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2025年3月の14件の記事

2025年3月30日 (日)

観劇感想精選(487) 令和七年 京都四條南座「三月花形歌舞伎」松プログラム 「妹背山婦女庭訓」より三笠山御殿&「於染久松色讀販」 令和七年三月二十二日

2025年3月22日 京都四條南座にて

午後3時30分から、京都四條南座で、「三月花形歌舞伎」を視る。
毎年3月に、若手歌舞伎俳優達が競演を行う南座の「三月花形歌舞伎」。若手ということでチケット料金も安めで、実力者が多く出るというので人気の公演。南座のホワイエなどを見ると、どうもイケメン枠で売り出そうとしている人達もいるようだ。悪いことではないと思う。番付も若い女性を意識した可愛らしいデザインである。客席には男女ともにお年を召した方が目立つので、若者達を客席に呼び込みたいという意思が感じられる。

人気とは言え、大物歌舞伎俳優は出演しないため、満員からは遠い。ただ知名度の低い人が多いのにこれだけ入るのはたいしたものとも言える。

今回は、松プログラムと桜プログラムの2種類を用意。約20日ほどの公演だが、前半は午前の部が松プログラムで午後の部が桜プログラム。これが折り返し地点で逆になる。明日で公演は終わるので、今日の午後の部は松プログラムの上演である。

松プログラムは、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」より三笠山御殿と、中村壱太郎(かずたろう。成駒家)が早替わりで5役を演じる「於染久松色讀販(おそめひさまつうきなのよみうり)」の2本が上演される。なお、桜プログラムの2作目もやはり中村壱太郎早替わり5役の「御染久松色讀販」が上演されるが、後半の筋書きと演出、更に壱太郎の演じる役が異なるようである。

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開演前に、中村虎之介(成駒屋)による前説があり、作品解説が行われたほか(「『妹背山婦女庭訓』で藤原鎌足の息子である藤原淡海をやるのは、シュッとして色白でいい男、私がやります」と紹介していた。また「『於染久松色讀販』は、壱太郎さんが5役早替えでやります。あれ、『これ壱太郎さんじゃないかな?』と思っても壱太郎さんです」)、恒例の写真撮影会を南座のゆるキャラである、みなみーなと共に行った。

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「妹背山婦女庭訓」より三笠山御殿。蘇我入鹿(市川猿弥)が悪役である。飛鳥時代が舞台ということになっている。当時、政権をほしいままにしていた蘇我入鹿とその父の蘇我蝦夷が住んでいたのは飛鳥の甘樫丘ということになっているが、本作では奈良の三笠山に御殿があるということになっている。入鹿と敵対しているのは藤原鎌足(中臣鎌足)であり、その子の烏帽子折求女実は藤原淡海(中村虎之介)である。淡海は、入鹿の娘の橘姫(上村吉太朗)と恋仲であり、糸をつけて苧環(おだまき)で彼女のことを追っている。そんな淡海の袖に糸をつけてこれまた追いかけている若い女性が一人、お三輪(中村米吉。播磨屋)である。三輪という名前と苧環、大和国が舞台であることから、「三輪山伝説」が掛けられていることが分かる。
求女は、仇敵である入鹿の娘に取り入ることで、入鹿を討つ機会を狙っている。
そんな求女の正体も知らずに惚れて三笠御殿まで来てしまったお三輪。身分が低いので貴族達のしきたりなど何も知らない。御殿に上がろうとするが、女官達に行く手を遮られる。女官達はこの場では男の声で話し、お三輪を馬鹿にし、もてあそび、散々に苛める。いつの時代も女だけの世界は怖いようである。そうした冷遇に必死に耐えるお三輪が愛らしいが、よく考えるとこのお三輪もかなりやばめの女である。女官達に帰るように言われても、「求女様の顔が見たい」、求女の祝言の声が聞こえてもまだ「求女様の顔が見たい」。当時はそんな言葉は当然ながらなかったが、ストーカー気質であり、かなりの粘着質である。
最後は、お三輪も鬼の形相に変わり、ここで鎌足配下の鱶七(ふかしち。中村福之助)に討ち取られる。蘇我入鹿は、母親が白い牝鹿の生き血を飲んだことで生まれた。そのため入鹿と名付けられ、不死身だが、黒い鹿と疑着の相の女の血を混ぜて笛に入れ、吹くと入鹿は正体をなくすという。
お三輪は、自身が求女の役に立てることを喜んで死んでいくのだが、死に方はかなり悲惨であり、現代人の思考ではついて行けない部分も多いと思われる。

お三輪を演じた中村米吉の繊細な演技と、憤怒の際(疑着の相)のエネルギー量の多さが印象的であった。

 

「於染久松色讀販」。中村壱太郎が、早替わりで、お染、久松、お光、鬼門の喜兵衛、土手のお六の5役を演じる。
ちょっとした小芝居があった後で、久松で現れた壱太郎。茂みの中に引っ込むと、花道を駕籠が通る。丁度、セリの上に駕籠が置かれ、駕籠かき達が話している間にセリから駕籠の中に移ってお染として姿を現す。その後も駕籠は駕籠かき達が話していて動かないが、その間にセリから下に出て舞台に戻り、久松となって現れる。
その後、舞台上でくるりと入れ替わったり、ゴザの後ろにいるときに衣装を変えたりと、次々と早替えを披露。
最後は土手のお六となり、「なりこまや」と書かれた番傘が踊る中、正座して、「本日はこれにて終演といたしまする」と終演を告げた。
単に衣装を変えるだけでなく、キャラクターも一瞬で変える。歌舞伎俳優の凄みを見せた演目であった。

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2025年3月29日 (土)

NHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」

2024年4月7日

NHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を見る。ナレーション:田中泯。2023年3月28日に71歳で逝去した坂本龍一の最晩年に迫るドキュメンタリー。坂本自身が残した日記や映像、録音された肉声などを中心とした構成である。2020年に癌が再発し、ステージ4、余命半年との宣告を受けて「俺の人生終わった」と日記に綴った坂本。ずっとニューヨーク在住だったが、癌の治療のため、東京の仮住まいで生活していた。癌の治療をしながら作曲や、東日本大震災からの復興のために自らが結成し、代表・監督を務める東北ユースオーケストラの指導やコンサート、NHK509スタジオで収録された最後の配信コンサートの様子などが映される。
最初はメモ帳に手書きだった日記だが、手書きが難しくなったのか、スマホへの入力に変わる。
最晩年にも音楽を聴いていた坂本。だがそれ以上に自然音や小さな鐘などのシンプルな音に弾かれ、数種の鐘をいつもそばに置いていた。
癌は徐々に進行。ピアノを弾く時にも痛みが出るようになる。長時間におよぶ治療を終え、家に戻った坂本はその日に浮かんだ音楽を日記のように記していくようになる。これが最後のアルバムとなった「12」である。
坂本には3人の女性との間に生んだ4人の子どもがおり(うち1人は連れ子)、最後に望んだのは4人の子どもと会うことだった。子ども達と出会ったその日に最後の日記が書かれたが、それは文章ではなく、自分の身体症状を数字で記したものだった。
2023年3月26日、東京オペラシティコンサートホール“タケミツ メモリアル”で東北ユースオーケストラのコンサートが行われる。坂本はその配信映像を病床でスマホを通して見る。東北ユースオーケストラで長年に渡って共に仕事をしてきた吉永小百合がこの日も朗読を行っていた。

生前、盟友だった村上龍は、坂本龍一を評して「わがままに生きてきた男」と綴っている。癌になるまで大病もせず、思い通りの高校に進学し、実技以外は受験勉強もしないで東京芸術大学に現役合格。在学中は変わった学生が多かった美術学部に入り浸り、学生運動を行う。男前だったため女にはもてもてであった。留年するつもりが、担当教員に認められず、「卒業するか大学院に行くかどっちかにしろ」と言われて大学院に進学。大学院在学中に友部正人とたまたま出会い、自身で選択するまでもなくスタジオミュージシャンの道へ。細野晴臣に誘われてYellow Magic Orchestraに参加。世界的に評価され、時代の寵児となる。YMOでの活躍を見た大島渚に「戦場のメリークリスマス」の主役に抜擢され、大島に直訴して音楽も手掛けて、以後は映画音楽の作曲家としても成功を収める。「ラストエンペラー」ではアカデミー作曲賞を、「シェルタリング・スカイ」ではゴールデングローブ賞作曲賞を受賞。バルセロナオリンピックの開会式の音楽「地中海」を作曲し、本番では自身でオーケストラを指揮。自身のアルバムでは沖縄やアフリカなど民族音楽にも傾倒して世界中のミュージシャンに影響を与え、その後、クラシック音楽や現代音楽をベースにしたものへと傾いていく。ウラBTTBに収録された「energy flow」でインストゥルメンタル曲としては史上初となるオリコンチャート1位を獲得。絵に描いたようなサクセスストーリーである。

最後に子どもに「いい人生だった」と語った坂本。これだけ成功したのだから「いい人生」なのは当たり前なのだが、やり残したことも多くあったのではないかと思われる。細野晴臣が、「年というほどの年でもない」と語っているように、日本人男性の平均余命に届かないでの死。NHK509スタジオで書きたいと語っていたオーケストラ曲も実は終盤まで書き進められた上で未完成の楽曲として残された。
死の1時間前に撮られた最後の映像が残っている。意識をなくした坂本の手はピアノを弾くように指を動かしていた。あるいは紡ぎたい曲が生まれていたのかも知れない。

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2025年3月28日 (金)

コンサートの記(896) 東北ユースオーケストラ演奏会2025@サントリーホール・マチネー公演

2025年3月21日 東京・溜池山王のサントリーホールにて

午後3時から溜池山王のサントリーホールで、東北ユースオーケストラ演奏会2025・マチネー公演を聴く。

東北ユースオーケストラ(TYO)は、東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方の復興のために、坂本龍一が音楽監督として立ち上げたユースオーケストラ。小学生から大学院生までの若者が在籍している。入団に関しては音楽経験は不問で、やる気だけが入団条件である。まだ小学生で震災を知らない子もメンバーに加わっている。
今回のコンサートでは、演奏指導を行った東京フィルハーモニー交響楽団の楽団員のゲスト出演や東北ユースオーケストラの卒団生賛助出演などがある。またコンサートミストレス(無料パンフレットなどにも表記はなく、氏名は不明)のフォアシュピーラーは、ウクライナから今日のために駆けつけたイリア・ボンダレンコが務める。

震災発生後、坂本は東北地方を回り、壊れた学校の楽器の修復に尽力すると共に、「こどもの音楽再生基金」を立ち上げ、2012年に「スクール・ミュージック・リヴァイヴァル・ライブ」を開催。翌年も「スクール・ミュージック・リヴァイヴァル・ライブ」を行い、そこから東北ユースオーケストラが生まれた。リハーサルなどでの指揮やピアノは坂本本人が受け持ったが、専属の指揮者は坂本が栁澤寿男(やなぎさわ・としお)を指名。今日も栁澤が指揮を務める。

 

開演前に、東北ユースオーケストラのメンバー数名が登場。自己紹介や楽団、楽曲の紹介、プログラムの意図説明などを行った。

 

曲目は、坂本龍一の「Castalia」、坂本龍一の「Happy End」、坂本龍一作曲/篠田大介編曲の「Tong Poo」(ピアノ独奏:三浦友理枝)、坂本龍一作曲/篠田大介編曲の「Piece for Ilia」(ヴァイオリン独奏:イリア・ボンダレンコ)、坂本龍一の「いま時間が傾いて」、坂本龍一の「BB」(朗読:吉永小百合)、坂本龍一の「Parolibre」(朗読:吉永小百合。ピアノ独奏:三浦友理枝)、坂本龍一の「母と暮せば」(朗読:吉永小百合)、藤倉大の作・編曲によるThree TOHOKU Songs(大漁唄い込み、南部よしゃれ、相馬盆歌)、坂本龍一の「Little Buddha」、坂本龍一の「The Last Emperor」、坂本龍一の「Merry Christmas Mr.Lawrence(戦場のメリークリスマス)」(ピアノ独奏:三浦友理枝)。

司会は元TBSアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーの渡辺真理が務める。渡辺は、ターコイズブルーのドレスで登場したが、スクリーンを見ると普通の青のドレスに見えるため、映像の限界も感じられる。

今日はP席(ポディウム)は開放しておらず、スクリーンが降りていて、そこに曲名や楽曲解説、現在進行形の映像や、坂本龍一の映像、抽象的な絵などが投影される。

開演前の紹介に並んだ子の中に、ピアノ担当の女の子がいたが、ピアノ担当は二人いるため、「Castalia」と「Happy End」でピアノ独奏を担当したのがどちらなのかは分からなかった。ソワレ公演では、別の子がソロを務めるのだろう。ネタバレになるが、アンコール曲の「ETUDE」では、二人で連弾を行っていた。「Castalia」と「Happy End」でソロを務めたのは開演前の自己紹介にも出ていた飯野美釉(いいの・みゆう)の可能性が高いがなんとも言えない。もう一人のピアノ奏者は、遊佐明香莉といういかにも東北的な苗字の子である。

 

入団条件に「音楽経験不問」とある以上、他の将来音楽家指向のユースオーケストラやジュニアオーケストラとは異なり、音楽をすること自体に意味があると考える団体のようである。そのため、音楽に対する情熱よりも喜びの方が勝っている印象を受ける。他のユースオーケストラやジュニアオーケストラほど音に厚みはないし、上手くもないかも知れないが、上手く演奏することだけが音楽ではない。かといって特段劣っているということはなく、よく訓練されていて、音の輝きは――サントリーホールの音響の恩恵を受けているかも知れないが――魅力的である。

 

栁澤寿男。コソボ・フィルハーモニー管弦楽団など政情不安定なところでの音楽活動も行う指揮者で、バラバラになった旧ユーゴスラビアの音楽家を集めたバルカン室内管弦楽団を創設したりもしている。知名度はまだ低いが、男前なので人気が出そうである。日本国内では京都フィルハーモニー室内合奏団のミュージックパートナーを務めている。今日はノンタクトでの指揮。

坂本龍一ファンにはお馴染みの曲が続くが、栁澤は坂本本人から指名されただけあって、優れたオーケストラ捌きを見せる。

「Tong Poo」などでピアノソロを受け持った三浦友理枝。美人ピアニストとしても知られるが、英国王立音楽院(アカデミーの方)を首席で卒業。同校の大学院も首席で修了するなど、腕が立つ。第47回マリア・カナルス国際音楽コンクール・ピアノ部門で1位を獲得している。京都市交響楽団とは、オーケストラ・ディスカバリーで共演したことがある。

「Piece for Ilia」でソロを務めるイリア・ボンダレンコは、キーウ音楽院の作曲専攻を卒業。卒業制作の「REN Symphony」は坂本龍一に捧げられている。ロシア軍による侵攻が始まると、30近い国の90人のヴァイオリニストがウクライナ民謡を演奏する様子をZoomなど使って配信。これを見て感動した坂本が、「イリアと共にウクライナ支援のチャリティ・アルバムへ参加しないか」と友人の作曲家から誘われ、すぐさまヴァイオリンとピアノのための曲を作曲。イリアに送った。ロシア軍による空爆後の瓦礫の中でこの曲を演奏するイリアの姿(今回も後部のスクリーンに映像が流れた)は多くの人に感銘を与えている。オーケストラ伴奏による編曲は篠田大介によるものだが、坂本が篠田に依頼したそうである。

「いま時間が傾いて」。タイトルはリルケの詩の一節から取られている。東北ユースオーケストラのために書かれた作品で、おそらく坂本最後のオーケストラ曲である。
3.11、9.11など、「11」という数字に特別なものを感じた坂本が、11拍子というかなり珍しい拍子を取り入れた書いたもの。終盤にはチューブラーベルズが11回鳴らされるが、11回目は弱音である。
途中、奏者に全て任された即興の部分もあり、同じ演奏は二度と出来ないという趣向になっている。
映画音楽などで聴かせるエモーショナルな旋律とは異なっているが、響きは美しく、後半はかなり力強い響きがする。

休憩時間に入るが、渡辺真理は、TYOのメンバーを呼んで物販の宣伝などをさせていた。

 

後半。吉永小百合が登場して、詩の朗読を行う。採用された詩は、和合亮一の「詩の黙礼」より、大平数子の「慟哭」、安里有生の「へいわってすてきだね」の3編。「BB」、「Parolibre」、「母と暮せば」の音楽に乗って朗読が行われる。「BB」は坂本が残した演奏データによる自動演奏ピアノ独奏と共に朗読が行われる。また「母と暮せば」は、吉永自身が主演した映画の音楽である。
東北ユースオーケストラの演奏会には度々参加(東京公演は皆勤だと思われる)しているほか、朗読公演自体も何度も行っている吉永だけに、極めて細やかな心情表現を込めた読みを聞かせる。
ちなみに坂本龍一もサユリストであったことを、第2弾自伝の『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』で明かしている。

 

坂本龍一に多大な影響を受けた藤倉大。高校時代に渡英し、現在もロンドンで活動する作曲家である。英国王立音楽大学(カレッジの方。カレッジとアカデミーはライバル関係にあり、藤倉の取り合いになったことが藤倉の自伝に記されている)出身。キングス・カレッジ・オブ・ロンドンで博士号を取得。指揮者の山田和樹と共に日本人若手音楽家の旗頭的存在で、東京芸術劇場の音楽部門の監督に就任することが決まっている。
東北の、宮城、岩手、福島の民謡のオーケストラバージョンであるが、掛け声をそのまま採用し、楽団員達に言わせることでノリの良い楽曲に仕上がっている。

 

最後は坂本龍一の映画音楽3曲。「Little Buddha」、「The Last Emperor」、「Merry Christmas Mr.Lawrence」。

「Little Buddha」は、ベルナルド・ベルトリッチから、「悲しいけれど救いのある曲を」という難しい注文を受けて書かれたものだが、4度ボツになり(坂本龍一はベルトルッチについて「自分が音楽監督だと思っているから」と述べていたりする)、5度目でようやく採用された。「どんどんカンツォーネっぽくなっていった」とも語っているが、哀切だが光が差し込むような、胸にひびく楽曲となっている。

「The Last Emperor」。坂本龍一は満映理事長の甘粕正彦役で出演。甘粕を演じた俳優は何人もいるが、甘粕本人とは外見が一番似ていない坂本龍一が最も有名なフィクションにおける甘粕像となっている。最初は俳優だけのオファーで、「戴冠式の音楽を書いてくれ」と言われただけだったが、撮影終了後半年ほど経ってから、「音楽を書いてくれ。二週間で」と言われて、まず、中国音楽のLPセットを聴くことから始めて、不眠不休で作曲。納期に間に合わせたが、過労のため、突発性難聴に見舞われて入院することになっている。
映画ではオーケストレーションまでは手が回らなかったため他人に任せたが、その後に自身でオーケストレーションを行い。二胡で奏でられていた主題を木管楽器に置き換えたりしている。
栁澤はかなりスケールの大きい演奏を形成。銅鑼なども盛大に鳴らされた。
なお、スクリーンには映画「ラストエンペラー」本編の映像も投影された。

「Merry Christmas Mr.Lawrence(戦場のメリークリスマス)」。序奏は、坂本龍一が「最後のコンサート」としてNHKのスタジオ5で収録した演奏のデータによるピアノ自動演奏で始まる。その時の映像もスクリーンに映る。
本編に入ってからは三浦友理枝がピアノ演奏を受け持つ。坂本の映像も映り続けるので、テンポは坂本の演奏に合わせる。
ペンタトニックを使った東洋風の作曲技術を用いながら、東洋でも西洋でもない独自の音の世界を生み出した楽曲。栁澤はこの曲でも終盤をかなり盛り上げていた。

 

アンコールは、先に明かしたとおり「ETUDE」(狭間美帆編曲)。ピアノの連弾がある。聴衆も一緒になって手拍子を入れる曲だが、吉永小百合や三浦友理枝もステージに登場して手拍子で参加。盛り上がった。

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2346月日(43) 東京都現代美術館 「音を視る 時を聴く 坂本龍一」

2025年3月21日 江東区三好町の東京都現代美術館(MOT)にて

坂本龍一の展覧会「音を視る 時を聴く 坂本龍一」が行われている東京都現代美術館に向かう。地下鉄清澄白河駅から歩いて15分ほどのところに東京都現代美術館(MOT)はある。住所でいうと江東区三好町ということになる。
連日超満員で、美術館としても「なるべく平日に来て欲しい」という希望を出していたのだが、平日の開館直後でもかなりの長蛇の列であった。今日は夜間開館があり、午後8時まで開いているので、そちらを狙うという手もあったが、並んでいるうちに、「何とか間に合いそうだ」という気配になったため、そのまま並び、中に入る。

まずは、ロームシアター京都メインホールでも上演されたシアターピース「TIME」の映像だが、これは劇場で視ているため、短い時間で離れる。

その他には、降水量のデータを音楽に変えたり、被災した宮城県立農業高校のピアノを自然に逆らわず調律し直したピアノで、世界の地震データを音にしたり(これはテレビでも紹介されていた)と、様々な試みが展示されている。
アルヴァ・ノトことカールステン・ニコライや、ダムタイプの高谷史郎との共作の展示もある。
坂本が残したメモの展示もあり、孤独についての考察や、「映画は偶然ではあり得ない」といった記述などがある。
読んだ本のリストもあり、与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んだことが分かる。

《Music Plays Images X Images Play Music》では、1996年に坂本龍一と岩井俊雄によって水戸芸術館で行われた映像と音楽のコラボレーションが再現されており、MIDIデータによるピアノの再現演奏と、ホログラムでよいのかどうかは分からないが、教授を映した立体的な映像が、あたかもその場で演奏を行っているような臨場感を生み出している。
序奏を経て演奏されるのは、「シェルタリング・スカイ」と「Parolibre」。特に「シェルタリング・スカイ」の演奏と映像が残っているのが嬉しかった。

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2025年3月22日 (土)

観劇感想精選(486) パルテノン多摩共同事業体企画 三浦涼介&大空ゆうひ&岡本圭人「オイディプス王」2025@SkyシアターMBS

2025年3月1日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後5時から、JR大阪駅西口にあるJPタワー大阪の6階、SkyシアターMBSで、「オイディプス王」を観る。これもSkyシアターMBSオープニングシリーズに含まれる公演である。「オイディプス王」は、ギリシャ悲劇の中で最も有名な作品であるが、劇場で観るのは初めてである。男児が母親を独占しようとして、その障害となる父親を嫌悪するジークムント・フロイト定義の「エディプス・コンプレックス」の由来となったオイディプス王(女児が父親を独占しようとして、その障害となる母親を嫌悪する真逆の現象は、やはりギリシャ悲劇由来の「エレクトラ・コンプレックス」と呼ばれる。「エレクトラ」は高畑充希のタイトルロールで、ラストに別作品を加えたり少しアレンジしたバージョンを観たことがある)。ソポクレスのテキストを河合祥一郎が日本語訳したテキストを使用。演出は蜷川幸雄の弟子である石丸さち子。出演は、三浦涼介、大空ゆうひ、岡本圭人、浅野雅博、外山誠二、大石継太、今井朋彦ほか。パルテノン多摩共同事業体の企画・製作。大阪公演の主催はMBSである。MBS(毎日放送)は大阪城のそばの京橋にMBS劇場、後のシアターBRAVA!を持っていたのだが、土地の所有者と金銭面で意見が合わなくなり撤退。昨年春にSkyシアターMBSをオープンさせている。

文学座や演劇集団円など、新劇系の所属者や出身者が目立つが、様々な背景を持つ俳優が集められている。2023年のプロジェクトの再演。

「オイディプス王」の映像は、野村萬斎がタイトルロールを演じた蜷川幸雄演出のものを観たことがある。ギリシャでの上演で、オイディプス王はラストで自らピンで目を刺して失明するのだが(ギリシャ悲劇の約束事として、悲惨な場面は舞台裏の観客からは見えないところで行われることになっている)、野村萬斎は手に血糊をたっぷり付けて、白い壁に塗りたくるということをやっていた。今回演出の石丸さち子は、蜷川の弟子だが、そこまで外連味のある演出は行っていない。

「オイディプス王」のテクストであるが、ギリシャ悲劇は現代まで通じる演劇の大元となってはいるのだが、上演様式が異なるため、文庫などで購入出来るテキストをそのまま上演することは余りない(そもそもセットがない時代なので、最初は何があるかの描写や説明が延々と続いたりする。今回はセットはあるのでそうしたものは全部カットである)。今回もアレンジを施しての上演である。ギリシャ悲劇では、オーケストラの語源となったオルケストラという場所にコロスと呼ばれる合唱や朗唱を受け持つ人達がいて、解説なども行っていたのだが、今回はコロスは全員舞台上に上がり、合唱の代わりにダンスを行う。台詞も勿論ある。

セットは比較的シンプルで、階段の上に宮殿への入り口があるだけのものだが、入り口の上にも細長いセットが伸びている。まるでオイディプス(膨れた足という意味)の傷を負った脚のようだが、そういう意図があるのかどうかは不明である。

朗唱も多いのだが、SkyシアターMBSはミュージカル対応の劇場だけに少し残響があり、発音がはっきりと聞こえない場面もあった。

神託や予言が重要な役割を持つ作品で、テーバイの王、ライオスは、「生まれた子は父親を殺し、母親を犯すだろう」という神託を受けて、妻のイオカステに命じて、生まれた子のくるぶしをピンで突き刺し、キタイロンの山に捨てさせた。しかしその子は拾われ、オイディプスと名付けられて、子がなかったコリントスの王と王妃に育てられることになった。だが、成長したオイディプス(三浦涼介)はやはり「父親を殺し、母親を犯す」との神託を受けて、それから逃れるためにコリントスを去る。そして「三つの道が交わるところ」で、進路を妨害してきた老人達に激怒。殺害してしまう。テーバイに入ったオイディプスはスフィンクスの謎を解く(「朝は四本足、昼は二本足、夕方には三本足となるものは何か?」。この場面は、劇中には出てこない)。こうして英雄となったオイディプスはテーバイの王となり、先王の王妃であったイオカステ(大空ゆうひ)を妻に迎え、3人の子をもうける。余りにも有名なので記すが、オイディプスが殺害したのは実父でテーバイの先王であるライオスであり、妻にしたイオカステはオイディプスの実母である。神託を避けたつもりが逆に当たるという結果になってしまったのだ。
オイディプスが王になってから、疫病などが流行るようになった。そこでオイディプスは摂政のクレオン(岡本圭人)を使者としてデルポイに送り、神託を行わせる。神託の結果は、「ライオス殺害の穢れが原因であり、下手人を捕まえて追放せよ」というものだった。まずここでオイディプスが気付きそうなものだが気付かず進む。

ミステリーの要素が強いのがこの戯曲の特徴で、ギリシャ悲劇の中でも人気の作品となっている理由が分かる。途中でネタバレしそうになるのだが、バレずに続くという場面があるが、そこはお約束である。

三浦涼介は、三浦浩一と純アリスの息子。岡本圭人は岡本健一の息子で、二世俳優が劇の両腕ともいえるポジションを受け持っているのが特徴である。二世俳優は批判も受けがちだが、子どもの頃から芸能に接していることも多いため、芸の習得が早いなど、プラスに働くことも多い。今日の二人も若さを生かしたダイナミックでエネルギッシュな演技を行っており、なかなか魅力的である。ああいったギラギラした感じは二世だから出しやすいとも思える。叩き上げの人がやるとまた違った感じになるだろう。
大空ゆうひは、宝塚歌劇団宙組元トップスターだが、今日は「いかにも元宝塚」な演技は行っていなかった。ただ立ち姿が美しいのが宝塚的であったりもする。

波の音が比較的多く使われているのだが、これはラスト付近のコロスの台詞、「悲劇の海」に掛けられたものだと思われる。
コロスなので、朗唱もあるのだが、複数の人が一言一句同じ台詞を言うというのは、リアリズムという点で言うとやはり不自然である。台詞に厚みが出るというプラスの面もあるが、二人程度による朗唱に留めると「約束事」として受け取りやすくなるように思う。

今回のラストは、オイディプス王の退場ではなく、オイディプス王が舞台の前方に出てきて手を大きく広げ、その後に暗転があってコロスによるダンスで終わる。
オイディプス王の手に動きは何かを引き裂くようでもあるが、正確には何を表したかったのかは上手く伝わってこなかった。ただ、常に神託に頼る展開であり、自ら「追放してほしい」と願うオイディプスをクレオンが「神託を聞いてから」と止めているため、それに背いて道を切り開く、と見えないこともない。「オイディプス王」の一側面として、神託に背こうとして逃れられないという展開が続くという場面が多いことが挙げられる。神の前で人は無力。神が力を失った現代(特に日本人は無神論者が多数派)においても、例えば「運命」などという言葉は生きており、そこから逃れる、もしくは打ち勝つ(難しいが)というメッセージが込めやすい作品であるとも感じる。

コロスのダンスに関しては、プロのダンサーが揃っている訳ではないので、格別上手いということはなく、本当に踊る必要があるのかどうかも疑問だが、本筋とは関係のない部分であり、一つの実験として見るなら意味はあったように思う。結論としてはダンスは合わないとは思うが。

役者が客席から舞台に上げる場面が何度かあるが、視覚的効果と「遠くから来た印象を与える」以外の意味はないように感じた(客席から舞台に上げることに意味がある芝居も勿論存在する)。

神が絶対的な権威を持ち、神託からは逃れられない時代の物語である。人間は何をしても神には勝てない。だからこその悲劇なのであるが、それを破る展開も今ではありのような気がする。ただその場合はソフォクレスの「オイディプス王」としてはやらない方がいいようにも思う。

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2025年3月18日 (火)

佐々木蔵之介出演「京のかがやき」2025@祇園甲部歌舞練場

2025年2月8日 祇園甲部歌舞練場にて

午後6時30分から、祇園甲部歌舞練場で、「京のかがやき」2025を観る。京都府内各所の民俗芸能に関わる人々が集って芸を披露する催し。昨年、南座で第1回が執り行われ、今年は会場を祇園甲部歌舞練場に移して開催される。昨年、スペシャルナビゲーターとして参加した、京都市上京区出身の俳優である佐々木蔵之介が、今年はストーリーテラーとして2年連続で参加する。
昨年は副題などは掲げていなかった「京のかがやき」であるが、今年は「夢」がテーマとなっている。

出演は、宮津おどり振興会、宇治田楽まつり実行委員会、原谷弁財天太鼓保存会(京都市)、福知山踊振興会、和知太鼓保存会(京丹波町)の5組。
今回は、それぞれ背景に物語があるという趣向で、佐々木蔵之介が舞台裏でそれを読み上げる。

司会は、あべあさみという名の女性。「なっち」こと安倍なつみの妹で、一時期芸能活動をしていた方と同じ名前だが、別人である。一応、検索するとMCをメインの仕事にしている阿部麻美さんが引っかかるので、この方かも知れない。
最初に西脇隆俊京都府知事の挨拶がある。山田啓二前府知事や松井孝治京都市長に比べて影の薄い西脇府知事。コロナの時期にはようやく表に出てきたが、今ではまた存在感が薄くなっている。最近、X(旧Twitter)を開設して、遅ればせながら発信を始めるようである。

 

「京のかがやき」2025は、「私には夢がある」という言葉でスタート。紗幕の背後に、各団体の代表者が浮かび上がる。
佐々木蔵之介が、下手の花道の入り口から姿を現し、ゆっくりとした足取りで舞台に向かって花道を進む。濃い灰色の着物に青系の羽織という姿である。
ステージにたどり着いたところで佐々木蔵之介による作品の紹介。舞台下手端で、台本を片手にしてのスピーチである。マイクとスピーカーの状態が余り良くないのか、音割れするところもあったが、5つの民俗芸能が京都の未来へと繋がることを語る。ただ、その後は袖に引っ込んで、声のみの出演となった。蔵之介のストーリーテリングは郷土愛ゆえか、少しオーバーになっている気がしたが、発音は明瞭で聞き取りやすかった。流石は第一線の俳優である。

宮津おどり振興会は、宮津市で介護士をしている女性が、障害などがあってもみなが自由に生きられる社会が訪れることを夢見ているという設定。一応、若い女性が主役としているが、実際に介護の仕事をしているのか、物語上の設定なのかは分からない。
宮津おどりの発展に寄与している人が舞うわけだが、素人ではあるので、それほど高いレベルは期待出来ない。だが、そもそもそんなものを望むイベントでもない。
祇園甲部歌舞練場2階の下手桟敷席が演奏のスペースとなっていた。

 

宇治田楽まつり実行委員会。体を悪くしてしまい、「もう宇治田楽には参加出来ないか」と諦めていた男性が、再び宇治田楽に出るという夢を叶える話である。宇治市は、京都府内で第2位の人口を誇る街であり(それでも京都市とは8倍ほどの差があるが)、貴族達の別荘地として長い歴史を誇るだけに、華やかな感じがする。笛などの演奏は舞台上で行われる。

 

原谷弁財天太鼓保存会。内気な女の子が人前で演奏する夢を叶えるという話。迫力のある太鼓である。

 

福知山踊振興会。背後に福知山城天守の絵が投影される。
福知山市では当地を治めた明智光秀はヒーロー。踊り手の女性の着物には明智の家紋である桔梗が入っている。また歌詞に明智光秀が登場する。
尺八が吹かれるのだが、福知山市在住で空手を習い、大会に出ることを夢とする小学生の女の子が、父親の勧めで福知山踊で尺八を吹くというストーリーがある。
上手2階の桟敷席が演奏スペースとなっていた。
ちょっとしたワークショップのようなものがあり、観客も演者と一緒になった簡単な舞を行う。

 

和知太鼓保存会。和知太鼓を広めるという夢があるそうだ。佐々木蔵之介のナレーションに「和知太鼓で未来を開く」という言葉がある。

フィナーレ。佐々木蔵之介が舞台中央に現れ、出演者達を称えて、民俗芸能が京都の未来を開く可能性について再び述べた。こぼれ話として、この公演が乗り打ち(会場に乗り込んでその日の内に公演を打つことを指す、芸能・芸術用語)で、設営時間が短かったこと、「しかも今朝の雪」で、午前5時に起きた佐々木蔵之介であるが、「宮津の皆さん来られるだろうか、福知山の皆さん来られるだろうか」と心配したことを語る。

一度緞帳が下りるが再び上がり、出演者達が花道へと繰り出して、賑やかな締めとなった。

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2025年3月16日 (日)

観劇感想精選(485) 令和6年能登半島地震復興祈念公演「まつとおね」 吉岡里帆×蓮佛美沙子

2025年3月9日 石川県七尾市中島町の能登演劇堂にて観劇

能登演劇堂に向かう。最寄り駅はのと鉄道七尾線の能登中島駅。JR金沢駅から七尾線でJR七尾駅まで向かい、のと鉄道に乗り換える。能登中島駅も七尾市内だが、七尾市は面積が広いようで、七尾駅から能登中島駅までは結構距離がある。

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JR七尾線の各駅停車で七尾へ向かう。しばらくは金沢の市街地だが、やがて田園風景が広がるようになる。
JR七尾駅とのと鉄道七尾駅は連結していて(金沢駅で能登中島駅までの切符を買うことが出来る。のと鉄道七尾線は線路をJRから貸してもらっているようだ)、改札も自動改札機ではなく、そのまま通り抜けることになる。

のと鉄道七尾線はのんびりした列車だが、田津浜駅と笠師保駅の間では能登湾と能登島が車窓から見えるなど、趣ある路線である。

 

能登中島駅は別名「演劇ロマン駅」。駅舎内には、無名塾の公演の写真が四方に貼られていた。
能登演劇堂は、能登中島駅から徒歩約20分と少し遠い。熊手川を橋で渡り、道をまっすぐ進んで、「ようこそなかじまへ」と植物を使って書かれたメッセージが現たところで左折して進んだ先にある。

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午後2時から、石川県七尾市中島町の能登演劇堂で、令和6年能登半島地震復興祈念公演「まつとおね」を観る。吉岡里帆と蓮佛美沙子の二人芝居。

能登演劇堂は、無名塾が毎年、能登で合宿を行ったことをきっかけに建てられた演劇専用ホールである(コンサートを行うこともある)。1995年に竣工。
もともとはプライベートで七尾市中島町(旧・鹿島郡中島町)を訪れた仲代達矢がこの地を気に入ったことがきっかけで、自身が主宰する俳優養成機関・無名塾の合宿地となり、その後10年ほど毎年、無名塾の合宿が行われ、中島町が無名塾に協力する形で演劇専用ホールが完成した。無名塾は現在は能登での合宿は行っていないが、毎年秋に公演を能登演劇堂で行っている。

令和6年1月1日に起こった能登半島地震。復興は遅々として進んでいない。そんな能登の復興に協力する形で、人気実力派女優二人を起用した演劇上演が行われる。題材は、七尾城主だったこともある石川県ゆかりの武将・前田利家の正室、まつの方(芳春院。演じるのは吉岡里帆)と、豊臣(羽柴)秀吉の正室で、北政所の名でも有名なおね(高台院。演じるのは蓮佛美沙子。北政所の本名は、「おね」「寧々(ねね)」「ねい」など諸説あるが今回は「おね」に統一)の友情である。
回想シーンとして清洲時代の若い頃も登場するが、基本的には醍醐の花見以降の、中年期から老年期までが主に描かれる。上演は、3月5日から27日までと、地方にしてはロングラン(無名塾によるロングラン公演は行われているようだが、それ以外では異例のロングランとなるようだ)。また上演は能登演劇堂のみで行われる。

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有料パンフレット(500円)には、吉岡里帆と蓮佛美沙子からのメッセージが載っているが、能登での公演の話を聞いた時に、「現地にとって良いことなのだろうか」(吉岡)、「いいのだろうか」(蓮佛)と同じような迷いの気持ちを抱いたようである。吉岡は昨年9月に能登に行って、現地の人々から「元気を届けて」「楽しみ」という言葉を貰い、蓮佛は能登には行けなかったようだが、能登で長期ボランティアをしていた人に会って、「せっかく来てくれるんなら、希望を届けに来てほしい」との言葉を受けて、そうした人々の声に応えようと、共に出演を決めたようである。また二人とも「県外から来る人に能登の魅了を伝えたい」と願っているようだ。

原作・脚本:小松江里子。演出は歌舞伎俳優の中村歌昇ということで衣装早替えのシーンが頻繁にある。ナレーション:加藤登紀子(録音での出演)。音楽:大島ミチル(演奏:ブダペストシンフォニーオーケストラ=ハンガリー放送交響楽団)。邦楽囃子:藤舎成光、田中傳三郎。美術:尾谷由衣。企画・キャスティング・プロデュース:近藤由紀子。

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舞台美術は比較的簡素だが、能登演劇堂の特性を生かす形で生み出されている。

 

立ち位置であるが、上手側に蓮佛美沙子が、下手側に吉岡里帆がいることが多い。顔は似ていない二人だが、舞台なので顔がそうはっきり見えるわけでもなく、二つ違いの同世代で、身長は蓮佛美沙子の方が少し高いだけなので、遠目でもどちらがどちらなのかはっきり分かるよう工夫がなされているのだと思われる。

 

まずは醍醐の花見の場。秀吉最後のデモストレーションとなったことで有名な、今でいうイベントである。この醍醐の花見には、身内からは前田利家と豊臣秀頼のみが招かれているという設定になっており、おねは「次の天下人は前田利家様」になることを望んでいる。淀殿が秀吉の寵愛を受けており、子どもを産むことが出来なかった自分は次第にが狭くなっている。淀殿が嫌いなおねとしては、淀殿の子の秀頼よりも前田利家に期待しているようだ。史実としてはおねは次第に淀殿に対向するべく徳川に接近していくのであるが、話の展開上、今回の芝居では徳川家康は敵役となっており、おねは家康を警戒している。秀吉や利家は出てこないが、おね役の蓮佛美沙子が二人の真似をする場面がある。

二人とも映画などで歌う場面を演じたことがあるが、今回の劇でも歌うシーンが用意されている。

回想の清洲の場。前田利家と羽柴秀吉は、長屋の隣に住んでいた。当然ながら妻同士も仲が良い。その頃呼び合っていた、「まつ」「おね」の名を今も二人は口にしている。ちなみに年はおねの方が一つ上だが、位階はおねの方がその後に大分上となり、女性としては最高の従一位(「じゅいちい」と読むが、劇中では「じゅういちい」と読んでいた。そういう読み方があるのか、単なる間違いなのかは不明)の位階と「豊臣吉子」の名を得ていた。そんなおねも若い頃は秀吉と利家のどちらが良いかで迷ったそうだ。利家は歌舞伎者として有名であったがいい男だったらしい。
その長屋のそばには木蓮の木があった。二人は木蓮の木に願いを掛ける。なお、木蓮(マグノリア)は能登復興支援チャリティーアイテムにも採用されている。花言葉は、「崇高」「忍耐」「再生」。

しかし、秀吉が亡くなると、後を追うようにして利家も死去。まつもおねも後ろ盾を失ったことになる。関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍が勝利。まつの娘で、おねの養女であったお豪(豪姫)を二人は可愛がっていたが、お豪が嫁いだ宇喜多秀家は西軍主力であったため、八丈島に流罪となった。残されたお豪はキリシタンとなり、金沢で余生を過ごすことになる。その後、徳川の世となると、出家して芳春院となったまつは人質として江戸で暮らすことになり、一方、おねは秀吉の菩提寺である高台寺を京都・東山に開き、出家して高台院としてそこで過ごすようになる(史実としては、高台寺はあくまで菩提寺であり、身分が高い上に危険に遭いやすかったおねは、現在は仙洞御所となっている地に秀吉が築いた京都新城=太閤屋敷=高台院屋敷に住み、何かあればすぐに御所に逃げ込む手はずとなっていた。亡くなったのも京都新城においてである。ただ高台寺が公演に協力している手前、史実を曲げるしかない)。しかし、大坂の陣でも徳川方が勝利。豊臣の本流が滅びたことで、おねは恨みを募らせていく。15年ぶりに金沢に帰ることを許されたおまつは、その足で京の高台寺におねを訪ねるが、おねは般若の面をかぶり、夜叉のようになっていた。
そんなおねの気持ちを、まつは自分語りをすることで和らげていく。恨みから醜くなってなってしまっていたおねの心を希望へと向けていく。
まつは、我が子の利長が自分のために自決した(これは事実ではない)ことを悔やんでいたことを語り、苦しいのはおねだけではないとそっと寄り添う。そして、血は繋がっていないものの加賀前田家三代目となった利常に前田家の明日を見出していた(余談だが、本保家は利常公の大叔父に当たる人物を生んだ家であり、利常公の御少将頭=小姓頭となった人物も輩出している)。過去よりも今、今よりも明日。ちなみにおねが負けず嫌いであることからまつについていたちょっとした嘘を明かす場面がラストにある。
「悲しいことは二人で背負い、幸せは二人で分ける」。よくある言葉だが、復興へ向かう能登の人々への心遣いでもある。

能登演劇堂は、舞台裏が開くようになっており、裏庭の自然が劇場内から見える。丸窓の向こうに外の風景が見えている場面もあったが、最後は、後方が全開となり、まつとおねが手を取り合って、現実の景色へと向かっていくシーンが、能登の未来への力強いメッセージとなっていた。

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能登中島駅に飾られた舞台後方が開いた状態の能登演劇堂の写真

様々な衣装で登場した二人だが、最後は清洲時代の小袖姿で登場(ポスターで使われているのと同じ衣装)。劇場全体を華やかにしていた。

共に生で見るのは3回目となる吉岡里帆と蓮佛美沙子。吉岡里帆の前2回がいずれも演劇であるのに対して、蓮佛美沙子は最初はクラシックコンサートでの語り手で(ちなみにこの情報をWikipediaに書き込んだのは私である)、2度目は演劇である。共に舞台で風間杜夫と共演しているという共通点がある。蓮佛美沙子は目鼻立ちがハッキリしているため、遠目でも表情がよく伝わってきて、舞台向きの顔立ち。吉岡里帆は蓮佛美沙子に比べると和風の顔であるため、そこまで表情はハッキリ見えなかったが、ふんわりとした雰囲気に好感が持てる。実際、まつが仏に例えられるシーンがあるが、吉岡里帆だから違和感がないのは確かだろう。ただ、彼女の場合は映像の方が向いているようにも感じた。

 

二人とも有名女優だが一応プロフィールを記しておく。

蓮佛美沙子は、1991年、鳥取市生まれ。蓮佛というのは鳥取固有の苗字である。14歳の時に第1回スーパー・ヒロイン・オーディション ミス・フェニックスという全国クラスのコンテストで優勝。直後に女優デビューし、15歳の時に「転校生 -さよなら、あなた-」で初主演を飾り、第81回キネマ旬報ベストテン日本映画新人女優賞と第22回高崎映画祭最優秀新人女優賞を獲得。ドラマではNHKの連続ドラマ「七瀬ふたたび」の七瀬役に17歳で抜擢され、好演を示した。その後、民放の連続ドラマにも主演するが、視聴率が振るわず、以後は脇役と主演を兼ねる形で、ドラマ、映画、舞台に出演。育ちのいいお嬢さん役も多いが、「転校生 -さよなら、あなた-」の男女逆転役、姉御肌の役、不良役、そして猟奇殺人犯役(ネタバレするのでなんの作品かは書かないでおく)まで広く演じている。白百合女子大学文学部児童文化学科児童文学・文化専攻(現在は改組されて文学部ではなく独自の学部となっている)卒業。卒業制作で絵本を作成しており、将来的には出版するのが夢である。映画では、主演作「RIVER」、ヒロインを演じた「天外者」の評価が高い。
2025年3月9日現在は、NHK夜ドラ「バニラな毎日」に主演し、月曜から木曜まで毎晩登場、好評を博している。
出演したミュージカル作品がなぜがWikipediaに記されていなかったりする。仕方がないので私が書いておいた。

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吉岡里帆は、1993年、京都市右京区太秦生まれ。書道を得意とし、京都橘大学で書道を専攻。演技を志したのは大学に入ってからで、それまでは書道家になるつもりであった。仲間内の自主製作映画に出演したことで演技や作品作りに目覚め、京都の小劇場にも出演したが、より高い場所を目指して、夜行バスで京都と東京を行き来してレッスンに励み、その後、自ら売り込んで事務所に入れて貰う。交通費などはバイトを4つ掛け持ちするなどして稼いだ。東京進出のため、京都橘大学は3年次終了後に離れたようだが、その後に大学を卒業しているので、東京の書道が専攻出来る大学(2つしか知らないが)に編入したのだと思われる。なお、吉岡は京都橘大学時代の話はするが、卒業した大学に関しては公表していない。
NHK朝ドラ「あさが来た」ではヒロインオーディションには落選するも評価は高く、「このまま使わないのは惜しい」ということで特別に役を作って貰って出演。TBS系連続ドラマ「カルテット」では、元地下アイドルで、どこか後ろ暗いものを持ったミステリアスな女性を好演して話題となり、現在でも代表作となっている。彼女の場合は脇役では有名な作品は多いが(映画「正体」で、第49回報知映画賞助演女優賞、第48回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞)、主演作ではまだ決定的な代表作といえるようなものがないのが現状である。知名度や男受けは抜群なので意外な気がする。現在はTBS日曜劇場「御上先生」にヒロイン役で出演中。また来年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、主人公の豊臣秀長(仲野太賀)の正室(役名は慶=ちか。智雲院。本名は不明という人である)という重要な役で出ることが決まっている(なお、寧々という名で北政所を演じるのは石川県出身の浜辺美波。まつが登場するのかどうかは現時点では不明である)。

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二人とも良いとこの子だが、経歴を見ると蓮佛がエリート、吉岡が叩き上げなのが分かる。

カーテンコールで、先に書いたとおり小袖姿で登場した二人、やはり吉岡が下手側から、蓮佛が上手側から現れる。二人とも三十代前半だが、そうは見えない若々しくて魅力的な女の子である。

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2025年3月15日 (土)

コンサートの記(895) 京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2025年2月17日 京都市立芸術大学・堀場信吉記念ホールにて

京都市立芸術大学崇仁新キャンパス A棟3階にある堀場信吉記念ホールで、京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。堀場信吉記念ホールで行われる初のオペラ公演である。「ドン・ジョヴァンニ」が京都市の姉妹都市であるプラハで初演され、大成功したことからこの演目が選ばれたようだ。

日本最古の公立絵画専門学校を前身とする京都市立芸術大学。京都市内を何度も移転している。美術学部は京都御苑内から左京区吉田の地を経て東山区今熊野にあり、京都市立音楽短期大学は左京区出雲路で誕生して左京区聖護院にあったが、京都市立音楽短期大学は京都市立芸術大学の音楽学部に昇格。その後、美術学部、音楽学部共に西京区大枝沓掛という街外れに移転した(沓掛キャンパス)。当時は近くに洛西ニュータウンが広がり、京都市営地下鉄の延伸で一帯が栄えると予想されていたのだが、地下鉄の延伸計画が白紙に戻り、ニュータウンも転出超過で、寂しい場所となっていった。美術学部は、自然豊かな方が風景画の題材が豊富ということで、多摩美や武蔵美などの例を挙げるまでもなく、郊外にあった方が有利な点もあるのだが(上野の東京芸術大学など、開けた街にある場合もあるが)、音楽学部は、例えば学内公演を行おうとした際、交通が不便な場合、よっぽど親しい人でない限り聴きに来てくれない。沓掛キャンパスはバスしか交通手段がなかったため、とにかく人が呼べないのがネックだった。だが、新しいキャンパスは京阪七条駅からもJR京都駅からも徒歩圏内であり(両方の駅の丁度中間地点にある)、集客の心配はしないで済むようになったと思われる。

堀場信吉記念ホールに名を冠する堀場信吉(ほりば・しんきち)は、京都帝国大学出身の物理学者であり、京都では名の知れた企業である堀場製作所の創業者、堀場雅夫の父親でもあるのだが、京都市立音楽短期大学の初代学長であった。

移転した京都市立芸術大学のキャンパスであるが、敷地がそれほど広くないということもあって、完全なビルキャンパスである。京都市内が建物の高さ規制があるのでビルというほどの高さもない建物によって形成されている。庭のようなスペースがほとんどないため、専門学校の校舎のようでもあり、大学のキャンパスと聞いて思い浮かべるような広大な敷地とお洒落な建物を期待する人には合わないような気がする。周囲には自然はないので、美術学部の学生は東山などに写生に出掛ける必要があるだろう。幸い、遠くはない。

堀場信吉記念ホールであるが、敷地が余り広くないところに建てたということもあってか、客席がかなりの急傾斜である。これまで入ったことのあるホールの中で客席の傾斜が最もきついホールと見て間違いないだろう。そのため、天上の高さはある程度あるが、客席の奥行きはそれほどなく、全ての席に音が届きやすくなっている。音響設計などは十分いされているようには思えないが、音に不満を持つ人は余りいないだろう。一方、そのために犠牲になっている部分もあり、ホワイエが狭く、また興行用のホールではなく、あくまでも大学の講堂メインで建てられているため、トイレが少なく、休憩時間には長蛇の列が出来る。使い勝手が良いホールとは言えないようである(その後、解決法が考案されたようである)。外部貸し出しについてだが、ロームシアター京都や京都コンサートホールがあるのに、わざわざ堀場信吉記念ホールを借りたいという団体がそう多いとも思えないため、基本的には京都市立芸術大学専属ホールとして機能していくものと思われる。

 

今回のモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、タイトル通り、京都市立芸術大学大学院声楽専攻の学生の発表の場をして設けられたものである。おそらく声楽専攻の全学生が出演すると思われるのだが、役が足りないため、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは3人が交代で演じるという荒技が用いられていた。逆に男声歌手は数が足りないので、客演の歌手が3名招かれている。基本的に修士課程在学者が出演。博士課程1回生で騎士長役の大西凌は客演扱いとなっている。アンサンブルキャストは大学院声楽専攻の学生では数が足りないので、全員、学部の学生である。
オーケストラも京都市立芸術大学の在学生によって組織されているが、学部と修士学生の混成団体である。中には客演の人もいるが、どういう経緯で客演の話が回ってきたのかは不明である。
レチタティーボを支えるチェンバロは、学生ではなく、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師の越知晴子が務めている。

スタッフには指導教員の名前も記されているのだが、阪哲朗の名が目を引く。

今回の指揮者は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの指揮者として知られる大川修司。京都市立芸術大学非常勤講師でもある。

演出は、久恒秀典。国際基督教大学で西洋音楽史を専攻し、東宝演劇部を経て1994年にイタリア政府奨学生としてボローニャ大学、ヴェネツィア大学、マルチェッロ音楽院でオペラについて学び、ヴェネト州ゴルドーニ劇場演劇学校でディプロマを取得。同劇場やフェニーチェ劇場、ミラノ・カルカノ劇場などの公演に参加。2004年にも文化庁芸術家在外研究員に選ばれている。
現在は、新国立劇場オペラ研究所、東京藝術大学、東京音楽大学、京都市立芸術大学の非常勤講師を務める。

バロックティンパニを使用しており、ピリオドを意識した演奏であるが、弦楽はビブラートを控えめにしているのが確認出来たものの、「ザ・ピリオド」という音色にはなっておらず、演奏スタイルの違いにはそれほどこだわっていないように感じられた。
冒頭の序曲にもおどろおどろしさは余り感じられず、音楽による心理描写よりも音そのものの響きを重視したような演奏。個人的にはもっとドラマティックなものが好きであるが、これが普段は声楽の指揮者である大川のスタイルであり、限界なのかも知れない。

 

公立大学による公演で、セットにお金は余り掛けられないという事情もあると思われるが、舞台装置は比較的簡素で、照明なども大仰になりすぎるなど、余り効果的とはいえないようである。騎士長の顔色については、明らかに色をなくしていると歌っているはずだが、衝撃度を増すための赤い照明を使ったため、歌詞の意味が分かりにくくなっていた。

この芝居は、ドン・ジョヴァンニがドンナ・アンナを強姦しようとしたところから始まるのだが、ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナが初めて舞台に現れた時は、二人は離れており、たまたまドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニを見つけて腕を掴むという展開になっていたが、おそらくだが、ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニはもっと近くにいたはずである。でないと、自分を犯そうとした人物がドン・ジョヴァンニだと分からないはずだからである。細かいことだが、理屈が通らないところは気になる。

女たらしのドン・ジョヴァンニ。ドンナ・アンナに関しては力尽くであったが、それ以外は魅力でベッドに持ち込んだらしいことがエルヴィーラの話によって分かる。ドン・ジョヴァンニに捨てられ、精神のバランスを崩したエルヴィーラ。復讐のためにドン・ジョヴァンニを追っているが、再び彼に魅せられることになる。エルヴィーラだけが特別なのではなく、基本的にはドン・ジョヴァンニは、少なくとも表面上は紳士的に振る舞い、優しいのであろう。ドン・ジョヴァンニは博愛の精神を信奉しており、スカートをはいている人物なら、老いも若きも、美醜も一切差別しないという人物である。男が女装している場合はどうなのか分からないが(歴史的には男性の一番の魅力が脚線美であり、男がスカートをはく文化を持つ時代なども存在した)。やっていることは外道でも、それ自体が100%悪とも断言は出来ない。騎士長殺しは別として。
一方で、ドン・ジョヴァンニが憎まれるのは、「愛する愛する」言っておきながら、相手からの愛を一向に受け入れないからではないのか。エルヴィーラに対する態度を見るとそんな気がしてならない。一方的な愛など罪以外のなにものでもない。というわけで地獄落ちも納得である。

まだ若い大学院生による演技と歌唱であるが、難関をくぐり抜けてきた実力者であるためか、プロと比べず、純粋に作品の登場人物として見れば、十分にリアルな存在として舞台上に立つことが出来ていたように思う。ただ、現時点では、「オペラ歌手はあくまで歌手なのだから、どんな場面でも歌う体勢を優先させるのが基本」であるが、今後はもっと舞台俳優の演技に近づいていきそうな予感もある。例えば、オペラ歌手と舞台俳優が「共演しよう」となった時に、オペラ歌手が舞台俳優のようなナチュラルな演技が出来ないため浮くという可能性も考えられる。それでも「オペラ歌手はオペラ歌手」で行くのか、「ミュージカル俳優は舞台俳優と遜色ない演技が出来るのだから」オペラ歌手にも相当のものが求められるのか。これは日本語のオペラが増えてきたために明らかになった問題でもある。

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2025年3月11日 (火)

これまでに観た映画より(381) 「その街のこども 劇場版」

2025年1月17日 京都シネマにて

京都シネマで、阪神・淡路大震災30年特別再上映「その街のこども 劇場版」を観る。2010年1月17日に阪神・淡路大震災15年特別企画としてNHKで放送されたドラマの映画版(2011年公開)。NHK大阪放送局(JOBK)の制作である。放送から15年が経っている。監督:井上剛。脚本:渡辺あや。出演:森山未來、佐藤江梨子、津田寛治ほか。音楽:大友良英。京都では今日1回のみの上映。神戸では今日から1週間ほど上映されて、森山未來がトークを行う日もあるようだ。
森山未來も佐藤江梨子も1995年当時、神戸に住んでおり、阪神・淡路大震災の被災者である。ただ佐藤江梨子はどうなのかは分からないが、森山未來は実家付近にほとんど被害が出なかったそうで、知り合いに亡くなった人もおらず、当事者なのに部外者のような気がしてコンプレックスになっていると語ったことがある。

2010年1月16日。森山未來演じる中田勇治は、阪神・淡路大震災被災後年内に、また佐藤江梨子演じる大村美夏は、震災の2年後に東京に転居し、以後、一度も神戸を訪れていないという設定である。
東京の建設会社に勤める中田は、先輩の沢村(津田寛治)と共に広島への出張で新幹線に乗っている。新神戸駅で下車しようとするスタイルのいい女性の後ろ姿を見掛けた二人。中田はふいに新神戸で降りることに決める。
スタイルのいい女、美夏から、「新神戸から三宮まで歩いて何分ぐらいですか?」と聞かれたことから、二人の物語が始まる(私は新神戸から三宮まで歩いたことがあるが、15分から20分といったところである。地下鉄で1駅なので普通は地下鉄を使う)。美夏は、明日の朝に東遊園地で行われる追悼集会に出る予定だった。中田は灘の、美夏は御影の出身である。
喫茶店や居酒屋で過ごした後、二人は御影(美夏の祖母の家がある)へと歩いて向かう。

オール神戸ロケによる作品である。震災から距離を置きたかったという気持ちが、少しずつ明らかになっていく(共に親族に問題があったようだが)。見終わった後に染みるような感覚が残る映画である。

ラストシーンは、2010年1月17日午前5時46分からの追悼集会で撮影され、即、編集が施されてその日のうちに放送されている。

撮影から15年が経っているが、森山未來は今も見た目が余り変わっていない。十代の頃の面影が今もある人なので、年を取ったように見えないタイプなのだと思われる。

 

上映終了後に、井上剛監督と配給の石毛輝氏による舞台挨拶がある。
キャストが森山未來と佐藤江梨子に決まったことで、当初よりも恋愛要素の濃い設定となったようである(ただし二人が恋仲になることはない)。色々と新しい試みを行ったそうで、カメラマンは、ドラマではなく報道専門の人を起用したそうである。また「百年に一度の災害」というセリフがあるのだが、放送の翌年に東日本大震災が発生。その後も熊本や能登で大規模な地震が発生している。関西でも大阪北部地震があった。ここまで災害が続くとは制作陣も予想していなかったようである。

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2025年3月10日 (月)

これまでに観た映画より(380) 「事実無根」

2025年3月5日 京都シネマにて

京都シネマで、日本映画「事実無根」を観る。原案・監督:柳裕章、脚本:松下隆一。出演:近藤芳正、村田雄浩、東茉凜(あずま・まりん)、西園寺章雄、和泉敬子ほか。

京都の女性と結婚してからは京都市在住となった俳優の近藤芳正。彼が京都の映画人に呼びかけて作った京都を舞台とする映画である。低予算映画ということもあって、お披露目公開をしてからしばらく眠っており、今年の2月21日から3月6日まで、京都シネマにおいて2週間のみの公開が行われている。今後はクラウドファンディングなどで全国での公開を目指すようである。なお、海外ではすでに多くの賞を受賞している。
ご当地映画ということで、京都シネマで2番目に大きいCinema2(定員90名)はほぼ満員の盛況である。

「そのうちcafe」という実在の喫茶店が舞台となっている。ヒロインの東茉凜はオーディションで選ばれた新人である。

京都駅前。京都駅ビルと京都タワーが映る。東本願寺(真宗本廟)の御影堂門と噴水の間、お東さん広場を北に向かって歩く若い女性がいる。大林沙耶(東茉凜)である。現在、18歳。彼女が向かっているのは、五条高倉の六條院公園に面した「そのうちcafe」である。一方、路地を歩く男性。彼も「そのうちcafe」に向かっている。「そのうちcafe」の店主である星孝史(近藤芳正)である。星は長く太秦で映画の助監督を務めていたのだが、監督には上がれないことが確実になって退社。たまたま入ったカフェの店員となり、そのうちに「良いカフェがある」との紹介を受けて「そのうちcafe」のマスターとなったのだった。「そのうちcafe」の前では子どもたちが遊んでいる。沙耶が戸惑っているところに星がやって来る。店を開ける星。星は子ども達に人気があり、一緒に遊んだりしているが、缶蹴りをしていた時に転んで右手を負傷してしまっていた。そのためアシスタントとしてアルバイトを募集したのだが、それに応募してきたのが沙耶だった。
高校を卒業したばかりだという沙耶。星は「高校を卒業したばかりならアルバイトよりも就職した方が良いんじゃないの?」と聞くが、沙耶は、「就職する前に体を慣らしておいた方が良いと思いまして」などと答える。高卒直後に就職しないと不利になるが、星は沙耶を雇うことにする。慣れていないということもあって、ちょっとドジなところのある沙耶。「京都が好きなので京都で働けるだけで嬉しい」と言うが、大阪府高槻市在住で、京都市内からは少しだけ遠い。ということで交通費も全額は出ない。JR京都駅を使っているため、阪急高槻市駅などではなく、JR高槻駅などから京都に来ていると思われる。だが、この沙耶。名前も学歴も全て嘘だったことが後に分かる。住所についても判然としないが、JR京都駅を使っていることは間違いないので、高槻に住んでいるというのは本当かも知れない。

その沙耶(偽名だが)を六條院公園内から見つめるホームレス風の男(村田雄浩)がいることに星は気付く。夜、男に近づいて話しかける星。「これ以上、彼女につきまとったら警察呼ぶぞ!」と警告する。ホームレス風の男は「自分で警察に連絡する」と言ってスマホを取り出し、ボタンを押す。星がスマホを取り上げるが、男が掛けたのは「110番」ではなく、「117番」つまり時報だった(ちなみにホームレスなのにスマホを充電できるのか、であるが、屋外型の有料充電サービスが今はあるので、そこで充電している、のかと思いきや、スーパーで勝手に充電していた。立派な窃盗罪である)。男はあの子は義理の娘で、自分は義理の娘の父親だと打ち明ける(星に、「だったら義理の父親でいいだろ!」と突っ込まれる)。男は元々は大学教授をしていたのだが(その後に話す内容からフランス文学の教授らしいことが分かる)、学内においてセクハラで訴えられ、「事実無根」として無実を訴えた裁判にも負けて、最終的には離婚して家を追い出されたようで、義理の娘にも会えなくなった。男の名は大林明彦。
星はバツイチで、娘の親権は相手が取り、「月に1回、娘に会わせる」という約束も反故にされて娘とは長い間顔を合わせていない。離婚調停において妻から「DVを受けた」と、「事実無根」の証言をされていた。大林の気持ちが分かった星は、星が勤めていた大学(岩倉木野にある京都精華大学がロケ地となっており、精華大学に通う際に多くの学生が使う叡山電車の車両と京都精華大前駅のホームも映る。ただ、京都精華大学にはフランス文学系の専攻は存在しないため、あくまでも架空の大学である)を訪れ、セクハラの被害者を名乗っていた助教の女性に新聞記者だと身分を偽って会う。女性は大林の証言を否定するが、星は直感で彼女は嘘をついていると確信した。

星は、大林を沙耶に会わせることにする。だまし討ちに近い形で沙耶を大林に会わせた星だが、大林が「沙耶」ではなく「悠美(ゆうみ)」と呼びかけるのを見て驚く。沙耶は偽名で本名は悠美。大林が離婚したので、現在は大林ではなく中野姓になっている。つまり中野悠美が本名である。大林が裁判に負けてからは4~5年ほど引き籠もりを続けており、高校も中退していた。そしてなんといっても、悠美は星の娘の名前だった。星の元妻は大林と再婚。悠美は大林の義理の娘であり、星の実の娘でもあったのだ。実父が京都でカフェを経営していることを知り、会いたくて正体を偽り、アルバイト店員として実父と過ごしていたのだった。

少し複雑な親子関係を描いた作品で、描き方にはよってはドロドロ系になってもおかしくないのだが、京都という時間の流れがゆったりした街で繰り広げられるということもあって、まったり系の話になっている。

正直、傑出した映画ではないかも知れないが、東京的なせわしない程の劇的な展開とは異なった映画となっており、東京を中心とした大手の映画製作会社の作品とは違った「手作り」的な味わいがある。京都という日本最大の観光地を舞台にしながら、それほど観光色を表に出さず、京都で暮らす人々の日常を主軸にしているのも良いと感じた。

映画デビュー作だと思われる東茉凜は、初々しい演技が好印象だが、正直、容姿で勝負出来るタイプではないため、これからも女優を続けるのなら演技をもっともっと磨く必要があるように思う。幸い、日本の芸能界はルッキズムがやわらぐ傾向にあり、絶世の美女でなくても主役やヒロインになれる場合も多く、この傾向は当分続くだろうから、チャンスはあるだろう。

なお、元刑事の城田を演じた西園寺章雄が今年の1月14日に他界しており、この映画は彼に捧げられている。

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2025年3月 8日 (土)

コンサートの記(894) アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)&坂本龍一 「insen」2006@大阪厚生年金会館芸術ホール

2006年10月25日 新町の大阪厚生年金会館芸術ホールにて

大阪へ。午後7時から、新町にある大阪厚生年金会館芸術ホール(2025年時点では現存せず)で、ドイツの映像作家・電子音楽家のアルヴァ・ノトことカールステン・ニコライと坂本龍一のセッション「insen」を鑑賞。アルヴァ・ノトのコンピューターが作る和音に坂本龍一がピアノで即興的に音楽をつけていくという試み。すでに同名アルバムのレコーディングは終了していて、即興といってもある程度のフォルムは出来ているようだ。

開演20分ほど前から下手袖に白髪に黒服の男性がそっと現れ、会場の様子を窺ってはスッと消えていくというのが何度か見られた。坂本龍一である。即興によるセッションということもあり、客の入りが気になるのだろうか。

坂本が心配するまでもなく客席は満員。大きな拍手に迎えられて坂本とアルヴァ・ノトが登場する。 

坂本のピアノにはセンサーが取り付けられており、坂本が音を出す毎にバックモニターに光や映像が現れたり変化したりする仕組みになっている。ピアノの蓋は取り払われていて、坂本はピアノの弦をメスのような金属片で奏でたりノイズを出したりという特殊奏法を見せたりもした。
アルヴァ・ノトの作るノイジーな不協和音に坂本のリリカルなピアノが絡む。音楽によって変化する映像も興味深いが、目に悪そうでもある。 

ラストの曲はコンピューターノイズに「戦場のメリークリスマス」のメロディーをピアノで乗せるというもの。客席からは大きな拍手。 

基本的には実験音楽であり、音楽の面白さよりは可能性を追求したものだが、たまにはこうしたライヴも楽しい。 

坂本はアンコールには余り乗り気ではなかったようだが、アルヴァ・ノトことニコライが「もっとやろうよ」という風に促したので、特別に演奏が行われる。予定外だったので映像はなし。音のみのアンコールとなった。

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2025年3月 7日 (金)

コンサートの記(893) 大阪フィル×神戸市混声合唱団「祈りのコンサート」阪神・淡路大震災30年メモリアル@神戸国際会館こくさいホール 大植英次指揮

2025年2月27日 三宮の神戸国際会館こくさいホールにて

午後7時から、三宮の神戸国際会館こくさいホールで、大阪フィル×神戸市混声合唱団「祈りのコンサート」阪神・淡路大震災30年メモリアルに接する。大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団と神戸市混声合唱団による演奏会。

神戸国際会館こくさいホールに来るのは、13年ぶりのようである。干支が一周している。
神戸一の繁華街である三宮に位置し、多目的ホールではあるが、多目的ホールの中ではクラシック音楽とも相性が良い方の神戸国際会館こくさいホール。だが、クラシックコンサートが行われることは比較的少なく、ポピュラー音楽のコンサートを開催する回数の方がずっと多い。阪急電車を使えばすぐ行ける西宮北口に兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールというクラシック音楽専用ホールが2005年に出来たため、そちらの方が優先されるのであろう。ここで聴いたクラシックのコンサートはいずれも京都市交響楽団のもので、佐渡裕指揮の「VIVA!バーンスタイン」と、広上淳一指揮の「大河ドラマのヒロイン」として大河ドラマのテーマ曲を前半に据えたプログラムで、いずれもいわゆるクラシックのコンサートとは趣向がやや異なっている。ポピュラー音楽では柴田淳のコンサートを聴いている。

構造にはやや難があり、地上から建物内に上がるにはエスカレーターがあるだけなので、帰りはかなり混む。というわけで、聴衆にとっては使い勝手は余り良くないように思われる。客席は馬蹄形に近く、びわ湖ホール大ホールやよこすか芸術劇場を思わせるが、ステージには簡易花道があるなど、公会堂から現代のホールへと移る中間地点に位置するホールと言える。三宮には大倉山の神戸文化ホールに代わる新たなホールが出来る予定で、その後も国際会館こくさいホールでクラシックの演奏会が行われるのかは分からない。

 

曲目は、白井真の「しあわせ運べるように」(神戸市歌)、フォーレの「レクイエム」(ソプラノ独唱:隠岐彩夏、バリトン独唱:原田圭)、マーラーの交響曲第1番「巨人」

 

今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置の演奏。ホルン首席の高橋将純はマーラーのみに登場する。
フォーレの「レクイエム」ではオルガンが使用される。神戸国際会館こくさいホールにはパイプオルガンはないので、電子オルガンが使われるが、パンフレットが簡易なものなので、誰がオルガンを弾いているのかは分からなかった。

 

白井真の「しあわせ運べるように」(神戸市歌)。神戸出身で、阪神・淡路大震災発生時は小学校の音楽教師であり、東灘区に住んでいたという白井真。神戸の変わり果てた姿に衝撃を受けつつ、震災発生から2週間後にわずか10分でこの曲を書き上げたという。
神戸市混声合唱団は、1989年に神戸市が創設した、日本では数少ないプロの合唱団。神戸文化ホールの専属団体であるが、今日は神戸国際会館こくさいホールで歌う。
ステージの後方に階段状となった横長の台があり、その上に並んでの歌唱。
聴く前は、「知らない曲だろう」と思っていた「しあわせ運べるように」であるが、実際に聴くと、「あ、あの曲だ」と分かる。映画「港に灯がともる」(富田望生主演。安達もじり監督)のノエビアスタジアム神戸での成人式の場面で流れていた曲である。
「震災に負けない」という心意気を謳ったものであり、30年に渡って歌い継がれているという。
ホールの音響もあると思うが、神戸市混声合唱団は発声がかなり明瞭である。

 

フォーレの「レクイエム」。大きめのホールということで、編成の大きな第3稿を使用。パリ万博のために編曲されたものだが、フォーレ自身は気が乗らず、弟子が中心になって改変を行っている。そのため、「フォーレが望んだ響きではない」として、近年では編成の小さな初稿や第2稿(自筆譜が散逸してしまったため、ジョン・ラターが譜面を再現したラター版を使うことが多い)を演奏する機会も増えている。

実は、大植英次の指揮するフォーレの「レクイエム」は、2007年6月の大阪フィルの定期演奏で聴けるはずだったのだが、開演直前に大植英次がドクターストップにより指揮台に上がることが出来なくなったことが発表され、フォーレの「レクイエム」は当時、大阪フィルハーモニー合唱団の指揮者であった三浦宣明(みうら・のりあき)が代理で指揮し、後半のブラームスの交響曲第4番は指揮者なしのオーケストラのみでの演奏となっている。ちなみにチケットの払い戻しには応じていた。
それから18年を経て、ようやく大植指揮のフォーレの「レクイエム」を聴くことが叶った。

マーラーなどを得意とする大植であるが、フランスものも得意としており、レコーディングを行っているほか、京都市交響楽団の定期演奏会に代役として登場した時にはフランスもののプログラムを変更なしで指揮している。
フォーレに相応しい、温かで慈愛に満ちた響きを大植は大フィルから引き出す。高雅にして上品で特上の香水のような芳しい音である。
神戸市混声合唱団の発音のはっきりしたコーラスも良い。やはりホールの音響が影響しているだろうが。

フォーレの「レクイエム」で最も有名なのは、ソプラノ独唱による「ピエ・イエス」であるが、実はソプラノ独唱が歌う曲はこの「ピエ・イエス」のみである。
ソプラノ独唱の隠岐彩夏は、岩手大学教育学部卒業後、東京藝術大学大学院修士および博士課程を修了。文化庁新進芸術家海外研修生としてニューヨークで研鑽を積んでいる。
岩手大学教育学部出身ということと、欧州ではなくニューヨークに留学というのが珍しいが、岩手県内での進学しか認められない場合は、岩手大学の教育学部の音楽専攻を選ぶしかないし、元々教師志望だったということも考えられる。真相は分からないが。ニューヨークに留学ということはメトロポリタンオペラだろうか、ジュリアード音楽院だろうか。Eテレの「クラシックTV」にも何度か出演している。
この曲に相応しい清澄な声による歌唱であった。

バリトン独唱の原田圭も貫禄のある歌声。東京藝術大学および同大学院出身で博士号を取得。現在では千葉大学教育学部音楽学科および日本大学藝術学部で講師も務めているという。

フォーレの「レクイエム」は「怒りの日」が存在しないなど激しい曲が少なく、「イン・パラディズム(楽園へ)」で終わるため、阪神・淡路大震災の犠牲者追悼に合った曲である。

 

後半、マーラーの交響曲第1番「巨人」。この曲も死と再生を描いた作品であり、メモリアルコンサートに相応しい。
マーラー指揮者である大植英次。「巨人」の演奏には何度か接しているが、今日も期待は高まる。譜面台なしの暗譜での指揮。
冒頭から雰囲気作りは最高レベル。青春の歌を溌剌と奏でる。チェロのポルタメントがあるため、新全集版のスコアを用いての演奏だと思われるが、譜面とは関係ないと思われるアゴーギクの処理も上手い。
第2楽章のややグロテスクな曲調の表現も優れており、大自然の響きがそこかしこから聞こえる。
マーラーの交響曲第1番は、実は交響詩「巨人」として作曲され、各楽章に表題が付いていた。当時は標題音楽の価値は絶対音楽より低かったため、表題を削除して交響曲に再編。その際、「巨人」のタイトルも削ったが、実際には現在も残っている。「巨人」は、ジャン・パウルの長編教養小説に由来しており、私も若い頃に、東京・神田すずらん通りの東京堂書店で見かけたことがあるが、読む気がなくなるほど分厚い小説であった。ただ、マーラーの「巨人」は、ジャン・パウルの小説の内容とはほとんど関係がなく、タイトルだけ借りたらしい。そしてこの曲は、民謡などを取り入れているのも特徴で、第3楽章では、「フレール・ジャック」(長調にしたものが日本では「グーチョキパーの歌」として知られる)が奏でられる。これも当時の常識から行くと「下品だ」「ふざけている」ということになったようで、マーラーの作曲家としての名声はなかなか上がらなかった。
大植と大フィルはこの楽章の陰鬱にして鄙びた味わいを巧みに表出してみせる。夢の場面も初春の日差しのように淡く美しい。
この葬送行進曲で打ち倒された英雄が復活するのが第4楽章である。そしてこのテーマは交響曲第2番「復活」へも続く。
第4楽章は大フィルの鳴りが良く、大植の音運びも抜群である。特に金管が輝かしくも力強く、この曲に必要とされるパワーを満たしている。
若々しさに満ちた再生の旋律は、これからの神戸の街の発展を祈念しているかのようだった。

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2025年3月 4日 (火)

コンサートの記(892) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 宇治演奏会2025

2025年2月21日 宇治市文化センター大ホールにて

午後7時から、宇治市文化センター大ホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団宇治演奏会を聴く。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団桂冠指揮者の大植英次。
大植と大阪フィルは今後、奈良県の大和高田さざんかホール大ホールで同一プログラムによる演奏を行った後、神戸国際会館こくさいホールで、阪神・淡路大震災30年メモリアルとなるコンサートを行う。その後、大阪フィルは、指揮者を音楽監督の尾高忠明に替えて、和歌山、彦根、姫路という3つの城下町での特別演奏会を行う予定である。城下町でのコンサートを企画するということは、大フィルのスタッフの中に城好きがいるのだと思われる(日本人でお城が嫌いという人は余りいないが)。

宇治市文化センター大ホールであるが、厳密に言うと、宇治市文化センターという複合文化施設の中にある宇治市文化会館の大ホールということになるようだが、長くなるので宇治市文化センター大ホールという表記に統一しているようだ。宇治市を主舞台とした武田綾乃の小説及び宇治市に本社を置く京都アニメーションによってアニメ化された「響け!ユーフォニアム」の聖地の一つとしても知られているようである。
以前にも、夏川りみのコンサートで訪れたことがあるのだが、とにかく交通が不便なところにある。駅からは遠く、公共の交通手段はバスしかないが、本数が少ない。私は歩くのは得意なので、京阪宇治駅から歩いて行くことにした。なお、駐車場はあるのでマイカーがある人は来られるようである。

延々と歩く。高さ制限があるため、目に付く大きな建物は宇治市役所のみである。京都府内2位となる人口を誇る宇治市。誇るとはいえ18万程度で、140万を超える京都市とは比べものにならない。その割には市役所は立派である。

宇治市文化センターは、登り坂の上、折居台という場所にある。周りは一戸建ての住宅が並んでいる。おそらく住民は皆、自家用車を使って移動しているのだろう。
大ホールは、約1300席で、音響設計などはなされておらず、残響は全くといっていいほどない。首席奏者には立派な椅子があてがわれているが、他の奏者はパイプ椅子に座っての演奏で、いつもとは勝手が違うようである。

入りであるが、かなり悪い。大植と大フィルのコンビはブランドであるが、宇治市文化センターは交通の便が余りに悪く、来たくても来られない人が多数いたと思われる。私のように足に自信があれば別だが、普通の人はあの坂を歩いて上りたいとは思わないだろう。
帰りであるが、バスがないので特別にJRおよび京阪宇治駅行きのシャトルバスが運行されるようであった(ちなみに有料である)。大フィルメンバーは駅までは送迎があったのか、帰りの京阪宇治線で楽器を背負った人々を何人か見かけた。

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曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:阪田知樹)とチャイコフスキーの交響曲第4番。

コンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。指揮台は高めのものが用いられていたが、おそらく大フィル所有のものの持ち込みだと思われる。

 

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
宇治市文化センター大ホールは響きが良くないが、その分、阪田の輪郭のはっきりとした清冽なピアニズムははっきりと分かる。華麗にして的確な表現である。
冒頭がゴージャスなことで知られるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番であるが、大植と大フィルは壮麗さは生かしながら外連味は抑えた伴奏。ただ響きが良くないので派手さが抑えられた可能性もある。
第2楽章のリリシズムなども印象的であった。
第3楽章のラストでは阪田が強靱にしてスケールの大きい、巌のような演奏を展開。大フィルも負けじと大柄な伴奏を行った。

阪田のアンコール演奏は、ラフマニノフ作曲・阪田知樹編曲の「ここは素晴らしいところ」。吹き抜ける風のようにリリカルで涼やかな曲と演奏である。
アンコール演奏の間、大植は下手袖に立って、演奏に耳を傾けていた。

 

チャイコフスキーの交響曲第4番。大植は譜面台を置かず、暗譜での指揮である。要所要所で指揮棒を持っていない左手を効果的に用いる指揮。
21世紀に入ってから、解釈がガラリと変わったチャイコフスキー。「ロシアの巨人」「愛らしいバレエ音楽と交響曲の作曲家」から、「時代の犠牲となった悲劇の天才作曲家」へとイメージが変わりつつある。昨年は、ロシア映画「チャイコフスキーの妻」が日本でも公開され、実生活では英雄とは呼べなかったチャイコフスキー像を目にした人も多かったと思われる。ソ連時代は「聖人君子」的存在であったのが、ロシア本国でも次第に「人間チャイコフスキー」へと変化しているのが分かる。

大植は、冒頭の運命の主題を力強く吹かせた後で、弦楽などを暗めに弾かせて、最初から悲劇的色彩を濃くする。強弱もかなり細かく付けている印象である。
孤独なつぶやきのような第2楽章。同じテーマが何度か繰り返されるが、大植はテンポを落とすなど、次第に寂寥感が増すように演奏していた。
第3楽章は、弦楽がピッチカートのみで演奏するという特異な楽章であるが、音響の面白さと同時に、明るいはずの管の響きもどことなく皮肉や絵空事に聞こえるようである。
盛大に奏でられる第4楽章。「小さな白樺」のメロディーが何度か登場するが、やはり次第に精神のバランスを欠いていくような印象を受ける。そして最後はやけになったとしか思えない馬鹿騒ぎ。チャイコフスキーは、交響曲第3番「ポーランド」までは叙景詩的な曲調を旨としていたのだが、交響曲第4番からいきなり趣向を変えて、以後、最後の交響曲となった第6番「悲愴」まで、苦悩を題材とした人間ドラマを曲に込めるようになる。その第1弾である交響曲第4番は、「第5番や第6番『悲愴』に比べると粗い」などと言われてきたが、実際にはチャイコフスキーが自身の煩悶が最もダイレクトに出した曲であるようにも思われ、評価が上がりそうな予感がある。本当に粗いならチャイコフスキーなら直しただろうが、それをしていないということは本音の吐露なのだろう。

 

大植は、「宇治の皆さんありがとうございました。アンコール演奏を行っていいですか?」と客席に聞き、「チャイコフスキーの『くるみ割り人形』よりマーチ。(コンサートマスターの須山に)なんていうんだっけ? 行進曲」と言って演奏開始。安定した演奏であった。

 

大和高田さざんかホール大ホールでも同一演目による演奏家が行われる訳だが、大和高田さざんかホールは、小ホールで萩原麻未のピアノリサイタルを聴いたことがある。傾斜なし完全平面の客席のシューボックス型ホールで、ピアノ演奏などを主とするホールとしては、これまで聴いた中で最高の音響であった。大ホールはまた勝手が違うかも知れないが、おそらく音響は良いのだろう。宇治で聴くより良いかもしれないが、大和高田はやはり少し遠い。

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2025年3月 2日 (日)

これまでに観た映画より(379) 「ホテルローヤル」

2025年2月23日

J:COMストリームで、日本映画「ホテルローヤル」を観る。直木賞を受賞した桜木紫乃の同名短編小説集の映画化。ホテルローヤルは、桜木紫乃の父親が実際に釧路で経営していたラブホテルの名称であり、モデルにもなっていると思われる。
短編集であるため、映画化は難しかったようだが、桜木紫乃が「全てお任せ」としたため、桜木の他の小説などを含めた独自のシナリオで撮られている。
監督:武正晴。脚本:清水友佳子。出演:波瑠、松山ケンイチ、余貴美子、伊藤沙莉、岡山天音、正名僕蔵、内田慈(ちか)、冨手麻妙(とみて・あみ)、丞威(じょうい)、稲葉友(ゆう)、和知龍範、玉田志織、斎藤歩(釧路市生まれで北海道演劇界の重鎮)、原扶貴子、友近、夏川結衣、安田顕ほか。音楽:富貴晴美。
北海道のマスコミも多く制作に協力しているが、なぜかメ~テレ(名古屋テレビ)が筆頭となっている。

時代が飛ぶ手法が用いられている。ラブホテルが舞台だけに、男女の入り乱れた関係が描かれる。
北海道釧路市。釧路湿原を望む地に、ラブホテル、ホテルローヤルが建っていた。現在は閉鎖されているが、ヌード写真撮影のために男女が訪れる。この場面に意味があるのかどうかは不明だが(原作には出てくる場面である)、過去のホテルローヤルの場面が断片的に浮かび上がる。

田中雅代(波瑠)は、ホテルローヤルを営む大吉(安田顕)とるり子(夏川結衣)の一人娘。絵が得意で札幌の美大を受験するが不合格となる(原作では大学ではなく就職試験全敗という設定)。浪人する余裕がないのか、進学を諦めて、実家を継ぐことになるのだが、その前に母親のるり子が不倫の末、駆け落ちする。実は大吉も元々の妻を捨ててるり子と一緒になったのだが、今度は逆に自分が捨てられる羽目になった。
ホテルの部屋の音は、換気口を通して従業員室で聞き取れるようになっている(他のラブホテルでもそういうことがあるのかどうかは不明)。

ホテルには様々なカップルが泊まりに来る。何度も泊まりに来る熟年夫婦(正名僕蔵と内田慈が演じる)、ホームレス女子高生の佐倉まりあ(伊藤沙莉)と担任教師の野島亮介(岡山天音)や台詞も特にないカップルなど。

従業員は、能代ミコ(余貴美子)と太田和歌子(原扶貴子)の二人だけだが、ある日、左官として働いていると思ってたミコの長男が実は暴力団員であり、犯罪で捕まったことがテレビで報道される。ミコの夫の正太郎(斎藤歩)は病気で働くことが出来なくなっており、息子から「給料が上がったから」と仕送りが届いたばかりだった。ショックの余り森を彷徨うミコ。正太郎が何とか探し出す。るり子は雅代に「稼ぎよりも自分を本気で愛してくれる人を見つけなさい」とアドバイスするが、その後に姿を消したのだった。

佐倉まりあは、17歳。おそらく近く18歳になる高校3年生だと思われる(原作では高校2年生)。母親が男と駆け落ちし、その後、父親も女の下へ走ったため、ホームレスとなった。担任教師の野島亮介とは、雨宿りのためにホテルローヤルに立ち寄った、というと嘘くさいが本当らしい。実際にまりあが野島を誘うシーンがあるが、野島は応じない。進学先の候補である専門学校に二人で見学に行ったのだが、まりあは進学する気はなく途中で姿を消し、その後に野島が追いついたらしい。まりあが通うのは偏差値が低めの高校のようで、まりあを演じる伊藤沙莉もそれっぽく振る舞っている(武監督から「口開けてろ」「余計なことしろ」との指示があったとのこと)。なので大学進学という選択はないようだ(現在の北海道は私立大学受難の地で、名門私立大学はあるが難関私立大学は存在せず、Fランクと呼ばれる大学が多いが、それでも両親がいないのでは金銭的に難しいのだろう)。
キャバクラごっこ(札幌のススキノという設定らしい)で自己紹介をするのだが、野島に「君はキャバクラには向かない」と言われる。野島は妻の不倫が発覚したばかりで、それも相手は身近な人物だった。この場面の意味であるが、まりあには実際に「キャバクラ嬢になる」という選択肢があったのかも知れない。
この二人が起こした事件がきっかけで、ホテルローヤルからは客が離れることになる。ちなみに野島や佐倉という役名は原作通り(野島は原作では下の名前が広之)だが、某有名ドラマへのオマージュだと思われる。某有名ドラマの女優さん(現在は引退)も伊藤沙莉同様、千葉県出身である。

ホテルローヤルにアダルトグッズ(大人のおもちゃ)を売りに来る宮川聡史(松山ケンイチ)。「えっち屋さん」と呼ばれているが、松山ケンイチが演じているため、雅代が宮川に気があるのはすぐに分かるようになっている。雅代はかなり暗めの性格で、男っ気は全くなく、実際に処女である。宮川が結婚したことを知った時、少しショックを受けたような素振りも見せるが、宮川もその妻が最初の女性という奥手の男性だったことが後に明らかになる。

ホテルローヤルの閉鎖後は、エピローグ的に若き日の大吉(和知龍範)と若き日のるり子(玉田志織)の物語が置かれ、雅代を妊娠した日のことが描かれる。


映画化しにくい題材のためか、ややとっちらかった印象があり、焦点がぼやけてしまって、「ここが見せ場」という場面には欠けるように思う。一番良いのは松山ケンイチで、北海道弁(釧路弁)も上手いし、少し出しゃばり過ぎの場面もあるが、商売に似合わぬ爽やかな青年で優しさもあるという魅力的な人物像を作り上げている。

当時、26歳で高校生役に挑んだ伊藤沙莉。若く見せるために体重を増やして撮影に臨んでいる。「好きなだけ食べて良いのでラッキー」と思ったそうだ。担任教師役の岡山天音とは実は同い年で高校1年の時に同じドラマに同級生役で出演(共にいるだけの「モブ」役だったそうだが)しているそうである。まりあは17歳、野島は28歳という設定であるが、この時の伊藤沙莉は色気があるので、高校生には見えないように思われる。実際、「これが最後の制服姿」とも語っていたのだが、その後も、Huluオリジナルドラマ「あなたに聴かせたい歌があるんだ」や、高校生ではなく高等女学生役ではあるが「虎に翼」でも制服を着ており、いずれも十代後半に見える。「ホテルローヤル」で女子高生に見えないのはおそらく、特に工夫のない髪型のせいもあると思われる。
トローンとした眠そうな目が様々なことを語っていそうな場面があるのだが、これは伏線の演技であることが後に分かる。
武監督は、キャストとしてまずまりあ役に伊藤沙莉を決めたそうだ。ただ童顔の伊藤沙莉も段々大人っぽくなってきていたため焦ったそうである。

長く舞台中心に活動していた内田慈が思いのほか魅力的なおばさん(と言ったら失礼かな)を演じていて、興味深かったりもする。

ただ、波瑠が演じる雅代が暗すぎるのが大衆受けしない要素だと思われる。波瑠を使うならやはり明るい女性をやらせて欲しかった。美大に落ちたことをずっと引き摺っているような陰気なヒロインではキャストが充実していても波瑠ファン以外の多くの人から高い評価を得るのは難しい。

音楽を担当しているのは大河ドラマ「西郷どん」などで知られる富貴晴美。私は連続ドラマ「夜のせんせい」(観月ありさ主演)の音楽などは好きである。タンゴ調の(「単語帳の」と変換された)音楽が多く、ピアソラの「リベルタンゴ」に似た曲もあるが、おそらくそうした曲を書くよう注文されたのだと思われる。

舞台美術は美しいの一言。

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