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2025年5月27日 (火)

音楽講談「京都博覧会」 四代目 玉田玉秀斎+かとうかなこ

2025年5月5日 京都劇場にて

午後4時から、京都劇場で、音楽講談「京都博覧会」を聴く。講談師の四代目 玉田玉秀斎とクロマチックアコーディオン奏者のかとうかなこの二人による公演。全席自由である。宣伝はほとんど行われておらず、入りは余り良くない。

左京区岡崎にある平安神宮が、元々は内国勧業博覧会のパビリオンとして建てられたものであることは比較的知られているが、それに至るまでの京都博覧会の数々や、そもそも京都で博覧会が行われるまでを玉田秀斎が創作講談として語る。

ちなみに、玉秀斎が、「講談を聞いたことがある人」と聞くと半分くらい手が上がったが、玉秀斎は、「余りいらっしゃらない」「講談は落語とは違います。講談は歴史を扱います。よく、『今日の落語面白かったわねえ』を仰るお客さんがいるんですが」「講談には落ちがありません。『今日の話、落ちがなかったわねえ』を言われたりしますが、それが普通です」

かとうかなこが、クロマチックアコーディオンについて聞くが、知っている人はほとんどいない。じゃあ、今日のお客さんは何しに来たんだろう? と思うが、本当に何しに来たのかは分からない。

 

玉田玉秀斎は、幕末の京都で活躍した神道講釈師・玉田永教の流れを汲む。学究肌で、三重大学大学院修士課程「忍者・忍術学コース」という、この大学院でしか学べないことを学び、昨年の4月からは和歌山大学大学大学院観光学研究科後期博士課程で「講談における忍術」を学んでいる。その他に京都検定2級取得。

かとうかなこは、大阪を拠点にしているアコーディオン奏者としては、一番目か二番目に有名な人である。大阪府豊中市出身。豊中には大阪音楽大学があるほか、幸田姉妹や児玉姉妹といった有名音楽家が輩出している。4歳からアコーディオンを始め、17歳の時に第8回全日本コンクール優勝。高校卒業後はパリに留学し、パリ市立音楽院、CNIMA国際音楽院に学ぶ。フランス時代には、「ほとんどアコーディオン奏者しかいない村」でひたすら演奏に励んだ経験も持つ。
実演に接するのは、3度目か4度目。昨年は、久石譲指揮日本センチュリー交響楽団のツアーに参加し、京都コンサートホールでも交響組曲「魔女の宅急便」でアコーディオンパートを弾いていたが、クレジットがなかった上、ステージから遠かったため、弾いていたのがかとうさんだと知ったのは、九州での公演がセンチュリー響のSNS上に載ってからであった。
今日は、製造後60年ほど経ったクロマチックアコーディオンを弾くが、途中で1920年製造の「おばあちゃん」アコーディオンも弾いた。
ちなみにクロマチックアコーディオン(ボタン式アコーディオン)は、右が54鍵、左が92鍵である。
演奏曲目は、「あこだん音頭」、「箱の中の少年」、「楽器遊び」、「その先にあるもの」、「はじまりの音」、「故郷の空」(スコットランド民謡)、「まるたけえびす」(演奏ではなく歌唱)、「あかね雲」、「ミルメルシー」、「20160902」、「リコモンス」「あこだんブギ」
今日は袴をはいた女学生のような格好である。

 

幕末、幕府の勢力は弱まり、西日本の志士が京都に出てきていた。特に長州の勢いが強く、倒幕を目指した。選んだ手段は人斬り。幕府側も黙っていないということで、京都は辻斬りが横行する物騒な場所となっていた。佐久間象山が暗殺され、禁門の変が起こり、京の7~8割が延焼により焼失(どんどん焼け)。徳川方の新選組や京都見廻組が街を闊歩し、3年後には龍馬暗殺がある。明治に入っても、横井小楠や大村益次郎が京で暗殺され、更に東京奠都があり、睦仁天皇が東京に移る。天皇が東京に移ると商家なども東京へ。ということで京都の人口は幕末の3分の2までに落ち込み、このままでは京都は狐や狸が跋扈する荒れ野に帰すということで、第2代京都府知事の槇村正直(長州出身)が、琵琶湖疎水や電車の計画を立てる(その他、新京極商店街を作ったりしている)。更に、山本覚馬(会津出身)が妹(山本八重)の婿である新島襄(安中藩出身者の家に生まれるが、生まれ育ちは江戸)と同志社英学校(現在の同志社大学の前身)を建て、更に外国語教育の重要性を呼びかけて、同志社英学校とは別の、国費による英学校、仏学校、独学校が建てられて、多くの学生が学んだ。彼らの多くが留学し、留学先で専門教育を受け、帰国後に旧制大学や旧制専門学校で教壇に立ち、日本語で授業を行うようになる。これが日本式の教育者輩出システムである。他の国は英語で教育を受け、英語で教えるシステムであるため、高等教育を母国語で受けることはほとんどない。
その他に、「学校がいる」ということで、学制が発布される前に番組小学校を創設。日本で初めて初等教育の基礎が出来上がった。
だが、やはり人が集まらないと京都は活気づかないということで、福沢諭吉の『西洋事情』にヒントを得て、博覧会を行うことにする。槇村正直の他、三井、小野、熊谷(鳩居堂)といった豪商が協力する。烏丸の東本願寺は街中にあるためにどんどん焼けで全焼したが、西本願寺は当時は街中近くの田舎で周りに田んぼと畑しかない堀川の地にあったため延焼を免れており、広大な寺地を会場に使える。更に洛外鴨東で火事の影響がなかった建仁寺と知恩院を会場として京都博覧会が行われた。神戸の外国人居留地から外国人も多く招かれた。
だが、振り返ってみると、「我々がやったのは骨董市じゃないか?」という反省が出て、「御所で博覧会をやろう」「動物園をやろう」などのアイデアが生まれ、実現される。
京都観光の目玉の一つである祇園甲部の都をどりも京都博覧会の出し物の一つとしてこの時に始まっている。

一方、東京では、政府主導の内国勧業博覧会が上野を会場に行われていた。上野で3回行ったが、今度は東京以外でやろうということになり、京都と大阪が手を挙げた。第4回の会場に決まったのは京都。開催されるのが1895年で、平安遷都(794年)から1100年が経つというのも後押しになった。なお、大阪では第5回の内国勧業博覧会が行われたが、内国勧業博覧会が行われたのは大阪が最後になった。

メイン会場として、平安京大内裏の朝堂院の8分の5サイズでの復元が計画されたが、本来それがあった千本丸太町付近の用地買収には失敗し、かつては白河と呼ばれた岡崎の地での復元と、メイン会場設置が決定。岡崎は、日本初の水力発電所のある蹴上からも近いことから、岡崎から京都駅までの電車が引かれ、日本初の本格的電車運行がスタートした。第4回内国勧業博覧会は多くの人を京の街に呼び、大成功となる。
朝堂院は、桓武天皇を祀る平安神宮の社殿となる(その後、孝明天皇も合祀)。そして今では京都三大祭の一つに数えられる時代祭が始まるのであった。

この間、かとうが客席通路を歩き、あちこち回りながら演奏を行う。

最後はスクリーンが降りてきて、様々な史料や京都博覧会や第4回内国勧業博覧会の絵や写真などが示される。

上演時間が短いように感じられたが、実際は約80分と、通常の講談よりは長めであった。

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