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2025年5月の6件の記事

2025年5月30日 (金)

観劇感想精選(489) ミュージカル「レ・ミゼラブル」2025大阪公演 2025年3月19日

2025年3月19日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観る。
東京では、帝国劇場のクロージング演目として上演されたプロジェクトである。

1985年の日本初演以来、上演を重ねているミュージカルの定番。ヒュー・ジャックマン、アン・ハサウェイらが出演した映画版も名画としての地位を確立している。
原作:ビクトル・ユゴー。原作は岩波文庫から分厚いもの4巻組みで出ているが、訳も良くて読みやすいので、一度は読むことをお薦めする。フランスのロマン派の小説なので、突然、詩が出てきたりするなど、今の小説とはスタイルが異なる。
作:アラン・ブーブリル&クロード=ミッシェル・シェーンベルク。作詞:ハーバート・クレッツマー。演出:ローレンス・コナー/ジェームズ・パウエル。翻訳:酒井洋子、訳詞:岩谷時子。製作:東宝。

全ての役が完全オーディションで決まることで知られる「レ・ミゼラブル」。以前に役を歌ったことがある人でも、再び役を貰えるとは限らない。一方で、無名でもミュージカルのイメージがない俳優でもオーディションさえ通れば出演する可能性がある。

トリプルキャストが基本だが、今日の出演は、飯田洋輔(ジャン・バルジャン)、小野田龍之介(ジャベール警部)、 生田絵梨花(ファンテーヌ)、ルミーナ(エポニーヌ)、三浦宏規(マリウス)、加藤梨里香(コゼット)、六角精児(テナルディエ)、谷口ゆうな(マダム・テナルディエ)、岩橋大(アンジョルラス)、大園尭楽(おおぞの・たから。ガブローシュ)、井澤美遥(リトル・コゼット)、平山ゆず希(リトル・エポニーヌ)、鎌田誠樹(かまだ・まさき。司教)、佐々木淳平(工場長)、小林遼介(パマタボア)、近藤真行(グランティール)、杉浦奎介(フイイ)、伊藤広祥(いとう・ひろあき。コンブフェール)、島崎伸作(クールフェラック)、東倫太郎(ひがし・りんたろう。ジョリ)、中村翼(プルベール)、廬川晶祥(ろがわ・あきよし。レーグル)、町田慎之介(バベ)、ユーリック武蔵(ブリジョン)、土倉有貴(とくら・ゆうき。クラクスー)、松村桜李(モンパルナス)、白鳥光夏(しらとり・みか。ファクトリーガール)、般若愛実(はんにゃ・まなみ。買入屋)、湖山夏帆(かつら屋)、三浦優水香(マダム)、青山瑠里(宿屋の女房)、荒居清香(あらい・せいか。カフェオーナーの妻)、石丸椎菜(病気の娼婦)、大泰司桃子(おおたいし・ももこ。鳩)、北村沙羅(あばずれ)、吉良茉由子(身代わりの妻)。

 

「夢やぶれて」、「民衆の歌」、「オン・マイ・オウン」など有名曲を擁し、これらの曲が何度も用いられる循環形式も効果的なミュージカルである。パンを盗んだだけで19年間投獄されていた男、ジャン・バルジャンの更生と、ジャン・バルジャンが育てた娘のコゼット、コゼットに恋する大学生の好青年マリウスなどを軸に、叶わぬ恋に悩むエポニーヌ、6月暴動に向かう若者達の姿が交錯する叙事詩である。

聴き映えはするが歌唱難度はそれほど高くない曲と、高音域が要求されたり音の進行が不安定だったりと本当に難度が高い曲が混在しており、バランスが良い。まるでショパンの楽曲のようだ。

今回、ジャン・バルジャンを演じる飯田洋輔は裏声の美しさが印象的。ミュージカルのみならず歌手としても活動が出来そうだ。人気が出るかどうかはまた別の話だが。

すでに若手トップクラスのミュージカル女優の一人として評価されている生田絵梨花。ミュージカルのみならずテレビドラマにも主演するなど順調なキャリアを歩んでいるが、ミュージカルをやっている時の彼女が一番生き生きしているように見える。
最も有名なナンバー「夢やぶれて」を彼女は意図的に走り気味に歌唱。おそらく感情が先走っていることを表現しているのだろうと思われる。歌い方は節度が保たれており、映画版のアン・ハサウェイとは好対照である。彼女が演じるファンテーヌは同じ女工から苛め抜かれた上、コゼットを生んであっさり亡くなってしまうのだが、終盤におそらく聖人となってジャン・バルジャンの下を訪れる。また「夢やぶれて」のメロディーはリフレインされる。

マリウスに片想いするエポニーヌ。彼女もまた非業の死を遂げる人物である。6月暴動でバリケードに閉じこもるが(思想面ではなく、単にマリウスと一緒にいたかったから)射殺されてしまう。
彼女がマリウスへの気持ちを歌った「オン・マイ・オウン」は難度も高いが、事前にメロディーが流れる場面があったり、その後、クライマックスでリフレインされる。
ルミーナは、インドと日本のハーフで、ソウル国立大学校で声楽を学んだというインテリである。まず韓国版「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ役で出演。続いて日本版の「レ・ミゼラブル」にも出演している。

過去に犯した罪か現在か。過去に犯した罪を執拗に追及するジャベール警部は、自分が追っていたものが過去の幻影だと思い知らされ、セーヌ川に身を投げることになる。ジャン・バルジャンが最初に仮出所したのは46歳ともう若くない年齢であり、それでも悔い改めようとはしなかったが、そこから事業で成功して市長になり、その後もコゼットを育てるなど失敗からのやり直しを果たした、慈父のようになった人物である。
過去に手を差し伸べた二人の女性(ファンテーヌとエポニーニ)の霊に見守られながら、ジャン・バルジャンは旅立っていく。

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2025年5月27日 (火)

音楽講談「京都博覧会」 四代目 玉田玉秀斎+かとうかなこ

2025年5月5日 京都劇場にて

午後4時から、京都劇場で、音楽講談「京都博覧会」を聴く。講談師の四代目 玉田玉秀斎とクロマチックアコーディオン奏者のかとうかなこの二人による公演。全席自由である。宣伝はほとんど行われておらず、入りは余り良くない。

左京区岡崎にある平安神宮が、元々は内国勧業博覧会のパビリオンとして建てられたものであることは比較的知られているが、それに至るまでの京都博覧会の数々や、そもそも京都で博覧会が行われるまでを玉田秀斎が創作講談として語る。

ちなみに、玉秀斎が、「講談を聞いたことがある人」と聞くと半分くらい手が上がったが、玉秀斎は、「余りいらっしゃらない」「講談は落語とは違います。講談は歴史を扱います。よく、『今日の落語面白かったわねえ』を仰るお客さんがいるんですが」「講談には落ちがありません。『今日の話、落ちがなかったわねえ』を言われたりしますが、それが普通です」

かとうかなこが、クロマチックアコーディオンについて聞くが、知っている人はほとんどいない。じゃあ、今日のお客さんは何しに来たんだろう? と思うが、本当に何しに来たのかは分からない。

 

玉田玉秀斎は、幕末の京都で活躍した神道講釈師・玉田永教の流れを汲む。学究肌で、三重大学大学院修士課程「忍者・忍術学コース」という、この大学院でしか学べないことを学び、昨年の4月からは和歌山大学大学大学院観光学研究科後期博士課程で「講談における忍術」を学んでいる。その他に京都検定2級取得。

かとうかなこは、大阪を拠点にしているアコーディオン奏者としては、一番目か二番目に有名な人である。大阪府豊中市出身。豊中には大阪音楽大学があるほか、幸田姉妹や児玉姉妹といった有名音楽家が輩出している。4歳からアコーディオンを始め、17歳の時に第8回全日本コンクール優勝。高校卒業後はパリに留学し、パリ市立音楽院、CNIMA国際音楽院に学ぶ。フランス時代には、「ほとんどアコーディオン奏者しかいない村」でひたすら演奏に励んだ経験も持つ。
実演に接するのは、3度目か4度目。昨年は、久石譲指揮日本センチュリー交響楽団のツアーに参加し、京都コンサートホールでも交響組曲「魔女の宅急便」でアコーディオンパートを弾いていたが、クレジットがなかった上、ステージから遠かったため、弾いていたのがかとうさんだと知ったのは、九州での公演がセンチュリー響のSNS上に載ってからであった。
今日は、製造後60年ほど経ったクロマチックアコーディオンを弾くが、途中で1920年製造の「おばあちゃん」アコーディオンも弾いた。
ちなみにクロマチックアコーディオン(ボタン式アコーディオン)は、右が54鍵、左が92鍵である。
演奏曲目は、「あこだん音頭」、「箱の中の少年」、「楽器遊び」、「その先にあるもの」、「はじまりの音」、「故郷の空」(スコットランド民謡)、「まるたけえびす」(演奏ではなく歌唱)、「あかね雲」、「ミルメルシー」、「20160902」、「リコモンス」「あこだんブギ」
今日は袴をはいた女学生のような格好である。

 

幕末、幕府の勢力は弱まり、西日本の志士が京都に出てきていた。特に長州の勢いが強く、倒幕を目指した。選んだ手段は人斬り。幕府側も黙っていないということで、京都は辻斬りが横行する物騒な場所となっていた。佐久間象山が暗殺され、禁門の変が起こり、京の7~8割が延焼により焼失(どんどん焼け)。徳川方の新選組や京都見廻組が街を闊歩し、3年後には龍馬暗殺がある。明治に入っても、横井小楠や大村益次郎が京で暗殺され、更に東京奠都があり、睦仁天皇が東京に移る。天皇が東京に移ると商家なども東京へ。ということで京都の人口は幕末の3分の2までに落ち込み、このままでは京都は狐や狸が跋扈する荒れ野に帰すということで、第2代京都府知事の槇村正直(長州出身)が、琵琶湖疎水や電車の計画を立てる(その他、新京極商店街を作ったりしている)。更に、山本覚馬(会津出身)が妹(山本八重)の婿である新島襄(安中藩出身者の家に生まれるが、生まれ育ちは江戸)と同志社英学校(現在の同志社大学の前身)を建て、更に外国語教育の重要性を呼びかけて、同志社英学校とは別の、国費による英学校、仏学校、独学校が建てられて、多くの学生が学んだ。彼らの多くが留学し、留学先で専門教育を受け、帰国後に旧制大学や旧制専門学校で教壇に立ち、日本語で授業を行うようになる。これが日本式の教育者輩出システムである。他の国は英語で教育を受け、英語で教えるシステムであるため、高等教育を母国語で受けることはほとんどない。
その他に、「学校がいる」ということで、学制が発布される前に番組小学校を創設。日本で初めて初等教育の基礎が出来上がった。
だが、やはり人が集まらないと京都は活気づかないということで、福沢諭吉の『西洋事情』にヒントを得て、博覧会を行うことにする。槇村正直の他、三井、小野、熊谷(鳩居堂)といった豪商が協力する。烏丸の東本願寺は街中にあるためにどんどん焼けで全焼したが、西本願寺は当時は街中近くの田舎で周りに田んぼと畑しかない堀川の地にあったため延焼を免れており、広大な寺地を会場に使える。更に洛外鴨東で火事の影響がなかった建仁寺と知恩院を会場として京都博覧会が行われた。神戸の外国人居留地から外国人も多く招かれた。
だが、振り返ってみると、「我々がやったのは骨董市じゃないか?」という反省が出て、「御所で博覧会をやろう」「動物園をやろう」などのアイデアが生まれ、実現される。
京都観光の目玉の一つである祇園甲部の都をどりも京都博覧会の出し物の一つとしてこの時に始まっている。

一方、東京では、政府主導の内国勧業博覧会が上野を会場に行われていた。上野で3回行ったが、今度は東京以外でやろうということになり、京都と大阪が手を挙げた。第4回の会場に決まったのは京都。開催されるのが1895年で、平安遷都(794年)から1100年が経つというのも後押しになった。なお、大阪では第5回の内国勧業博覧会が行われたが、内国勧業博覧会が行われたのは大阪が最後になった。

メイン会場として、平安京大内裏の朝堂院の8分の5サイズでの復元が計画されたが、本来それがあった千本丸太町付近の用地買収には失敗し、かつては白河と呼ばれた岡崎の地での復元と、メイン会場設置が決定。岡崎は、日本初の水力発電所のある蹴上からも近いことから、岡崎から京都駅までの電車が引かれ、日本初の本格的電車運行がスタートした。第4回内国勧業博覧会は多くの人を京の街に呼び、大成功となる。
朝堂院は、桓武天皇を祀る平安神宮の社殿となる(その後、孝明天皇も合祀)。そして今では京都三大祭の一つに数えられる時代祭が始まるのであった。

この間、かとうが客席通路を歩き、あちこち回りながら演奏を行う。

最後はスクリーンが降りてきて、様々な史料や京都博覧会や第4回内国勧業博覧会の絵や写真などが示される。

上演時間が短いように感じられたが、実際は約80分と、通常の講談よりは長めであった。

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2025年5月19日 (月)

これまでに観た映画より(386) 瀧内公美一人芝居映画「奇麗な、悪」(2度観ての感想)

2025年3月3日 イオンシネマ京都桂川にて

午後9時から、イオンシネマ京都桂川で、日本映画「奇麗な、悪」を観る。主演・出演:瀧内公美。瀧内公美のみが出演するという一人芝居映画である。原作:中村文則「火」。脚本・監督:奥山和由。音楽は加藤万里奈の吹く口笛のみで、それも流れている時間は比較的短い。上映時間78分の中編。後藤又兵衛の「真実」という絵画が象徴的に用いられている。企画協力:桃井かおり。
芸術性の高い映画ということで、京都で上映が行われているのは現在、イオンシネマ京都桂川とアップリンク京都だけ。それも午前中の上映とレイトショーのみである。土曜日に「オイディプス王」を観た帰りに観ようかと思ったのだが、その日は終映時間23時20分ということで終電に間に合わないため、今日に回した。
奥山和由が映画監督を務めるのは「RAMPO」以来、約30年ぶりとなる。

人が行き交う繁華街の坂道。人目を引く女性がこの坂を上ってくる。瀧内公美が演じるこの女性の名が明かされることはない。横浜の外国人墓地に沿った歩道に移り、女性は山手十番館へと入っていく。正確に書くとレストランである山手十番館は主に外観がロケ地となっているだけで、山手十番館に入ったという設定ではない。山手十番館がロケ地となっているのは、精神科のクリニックのようだが、施錠されている。そしてその後、残された書類で院長の急逝によりすでに閉院していることが分かる。カウンセリング診療所が併設されていたが、そこも閉じたようだ。内装は普通の洋館で、病院には見えないのだが、病院であった痕跡は残っている。元病院の内部はセットで撮影されていると思われる(山手十番館には入ったことはないが、写真などを見ると階段などは似ているので、休業日などに撮影した可能性もある。撮影は2日ほどと短期だったようだ)。公式発表では「舞台は横浜」となっている。
坂を上がるシーンでの瀧内公美を見て、「中国の山口百恵」ことコン・リー(巩俐)に似ているように思われたのだが、コン・リーは山口百恵に似ていても、瀧内公美は山口百恵には全く似ていないのが面白い。

字幕がいくつか出るが、「すべてを話してください。治療になりません。すべてをです」という字幕により、精神科でのカウンセリング(というよりも「暴露療法」だろうか)が行われることが分かる。瀧内公美が一人で語り続け、長回しの手法が取られるという演劇的映画だが、終盤に入るとカット割りが多くなり、瀧内の髪型がクルクル変わるなど、時間が飛んでいるか、時系列がシャッフリングされているか、あるいは現実と虚構が交錯しているかのどれかという展開になる。

瀧内公美が演じる女性は、「火」の話から始める。子どもの頃に家のカーテンに人つけて全焼させたことがあった。両親は亡くなった。「申し訳なく思っている」という女性だが、その後、その発言を撤回する。タイトルの「奇麗な、悪」とは、具体的にはカーテンから燃え広がった火のことだ。両親を亡くした女性は、施設に入り、中学を経て高校に入るが2年の時に中退。工場の事務員となった。その後、Rという色男と恋仲になった女性だが、Rは違法薬物の使用で逮捕される。女性も疑われるがシロであった。その後、ある男性の子を妊娠し、結婚することになる。生まれた子は女の子だった。これが21歳の時。女性は夫の両親と暮らすことになるが、夫が不倫していることを知り、ちょっとした復讐をしたということもあって別れてクラブを転々とするようになる。同僚は皆、女性より若く、輝かしく、クラブで働くには若くない女性は見下されたりもした。これが26歳の時。28歳の時にクラブ勤めを辞め、売春婦となる。その頃にTという「恐ろしい」男と出会って付き合うようになった。女性は「SMではない」と言うが、Tは明らかにサディスティックな傾向があり、女性を裸にして縛り上げ、写真を撮るという性的指向を持つ。同情したと思われる医師を女性はにやりと笑い、医師の考えが外れていることを示す(ここは瀧内公美のアドリブらしい)。一方、Sという男とも出会った。映画の冒頭に「Aに捧ぐ」との字幕が出て、このAが誰なのかは分からないが、これまで出てきたアルファベットを繋ぐと「ARTS」となる。
中学生になった娘が、女性にお金をせびりに来る。不良になった訳ではなく、中学生らしい額のお小遣いを貰いに来ていたのだ。女性の現在の正確な年齢は不明だが、21歳の時に生んだ子どもが現在中学生ということで、瀧内公美同様、三十代半ばと推測される。
しかしTが女性の娘に目をつけた。一方、女性はSと刃傷沙汰になり……。

瀧内公美の語りによってのみ物語が進行していく。女性には精神科医の姿が見えているようなのだが、当然ながら閉院した病院には誰もいない。精神科医とは面識があるので、今日初めてここに来たのではなく、何度か通院したことがあるようなのだが、どういった病状で精神科を受診したのかは定かではない。

最終的には、女性が話したことが全て嘘である可能性が示唆されるのだが、この映画が「ARTS」つまり芸術のための芸術であるということが同時に明かされているようでもある。

「わたしは、生きていても、いいでしょうか」という字幕が出るが、ラストシーンで冒頭と同じ坂を上る女性の顔は自信に満ちており、このまま生きていくことを決めたように見える。

語られるストーリーに目新しいものはないが、瀧内公美の比較的淡々とした語りにより、情景が見えるような展開となっている。瀧内演じる女性は口を余り開けずに話すが、ラストでは口を開いて話すことで声音が変わり、効果的であった。

奥山和由は、「RAMPO」でも同様の作風を示しており、良くも悪くも変わっていない。「RAMPO」は、奥山が松竹のプロデューサーだった時代に制作した、江戸川乱歩を主人公にした映画で、江戸川乱歩を竹中直人が、ヒロインを羽田美智子が演じているのだが、黛りんたろうが監督した映画の出来に奥山が納得せず、奥山自身が監督して約7割を取り直し、奥山バージョンと黛バージョンが同時に公開されるという事件になっている。ちなみに私はロードショー時に両方を観ている。奥山和由は、黛りんたろうが監督した「RAMPO」のラストが後ろ向きに見えたということで、自らのバージョンを作り上げたのだが、内容も大きく異なり、特に平幹二朗演じる大河原侯爵の性的指向が黛バージョンではM、奥山バージョンではSと真逆になっている。裸の女性を縛って写真を撮るというシーンは、奥山バージョンの「RAMPO」にもあったはずである。「奇麗な、悪」でも、明らかにSの傾向のある人物が登場しており(原作にも出てくるが)サディスティックな美学があるようだ。

瀧内公美のそこはかとなく漂う色気、狂気があるのかないのか微妙な佇まい、そしてラストの表情がとても良い。

語られたことが全て嘘の可能性があり、女性の正体は最後まで明かされないのだが、元女医、つまり精神科クリニックに勤務する医師だった可能性はゼロではないように思う。施錠されているのに入れる場所からあっさり中に入っているためだ。院長以外にも医師のいる精神科は珍しくない。
残された精神科医の手紙の手書きの文字も女性の筆跡に見えなくもない。「精神科医」という肩書きからは自然に男性を思い浮かべてしまいがちだが、女性の精神科医も当然ながら存在する(原作では精神科医が男性であることが分かるため、その可能性はない。ただ映画の脚本では医師が男性と分かる言葉は省かれている)。
もし、「すべてを話してください」と言われたとされるのが、元病院に入ってからなら、全くの嘘を創作出来るとは思えないが、字幕はその前に出ているため、事前に言われていた可能性があり、話を作り上げる余裕は時間的にも精神的にもあったことになる。仮に元医師なのだとしたら、これまでに接した患者の話をミックスすれば良い。
ただこれは女性の正体を探るための作品ではなく、女性がこのまま生きていく決意をするまでの過程を見つめることが重要な作品であるとも思う。

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2025年3月7日 烏丸御池のアップリンク京都にて

アップリンク京都で、もう一度「奇麗な、悪」を観ることにする。一人語りなので内容を把握しづらいのだが、今回は初めて観た時とは違う印象を受けた。主人公の女(氏名、年齢、職業等不明。瀧内公美が演じている)の正体もまた違って見えてくる。彼女が「全部嘘ですよ」という言葉が示すのは、「これまで語ってきたことが全部嘘」という可能性と、それに続くセリフ「私は売春なんてしていません」に留まる可能性の二つがある。ちなみに原作では「全部嘘ですよ」が指すのは別の非人道的行為である。

今回は前回と違い、テーブルの上に置かれた手紙の文字が見えた(つまり出されてはいない手紙の文章ということ) のだが、「医者として許されぬ過ち」という文が見え、患者宛に出されるものだったらしいことが分かる。この患者というのが主人公の女のはずである。かなりもてる人だというのは、女の話の内容から分かるが、魔性の女役もこなす瀧内公美を起用しているのだからもてる女役なのは当たり前。そしてこの直後に精神科医は急逝している。死因は?
瀧内公美が演じる女は二度犯罪を行っている(殺人と傷害)が、いずれも捕まっていない。ということで、今度も本来なら捕まるようなことをしてまた逃げたのかも知れない。「この女、殺ったかもな」という気もする。となるとラストシーンも前回と全く同じ画なのに違って見えてくる。生きる決意をして朗らかになったのではなく不敵な表情。彼女自身が「奇麗な、悪」。なかなか面白い。

原作(台詞のみの小説である)では、彼女はもっと激しい性格で、台詞自体はそれほど変わっていないが、瀧内公美はかなり抑えて演じていることが分かる。

かなりの長台詞だが、瀧内公美は1年掛けて台詞を覚えたそうである。この作品は冒頭部分にはカット割りがあり(台詞なし)、台詞のある部分も終盤にはカット割りが出てくるのだが、核となる約1時間は一切止めずに長回しで撮っている。
セリフのある場面の撮影は1日で終わってしまったそうで、瀧内公美は、「あんなに苦労して覚えたのに」と泣いたことを明かしている。

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2025年5月14日 (水)

コンサートの記(902) 「~浜松国際ピアノコンクール日本人初優勝記念~ 鈴木愛美ピアノ・リサイタル」2025@箕面

2025年4月29日 箕面市立文化芸能劇場大ホールにて

午後2時から、箕面市立文化芸能劇場大ホールで、「~浜松国際ピアノコンクール日本人初優勝記念~ 鈴木愛美ピアノ・リサイタル」を聴く。

YAMAHA、KAWAI、Rolandなどが本社を置き、楽器の街として知られる静岡県浜松市。とりわけピアノの生産は盛んであり、ACT浜松の「浜松ショパンの丘」には、ワルシャワのものと同等のショパン像が置かれているなど、ピアノに関しては日本一のイメージを誇る(なぜか家庭のピアノ所有率は、静岡県は奈良県に負けるようだが)。そんな街に出来た浜松国際ピアノコンクールであるが、これまで日本人の優勝者は現れなかった。それが昨年、第12回目の大会において、鈴木愛美(まなみ)が優勝に輝いている。合わせて室内楽賞、聴衆賞、札幌市長賞(浜松市と札幌市とは文化交流を行っており、優勝者は札幌で演奏会を行うことが出来るという特典)、ワルシャワ市長賞を受賞している。
鈴木は、2023年の第92回日本音楽コンクールピアノ部門でも第1位および岩谷賞(聴衆賞)など多くの賞を受けている。
関西テレビ主催のこの公演。鈴木は、関西テレビのエンターテインメント紹介番組「ピーチケパーチケ」にも事前に出演しているが、そこでコンクールはもう受けないと断言している。浜松国際ピアノコンクール優勝者は、ショパンコンクールへの優先出場権(予選なしで本選に参加出来る)も貰えるはずだが、鈴木は、「出ません」と即答している。コンクールはいくつも受けるものではないという考えのようだ。

 

箕面市立文化芸能劇場大ホールの最寄り駅は、Osaka Metro箕面船場阪大(はんだい)前という、終点の一つ手前の駅。その名の通り大阪大学(大阪大学自体は勿論有名だが、略称の「はんだい」は実はそれほど有名ではない。関東出身者で京都大学を受ける人は多いが、大阪大学を受ける人は余りいないため、略称もスルーされていたりする。「阪大」と漢字で書くと分かるはずだが、口頭で「はんだい」と言っても話題が大学のこと以外だったりすると、「はんだいって何?」となる可能性がある。関西出身者は案外気付いていない)箕面新キャンパスの最寄り駅である。箕面新キャンパスは以前は国立大阪外国語大学だった外国語学部の講義棟が聳えているが、敷地の狭いビルキャンパスで、新しいキャンパスであるため学生街なども構築されておらず、旧帝国大学のキャンパス前にしては寂しい。地下鉄のフロアから地上までは、東京芸術劇場のそれを思わせるかなり長いエスカレーターで上がる。

箕面市立文化芸能劇場大ホールは、阪大の校舎よりも手前にあるが、実は、5月1日からネーミングライツで、東京建物 Brillia HALL 箕面 大ホールに一般的な名称が変わる予定で、箕面市立文化芸能劇場大ホールという名で公演を行うのはどうも今日が最後のようだ(正式名称に変更はないと思われるが)。
箕面にはメイプルホールという地方都市としては比較的キャパの大きいホールがあるが、フル編成のオーケストラ公演などはメイプルホールでやって、中規模コンサートや室内楽、器楽、演劇公演や落語などはこちらに回すようである。
また図書館など一部の施設は大阪大学と併用である。

 

鈴木愛美は、2002年生まれ(やれやれ、俺が京都に越した年だぜ)。箕面市出身で、今回が凱旋公演となる。大阪市内の音楽科を持つ公立高校としては最も有名な大阪府立夕陽丘(ゆうひがおか)高校音楽科を経て、東京音楽大学器楽専攻ピアノ演奏家コースに進学。首席で卒業し、現在は東京音楽大学大学院修士課程に特別奨学生として在籍中。先の土日に、びわ湖ホールで行われた、びわ湖の春 音楽祭2025にも参加している。

 

箕面市立文化芸能劇場大ホールの内装であるが、側壁の木枠が箕面の滝を表していることは分かるのだが、正面と上方の白い壁に描かれた模様がなんなのかは不明。バラバラにした都道府県のようにも見え、高知県や愛媛県や栃木県に似たものはあるが、他は似ておらず、都道府県ではないようだ。

今日は前から3列目の真ん中で良い席である。ピアノの響きのとても良いホールであった。

 

曲目は、ハイドンのピアノ・ソナタ第13番、シューベルトの3つのピアノ曲より第2番、シューベルトの高雅なワルツ集、リストの「ウィーンの夜会」(シューベルトのワルツ・カプリス)第6番、シューマンの幻想小曲集。
リスト以外は、独墺系の曲目が並ぶが、リストの曲もシューベルト作品を基にしたものであるため、実質、オール独墺系プログラムである。

 

鈴木愛美は、一昨日同様、比較的質素な黒の上下で登場する。

 

ハイドンのピアノ・ソナタ第13番は、浜松国際ピアノコンクールで演奏して高い評価を受けた曲である。ハイドンというと、「交響曲の父」「パパ・ハイドン」のイメージで、交響曲や弦楽四重奏曲、宗教曲のイメージが強いが、鈴木はハイドンのピアノ・ソナタを、明るくチャーミング、第3楽章では憂愁を込めて演奏し、魅力な曲として再現する。

 

シューベルトの2曲も、歌心と造形美からたまににじみ出るほの暗さなどを巧みに表現。
ペダリングはオーソドックスで、ソフトペダルの上に置いた左足をたまに跳ね上げる時があるが、特に音楽的効果を狙ったものではないようだ。ただ、超弱音の時にはソフトペダルをぐっと踏み込んでいた。

 

リストの「ウィーンの夜会」第6番はスケールの大きさと華やかさが際立つ演奏。リストの作品だが、シューベルトの原曲だけに寂寥感が顔を覗かせる。

 

メインであるシューマンの幻想小曲集。音楽に文学的要素など様々なものを持ち込んだシューマン。その複雑性やいびつさなどをそのままに音楽にした作品であり、演奏である。可愛らしさ、謎めいた部分、奥深さなど様々な表情の曲が続く。
そんな中で、「子供の憧憬」をそのまま持ち込んだような第6曲「寓話」のノスタルジアの表現が特に良かった。他の曲も構築感と造形美が目立つ。きっちりとした構造設計がこの若いピアニストの最大の特徴と言えるかも知れない。

 

演奏終了後、鈴木はマイクを手にスピーチ。まだコンサートには全然慣れていない感じである。
「聴きに来て下さってありがとうございます。宣伝になってしまうんですが、6月7日に、豊中?(舞台下手を見る。ドアは閉じられていて何も見えない)豊中市立文化芸術センターでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾きます。指揮は飯森先生です」

アンコール演奏は、一昨日のびわ湖の春 音楽祭2025で、びわ湖ホール小ホールでも弾いたシューベルトのピアノ・ソナタ第18番「幻想」より第1楽章。鈴木は、「タイトル通り幻想とか憧れといった様々な」要素を入れた曲だと解説して演奏開始。しっかりとした手応えのあるスケール豊かな演奏である。そしてシューベルトだからかも知れないが、流れよりも構築感を重視しているように聞こえる。ピアノの音はびわ湖ホール小ホールよりも箕面市立文化芸能劇場大ホールの方がクリアで良い。

アンコール演奏は本来は1曲だけだったようだが、やはりびわ湖ホール小ホールでも弾いたシューベルトの「楽興の時」第3番も演奏する。シューベルトの全ピアノ曲の中で最も弾かれているといわれる曲だが、若さ故のキレもあって、愛らしい演奏となった。

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2025年5月12日 (月)

コンサートの記(901) びわ湖の春 音楽祭2025~挑戦~より 鈴木愛美、阪哲朗指揮京都市交響楽団

2025年4月27日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールおよび小ホールにて

びわ湖ホールで行われている、びわ湖の春 音楽祭2025~挑戦~から2公演を聴く。
びわ湖ホールでの春の音楽祭は、ラ・フォル・ジュルネびわ湖に始まり、その後、沼尻竜典芸術監督の下で独立して、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」となり、阪哲朗が芸術監督に就任すると同時に、「びわ湖の春 音楽祭」に改称された。毎年タイトルを掲げてきたが、今年は、~挑戦~ となっている。ただプログラムを見ても何が挑戦なのかはよく分からない。プログラム以外での意味なのかも知れない。
沼尻時代はオペラの上演を目玉にしていたが、今はそうしたことはない。

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午後3時45分から、小ホールで、鈴木愛美(まなみ)のピアノコンサートを聴く。上演番号は、27-S-4。27日のSmallホールでの4公演目という意味である。

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昨年11月に行われた第12回浜松国際ピアノコンクールで、日本人初となる第1位を獲得したことで知名度を上げた鈴木愛美。大阪府箕面市生まれ。大阪府立夕陽丘(ゆうひがおか)高校音楽科を経て、東京音楽大学器楽専攻(ピアノ演奏家コース)を首席で卒業。現在、東京音楽大学大学院修士課程に特別奨学生として在学中である。明後日、自身初となる本格的なピアノリサイタルを出身地の箕面で行う予定である。
出身作曲家は多いし、演奏家自体ももちろん生んでいるが、なかなか有名演奏家が輩出しなかった東京音楽大学。だが、まず、広上淳一教授による改革で、「指揮者になるなら東京音大」と言えるほどに指揮科が充実。次いで、特別奨学生という形ではあるが、藤田真央、辻彩奈などが卒業し、器楽部門もソリストが台頭してきた。広上淳一によると彼の在学中は、「大学自体が『指揮者になれるものならなってみろ』という態度」だったようだが、今は大学全体が本気を出しているようである。

 

曲目は、シューベルトのピアノ・ソナタ第18番「幻想」

黒の上下という質素な格好で現れた鈴木愛美。厳格にドイツのピアニズムを守るかのような、スケール豊かで渋みのある演奏である。ドイツ音楽の演奏は、ドイツの演奏家によるローカル色の強いものを経て、徐々にインターナショナルな方向へと進んできた。教育の失敗があったといわれるがドイツ・オーストリア系の音楽家が減り、様々な国から演奏家が生まれるようになり、人々のドイツ音楽信仰も徐々に薄れつつあったが、ここへ来て、「ドイツ音楽はドイツ音楽らしさを守って」という動きが出てきたように思う。
だからといって、音の彩りを欠いた演奏という訳ではなく、日だまりような温かな音色も奏でた鈴木。

演奏終業後、「お聴き下さりありがとうございました。アンコール演奏を行いたいと思います。シューベルトの楽興の時第3番」と、喋り慣れていない調子で紹介。ただ演奏は設計のしっかりしたものであった。

 

次いで、大ホールで午後5時から行われるファイナル・コンサート。演奏会番号は、27-L-2。Largeホールでは今日は2公演しか行われないようである。演奏は、阪哲朗指揮の京都市交響楽団。びわ湖ホールでの音楽祭は、大阪フィルハーモニー交響楽団なども出演したことがあるが、基本的には大津の隣町の京都市交響楽団が起用される。

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曲目は、リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲(オーボエ独奏:ハンスイェルク・シェレンベルガー)と「ばらの騎士」組曲。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・オーボエ奏者を務めたシェレンベルガー。退団後は指揮者としても活動しており、長年に渡って岡山フィルハーモニック管弦楽団の首席指揮者を務め、現在は名誉指揮者の称号を得ている。岡山フィルは岡山シンフォニーホールでの全公演を録音しているため、今後、音盤や配信による音源が出る可能性もなくはない。2021年から3年間、ベルリン交響楽団(旧西ベルリン)の首席指揮者を務め、来年には同楽団との日本ツアーも予定されている。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴァイオリン両翼の古典配置をベースとした布陣である。プログラムなどはないため、楽団員の名簿などは手に入らないが、ヴィオラの客演首席に入った男性奏者はかなり上手そうである(ソロパートがある)。クラリネット首席の小谷口直子は降り番のようだ。

 

リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲。阪はこの曲はノンタクトで振る。
シェレンベルガーのオーボエは美音で、音も豊かだが外連はなく、的確に音楽を追究する姿勢。職人的な要素も持ち合わせているようである。
この曲では、第1ヴァイオリン8の中規模編成で演奏した京響も彩り豊かな音を聴かせる。

アンコールでシェレンベルガーは、「ベンジャミン・ブリテン」と言うのが聞こえたが、以後は聞き取れず。ただおそらく「6つの変容」のうちの1曲だろう。精度の高い演奏であった。

 

「ばらの騎士」組曲。この曲では阪は指揮棒を持って指揮。京響から自在な音色を引き出す。
京響は弦も管も充実していたが、特に弦の出す白い光ような音色が秀逸。華麗なオーケストレーションで知られるこの曲の紳士的エレガンスを十二分に表出していた。

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2025年5月 3日 (土)

京都芸術劇場春秋座「立川志の輔独演会」2025

2025年4月11日 京都芸術劇場春秋座にて

午後4時から、京都芸術劇場春秋座で、「立川志の輔独演会」を観る。
17年連続で春秋座での独演会を行っている立川志の輔。いつの間にかどこよりも多く独演会を行っている会場となったようだ。

午後4時開演というのは中途半端だが、京都芸術劇場春秋座は、京都市の北東隅にあるので、終バスが早い。ということで、志の輔によると終バスに間に合うよう開演時刻を早めに設定したそうである。今回の演目が長いということも関係しているようだ(演目は事前には発表されない)。
西に10分ほど歩くと、叡山電車の茶山・京都芸術大学前駅があり、そちらは比較的遅くまで走っているが、叡山・京阪・阪急などの沿線以外はバスの方が行きやすいということもあるだろう。

 

まずは、立川志の輔の五番弟子だという立川志の彦が、「紀州」をやる。なお、志の彦は現在は二つ目だが、今年の9月に真打ちに昇進することが決まっているという。
徳川将軍は15人いるが、可哀相な人もいる。初代家康も若い頃は粗食に粗食を重ね、江戸幕府を開いてから美味しいものでも食べようかと鯛の天ぷらを食べたら当たって亡くなってしまった(天ぷら死因説は今では否定されつつある)。7代将軍の家継も、3歳で将軍となり、7歳で亡くなってしまう。7歳なので子おらず、御三家から後継者を選ぶことになる。御三家は、尾州家(尾張徳川家)、紀州家(紀伊徳川家)、水戸中納言家。尾州家と紀州家は、代々大納言に叙せられるが、水戸は中納言(漢風官職名で黄門)止まりである。大納言以上になると、殿中で抜刀しても即切腹とはならないという特典があったと志の彦は語る。
最も格が高いのは尾州家である。石高も最も高く、居城は天下の名古屋城。尾州家の当主も、自分が将軍になる気で、市ヶ谷の屋敷を出た。四谷本塩町を通る。鍛冶職人の街である。「テンテン、カンカン、トーン」という鍛冶の音が、「天下取る」に聞こえる。
さて、江戸城に着き、老中から将軍就任を打診された尾州公。いったん遠慮し、「徳が足らぬゆえ任にあたわず」と言うも老中はそれを鵜呑みにして紀州公のところへ、紀州公も遠慮するが立て続けに、「他に将軍職を継ぐ者がないのであればそれがしが継ぐほかない」と宣言し、次期将軍は紀州公に決まった。
帰り道、四谷本塩町を通ると、やはり鍛冶の音が「天下取る」と聞こえるが、次いで水で冷やす音が鳴る「キシュー」

 

志の輔の最初の演目は、「三方一両損」。大岡裁きを題材にした作品である。
枕として、「大阪は毎年秋に行くことにしている。京都は秋か春。毎年、観光シーズンに行くのがいいのだが、京都は年中観光シーズン。ちょっと休みなさい」
「外国人が多いが、ここ(春秋座)は一番日本人率が高い」

春秋座での独演会であるが、第1回の時は、話す声がハウリングしていたそうで、「ここは1回切りで終わりかな」と思ったそうだが、客を入れて公演を行っているうちに音が締まってきたそうで、今では良い音響。落語の独演会を行うのにこれほど向いた劇場はないと言えるほどになったという。
志の輔の春秋座での独演会は3日目を聴くことが多いのだが、その時は、「今日のために昨日(2日目)一昨日(初日)とリハーサルを行ってきました」とボケるのが常だったが、初日の今日は、「近頃では初日がピーク」と言っていた。

「アメリカの『今行くべき100の場所』の中で二つだけ日本の街が選ばれた。一つは、大阪。大阪万博は今しか行けない」。大阪・関西万博は評判が悪いが、1970年の大阪万博も前評判は低かったものの蓋を開ければ大入りで、志の輔は今回もなんだかんだでみんな行くのではないかと予想していた。ちなみに「今行くべき場所」のもう一つは志の輔の故郷である富山だそうであるが、地元住民も「石川と間違えたんじゃないの?」と不審がっているそうである。石川には金沢の兼六園に金沢城、香林坊・片町、福井は恐竜を売りにしているが、富山には何もないそうである(志の輔を始め、西村まさ彦、柴田理恵、室井滋など、なぜか舞台人が多く出るという特徴がある)。富山県が出しているパンフレットで最初に紹介されているのが蜃気楼。魚津の蜃気楼が有名だが、富山県で見たことのある人はほぼいない。志の輔も18年間住んだが一度も見たことがない。蜃気楼が出るとサイレンが鳴るそうだが、人々が海辺に着く頃には消えているということで見られないものが1位。次いで紹介されているのが雷鳥。雷鳥は夏は羽根の色を変えて岩に擬態し、見つからないようにする。そして冬は雪に擬態し、目しか見えない。ということで見られないものが1位2位となっている。
3位は志の輔が「富山の人口の半分はホタルイカ」と言うホタルイカ。これも船が出れば見られる可能性があるが、船が出られる可能性が低く、やはり見られない名物のようである。石川さゆりが「ホタルイカを見たい」と志の輔に言い、志の輔もホテルの手配などをするのだが、出港の日に決まってコンサートの予定が入ってしまうそうで、結局、10年以上行けていないそうである。
というわけで、なぜ富山が選ばれたのかは謎のようである。

「三方一両損」。おそらく近江商人の「三方よし」に掛けた演目だと思われる。
財布を拾い、持ち主に届けたところ、「いらない」と言われる。だがそういう訳にもいかないので、もみ合いになりそうになる。そこで南町奉行所、大岡越前守忠相の捌きを仰ぐことになる(志の輔は「大岡越前」のテーマを口ずさむ)。大岡越前は、簡単な捌きは他の奉行に振り、妙な案件だけを取り上げていた。大岡越前は、自分も含めて三人が一両ずつ損をする「三方一両損」の捌きを下す。
なんだか釈然とせず、志の輔も「大岡越前は三方一両損なんてやらないよ」と言っていたが、こういう古典落語もあるということである。

 

第2部。松永鉄九郎による長唄三味線。松永鉄九郎は、「立川志の輔を追いかけていたら、舞台に上がるようになった男」と自己紹介をする。四季にちなんだ長唄(「元禄花見踊」など)を弾いた。

 

志の輔の語りによる「百年目」。大作であるため、志の輔も枕なしでいきなり本編に入る。番頭が丁稚や手代を厳しく指導している。本を読んでいる者には、「読むのは良いが、店先で読むと暇な店かと思われる。読むんだったら夜に読みな」
「番頭はとにかく嫌われる」と志の輔。「百年目」は、番頭が遊びに出掛けたことから起こるドタバタ劇である。
番頭が遊んでいるところに旦那が居合わせてしまう訳だが、番頭の方は何とか誤魔化そうとする。
一方で、旦那は番頭への揺るぎない信頼を語ってゆくという人情もの。
旦那と番頭のやり取りであるが、落語家のものというよりも舞台俳優のそれに近い。志の輔は明治大学在学中は落語研究会に入って、エースである紫紺亭志い朝を名乗っていたが、卒業後は舞台俳優を目指して劇団に入っていた。その後、巡り合わせで会社員になった後で落語家になっているが、舞台俳優だった時代に培った演技力が今に生きているように思えてならない。

志の輔は、桜の花が「百年目」をやり遂げるように背中を押してくれるというようなことを言うが、「私はこんな長い落語を聴きたいとは思いません」と締めていた。

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