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2024年12月29日 (日)

2346月日(42) ナカノシマ大学2024年12月講座「大阪にオーケストラを! 江戸っ子・朝比奈隆の冒険」

2024年12月19日 大阪の中之島図書館にて

午後6時から、大阪・中之島の中之島図書館で、ナカノシマ大学2024年12月講座「大阪にオーケストラを! 江戸っ子・朝比奈隆の冒険」を受講。講師は、実業之日本社代表取締役社長で、編集者・音楽ジャーナリストの岩野裕一(いわの・ゆういち)。
岩野裕一は1964年東京生まれ。上智大学卒業後、実業之日本社に入社。社業の傍ら、満州国時代の朝比奈隆に興味を持ち、国立国会図書館に通い詰め、研究を重ねた。著書に『王道楽土の交響楽 満州-知られざる音楽史』(音楽之友社。第10回出光音楽賞受賞)、『朝比奈隆 すべては交響楽のために』(春秋社)。朝比奈隆の著書『この響きの中に 私の音楽・酒・人生』の編集も担当している。


日本を代表する指揮者であった朝比奈隆(1908-2001)。東京・牛込の生まれ。正式な音楽教育を受けたことはないが、幼い頃からヴァイオリンを弾いており、音楽には興味があった。旧制東京高校に進学(現在の私立東京高校とは無関係)。サッカーが得意で国体にも出ている。京都帝国大学法学部に進学。京都帝国大学交響楽団にヴァイオリン奏者として入る。当時の京大にはウクライナ出身の音楽家であるエマヌエル・メッテルがおり、朝比奈はメッテルに師事した。メッテルは服部良一の師でもあり、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」に登場した服部良一をモデルにした音楽家、羽鳥善一(草彅剛)の自宅の仕事場に置かれたピアノの上にはメッテルの写真が置かれていた。
メッテルの個人レッスンは、神戸のメッテルの自宅で行われている。曜日が異なるので、朝比奈と服部が顔を合わせることはなかったが、服部良一の自伝によると、メッテルは朝比奈には「服部の方が上だ」と言い、服部には「朝比奈はそれくらいもう出来ているよ」と言ってライバル心を掻き立てる作戦を取っていたようだ。
京都帝大を出た朝比奈は、阪急に就職し、運転士の訓練を受けたり阪急百貨店の販売の仕事をしたりしたが(阪急百貨店時代には、NHK大阪放送局がお昼に行っていた室内楽の生放送番組に演奏家として出演するためにさりげなく職場を抜け出すことが何度もあったという)、2年で阪急を退社。退社する際には小林一三から、「どうしても音楽をやりたいなら宝塚に来ないか」と誘われている。宝塚歌劇団には専属のオーケストラがあった。それを断り、京都帝国大学文学部哲学科に学士入学する。しかし、授業には1回も出ず、音楽漬けだったそうだ。丁度同期に、やはり全く授業に出ない学生がおり、二人は卒業式の日に初めて顔を合わせるのだが、その人物は井上靖だそうで、井上は後年の随筆で、第一声が「あなたが朝比奈さんでしたか」だったことを記している。

京都帝国大学文学部哲学科在学中に大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)に奉職。3年後には教授になっている。なお、大阪音楽大学には指揮の専攻がないため、ドイツ語などの一般教養を受け持つことが多かったようだ。後に大阪音楽大学の優れた学生を大阪フィルハーモニー交響楽団にスカウトするということもやっている。
大阪音楽学校のオーケストラを振って指揮者としての活動を開始。京都大学交響楽団の指揮者にもなっている。1940年には新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮して東京デビュー。翌年には東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)出身のピアニスト、田辺町子と結婚し、居を神戸市灘区に構える。町子夫人とは一度共演しているが、結婚後は「指揮者の妻が人前でピアノを弾くな」と朝比奈が厳命。町子夫人は大阪音楽大学の教員となり、ピアニストとしての活動はしなくなった。この町子夫人は101歳と長命だったそうだが、大阪フィルの演奏会を聴きに行き、「私より下手なピアニストが主人と共演しているのが許せない」と語るなど、気の強い人であったようだ。

その後、外務省の委嘱により上海交響楽団の常任指揮者となる。上海交響楽団はアジア最古のオーケストラとして知られているが、この当時の上海交響楽団は現在の上海交響楽団とは異なり、租界に住む白人中心のオーケストラであった。
その後、満州国に移住しハルビン交響楽団と新京交響楽団の指揮者として活躍。ハルビン交響楽団は白人中心のオーケストラ、新京交響楽団は日本人、中国人、朝鮮人の混交の楽団だったようである。町子夫人は満州に行くことに文句を言っていたようだ。

終戦はハルビンで迎える。「日本人は殺せ!」という雰囲気であり、朝比奈も命からがら日本へと帰る。

朝比奈隆は朝比奈家の生まれではない。小島家に生まれ、名前も付けられないうちに子どものいなかった朝比奈家に養子に入っている。本人はずっと朝比奈家の子どもだと思っていたようだが、両親が相次いで亡くなると、近所に住む小島家のおばさんから、「あなたは家の子だから」と告げられ、小島家で暮らすようになる。朝比奈家では一人っ子だと思っていたが、兄弟がいたことが嬉しかったようである。朝比奈の養父である朝比奈林之助は「春の海」で知られる宮城道雄と親しく、宮城は弟子への稽古を朝比奈家の2階で付けていたそうで、朝比奈隆は宮城道雄の音楽を聴いて育ったことになる。宮城道雄は朝比奈林之助のために「蒯露調」という曲を書いている。

さて、朝比奈の実父であるが、小島家の人間ではない。日本を代表する大実業家である渡邊嘉一(わたなべ・かいち)が実父である。小島家は渡邊の妾の家だったのである。
渡邊は京阪電鉄の初代専務取締役であった。朝比奈隆というと阪急のイメージが強いが、バックにあったのは実は京阪だったようだ。朝比奈が阪急に入ったのもコネ入社で、渡邊嘉一が小林一三に「預かってくれないか」と頼んだようである。
後に朝比奈は大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮するのみでなく経営にも携わるのだが、それには渡邊の実業家としての血が影響している可能性があるとのことだ。

さて、終戦後、関西の楽壇では「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」という雰囲気であり、実際に朝比奈が1946年に帰国すると、翌47年に関西交響楽団が組織され、朝日会館で第1回の定期演奏会を行っている。「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」は朝比奈の音楽性もさることながら、京都帝国大学を二度出ているため、同級生は大手企業に就職。その人脈も期待されていた。
1949年には関西オペラグループ(現・関西歌劇団)を発足させ、オペラでの活躍も開始。当初は演出なども手掛けていたようだ。
ちなみに朝比奈は大阪フィルを、関西交響楽団時代も含めて4063回指揮しているそうだが、「楽団員を食わすため」とにかく指揮しまくったようである。
当時、東京にはオーケストラが複数あったが、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団(文化放送・フジテレビ)、東京交響楽団(元は東宝交響楽団で、東宝とTBSが出資)と全てメディア系のオーケストラであった。そうでないオーケストラを作るには「大阪しかない」と朝比奈も思ったそうである。京都帝国大学を出て阪急に入った経験があり、関西に土地勘があるというだけではなかったようだ。

二度目の京都帝国大学時代、上田寿蔵という哲学者に師事しているのだが、上田は、「音楽は聴衆の耳の中で響くもの」とし、「西洋音楽だから日本人に分からないなんてことはない」という考えを聞かされていた。
東京では、齋藤秀雄とその弟子の小澤征爾が、「日本人にどこまでクラシックが出来るのか実験だ」という考えを持っていた訳だが、朝比奈は真逆で、その後にヘルシンキ市立管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っているが、「自分がやって来たことが間違っていないか確認する」ために行っており、本場西洋の楽壇への挑戦という感じでは全くなかったらしい。朝比奈的な考えをする日本人は今ではある程度いそうだが、当時としては異色の存在だったと思われる。

朝比奈と大阪フィルハーモニー交響楽団は、関西交響楽団時代も含めて、朝比奈が亡くなるまでの53年間コンビを組んだが、これも異例。オーケストラ創設者は創設したオーケストラから追い出される運命にあり、山田耕筰や近衛文麿も新交響楽団を追われているが、朝比奈は近衛からそうならないように、「自分たちで稼ぐこと」「間断なく仕事を入れること」などのアドバイスを受けて大フィルと一心同体となって活動した。更に日本の他のオーケストラに客演した時のギャラは全て大阪フィルに入れ、レコーディングなどの印税も大フィルに入れて、自身は大阪フィルからの給料だけを受け取っていた。神戸の自宅も戦前に建てられたものをリフォームし、しかもずっと借家だった。朝比奈の没後の話だが、町子夫人によると、税務署が、「朝比奈はもっと金を儲けているはずだ」というので、朝比奈の自宅を訪れ、床を剥がして金を探したことがあったという。


最後には大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長の福山修氏が登場し、朝比奈との思い出(外の人には優しかったが、身内には厳しかった)のほか、来年度の大阪フィルの定期演奏会の宣伝と、音楽監督である尾高忠明との二度目のベートーヴェン交響曲チクルスの紹介などを行っていた。

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