しており、「エイミー・ワインハウスという名前で、ワインが入っているから」と笑い話にしていたが、結果的にこの「史上最悪のコンサート」がエイミーのラストライブとなったようである。

若い頃にジャズシンガーをしていて、音楽に理解のあった祖母のシンシア(レスリー・マンヴィル)と仲が良かったエイミーだが、この祖母にすでに癌に侵されていることを告げられ、彼女が他界するといよいよ歯止めが利かなくなっていったようである。

歌手としてデビュー後に出会ったブレイク(ジャック・オコンネル)と恋仲になり、胸にブレイクの名のタトゥーを入れるエイミー。しかし、その後、ブレイクとは別れることになる。祖母のシンシアが他界した時も、エイミーは腕にシンシアのタトゥーを入れている。
ブレイクとの別れを歌った曲が、映画のタイトルにもなっている「BACK TO BLACK」である。この曲での成功により、エイミーとブレイクはよりを戻す。コンサートで、結婚したことを発表するエミリー。しかし、どうにも駄目なところのある二人は上手くいかず、ブレイクは暴行罪で逮捕。スターとなっていたエイミーはパパラッチに追い回されることになる。更にブレイクからは、「共依存の状態にあるのは良くない」と別れを切り出される。

ダイアナ妃が事故死した際も問題になったが、英国のパパラッチは相当に悪質でエイミーを精神的に追い詰めていく。そしてエイミーもそれほど強い女性には見えない。何かにつけ、依存する傾向がある。エイミーはリハビリのための施設に入ることを選択する。

そんな中でグラミー賞において6部門においてノミネートされ、5部門で受賞するという快挙を達成。しかしそれが最高にして最後の輝きとなった。

以後もリハビリを続けたエイミーだが、映画では描かれなかった「史上最悪のコンサート」などを経て、同じ年にロンドンの自宅で遺体となって発見される。享年27。27クラブへの仲間入りだった。生前、エイミーは27クラブに入ることを恐れていたと言われている。自堕落な生活に不安もあったのだろう。
才能がありながらいい加減な生活を送って身を滅ぼした愚かな女で済ませることも出来なくはない。だが彼女の人生には人間が本来抱えている弱さと、周囲の容赦のなさが反映されているように思える。あそこまでされると生きる気力をなくす人も多いだろう。親族と親密な関係を築けたのがせめてもの幸いだろうか。

ライブシーンなども多く、マリサ・アベラ本人によると思われる歌唱も臨場感があって、イギリスの一時代を彩った歌姫の世界を間接的にではあるが味わうことが出来る。
エイミーの姿が悲惨なので、好まない人もいるかも知れないが、音楽映画として優れているように思う。

Dsc_6981

| | | コメント (0)

2024年12月 9日 (月)

浄土宗開宗850年記念 法然フォーラム「これからの幸せ in 大阪」@大阪市中央公会堂

2024年11月12日 中之島の大阪市中央公会堂大集会室にて

午後6時30分から、中之島の大阪市中央公会堂(中之島公会堂)大集会室で、浄土宗開宗850年記念 法然フォーラム「これからの幸せ in 大阪」に参加する。応募抽選制で、当選者にだけ葉書が届いて来場可能なシステムになっている。

司会進行役は笑い飯の哲夫。今は仏教好きの芸人として有名で、東京大学で仏教の講座を開き、浄土真宗本願寺派の大学である相愛大学の客員教授も務めるほどだが、初めのうちは仏教好きを隠していたそうである。大学もミッション系の関西(かんせい)学院大学を出ており、誕生日もクリスマスである。ちなみに1974年生まれで私と同い年である。以前、「ムーントーク」というトーク公演を二人で行っていたテンダラーの浜本広晃も1974年生まれだが、彼は早生まれなので同い年ではない。よしもと祇園花月で、「ムーントーク」に二人が出演した際、お見送りがあったのだが、哲夫さんには「同い年です」と言って握手したが、浜本さんは同い年ではないので特に言葉は掛けていない。

まず哲夫と、浄土宗総合研究所副所長の戸松義晴が登場し、今回のイベントの趣旨を紹介した後で、スペシャルゲストのIKKOに出番を譲る。IKKOの出演時は、哲夫ではなくIKKO専属インタビュアーの岩崎さんという女性が仕切りを受け持つ。
IKKOは黒い着物姿で登場。宝づくしの柄で赤い糸が入り、桐の花が誂えられている。
「どんだけー!」と言って、舞台上手側から登場したが、仏教のイベントということで、「どんだけー!」と言っていいのかどうか迷ったそうである。だが、自分と言えば「どんだけー!」なのでやることにしたそうだ。

現在、62歳のIKKOだが、50歳の時に習字を教わるようになり、今では書家として字も売りの一つとなっている。字自体は40代の頃から独自に書いていたそうだが、思ったよりも上手くいかないというので、50歳になったのを機に習い始めたそうだ。
「川の流れのように」「福」「笑門」などの文字を好んで書くという。38歳の時にパニック発作が起こり、故郷の福岡県の田舎に戻って療養していたことがあるのだが、空気や山などに音があることにその時初めて気がついたそうだ。
人生はそのようにちょっとしたことで変わり、頭の中の色に敏感になることや、見える景色を大切にする必要性などについて語った。
音楽は、島津亜矢の「夜汽車」や布施明の「カルチェラタンの雪」が好きだそうで、実際に流して貰っていた。また荒木一郎の歌声が好きだそうである。

「今日の一日に感謝」と書かれた文字がスクリーンに映し出され、一日の中にも様々な気付きがあることを述べる。
最後は、最新の書、「笑」と「笑福寿」の披露。「笑福寿」はIKKOの造語だそうである。六十代に入ってからは、「見ざる言わざる聞かざる」をモットーとしたいとも語った。

休憩時間を挟んで、まず哲夫による一人漫談。漫才師としてはM-1王者にもなっている笑い飯・哲夫だが、ピン芸は得意ではなく、R-1では早い段階で敗退することが多い。今日も「滑った」と語っていた。「ありがとう」の反対は「当たり前」だということや、馬関係の「埒があかない」や「拍車を掛ける」などの話もする。
また相手をうらやむ心を打ち消すには、他人の幸せも自分の幸せとして受け入れればいい、ということで、「自他平等」も唱えていた。
「幸」という字は、元々は手枷を図案化したもので、良い文字ではないのだが(名前に付けるとよくない漢字説もある)、死刑になる時代に手枷だけで済むのなら幸せという解釈も披露していた。
ちなみに、「これからの幸せ」は、全国9カ所で行われ(京都でも初回が行われている。ただしゲストは三浦瑠麗であった)今日が楽日なのだが、毎回参加している戸松義晴によると、哲夫の話は毎回「9割一緒」で、やはり滑るそうで、「本場の大阪なら受けるかと思ったが、やはり滑った」そうである。哲夫は、「浄土宗さんのフォーラムの司会をさせて貰っていますが、実は家は曹洞宗」と明かしていた。ただ家の仏壇の本尊は阿弥陀如来だったそうである。
江戸時代に宗門人別改などの関係で家の宗派が固定されるまでは、意外に宗派の選択は自由で、禅と念仏の両方をやるのが普通だったり、家の宗派とは関係なく、自由に信仰したい宗派を選んでいたりしたようだ。

なお、浄土宗、浄土真宗(真宗)、時宗などの念仏宗は易行であるため庶民に広がって信徒も多く、日本の仏教の信徒数1位は浄土真宗本願寺派で確定(真宗系の信徒は「門徒」と呼ばれる)。2位も正確な数は分からないが、浄土宗、真宗大谷派などの念仏系が争っている。天台、真言なども庶民の信仰者は多いが、どちらかというと上流階級向けの宗派であり、当然ながら上流階級は人数が少ない。

浄土宗は徳川将軍家が信仰した宗派で、江戸時代には優遇された。京都の総本山知恩院には徳川の三つ葉葵の紋が多く見られる。京都には知恩院の北に黒谷こと金戒光明寺もあるが、これらは東海道を挟んだ隠れ城郭寺院となっており、有事に備えられるようになっていた。幕末の京都守護職、松平容保ら会津藩は金戒光明寺を本陣としている。なお会津松平家の宗派は浄土宗でないどころか仏教でもなく神道である。神道を家の宗教とするほぼ唯一の大名家であった。


哲夫の司会、元ABCアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとなっている三代澤康司(みよさわ・やすし)と、奈良県吉野郡の西迎院副住職の女僧・光誉祐華(こうよゆうか)、そして戸松義晴を迎えてのパネルトーク。

三代澤康司は、哲夫の大分年上の先輩になるそうだ。奈良県公立トップ進学校である奈良県立奈良高校の出身で(奈良商業高校出身の明石家さんまが、哲夫が奈良高校出身なのを聞いて驚いたという話がある。ちなみに相方の笑い飯・西田も奈良女子大学文学部附属高校出身で、女子大の附属ということで笑われることもあるが、国立大学の附属であるため、こちらもかなりの進学校である。有名OBに八嶋智人がいる)、奈良高校は今は校地が移転してしまったが、以前は東大寺や興福寺にすぐ行ける場所にあり、仏教的な感性を養うのに最適な環境だったという。
三代澤は、奈良高卒業後は大阪市立大学に進学。大阪市立大学は現在は大阪府立大学と合併し、大阪公立大学(「ハム大」という略称があるようだ)となっている。大阪市立大学を5年掛けて卒業した後で、朝日放送のアナウンサーとなり、4年前に定年退職を迎えたそうである。
三代澤は、「うちは浄土宗」と述べるが、家の宗派が浄土宗であると分かったのは、つい最近だそうで、松本出身の父親(98歳で存命中)の菩提寺を探し当てて、そこが浄土宗の寺院だったそうである。ただ、三代澤の家系は曹洞宗の家が多く、「なぜ家だけ浄土宗?」と思ったのだが、なんでも曾祖父が曹洞宗の寺院の住職と喧嘩して宗門替えを行っていたことが分かったという。

光誉祐華は、お寺に生まれ育ち、佛教大学を出て、実家の寺院の仕事に就いたのだが、信徒がお年寄りしかいなかったため、「若い人を呼ばないと」と思い立ち、若い人のいるライブハウスで、仏教にちなんだ歌をうたうなど、「現代の辻説法」を行っていたという。以前は愛$(アイドル)菩薩を称していた。

「これからの幸せ」についてであるが、出演者の多くが「気付き」という言葉を口にしていた。
「幸せ」というものは、実は「ある」もので、それに気付くか気付かないかに左右されることが多いように感じられる。「幸せ」は創造するものではなく、むしろ創造するのは困難で、今ある「幸せ」に気付くのがよりよい幸せに繋がるような気がする。
三代澤が、スポーツ紙5冊、一般紙4冊を毎朝読んでから仕事に向かうという話を受けて、哲夫が、松本人志や百田尚樹の不祥事が一般紙にも載るようになったことを語っていたが、彼らは幸せを自らの手で切り開いた系であり、それゆえに脆いのではないかという印象も受ける。大きな話に寄りかかるようになり、身近で起こる小さなことに気付きにくくなるからである。

Dsc_6584

| | | コメント (0)

2024年12月 8日 (日)

これまでに観た映画より(357) National Theatre Live 「プライマ・フェイシィ」

2024年11月11日 大阪の扇町キネマにて

大阪の扇町キネマで、National Theatre Live「プライマ・フェイシィ」を観る。イギリスのナショナル・シアターが上演された演劇作品を映画館で上映するシリーズ作品。今回は、2022年4月15日から6月18日まで、ロンドン・ウエストエンドのハロルド・ピンター劇場で行われたジョディ・カマーの一人芝居「プライマ・フェイシィ」が上映される。作:スージー・ミラー、演出:ジャスティン・マーティン。ジャスティン・マーティンは、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」などを手掛けたスティーブン・ダルドリーと長年に渡ってコラボレーションを組んできた人だという。

初の扇町キネマ。京都市内にも映画館は多く、大抵は京都の映画館で済んでしまうため、大阪市内の映画館には入ること自体が二度目である。

作者のスージー・ミラーは、オーストラリアのメルボルン出身で、オーストラリアの弁護士からイギリスの劇作家に転身したという異例の人である。この「プライマ・フェイシィ」も女性弁護士が主人公となっている。「プライマ・フェイシィ」の初演は2019年、オーストラリア・シドニーのグリフィン・シアターで行われている。

非常にセリフの量が多く、上演時間は休憩なしの2時間ほどだが、その間、ずっと喋りっぱなしのような状態である。物語は全てセリフで説明される。

女性弁護士のテッサ(ジョディ・カマー)は、性的暴行を受けた若い女性の弁護を法廷で行っている。テッサはわざと隙を作って、そこに相手を誘い込むという手法を得意としているようだ。テッサはリヴァプールで清掃業を営む労働者階級の出身であり(初演時はオーストラリアが舞台だったが、演じるジョディ・カマーがリヴァプール出身ということで設定が変わった)、公立のハイスクールを出たが、ケンブリッジ大学法学部の法科大学院(ロースクール)に進んでいる。オックスフォード大学と並ぶ世界最高峰の名門であるケンブリッジ大学の法科大学院といえど、イギリスの法曹資格を得るのは容易ではないようで、合格するのは10人に1人程度の狭き門であるようだ。ちなみに同級生にはやはり育ちの良い子が多かったようで、知り合いの多くは私立高校やパブリックスクール出身である。

テッサは、小さな弁護士事務所に勤めているのだが、大手の弁護士事務所からも誘いがある。

弁護士仲間とも上手くやっていたが、ある日、やはり弁護士のジュリアン・ブルックスと事務所内で情事に及ぶ。その後、ジュリアンとは親しくなり、日本食レストランで食事をし、日本酒(「サキ」と発音される)を飲み、テッサのアパートに移ってワインなどを空け、この日も情事に及ぶのだが、テッサはその後、吐き気がしてトイレでもどしていた。そこにジュリアンがやってきてテッサをベッドまで抱え、テッサが望まぬ二度目のことに及ぶ。テッサは「これはレイプだ」と傷つき、自身のアパートを飛び出す。雨の日でずぶ濡れになったテッサはタクシーを拾い、最寄りの警察署に言って欲しいと告げる。

それから782日が経過した。ジュリアンはその後、婦女暴行で逮捕され、審判の日を迎えることになったのだ。だが、その間、テッサが失ったものは余りに多かった。

刑事法院に原告として証言台に立ったテッサは、不快な記憶を辿る必要がある上に、様々な矛盾を指摘される。俗に言う「セカンドレイプ」である。「両手を抑えられていたのに、口も塞がれたなんてどうやったんだ?」と痛いところを突かれる。テッサは、ジュリアンが片手でテッサの両手を抑えて、片手で口を塞いだことを思い出すのだが、レイプ体験の証言ということで、どうしても頭が混乱してしまい、その場では上手く証言出来ない。法律は全て家父長的な精神の下で男性が作ったものであり、男性に有利に出来ているとテッサは告発する。「法への信念」を抱いてきたテッサの失望である。
更に、テッサがスカウトされ、現在所属している大手弁護士事務所は、ジュリアンなど複数の弁護士に誘いを掛けており、最終候補に残ったのがテッサとジュリアンの二人だった。テッサはそれを知らなかったのだが、「ジュリアンを追い落とそうとしたのでは」との疑いを掛けられる。

「魂の殺人」とも言われる強姦。女性の3人に1人が被害に遭っているという統計もあるが、被害者が基本的に混乱に陥っているということもあって立証は難しく、この劇での被告であるジュリアンも無罪となっている。
敗れたテッサだが、被害者の一人としていずれ法が変わり、多くの女性が救われる日が来ることを願う。そして、この芝居のためにセルフ・エステーム(レベッカ・ルーシー・テイラー)が書き下ろした「私が私でいられる完全な自由」を求める歌によって締められる。

1993年生まれと若いジョディ・カマーは、普段はテレビドラマを主戦場としている人のようだが、膨大な量のセリフを機関銃のように吐き出すという迫力のある演技を見せる。彼女は「プライマ・フェイシィ」で、イブニング・スタンダード演劇賞と、権威あるローレンス・オリヴィエ賞最優秀主演女優賞を獲得している。ニューヨーク・ブロードウェイ公演ではトニー賞最優秀主演女優賞にも輝いた。
作品自体もローレンス・オリヴィエ賞の最優秀新作プレイ賞を受賞している。

| | | コメント (0)

2024年12月 7日 (土)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024オープニングイベント@京都芸術劇場春秋座 ゲスト:やなぎみわ&岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授、早稲田大学演劇博物館前館長)

2024年11月23日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、「サミュエル・ベケット映画祭」2024のオープニンイベントに参加する。司会は小崎哲哉(おざき・てつや。京都芸術大学大学院芸術研究科教授)。出演は、美術作家・舞台演出家のやなぎみわと、早稲田大学文学学術院教授で早稲田大学演劇博物館前館長の岡室美奈子。

まず、小崎が、サミュエル・ベケットという人物の概要を説明する。サミュエル・ベケット(1906-1989)は、アイルランドのダブリン県に生まれた劇作家、小説家、詩人である。母語は英語であるが、フランス語を習得し、パリに移住。英語とフランス語の両方で著述を行っている。アイルランドを代表する作家のジェイムズ・ジョイスとは友人である。
「ゴドーを待ちながら」が特に有名で、おそらく20世紀に書かれた戯曲としては最も上演回数が多いのではないかと思われる。また、鴻上尚史の「朝日のような夕陽をつれて」や別役実の「やってきたゴドー」など、「ゴドー」にインスパイアされた作品も多い。
「ゴドーを待ちながら」は、ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者が、一本の木の下でひたすらゴドーを待つという話である。途中、ポッツォと従者のラッキーが通りかかるのだが、それだけである。
なんのかんのと暇つぶしをし、首つり自殺をしようとするが失敗し、とにかく「ゴドーを待つんだ」ということで待ち続ける。やがて少年が現れ、「ゴドーさんは来ません」と告げる。これが二度繰り返される。

私は「ゴドーを待ちながら」の上演を観たのは3度。緒形拳と串田和美らがシアターコクーンステージ内に設置した小劇場のTHE PUPAで行った上演。近畿大学文芸学部芸能専攻の卒業公演、そしてアイルランドの演劇劇団マウス・オン・ファイアによる英語上演である。

いずれもとにかく何も起こらない上演である。近畿大学の学生による上演ではいかにも「暇つぶし」といったように羽根を足で蹴り続けて遊ぶという場面が追加されていた。またラッキーを演じたのは女子学生で、卑猥な言葉をつぶやき続けるという演出であった。

人生そのものを描いたような作品だが、新訳で読むともっと切羽詰まったような印象を受ける。浮浪者の二人だが、何もせず人生に失敗した訳ではなく、ありとあらゆる手を尽くして駄目だったことが分かるようになっている。そして人生の残りの日は少ない。かなり焦燥感に駆られる感じになっていたが、人生において失敗経験の少ない人は、こうした切迫感は感じることが出来ないだろう。

その他の有名な作品としては、「クラップの最後の録音(最後のテープ)」が挙げられる。これは今はなきアトリエ劇研で上演されたものを観ている。男が毎年誕生日にテープに録音を行い、何年も経ってからそれを聞き返して、出来の悪さに気が滅入っていくという話である。実際は、「クラップの最後の録音」が書かれた数年前に家庭用の録音テープが発売されたばかりで、何年にも渡って録音が残っているというのはフィクションだそうである。ベケットは新しいもの好きで、新しいものをすぐ自作に取り入れたがる傾向があったようだ。

「ハッピーデイズ」も紹介される。女性が腰まで埋まりながら喋り、第二幕では首まで埋まりながらセリフを発するという妙なシチュエーションの劇であるが、語られる内容自体は明るい。


やなぎみわを迎え、自身がベケットの影響を受けて作り上げた演劇作品「ゼロ・アワー ~東京ローズ最後のテープ~」の映像が上映される。太平洋戦争時に、日本の放送局が米兵に向けて調略のために行ったラジオ放送「ゼロ・アワー」と、出演していた東京ローズと呼ばれた女性アナウンサーの物語である。東京ローズは複数人おり、演劇作品「ゼロ・アワー」では、5人いたということになっている。実は6人目がいたのだが、これは東京ローズの仕掛け人である男が自身の肉声をテープに吹き込み、加工して女性の声のように聞こえるようにして流していたという設定になっている。
ベケットのチェスを題材にした作品「エンドゲーム(勝負の終わり)」を意識し、東京ローズの女性達がマスゲームのようなものを繰り広げるシーンがある。
ちなみにB29に東京ローズのイメージ画が描かれた機体が存在しており、東京ローズがB29の隠語になっている場合もある。

第2部では、岡室美奈子を迎えて、ベケット作品に関するフリートークが行われる。サミュエル・ベケット映画祭は、2019年に京都造形芸術大学でベケット没後30年を記念した小規模なものが行われており、岡室はそれに出演予定だったのだが、体調を崩してしまいキャンセル。今回はリベンジという感じできたのだが、風邪を引いてしまい、咳などは治まったのだが、「念のため」ということでマスクをしての参加になった。
なお、「サミュエル・ベケット映画祭」2024は、京都芸術劇場春秋座で3回行われた後で、東京の早稲田大学小野記念講堂に場所を移して1回行われる予定である。

まず、緒形拳と串田和美による「ゴドーを待ちながら」(私が東京で観たものと同一内容だと思われる)を網走刑務所で上演したところ、ラッキーが怒濤のように喋り出すシーンで、囚人達が大喝采を送ったという話になる。抑圧されていた者が、突如解放されたように見えるのが心に響いたのではないかと岡室は感じたそうだ。

岡室によると、ベケット作品は、俳優の声を通して聞くと案外エロティックだという。ベケット自身女好きで、女にもよくモテ、正式な奥さんの他に愛人ともずっと関係を保つという暮らしを送っていたそうである。そうしたベケットの女好きの部分が彼の演劇作品や映画作品には現れているそうである。ちなみにベケットは小説家でもあるが、小説はこの限りではないようだ。
ちなみにベケットは最晩年まで女にモテたがったそうで、ダイエットのために野菜しか食べない生活を送っていたという。ベジタリアンと誤解されているが、実際はダイエットのための菜食だったようだ。

岡室は、ベケットに影響を受けた日本の芸術家として、映画監督の濱口竜介の名を挙げる。代表作の「ドライブ・マイ・カー」には、西島秀俊が演じる主人公の舞台俳優で演出家の家福(かふく。カフカみたいな名前である)が、「ゴドーを待ちながら」と「ワーニャ伯父さん」を交互に演じ続けているシーンがある。また家福は奥さん(霧島れいかが演じた)に相手役のセリフをカセットテープに吹き込んで貰い、車中でセリフの練習をするという習慣を持っている。岡室は、あそこはやはりカセットテープでないといけないという。テープの持つ質感が大事なのだそうだ。ディスクになるとブラックボックス化してしまい、どこにどの音声が入っているのか分からなくなるが、カセットテープなら大体どの部分にどの音声が入っているのかが分かる。それが重要だという。

「ゴドーを待ちながら」は男ならではの悲哀を描いた作品である。実際には蜷川幸雄や鴻上尚史が女性版「ゴドーを待ちながら」を有名女優を使って行っており、評判も良かったようなのだが、悲哀はそれほど出なかったのではないかと予想される。

Dsc_6922_20241207220001

| | | コメント (0)

2024年12月 6日 (金)

竹内まりや 「カムフラージュ」(CX系連続ドラマ「眠れる森」主題歌)

期間限定公開とさせていただきます。もう主演女優も脚本家もいません。

| | | コメント (0)

中山美穂 「ROSÉ COLOR(ロゼ・カラー)」

| | | コメント (0)

大貫妙子 「ひまわり」(映画「東京日和」より)

| | | コメント (0)

2024年12月 5日 (木)

これまでに観た映画より(356) 永瀬正敏&土居志央梨「二人ノ世界」

2024年12月2日 京都シネマにて

京都シネマで日本映画「二人ノ世界」を観る。永瀬正敏&土居志央梨W主演作。土居志央梨がNHK連続テレビ小説「虎に翼」の山田よね役でブレークしたのを受けての再上映である。2020年公開の映画で、2017年の制作とあるので、撮影もそれよりちょっと前かと思ったのだが、土居志央梨がX(旧Twitter)で、「21歳の時に撮影」と書いており、土居志央梨は現在31歳なので約10年前に撮られているということになる。何らかの理由で公開までに時間が掛かったようだ。プロデューサーは複数名いるが、メインは林海象。林海象と永瀬正敏は、「濱マイク」三部作を作り上げている盟友であり、土居志央梨は林海象の京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映画学科の教え子である。黒木華や土居志央梨は映画俳優コースの出身で、黒木華もプロフィールに「林海象に師事」と書いてあったりするのだが、林さんは演技自体の指導は出来ないはずなので、演出を付けて貰ったという意味なのだと思われる。原作・脚本:松下隆一(第10回日本シナリオ大賞佳作)、監督:藤本啓太。製作協力に、北白川派(林海象を発起人として京都造形芸術大学映画学科を中心に興った映画製作グループ)と京都芸術大学、京都芸術大学映画学科が名を連ねている。

出演は、永瀬正敏と土居志央梨の他に、牧口元美、近藤和見、重森三果、勝谷誠彦、宮川はるの等。余り有名な俳優は出ていない。

面白いのは、若き日の土居志央梨の声が松たか子そっくりだということ。多分、音声だけだとどちらがどちらなのか分からないほどよく似ている。顔の輪郭が同じような感じで頬もふっくらしているという共通点があるため、声も自然と似たものになるのであろう。

京都市が舞台である。元日本画家の高木俊作(永瀬正敏)は、36歳の時にバイク事故で脊髄を損傷し、首から下が不自由になる。画家時代は東京で暮らしていたが、今は京都の西陣にある実家で寝たきりの生活を送っている。母親が介護していたが4年前に他界。今は父親の呉平が介護を担っているが、高齢であるため、ヘルパーを雇おうとしている。しかし俊作はヘルパーが気に入らず、毎回、セクハラの言葉を浴びせて追い返していた。困った呉平はラジオに投稿。採用され、ラジオのパーソナリティーと窮状について話をする。そのラジオを聴いて、ヘルパーとして無理矢理押しかけてきた若い女性がいた。目の見えない平原華恵(土居志央梨)である(27歳という設定)。「虎に翼」にも花江という名の女性が出てきたが(森田望智が演じた)、こちらにも字は違うが「はなえ」が出てくるのが面白い。
華恵は、目が見えないということで、求人に応募しては不採用という状態が続いていることが冒頭で示されている。
俊作も、華恵に関しては卑猥な言葉を吐かず、取りあえず受け入れることになる。目が見えないので、本当にヘルパーが務まるのか、みな疑問視するが、何とかなっている。ちなみに華恵はヘルパーの資格は持っていない。京都のどこかは分からないが、屋外にゴミゴミした風景が広がる場所に住み、煙草をたしなむ。幼い頃に右目を失明し、5年前に左目の光も失ったようだ(視覚障害者のための団体、京都ライトハウスが撮影に協力している)。
これまで俊作は、女性ヘルパーに会ってすぐにセクハラに及んでいるため、顔が気に入らなかったのだろうか。面食いなのかも知れない。
俊作には、小学校の頃からの付き合いで、写真館を営む後藤という友人がいる。後藤にAVを貸して貰って見るのが習慣になっているようで、華恵の前でもAV鑑賞を行おうとする。後藤はたしなめるが、華恵が、「私は別に構いませんよ」と言ったため、介護を受けながらAVを見る(スクリーンからはあえぎ声だけ聞こえる)という妙な場面があったりする。
呉平の健康状態が良くなく、緊急入院することに(勝谷誠彦が医師役で出ている)。華恵は俊作を安心させるため、「検査入院」と告げたが、もう長くないのは明らかだった。
呉平の葬儀の日。いかにも意地悪そうな親戚のおばさん達(かなりステレオタイプの京都人といった感じである)は、目が見えず、無資格の華恵が俊作のヘルパーを続けていることに疑問を呈する……。


障害者を扱った思い作品だが、障害者が直面するシリアスな問題には本格的には触れず(そういった問題はドキュメンタリー映画で扱うのが適当だろう。ただ印象に残る場面はいくつもある)、障害者二人の心の接近が主に描かれている。俊作が事故に遭う以前に描いた鶴のつがいの絵を華恵が撫でて指先で読み取るシーンが印象的である。最初は寝てばかりだった俊作だが、華恵と屋外に出るようになる。
ロケ地の協力先として宝ヶ池公園などの名が上がっているが、宝ヶ池は映らず、公園内のその他の部分で撮影が行われている。また京都大学の北にある百万遍知恩寺での大念珠繰りの行事を二人がテレビで見る場面があり、その後、二人が屋台のある場所に出掛けるのだが、ここはどうも知恩寺ではないように思われる。百万遍知恩寺には余り屋台が出ることはない。どこなのかは少し気になる(吉田神社などは屋台がよく出ているが、吉田神社が協力したというクレジットはない)。
二人とも障害者であることを卑下する言葉を吐くことがあるが、華恵は、「私も俊作さんも普通の人間なのに。私は目が見えないだけ、俊作さんは体が動かないだけ」と障害者が置かれた理不尽な立場を嘆いたりもする。華恵は目の焦点が合っていないので、外に出る時はサングラスをして誤魔化しているのだが、バスに乗ったときに、席を譲って貰って座るも、女の子から、「このお姉ちゃん目が見えないの?」と言われ、明るく「何にも見えないよ」と返したが、女の子は何も応えないなど、一番傷つくやり方をされてもいる。
俊作も、「俺たち、色々と諦めなくちゃいけないのかな」と弱音を吐くが、その直後に路上で痙攣を起こし、病院に運ばれる。駆けつけた親戚から華恵は、俊作にもう会わないようにと告げられる。


ラストシーンではベッドインする二人。このまま障害者二人でやっていけるのかどうかそれは分からないが、障害者としてではなく男女として巡り会えた喜びが、今この時だけだったとしても描かれているのが救いである。


障害者ではあるが、ギラギラした生命力を感じさせる永瀬正敏の演技と、しっとりとした土居志央梨の演技の対比の妙がある。重く地味な作品ではあるのだが、独特の空気感が映画を味わい深いものにしている。
まだ京都造形芸術大学の学生だった土居志央梨の、山田よねとは正反対の瑞々しい演技も見物。しかしここから売れるまでに10年かかるのだから女優というのも大変な職業である。

Dsc_7045

| | | コメント (0)

2024年12月 3日 (火)

これまでに観た映画より(355) 池松壮亮&伊藤沙莉「ちょっと思い出しただけ」

2024年11月13日

ひかりTVの配信で、日本映画「ちょっと思い出しただけ」を観る。東京テアトルの制作。監督・脚本:松井大悟。主演:池松壮亮&伊藤沙莉。出演:河合優実、大関れいか、屋敷裕政(ニューヨーク)、尾崎世界観、成田凌、市川実和子、高岡早紀、神野美鈴、鈴木慶一、國村隼(友情出演)、永瀬正敏ほか。劇伴を「虎に翼」の森優太が担当している。

2021年の7月26日のシーンに始まり、過去の7月26日へと時が遡っていく。

2021年の7月26日は、コロナ禍の真っ只中ということで、登場人物の多くがマスクをしている。
タクシードライバーの野原葉(よう。伊藤沙莉)は、芸能関係者の男をタクシーに乗せる。トイレに行きたいと男が言い出したため、小劇場である座・高円寺の前でタクシーを停める葉。そのまま座・高円寺の中に入り(本来は部外者立ち入り禁止のはずだが)、舞台で佐伯照生(池松壮亮)が踊っているのを見掛ける。葉と照生は元恋人だった。ダンサーで振付なども担当した照生だが、今は足の致命的な怪我でダンスを諦め、劇場の照明係(助手)として働いている。だが、終演後には一人で踊っていたのだ。

照生が暮らすアパートの前には坂があり、その下の公園のベンチに中年の男(永瀬正敏)が座り込んで、亡き妻の帰りを待っている。

その後、時間は巻き戻る。

2019年7月26日。タクシー会社で朝の準備をしていた葉は友人からLINEで合コンに誘われる。お世辞にも雰囲気が良いとは言えない居酒屋での3対3の合コン。血液型の話になり、葉もA型だと答える(伊藤沙莉の血液型もA型)。表で煙草を吸おうとして火を借りた葉は、火を貸した男、康太(ニューヨークの屋敷裕政)と一夜を共にする。

その前年の7月26日には、葉は照生とタクシー運転中に意見が食い違い(葉は怪我をした照生を支えるつもりだったが、照生にはそうして貰う気はなかった)、別れる。タクシーを追おうとしない照生にも葉は不満だった(ここは伊藤沙莉の考えが反映されているという)。それでもバースデーケーキは贈った。

その前年の7月26日には葉は照生と一夜を共にし、デートをしている。ダンススタジオに通う照生は水族館(八景島シーパラダイスだと思われる)でアルバイトをしており、夜の水族館に二人で忍び込んだのだ。葉は踊る振りをしてみせた。
その後も、タクシー内でのとある映画を模したやり取りや、屋上での花火など、胸キュンシーンが続く。

その前年、恋人の照生にお祝いの花束を渡そうと、ダンススタジオの前までやって来た葉だが、照生が同じバレエダンサーの泉美(河合優実)から誕生日プレゼントを贈られるのを見て嫉妬に駆られ、花束を渡すことなく、雨の中、ダンススタジオを後にする。
ずぶ濡れになりながら傘を探す葉は、ベンチに座る男の当時存命中の妻(神野美鈴)と出会う。

葉と照生の二人が出会ったのは2015年の7月26日。友人の舞台を観に行った葉は、公演のダンスシーンの振付と出演をした照生と終演後の打ち上げで初めて顔を合わせる。乗客とは比較的話す葉だが、根の部分では奥手の性格のようである。ダンスシーンに不満のあった葉は率直に感想を口にするが、振付が照生であると知って気まずくなる。だが、葉の感想が舞台関係者のそれであることを見抜いた照生は葉とシャッター商店街を歩き、葉を抱え上げて踊るなど、戯れる。葉も元々は舞台関係者であることを打ち明けた(高校時代に演劇部にいたという話が先に出てくる。舞台女優ではなく、おそらくダンサーもしくは劇作系だと思われる)。とても甘酸っぱいシーンである。

そして2021年7月26日の座・高円寺。葉が照生のダンスを見つめるシーンに戻る。
上手くいかなかった恋。「ちょっと思い出しただけ」。葉は今は康太と結婚し、一児を設けている。


毎年の7月26日の照生の誕生日に焦点を当てて、時代を遡るという趣向のドラマである。
男女としての関係が崩れてしまったカップルの初々しい出会いのシーン(シャッター商店街とはいえ、実際にあれをやられると迷惑だろうが)など、愛らしいシーンをいくつも見つけることが出来る。タクシー運転手役で鈴木慶一がカメオ出演しているのも見所。鈴木慶一が二人を乗せたタクシーは横浜のみなとみらい地区で停まる。


今日、Webラジオの「松岡茉優&伊藤沙莉 お互いさまっす」で、伊藤沙莉が19歳の頃に運転免許を取りに行って楽しかったという話をしていたが、この頃の彼女は仕事が全く入らず、「普通にフリーターだった」そうで、「バイト行って、教習所通って、友達の家に連泊して、彼氏できて、彼氏もいるグループの子たちとずーっと一緒にいて」という生活だったらしいが、そんな生活を見かねたマネージャーさんに怒られて号泣したそうで、それまで惰性で女優をやっていたのが、「見てろよ」と気持ちが変わったのもこの頃のようだ(いずれも伊藤沙莉フォトエッセイ『【さり】ではなく【さいり】です。』より)。

これも「お互いさまっす」で伊藤沙莉が語っていたことだが、脚本を書く前に松井監督が伊藤にインタビューしに来たそうで、「恋愛観や恋愛ストーリーなど」を聴き、それがこの映画にかなり反映されているようである。

その伊藤沙莉であるが、自然体の演技。「こういう子いるよね」という妙な説得力がある。なお、伊藤は時の遡行に合わせて前髪をパッツンにするなど、若く見える工夫をしている。

池松壮亮は身体能力も高く、一生懸命やってはいるのだがどこか投げやりに見える雰囲気も上手く出しているように感じられた。

2024年ブレイク女優の一人、河合優実。いい役を貰っているということもあるが、この頃から人目を惹く要素があり、存在感を放っている。

葉の行きつけのバー「とまり木」のマスターである中井戸を演じる國村隼にも癒やされる。


どちらかといえば可愛い系の映画で、若い人向けであり、傑出した作品ではないかも知れないが、感情の変遷を的確に描き出していて好印象である。


ちなみに葉のタクシー免許更新日が6月17日になっているが、6月17日生まれの女優である麻生久美子が「SF Short Films」というオムニバス映画の一本でタクシー運転手役をやっている。こちらもお薦めである。

| | | コメント (0)

2024年12月 2日 (月)

観劇感想精選(478) 彩の国シェイクスピア・シリーズ 小栗旬&吉田鋼太郎「ジョン王」大阪公演

2023年2月11日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「ジョン王」を観る。彩の国シェイクスピア・シリーズの一つ。出演・演出:吉田鋼太郎。テキスト日本語訳:松岡和子、出演:小栗旬、中村京蔵、玉置玲央、白石隼也、高橋努、植本純米、櫻井章喜ほか。オール・メール・キャストによる上演である。

「ジョン王」は、シェイクスピア作品の中でも知名度が低く、上演されることは今ではほとんどないといわれているが、叙事詩的傾向がかなり強く、登場人物の魅力が余り掘り下げられていない印象を受けるため、それもむべなるかなという気もする。

ジョン王は、英国史上最悪の王といわれることもあるようだが、この劇を観ている限りでは、「最悪」とまでの印象を受けることはない。また、やり取りや展開に納得がいかない部分があるのだが、これは実際にそうしたことが史実としてあったのであろうか。

タイトルロールを演じる吉田鋼太郎(埼玉、愛知、大阪でのみジョン王を演じる)と、先王リチャードの私生児であるフィリップ・ザ・バスタード(先王リチャード獅子心王の息子と認められ、リチャードと呼ばれることになる)を演じる小栗旬の存在感は流石で、出ているだけで舞台が引き締まる。
小栗旬は冒頭で、フードを被った現代の若者(小栗旬も40歳だが)として客席から舞台に上がり、ラストでも冒頭と同じ格好になって客席を歩いて去っていった。その去り行く小栗旬を自動小銃が狙っている。イギリスとフランスの戦争を背景とした作品だが、今なお続くウクライナ紛争など、戦争が過去のものではないことを示しているのだと思われる。

Dsc_2187

| | | コメント (0)

2024年12月 1日 (日)

「徹子の部屋」 ゲスト:仲野太賀 2024.11.5

2024年11月5日

テレビ朝日系(こちらではABCテレビ)「徹子の部屋」に俳優の仲野太賀が登場。俳優の中野英雄の息子(次男)で二世俳優となる。再来年の大河ドラマ「豊臣姉弟!」で主役の、羽柴小一郎や大和大納言の名でも知られる豊臣秀長(羽柴秀長)を演じることが決まっている。
黒柳徹子は、「今年の朝ドラのヒロイン(「虎に翼」の伊藤沙莉)の夫(佐田優三役)を演じて話題になり」「ロスを生んだ」と紹介した。ちなみに仲野は、伊藤沙莉演じる寅子の二番目の夫の役を演じた岡田将生と友人であり、朝ドラに出演が決まった時も岡田に報告して、
仲野太賀「今度朝ドラ出るんだ」
岡田将生「へえ、どんな役?」
仲野「ヒロインの伊藤沙莉ちゃんの夫役」
岡田「え?」
となったそうだ。
また早くに亡くなるので、岡田に、「絶対ロスを生んでやる」と意気込んでいたという。

父親の中野英雄のことを、「宣伝隊長」と呼んでおり、私も今日の「徹子の部屋」のことは、中野英雄のXのポストで知った。
仲野は母親の影響で「徹子の部屋」に出るのが夢だったそうだ。

実は、丁度30年前の1994年に当時29歳の中野英雄が「徹子の部屋」に出演しており、その時のVTRが紹介される。鈴木保奈美主演のCX系連続ドラマ「愛という名のもとに」で、今で言うパワハラを受けて自殺してしまう「チョロ」というあだ名の青年を演じて話題になっていた頃である。「1歳の子」の話が出てくるが、これが現在31歳になる仲野太賀のことである。ちなみに長男の名は武尊(たける)で名付け親は柳葉敏郎だそうだが、太賀の名は中野本人が付けたそうで、「大河ドラマに出れるように(ママ)と思ったんですけど、字はちょっと変えてね。僕が無理なんで子どもにだけは大河に出て主役でも張っていただかないと(ママ)」と発言している。仲野太賀もこの話は知らなかったようで、「軽い衝撃映像みたいになってますよね」。自分の名前の由来も初めて知ったようだ。

中野英雄は柳葉敏郎の付き人であったが、柳葉が所属していた一世風靡セピアのマネージャーのようなことをしていた。一世風靡セピアのマネージャーなので元はかなりやんちゃである。柳葉敏郎のことは、太賀は生まれた頃から知っていて、親戚のおじさん気分だったのが同じ俳優となって不思議な感じだという。

ただ中野家では母親の方が柱のような存在であったようで、太賀はかなりのお母さんっ子として育ったようである。子役のオーディションを受けさせられたこともあったようだが、嫌がって裸足で逃げ出したそうだ。

転機は小学校5年生の時に、ドラマ版の「ウォーターボーイズ」を見たことで、主演の山田孝之に憧れ、市民プールに行ってシンクロナイズドスイミング(現在はアーティスティックスイミングになっている)の真似をしていたが、「やりたいのこれ(シンクロ)じゃないな。俺は俳優になりたいんだ」と気づいて、俳優志望へと転じて13歳でオーディションに合格し、現在まで俳優を続けている。山田孝之とは現在公開中の映画「十一人の賊軍」で共演している。幕末の戊辰戦争時の越後新発田藩の話である。剣豪の役なのだが、殺陣の経験が全くなかったため、下手すぎて白石和彌監督に「キャスティング間違えたか」という顔をされたそうだが、最後は「阪妻(阪東妻三郎)みたいだったよ」と褒めて貰えたそうである。

最初は二世俳優だと思われることが嫌で隠し、父親にも「息子だと言わないで」と釘を刺して、太賀の芸名で出ていたが、「苗字ないのもな」と思い、本名の「中野」から字を変えて「仲野」の苗字を付けた。「仲間」を大切にするという意味で「仲」の字に変えたと聞いている。ちなみに中野英雄は息子の願望を無視して、あちこちで、「息子なんだ」と広めていたらしい。

| | | コメント (0)

« 2024年11月 | トップページ | 2025年1月 »