コンサートの記(923) ジョン・アクセルロッド指揮 京都市交響楽団第699回定期演奏会
2025年4月19日 京都コンサートホールにて
午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第699回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、元京都市交響楽団首席客演指揮者のジョン・アクセルロッド。
首席客演指揮者時代は、コロナ期と重なってしまったため、十分な活動を行えなかったが、渡航制限が続く中、首席客演指揮者としての任務を果たすため危険を冒して来日して指揮を行うなど、京都市交響楽団に貢献した。現在は、スイス国立管弦楽団音楽監督兼首席指揮者とルーマニアのブカレスト交響楽団首席指揮者を兼任している。
ハーヴァード大学音楽学部とサンクトペテルブルク音楽院に学び、レナード・バーンスタインとイリヤ・ムーシンに師事。出身地のヒューストンでは、当時、ヒューストン交響楽団の音楽監督だったクリストフ・エッシェンバッハに師事している。
曲目は、チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノ:森麻季)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。作曲家最後の作品が2つ並ぶという興味深いプログラムである(リヒャルト・シュトラウスは実際には「4つの最後の歌」の後にも曲を書いていたようである)。
今日は都合によりプレトークには間に合わなかった。
今日のコンサートマスターは、特別名誉友情コンサートマスターの豊嶋泰嗣。フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に大島亮。チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。ドイツ式の現代配置での演奏。トランペット首席のハラルド・ナエスは降り番。フルート首席の上野博昭はリヒャルト・シュトラウスからの、クラリネット首席の小谷口直子は「悲愴」のみの出演である。
チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」。チャイコフスキーがシェイクスピアの作品にインスピレーションを受けた作品としては、某有名作にも影響を与えた「ロメオとジュリエット」が有名で、「ハムレット」は余り演奏されない。「ハムレット」を題材にした音楽を書くようチャイコフスキーに勧めたのは、弟のモデストで、プランも合わせて提示したのだが、作曲が行われることはなかった。その後、10年以上経ってから、フランスの俳優であるリュシアン・ギトリを招いてサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場で「ハムレット」の上演が企画され、チャイコフスキーが劇音楽を書くという企画が持ち上がる。上演は実現しなかったが、チャイコフスキーはこれを期に幻想序曲「ハムレット」を書くことになった。
ハムレットを表すと言われる重苦しい主題の後に、躍動感溢れる旋律が現れる。チャイコフスキーは具体的に何を書いたのかをほとんど書き記していないが、対比させるのだとしたらレアティーズだろうか。オフィーリアとフォーティンブラスの主題に関しては書かれているようである。
オーボエがジャズのスタンダードナンバー「枯葉」によく似た主題を吹くのが面白い。作曲されたのはチャイコフスキーが先である。この旋律は二度登場するため、おそらく何かもしくは誰かを表しているのだと思われるが、具体的に何を描いているのかは分からない。
アクセルロッドは優れたバトンテクニックを生かして、京響から輝かしくもドラマティクな音を引き出す。
リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。リヒャルト・シュトラウスが1948年に書いた最晩年の作品であり、評価は極めて高い。日本でもお馴染みのヘルマン・ヘッセの詩を用いているということでも興味深い曲である。
失敗したのは、ポディウム席を選んだため、森麻季の声が余り届かないということである。やはり歌曲の場合、声が届かないのでは書きようがない。ということで、この作品に関する批評は行わないこととする。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。21世紀に入ってから大幅に解釈が変わった曲である。増田良介によるプログラムノートでは、自殺説について「否定されている」と書いているが、異様な構成は何らかの形で「死」を意識したものとして見た方が自然なように思われる。
アクセルロッドは、中庸のテンポでの演奏。「若く良き日の回想」のように甘美な第1楽章第2主題は、2度目をやや弱く演奏してメリハリを付ける。
第2楽章、4分の5拍子は、3拍子目を跳ね上げるように振ることで処理。4分の5拍子のワルツは、ロシアでは珍しくないようである。ただ曲調は第1楽章の「若く良き日の回想」を受け継いでいるようである。
第3楽章は4分の4拍子であるが行進曲風。アクセルロッドはの師であるレナード・バーンスタインは、この楽章の後に拍手が来るのを喜んだそうだが、現在は当時とは解釈が異なる。
威勢の良い曲調だが、やけになっているようにも聞こえる。交響曲第5番で、ベートーヴェンの運命主題を多用したチャイコフスキーだが、この楽章でも進もうとすると運命主題に似た音型が立ちはだかる。ラストのピッコロの狂騒はベルリオーズの幻想交響曲のようだ。
アクセルロッドは二度目のシンバルの後にテンポをグッと落とし、異様さを強調する。
最終楽章はそれほど慟哭は強調しないが、自然ににじみ出る哀感が伝わってくる演奏である。この楽章でも「若く良き日の回想」が形を変えて出てくる。これほど執拗に回想の趣が出てくるということは、「死」はやはり意識されていたものと見るのが自然である。もっとも、チャイコフスキーは交響曲第4番からの3つの交響曲全てで異様な緊張感と狂騒を書き続けており、「悲愴」を遺書のつもりで書いたのかどうかは分からない。
オーケストラを鳴らす術に長けたアクセルロッド。京響の機能美を上手く生かした演奏であった。
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